ジョン・ウェスレー標準説教集

説教四十九 悪口の治療法

「もしあなたの兄弟が」あなたに対して「罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになります。もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためです。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい」(マタイ一八・一五〜一七)

(一) 「だれをもそしらず」(テトス三・二)と、偉大な使徒は言っています。これは、「殺すな」(マタイ一九・一八)というのと同じくらい、はっきりした命令です。けれども、クリスチャンの間でさえ、だれがこの命令を重んじているでしょうか。いや、これを理解している人さえ、何と少ないことでしょう。悪口とは何でしょうか。それは、ある人々が考えているように、うそをつくことや中傷することと同じではありません。ある人の言うことが、すべて聖書のように真実であることもありえます。それでも、それを言うことが悪口なのです。というのも、悪口とは、まさに、その場にいない人について悪く言うことにほかならないからです。すなわち、ある人が実際に行い、あるいは言った悪いことを、その人がその場にいないときに話すことです。たとえば、ある人が酔っているのを見たとします。あるいは、その人がのろったり、みだりに誓ったりするのを聞いたとします。それを、その人がいないときに私が話すなら、それは悪口です。私たちの国の言葉では、これはまた、まことにふさわしい名で、「陰口」とも呼ばれています。また、これと、私たちが普通「告げ口」と呼んでいるものとの間にも、本質的な違いはありません。その話が、やわらかく静かに伝えられるとします(おそらく、その人への好意や、事態はそれほど悪くないかもしれないという希望の言葉を添えて伝えられるのです)。そのとき、私たちはそれを「ささやき」と呼びます。けれども、どのような仕方でなされても、事柄は同じです。状況においては違っても、中身においては同じなのです。やはり、それは悪口です。第三者がその場にいなくて自分を弁明できないときに、その人の過ちをほかの人に話すとします。そのときも、やはり、「だれをもそしらず」(テトス三・二)というこの命令は、足の下に踏みにじられているのです。

(二) そして、この罪は、あらゆる身分、あらゆる階層の人々の間に、何とありふれていることでしょう! 身分の高い者も低い者も、富む者も貧しい者も、何と絶えずこの罪に陥っていることでしょう。賢い者も愚かな者も、学のある者もない者も、そうなのです。ほかのあらゆる点で互いに違っている人々も、この点では一致しているのです。神の前で、次のようにあかしできる人は、何と少ないことでしょう。「私はこの事については潔白です。いつも自分の口に門守を置き、くちびるの戸を守ってきました(詩篇一四一・三)」。少しでも長い会話で、悪口がその成分の一つになっていないものを、あなたは聞いたことがあるでしょうか。しかも、次のような人々の間でさえ、そうなのです。その人々は、概して神を恐れる心を目の前に置いています。そして、神に対しても人に対しても、良心に責められることのない状態(使徒二四・一六)を保ちたいと本当に願っているのです。

(三) そして、この罪がありふれていることそのものが、この罪を避けにくくしています。私たちは、四方をこの罪に取り囲まれています。ですから、その危険を深く感じて、絶えずそれを警戒していないなら、私たちはその奔流に押し流されやすいのです。この点では、人類のほとんど全体が、いわば私たちに対して共謀しているのです。そして、人々の手本は、いつの間にか私たちに忍び寄ります。そのため、私たちは知らず知らずのうちに、それをまねるようになってしまうのです。そのうえ、この罪は、外からだけでなく内からも勧められます。人の心にある誤った気質で、ときに悪口によって満たされないものは、ほとんどありません。ですから、ほとんどどの気質も、私たちを悪口へと傾かせうるのです。自分は犯していないと思っている他人の過ちを話すことは、私たちの高ぶりを満足させます。怒りや恨みや、あらゆる不親切な気質は、気に入らない人々を悪く言うことによって、ほしいままにされます。また、多くの場合、人々は隣人の罪を並べ立てることによって、自分自身の愚かで有害な欲望をほしいままにするのです。

(四) 悪口がいっそう避けにくいのは、それがしばしば変装して私たちを襲うからです。私たちは、高貴で寛大な(聖なる、とまで言わなければ上出来ですが)憤りから、こうした卑しい者どもに対して、このように語るのです! 私たちは、罪をただ憎むあまりに、罪を犯すのです! 神へのまったくの熱心から、悪魔に仕えるのです! 悪人を罰するためだけに、私たちはこの悪に陥るのです。ある人の言うように、「情念は、こうしてみな自分を正当化」し、聖性のベールの下で、罪を私たちにつかませるのです!

