説教四十八 自己否定
「それから、みんなの者に言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい』」(ルカ九・二三)
(一) ここで与えられている指図は、もっぱらではないとしても主として、使徒たちにかかわるものだと、しばしば考えられてきました。少なくとも、初代のクリスチャンたちか、迫害の中にある人々にかかわるものだ、というのです。けれども、これはひどい誤りです。というのも、確かに私たちのほむべき主は、ここでは、ご自分の使徒たちと、ほかの弟子たちとに、より直接に語りかけておられます。その弟子たちとは、肉の生活のとき(ヘブル五・七)に主に付き従っていた人々です。しかし、主は彼らのうちにあって、私たちにも、すべての人にも、何の例外も制限もなく語っておられるからです。ここで命じられている義務は、使徒たちや初代のクリスチャンたちだけのものではありません。ものごとの道理そのものからして、それは議論の余地がないのです。この義務は、特定の国にかかわらないのと同じように、特定の身分の人々にも、特定の時代にもかかわりません。いいえ、この義務は、最も普遍的な性質のものです。すべての時、すべての人、いや、すべての事柄にかかわります。食べ物や飲み物や、感覚にかかわる事柄だけではありません。その意味はこうです。「だれでも」、どんな地位、身分、境遇にあっても、どの国、世のどの時代の人であっても、本当に「わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て」なさい(ルカ九・二三)。すべてのことにおいて、そうしなさい。どんな種類のものであれ、「自分の十字架を負うて」、しかも「日々」そうして、「わたしに従ってきなさい」(ルカ九・二三)。
(二) 自分を捨て、自分の十字架を負うことは、この言葉の意味を十分に広くとるなら、小さな事柄ではありません。それは、宗教の付随的な事柄のいくつかのように、ただ望ましいというだけのものではありません。主の弟子となるためにも、弟子であり続けるためにも、絶対に、欠くことのできないほど必要なのです。ものごとの本性そのものからして、それは、私たちが主についていき、主に従うために絶対に必要です。私たちがそれを実行していない限りにおいて、私たちは主の弟子ではないほどです。絶えず自分を捨てていないなら、私たちは主に学んでいるのではなく、ほかの主人たちに学んでいるのです。日々自分の十字架を負っていないなら、私たちは主についていっているのではありません。世か、この世の君(ヨハネ一二・三一)か、自分の肉の思い(コロサイ二・一八)についていっているのです。十字架の道を歩んでいないなら、私たちは主に従ってはいません。主の御足の跡を踏み従って(第一ペテロ二・二一)はいません。主から離れて後戻りしているか、少なくとも主からそれているのです。
(三) このために、これほど多くのキリストの教役者たちが、この大切な義務について、これほど詳しく書き、語ってきたのです。ほとんどあらゆる時代と国でそうであり、特に、教会に徐々に忍び込んだ新奇なことと腐敗から、教会が改革されて以来、そうです。公の説教でも、個人的な勧めでも、そうしてきました。このために、彼らは、この主題について多くの小冊子を広く配りもしました。私たちの国でも、いくつか配られました。彼らは、神の言(ローマ三・二)からも、自分自身の経験のあかしからも、知っていました。自分を捨てないなら、私たちの主人を否まないでいることは、どれほど不可能であるかを知っていたのです。また、日々自分の十字架を負わないなら、十字架につけられたかたに従おうとしても、どれほどむなしいかを知っていたのです。
