説教四十五 新生
「あなたがたは新しく生れなければなりません」(ヨハネ三・七)
(一) キリスト教の全体の範囲の中で、根本的と呼ぶのがふさわしい教理があるとすれば、それは疑いなく次の二つです。義認の教理と、新生の教理です。前者は、神が私たちのためにしてくださる大きなわざにかかわります。私たちの罪を赦してくださるわざです。後者は、神が私たちのうちでしてくださる大きなわざにかかわります。私たちの堕落した本性を新しくしてくださるわざです。時の順序では、このどちらも、もう一方より先ではありません。私たちは、神の恵みにより、イエスによるあがないによって義とされる(ローマ三・二四)、その瞬間に、「霊から生れる」のでもあります(ヨハネ三・八)。けれども、いわゆる思考の順序では、義認が新生に先立ちます。私たちはまず、神の怒りが取り去られたと考え、それから、神の御霊が私たちの心のうちに働かれると考えるのです。
(二) ですから、これらの根本的な教理を徹底して理解することは、人の子のだれにとっても、何と大切なことでしょう。多くのすぐれた人々が、このことを十分に確信して、義認について非常に詳しく書いてきました。義認にかかわるあらゆる点を説明し、義認を扱う聖書の箇所を解き明かしてきたのです。同じように、新生について書いた人々も多くいます。そのうちのある人々は、かなり詳しく書いています。けれども、望まれるほど明快にではなく、それほど深く正確にでもありませんでした。その人々は、新生について、暗くて難解な説明をしたか、軽くて表面的な説明をしたかのどちらかだったのです。ですから、新生について、十分で、しかも同時に明快な説明が、まだ欠けているように思われます。それは、次の三つの問いに満足のいく答えを与えられるような説明です。第一に、なぜ私たちは新しく生れなければならないのか。この新生の教理の根拠は何か。第二に、どのようにして私たちは新しく生れなければならないのか。新生の本質は何か。第三に、何のために私たちは新しく生れなければならないのか。新生はどんな目的のために必要なのか。これらの問いに、私は神の助けによって、手短に分かりやすく答えます。そのあとで、そこから自然に出てくるいくつかの推論を付け加えます。
【一】 なぜ新しく生れなければならないのか
(一) 第一に、なぜ私たちは新しく生れなければならないのでしょうか。この教理の根拠は何でしょうか。その根拠は、ほとんど世界の創造と同じほど深いところにあります。世界の創造についての聖書の記事に、こうあります。「神は」、すなわち三位一体の神は、「また言われ」ました。「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造」ろう、と。「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し」ました(創世記一・二六〜二七)。人は、ただ神の自然のかたちに造られただけではありません。それは、神ご自身の不死を写した姿であり、悟りと意志の自由とさまざまな情愛とを授けられた、霊的な存在であることです。また、ただ神の統治のかたちに造られただけでもありません。それは、この下界を治める者として、「海の魚」と全地とを「治め」る(創世記一・二六)ことです。人は、何よりも神の道徳的なかたちに造られたのです。使徒によれば、それは「真の義と聖と」です(エペソ四・二四)。人は、この神のかたちに造られました。「神は愛です」(第一ヨハネ四・八)。それで、造られたときの人は、愛に満ちていました。その愛が、人のすべての気質、思い、言葉、行いの、ただ一つの源でした。神は、正義とあわれみと真実に満ちておられます。造り主の手から出たばかりの人も、そうでした。神は、しみ一つない清さです。そのように、人も初めは、罪のどんな汚れからも清かったのです。そうでなければ、神は、ご自分の手のほかのすべてのわざとともに、人をも「はなはだ良」いと宣言することはできなかったでしょう(創世記一・三一)。人が罪から清く、真の義と聖と(エペソ四・二四)に満たされていなかったなら、人がはなはだ良い者であることはありえなかったはずです。そこに中間はないからです。知性ある被造物が神を愛さず、義でも聖でもないとします。それなら、必然的に、その被造物はまったく良くないとせざるをえません。まして、「はなはだ良」いはずがありません(創世記一・三一)。
