ジョン・ウェスレー標準説教集

説教四十四 原罪

「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られました」(創世記六・五)

(一) これは、人々があらゆる時代に描いてきた人間性の美しい絵と、何とかけ離れていることでしょう。古代の多くの人々の書物には、人間の尊厳についての華やかな描写があふれています。そのうちのある人々は、人間をこう描きます。人間は、あらゆる徳と幸いを、自分の成り立ちのうちに備えている。少なくとも、ほかのどんな存在の世話にもならずに、それをすっかり自分の力のうちに持っている、と。いや、人間は自足していて、自分の蓄えで生きることができ、神ご自身にもほとんど劣らない、とさえ描くのです。

(二) そのように語ってきたのは、異教徒だけではありません。異教徒は、探究にあたって、理性のほの暗い光ぐらいにしか導かれない人々です。けれども、キリストの名を負い、神の言をゆだねられた(ローマ三・二)多くの人々も、同じように人間の本性について大げさに語ってきました。まるで、人間の本性がまったく無垢で完全であるかのようにです。この種の説明は、今世紀に特に多く見られます。そしておそらく、世界のどこよりも私たちの国で多く見られます。この国では、すぐれた知性と広い学識を持つ少なからぬ人々が、持てる力を尽くしてきました。自分たちが「人間性の美しい面」と呼ぶものを示そうとしてきたのです。そして、認めなければなりません。もし彼らの人間についての説明が正しいとします。それなら、人間は今もなお、御使いよりも少し低いだけの者です。あるいは、この言葉をもっと文字どおりに訳せば、「ただ少しく」「神よりも低く」造られた者です(詩篇八・五)。

(三) こうした説明が、世の大多数の人々にたやすく受けいれられるのは、不思議なことでしょうか。自分のことを良く思うように、たやすく説き伏せられない人がいるでしょうか。それで、この種の著者たちは、ほとんど至るところで読まれ、賞賛され、喝采を受けています。彼らが自分の説に引き入れた人々は、数えきれません。華やかな社交界だけでなく、学問の世界にもいるのです。こうして今では、別の語り方をすること、人間性をおとしめるようなことを少しでも言うことは、まったくはやらなくなりました。人間性は、少しの弱さはあっても、きわめて無垢で、賢く、徳の高いものだと、一般に認められているのです!

(四) けれども、それなら、私たちは自分の聖書をどうすればよいのでしょうか。聖書は、決してこれと一致しないからです。こうした説明は、どれほど血肉を喜ばせても、聖書の説明とはまったく相いれません。聖書は断言しています。「ひとりの人の不従順によって」、すべての人が「罪人とされた」(ローマ五・一九)と。また、「アダムにあってすべての人が死んで」しまった(第一コリント一五・二二)と断言しています。霊的に死に、神のいのちと神のかたちを失ったのです。また、堕落して罪深くなったアダムが、それから「自分のかたちのような男の子を生」んだ(創世記五・三)と断言しています。アダムがそれ以外のかたちで子を生むことは、ありえませんでした。「だれが汚れたもののうちから清いものを出すことができ」ましょうか(ヨブ一四・四)。また、したがって私たちもほかの人々と同じく、生れながら「罪過と罪とによって死んでいた者」(エペソ二・一)であったと断言しています。「この世の中で希望もなく神もない者」(エペソ二・一二)であり、それゆえ「怒りの子」(エペソ二・三)であった、と断言しているのです。また、だれでも、「わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました」(詩篇五一・五)と言うことができる、と断言しています。また、「なんらの差別もない」(ローマ三・二二)と断言しています。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなって」いる(ローマ三・二三)からです。すなわち、人が初めに造られたときの、あの神の栄光あるかたちに、届かなくなっているのです。そこで、「主は天から人の子らを見おろして」(詩篇一四・二)、彼らが「みな迷い、みなひとしく腐れた」(詩篇一四・三)のを見られました。「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ三・一〇)のでした。本当に神を求める人は、いなかったのです(ローマ三・一一)。これは、聖霊が先に引いた言葉で宣言しておられることと、まさに一致します。以前にも天から見おろされたとき、神は、「人の悪が地にはびこ」るのを見られました(創世記六・五)。その悪はあまりに大きく、「すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりである」ほどでした(創世記六・五)。

