ジョン・ウェスレー標準説教集

説教四十六 荒野の状態

「あなたがたにも今は不安があります。しかし、わたしは再びあなたがたと会うでしょう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるでしょう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいません」(ヨハネ一六・二二)

(一) 神は、イスラエルを奴隷の家から導き出して、大いなる救いを施されました。けれども、そのあと、イスラエルはすぐに、神が先祖たちに約束された地にはいったのではありません。彼らは、道をはずれて「荒野にさまよい」(詩篇一〇七・四)、さまざまに試みられ、苦しめられたのです。同じように、神は、ご自分を恐れる者たちを、罪とサタンの束縛から救い出されます。彼らは、「価なしに、神の恵みにより」、イエス「によるあがないによって義とされ」ます(ローマ三・二四)。それでも、そのあとすぐに、「神の民のためにまだ残されている」休み(ヘブル四・九)にはいる者は、多くありません。彼らの大部分は、多かれ少なかれ、神が導き入れてくださった良い道から、さまよい出てしまいます。彼らは、いわば「獣のほえる荒れ地」(申命記三二・一〇)にはいり、そこで、さまざまに試みられ、苦しめられるのです。ある人々は、イスラエルの民の場合になぞらえて、これを「荒野の状態」と呼んできました。

(二) この人々が置かれている状態が、最も優しいあわれみを受けてしかるべきものであることは、確かです。彼らは、悪い重い病に苦しんでいます。けれども、その病は、一般には理解されていません。まさにそのために、彼らが治療法を見つけることは、いっそう難しいのです。彼ら自身はやみの中にいるので、自分の病の本質を理解しているとは考えられません。そして、その病が何であるか、どうすればそれをいやせるかを知っている人は、彼らの兄弟たちのうちにわずかしかいません。いや、おそらく彼らの教師たちのうちにさえ、わずかしかいないのです。それだけに、次のことを調べる必要が、なおさらあります。第一に、この病の本質は何か。第二に、その原因は何か。第三に、その治療法は何か。

【一】 この病の本質は何か

(一) 第一に、信じたあとで、これほど多くの人が陥るこの病の本質は何でしょうか。それは、本来何にあるのでしょうか。その本当の症状は何でしょうか。それは、本来、かつて神が彼らの心のうちに造り出してくださった信仰を失うことにあります。荒野にいる人々は、かつて持っていたあの神からの「確認」(ヘブル一一・一)を、今は持っていません。「まだ見ていない事実」(ヘブル一一・一)についてのあの満ち足りた確信を、今は持っていないのです。御霊の内なる証明によって、以前は彼らのひとりひとりが、こう言うことができました。「わたしが生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのです」(ガラテヤ二・二〇)。けれども、今は、その証明を持っていません。天の光は、今はもう彼らの「心を照し」ていません(第二コリント四・六)。彼らは、「見えないかたを見て」もいません(ヘブル一一・二七)。かえって、やみが再び彼らの魂のおもてをおおい、盲目が再び彼らの心の目をおおっています。御霊は、もはや彼らの「霊と共に」、彼らが「神の子であることをあかし」してくださいません(ローマ八・一六)。御霊は、子たる身分を授ける霊(ローマ八・一五)として、彼らの心の中で「『アバ、父よ』と呼ぶ」こと(ガラテヤ四・六)も、もう続けておられません。彼らは今、神の愛への確かな信頼を持っていません。聖い大胆さをもって神に近づく自由も持っていません。たとい神が私を殺しても、私はなお神により頼む、ということは、もはや彼らの心の言葉ではありません。彼らは力をそぎ取られ、ほかの人のように弱くなり(士師記一六・一七)、気の弱い者となっています。

(二) ここから、第二に、愛を失うことが生じます。愛は、真実な生きた信仰と同時に、また同じ割合で、増したり減ったりせずにはいないからです。それで、信仰を奪われた人々は、神への愛をも奪われています。彼らは今、こう言うことができません。「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」(ヨハネ二一・一七)。神を本当に愛している人はだれでも、神にあって幸いです。けれども、彼らは今、神にあって幸いではありません。彼らは、以前のように神を喜ぶことも、神のにおい油のかおりをかぐこともありません。かつては、彼らの「慕うもの」はすべて、神と神の「記念の名」でした(イザヤ二六・八)。けれども今は、その慕う思いさえ、すっかり消えてはいないとしても、冷えて死んでいます。そして、神への愛が冷えたのと同じように、隣人への愛も冷えています。彼らは今、人々の魂へのあの熱意を持っていません。人々の幸せを慕い求めるあの思いも、人々が神と和解することを願うあの熱く、休むことのない、活発な願いも持っていません。彼らは、失われた羊(マタイ一〇・六)に対するあの「あわれみの心」(コロサイ三・一二)を感じません。「無知な迷っている人々を、思いやる」(ヘブル五・二)あの優しい心を感じないのです。かつて彼らは、「だれに対しても親切であ」りました(第二テモテ二・二四)。真理に反対する者を、柔和な心で教え導いていました(第二テモテ二・二五)。また、「もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら」、「柔和な心をもって、その人を正し」ていました(ガラテヤ六・一)。けれども、怒りは、しばらく、おそらく何日ものあいだ鳴りをひそめたあとで、再び力を取り戻し始めます。いや、気むずかしさと短気とが、彼らをひどく押して倒そうとします(詩篇一一八・一三)。そして、彼らがときに、「悪をもって悪に報い」、「悪口をもって悪口に報い」る(第一ペテロ三・九)ところにまで追いやられないなら、上出来なのです。