(二) けれども、人は神のかたちに造られたとはいえ、変わることのない者として造られたのではありません。そうであれば、神が人を置くことをよしとされた試練の状態と、相いれなかったでしょう。ですから、人は、立ち続けることができる者として造られ、しかも倒れうる者として造られたのです。そして、神ご自身がこのことを人に知らせ、倒れないようにおごそかに警告されました。それにもかかわらず、人は栄華のうちにとどまりませんでした(詩篇四九・一二)。高い身分から落ちたのです。人は、主が「食べるな」と命じられた「木から取って食べた」のです(創世記三・一七)。人は、造り主に対するこの故意の不従順の行いによって、主権者に対するこのあからさまな反逆によって、公然と宣言しました。もはや神に自分を治めてもらうつもりはない、と。自分を造った方の意志ではなく、自分の意志によって治められるつもりだ、と宣言したのです。また、自分の幸いを、神のうちにではなく、世のうちに、神の手のわざのうちに求めるつもりだ、と宣言したのです。さて、神は前もって人に、その実を食べるその日に、「きっと死ぬであろう」と告げておられました(創世記二・一七)。そして、主の言葉が破られることはありえません。そのとおり、その日に人は死にました。神に対して死んだのです。それは、あらゆる死のうちで最も恐ろしい死です。人は、神のいのちを失いました。神から切り離されたのです。人の霊的ないのちは、神と結ばれていることにありました。からだは、魂から切り離されるときに死にます。魂は、神から切り離されるときに死にます。そして、アダムは、禁じられた実を食べたまさにその日、その時刻に、神からのこの切り離しをこうむったのです。アダムは、このことの証拠をすぐに示しました。神への愛が自分の魂のうちで消えてしまったことを、ただちに行動で示したのです。その魂は、今や「神のいのちから遠く離れ」ていました(エペソ四・一八)。神への愛の代りに、アダムは今や奴隷のような恐れの力の下にありました。そのため、主の前から逃げたのです。いや、アダムは、天と地とに満ちておられる方(エレミヤ二三・二四)についての知識さえ、ほとんど持ち続けていませんでした。そのため、「主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠」そうとしたのです(創世記三・八)。こうして、アダムは、神を知る知識も神への愛も失いました。それなしには、神のかたちは保たれません。ですから、アダムは同時に神のかたちを奪われ、幸いでない者となっただけでなく、聖くない者ともなったのです。神のかたちの代りに、アダムは高ぶりと我意に沈みました。それは、まさに悪魔のかたちです。また、肉の欲求と欲望に沈みました。それは、滅びうせる獣(詩篇四九・一二)のかたちです。
(三) こう言う人がいるとします。「いや、しかし、それを食べるその日に、『きっと死ぬであろう』というあの警告(創世記二・一七)は、この世の死を指しているのだ。それだけを、からだの死だけを指しているのだ」。答えは明らかです。こう断言することは、あからさまに、明白に、神を偽り者とすることです(第一ヨハネ五・一〇)。真実の神が、真実に反することをはっきり断言されたと言い張ることです。アダムが、この意味では、それを食べたその日に死ななかったことは、明らかだからです。この死と反対の意味では、アダムはその後、九百年以上も生きました。ですから、神の真実を疑うのでなければ、これをからだの死と解することは、とうていできません。したがって、これは霊的な死、すなわち神のいのちと神のかたちを失うことと解さなければなりません。
(四) そして、アダムにあってすべての人が死にました(第一コリント一五・二二)。全人類が、すなわち、そのときアダムの腰にあった人の子らがみな、死んだのです。その当然の結果として、アダムから出た者はだれでも、霊的に死んだ者としてこの世に来ます。神に対して死に、罪のうちにまったく死んだ者として来るのです。その者は、神のいのちをまったく欠き、神のかたちを欠いています。アダムが造られたときに備えていた、あの義と聖性のすべてを欠いているのです。その代りに、この世に生れるすべての人は、今や高ぶりと我意において悪魔のかたちを帯びています。肉の欲求と欲望においては、獣のかたちを帯びています。ですから、これが新生の根拠です。すなわち、私たちの本性がまったく腐敗していることです。ここから、罪のうちに生れた私たちは、「新しく生れなければならない」のです(ヨハネ三・七)。ここから、女から生れる者(ヨブ一四・一)はだれでも、神の御霊から生れなければならないのです。
【二】 どのようにして新しく生れなければならないのか
(一) けれども、人はどのようにして新しく生れなければならないのでしょうか。新生の本質は何でしょうか。これが第二の問いです。そして、これは考えうる限り最も重大な問いです。ですから、これほど重い事柄において、軽く調べるだけで満足してはなりません。できる限りの注意を払ってそれを調べ、心の中で思いめぐらさなければなりません。この大切な点を十分に理解し、どのようにして新しく生れるのかをはっきり見るまで、そうしなければなりません。