(五) けれども、このわなを避ける道はないのでしょうか。疑いもなく、あります。私たちのほむべき主は、上に掲げた言葉で、ご自分に従う者たちのために、はっきりした道を示しておられます。注意深く、着実にこの道を歩む人は、だれも決して悪口に陥ることはありません。この規則は、悪口の確実な予防法であるか、あるいは確かな治療法であるかです。その前の節で、私たちの主は、「この世は、罪の誘惑があるから、わざわいです」(マタイ一八・七)と言っておられました。すなわち、この有害な泉から、言いようのない悲惨が世に生じるだろう、ということです。(「罪の誘惑」とは、人を神の道から外れさせたり、神の道で妨げたりするもの、すべてのことです。)「罪の誘惑は必ず来ます」(マタイ一八・七)。ものごとの本性とは、そういうものです。人類の邪悪と愚かさと弱さとは、そういうものなのです。「しかし、それをきたらせる人は、わざわいです」(マタイ一八・七)。そういう人は、みじめなのです。ですから、「もしあなたの片手または片足が」(マタイ一八・八)、また「片目が罪を犯させるなら」(マタイ一八・九)、「それを抜き出して」(マタイ一八・九)捨てなさい、と主は言われました。すなわち、最も大切な楽しみや、最も愛する人、最も役に立つ人であっても、あなたを道から外れさせたり、道で妨げたりするとします。そのときは、それを切り取って、あなたから捨てなさい、ということです。けれども、どうすれば、ある人々をつまずかせたり、ほかの人々につまずいたりすることを避けられるでしょうか。特に、その人々がまったく間違っていて、私たちがそれを自分の目で見ているとしたら、どうでしょうか。私たちの主は、ここで、その方法を教えておられます。主は、つまずきと悪口とを同時に避ける、確かな方法を定めておられるのです。「もしあなたの兄弟が」あなたに対して「罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになります。もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためです。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい」(マタイ一八・一五〜一七)。

【一】 ふたりだけの所で忠告する

(一) 第一に、「もしあなたの兄弟が」あなたに対して「罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい」(マタイ一八・一五)。この第一の規則に従うには、それができる場合には、最も文字どおりの仕方が最善です。ですから、兄弟、すなわち仲間のクリスチャンが、否定しようのない罪を犯すのを、あなたが自分の目で見たとします。あるいは自分の耳で聞いて、その事実を疑うことができないとします。そうなら、あなたのなすべきことは、はっきりしています。最初の機会をとらえて、その人のところへ行きなさい。そして、会うことができるなら、「彼とふたりだけの所で忠告しなさい」(マタイ一八・一五)。確かに、これが正しい心で、正しい仕方でなされるように、大いに気をつけなければなりません。忠告がうまくいくかどうかは、それがどんな心でなされるかに大きくかかっています。ですから、神への熱心な祈りを欠いてはなりません。忠告がへりくだった心でなされるように祈りなさい。あなたをほかの人と違ったものにしておられるのは、ただ神だけです。その深い、心を刺し通す確信をもってなされるように祈るのです。また、今語られることによって何か良いことがなされるなら、それをなさるのは神ご自身であるという確信をもってです。神があなたの心を守り、あなたの思いを照してくださるように祈りなさい。また、神が祝福しようと思われるような言葉へと、あなたの舌を導いてくださるように祈るのです。へりくだった心だけでなく、柔和な心で語るようにしなさい。「人の怒りは、神の義を全うするものではない」(ヤコブ一・二〇)からです。その人が「罪過に陥っている」(ガラテヤ六・一)なら、「柔和な心をもって」(ガラテヤ六・一)しなければ、その人を正すことはできません。その人が真理に反対しているとしても、穏やかさによらなければ、その人に真理を知らせることはできません。いつも、優しい愛の心で語りなさい。「大水も消すことができない」(雅歌八・七)愛の心で語るのです。愛は、打ち負かされなければ、すべてのものを打ち負かします。だれが愛の力を言い表すことができるでしょうか。

