説教四十七 さまざまな試練による悩み
「今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れません」(第一ペテロ一・六)
(一) 前の説教で、私は特に、心のやみについて語りました。かつて神の御顔の光の中を歩んでいた人々が、しばしば陥るのが見られるやみです。これと近い関係にあるのが、魂の悩みです。悩みは、信者の間でさえ、やみよりもさらにありふれています。実際、神の子らのほとんどすべてが、程度の差はあっても、これを経験します。そして、両者はたいへんよく似ているので、しばしば混同されます。私たちは、区別せずに、「あの人はやみの中にいる」とか、「あの人は悩みの中にいる」とか言いがちです。まるで二つが同じ意味の言葉で、一方が他方以上のことを含んでいないかのようです。けれども、二つは同じ意味からほど遠いのです。実にほど遠いのです。やみは一つのものであり、悩みは別のものです。前者と後者の間には違いがあります。いや、大きな、本質的な違いがあるのです。そして、それは、すべての神の子らにとって、理解しておくことがきわめて大切な違いです。そうでないと、彼らは、悩みからやみへと、何よりもたやすくすべり落ちてしまうでしょう。これを防ぐために、私は次のことを示すように努めます。第一に、使徒が「悩まねばならない」(第一ペテロ一・六)と言っている相手は、どのような人々であったか。第二に、彼らはどのような悩みの中にあったか。第三に、その原因は何であったか。第四に、その目的は何であったか。そして、いくつかの推論で結ぶことにします。
【一】 悩みの中にいたのはどのような人々であったか
(一) 私は、第一に、使徒が「悩まねばならない」(第一ペテロ一・六)と言っている相手が、どのような人々であったかを示さなければなりません。まず、使徒がこのように語りかけたとき、彼らが信者であったことは、まったく議論の余地がありません。使徒は、はっきりとこう言っているからです。「あなたがたは」、「救にあずかるために、信仰により神の御力に守られている」(第一ペテロ一・五)のです。また、使徒は、彼らの「信仰はためされて」、「朽ちる外はない金よりもはるかに尊い」(第一ペテロ一・七)ことに触れています。さらにまた、使徒は、彼らが「信仰の結果なるたましいの救を得ている」(第一ペテロ一・九)ことを語っています。ですから、彼らは、「悩まねばならない」(第一ペテロ一・六)ときにも、同時に生きた信仰を持っていたのです。彼らの悩みは、彼らの信仰を滅ぼしませんでした。彼らはなおも、「見えないかたを見ているようにして、忍びとおし」ていたのです(ヘブル一一・二七)。
(二) 彼らの悩みは、彼らの平安も滅ぼしませんでした。それは、「人知ではとうてい測り知ることのできない」「平安」(ピリピ四・七)であり、真実な生きた信仰と切り離すことのできないものです。このことは、第二節からたやすく推し量ることができます。そこで使徒は、恵みと平安が彼らに与えられるようにと祈っているのではありません。ただ、それが彼らに豊かに加えられるようにと祈っているのです。すなわち、彼らがすでに受けている祝福が、もっと豊かに彼らに授けられるようにと祈っているのです。
(三) 使徒がここで語りかけている人々は、また、生ける望みに満ちていました。使徒はこう言っているからです。「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより」、「わたしたちを新たに生れさせ」てくださいました(第一ペテロ一・三)。新しく生れさせてくださったのは、私とあなたがたです。すなわち、「御霊のきよめにあずかって」いて、イエス・キリストの「血のそそぎを受け」ている(第一ペテロ一・二)私たちすべてです。そして、「生ける望みをいだかせ」(第一ペテロ一・三)、「資産を受け継ぐ者としてくださった」のです(第一ペテロ一・四)。すなわち、「朽ちず汚れず、しぼむことのない」資産(第一ペテロ一・四)を受け継ぐ、生ける望みをいだかせてくださったのです。ですから、彼らは悩みの中にあっても、なお不死に満ちた希望を持ち続けていました。
(四) そして、彼らはなおも、「神の栄光にあずかる希望をもって喜んで」いました(ローマ五・二)。彼らは、聖霊における喜びに満たされていたのです。それで、使徒は、終わりの日に「イエス・キリストの現れるとき」(第一ペテロ一・七)のことに触れたばかりです。それは、主が世をさばくために来られるときです。そして、すぐにこう付け加えています。「現在、見てはいないけれども」、すなわち肉体の目では見ていないけれども、「信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれて」います(第一ペテロ一・八)。ですから、彼らの悩みは、生ける望みと両立していただけでなく、言葉につくせない喜びとも両立していました。彼らは、このように悩んでいたのと同時に、それでも、輝きにみちた喜びをもって喜んでいたのです。