これが、人間についての神の説明です。私はここから機会を得て、次のことをしようと思います。第一に、洪水の前の人々がどのようであったかを示すこと。第二に、人々が今も同じではないかを調べること。第三に、いくつかの推論を加えることです。

【一】 洪水の前の人々はどのようであったか

(一) 第一に、聖句の言葉を解き明かして、洪水の前の人々がどのようであったかを示します。ここに示された説明には、まったく信頼することができます。神がそれを見られたのであり、神が欺かれることはありえないからです。神は、「人の悪が」「はびこ」るのを見られました(創世記六・五)。それは、あれこれの人の悪ではありません。わずかな人々だけの悪でもありません。大部分の人々の悪というだけでもありません。人間全体の悪、例外なくすべての人の悪です。この「人」という語は、人類全体を、人間の本性にあずかるすべての者を含んでいます。そして、その数を計算し、彼らが何千、何百万人いたかを言うのは、たやすいことではありません。当時の地は、太古の美しさと本来の豊かな実りを、まだ多く保っていました。地の表は、今のように裂けて引き裂かれてはいませんでした。春と夏とが、手を携えて進んでいたのです。ですから、地は、今養うことのできるよりもはるかに多くの住民に、糧を与えていたと考えられます。そして、人々が七百年、八百年にもわたって息子や娘を生んでいたのですから、住民はとてつもなく増えたに違いありません。それなのに、この想像もできないほどの数の中で、ただノアだけが、神の前に「恵みを得た」のです(創世記六・八)。ノアだけが(おそらく家族の一部も含めて)、世界中に広がった悪の例外でした。その悪は、神の正しいさばきによって、間もなく世界中の滅びを招きました。ほかの人々はみな、同じ罰にあずかったように、同じ罪責にもあずかっていたのです。

(二) 神は、人が「すべてその心に思いはかること」を見られました(創世記六・五)。この「心」とは、人の魂、内なる人(ローマ七・二二)、人のうちにある霊、人の内と外のあらゆる動きの源のことです。神は、「すべて」の「思いはかること」を見られたのです(創世記六・五)。英語の聖書がここで「想像」(imagination)と訳している語ほど、意味の広い語は見つかりません。この語は、内に形づくられ、造られ、こしらえられるものを何でも含みます。魂のうちにあるもの、魂のうちを過ぎて行くもののすべてを含みます。あらゆる傾き、情愛、情念、欲求を含み、あらゆる気質、意図、思いを含みます。したがって、この語は、あらゆる言葉と行いをも含むはずです。言葉と行いは、これらの泉から自然に流れ出るものであり、それぞれが流れ出る泉に応じて、善にも悪にもなるからです。

(三) さて、神は、これらすべて、その全体が悪であることを見られました。それは、道徳的な正しさに反しています。神の本性に反しています。神の本性は、必然的にあらゆる善を含んでいるのです。それは、神の御旨に反しています。神の御旨は、善悪の永遠の基準です。それは、清く聖い神のかたちに反しています。人は初めに、そのかたちに造られました。そして、神がご自分の手のわざを見渡し、そのすべてがはなはだ良い(創世記一・三一)のを見られたとき、人はそのかたちのうちに立っていたのです。それは、正義とあわれみと真実に反しています。また、一人一人の人が、自分の造り主に対して、また仲間の被造物に対して持っていた、本質的な関係に反しています。