愛は、かたくなな首をかがめさせ、石を肉に変える。やわらげ、溶かし、刺し通し、砕く、金剛石のような心をも。

ですから、その人への愛を確かなものにしなさい。そうすれば、あなたはそれによって、「彼の頭に燃えさかる炭火を積む」(ローマ一二・二〇)ことになります。

(二) けれども、あなたが語る仕方もまた、キリストの福音にかなうようにしなさい。顔つき、身ぶり、言葉、声の調子で、高ぶりやうぬぼれを感じさせるものは、すべて避けなさい。権威ぶったものや独断的なもの、横柄や出過ぎに見えるものは、すべて努めて避けなさい。軽蔑や威圧や侮りに、少しでも近づくことのないように気をつけなさい。同じように注意して、怒りと見えるものは、すべて避けなさい。たいへん率直に語るとしても、責める言葉や、ののしりの非難があってはなりません。愛の熱のほかには、どんな熱のしるしもあってはならないのです。何よりも、憎しみや悪意の影があってはなりません。言い方に苦さやとげとげしさがあってもなりません。穏やかさだけでなく、やさしさのある態度と言葉を用いなさい。すべてが心の愛から流れ出ていることが、明らかになるようにするためです。けれども、このやさしさがあるからといって、最も真剣に、おごそかに語ることが妨げられるわけではありません。できる限り、神の言(ローマ三・二)にある言葉そのままで語りなさい(それに並ぶ言葉はないからです)。そして、生きている者と死んだ者とをさばくために来られるかた(第二テモテ四・一)の目の前にいるように語りなさい。

(三) その人に直接会って話す機会がないか、会うことができないなら、使いの者を通してそうしてもかまいません。あなたとその人との共通の友人で、正しさだけでなく思慮深さについても、あなたが十分に信頼できる人を通してです。そのような人があなたの名によって、上に述べた心と仕方で語るなら、同じ目的を果たすことができます。そして、あなたが奉仕のできなかった分を、かなりの程度まで補ってくれる(ピリピ二・三〇)でしょう。ただ、十字架を避けるために、機会がないふりをしないように気をつけなさい。また、一度も試みないで、会うことはできないと決めてかかってもいけません。自分で直接語ることができるなら、そのほうがはるかに良いのです。けれども、まったくしないよりは、むしろほかの人を通してするべきです。この方法でも、何もしないよりは良いのです。

(四) けれども、自分で語ることもできず、信頼できるような使いの者も見つからないなら、どうでしょうか。本当にそうなら、あとは手紙を書くことだけが残ります。そして、事情によっては、これが最も勧められる語り方になることもあります。その事情の一つは、相手の人がたいへん激しやすく性急な気質で、忠告に容易に耐えられないときです。特に、同等の人や目下の人からの忠告には耐えられないときです。けれども、手紙でなら、忠告の切り出し方を工夫し、やわらげることで、ずっと受けいれやすいものにすることができます。そのうえ、多くの人は、聞くことには耐えられないまったく同じ言葉でも、読むことはするものです。手紙は、その人の高ぶりにそれほど激しい衝撃を与えませんし、その人の体面をそれほど強く傷つけることもないのです。また、最初はほとんど印象を与えなかったとします。それでも、その人は、おそらくもう一度読み返すでしょう。そして、さらによく考えて、前には顧みなかったことを心に留めるでしょう。あなたの名前を書き添えるなら、それはその人のところへ行って直接話すのとほとんど同じことです。そして、何かよほど特別な理由でふさわしくない場合でない限り、名前はいつも書き添えるべきです。

(五) 次のことをよく心に留めておくべきです。これは、私たちの主が、私たちに踏むように絶対的に命じておられる段階です。それだけでなく、ほかのどんな段階を試みる前にも、まずこの段階を踏むように命じておられるのです。ほかのやり方は許されていません。ほかの何かを選ぶこともできません。これが道であり、これに歩みなさい(イザヤ三〇・二一)、というのです。確かに、主は、必要があれば、ほかの二つの段階を踏むようにも命じておられます。けれども、それはこの段階のあとに順を追って踏むべきもので、どちらもこの段階より前に踏んではなりません。まして、この段階より前に、あるいはこの段階のほかに、別の段階を踏むことなど許されていないのです。ですから、ほかの何かをすることも、これをしないことも、等しく弁解の余地がないのです。