(四) けれども、まさにこのことを考えると、次のように問うのも、もっともではないでしょうか。この主題については、すでに多くのことが語られ、書かれてきたのなら、これ以上語ったり書いたりする必要がどこにあるのか、と。私は答えます。神を恐れる人々の中にさえ、この主題について語られてきたことを聞く機会がなかった人が、少なからずいるのです。書かれてきたことを読む機会もなかったのです。また、おそらく、書かれてきたものを多く読んだとしても、それほど益を受けなかったでしょう。書いてきた人々の多くは(その中には大部の書物を書いた人もいます)、決してこの主題を理解していたようには見えません。ある人々は、その本質そのものについて不完全な見方しか持っていませんでした。それでは、ほかの人々に説明することなど、決してできませんでした。あるいは、それが本来どこまで及ぶのかを知りませんでした。この戒めが限りなく広い(詩篇一一九・九六)ことを、見ていなかったのです。あるいは、それが絶対に、欠くことのできないほど必要であることを、感じていませんでした。ほかの人々は、それについて、たいへん暗く、混乱した、込み入った、神秘的な仕方で語っています。まるで、普通の読者に説明するよりも、むしろ一般の人々から隠そうとしているかのようです。また、ほかの人々は、自己否定の必要について、たいへん明快に力強く、見事に語っています。けれども、彼らは一般論を扱うだけで、個々の具体例にまでは降りて来ません。そのため、大多数の人々、すなわち普通の能力と教育しか持たない人々には、ほとんど役に立たないのです。また、中には具体的な事柄にまで降りて来る人々もいます。しかし、それは、一般の人々にはかかわらない事柄ばかりです。そういう事柄は、普通の生活には、めったに、あるいはまったく起こらないからです。たとえば、投獄や拷問に耐えることです。文字どおりの意味で、家や土地、夫や妻、子供、あるいはいのちそのものを手放すことです。けれども、私たちはそのどれにも召されてはいませんし、召されることもなさそうです。神が、公の迫害の時代が再び来るのを許されるのでない限り、そうです。その一方で、私の知る限り、英語で書く著者の中に、次のような人はいません。自己否定の本質を、普通の理解力にかなう、平易で分かりやすい言葉で述べた人です。しかも、普通の生活で日々起こる、あの小さな具体的な事柄に、それを当てはめた人です。このような説教は、今もなお必要とされています。そして、ますます必要とされているのです。というのも、霊の生活のどの段階でも、恵みを得ることや恵みにおいて成長することを妨げるものは、個々にはいろいろあります。けれども、それらはすべて、次の一般的な妨げに帰着するからです。すなわち、私たちが自分を捨てないか、自分の十字架を負わないかです。
この欠けをいくらかでも補うために、私は次のことを示すように努めます。第一に、自分を捨てるとは、また自分の十字架を負うとは、どういうことか。第二に、人が完全にはキリストの弟子でないのは、いつも、これが欠けているためであること。
【一】 自分を捨てるとは、また自分の十字架を負うとは、どういうことか
(一) 私は、第一に、「自分を捨て、日々自分の十字架を負」う(ルカ九・二三)とはどういうことかを、示すように努めます。これは、ほかのどの点よりも、よく考え、徹底して理解する必要のある点です。それは、ほかのどの点よりも、数多くの強力な敵に反対されているからでもあります。私たちの本性全体が、自分を守るために、きっとこれに逆らって立ち上がるでしょう。したがって世も、すなわち恵みでなく本性を導き手とする人々も、その言葉の響きそのものを忌み嫌います。また、私たちの魂の大いなる敵は、その大切さをよく知っているので、これに逆らって、あらゆる手を尽くさずにはいません。けれども、それだけではありません。ある程度悪魔のくびきを振り捨てた人々がいます。特に近年、心のうちに本当の恵みのわざを経験した人々です。その人々でさえ、キリスト教のこの大切な教理の味方ではありません。彼らの主人が、とりわけ強く説いておられる教理なのに、です。彼らのある者は、聖書にそれについての言葉が一つもないかのように、それについて深く、まったく無知です。ほかの者は、さらに遠く離れています。知らないうちに、それに対する強い偏見を吸い込んでいるのです。