(四) けれども、悪の中に善が混じっていたのではないでしょうか。やみの中に光が混じっていたのではないでしょうか。いいえ、まったく混じっていませんでした。神は、人が「その心に思いはかること」の全体が「悪い事ばかりである」のを見られたのです(創世記六・五)。確かに、彼らの多くが、おそらくすべての者が、心のうちに良い促しを与えられていたことは、否定できません。神の霊は、そのときも、人が悔い改めることもあろうかと、人と争われた(創世記六・三)からです。とりわけ、あの恵み深い猶予の期間、すなわち、箱舟が造られていた間(第一ペテロ三・二〇)の百二十年は、そうでした。それでもなお、人の「肉の内には、善なるものが宿っていな」かったのです(ローマ七・一八)。人の本性全体が、純粋に悪でした。それは、どこまでもそれ自身と一貫しており、反対の性質のものは何も混じっていませんでした。

(五) けれども、なおこう問う人がいるかもしれません。「この悪には、途切れることがなかったのか。人の心のうちに何か良いものが見いだされるような、正気に返るときはなかったのか」。ここでは、神の恵みが時おり人の魂のうちに働かれたかもしれないことは、考えないことにします。それを別にすれば、あの悪に途切れがあったと信じる理由はありません。神は、人が「その心に思いはかること」の全体が「悪い事ばかりである」のを見られました。そして、それがいつも同じであることも見られたからです。すなわち、それが「いつも悪い事ばかりである」のを見られたのです(創世記六・五)。毎年、毎日、毎時間、一瞬一瞬がそうでした。人が道をそれて善に向かうことは、一度もありませんでした。

【二】 人々は今も同じではないか

以上が、全人類についての確かな説明です。これは、人の心の中にあることを知っておられる方(ヨハネ二・二五)が残された記録です。心を探り、思いを試みられる方(エレミヤ一七・一〇)が、私たちを教えるために記録に残してくださったのです。神が地に洪水をもたらされる前、すべての人はこのようでした。第二に、人々が今も同じであるかどうかを調べなければなりません。

(一) 確かなのは、今の人々について別の考え方をする理由を、聖書が少しも与えていないことです。むしろ反対に、先に引いた聖書の箇所はみな、洪水の後に生きた人々について語っています。神がダビデによって人の子らについて宣言されたのは、洪水から千年以上も後のことでした。「彼らはみな迷い」、真理と聖性の道から外れました(詩篇一四・三)。「義人はいない、ひとりもいない」のです(ローマ三・一〇)。すべての預言者も、それぞれの時代に、このことをあかししています。イザヤも、神の特別な民について、こう言っています(異教徒の状態がこれよりましであったはずはありません)。「その頭はことごとく病み、その心は全く弱りはてている。足のうらから頭まで、完全なところがなく、傷と打ち傷と生傷ばかり」です(イザヤ一・五〜六)。すべての使徒も、同じ説明をしています。いや、神の言(ローマ三・二)の全体の趣旨が、同じことを示しています。これらすべてから、私たちは、神の恵みに助けられていない、生れながらの状態の人について、こう学びます。人が「すべてその心に思いはかること」は、今もなお「悪い事」、「悪い事ばかり」であり、しかも「いつも」そうなのです(創世記六・五)。

(二) そして、今の人間の状態についてのこの説明は、日々の経験によって確かめられます。確かに、生れながらの人はそれを見分けません。それは驚くにあたりません。生れつきの盲人は、盲目のままでいる限り、自分に欠けているものをほとんど感じません。まして、すべての人が目が見えずに生れる場所があるとします。そこの人々は、視力が欠けていることをなおさら感じないでしょう。同じように、人は、生れながらの悟りの盲目のうちにとどまっている限り、自分の霊的な欠乏を感じません。特に、この欠乏を感じません。けれども、神が彼らの悟りの目を開かれるやいなや、彼らは、自分が以前にいた状態を見ます。そのとき、彼らは深く確信します。「生きている人はみな」、とりわけ自分自身が、生れながら「まったくむなしい」ことを確信するのです。むなしいとは、愚かさと無知、罪と悪のことです。