(六) まったく別の段階を踏んだことを、次のように言って弁解しようと思ってはなりません。「いや、私は重荷に耐えかねて黙っていられなくなるまでは、だれにも話さなかったのだ」。重荷を感じた、というのですか! 良心が麻痺していない限り、あなたが重荷を感じたのは不思議ではありません。あなたは、罪の罪責、すなわち神の明白な戒めに背いた罪責の下にあったからです。あなたは、すぐに行って、あなたの兄弟に「彼とふたりだけの所で忠告」(マタイ一八・一五)するべきだったのです。もしそうしなかったなら、どうして重荷を感じないでいられたでしょうか(心がまったくかたくなになっていたのなら別ですが)。あなたは、神の命令を足の下に踏みにじり、「心に兄弟を憎んで」(レビ記一九・一七)いたのですから。それに、あなたは何という方法で重荷を下ろしたのでしょうか。神は、怠りの罪について、すなわち兄弟に過ちを忠告しなかったことについて、あなたを責めておられます。それなのに、あなたは、行いの罪によって、神の責めのもとにある自分を慰めているのです。すなわち、兄弟の過ちをほかの人に話すことによってです。罪によって買った安らぎは、高くつく買い物です! 私は神にあって、こう信じています。あなたは、兄弟のところに「行って」、ほかのだれでもなく、その兄弟に「忠告」する(マタイ一八・一五)までは、安らぎを得ないでしょう。かえって、ますます重荷を感じるでしょう。

(七) この規則の例外を、私は一つだけ知っています。罪のない人を守るために、罪を犯した人を、その人がいなくても訴えなければならない、特別な場合がありうるのです。たとえば、ある人が隣人の財産やいのちをねらってたくらんでいることを、あなたが知っているとします。その場合、事情によっては、そのたくらみが実行されるのを防ぐ方法が、ほかにないこともありえます。ねらわれている人に、それを遅れずに知らせるほかにはないのです。ですから、この場合には、この規則はわきに置かれます。「だれをもそしらず」(テトス三・二)という使徒の規則も同じです。そして、その場にいない人について悪く言うことが許されます。いや、それは私たちの当然の義務なのです。その人が、ほかの人々と自分自身とに同時に悪を行うのを防ぐためです。けれども、そのときにも、すべての悪口は、それ自体の性質において命取りの毒であることを覚えていなさい。ですから、ときにやむをえず、それを薬として用いなければならないとしても、恐れおののいて(ピリピ二・一二)用いなさい。それはたいへん危険な薬なので、絶対的な必要のほかには、それを用いることを弁解できるものは何もないからです。したがって、できるだけまれにしか用いてはなりません。そのような必要があるときのほかは、決して用いてはなりません。そして、そのときでさえ、できるだけ少なく、目指す目的に必要なだけ用いなさい。そのほかのときにはいつも、「行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい」(マタイ一八・一五)。

【二】 ひとりふたりを一緒に連れて行く

(一) けれども、「もし聞いてくれないなら」(マタイ一八・一六)、どうでしょうか。その人が悪をもって善に報いる(詩篇三五・一二)なら、どうでしょうか。罪を認めるよりも、むしろ激しく怒るなら、どうでしょうか。聞いてもむだで、なおもその悪い道を歩み続けるなら、どうでしょうか。しばしばそうなることを、私たちは覚悟しなければなりません。最も穏やかで優しい忠告も、何の効果もないことがあるのです。けれども、私たちがほかの人のために願った祝福は、私たち自身のふところに返って来るのです。では、そのとき私たちはどうすべきでしょうか。私たちの主は、明確で十分な指図を与えておられます。そのときは、「ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい」(マタイ一八・一六)。これが第二の段階です。愛の心を持ち、神と隣人とを愛していると、あなたが知っている人を、ひとりかふたり連れて行きなさい。同じように、その人たちが、へりくだった心を持ち、「謙遜を身につけ」(第一ペテロ五・五)ている人であるようにしなさい。また、柔和で優しく、忍耐強く、寛容な人であるようにしなさい。「悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報い」る(第一ペテロ三・九)人であるようにしなさい。その人たちは、上からの知恵(ヤコブ三・一七)を授けられた、分別のある人でなければなりません。また、かたよらず、えこひいきのない、どんな種類の偏見もない人でなければなりません。同じように、その人たち自身もその人柄も、相手によく知られているように気をつけるべきです。そして、ほかのだれよりも、相手が受けいれやすい人を選びなさい。