彼らは、この偏見を、一部はうわべだけのクリスチャンたちから受けました。言葉もふるまいも美しいけれども、敬虔のうち力だけを欠き、宗教のうち霊だけを欠いている人々です。また一部は、今はそうでないとしても、かつては「きたるべき世の力」を「味わった」(ヘブル六・五)人々から受けたのです。けれども、彼らの中に、自分で自己否定を実行せず、ほかの人々にも勧めない人などいるのでしょうか。そういう人々がいることを疑うなら、あなたは人間というものをほとんど知らないのです。自己否定に向かって宣戦を布告していないというだけの人々の団体が、いくつもあるのです。ロンドンより遠くへ行くまでもありません。予定論者の団体全体を見てみなさい。彼らは、神の価なしのあわれみによって、近ごろ、生れながらのやみから信仰の光へと召し出された人々です。彼らは自己否定の手本でしょうか。それを実行すると公言することさえしている人が、何と少ないことでしょう。自分でそれを勧めたり、勧める人々を喜んだりする人が、何と少ないことでしょう。むしろ、彼らは、絶えずそれを最も忌まわしい色で描いているのではないでしょうか。まるで、それが「行いによる救い」を求めることであり、「自分の義を立てよう」(ローマ一〇・三)と努めることであるかのようにです。そして、あらゆる種類の律法廃棄論者たちが、どれほど素早くこの叫びに加わることでしょう。口のなめらかなモラヴィア派から、騒がしく口汚いランター派に至るまで、そうです。律法主義だ、律法を説いている、という愚かで無意味な決まり文句を並べて加わるのです。ですから、あなたがたは、この教理に深く根ざしていないなら、絶えず危険にさらされています。言いくるめられ、脅され、あざけられて、福音のこの大切な教理から引き離される危険です。にせ教師によってか、にせの兄弟たち(福音の単純さから多かれ少なかれ惑わされた人々)によってです。それでは、熱心な祈りを、あなたがたが今から読むものの前に置き、それに伴わせ、その後に続かせなさい。それが神の指によってあなたがたの心に書き記され、決して消されることのないようにするためです。
(二) けれども、自己否定とは何でしょうか。私たちは、どの点で自分を捨てるべきなのでしょうか。また、その必要はどこから生じるのでしょうか。私は答えます。神の御旨は、知性あるすべての被造物にとって、至高の、変わることのない規則です。天のすべての御使にも、地上のすべての人にも、等しく従うことを求めるものです。また、そうでしかありえません。これは、被造物とその創造者との関係から生じる、自然で必然的な結果です。けれども、神の御旨が、大小すべての事柄で私たちの唯一の行動の規則だとします。そうなら、否定できない帰結として、私たちはどんな事柄でも自分の意志を行ってはならない、ということになります。ですから、ここに私たちは、自己否定の本質と、その根拠と理由とを、一度に見ます。自己否定の本質が分かります。それは、神の御旨だけが私たちの行動の規則であるという確信から、自分の意志に従うことを否み、拒むことです。また、その理由も分かります。私たちが被造物だからです。「われらを造られたものは主であって」(詩篇一〇〇・三)、私たち自身ではないからです。
(三) 自己否定のこの理由は、天にいる神の御使たちについてさえ当てはまるはずです。また、創造者の手から出たばかりの、罪のない聖い人についても当てはまるはずです。けれども、さらにもう一つの理由が、堕落以来すべての人が置かれている状態から生じます。私たちはみな今、「不義のなかに生れ」、母は「罪のうちに」私たちを「みごもりました」(詩篇五一・五)。私たちの本性は、あらゆる力と機能において、まったく腐敗しています。そして、私たちの意志は、ほかのものと同じように腐敗していて、生れながらの腐敗をほしいままにすることにすっかり傾いています。他方、神の御旨は、私たちがその腐敗に抵抗し、それに逆らって働くことです。あるときに、あるいはある事柄においてだけではなく、いつでも、すべての事柄においてです。ですから、ここに、絶え間ない、あらゆることにわたる自己否定の、さらにもう一つの根拠があるのです。