(三) 神が私たちの目を開かれるとき、私たちは悟ります。自分が以前、この世の中で神もない者(エペソ二・一二)、いや、むしろこの世の中の無神論者であったことを悟るのです。ギリシャ語ではアテオイ・エン・トー・コスモー(ἄθεοι ἐν τῷ κόσμῳ)です。私たちは、生れながら、神についての知識もなく、神と面識もありませんでした。確かに、私たちは、理性を用いるようになるとすぐに、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性と」を、「被造物において」知りました(ローマ一・二〇)。見えるものから、見えない、永遠の力ある存在がいることを推し量りました。けれども、神がおられることは認めても、なお神と面識はありませんでした。私たちは、中国に皇帝がいることを知っていても、その皇帝その人を知りません。それと同じように、全地の王(詩篇四七・七)がおられることを知っていても、その方を知らなかったのです。実に、私たちは、生れながらのどの能力によっても、神を知ることができませんでした。そのどれによっても、神を知る知識に達することはできなかったのです。生れながらの悟りによって神を認めることは、目で神を見ることと同じく、できませんでした。「父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません」。また、「子を知る者は父」と、父が子をあらわされる者とのほかには、だれもいないからです(マタイ一一・二七)。

(四) 古代のある王について、こんな話が伝えられています。その王は、人間の生れながらの言葉が何であるかを知りたいと思いました。そして、この問題に確かな決着をつけるために、次のような実験をしたのです。王は、二人の幼児を生れるとすぐに、そのために用意した場所に移すよう命じました。二人はそこで、何も教えられず、人の声を一度も聞かずに育てられました。その結果はどうだったでしょうか。二人がついにその閉じこめられた場所から連れ出されたとき、何の言葉も話しませんでした。ほかの動物のような、言葉にならない音を発するだけだったのです。同じように、二人の幼児を、生れたときから何の宗教も教えずに育てたとします。(神の恵みが介入しない限り)結果がまったく同じになることは、ほとんど疑う余地がありません。二人は、何の宗教も持たないでしょう。神についての知識は、野の獣や野ろばの子(ヨブ一一・一二)と変わらないでしょう。伝えられた宗教と神の御霊の働きとを除いた、自然の宗教とは、このようなものなのです!

(五) そして、神を知らないのですから、私たちは神への愛を持つことができません。知らない方を愛することはできないのです。確かに、たいていの人は神を愛することを口にし、おそらく自分は愛していると思いこんでいます。少なくとも、自分は神を愛していないと認める人は、ほとんどいません。けれども、事実はあまりにも明らかで、否定できません。生れながらに神を愛する人はいません。石や、自分が踏んでいる土を愛さないのと同じです。私たちは、愛するものを喜びます。けれども、生れながらに神を喜ぶ人はいません。生れながらの状態では、どうしてだれかが神を喜ぶことができるのか、私たちには想像もつきません。私たちは、神にまったく楽しみを見いだしません。私たちにとって、神はまったく味気ない方です。神を愛すること! それははるかに高く、私たちの目の届かないところにあります。私たちは生れながらには、そこに達することができません。

(六) 私たちは、生れながら、神への愛を持たないだけでなく、神を恐れる心も持っていません。確かに、たいていの人が、遅かれ早かれ、一種の無分別で理不尽な恐れを持つことは認められています。それは、正しくは迷信と呼ばれるものです。もっとも、思い違いをしたエピクロス派の人々は、それを宗教と呼びましたが。けれども、この恐れでさえ、生れながらのものではなく、後から身につけたものです。主として、人との交わりや手本から身につけたものです。生れながら、私たちの思いのどこにも、神はおられません(詩篇一〇・四)。私たちは、神には神の務めを処理させておきます。私たちの想像では、神は天に静かに座っておられ、地にいる私たちには私たちの務めを処理させておかれるのです。こうして、私たちの心に神への愛がないのと同じく、私たちの目の前には、神に対する恐れがありません(ローマ三・一八)。