(五) 悩みのただ中で、彼らは同じように、なおも神の愛を味わっていました。その愛は、彼らの心に注がれていた(ローマ五・五)のです。使徒は言います。「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛して」います(第一ペテロ一・八)。あなたがたは、まだ顔と顔とを合わせて主を見てはいません。けれども、信仰によって主を知って、「わが子よ、あなたの心をわたしに与え」よ(箴言二三・二六)という主の言葉に従ってきました。主は、あなたがたの神、あなたがたの愛、あなたがたの目の慕うもの、そして、あなたがたの「はなはだ大きい」報い(創世記一五・一)です。あなたがたは、主のうちに幸いを求め、見いだしました。あなたがたは「主によって喜び」(詩篇三七・四)、主はあなたがたの「心の願い」をかなえてくださいました(詩篇三七・四)。
(六) もう一つ挙げます。彼らは悩んでいましたが、それでも聖い者でした。罪に打ち勝つ同じ力を保っていたのです。彼らはなおも、罪から「神の御力に守られて」いました(第一ペテロ一・五)。彼らは、「従順な子供として」、以前の「欲情に従わ」ない者でした(第一ペテロ一・一四)。かえって、彼らを「召してくださった聖なるかたにならって」、彼ら自身も「あらゆる行いにおいて聖なる者」でした(第一ペテロ一・一五)。彼らは、自分たちが「きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血」によって「あがない出された」(第一ペテロ一・一八〜一九)ことを知っていました。そのため、神に対して持っている信仰と望みとによって、御霊により「たましいをきよめ」ていたのです(第一ペテロ一・二二)。ですから、全体として見れば、彼らの悩みは、信仰とも望みとも、神と人への愛とも、よく両立していました。神の平安とも、聖霊における喜びとも、内なる聖性とも外の聖性とも、両立していたのです。悩みは、彼らの心のうちにおける神のわざのどの部分も、少しもそこないませんでした。まして滅ぼすことはありませんでした。悩みは、すべての真の従順の根である「御霊のきよめ」(第一ペテロ一・二)を、少しも妨げませんでした。恵みと平安が心のうちを支配しているところから必ず生じる幸いをも、妨げなかったのです。
【二】 彼らはどのような悩みの中にあったか
(一) ここから、彼らがどのような悩みの中にあったかを、たやすく知ることができます。これが、私が示そうとする第二のことです。原語は、ルペーテンテス(λυπηθέντες)で、悲しまされた、悲しんだ、という意味です。この語は、ルペー(λύπη)、すなわち悲嘆、悲しみから来ています。これが、この語のいつも変わらない、文字どおりの意味です。このことに注意すれば、この言い方にはあいまいなところもなく、理解するのに難しいところもありません。ここで語られている人々は、悲しんでいたのです。彼らがその中にあった悩みは、悲しみ、あるいは悲嘆そのものでした。それ以上でもそれ以下でもありません。それは、人の子ならだれでもよく知っている感情です。
(二) 英語の聖書の訳者たちが、この語を「重苦しさ」と訳したのは(あまり普通ではない語ですが)、おそらく二つのことを示すためでしょう。第一に悲しみの程度、次にその持続です。確かに、ここで語られているのは、軽い、取るに足りない程度の悲しみではないように思われます。魂に強い印象を与え、魂の奥深くまで沈み込む悲しみです。また、これは、一時間で過ぎ去るような、つかの間の悲しみでもないように思われます。むしろ、心をしっかりとらえていて、すぐには振り払えず、しばらくの間続く悲しみです。一時の感情というより、定着した気質として続くのです。キリストへの生きた信仰を持ち、神への本物の愛を心に持っている人々のうちにさえ、そうです。
(三) こうした人々のうちにさえ、この悩みは、ときには魂全体をおおうほど深くなることがあります。いわば、すべての情愛に色をつけるほど深くなり、それがふるまい全体に現れるほどになることもあるのです。悩みは、同じように、からだにも影響を及ぼすことがあります。特に、生れつき体質の弱い人や、何かの偶然の病、とりわけ神経の病で弱っている人の場合は、そうです。多くの場合、「朽ちるからだは魂を押さえつける」ことが見られます。けれども、この場合には、むしろ魂がからだを押さえつけ、ますます弱らせるのです。いや、深く長く続く心の悲しみが、ときには強い体質をも弱らせることがない、とは言いません。たやすくは取り除けないからだの病の基を据えることがない、とも言いません。それでも、これらすべては、なおも愛によって働く信仰(ガラテヤ五・六)を、ある程度持っていることと両立しうるのです。