(三) 信仰と愛を失った結果として、第三に、聖霊における喜び(ローマ一四・一七)を失うことが続きます。赦されたという愛に満ちた自覚がもはやないなら、そこから生じる喜びも残ることはできないからです。御霊が私たちの霊と共に、私たちが神の子であることをあかししてくださらないとします(ローマ八・一六)。そうなら、その内なるあかしから流れ出た喜びも、終わらざるをえません。同じように、かつて「言葉につくせない」「喜びにあふれ」(第一ペテロ一・八)、「神の栄光にあずかる希望をもって」(ローマ五・二)喜んでいた人々がいます。その人々は、今やあの「不死に満ちた希望」を奪われているので、その希望が生んだ喜びをも奪われています。また、そのとき「神の愛が」彼らの「心に注がれて」いた(ローマ五・五)という自覚から生じた喜びをも、奪われているのです。原因が取り除かれれば、結果も取り除かれるからです。泉がせき止められれば、あの生ける水(ヨハネ四・一〇)は、もはやわき出て、渇いた魂をうるおすことはありません。

(四) 信仰と愛と喜びを失うことに、第四に、平安を失うことも加わります。それは、かつて、人知ではとうてい測り知ることのできなかった平安です(ピリピ四・七)。あの心の甘美な静けさ、あの霊の落ち着きは、消えうせています。苦しい疑いが戻ってきます。自分はいったい信じたことがあったのか、そしておそらく、これから信じることがあるのか、という疑いです。私たちは疑い始めます。自分は本当に、御霊の真実なあかしを心のうちに見いだしたことがあったのか、と。むしろ自分の魂を欺き、自分の本性の声を神の声と取り違えたのではないか、と。いや、おそらく、自分はいつか神の声を聞き、神の前に恵みを得ることがあるのか、とさえ疑うのです。そして、これらの疑いには、再び奴隷のような恐れが加わります。懲らしめを伴う恐れ(第一ヨハネ四・一八)です。私たちは、信じる前とちょうど同じように、神の怒りを恐れます。神の御前から捨てられるのではないかと恐れます。そして、そこから再び、死の恐怖(ヘブル二・一五)に沈むのです。以前には、それからまったく解き放たれていたというのに、です。

(五) けれども、これでさえ、すべてではありません。平安を失うことには、力を失うことが伴うからです。私たちは知っています。イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている(ローマ五・一)者はだれでも、あらゆる罪に打ち勝つ力を持っています。けれども、その人が神の平安を失うときはいつでも、罪に打ち勝つ力も失うのです。その平安が残っている間は、力も残っていました。からみつく罪(ヘブル一二・一)に打ち勝つ力さえ残っていたのです。それが生れつきの罪であれ、体質の罪であれ、受けた教育による罪であれ、職業の罪であれ、そうでした。いや、そのときまで打ち勝つことのできなかった悪い気質と欲望にさえ、打ち勝つ力が残っていました。そのときには、罪はもはやその人を支配していませんでした(ローマ六・一四)。けれども今は、その人がもはや罪を支配していません。確かに、その人はもがくかもしれません。けれども、打ち勝つことはできません。冠はその人のこうべから落ちたのです(哀歌五・一六)。その人の敵は再びその人にまさり、多かれ少なかれ、その人を束縛の中に引き込みます。栄光はその人を去りました(サムエル記上四・二一)。その人の心のうちにあった神の国が去ったのです。その人は、平和と聖霊における喜びだけでなく、義をも奪われているのです(ローマ一四・一七)。

【二】 その原因は何か

(一) 多くの人が「荒野の状態」と呼んできたものの本質は、このようなものです。この呼び名は、不適切ではありません。けれども、その本質は、第二に、その原因は何かを調べることによって、もっと十分に理解することができるでしょう。その原因は、確かにさまざまです。けれども、私は、神のただの、恣意的な、主権的な意志を、その原因の中に数えることは、とうていできません。神は、「そのしもべの幸福を喜ばれ」ます(詩篇三五・二七)。神は、「心から人の子を苦しめ悩ますことをされません」(哀歌三・三三)。神の変わることのない御旨は、私たちの聖化です。「平和と、聖霊における喜びと」(ローマ一四・一七)を伴う聖化です。これらは、神ご自身の価なしの賜物です。そして、「神の賜物」は、神の側では「変えられることがない」(ローマ一一・二九)と、私たちは保証されています。神は、ご自分がお与えになったものを悔いることは決してなさいません。それを私たちから取り戻そうと望まれることもありません。ですから、ある人々は、神が私たちを見捨てられると言いますが、神がそうされることは決してありません。神を見捨てるのは、ただ私たちのほうなのです。

〔一〕(二) 内なるやみの最もよくある原因は、何らかの種類の罪です。罪こそが、しばしば罪と悲惨の入り組んだものとなるこの状態を、たいてい引き起こすのです。第一に、行いの罪です。行いの罪は、しばしば一瞬のうちに魂を暗くすることが見て取れます。それが、知りながらの罪、故意の罪、思い上がった罪であれば、特にそうです。たとえば、今、神の御顔の澄んだ光の中を歩んでいる人がいるとします。その人が、何かのことで説き伏せられて、ただ一度でも酒に酔ったり、汚れた行いをしたりするとします。そうすれば、その人がまさにその時刻に、まったくのやみに落ちたとしても、少しも不思議ではないでしょう。確かに、ごくまれには、神が、ほとんどその瞬間に、赦しのあわれみを並はずれた仕方で示して、これを防がれた場合もありました。けれども、一般には、神の慈愛をこのように濫用し、神の愛をこれほどひどく侮辱すれば、すぐに神から遠ざかることになります。そして、「さわれるほど」の「くらやみ」(出エジプト一〇・二一)が生じるのです。