(七) こうして、すべての人は「この世の中で」無神論者なのです(エペソ二・一二)。けれども、無神論であっても、偶像礼拝から守られるわけではありません。生れながらの状態では、この世に生れるすべての人が、まぎれもない偶像礼拝者です。もっとも、私たちは、この言葉の普通の意味での偶像礼拝者ではないかもしれません。私たちは、偶像を拝む異教徒のように、鋳た像や刻んだ像を拝みはしません。木のはしくれの前にひれ伏したり(イザヤ四四・一九)、自分の手のわざを拝んだり(イザヤ二・八)はしません。天にいる御使いや聖徒に祈ることもしません。地上にいる聖徒に祈らないのと同じです。けれども、それが何でしょう。私たちは、自分の偶像を心の中に持ち(エゼキエル一四・三)、それにひれ伏して拝んでいるのです。ただ神だけに帰すべき栄誉を自分に帰すとき、私たちは自分自身を拝んでいるのです。ですから、高ぶりはすべて偶像礼拝です。高ぶりとは、ただ神だけに帰すべきものを、自分に帰することだからです。そして、高ぶりは人のために造られたものではありません。それなのに、高ぶりを持たずに生れる人が、どこにいるでしょうか。けれども、私たちはこれによって、譲り渡すことのできない神の権利を奪います。偶像礼拝者として、神の栄光を横取りするのです。

(八) けれども、私たちがみな生れながらに犯している偶像礼拝は、高ぶりだけではありません。サタンは、我意においても、私たちの心に自分のかたちを刻みつけました。サタンは、天から投げ落とされる前に、こう言いました。「わたしは」、「わたしは北の果」「に座」そう(イザヤ一四・一三)。すなわち、造り主の意志とはかかわりなく、自分の意志と好みのままに行おう、と言ったのです。この世に生れるすべての人が、同じことを言います。しかも、何千という場合に言います。いや、それを公言さえします。そのことで顔を赤らめることもなく、恐れも恥もなく公言するのです。その人に、「なぜこんなことをしたのか」と尋ねてごらんなさい。その人は、「そうしたかったからだ」と答えます。これは、「自分の意志だったからだ」というのと、どこが違うでしょうか。それは、つまり、悪魔と自分の意見が一致したからだ、ということです。サタンと自分とが、一つの同じ原理によって行動を治めているからだ、ということです。その間、神の御旨は、その人の思いの中になく、少しも考慮されていません。神の御旨は、天にいるものであれ地にいるものであれ、知性あるすべての被造物にとって、最高の規範であるのにです。それは、すべての被造物がその造り主に対して持っている、本質的で変わることのない関係から生じる規範です。

(九) ここまでは、私たちは悪魔のかたちを帯び、悪魔の足跡を踏んでいます。けれども、次の一歩で、私たちはサタンを置き去りにします。サタン自身も犯していない偶像礼拝に走るのです。それは、世への愛のことです。世への愛は、今では、すべての人にとって、自分の意志を愛するのと同じほど自然なものです。造り主の代りに被造物のうちに(ローマ一・二五)幸いを求めること、ただ神のうちにだけ見いだせる満足を、神の手のわざのうちに求めること。これ以上に、私たちにとって自然なことがあるでしょうか。「肉の欲」(第一ヨハネ二・一六)、すなわち、あらゆる種類の感覚の快楽を求める欲ほど、自然なものがあるでしょうか。確かに、人々は、こうした低い快楽を軽蔑すると、大げさに語ります。特に、学問と教養のある人々がそうです。彼らは、こうした欲求を満たすことには無頓着であるかのように装います。その欲求においては、彼らは滅びうせる獣(詩篇四九・一二)と同じ水準に立っているのです。けれども、それはただの見せかけです。だれでも、この点では、自分が生れながら、まったくの獣であることを、心の中で自覚しているからです。肉の欲求は、最も低い種類のものでさえ、多かれ少なかれ人を支配しています。それは人をとりこにし、人がほこる理性をよそに、人をあちらこちらへ引きずり回します。人は、どれほど育ちがよく、ほかのたしなみを身につけていても、やぎにまさるところがありません(伝道三・一九)。いや、むしろ、獣のほうが人にまさっているのではないかと、大いに疑われます。彼らの近代の託宣者の一人に耳を傾けてよいなら、確かに獣のほうがまさっています。その人は、きわめて上品に、こう語っています。