(四) これは、「火のような試錬」(第一ペテロ四・一二)と呼ぶのにふさわしいものです。これは、使徒が第四章(第一ペテロ四章)で語っているものと同じではありません。けれども、そこで外からの苦しみについて使われている表現の多くは、この内なる苦しみにも当てはめることができます。確かに、それらの表現を、やみの中にいる人々に当てはめるのは、まったく適切ではありません。やみの中にいる人々は喜んでいませんし、喜ぶこともできません。また、「栄光の霊、神の霊が」彼らに「宿る」(第一ペテロ四・一四)というのも、本当ではありません。けれども、悩みの中にいる人々には、しばしばその霊が宿っておられます。ですから、彼らは悲しんでいても、常に喜んでいるのです(第二コリント六・一〇)。
【三】 その原因は何であったか
(一) さて、第三の点に進みましょう。真の信者のうちに、このような悲しみ、あるいは悩みを引き起こす原因は何でしょうか。使徒ははっきりと教えています。「さまざまな試錬で悩まねばならない」(第一ペテロ一・六)と言っているのです。「さまざまな」と訳された語はポイキロイス(ποικίλοις)で、数が多いだけでなく、種類も多いという意味です。試練は、数えきれない事情が変わったり加わったりすることによって、千通りにも変化し、多様になりえます。そして、まさにこの多様さと変化のために、試練を防ぐことはいっそう難しくなるのです。試練の中には、からだのあらゆる病を数えることができます。特に急性の病や、あらゆる種類の激しい痛みです。からだ全体を冒すものであれ、ごく小さな一部を冒すものであれ、そうです。確かに、ずっと健康に恵まれてきて、こうしたものを何一つ感じたことのない人々は、それを軽く見るかもしれません。そして、病気やからだの痛みが心に悩みをもたらすことを、不思議に思うかもしれません。また、おそらく千人に一人は、ほかの人のようには痛みを感じない特異な体質を持っているでしょう。神は、このような自然の驚異とも言える人々を幾人か生み出して、ご自分の全能の力を示すことをよしとされました。その人々は、最も激しい痛みでさえ、まったく気にかけないように見えたのです。もっとも、その痛みの軽視は、一部は教育の力により、一部は異常な原因によっていたのかもしれません。すなわち、善い霊か悪い霊の力が、その人々を単なる自然の状態を越えたところに引き上げていたのかもしれないのです。けれども、これらの特別な場合を別にすれば、一般に、次のように言うのは正しい観察です。
苦痛はまったくの悲惨であり、激しい苦痛はすべての忍耐をすっかりくつがえす
そして、神の恵みによってこれが防がれ、人々が「耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取」っている(ルカ二一・一九)とします。そういうところでさえ、痛みはそれでも、内なる深い悩みを引き起こすことがあります。魂がからだと苦しみを共にするからです。
(二) 長く続く病はみな、痛みはそれほどでなくても、同じ結果を生みやすいものです。神が私たちの上に肺病や、悪寒と高熱を伴う熱病を臨ませられるとします。それがすぐに取り除かれないなら、それは「目を見えなく」する(レビ記二六・一六)だけでなく、心に悲しみをもたらすでしょう。神経の病と呼ばれるものはどれも、とりわけそうです。そして、信仰は自然の成り行きをくつがえしはしません。自然の原因は、やはり自然の結果を生むのです。信仰が、ヒステリーの病で(いわゆる)精気が沈むのを妨げないのは、熱病で脈が上がるのを妨げないのと同じです。
(三) また、「災が、つむじ風のように臨み」(箴言一・二七)、貧しさが「つわもののように」来る(箴言六・一一)とき、これは小さな試練でしょうか。それが悲しみと悩みを引き起こすとしても、不思議でしょうか。これもまた、遠くに立っている人々や、見ても「向こう側を通って行」く(ルカ一〇・三一)人々には、小さなことに見えるかもしれません。けれども、それを身に感じている人々にとっては、そうではありません。神の愛が心のうちにあるなら、私たちは「衣食があれば、それで足れりとす」ることができます(第一テモテ六・八)。実は、「衣食」の「衣」にあたる語は、原語ではスケパスマタ(σκεπάσματα)で、衣服だけでなく住まいをも含んでいます。けれども、これらを何も持っていない人々は、どうすればよいのでしょうか。いわば、「しのぎ場もなく岩にすがる」(ヨブ二四・八)人々です。横たわるのは地面だけで、身をおおうのは空だけという人々です。自分と幼い子供たちのために、乾いた住まいも暖かい住まいも持たず、まして清潔な住まいなど持たない人々です。いや、自分自身や、自分の次に愛している者たちを、昼も夜も身を切る寒さから守る衣服さえ持たない人々です。私は、愚かな異教徒が次のように叫んでいるのを笑います。