(二) その人たちがどのように事を運ぶべきかは、事の性質に応じて、愛が指図してくれるでしょう。すべての場合に当てはまる一つの特定の仕方を、定めることはできません。けれども、一般には、おそらく次のように勧めることができるでしょう。その人たちは、事柄そのものに取りかかる前に、穏やかに、愛情をこめて、こう言い表すとよいのです。自分たちは相手に対して何の怒りも偏見も持っていない、と。また、今やって来たのも、相手の事柄に少しでもかかわるのも、ただ好意という動機からなのだ、と。このことをいっそう明らかにするために、その人たちは、何かを判断しようとする前に、落ち着いて耳を傾けるとよいでしょう。あなたが前にその人と交わした話を繰り返すのを聞き、その人が自分を弁護して言ったことを聞くのです。そのあとでなら、その人たちは、どのように事を運ぶべきかを、よりよく判断できるでしょう。こうするのは、「ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるため」(マタイ一八・一六)です。すなわち、あなたの言ったことが何であれ、その人たちの権威の重みが加わって、十分な力を持つようになるためです。

(三) そのために、その人たちは、次のようにしてはどうでしょうか。一、あなたが語ったことと、相手が答えたことを、手短に繰り返す。二、あなたが示した理由を、詳しく述べ、説き明かし、裏づける。三、あなたの忠告がどれほど正しく、親切で、時宜にかなっていたかを示して、その忠告に重みを加える。最後に、あなたが忠告に添えた助言と説得に、さらに力を添える。また、この人たちは、必要があれば、のちに、語られたことについてあかしすることもできるでしょう。

(四) 前の規則と同じく、この規則についても、次のことに気づきます。私たちの主は、私たちに選択の余地を与えず、ほかのやり方を残しておられません。これを行い、その代わりにほかの何も行わないように、はっきりと命じておられるのです。主はまた、これをいつ行うべきかも指図しておられます。早すぎても遅すぎてもいけません。すなわち、第一の段階を踏んだあとで、第三の段階を踏む前に行うのです。そのときにだけ、私たちは、ほかの人が行った悪を、ある人々に話すことを許されています。兄弟愛のこの大切な実践で、私たちと共に役割を担ってほしいと願う人々に話すのです。けれども、この二つの段階を両方とも踏むまでは、ほかのだれかにそれを話すことのないように気をつけましょう。この二つの段階を踏むのを怠るか、ほかの段階を踏むとします。そうなら、私たちがなお重荷を感じるとしても、何の不思議があるでしょうか。私たちは、神に対しても隣人に対しても罪を犯している者だからです。私たちがそれをどれほどうまく取りつくろっても、少しでも良心があるなら、私たちの罪は必ず身に及びます(民数記三二・二三)。そして、私たちの魂に重荷を負わせるのです。

【三】 教会に申し出る

(一) この重大な事柄について、私たちが十分に教えられるように、私たちの主は、さらにもう一つの指図を与えておられます。「もし彼らの言うことを聞かないなら」(マタイ一八・一七)、そのときに、そのときになって初めて、「教会に申し出なさい」(マタイ一八・一七)。これが第三の段階です。ただ問題は、この「教会」(マタイ一八・一七)という言葉を、ここでどう理解すべきかです。けれども、事柄の性質そのものが、どんな理にかなった疑いも入れないほどに、これを決めてくれるでしょう。あなたは、国の教会に、すなわち「英国国教会」と呼ばれる人々の団体全体に、申し出ることはできません。また、たといできたとしても、それは何のキリスト教的な目的にもかなわないでしょう。ですから、これはこの言葉の意味ではありません。また、あなたは、イングランドで、あなたがもっと直接につながっている人々の団体全体に申し出ることもできません。実際、これも何の良い目的にもかなわないでしょう。ですから、この言葉は、そのようには理解すべきではありません。また、ロンドンで結び合わされている会衆や会に、つまり(そう呼びたければ)教会に、一人一人の会員の過ちを申し出るとします。それも、何の価値ある目的にもかなわないでしょう。残るのは、あなたが教会の長老に、あるいは長老たちに申し出ることです。すなわち、あなたがたふたりが属しているキリストの群れの監督者(使徒二〇・二八)である人々に申し出るのです。その人々は、「言いひらきをすべき者として」(ヘブル一三・一七)、あなたの魂とその人の魂とを見守っています。そしてこれは、都合がつくなら、当人のいるところで行うべきです。また、はっきりとではあっても、事柄の性質が許す限りの優しさと愛とをもって行うべきです。自分たちの世話を受けている人々のふるまいについて判断することは、本来、その人たちの職務に属しています。その過ちの重さに応じて、十分な「権威をもって」(テトス二・一五)責めることも、そうです。ですから、これを行ったなら、あなたは、神の言葉、あるいは愛の律法があなたに求めることを、すべて行ったのです。あなたは、もはやその人の罪に加わる者(第一テモテ五・二二)ではありません。もしその人が滅びるなら、その血はその人自身のこうべに帰する(エゼキエル三三・四)のです。