(四) これをもう少し例えで説明しましょう。神の御旨は、まっすぐ神へと通じる道です。人の意志は、かつてはこの道と平行して走っていました。けれども、今は別の道になっています。違っているだけでなく、今の私たちの状態では、まっこうから反しているのです。それは神から離れて行きます。ですから、一方の道を歩むなら、私たちは必ず他方の道を離れなければなりません。両方を歩むことはできないのです。確かに、気の弱い、手のなえた人は、二つの道を、かわるがわる行くことがあるかもしれません。けれども、同時に二つの道を歩むことはできません。同じ一つのときに、自分の意志に従い、しかも神の御旨に従うことはできないのです。どちらか一方を選ばなければなりません。神の御旨を否んで自分の意志に従うか、自分を捨てて神の御旨に従うかです。
(五) さて、自分の意志に従うことは、確かに、そのときは楽しいものです。目の前に来るどんな場合にも、私たちの本性の腐敗をほしいままにして従うのです。けれども、何かの事柄でそれに従うなら、その分だけ、私たちは自分の意志のゆがみを強めます。それをほしいままにすれば、本性の腐敗を絶えず増し加えることになります。ちょうど、口に合う食物によって、しばしばからだの病を重くするのと同じです。それは舌を喜ばせますが、病を悪化させます。楽しみをもたらしますが、死をももたらすのです。
(六) ですから、全体として言えば、自分を捨てるとは、自分の意志が神の御旨と一致しないとき、それを否むことです。しかも、それがどれほど楽しいものであっても、そうすることです。それは、神から出て神へと導くのでない楽しみは、どんなものでも自分に許さないことです。すなわち、事実上、歩むべき道からそれるのを拒むことです。たとい、それが快い、花の咲いた小道へそれることであっても、です。また、たとい舌に快くても、命取りの毒だと分かっているものを拒むことです。
(七) そして、キリストに従おうとする人、キリストの本当の弟子になろうとする人はだれでも、自分を捨てなければなりません。それだけでなく、自分の十字架をも負わなければなりません。十字架とは、私たちの意志に反するもの、私たちの本性にとって不快なもの、すべてです。ですから、自分の十字架を負うことは、自分を捨てることよりも少し先へ進んでいます。少し高く上り、血肉にとってもっと難しい務めなのです。楽しみを断つことは、苦痛に耐えることよりもたやすいからです。
(八) さて、神の御旨に従って、「わたしたちの参加すべき競走」(ヘブル一二・一)を走るときには、しばしば道に十字架が横たわっています。すなわち、喜ばしいものでないばかりか、悲しいもの(ヘブル一二・一一)が横たわっているのです。私たちの意志に反し、私たちの本性にとって不快なものです。それでは、どうすればよいのでしょうか。選ぶ道ははっきりしています。私たちは、自分の十字架を負うか、それとも神の道から、私たちに「授けられた聖なる戒め」(第二ペテロ二・二一)からそれるかの、どちらかです。まったく立ち止まったり、永遠の滅びへ引き返したりはしないとしても、です!
(九) だれもが、あの腐敗、あの悪い病をこの世に携えて来ます。それをいやすためには、いわば右の目を抜き出し、右の手を切って捨てる(マタイ五・二九〜三〇)ことが、しばしば必要です。行わなければならない事柄そのものか、それを行う唯一の手段かが、それほど苦痛に満ちているのです。たとえば、愚かな欲望や、度を越えた情愛と別れることです。あるいは、その対象から離れることです。そうしなければ、その欲望や情愛は決して消えないのです。前者の場合、そのような欲望や情愛が魂に深く根を下ろしているとします。そのときには、それを引き抜くことは、しばしば剣で刺し通されるようなものです。いや、「精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離す」(ヘブル四・一二)ようなものです。そのとき主は、精錬する者の火のように魂の上に座して、そのかすをすべて焼き尽くされます。そして、これはまさに十字架です。それは本質的に苦痛に満ちています。ものごとの本性そのものからして、そうでなければなりません。魂は、このように引き裂かれ、火の中を通るとき、苦痛を感じないではいられません。