(二) といっても、これがどのようにしてなされるのか、その仕方について、細かい哲学的な説明を期待してよいわけではありません。私たちの主は、聖句のすぐあとに続く言葉によって、そうした期待をいだかないように、十分に私たちを戒めておられます。主はそこで、ニコデモに一つの事実を思い起こさせておられます。それは、自然界の全体の中のどの事実にも劣らず、議論の余地のない事実です。それなのに、日の下で最も賢い人でさえ、それを十分に説明することはできないのです。「風は思いのままに吹」きます(ヨハネ三・八)。あなたの力や知恵によって吹くのではありません。「あなたはその音を聞」きます(ヨハネ三・八)。あなたは、風が吹いていることを、まったく疑いなく、絶対に確信しています。けれども、「それがどこからきて、どこへ行くかは知」りません(ヨハネ三・八)。風がどのように始まり、どのように終わり、どのように起こり、どのように静まるのか、その正確な仕方は、だれにも分かりません。「霊から生れる者もみな、それと同じ」です(ヨハネ三・八)。あなたは、風が吹いていることと同じく、この事実をも絶対に確信することができます。けれども、それがどのようにしてなされるのか、聖霊がどのようにして魂のうちにこれを行われるのか、その正確な仕方は説明できません。あなたにも、人の子らのうちで最も賢い者にも、説明することはできないのです。
(三) けれども、好奇心による細かい詮索に立ち入らなくても、新生の本質について、聖書に基づく分かりやすい説明を与えることはできます。理性にかなうどんな目的にも、キリスト教のどんな目的にも、それで十分です。ただ自分の魂の救いだけを願う、道理をわきまえた人なら、だれでもこれで満足するでしょう。「新しく生れる」(ヨハネ三・三)という表現は、私たちの主がニコデモとの会話で初めて用いられたのではありません。それ以前からよく知られており、私たちの救い主がユダヤ人の間に現れたころには、彼らの間で普通に用いられていました。大人の異教徒が、ユダヤ教は神から出たものだと確信し、それに加わりたいと願うようになると、割礼を許す前に、まずその人にバプテスマを施すのが習わしでした。そして、その人はバプテスマを受けると、新しく生れたと言われました。それによって彼らが意味したのは、次のことでした。以前は悪魔の子であった者が、今や神の家族の中に養子として迎えられ、神の子の一人に数えられた、ということです。ですから、私たちの主は、ニコデモと語り合う中で、この表現を用いられます。それは、「イスラエルの教師」(ヨハネ三・一〇)であるニコデモが、よく理解していてしかるべき表現でした。ただ、主は、ニコデモが慣れていたよりも強い意味で用いられるのです。そして、ニコデモが「どうして、そんなことがあり得ましょうか」(ヨハネ三・九)と尋ねた理由は、これだったのかもしれません。そういうことは、文字どおりにはありえません。人は、「もう一度、母の胎にはいって生れる」ことはできません(ヨハネ三・四)。けれども、霊的にはありえます。人は、上から生れ、神から生れ、霊から生れることができるのです。その生れ方は、肉体の誕生にきわめてよく似ています。
(四) 子供は、この世に生れる前には、目があっても見えず、耳があっても聞えません。ほかのどの感覚も、きわめて不完全にしか使えません。世のどんな事柄についても知識がなく、自然の悟りも少しも持っていません。その子がそのときに持っているあり方を、私たちは、いのちと呼ぶことさえしません。人が生れたときに初めて、私たちは、その人が生き始めると言うのです。生れるとすぐに、その子は光を見始め、自分を取り巻くさまざまなものを見始めるからです。そのとき、その子の耳は開かれ、次々に耳を打つ音を聞きます。同時に、ほかのすべての感覚器官も、それぞれにふさわしい対象に向かって働き始めます。また、その子は呼吸をし、以前とはまったく違うあり方で生きるのです。これらのすべての点で、霊のことは、何とぴったりとこれに対応していることでしょう。人が、ただ生れながらの状態にあって、まだ神から生れていない間は、霊的な意味で、目があっても見えません(マルコ八・一八)。その目には、厚くて見通せないおおいがかかっています。耳があっても聞えません。何よりも聞く必要のあることに、まったく耳が聞えないのです。ほかの霊の感覚も、みな閉ざされています。その人は、それらを持っていないのと同じ状態にあります。ですから、その人は神を知りません。神との交わりもありません。