(二) ここでもまた、次のことに注意しましょう。私たちが踏むべき第三の段階はこれであって、ほかの段階ではありません。そして、私たちはこれを、ほかの二つの段階のあとに、順序どおり踏まなければなりません。何かよほど特別な事情のない限り、第二の段階より前に踏んではなりません。まして、第一の段階より前に踏んではならないのです。確かに、ある場合には、第二の段階がこの段階と重なることがあります。二つが、ある意味で、一つの同じものになりうるのです。教会の長老、あるいは長老たちが、罪を犯した兄弟と深いつながりを持っていることがあります。そのときは、ひとりかふたりの証人を立てる必要がなくなり、長老がその代わりをすることもあるでしょう。そうなら、あなたが兄弟に「ふたりだけの所で」(マタイ一八・一五)忠告したあとで、長老たちに申し出るだけで十分なこともあるでしょう。

(三) これを行ったなら、あなたは自分の魂を救ったのです。「もし教会の言うことも聞かないなら」(マタイ一八・一七)、すなわち、その人が罪を犯し続けるなら、「その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい」(マタイ一八・一七)。あなたは、もうその人のことを考える義務はありません。ただ、祈りの中でその人を神にゆだねるときだけは別です。もうその人について話す必要もありません。その人を、その人自身の主人にゆだねなさい。確かに、あなたはなおも、ほかのすべての異邦人に対するのと同じように、その人に対しても、真剣で優しい好意を負っています。その人に礼儀を尽くし、機会があれば、人としてのあらゆる務めを果たす責任があります。けれども、その人と親しく交わったり、なれなれしくしたりしてはなりません。公然の異邦人と付き合う以上の付き合いをしてはならないのです。

(四) けれども、これがクリスチャンの歩む規則だとすれば、クリスチャンの住んでいる国は、どこにあるのでしょうか。この規則を守ることを良心の務めとしている人々を、あちこちにわずかに見つけることは、あるいはできるかもしれません。けれども、何と少ないことでしょう! 何とまばらに、地の面に散らばっていることでしょう! また、この規則によって例外なく歩んでいる人々の団体が、どこにあるでしょうか。ヨーロッパに見いだせるでしょうか。あるいは、それほど遠くへ行かなくても、グレートブリテンやアイルランドに見いだせるでしょうか。見いだせないのではないかと思います。この国々を隅々まで探しても、むなしく探すことになるのではないかと、私は恐れます。キリスト教世界は、何と嘆かわしいことでしょう! プロテスタントは、改革派のクリスチャンは、何と嘆かわしいことでしょう! ああ、「だれが私と共に立ちあがって、悪しき者に逆らうでしょうか」。悪口を言う者たちに逆らって、「だれが神の側に立つでしょうか」。あなたがその人でしょうか。神の恵みによって、あなたは、奔流に押し流されない者になるでしょうか。あなたは、神に助けられて、まさにこのときから見張りを置こうと、固く決心しているでしょうか。絶えず「口に門守を置いて、くちびるの戸を守」ろう(詩篇一四一・三)と決心しているでしょうか。このときから、あなたは、「だれをもそしらず」(テトス三・二)というこの規則によって歩むでしょうか。兄弟が悪を行うのを見たら、あなたは「彼とふたりだけの所で忠告」(マタイ一八・一五)するでしょうか。その後に、「ひとりふたり」(マタイ一八・一六)の証人を連れて行き、それから初めて「教会に申し出」る(マタイ一八・一七)でしょうか。これがあなたの心の固い決意なら、一つの教訓をよく学びなさい。「だれの悪口も聞くな」ということです。悪口を聞く者がいなければ、悪口を言う者もいなくなるでしょう。それに、(俗なことわざにあるように)盗品を受け取る者は、盗人と同じく悪いのではないでしょうか。ですから、だれかがあなたの聞いているところで悪口を言い始めたら、すぐにその人を止めなさい。まじない師が、たとい、どれほど甘く呪文を唱えても、その声を聞くのを拒みなさい。その人が、どれほどやわらかな態度、どれほど穏やかな口調を用いても、かまいません。暗やみで刺している相手、第五のあばら骨の下を打っている相手への好意を、どれほど言い表しても、かまいません。ささやく者が、「話すまでは重荷でたまらない」とこぼしても、断固として聞くのを拒みなさい。重荷だ、というのですか! 愚か者よ! あなたは、女が子を産むときのように、その呪われた秘密を抱えて産みの苦しみをしているのですか。それなら、行って、主が定められた方法で、その重荷を産み落としなさい。まず、あなたの兄弟のところに「行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい」(マタイ一八・一五)。次に、共通の友人「ひとりふたりを、一緒に連れて行」き(マタイ一八・一六)、その人たちのいるところで兄弟に話しなさい。この二つの段階のどちらも効果がなければ、そのときに「教会に申し出なさい」(マタイ一八・一七)。けれども、その前にもあとにも、ほかのだれにも話してはなりません。話せば、あなたの魂が危うくなるのです。例外は、あの一つの場合、すなわち罪のない人を守るためにどうしても必要な場合だけです。どうして、ほかの人をあなたの罪に加わる者(第一テモテ五・二二)にして、自分だけでなくその人にまで重荷を負わせるのですか。