(一〇) 後者の場合、罪に病む魂をいやし、愚かな欲望や度を越えた情愛を治す手段は、しばしば苦痛に満ちています。ものごとの本性からではなく、病の本性から苦痛に満ちているのです。たとえば、私たちの主が、富める青年に、「帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(マタイ一九・二一)と言われたときがそうです。主は、これがその人の貪欲をいやす唯一の手段であることを、よくご存じでした。それを考えるだけで、青年はひどく苦しみ、「悲しみながら立ち去」ったのです(マタイ一九・二二)。地上の財産を手放すよりも、天国への望みを手放すほうを選んだのです。これは、彼が持ち上げることを承知できなかった重荷であり、負おうとしなかった十字架でした。そして、前者の場合であれ後者の場合であれ、キリストに従う人はだれでも、きっと「日々自分の十字架を負」う(ルカ九・二三)必要があるでしょう。
(一一) 十字架を「負う」(ルカ九・二三)ことは、自分の十字架を担うこととは少し違います。自分で選んだのではないのに身に負わされたものを、柔和と忍従をもって耐えるとします。そのとき、私たちは、正しくは自分の十字架を担うと言われます。これに対して、私たちが正しく「自分の十字架を負」う(ルカ九・二三)と言えるのは、次のときだけです。避けようと思えば避けられるものを、自分から進んで苦しむときです。すなわち、自分の意志に反していても、神の御旨を喜んで受けいれるときです。苦痛に満ちたものを、それが賢く恵み深い創造者の御旨であるという理由で、選び取るときです。
(一二) ですから、キリストの弟子はだれでも、自分の十字架を担うだけでなく、負うべきなのです。確かに、ある意味では、それはその人だけのものではありません。その人にも、ほかの多くの人々にも共通のものです。だれに臨む試練で、エイ・メー・アントローピノス(εἰ μὴ ἀνθρώπινος)、すなわち「世の常で」ないものはないからです(第一コリント一〇・一三)。それは、この世にある人々の共通の本性と境遇に、起こりがちで、ふさわしいものなのです。けれども、別の意味では、そのあらゆる事情とともに考えるなら、それはその人のものです。その人だけに特有のものです。それは、神がその人のために備えられたものです。神がその人に、ご自分の愛のしるしとしてお与えになったものです。その人がそれをそのようなものとして受け取るとします。そして、キリスト教の知恵が指示する手段を用いて、その重圧を取り除こうと努めたとします。そのあとで、陶器師の手にある粘土(エレミヤ一八・六)のように身をゆだねるとします。そうすれば、それは、その人の益となるように、神によって配され、整えられます。その性質についても、その量と程度、その期間、そのほかのあらゆる事情についても、そうなのです。
(一三) これらすべてにおいて、私たちのほむべき主は、私たちの魂の医者として行動しておられる、とたやすく考えることができます。ただご自分の喜びのためではなく、「わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために」(ヘブル一二・一〇)そうしておられるのです。主が私たちの傷を探って私たちに痛みをお与えになるとしても、それはただ傷をいやすためです。主は、健全な部分を守るために、腐ったところや不健全なところを切り取られます。そして、からだ全体が滅びるよりは、手足を一本失うほうを、私たちが進んで選ぶとします。それなら、魂全体が地獄に投げ入れられるよりは、たとえて言えば右の手を切って捨てるほう(マタイ五・三〇)を、どれほどいっそう選ぶべきでしょう!