神とまったく面識がないのです。神の事柄について、霊的な事柄についても永遠の事柄についても、本当の知識を持っていません。ですから、その人は、生きた人間ではあっても、死んだクリスチャンなのです。けれども、神から生れるやいなや、これらのすべての点で、まったくの変化が起こります。その人の「心の目」は「明らかに」されます(エペソ一・一八)。これは、偉大な使徒の言い方です。そして、昔「『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神」が、その人の「心を照して」くださいます。その人は、「キリストの顔に輝く神の栄光」の光、すなわち神の栄光ある愛を見るのです(第二コリント四・六)。その人は耳が開かれたので、今や神の内なる声を聞くことができます。その声は言います。「しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのです」(マタイ九・二)。「お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」(ヨハネ八・一一)。これが、神がその人の心に語られることの趣旨です。もっとも、おそらく、まさにこの言葉どおりではないでしょうが。その人は今、人に知識を教える方(詩篇九四・一〇)が折にふれて示そうとされることを、何でも聞く用意ができています。私たちの教会の言葉を用いれば、その人は「神の御霊の力強い働きを心のうちに感じ」ます。それは、世の人々がこの表現を愚かに、また故意に誤解しているような、粗野で肉的な意味においてではありません。彼らは何度も何度も聞かされてきたのですが、私たちがこの表現で意味しているのは、それ以上でもそれ以下でもなく、次のことです。その人は、神の御霊が自分の心のうちに働かせてくださる恵みを感じます。内側で、はっきりと感じ取るのです。その人は、「人知ではとうてい測り知ることのできない」平安を感じ、自覚します(ピリピ四・七)。その人は、しばしば、神にある喜びを感じます。それは、「言葉につくせない、輝きにみちた」喜びです(第一ペテロ一・八)。その人は、自分に「賜わっている聖霊によって、神の愛が」自分の「心に注がれて」いるのを感じます(ローマ五・五)。そのとき、その人の霊の感覚はすべて働かされて、霊的な善悪を見わけるようになります(ヘブル五・一四)。これらの感覚を用いることによって、その人は日々、知識を増し加えていきます。神を知る知識、神がつかわされたイエス・キリスト(ヨハネ一七・三)を知る知識、神の内なる国にかかわるすべての事柄を知る知識です。そして今こそ、その人は生きていると言うのがふさわしいのです。神が御霊によってその人を生かしてくださったので、その人は、イエス・キリストによって神に生きています(ローマ六・一一)。その人は、世の知らないいのちを生きています。「キリストと共に神のうちに隠されている」いのちです(コロサイ三・三)。神は、いわば絶えず魂に息を吹きかけておられ、その人の魂は神に向かって息をしています。恵みはその人の心に下り、祈りと賛美は天に上ります。そして、神と人とのこの交わり、すなわち父と御子との交わり(第一ヨハネ一・三)によって、魂のうちにある神のいのちが保たれます。それは、一種の霊的な呼吸のようなものです。そして、神の子は成長し、ついに「キリストの満ちみちた徳の高さにまで」至るのです(エペソ四・一三)。
(五) ここから、新生の本質が何であるかは明らかです。新生とは、神が魂をいのちへと導き入れられるときに、魂のうちに起こされるあの大きな変化です。神が魂を、罪の死から義のいのちへとよみがえらせられるときの変化です。それは、魂が新たに「キリスト・イエスにあって造られ」るとき(エペソ二・一〇)、全能の神の御霊によって魂全体に起こされる変化です。また、魂が神の「かたちに従って新しくされ」(コロサイ三・一〇)、「真の義と聖と」をそなえる(エペソ四・二四)ときの変化です。世への愛が神への愛に変えられ、高ぶりがへりくだりに、激情が柔和に変えられるときの変化です。憎しみ、ねたみ、悪意が、すべての人への、真実で、優しく、私心のない愛に変えられるときの変化です。一言で言えば、新生とは、地につき、肉に属し、悪魔的な心(ヤコブ三・一五)が、キリスト・イエスのうちにあった思い(ピリピ二・五)に変えられる変化です。これが新生の本質です。「霊から生れる者もみな、それと同じ」です(ヨハネ三・八)。
【三】 何のために新しく生れなければならないのか