獣も、季節に一度は恋を味わう。ただ理性ある獣だけが、恋の奴隷となり、その愚かさのうちに、一年中あくせくと働く。

確かに、人と人との間にかなりの違いがあることは、認めなければなりません。その違いは、(先行の恵みによって生じる違いのほかに)体質の違いや教育の違いから生じます。けれども、それにもかかわらず、この点で、だれがほかの人にまず石を投げつける(ヨハネ八・七)ことができるでしょうか。自分のことをまったく知らない人でない限り、できないはずです。祝福された私たちの主は、第七の戒めについて、こう解き明かされました。「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのです」(マタイ五・二八)。この試しに、だれが耐えられるでしょうか。ですから、ある人々の無知と横柄さの、どちらにいちばん驚くべきか分かりません。その人々は、だれもが自分の胸のうちに感じたことのある欲望に負けた人々を、ひどく軽蔑して語るのです。罪のないものであれ、そうでないものであれ、あらゆる感覚の快楽を求める欲は、人の子のだれにとっても自然なものなのにです。

(一〇) そして、「目の欲」(第一ヨハネ二・一六)も同じく自然なものです。目の欲とは、想像の快楽を求める欲です。この快楽は、壮大なもの、美しいもの、あるいは珍しいものから生じます。もっとも、前の二つが、あとの一つと重なるのでなければの話です。というのは、念入りに調べれば、おそらく次のことが明らかになるからです。壮大なものも美しいものも、新しい間しか人を喜ばせません。その新しさが過ぎ去ると、それが与える快楽も、少なくともその大部分は過ぎ去ります。そして、見慣れるにつれて、それに比例して、平凡で味気ないものになるのです。けれども、このことをどれほどたびたび経験しても、同じ欲はなお残ります。生れつきの渇きは、魂の中に根を下ろしたままです。いや、満たせば満たすほど増し加わり、次から次へと別のものを追い求めるように、私たちを駆り立てます。私たちは、どのものからも、実を結ばなかった望みと、裏切られた期待とをいだいて離れるのにです。そうです。

白髪の愚か者は、幾日も絶え間ない悲しみと戦ってきたのに、また望みを新たにし、愚かにもあすに望みのない賭けをする。あすが来る。昼になる。夜になる。この日も、これまでの日と同じく飛び去る。それでも彼は進み続け、喜びを求める、あすこそは、と。今夜、死ぬそのときまで。