Nil habet infelix paupertas durius in se, Quam quod ridiculos homines facit! (不幸な貧しさには、人を笑いものにすること以上につらいものはない)
貧しさには、人を笑われやすくすること以上に悪いものはないのでしょうか。これは、この浅はかな詩人が、自分の知らないことについて、受け売りで語っていたしるしです。食物がないことは、これよりも悪いのではないでしょうか。神は、人が「顔に汗して」(創世記三・一九)食物を得なければならないことを、人へののろいとして宣告されました。けれども、このキリスト教国には、あくせく働き、骨折り、汗を流しても、結局は食物を得られない人が何と多いことでしょう。彼らは、疲れと飢えとに同時に苦しんでいるのです。ある人が、つらい一日の労働のあとで、貧しく、寒く、汚い、居心地の悪い住まいに帰って来るとします。そして、使い果たした力を回復するのに必要な食物さえ、そこにないのを見いだすとします。それは、もっと悪いことではないでしょうか。地上で安楽に暮らしているあなたがたに尋ねます。あなたがたには、神があなたがたをどれほど良く扱ってくださったかを見る目と、聞く耳と、悟る心のほかには、何一つ欠けていません。来る日も来る日も食物を求めても、何も見つからないのは、もっと悪いことではないでしょうか。そのうえ、おそらくは、慰めであるはずの五、六人の子供たちまでが泣いているのを、見なければならないのです。父親には与えるものがないのに、子供たちはそれを求めて泣いているのです。その人は、見えない手に引き止められていなければ、すぐに「神をのろって死」ぬ(ヨブ二・九)のではないでしょうか。ああ、食べるものがない! 食べるものがない! 自分で味わったことのない者に、これがどういうことか分かるでしょうか。これが、信じている人々のうちにさえ、悩みしか引き起こさないことに、私は驚きます!
(四) おそらく、その次に置くことができるのは、私たちに近く親しい人々の死でしょう。優しい親、しかもまだそれほど老いの坂を下っていなかった親の死です。人生に踏み出したばかりで、私たちの心にまといついていた愛する子供の死です。自分の魂のような友の死です。そういう友は、神の恵みに次いで、天の最後の、最良の賜物なのです。そして、千もの事情が、その苦しみを増し加えることがあります。おそらく、その子供や友は、私たちの腕の中で死んだのです! おそらく、思いがけないときに奪い去られたのです! 花のように咲いていたのに、切り倒されたのです。このようなどの場合にも、私たちは心を動かされてよいだけでなく、動かされるべきです。私たちがそうなることが、神の意図なのです。神は、私たちが木石であることを望まれません。神は、私たちの情愛が消し去られることではなく、正しく整えられることを望んでおられます。ですから、「自然の情は、とがめられることなく涙を落としてよい」のです。罪のない悲しみもありうるのです。
(五) さらに深い悲しみを、私たちは、生けるしかばねとなっている人々(第一テモテ五・六)のために感じることがあります。最も固いきずなで私たちと結ばれていた人々の、不親切や、恩知らずや、背教のために感じる悲しみです。魂を愛する人が、神に対して死んでいる友や兄弟のために感じる思いを、だれが言い表すことができるでしょうか。夫や妻や親や子供が、戦場にはせ入る馬のように(エレミヤ八・六)、罪の中に突き進んでいるのです。どんな道理も説得も聞かずに、自分の滅びを達成しようと急いでいるのです。そういう人々のために感じる思いを、だれが言い表すことができるでしょうか。そして、この霊のもだえは、思いもよらないほどに高められることがあります。今、滅びへと急いでいるその人が、かつては、いのちの道をよく走っていた(ガラテヤ五・七)ことを考えるときです。その人が以前どのような人であったにせよ、それは今では、ただ一つのことに役立つだけです。その人の今の姿を思う私たちの心を、いっそう刺し貫き、苦しめることです。
(六) これらのすべての場合に、私たちの大いなる敵が、その機会を生かすことを怠らないのは確かです。敵は、いつも「食いつくすべきものを求めて歩き回っている」(第一ペテロ五・八)者です。そのときには特に、あらゆる力とあらゆる技を用いるでしょう。すでにうなだれている魂に対して、何とかして少しでも有利な立場を得ようとするのです。敵は、火の矢(エペソ六・一六)を惜しまないでしょう。それは、心を襲っている試練にぴったり合っているために、最もはいり込みやすく、心に最も深く刺さりやすい矢です。敵は、不信仰な思いや、神を冒涜する思いや、不平の思いを注ぎ込もうと骨折るでしょう。神は地上に心を留めておられない、地上を治めておられない、とささやくでしょう。あるいは少なくとも、神は地上を正しく治めておられない、正義とあわれみの規則によって治めておられない、とささやくでしょう。敵は、心をあおって神に逆らわせ、神に対する私たちの生れながらの敵意を新たにさせようと努めるでしょう。そして、私たちが敵自身の武器で敵と戦おうとするとします。敵と論じ合い始めるとします。そうすれば、まったくのやみとまではいかなくても、疑いなく、ますます深い悩みが生じるでしょう。