(三) けれども、こういう場合はあまり多くないと望んでよいでしょう。神の慈愛の富を軽んじて(ローマ二・四)、神の光の中を歩んでいながら、これほどひどく、思い上がって神に逆らう人は、多くないと望んでよいでしょう。その光は、怠りの罪に身をゆだねることによって失われることのほうが、はるかに多いのです。確かに、怠りの罪は、すぐに御霊を消す(第一テサロニケ五・一九)のではありません。徐々に、ゆっくりと消すのです。前者は、火に水を注ぐことにたとえられるでしょう。後者は、火から燃料を取り去ることにたとえられるでしょう。そして、あの愛に満ちた御霊は、私たちから去られる前に、私たちの怠りについて、何度も私たちに忠告してくださいます。御霊の感化が取り去られる前に、御霊は、多くの内なる制止と、ひそかな知らせとを与えてくださいます。ですから、私たちをまったくのやみに陥らせることができるのは、故意に続けられる怠りの連なりだけです。

(四) おそらく、どんな怠りの罪にもまして、ひそかな祈りを怠ることが、しばしばこのやみを引き起こします。ひそかな祈りが欠けているのを、ほかのどんな神の定めによっても補うことはできません。私たちが、神と語り合い、神の前に心を注ぎ出す(詩篇六二・八)機会をすべて用いないなら、魂のうちにある神のいのちは続きません。まして増し加わることはありません。これほど明らかなことはないのです。ですから、私たちがこれを怠るとします。仕事や人づきあいや、ほかのどんな用事にもせよ、それが魂のこのひそかな修練を妨げるのを許すとします(あるいは、同じことですが、それによって、修練を軽く不注意に急いで済ませるようになるのを許すとします)。そうすれば、そのいのちは必ず衰えます。そして、私たちが修練を長く、あるいはたびたび中断するなら、そのいのちは徐々に死に絶えてしまうでしょう。

(五) しばしば信者の魂をやみに陥らせるもう一つの怠りの罪は、ユダヤ教の制度の下でさえ強く命じられていたことを怠ることです。「あなたの隣人をねんごろにいさめ」なさい(レビ記一九・一七)。隣人の上に罪をそのままにしておいてはなりません。「あなたは心に兄弟を憎んではなりません」(レビ記一九・一七)。さて、私たちが心に兄弟を憎むとします。兄弟が過ちを犯しているのを見ても、いさめずに、その上に罪をそのままにしておくとします。そうすれば、それはすぐに、私たち自身の魂をやせ衰えさせる(詩篇一〇六・一五)でしょう。それによって、私たちは兄弟の罪に加わることになるからです。隣人に忠告するのを怠ることによって、私たちは隣人の罪を自分の罪にしてしまいます。私たちは、その罪について、神に申し開きをしなければならなくなります。私たちは隣人の危険を見たのに、警告しなかったのです。ですから、その人が「自分の悪のために死ぬ」なら、神が「その血を」私たちの「手から求め」られる(エゼキエル三・一八)としても、当然なのです。それなら、このようにして御霊を悲しませる(エペソ四・三〇)ことによって、私たちが神の御顔の光を失うとしても、不思議はありません。

(六) 私たちがこの光を失う第三の原因は、何らかの種類の内なる罪に身をゆだねることです。たとえば、私たちは知っています。すべて「心に高ぶる者は主に憎まれ」ます(箴言一六・五)。心のこの高ぶりが、外のふるまいに現れていないとしても、そうです。さて、平安と喜びに満たされた魂は、何とたやすく、悪魔のこのわな(第一テモテ三・七)に陥ることでしょう! その人が、自分には実際より多くの恵みや知恵や力があると思い込むのは、何と自然なことでしょう。「思うべき限度を越えて思いあがる」(ローマ一二・三)のは、何と自然なことでしょう。自分がもらったものを、もらっていないもののように誇る(第一コリント四・七)のは、何と自然なことでしょう。けれども、神は絶えず「高ぶる者をしりぞけ」、「へりくだる者」にだけ「恵みを賜う」のです(ヤコブ四・六)。ですから、この高ぶりは、以前その人の心を照していた光を、まったく滅ぼしはしないとしても、必ず暗くしてしまいます。

(七) 同じ結果は、怒りにすきを与えることによっても生じます。どんな挑発やきっかけがあったにしても、そうです。いや、その怒りが、真理への熱心とか、神の栄光への熱心とかいう名で飾られていても、そうです。実際、愛の炎でない熱心は、どれも、「地につくもの」、動物的なもの、「悪魔的なもの」です(ヤコブ三・一五)。それは憤りの炎です。それ以上でもそれ以下でもない、まったくの罪深い怒りです。そして、神への穏やかで優しい愛にとって、これ以上の敵はありません。この二つが一つの胸の中にいっしょに存在したことは一度もなく、これからも決してありえません。怒りがはびこるのと同じ割合で、愛と聖霊における喜びは減っていきます。このことは、感情を害する場合に、特に目につきます。すなわち、兄弟のだれかに対して、社会のきずなや宗教のきずなで私たちと結ばれている人のだれかに対して、怒る場合です。私たちが、感情を害する思いに、ほんの一時間でも身をゆだねるなら、聖霊の甘美な感化を失います。そのため、私たちは相手を正すどころか、自分自身を滅ぼし、私たちを襲うどんな敵にとっても、たやすい獲物となってしまうのです。