(一四) ですから、私たちは、自分の十字架を負うことの本質と根拠を、はっきりと見ます。それは、ある人々の言い方を借りれば、自分を鞭打つことを意味するのではありません。文字どおり自分の肉を引き裂くことでも、毛の粗布や鉄の帯を身に着けることでもありません。そのほか、からだの健康をそこなうようなことでもありません。もっとも、自分ではどうにもならない無知からそうしている人々を、神がどれほど大目に見られるかは、私たちには分かりません。十字架を負うとは、そうではなく、自分の意志に反していても、神の御旨を受けいれることです。苦くてもからだに良い薬を選ぶことです。また、一時的な苦痛を進んで受けいれることです。どんな種類、どんな程度の苦痛でもかまいません。それが永遠の楽しみのために、本質的に、あるいは付随的に必要であるときには、そうするのです。
【二】 人が完全にはキリストの弟子でないのは、いつも、これが欠けているためである
(一) 第二に、私は次のことを示さなければなりません。人が主に徹底して従わず、完全にはキリストの弟子でないことがあります。それは、いつも、自己否定か、自分の十字架を負うことが欠けているためなのです。
確かに、ある場合には、これは一部、恵みの手段が欠けているためかもしれません。力をもって語られる真の神の言葉を聞くことや、聖礼典や、クリスチャンの交わりが欠けているためかもしれません。けれども、これらのどれも欠けていないところでは、私たちが神の恵みを受け、恵みにおいて成長するのを大きく妨げるものは、いつも決まっています。自分を捨てないこと、あるいは自分の十字架を負わないことです。
(二) いくつかの例を挙げれば、このことははっきりします。ある人が、自分の魂を救うことのできる言葉を聞きます。その人は、聞いたことをたいへん喜び、真理を認め、それに少し心を動かされます。それでも、その人は「罪過と罪とによって死んで」いて(エペソ二・一)、何も感じず、目覚めないままです。なぜでしょうか。その人が、胸に抱いている罪と別れようとしないからです。それが主に忌みきらわれるものだと、今は知っているのにです。その人は、情欲と汚れた欲望に満ちたまま、聞きに来ました。そして、それらと別れようとしません。ですから、その人は深い印象を受けず、その愚かな心は、なおかたくなにされたままです。すなわち、その人は、自分を捨てようとしないために、なおも何も感じず、目覚めないままでいるのです。
(三) その人が眠りから覚め始め、目が少し開かれたとします。それなのに、どうしてその目は、こんなにすぐ再び閉じてしまうのでしょうか。なぜ、その人は再び死の眠り(詩篇一三・三)に陥るのでしょうか。その人が、再び胸に抱いている罪に屈するからです。快い毒を、再び飲むのです。ですから、その人の心に、長続きする印象が刻まれることはありえません。すなわち、その人は、自分を捨てようとしないために、命取りの無感覚に逆戻りするのです。
(四) けれども、すべての人がこうではありません。いったん目覚めると、もう二度と眠らない人々の例も、たくさんあります。いったん受けた印象は、すり減りません。深いだけでなく、長続きするのです。それでも、そうした人々の多くは、求めているものを見いだしていません。彼らは悲しんでいるのに、慰められていません。では、なぜでしょうか。それは、彼らが「悔改めにふさわしい実を結」ばない(マタイ三・八)からです。自分の受けた恵みに応じて、「悪を離れて善をおこな」わない(詩篇三四・一四)からです。彼らは、からみつく罪(ヘブル一二・一)、すなわち、自分の体質や、受けた教育や、職業から来る罪をやめません。あるいは、自分にできる善、また、なすべきだと知っている善(ヤコブ四・一七)を、それに伴う何かの不快な事情のために怠ります。すなわち、彼らは、「自分を捨て」(ルカ九・二三)ようとせず、「自分の十字架を負」おう(ルカ九・二三)としないために、信仰に達しないのです。