(一一) 世への愛は、私たちの本性に深く根を下ろした致命的な病です。その第三の症状は、「持ち物の誇」(第一ヨハネ二・一六)です。すなわち、称賛を求める欲、人からの誉(ヨハネ五・四一)を求める欲です。人間性を最も賛美する人々も、この欲がまさに生れながらのものであることを認めています。視覚や聴覚、そのほかの外の感覚と同じほど、生れながらのものだと認めるのです。そして、彼らはそれを恥じているでしょうか。文人たち、洗練され磨かれた知性を持つ人々でさえ、恥じているでしょうか。恥じるどころか、それを誇っているのです。彼らは、称賛を愛する自分を、自分で称賛しているのです。そうです、クリスチャンと呼ばれる著名な人々も、昔のむなしい異教徒の、次の言葉を平気で取り入れています。Animi dissoluti est et nequam negligere quid de se homines sentiant. (人が自分のことをどう思うかを気にかけないのは、邪悪で放埓な心のしるしである)ですから、ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても(第二コリント六・八)、落ち着いて動じずに進むとします。それは、彼らにとっては、まさに生かしおくべきではない者のしるしなのです。「こんな男は地上から取り除いてしまえ」(使徒二二・二二)というわけです。けれども、この人々が、イエス・キリストや使徒たちのことを聞いたことがあると、だれが思うでしょうか。「互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができ」ましょうか(ヨハネ五・四四)。こう言われたのがだれであるかを、彼らが知っていると、だれが思うでしょうか。けれども、もしこれが本当にそのとおりだとします。すなわち、私たちが互いに誉を受けたり求めたりして、ただひとりの神からの誉を求めないとします。その限り、信じることはできず、したがって神に喜ばれることもできない(ヘブル一一・六)とします。そうなら、全人類は何という状態にあることでしょう。異教徒だけでなく、クリスチャンも何という状態にあることでしょう。彼らはみな、互いに誉を求めているのですから。彼ら自身の判断でも、そうすることは、彼らにとって自然なことなのですから。目に当たる光を見たり、耳に入る音を聞いたりするのと同じほど、自然なことなのですから。いや、彼らは、人の称賛を求めることを、徳のある心のしるしとしているのですから。ただひとりの神からの誉で満足することを、悪い心のしるしとしているのですから!

【三】 いくつかの推論

(一) 次に、これまで述べたことから、いくつかの推論を引き出します。第一に、ここから、一つの大きな根本的な違いを学ぶことができます。教理の体系として見たキリスト教と、最も洗練された異教との違いです。古代の異教徒の多くは、個々の人の悪徳を詳しく描きました。人の貪欲や残酷さ、ぜいたくや浪費を、大いに非難しました。ある人々は、大胆にも、「何らかの悪徳を持たずに生れる者はいない」とさえ言いました。けれども、彼らのだれひとり、人の堕落を知らなかったように、人がまったく腐敗していることも知りませんでした。すべての人があらゆる善を欠き、あらゆる悪に満ちていることを、知らなかったのです。彼らは、人間の本性全体がまったく腐敗していることを、まるで知りませんでした。この世に生れるすべての人が、魂のあらゆる能力において腐敗しているのです。それは、個々の人を支配する個々の悪徳によるというよりも、全体にあふれる洪水によるのです。すなわち、無神論と偶像礼拝、高ぶりと我意と世への愛の洪水です。ですから、これが、異教とキリスト教とを分ける第一の大きな点です。異教は、多くの人が多くの悪徳に冒されており、悪徳への傾きを持って生れることさえあると認めます。けれども同時に、ある人々においては、生れながらの善が悪をはるかにしのいでいると考えます。キリスト教は宣言します。すべての人は「罪のうちに」みごもられ、「不義のなかに生れ」た(詩篇五一・五)、と。また、そのためにすべての人のうちには「肉の思い」がある、と宣言します。それは「神に敵する」もので、神の「律法に従わず、否、従い得ない」(ローマ八・七)、と宣言するのです。そして、この肉の思いは魂全体を冒している、と宣言します。そのため、人の「内に」、すなわち人の「肉の内には」、生れながらの状態では、「善なるものが宿っていない」(ローマ七・一八)、と宣言します。かえって、人が「すべてその心に思いはかること」は「悪い事」であり、ただ悪だけである、と宣言するのです。しかも「いつも」そうなのだ(創世記六・五)、と。