(一) これらのことをよく考えた人なら、だれでも、新生の必要をたやすく見て取ることができるでしょう。そして、第三の問いに答えることもたやすいでしょう。何のために、どんな目的のために、私たちは新しく生れる必要があるのか、という問いです。新生が、第一に、聖性のために必要であることは、ごくたやすく見分けられます。というのも、神の言(ローマ三・二)によれば、聖性とは何でしょうか。それは、ただの外面的な宗教ではありません。外面的な務めを型どおりにくり返すことでもありません。その務めがどれほど多く、どれほど正確に果たされても、そうです。そうではありません。福音の聖性とは、心に刻みつけられた神のかたちにほかなりません。キリスト・イエスのうちにあった思いのすべて(ピリピ二・五)にほかなりません。それは、あらゆる天的な情愛と気質とが、混じり合って一つになったものです。聖性には、私たちのために御子を、ひとり子をさえ惜しまれなかった方(ローマ八・三二)への、絶えざる感謝の愛が含まれます。その愛は、人の子のだれをも愛することを、私たちにとって自然なことにし、いわば必然のことにします。また、その愛は、私たちを「あわれみの心、慈愛」、「柔和、寛容」で満たします(コロサイ三・一二)。それは、あらゆるふるまいにおいて、責められるところのない者であるように、私たちに教える神への愛です。また、それは、私たちの魂とからだを、絶えざる供え物として神にささげさせる愛です。私たちのあるがままのすべてと持てるもののすべてを、私たちのすべての思いと言葉と行いを、ささげさせるのです。その供え物は、キリスト・イエスによって神に喜ばれるものです。さて、この聖性は、私たちが心の深みまで新たにされる(エペソ四・二三)までは、存在することができません。あの変化が起こされるまでは、聖性は魂のうちに始まることができません。その変化は、いと高き者の力が私たちをおおう(ルカ一・三五)ことによって起こります。私たちが「やみから光へ」、サタンの支配から「神のみもとへ帰」らされる(使徒二六・一八)までは、聖性は始まることができないのです。すなわち、私たちが新しく生れるまでは、始まることができません。ですから、新生は、聖性のためにどうしても必要なのです。
(二) ところで、「きよくならなければ、だれも主を見ることはできません」(ヘブル一二・一四)。栄光のうちに神の御顔を見ることはできないのです。したがって、新生は、永遠の救いのためにどうしても必要です。確かに、人々は都合よく考えるかもしれません。自分は最後の息を引き取るまで罪のうちに生きても、そのあとで神とともに生きることができる、と。人の心は、それほどまでに偽るもので、はなはだしく悪に染まっているのです(エレミヤ一七・九)。そして、何千という人々が、滅びにいたらない広い道を見つけたと、本当に信じています。彼らは言います。「これほど人を害さず、これほど徳の高い女に、何の危険があるだろうか。これほど正直な男、これほど品行の厳格な人が、天国に入りそこねる心配がどこにあるだろうか。特に、そのすべてに加えて、いつも教会と聖餐に通っているなら、なおさらだ」。そういう人のひとりは、自信たっぷりに尋ねるでしょう。「何だって! 私が隣人たちと同じくらいうまくいかないとでも言うのか」。そうです、あなたの聖くない隣人たちと同じくらいには、うまくいくでしょう。罪のうちに死ぬ隣人たちと同じくらいには、うまくいくでしょう。あなたがたはみな、いっしょに穴に、いちばん深い地獄に落ちるからです! あなたがたはみな、いっしょに火の池に横たわるのです。「硫黄の燃えている火の池」にです(黙示録一九・二〇)。そのとき、ついにあなたは、栄光にいたるためには聖性が必要であること、したがって新生が必要であることを悟るでしょう(どうか神が、その前に悟らせてくださいますように)。新しく生れなければ、だれも聖くなることはできないからです。
(三) 同じ理由で、新しく生れなければ、だれもこの世においてさえ幸いになることはできません。聖くない人が幸いであることは、ものごとの本性上、ありえないからです。あのあわれな、不信心な詩人でさえ、こう言うことができました。Nemo malus felix. (悪人はだれも幸いでない)その理由は明らかです。聖くない気質は、どれも安らかでない気質だからです。悪意、憎しみ、ねたみ、嫉妬、復讐心が、胸のうちに今ここで地獄をつくり出すだけではありません。もっと穏やかな情念でさえ、しかるべき限度のうちに保たれなければ、喜びの千倍もの苦しみを与えます。望みでさえ、「望みを得ることが長びくときは、心を悩ま」します(箴言一三・一二)。そういうことは、どれほどたびたび起こらざるをえないことでしょう。また、神の御旨にかなわない願いは、どれも、私たちを「多くの苦痛をもって」「刺しとお」しかねません(第一テモテ六・一〇)。そして、罪のあの一般的な源、すなわち高ぶりと我意と偶像礼拝は、それがはびこるのに比例して、悲惨の一般的な源となります。ですから、これらがどんな魂のうちでも支配している限り、そこに幸いの場所はありません。けれども、私たちの本性の傾きが変えられるまで、すなわち私たちが新しく生れるまでは、これらは支配し続けるほかありません。したがって、新生は、来るべき世での幸いのためだけでなく、この世での幸いのためにも、どうしても必要なのです。