(五) けれども、この人は、確かに「天よりの賜物」(ヘブル六・四)を受けました。「きたるべき世の力」を確かに「味わった」(ヘブル六・五)のです。イエス・キリストの「顔に輝く神の栄光」(第二コリント四・六)を見ました。「人知ではとうてい測り知ることのできない」「平安」(ピリピ四・七)が、その人の「心と思いとを」(ピリピ四・七)「支配」していました(コロサイ三・一五)。そして、その人に「賜わっている聖霊によって、神の愛が」その心に「注がれて」いました(ローマ五・五)。それなのに、その人は今、ほかの人と同じように弱くなっています。その人は、再び地上のものを好み、見えないものよりも見えるもの(第二コリント四・一八)に心を引かれています。その人の心の目は再び閉ざされ、「見えないかたを見」る(ヘブル一一・二七)ことができません。その愛は冷え(マタイ二四・一二)、神の平安は、もはやその心を支配していません。それも不思議ではありません。その人は、再び悪魔に機会を与え(エペソ四・二七)、神の聖霊を悲しませた(エペソ四・三〇)からです。その人は、再び愚かさに、すなわち何かの快い罪に戻ってしまったのです。外の行いでそうしなかったとしても、心の中でそうしたのです。その人は、高ぶりや怒りや欲望に、我意や強情に、機会を与えてしまったのです。あるいは、内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせ(第二テモテ一・六)ませんでした。霊の怠惰に身をゆだね、「どんな時でも」「祈り、そのために目をさましてうむことがな」い(エペソ六・一八)ようにする骨折りを、しようとしなかったのです。すなわち、その人は、自己否定と、日々自分の十字架を負うことを欠いたために、信仰の破船に会った(第一テモテ一・一九)のです。
(六) けれども、もしかすると、その人は信仰の破船には会っていないかもしれません。今もなお、子たる身分を授ける霊(ローマ八・一五)をある程度持っています。その霊は、その人が神の子であることを、その人の霊と共にあかしし続けておられます(ローマ八・一六)。それでも、その人は完全を目ざして進んではいません(ヘブル六・一)。以前のように、義に飢えかわいて(マタイ五・六)はいません。しかが谷川を慕いあえぐように(詩篇四二・一)、神のかたちのすべてと、神を十分に味わうこととを、慕いあえいではいないのです。むしろ、その人は弱り果てて意気そそうし(ヘブル一二・三)、いわば生と死の間をさまよっています。その人がこうなっているのは、神の言葉、「行いによって信仰が全うされ」る(ヤコブ二・二二)ということを忘れてしまったからではないでしょうか。その人は、神のわざを行うのに、あらゆる努力を尽くしていません。「常に祈」る(ローマ一二・一二)ことをしていません。公の祈りでも、ひそかな祈りでもそうです。聖餐にあずかること、説教を聞くこと、黙想、断食、信仰の語らいにおいても、そうです。たといこれらの手段のどれかをまったく怠っているのではないとしても、少なくとも、そのすべてを力を尽くして用いてはいません。あるいは、敬虔のわざに熱心であるのと同じようには、愛のわざに熱心ではありません。神から賜わる力(第一ペテロ四・一一)を十分に用いて、自分の力に応じてあわれみ深くあることをしていません。人々に善を行うことによって、熱心に主に仕えて(ローマ一二・一一)はいません。できる限りのあらゆる種類、あらゆる程度の善を、人々のからだだけでなく魂にも行うことによって、主に仕えてはいないのです。では、なぜ、その人は祈り続けないのでしょうか。かわきのときには、祈りがその人にとって苦痛であり、悲しみだからです。その人は、あらゆる機会に説教を聞き続けることをしません。眠りが快いから、あるいは、寒いから、暗いから、雨が降っているからです。では、なぜ、あわれみのわざを続けないのでしょうか。それは、飢えている人に食べさせ、裸の人に着せるには、自分の衣服の出費を切り詰めなければならないからです。あるいは、もっと安く、口に合わない食物で済ませなければならないからです。そのうえ、病人や獄にいる人々を訪ねること(マタイ二五・三六)には、多くの不快な事情が伴います。霊のあわれみのわざの多くも、そうです。とりわけ忠告がそうです。その人は、隣人に忠告しようと思います。けれども、ときには恥ずかしさが、ときには恐れが、間に入ってきます。忠告すれば、あざけりだけでなく、もっと重い不都合にも、身をさらすことになるかもしれないからです。こうした考えや、それに似た考えから、その人は、あわれみと敬虔のわざを怠ります。すべてではないとしても、その一つか、いくつかを怠るのです。ですから、その人の信仰は全うされず、恵みにおいて成長することもできません。すなわち、その人が自分を捨て、日々の十字架を負おうとしないからです。