(七) もう一つの原因がある、としばしば考えられてきました。やみの原因ではないとしても、少なくとも悩みの原因がある、というのです。すなわち、それが神の主権的な意志だからという理由で、神が魂から身を引かれることです。確かに、私たちが外の罪や内なる罪によって神の聖霊を悲しませる(エペソ四・三〇)なら、神は身を引かれるでしょう。悪を行うことによってであれ、善を行うのを怠ることによってであれ、そうです。また、高ぶりや怒り、霊の怠惰、愚かな欲望、度を越えた情愛に身をゆだねることによってであれ、そうです。けれども、神がただそうしようと思われるから、ただそれがみこころだから身を引かれる、ということがあるでしょうか。私は、それを断じて否定します。聖書全体のどこにも、そのような推測に少しでも根拠を与える聖句はありません。いや、それは、多くの個々の聖句に反するだけでなく、聖書全体の趣旨に反する推測です。それは、神の本質そのものに相いれません。ある著名な著者は、これを強い言葉で言い表しています。「ご自分の被造物を相手に、いないいないばあをする」ことは、神の威厳と知恵にまったくふさわしくない、と。それは、神の正義とあわれみにも、神のすべての子らの健全な経験にも、矛盾します。
(八) 神秘主義の著者と呼ばれる人々の多くは、悩みの原因をもう一つ挙げています。そして、その考えは、どうしてかは分かりませんが、彼らの書物を知らない素朴な人々の間にさえ、忍び込んでいます。これを説明するには、近年亡くなったある著者の言葉を引くのがいちばんです。この著者は、これを自分自身の経験として語っています。「私は、愛するかたのうちにあって、たいへん幸せであり続けました。それで、たとい荒野でさすらい人として暮らすことを余儀なくされたとしても、少しも苦にならなかったでしょう。この状態が長く続かないうちに、私は、実際に荒野へ導かれていることに気づきました。私は、見捨てられたありさまにあり、まったく貧しく、みじめで、悲惨な者となっていました。この悲しみの本来の源は、自分自身を知ることです。それによって、私たちは、神と自分とがまったく似ていないことを見いだすのです。私たちは、自分が神に最も反するものであることを知ります。そして、自分の魂の奥底がまったく腐り、ゆがんでいることを知るのです。それは、あらゆる悪と悪意、世と肉、あらゆる忌まわしいものに満ちているのです」。ここから、次のように推論されてきました。自分自身を知ることがなければ、私たちは永遠に滅びてしまう。その自分を知ることは、義とする信仰を得たあとでさえ、最も深い悩みを引き起こさずにはいない、と。
(九) けれども、これについて、私は次のことを指摘したいと思います。一、この著者は、その前の段落で、こう言っています。「私は、自分がキリストへの真の信仰を持っていないと聞いて、自分を神にささげました。すると、すぐに神の愛を感じたのです」。そうかもしれません。けれども、それが義認であったようには見えません。それは、普通、「父が引きよせて」くださること(ヨハネ六・四四)と呼ばれているものにすぎなかった可能性のほうが高いのです。そうだとすれば、そのあとに続いた悩みとやみは、罪の自覚にほかなりませんでした。罪の自覚は、ものごとの本性からして、私たちを義とする信仰に先立たなければならないものです。二、彼女が、信仰の欠けていることを自覚したのとほとんど同じ瞬間に義とされたとします。そうなら、普通は義認に先立つ、徐々に深まる自己認識のための時がなかったことになります。ですから、この場合には、自己認識は義認のあとに来ました。そして、予期していなかっただけ、おそらくいっそう厳しいものとなったのです。三、次のことは認められています。義認のあとには、私たちの内に宿る罪、生れながらのまったくの腐敗を、それ以前よりもはるかに深く知るようになります。はるかに明らかに、十分に知るようになるのです。けれども、これが魂のやみを引き起こす必要はありません。それが私たちを必ず悩みに陥らせる、とも私は言いません。もしそうなら、使徒は、「悩まねばならないかも知れない」(第一ペテロ一・六)という表現を使わなかったでしょう。自分自身を知ろうとするすべての人にとって、悩みは絶対に欠くことのできない必要なものとなるはずだからです。