【四】 いくつかの推論
最後に、私は、これまで述べたことから自然に出てくるいくつかの推論を、付け加えることにしていました。
(一) 第一に、バプテスマは新生ではない、ということになります。この二つは、一つの同じものではありません。確かに、多くの人は、この二つはまったく同じだと思いこんでいるようです。少なくとも、そう考えているかのように語ります。けれども、どんなクリスチャンの教派であれ、この意見を公に表明しているとは、私は聞いていません。少なくとも、この国々のどの教派も表明していないのは確かです。国教会であれ、国教会から分かれた教派であれ、そうです。後者の判断は、大教理問答の中ではっきりと宣言されています。「問 聖礼典の部分は何ですか。答 聖礼典の部分は二つです。一つは、外に見え、感覚でとらえられるしるしです。もう一つは、そのしるしによって表される、内なる霊的な恵みです。問 バプテスマとは何ですか。答 バプテスマは聖礼典です。キリストはそこで、水で洗うことを、御霊による再生のしるしと証印とするように定められました」(ウェストミンスター大教理問答 問一六三、一六五)。ここでは明らかに、しるしであるバプテスマが、しるしによって表されるものである再生とは別のものとして語られています。
同じように、教会の教理問答でも、私たちの教会の判断が、このうえなくはっきりと宣言されています。「問 聖礼典というこの言葉で、あなたは何を意味しますか。答 内なる霊的な恵みの、外なる目に見えるしるしを意味します。問 バプテスマの外の部分、すなわち形は何ですか。答 水です。人はその水で、父と子と聖霊との名によってバプテスマを受けます。問 内の部分、すなわち、しるしによって表されるものは何ですか。答 罪に対して死に、義に対して新しく生れることです」(祈祷書「教理問答」)。ですから、英国国教会によれば、バプテスマは新生ではありません。これほど明らかなことはないのです。
けれども、実のところ、事柄の道理がきわめて明らかなので、ほかのどんな権威も必要ありません。というのも、一方は目に見えるもの、もう一方は目に見えないものであり、したがって互いにまったく違うものだからです。これほど明らかなことがあるでしょうか。一方は、からだを清める人の行為です。もう一方は、神が魂のうちに起こされる変化です。ですから、前者は後者から、魂がからだから、また水が聖霊から区別されるのとまったく同じように、区別されるのです。
(二) 第二に、これまで考えてきたことから、次のことに気づきます。新生はバプテスマと同じものではないのと同じく、いつもバプテスマに伴うわけでもありません。この二つは、常にいっしょに起こるわけではないのです。人は、「水」から生れても(ヨハネ三・五)、「霊から生れ」ていない(ヨハネ三・六)ことがありえます。内なる恵みがないところに、外のしるしがあることも、ときにはありうるのです。ここで私は、幼児のことを言っているのではありません。確かに、私たちの教会は、幼いときにバプテスマを受ける者はみな、同時に新しく生れると考えています。そして、祈祷書の「幼児洗礼式」全体が、この考えに基づいて進められていることも認められています。また、このわざがどのようにして幼児のうちに起こされうるのか、私たちには理解できません。けれども、それは、これに反対する重みのある理由にはなりません。私たちは、このわざがどのようにして大人のうちに起こされるのかも、理解できないからです。けれども、幼児の場合はどうであれ、バプテスマを受ける大人が、みな同時に新しく生れるわけではないことは確かです。「木はその実でわかります」(マタイ一二・三三)。そして、これによって、否定できないほど明らかになります。バプテスマを受ける前に悪魔の子であった人々のうちの少なからぬ者が、バプテスマのあとも同じままでいるのです。彼らは、自分たちの「父のわざを行って」いるからです(ヨハネ八・四一)。彼らは、内の聖性も外の聖性も装うことさえせずに、罪の僕であり続けます。