(八) けれども、私たちが悪魔のこのわなに気づいているとします。それでも、別の方面から攻撃されることがあります。激しさと怒りが眠っていて、愛だけが目ざめているときにも、私たちは欲望によって、それに劣らない危険にさらされることがあります。欲望も同じように、魂を暗くしがちだからです。魂が暗くなるのは、どんな愚かな欲望、どんなむなしい情愛や度を越えた情愛からでも、必ず生じる結果です。私たちが地上のものに心を引かれる(コロサイ三・二)とします。日の下のどんな人やものにでも、心を引かれるとします。神と、神に向かわせるもののほかに、何かを欲するとします。どんな被造物にでも、幸いを求めるとします。そうすれば、ねたむ神(出エジプト二〇・五)は、必ず私たちと争われます。神は、どんな競争相手も認めることがおできにならないからです。そして、私たちが神の警告の声を聞こうとせず、魂のすべてをもって神に立ち返ろうとしないとします。偶像によって神を悲しませ続け、ほかの神々を追い求め続けるとします。そうすれば、私たちはすぐに、冷たく、実を結ばない、かわいた者となるでしょう。そして、この世の神(第二コリント四・四)が、私たちの心をくらませ、暗くするでしょう。

(九) けれども、この世の神は、私たちがはっきりとした罪に身をゆだねていないときにも、しばしばそうします。私たちが、「内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせ」ない(第二テモテ一・六)だけで十分です。それだけで、この世の神は十分につけ入るすきを得るのです。私たちが、絶えず苦闘して「狭い戸口からはいる」(ルカ一三・二四)ように努めないだけで十分です。私たちが、熱心に勝利を目ざして励まず、「天国」を「激しく襲」って「奪い取」ろうとしない(マタイ一一・一二)だけで十分です。戦わないでいるだけで足ります。そうすれば、私たちは必ず打ち負かされます。私たちがただ不注意になり、あるいは「意気そそう」し(ヘブル一二・三)、気楽に怠けているとします。そうすれば、私たちの生れながらのやみが、すぐに戻ってきて、私たちの魂をおおうでしょう。ですから、私たちが霊の怠惰に身をゆだねるだけで十分です。それは、確実に魂を暗くします。霊の怠惰は、殺人や姦淫ほど速やかにではないとしても、それらと同じほど確実に、神の光を滅ぼすのです。

(一〇) けれども、よく心に留めておくべきことがあります。私たちのやみの原因は(それが何であれ、怠りの罪であれ行いの罪であれ、内なる罪であれ外の罪であれ)、いつも手近にあるとは限りません。ときには、今の苦しみを引き起こした罪が、かなり離れたところにあることもあります。その罪は、何日も、何週間も、何か月も前に犯されたのかもしれません。そして、神がそれほど前に行われたことのために、今、ご自分の光と平安を取り去られるのは、(初めはそう思われるかもしれませんが)神の厳しさの例ではありません。むしろ、神の寛容と優しいあわれみの証拠なのです。神は、私たちが誤っていたことに気づき、それを認め、正すかもしれないと、この間ずっと待っておられました。そして、私たちがそうしなかったので、神はついに不興を示されるのです。こうして、ついには私たちを悔い改めに導くことができればと、願っておられるのです。

〔二〕(一) このやみのもう一つの一般的な原因は、無知です。無知も同じように、さまざまな種類があります。人々が聖書を知らないとします。旧約か新約の中に、ある箇所があると思い込んでいるとします。すべての信者が例外なく、ときにはやみの中にいなければならないと主張する箇所です。そうすれば、この無知は、当然、彼らが予期しているやみを彼らの上にもたらすでしょう。そして、このことは、私たちの間で何とありふれたことだったでしょう! やみを予期していない人は、何と少ないことでしょう。それも不思議ではありません。彼らは、やみを予期するように教えられているからです。彼らの導き手たちが、彼らをこの道へ導いているからです。ローマ教会の神秘主義の著者たちだけではありません。私たちの教会の、最も霊的で経験に富んだ人々の多くも(前の世紀のごく少数の人々を除いて)、このことを説いています。彼らは、これを明白で疑う余地のない聖書の教理として、確信をもって主張しています。そして、それを証明するために多くの聖句を引いているのです。

(二) 魂のうちにおける神のわざについての無知も、しばしばこのやみを引き起こします。人々は、次のように思い込んでいます(そう教えられてきたからです。特にローマ教会の著者たちから教えられてきました。あまりにも多くのプロテスタントが、その著者たちのもっともらしい主張を、十分に吟味しないまま受けいれてきたのです)。いつも輝く信仰のうちを歩むべきなのではない、と。それは一段低い段階にすぎない、と。高く上るにつれて、感じ取れる慰めを捨て、裸の信仰によって生きるべきだ、と(愛も平安も聖霊における喜びもはぎ取られているなら、まさに裸です!)。光と喜びの状態は良いが、やみとかわきの状態はもっと良い、と。私たちが高ぶりや世への愛や度を越えた自己愛から清められるのは、ただやみとかわきによってだけだ、と。ですから、いつも光の中を歩むことを期待すべきでも、願うべきでもない、と思い込んでいるのです。ローマ教会の敬虔な人々の大部分は、たいてい暗く慰めのない道を歩んでいます。たとい神の光を受けることがあっても、すぐに失ってしまいます。それは、ここから来ているのです(ほかの理由も重なっているかもしれませんが)。