それは事実上、神の完全な愛を知ろうとするすべての人にとって、必要になるということです。その愛によって「光のうちにある聖徒たちの特権にあずかるに足る者と」されようとする(コロサイ一・一二)すべての人にとって、です。けれども、決してそうではありません。それどころか、神は、私たちの自己認識をどれほどにでも増し加えることがおできになります。そして、それと同じ割合で、神ご自身についての知識と、神の愛の経験をも増し加えることがおできになるのです。そして、この場合には、「荒野も、悲惨も、見捨てられたありさまも」ないでしょう。あるのは愛と平安と喜びであり、それが徐々にわき上がって、永遠のいのちに至るのです。
【四】 その目的は何であったか
(一) それでは、神は何の目的のために、これほど多くの神の子らに悩みが降りかかるのを許されるのでしょうか。これが、考察すべき第四のことでした。使徒は、この大切な問いに、分かりやすく、まっすぐな答えを与えています。それは、彼らの「信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変る」ためです(第一ペテロ一・七)。第四章のよく知られた箇所は、これを暗に指しているのかもしれません(もっとも、すでに述べたように、その箇所は第一には、まったく別のことにかかわっていますが)。「あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を」、「驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜」びなさい。「それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるため」です(第一ペテロ四・一二〜一三)。
(二) ここから、私たちは次のことを学びます。神が、ご自分の子らに悩みをもたらす試練を許される第一の大いなる目的は、彼らの信仰をためすことです。金が火によってためされるように、信仰は試練によってためされるのです。さて、私たちが知っているとおり、火でためされた金は、それによって純化され、かすから分けられます。信仰も、試練の火の中で同じようになります。ためされればためされるほど、いっそう純化されるのです。いや、純化されるだけでなく、強められ、確かにされ、豊かに増し加えられるのです。神の知恵と力、神の愛と真実の証拠が、それだけ多く加わるからです。ですから、私たちの信仰を増し加えることが、神がこのようなさまざまな試練を許される、恵み深い目的の一つなのです。
(三) 試練はまた、あの生ける望みをためし、純化し、確かにし、増し加えるのにも役立ちます。「わたしたちの主イエス・キリストの父なる神」が、「その豊かなあわれみにより」、私たちを「新たに生れさせて」いだかせてくださった望みです(第一ペテロ一・三)。実際、私たちの望みは、信仰と同じ割合で増し加わらずにはいません。望みは、信仰という土台の上に立っているからです。私たちは、その御名を信じ、神の御子を信じる信仰によって生きている(ガラテヤ二・二〇)ので、やがて現れる栄光を望みます。それを確信をもって待ち望んでいるのです。したがって、私たちの信仰を強めるものは、何であれ、私たちの望みをも増し加えます。同時に、それは主にある私たちの喜びをも増し加えます。この喜びは、不死に満ちた希望に必ず伴うものです。この観点から、使徒は、もう一つの章で、信者たちにこう勧めています。「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜」びなさい(第一ペテロ四・一三)。まさにこのために、「あなたがたはさいわい」です。「栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るから」です(第一ペテロ四・一四)。そして、これによって、あなたがたは、苦しみのただ中にあってさえ、「言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれ」ることができるのです(第一ペテロ一・八)。
(四) 彼らがいっそう喜ぶのは、彼らの信仰と望みを増し加える試練が、彼らの愛をも増し加えるからです。神のすべてのあわれみに対する神への感謝も、すべての人に対する善意も、増し加えるのです。それで、彼らは、自分たちの救主なる神の慈悲(テトス三・四)を深く感じれば感じるほど、ますます愛に心を燃やします。「まずわたしたちを愛してくださった」(第一ヨハネ四・一九)かたへの愛です。また、やがて現れる栄光について、明らかで強い確証を持てば持つほど、彼らはますます主を愛します。彼らのためにその栄光を買い取り、その「保証として」、彼らの「心に」それを「賜わった」(第二コリント一・二二)かたを愛するのです。そして、彼らの愛を増し加えること、これが、彼らに降りかかるのを許された試練のもう一つの目的です。