(七) 明らかに、次のことが帰結します。人が自分の主に徹底して従わず、完全にはキリストの弟子でないことがあります。それは、いつも、自己否定か、自分の十字架を負うことが欠けているためなのです。ラッパが吹き鳴らされても、罪の中に死んでいる人が目覚めないのは、このためです。眠りから覚め始めた人が、それでも深く長続きする罪の自覚を持たないのも、このためです。罪を深く長く自覚している人が罪の赦しに達しないのも、このためです。この天よりの賜物を受けた人々のある者が、それを保たずに信仰の破船に会う(第一テモテ一・一九)のも、このためです。また、ほかの人々は、たとい信仰を捨てて滅びる(ヘブル一〇・三九)ことはないとしても、弱り果てて意気そそうしています(ヘブル一二・三)。そして、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞与の目標(ピリピ三・一四)に達しません。これも、このためなのです。
【三】 いくつかの推論
(一) ここから、私たちは、何とたやすく次のことを学べることでしょう。直接にせよ間接にせよ、公にせよひそかにせよ、自己否定と日々の十字架の教理に反対する人々は、聖書も神の力も知らない(マタイ二二・二九)のです。彼らは、神の言の全体の趣旨についても、百もの個々の聖句についても、何とまったく無知なことでしょう。また、彼らは、真実で本物のクリスチャンの経験を、まったく知らないに違いありません。聖霊が、昔からいつも、また今日も、人々の魂のうちに働かれる、その働き方を知らないのです。確かに、彼らは、たいへん声高に、自信たっぷりに語るかもしれません(それは無知の自然な実です)。まるで、神の言葉か神の子らの経験を理解しているのは、自分たちだけであるかのようにです。けれども、彼らの言葉は、どの意味でもむなしい言葉です。彼らは、はかりで量られて、その量の足りないことがあらわれた(ダニエル五・二七)のです。
(二) 第二に、ここから、次のことの本当の原因を学ぶことができます。多くの個々の人々だけでなく、人々の団体までが、かつては燃えて輝くあかり(ヨハネ五・三五)でした。それなのに、今は光も熱も失ってしまったのです。彼らは、この尊い福音の教理を憎み、それに反対したわけではないとしても、少なくとも、それを軽んじました。彼らは、大胆にこう言いはしなかったかもしれません。Abnegationem omnem proculcamus, internecioni damus (私たちは、あらゆる自己否定を足の下に踏みにじり、それを滅びにゆだねる)それでも彼らは、この教理をその高い大切さにふさわしく重んじることもなく、それを実行するのに少しも骨折りませんでした。あの偉大な、しかし悪い人は、こう言いました。Hanc mystici docent (神秘主義の著者たちが、自己否定を教えている)いいえ、霊感を受けた著者たちが教えているのです! そして、神は、ご自分の声を聞こうとするすべての魂に、それを教えておられるのです!
(三) 第三に、ここから、次のことを学ぶことができます。福音の教役者は、自己否定の教理に反対しないだけでは、つまり、それについて何も言わないでいるだけでは十分ではありません。いや、それに好意的なことを少し言うだけでも、その務めを果たすことはできません。本当に、すべての人の血について責任がない(使徒二〇・二六)者でありたいなら、教役者は、それについて、しばしば詳しく語らなければなりません。その必要を、最も明らかに、最も力強く教え込まなければなりません。力を尽くして、すべての人に、いつでも、どこででも、それを強く説かなければなりません。「教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則」(イザヤ二八・一〇)と、重ねて教えなければなりません。そうすれば、その人は、良心に責められることのない状態(使徒二四・一六)を保つことができます。自分自身と、自分の言うことを聞く者たちとを救う(第一テモテ四・一六)ことになるのです。
(四) 最後に、あなたがたの一人一人が、これを自分自身の魂に当てはめるようにしなさい。ひそかなところにいるときに、これを黙想しなさい。これを心に留めて、思いめぐらしなさい(ルカ二・一九)! これを十分に理解するだけでなく、生涯の終わりまで覚えているように気をつけなさい。強いかたに力を求めて叫びなさい。それを理解するやいなや、その実行に取りかかれるようにです。時を延ばさずに、今すぐ、まさにこのときから、それを実行しなさい! 人生のあらゆる境遇で起こる千もの機会の一つ一つに、例外なく、それを実行しなさい! 日々、絶え間なく、それを実行しなさい。初めて手をすきにかけた(ルカ九・六二)そのときから、最後まで耐え忍んで(マタイ一〇・二二)、あなたがたの霊が神に帰る(伝道一二・七)まで、そうしなさい!