(三) これまで述べたことから引き出せる第三の推論は、新生は聖化と同じではない、ということです。確かに、多くの人々は、両者が同じであることを当然のこととしています。特に、ある著名な著者は、近ごろの論文『キリスト教的再生の本質と根拠』の中で、そうしています。その小論に対して出しうる、ほかのいくつかの重大な反論はさておき、次の一つは明白な反論です。その小論は、終始、再生を、少しずつ進んでいくわざとして語っています。私たちが初めて神に立ち返ったときから、魂のうちでゆっくりと段階を追って進められるわざとして語るのです。このことは、聖化については否定できないほど真実です。けれども、再生、すなわち新生については、真実ではありません。新生は、聖化の一部であって、全体ではありません。聖化への門であり、聖化への入口です。私たちが新しく生れるとき、そのときに私たちの聖化、すなわち私たちの内と外の聖性が始まります。そしてそれ以後、私たちは、私たちのかしらである方にあって、徐々に「成長し」ていくのです(エペソ四・一五)。使徒のこの表現は、両者の違いをみごとに説き明かしています。さらに、自然の事柄と霊的な事柄との間にある、正確な類比をも指し示しています。子供は、女から一瞬のうちに、あるいは少なくともごく短い時間のうちに生れます。そのあとで、徐々にゆっくりと成長し、ついに大人の背丈に達します。同じように、神の子は、一瞬のうちにではないとしても、短い時間のうちに神から生れます。けれども、そのあとでキリストの満ちみちた徳の高さにまで(エペソ四・一三)成長するのは、ゆっくりと段階を追ってなのです。ですから、私たちの肉体の誕生と成長との間にあるのと同じ関係が、私たちの新生と聖化との間にもあるのです。
(四) これまで述べたことから、もう一つの点を学ぶことができます。それは、とても重要な点なので、ほかよりも注意深く考え、いくらか長く論じても許されるでしょう。人々の魂を愛し、そのだれかが滅びることを悲しむ人がいるとします。その人が、安息日を破り、酒に酔い、あるいはほかの故意の罪のうちに生きている人を見たとします。その相手に、何と言うべきでしょうか。これまで述べたことが真実なら、その人は相手に、あなたは「新しく生れなければならない」(ヨハネ三・七)と言うほかに、何が言えるでしょうか。ある熱心な人は言います。「いや、そんなことはありえない。どうしてその人に、そんなに愛のない話し方ができるのか。その人は、もうバプテスマを受けているではないか。今さら新しく生れることはできない」。その人は、新しく生れることができないのですか。あなたはそう断言するのですか。それなら、その人は救われることができません。たとえその人がニコデモと同じほど年をとっていても、「新しく生れなければ、神の国を見ることはでき」ません(ヨハネ三・三)。ですから、あなたは、「その人は新しく生れることができない」と言うことで、事実上、その人を滅びに引き渡しているのです。では、愛がないのは、今どちらでしょうか。私の側でしょうか、あなたの側でしょうか。私は言います。その人は新しく生れることができ、そうして救いを受け継ぐ者(ヘブル一・一四)となることができる、と。あなたは、「その人は新しく生れることができない」と言います。もしそうなら、その人は必ず滅びるほかありません。こうしてあなたは、その人の救いへの道をすっかりふさぎ、まったくの愛から、その人を地獄に送るのです!
けれども、私たちは、本当の愛から、罪人その人に、あなたは「新しく生れなければならない」(ヨハネ三・七)と言います。ところが、その罪人は、おそらく、こう言うように教えこまれているでしょう。「あなたの新しい教えなど知ったことか。私は新しく生れる必要などない。バプテスマを受けたときに新しく生れたのだ。何だって! 私に自分のバプテスマを否定しろと言うのか」。私は答えます。第一に、天の下には、うそを言い訳できるものは何一つありません。そうでなければ、私は公然と罪を犯している人に、こう言うでしょう。バプテスマを受けたのなら、それを認めてはなりません、と。というのも、それは、あなたの罪責をどれほど重くすることでしょう。あなたの受ける地獄の刑罰を、どれほど増し加えることでしょう。あなたは、生後八日で神にささげられたのに、この長い年月、自分を悪魔にささげてきたのですか。あなたは、理性を使えるようになる前から、父なる神と子と聖霊とに聖別されていたのですか。それなのに、理性を使えるようになってからずっと、神に公然と逆らい、自分をサタンのために聖別してきたのですか。「荒らす憎むべきもの」が、「立ってはならぬ所に立」っているのですか(マルコ一三・一四)。それは、世への愛、高ぶり、怒り、情欲、愚かな欲望、そして卑しい情愛の長い連なりです。あなたは、かつて聖霊の宮(第一コリント六・一九)であった魂のうちに、のろわれたものをすべて据えたのですか。