〔三〕(一) このやみの第三の一般的な原因は、誘惑です。主のともしびが初めて私たちの頭の上に輝く(ヨブ二九・三)とき、誘惑はしばしば逃げ去り、すっかり姿を消します。内側はすべて穏やかです。神が私たちの敵をも私たちと和らがせられる(箴言一六・七)間は、おそらく外側も穏やかでしょう。そうなると、もう戦いを見ることはないだろう、と考えるのはごく自然なことです。そして、この穏やかさが、何週間だけでなく、何か月も、何年も続いた例もあります。けれども、普通はそうではありません。まもなく、再び「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いて」きます(マタイ七・二五)。子をも父をも知らず、そのために神の子らを憎む人々がいます。神が、その人々の歯にかませたくつわをゆるめられると、彼らはさまざまな形でその憎しみを表すでしょう。昔、「肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様」です(ガラテヤ四・二九)。同じ原因が、今も同じ結果を生んでいるのです。そのとき、心のうちにまだ残っている悪も、新たに動きだします。怒りや、ほかの多くの苦い根が、はえ出ようとするでしょう(ヘブル一二・一五)。同時に、サタンも、火の矢(エペソ六・一六)を投げ込むことを怠らないでしょう。そして魂は、世とだけでなく、「血肉」とだけでもなく、「もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊」と格闘しなければならなくなります(エペソ六・一二)。さて、これほどさまざまな攻撃が一度に、しかもおそらくこのうえない激しさで加えられるとします。それが弱い信者のうちに、悩みだけでなく、やみさえも引き起こすとしても、不思議ではありません。その人が目をさましていなかった場合は、特にそうです。思いがけないときに攻撃が加えられた場合も、そうです。その人がそんなことを少しも予期せず、悪しき日(エペソ六・一三)はもう二度と戻ってこない、と愚かにも自分に言い聞かせていた場合は、なおさらです。

(二) 私たちが以前、まるですべての罪からきよめられた(第一ヨハネ一・七)かのように、自分を高く思いすぎていたとします。そうなら、内側から起こる誘惑の力は、ひどく強められるでしょう。そして、初めの愛(黙示録二・四)の熱さの中にある間、私たちは何と自然に、そう思い込むことでしょう。私たちは何とたやすく信じることでしょう。神が私たちのうちで「信仰の働き」のすべてを「力強く満たして」くださった(第二テサロニケ一・一一)、と。罪を感じないから、自分のうちに罪はなく、魂はすべて愛だ、と。そして、私たちが、打ち負かしただけでなく殺してしまったと思っていた敵から、鋭い攻撃を受けるとします。それが私たちを魂の深い悩みに投げ込み、いや、ときにはまったくのやみに投げ込むのも、もっともなことです。特に、私たちがすぐに神を呼び求め、単純な信仰によって神に身をゆだねるのでなく、この敵と論じ合うときは、そうです。ご自分の民を「試錬の中から救い出」す(第二ペテロ二・九)すべを知っておられるのは、ただ神だけなのです。

【三】 その治療法は何か

以上が、この二度目のやみのよくある原因です。第三に、その治療法は何かを調べましょう。

(一) 治療法がどの場合にも一つの同じものだと考えるのは、大きな、致命的な誤りです。それなのに、この誤りはきわめてありふれています。経験を積んだクリスチャンとして通っている多くの人々の間にさえ、ありふれています。いや、おそらく自分からイスラエルの教師(ヨハネ三・一〇)となり、ほかの魂の導き手となっている人々の間にさえ、ありふれているのです。それで、彼らは、病の原因が何であれ、ただ一つの薬しか知らず、それしか用いません。彼らは、すぐに約束を当てはめ始めます。彼らの言い方では、福音を説き始めるのです。慰めを与えることが、彼らのめざすただ一つの点です。そのために、彼らは、多くの柔らかく優しいことを語ります。あわれな無力な罪人への神の愛について、またキリストの血の効力について語るのです。さて、これはまさにやぶ医者のしわざです。しかも、たちの悪いほうのしわざです。人々のからだを殺しはしないとしても、神の特別なあわれみがなければ、人々の「からだも魂も地獄で滅ぼす」(マタイ一〇・二八)ことになりがちだからです。この「水しっくいをもって」「塗る」者たち(エゼキエル一三・一〇)、この約束の安売り人たちについて、ふさわしいだけのことを言うのは難しいことです。ほかの人々に対して、無知にも付けられてきた呼び名がありますが、彼らこそ、その呼び名にふさわしいのです。彼らは、霊のいかさま薬売りです。彼らは事実上、「契約の血を汚れたものと」しています(ヘブル一〇・二九)。彼らは、神の約束をこのようにだれにでも区別なく当てはめることによって、それを卑しく安売りしているのです。けれども実は、霊の病の治療も、からだの病の治療と同じく、その原因と同じほどさまざまでなければなりません。ですから、まずなすべきことは、原因を見つけ出すことです。そうすれば、原因がおのずから治療法を指し示すでしょう。

(二) たとえば、やみを引き起こしているのは罪でしょうか。どんな罪でしょうか。何かの外の罪でしょうか。あなたの良心は、あなたが何かの罪を犯して、神の聖霊を悲しませている(エペソ四・三〇)と責めていますか。このために、聖霊があなたから去り、喜びと平安も聖霊とともに去ったのでしょうか。それなら、あなたが滅ぼされるべきものを除き去るまで(ヨシュア七・一三)、どうして喜びと平安が戻ってくると期待できるでしょうか。「悪しき者はその道を捨て」なさい(イザヤ五五・七)。「罪人どもよ、手をきよめ」なさい(ヤコブ四・八)。「あなたがたの悪い行いを除き」なさい(イザヤ一・一六)。そうすれば、「あなたの光は暗きに輝き」(イザヤ五八・一〇)、主は帰って来られ、「豊かにゆるしを与えられ」ます(イザヤ五五・七)。