(五) さらにもう一つの目的は、彼らが聖性において進むことです。心の聖性と、ふるまいの聖性においてです。後者は、自然に前者から生じます。良い木は良い実を結ぶからです(マタイ七・一七)。そして、内なる聖性はすべて、愛によって働く信仰(ガラテヤ五・六)の直接の実です。この信仰によって、ほむべき御霊は、心を高ぶりや我意や激情から清めてくださいます。世への愛や、愚かで有害な欲望や、卑しくむなしい情愛からも清めてくださるのです。そのうえ、聖別された苦難は、神の恵みによって、直接まっすぐに聖性へと向かう傾きを持っています。神の御霊の働きによって、苦難は、神の前で魂をますますへりくだらせ、低くします。苦難は、私たちの荒れ騒ぐ心を静めて柔和にし、私たちの本性の激しさを飼いならし、私たちの強情と我意を和らげます。また、私たちを世に対して十字架につけます。そして、私たちが、すべての力を神から期待し、すべての幸いを神のうちに求めるようにしてくれるのです。
(六) そして、これらはすべて、あの大いなる目的に行き着きます。それは、私たちの信仰と望みと愛と聖性とが、たとい今はまだ現れていなくても、やがて「変る」(第一ペテロ一・七)ことです。すなわち、神ご自身からの「さんび」、人々と御使たちからの「ほまれ」、そして「栄光」に変わることです。その栄光は、最後まで耐え忍んだすべての人に、偉大な審判者が与えるものです。そして、この栄光は、あの恐るべき日に、すべての人に、「そのわざにしたがって」(ローマ二・六)与えられます。すなわち、神がその人の心のうちに行われたわざと、その人が神のために行った外のわざとにしたがって、与えられるのです。また同じように、その人が苦しんだことにしたがって、与えられるのです。ですから、これらの試練はすべて、言葉につくせない益なのです。このように多くの仕方で、「このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させる」(第二コリント四・一七)のです!
(七) これに加えて、苦難の中での私たちのふるまいを見ることによって、ほかの人々が受けるかもしれない益があります。私たちは経験によって知っています。手本は、しばしば教えよりも深い印象を私たちに与えるのです。そして、嵐のただ中で穏やかで静かな魂の手本ほど、強い影響を与える手本があるでしょうか。同じ尊い信仰を授かった人々(第二ペテロ一・一)に対してだけでなく、神を知らない人々に対してさえ、そうです。その魂は、悲しんでいても、常に喜んでいます(第二コリント六・一〇)。神の御旨であることは何でも、生れつきの性質にとってどんなにつらくても、柔和に受けいれます。病気と痛みの中ではこう言います。「父がわたしにくださった杯は、飲むべきではないでしょうか」(ヨハネ一八・一一)。損失や欠乏の中ではこう言います。「主が与え、主が取られたのです。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ一・二一)。
【五】 いくつかの推論
(一) 最後に、いくつかの推論で結ばなければなりません。第一に、魂のやみと悩みとの違いは、何と大きいことでしょう! それなのに、この二つは、経験を積んだクリスチャンによってさえ、ごく一般に混同されているのです。やみ、すなわち荒野の状態は、聖霊における喜びをまったく失うことを意味します。悩みは、そうではありません。悩みのただ中でも、私たちは「言葉につくせない」「喜びにあふれ」る(第一ペテロ一・八)ことができるのです。やみの中にいる人々は、神の平安を失っています。悩みの中にいる人々は、失っていません。それどころか、まさにそのときにも、恵みと同じように平安も、彼らに豊かに加えられることがあるのです。前者では、神への愛は、まったく消えてはいないとしても、冷えています(マタイ二四・一二)。後者では、神への愛はその力をすべて保っています。いや、むしろ日ごとに増し加わっています。前者では、信仰そのものも、まったく失われてはいないとしても、ひどく衰えています。まだ見ていない事実(ヘブル一一・一)、特に赦してくださる神の愛についての彼らの確認と確信は、以前ほど明らかでも強くもありません。そして、神への彼らの信頼も、それに比例して弱まっています。後者は、神を見てはいなくても、神への明らかで揺るがない確信を持っています。また、自分のすべての罪を消し去ってくださったあの愛について、変わらない確認を持っています。ですから、私たちが信仰と不信仰、望みと絶望、平和と戦い、神への愛と世への愛とを見分けることができる限り、悩みとやみとを誤りなく見分けることができるのです!