(五) あなたがたは、キリストのそしり(ヘブル一一・二六)を身に負い、あざけってメソジストと呼ばれています。ああ、そのあなたがたすべてが、少なくともこの一つの点で、いわゆるキリスト教世界に手本を示してくれたらよいのですが。悪口も、告げ口も、ささやきも、捨て去りなさい。そのどれも、あなたがたの口から出してはなりません(エペソ四・二九)。「だれをもそしら」ない(テトス三・二)ようにしなさい。その場にいない人については、良いことのほかは何も言わないようにしなさい。あなたがたが、望むと望まないとにかかわらず、ほかの人々と区別されずにはいられないとします。それなら、これをメソジストの目じるしにしなさい。「彼は、陰でだれをも非難しない。この実によって、あなたがたは彼を見わけることができる(マタイ七・二〇)」。この自己否定の何と祝福された結果を、私たちはすぐに心に感じることでしょう。私たちがこうして「すべての人と相和」す(ヘブル一二・一四)とき、私たちの「平安は川のように」(イザヤ四八・一八)流れることでしょう。私たちがこうして兄弟たちへの愛を確かなものにするとき、私たち自身の魂の中で、神の愛が何と満ちあふれることでしょう。そして、主イエスの名によって結び合わされているすべての人々に、それは何という結果をもたらすことでしょう。兄弟愛のこの大きな妨げが取り除かれたら、兄弟愛は何と絶えず増し加わることでしょう。そのとき、キリストの神秘のからだのすべての肢体は、自然に互いにいたわり合う(第一コリント一二・二五)でしょう。「もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ」(第一コリント一二・二六)ようになるでしょう。そして、だれもが自分の兄弟を、清い「心から熱く」(第一ペテロ一・二二)愛するでしょう。それだけではありません。これは、粗野で無思慮な世に対してさえ、何という結果をもたらすことでしょう。世の人々は、自分たちの何千という兄弟たちの間に見いだせなかったものを、何とすぐに私たちのうちに見つけることでしょう。そして、(背教者ユリアヌスが異教の廷臣たちに向かってしたように)「見よ、このクリスチャンたちが、どれほど互いに愛し合っているかを」と叫ぶことでしょう。神は、主としてこのことによって世を悟らせ、世の人々をもご自分の御国に備えてくださるでしょう。私たちの主の最後のおごそかな祈りにある、あの注目すべき言葉から、それはたやすく学ぶことができます。「わたしを信じている人々のために、お願いいたします」(ヨハネ一七・二〇)。「父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります」(ヨハネ一七・二一)。「あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります」(ヨハネ一七・二一)。主がそのときを早めてくださいますように! 主が私たちに、このように互いに愛し合うことができるようにしてくださいますように。「言葉や口先だけで」(第一ヨハネ三・一八)なく、「行いと真実とをもって」(第一ヨハネ三・一八)愛し合えるようにです。キリストが私たちを愛してくださったように(エペソ五・二)、愛し合えるようにです。