(三) 最も念入りに調べても、あなたの魂に雲をかけている行いの罪が見つからないとします。そうなら、次に、あなたと神との間を隔てている(イザヤ五九・二)怠りの罪がないかどうか、調べなさい。あなたは、兄弟の上に罪をそのままにしておかないようにしていますか。あなたの目の前で罪を犯す人に、忠告していますか。あなたは、神のすべての定めのうちを、すなわち公の祈り、家庭の祈り、ひそかな祈りのうちを歩んでいますか。もしそうでないとします。知っているこれらの務めの一つでも、習慣的に怠っているとします。それなら、どうして神の御顔の光があなたの上に照り続けると期待できるでしょうか。急いで、残っているものを「力づけ」なさい(黙示録三・二)。そうすれば、あなたの魂は生きます。「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら」(ヘブル三・七)、神の恵みによって、欠けているものを補いなさい。「これは道だ、これに歩め」と言う声をうしろに聞く(イザヤ三〇・二一)とき、心をかたくなにしてはなりません(ヘブル三・八)。もはや、天からの召しにそむいてはなりません。罪が、怠りの罪であれ行いの罪であれ、取り除かれるまでは、どんな慰めも偽りで、人を欺くものです。それは、傷の表面に皮を張らせるだけのことです。その下では、傷がなおもうみ、ただれ続けているのです。神との間に平和を得るまでは、内なる平安を求めてはなりません。そして、神との平和は、「悔改めにふさわしい実」(マタイ三・八)なしにはありえないのです。

(四) けれども、おそらくあなたは、自分の平安と聖霊における喜びをそこなっている怠りの罪さえ、何一つ自覚していないかもしれません。それなら、何かの内なる罪が、苦い根のように、あなたの心にはえ出て、あなたを悩ましている(ヘブル一二・一五)のではありませんか。あなたの魂のかわきと不毛は、あなたの心が「生ける神から離れ去る」(ヘブル三・一二)ことによって引き起こされているのではありませんか。「高ぶる者の足が」あなたを「踏み」つけてはいませんか(詩篇三六・一一)。あなたは、自分について、「思うべき限度を越えて思いあが」ってはいませんか(ローマ一二・三)。あなたは、何かの点で、自分の「網に犠牲をささげ」、自分の「引き網に香をた」いてはいませんか(ハバクク一・一六)。何かの企てがうまくいったのを、自分の勇気や力や知恵のおかげにしてはいませんか。あなたは、「もらっている」ものを、「もらっていないもののように」(第一コリント四・七)誇ってはいませんか。「わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に」(ガラテヤ六・一四)、何かを誇ってはいませんか。人の誉れを追い求めたり、望んだりしてはいませんか。それを喜んではいませんか。もしそうなら、あなたは自分の取るべき道が分かるはずです。あなたが高ぶりによって倒れたのなら、「神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神は」あなたを「高くしてくださるでしょう」(第一ペテロ五・六)。あなたは、怒りにすきを与えることによって、神をあなたから去らせてしまったのではありませんか。あなたは、「悪をなす者のゆえに、心を悩ま」したり、「不義を行う者のゆえに、ねたみを起」したりしてはいませんか(詩篇三七・一)。あなたは、兄弟のだれかの(本当の、あるいは思い込みの)罪を見て、その兄弟に対して感情を害してはいませんか。そして、心を兄弟から遠ざけることによって、愛の大いなる律法にそむいて、自分自身が罪を犯してはいませんか。それなら、主を仰ぎ見なさい。それは、あなたが新たな力を得るためです。この鋭さと冷たさがすべて取り除かれるためです。また、愛と平安と喜びがいっしょに戻ってくるためです。そして、あなたがたが互いに変わらず親切にするためです。「あわれみ深い者となり」、「神がキリストにあってあなたがたをゆるしてくださったように」、「互にゆるし合」うようになるためです(エペソ四・三二)。あなたは、何かの愚かな欲望に身をゆだねてはいませんか。何かの種類の、あるいはいくらかでも、度を越えた情愛に身をゆだねてはいませんか。それなら、あなたが偶像を取り除くまで、どうして神への愛があなたの心のうちに場所を持つことができるでしょうか。「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではありません」(ガラテヤ六・七)。神は、分かれた心の中に住まわれることはありません。ですから、あなたが胸のうちにデリラを抱いている限り、神はそこに場所を持たれません。あなたが右の目を抜き出して捨てる(マタイ五・二九)までは、神の光を取り戻すことを望んでもむだです。ああ、もうこれ以上ぐずぐずしてはなりません! そうできるようにしてくださるよう、神に叫び求めなさい。自分の無能と無力を嘆きなさい。そして、主を助け手として、狭い門からはいり(マタイ七・一三)、天国を激しく襲って奪い取りなさい(マタイ一一・一二)。神の聖所からあらゆる偶像を投げ出しなさい。そうすれば、主の栄光がすぐに現れるでしょう。