(二) 第二に、ここから次のことを学ぶことができます。悩みが必要なことはありえても、やみが必要なことはありえない、ということです。私たちが「今しばらくのあいだは」「悩まねばならない」(第一ペテロ一・六)ことが、上に述べた目的のために必要なことはありうるのです。少なくとも、次の意味では必要です。悩みは、あの「さまざまな試錬」(第一ペテロ一・六)から自然に生じる結果です。そして、その試練は、私たちの信仰をためして増し加え、望みを確かにして広げるために必要です。また、心をあらゆる聖くない気質から清め、私たちを愛において全うするために必要なのです。したがって、試練は、私たちの冠をいっそう輝かせ、私たちの永遠の重い栄光(第二コリント四・一七)を増し加えるために必要なのです。けれども、やみがこれらの目的のどれかのために必要だとは言えません。やみは、これらの目的に少しも役立ちません。信仰と望みと愛を失うことは、確かに、聖性にも役立ちませんし、天における報いを増し加えることにも役立ちません。その報いは、地上での私たちの聖性に比例するのです。
(三) 第三に、使徒の語り方から、悩みでさえいつも必要なわけではない、と推し量ることができます。使徒は、「今しばらくのあいだは」「悩まねばならないかも知れない」(第一ペテロ一・六)と言っています。ですから、悩みは、すべての人に必要なわけではなく、どの人にもいつも必要なわけではありません。神は、みこころのときに、ほかの手段によって、どんな魂のうちにも同じ恵みのわざをなすことがおできになります。神は、そのための力も知恵も持っておられるのです。そして、ある場合には、神はそうなさいます。神は、みこころにかなう人々を、ほとんど何の悩みもなしに、力から力に進ませられる(詩篇八四・七)のです。彼らが「神をおそれて全く清く」なる(第二コリント七・一)まで、そうなさるのです。神は、人の心に対して絶対的な力を持っておられ、心のすべてのばねを、みこころのままに動かされるからです。けれども、このような場合はまれです。神は、たいてい、「受けいれられる人々を、苦難の炉で」ためすことをよしとされます。ですから、さまざまな試練と悩みは、多かれ少なかれ、神の最も愛する子らが普通に受ける分なのです。
(四) ですから、最後に、私たちは目をさまして祈り(マタイ二六・四一)、やみに陥らないように、できる限りの努力をすべきです。けれども、悩みについては、それを避ける方法よりも、それによって益を得る方法に心を配るべきです。私たちが大いに心がけるべきことは、悩みの中で正しくふるまい、その中で主を待ち望むことです。そうして、悩みが私たちに降りかかるのを主が許された、その愛のねらいのすべてを、悩みが十分にかなえるようにするのです。悩みが、私たちの信仰を増し加え、望みを確かにし、私たちをあらゆる聖性において全うする手段となるようにするのです。悩みが来るときにはいつでも、悩みが許されている、この恵み深い目的に目を留めましょう。そして、自分たちに対する神のみこころを無にする(ルカ七・三〇)ことのないように、あらゆる努力をしましょう。神が絶えず与えてくださる恵みによって、熱心に神と共に働き(第二コリント六・一)、「肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ」ましょう(第二コリント七・一)。そして、日ごとに、私たちの主イエス・キリストの恵みにおいて、ますます豊かになっていきましょう(第二ペテロ三・一八)。主の永遠の国(第二ペテロ一・一一)に迎え入れられるまで、そうしましょう!