その魂は、「霊なる神のすまい」(エペソ二・二二)として取り分けられ、いや、おごそかに神にささげられたものだったのです。それなのに、あなたは、かつて神のものであったことを誇るのですか。ああ、恥じなさい! 顔を赤らめなさい! 地に身を隠しなさい! あなたを混乱で満たし、神と人の前で恥じ入らせるはずのことを、二度と誇ってはなりません。私は答えます。第二に、あなたはすでに自分のバプテスマを否定しています。しかも、最も効果的なやり方で否定しているのです。あなたは、何千回、何万回とそれを否定してきました。そして、今も日ごとに否定しています。あなたは、バプテスマのとき、悪魔とそのすべてのわざとを捨てたからです。ですから、あなたが再び悪魔にすきを与えるときはいつでも、あなたは自分のバプテスマを否定しているのです。悪魔のわざのどれかを行うときはいつでも、否定しているのです。ですから、あなたは、故意の罪を犯すたびに、バプテスマを否定しています。汚れた行い、酔うこと、復讐をするたびに否定しています。みだらな言葉や神を汚す言葉を口にするたびに、口から誓いの言葉が出るたびに、否定しているのです。主の日を汚すたびに、あなたはそれによって自分のバプテスマを否定しています。いや、自分がしてほしくないことをほかの人にするたびに、否定しているのです。私は答えます。第三に、あなたがバプテスマを受けていても受けていなくても、あなたは「新しく生れなければならない」のです(ヨハネ三・七)。そうでなければ、あなたが内側から聖くなることはできません。そして、外の聖性だけでなく内の聖性もなければ、この世においてさえ幸いになることはできません。まして、来るべき世においては、なおさらです。あなたは、こう言うのですか。「いや、しかし、私はだれにも害を加えていない。すべての取引において正直で公正だ。のろいもしないし、主の名をみだりに唱えもしない(出エジプト二〇・七)。主の日を汚しもしない。酒に酔う者でもない。隣人を中傷もしないし、どんな故意の罪のうちにも生きていない」。もしそうなら、すべての人があなたと同じところまで進んでいればよいのにと、心から願わずにはいられません。けれども、あなたは、さらに先へ進まなければなりません。そうでなければ、救われることはできません。やはり、あなたは「新しく生れなければならない」のです(ヨハネ三・七)。あなたは、こう付け加えるのですか。「私は、さらに先へ進んでいる。害を加えないだけでなく、できる限りの善を行っているのだから」。私は、その事実を疑います。善を行う機会が何千回とあったのに、あなたはそれを生かさずに見過ごしてきたのではないかと思います。ですから、あなたはその機会について、神に申し開きをしなければなりません。けれども、もしあなたがそのすべてを生かしたとします。すべての人に対して、できる限りのすべての善を本当に行ったとします。それでも、事情は少しも変わりません。やはり、あなたは「新しく生れなければならない」のです(ヨハネ三・七)。新生がなければ、何をしても、あなたのあわれな、罪深い、汚れた魂のためにはなりません。「いや、しかし、私は神の定めのすべてに、いつも欠かさず出ている。教会と聖餐を守っている」。そうしているのは良いことです。けれども、新しく生れなければ、そのすべても、あなたを地獄から守りはしません。一日に二度、教会に行ってごらんなさい。毎週、主の食卓に行ってごらんなさい。ひとりで、いくらでも多くの祈りをささげ、いくらでも多くの良い説教を聞き、いくらでも多くの良い書物を読んでごらんなさい。それでも、あなたは「新しく生れなければならない」のです(ヨハネ三・七)。これらのどれも、新生の代りにはなりません。いや、天の下のどんなものも、新生の代りにはなりません。ですから、もしあなたが、神のこの内なるわざをまだ経験していないなら、これをあなたの絶えざる祈りとしなさい。「主よ、あなたのすべての祝福に、これを加えてください。私を新しく生れさせてください。何でもみこころのままに拒んでください。けれども、これだけは拒まないでください。私を上から生れさせてください。評判でも、財産でも、友でも、健康でも、あなたが良いと思われるものは何でも取り去ってください。ただ、これだけは与えてください。霊から生れ、神の子らの中に受けいれられることを与えてください。私を、『朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によ』って(第一ペテロ一・二三)生れさせてください。そして、日ごとに『わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かに』ならせてください(第二ペテロ三・一八)」。