(五) おそらく、あなたの魂をやみの中にとどめているのは、まさにこのこと、すなわち励まないこと、霊の怠惰かもしれません。あなたは、その地に安らかに住んでいます。あなたの領地には戦いがありません。それで、あなたは静かで、気にかけることもありません。あなたは、外面的な務めの同じ平らな道を進み、そこにとどまることに満足しています。それでいて、あなたは、自分の魂が死んでいることを不思議に思うのですか。ああ、主の前で自分を奮い立たせなさい! 起きて、身からちりを振り落しなさい(イザヤ五二・二)。大いなる祝福を求めて神と格闘しなさい。祈りのうちに神に魂を注ぎ出し、あくまでも祈り続けなさい! 目をさましていなさい! 眠りからさめ(ローマ一三・一一)、目をさまし続けなさい。そうでなければ、あなたが神の光と神のいのちから、ますます遠く離れていく(エペソ四・一八)ほかには、何も期待できません。

(六) 自分を最も十分に、最も公平に調べたとします。それでも、今、霊の怠惰にも、ほかのどんな内なる罪や外の罪にも身をゆだねていることが見分けられないとします。そうなら、過ぎ去った時を思い起こしなさい。以前のあなたの気質と言葉と行いを考えてみなさい。それらは、主の前に正しかったでしょうか。自分の部屋で主と語り合い、静まりなさい。そして、あなたの心の底を試し、これまでに主の栄光の目をおかした(イザヤ三・八)ことを何でも思い出させてくださるように、主に願いなさい。悔い改めていない罪の罪責が、何かあなたの魂に残っているとします。そうなら、あなたはやみの中にとどまるほかありません。悔い改めによって新たにされ、「罪と汚れとを清める」ために「開かれ」た「泉」(ゼカリヤ一三・一)で、信仰によって再び洗われるまでは、そうなのです。

(七) 病の原因が罪ではなく無知であるなら、治療の仕方はまったく違ってきます。それは、聖書の意味についての無知かもしれません。おそらく、無知な注解者たちによって引き起こされた無知です。その注解者たちは、ほかの点ではどれほど物知りで学識があっても、少なくともこの点では無知なのです。この場合には、無知から生じるやみを取り除くには、まずその無知を取り除かなければなりません。誤解されてきた聖句の本当の意味を示さなければなりません。この目的のために持ち出されてきた聖書の箇所をすべて考察することは、この説教のねらいからして、私にはできません。しばしば持ち出される箇所を、二つか三つだけ挙げることにします。すべての信者が遅かれ早かれ「暗い中を歩」かなければならない(イザヤ五〇・一〇)ことを証明するために、持ち出される箇所です。

(八) その一つは、イザヤ書五〇章一〇節です。「あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれですか」。けれども、ここで語られている人は、かつて光を持っていたのでしょうか。それが、この聖句からであれ前後の文脈からであれ、どうして分かるでしょうか。罪を自覚した人は、「主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い」ます(イザヤ五〇・一〇)。そして、その人の魂がまだ暗く、神の御顔の光を一度も見たことがないとします。それでも、私たちはその人に、「主の名を頼み、おのれの神にたよる」(イザヤ五〇・一〇)ように勧めるべきです。ですから、この聖句は、キリストを信じる者が、ときには「暗い中を歩」かなければならない(イザヤ五〇・一〇)、ということを、少しも証明していません。

(九) 同じ教理を語っていると考えられてきたもう一つの聖句は、ホセア書二章一四節です。「わたしは彼女をいざなって、荒野に導いて行き、ねんごろに彼女に語ります」。ここから、神はすべての信者を荒野に、すなわち死んだような、暗い状態に導かれるのだ、と推論されてきました。けれども、この聖句がそのようなことを何も語っていないのは確かです。この聖句は、そもそも個々の信者について語っているようには見えないからです。この聖句は、明らかにユダヤの民を指しています。おそらく、ユダヤの民だけを指しているのでしょう。けれども、もし個々の人に当てはまるとしても、その分かりやすい意味は、こうです。わたしは愛によってその人を引き寄せ、次にその人に罪を自覚させ、それから赦しのあわれみによってその人を慰めます。

(一〇) 同じ推論が引き出されてきた第三の聖句は、先に引いた次の聖句です。「あなたがたにも今は不安があります。しかし、わたしは再びあなたがたと会うでしょう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるでしょう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいません」(ヨハネ一六・二二)。この聖句には、次のことが含まれていると考えられてきました。神は、しばらくすると、すべての信者から身を引かれる、と。そして、信者は、このように悲しんだあとでなければ、だれも取り去ることのできない喜びを持つことはできない、と。けれども、前後の文脈の全体が示しているのは、次のことです。私たちの主は、ここで使徒たちに、ほかのだれでもなく使徒たちだけに、直接語っておられるのです。そして、主は、あの特定の出来事、すなわちご自身の死と復活について語っておられるのです。主は言われます。「しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなります」(ヨハネ一六・一六)。すなわち、わたしが墓の中にいる間です。「またしばらくすれば、わたしに会えるでしょう」(ヨハネ一六・一六)。わたしが死人の中からよみがえったときです。「あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶでしょう」(ヨハネ一六・二〇)。「その憂いは喜びに変るでしょう」(ヨハネ一六・二〇)。「あなたがたにも今は不安があります」。わたしが、あなたがたの上から取り去られようとしているからです。「しかし、わたしは再びあなたがたと会うでしょう」。わたしの復活のあとにです。「そして、あなたがたの心は喜びに満たされるでしょう。その喜び」、すなわち、そのときわたしがあなたがたに与える喜び「をあなたがたから取り去る者はいません」(ヨハネ一六・二二)。私たちが知っているとおり、これはすべて、使徒たちという特別な場合に、文字どおり成就しました。けれども、ここから、信者一般に対する神の扱いについて、何の推論も引き出すことはできません。

(一一) 同じ教理の証拠としてしばしば引かれてきた第四の聖句は(これ以上は挙げないことにします)、第一ペテロ四章一二節です。「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を」、「驚きあやしむ」ことのないようにしなさい(第一ペテロ四・一二)。けれども、この聖句は、前の聖句とまったく同じほど、論点からはずれています。この聖句を文字どおりに訳すと、こうなります。「愛する者たちよ。あなたがたの間にある燃える火を、驚きあやしんではなりません。それは、あなたがたを試みるためのものです」(第一ペテロ四・一二)。さて、この聖句は、二次的な意味では、内なる試練に当てはめることもできるでしょう。けれども、第一には、疑いなく殉教と、それに伴う苦しみを指しています。ですから、この聖句も、それが引かれる目的には、まったく役に立ちません。そして、私たちは、すべての人に挑むことができます。旧約からであれ新約からであれ、この聖句よりも少しでも目的にかなう聖句を、一つでも持ってきなさい、と。

(一二) 「しかし、やみは光よりも、魂にとってはるかに益になるのではないか。心のうちにおける神のわざは、内なる苦しみの状態にあるときに、最も速やかに、最も効果的に進められるのではないか。信者は、喜びによってよりも悲しみによって、もっと速やかに、もっと徹底的に清められるのではないか。絶えざる平安によってよりも、もだえと痛みと苦悩と霊の殉教によって、清められるのではないか」。神秘主義者たちは、そう教えます。彼らの書物には、そう書かれています。けれども、神の言(ローマ三・二)には、そう書かれていません。神が離れておられることが、心のうちにおける神のわざを最もよく完成させるなどとは、聖書はどこにも言っていません。むしろ、神がともにいてくださること、父と御子との澄みきった交わり(第一ヨハネ一・三)こそが、神のわざを完成させるのです。このことを強く自覚するなら、それは一時間のうちに、神が長い年月離れておられることよりも多くのことをなしとげるでしょう。聖霊における喜びは、その喜びがないことよりも、はるかに効果的に魂を清めます。そして、神の平安は、魂を練って、地上の情愛のかすを取り除くための、最もよい手段です。それなら、むなしい思い込みは捨ててしまいなさい。神の国が内部で分れ争っている(マタイ一二・二五)という思い込みです。神の平安と聖霊における喜びが、義を妨げるという思い込みです。私たちが救われるのは、信仰によってではなく不信仰によってであり、望みによってではなく絶望によってであるという思い込みです!

(一三) 人々がこのように夢見ている限り、彼らが「暗い中を歩」く(イザヤ五〇・一〇)のも無理はありません。原因が取り除かれるまでは、結果がやむこともありえません。けれども、原因がなくなったときでさえ、結果がすぐにやむと思ってはなりません。無知か罪がやみを引き起こしたとします。その一方が取り除かれても、それによってさえぎられていた光は、すぐには戻ってこないかもしれません。光は神の価なしの賜物なので、神はみこころのままに、早くにでも遅くにでも、それを戻すことがおできになります。罪の場合には、光がすぐに戻ってくると期待するのは、道理にかないません。罪は罰より先に始まりました。ですから、罰が罪の終わったあとまで残ることがあっても、当然なのです。そして、自然の成り行きにおいてさえ、矢が肉に刺さっている間は、傷がいえることはありえません。けれども、矢が抜き取られたとたんに傷がいえるわけでもありません。そのあと長く、うずきと痛みが残ることもあるのです。

(一四) 最後に、やみが、さまざまな、重い、予期しない誘惑によって引き起こされているとします。そうなら、それを取り除き、防ぐ最もよい方法は、信者に、いつも誘惑を予期しているように教えることです。信者は、悪い世の中に、邪悪で、ずる賢く、悪意に満ちた霊どもの間に住んでおり、あらゆる悪をなしうる心を持っているからです。聖化のわざの全体が、彼らが思っていたように一度になされるのではないことを、彼らに納得させなさい。彼らが初めて信じるときには、今生れたばかりの乳飲み子(第一ペテロ二・二)のようなものにすぎないことを、納得させなさい。乳飲み子は徐々に成長していくべきものであり、キリストの満ちみちた徳の高さ(エペソ四・一三)に達するまでには、多くの嵐を予期してよいのです。何よりも、嵐が襲ってきたときには、悪魔と論じ合わずに祈るように、彼らを教えなさい。神の前に魂を注ぎ出し、神の前に自分の悩みをあらわす(詩篇一四二・二)ように教えなさい。そして、尊く、大いなる約束(第二ペテロ一・四)を当てはめるべきなのは、おもにこの人々に対してです。無知な人々には、その無知が取り除かれるまでは当てはめるべきではありません。まして、悔い改めない罪人に当てはめるべきではありません。この人々には、私たちの救主なる神の慈悲(テトス三・四)を、ふんだんに、心をこめて告げ知らせてよいのです。いにしえから絶えることのなかった神のあわれみ(詩篇二五・六)について、詳しく語ってよいのです。ここで私たちは、神の真実について、じっくり語ってよいのです。神の言葉は「まことに確か」です(詩篇一一九・一四〇)。また、「すべての罪から」私たちを「きよめる」(第一ヨハネ一・七)ために、私たちのために流された血の力について、じっくり語ってよいのです。そのとき、神はご自分の言葉をあかしし、彼らの魂を悩みから救い出してくださるでしょう(詩篇一四三・一一)。神はこう言われるでしょう。「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったからです」(イザヤ六〇・一)。いや、あなたがへりくだって、神のすぐそばを歩むなら、その光は「いよいよ輝きを増して真昼となる」でしょう(箴言四・一八)。