(二) 第二に、ここから次のことを学ぶことができます。これを原罪と呼ぶにせよ、ほかのどんな名で呼ぶにせよ、これを否定する人はみな、いまなお異教徒にすぎないのです。異教とキリスト教とを分ける根本的な点において、そうなのです。確かに、その人々も認めるかもしれません。人には多くの悪徳がある。そのいくつかは生れつきのものだ。したがって、私たちは、本来あるべきほど賢く、徳の高い者として生れてはいない、と。「私たちは悪への傾きと同じほど善への傾きを持って生れる。すべての人は生れながら、造られたときのアダムと同じほど徳が高く賢い」と、はっきり断言する人は、ほとんどいないからです。けれども、ここに、見分けの合言葉「シボレテ」(士師記一二・六)があります。人は生れながら、あらゆる悪に満ちているでしょうか。あらゆる善を欠いているでしょうか。まったく堕落しているでしょうか。人の魂はまったく腐敗しているでしょうか。あるいは、聖句に戻って言えば、人が「すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりである」のでしょうか(創世記六・五)。これを認めるなら、あなたはその限りでクリスチャンです。これを否定するなら、あなたはいまなお異教徒にすぎません。

(三) 第三に、ここから、宗教の、すなわちイエス・キリストの宗教の、本来の性質が何であるかを学ぶことができます。それは、テラペイア・プシューケース(θεραπεία ψυχῆς)、すなわち魂の治療です。このように病んでいる魂をいやす、神の方法なのです。これによって、魂の偉大な医者は、この病をいやすために薬を用いられます。あらゆる能力においてまったく腐敗した人間の本性を、回復させるためです。神は、ご自身と、ご自身がつかわされたイエス・キリストとを知る知識(ヨハネ一七・三)によって、私たちの無神論をすべていやされます。神は私たちに信仰を与えて、いやされます。信仰とは、神と神の事柄についての、神から与えられる証拠であり確信です。特に、キリストが「わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた」(ガラテヤ二・二〇)という、この大切な真理についての証拠であり確信です。悔い改めと心のへりくだりによって、高ぶりという死に至る病がいやされます。我意という病は、ゆだねる心によって、すなわち、神の御旨に柔和に、感謝して従うことによって、いやされます。そして、あらゆる枝葉に分かれた世への愛には、神への愛こそが特効薬です。さて、これこそが本来の宗教、すなわち、こうして「愛によって働く信仰」(ガラテヤ五・六)です。その信仰は、本物の柔和なへりくだりを生み出し、世に対して完全に死ぬことを生み出します。また、神の御旨とみことばのすべてに、愛と感謝をもって甘んじて従い、それにかなう者となることを生み出すのです。

(四) 実に、もし人がこのように堕落していないなら、このようなことは何も必要ないでしょう。心のうちのこのわざ、すなわち心の深みまで新たにされること(エペソ四・二三)も、必要ないでしょう。英語の聖書は、「はなはだしい悪」(ヤコブ一・二一)を「あり余る悪」と訳しています。人が堕落していないなら、「あり余る悪」よりも、「あり余る敬虔」と言うほうが、ふさわしい言い方になるでしょう。敬虔が少しもない外面だけの宗教で、理性の目から見れば、どの点でも十分に足りるからです。実際、私たちの本性のこの腐敗を否定する人々の判断では、それで十分なのです。彼らは宗教を、あの有名なホッブズ氏が理性を見たのと同じく、ほとんどそれ以上のものとは見ていません。ホッブズによれば、理性とは「よく秩序づけられた言葉の連なり」にすぎません。彼らによれば、宗教とは、よく秩序づけられた言葉と行いの連なりにすぎないのです。そして、彼らの言うことは筋が通っています。もし内側が悪に満ちていないなら、内側がすでにきよいなら、何が残るでしょうか。「杯」の「外側」を「きよめる」(マタイ二三・二五)ことだけです。彼らの仮定が正しいなら、外面の改善こそが、まさに無くてならぬ一つのもの(ルカ一〇・四二)です。

(五) けれども、あなたがたは、そのように神の言を学んだのではありません。あなたがたは知っています。人の心の中にあることを見ておられる方は、生れながらの本性についても恵みについても、まるで違う説明をしておられます。私たちの堕落についても回復についても、そうです。あなたがたは知っています。宗教の大きな目的は、私たちの心を神のかたちに新しくすることです。私たちの最初の先祖の罪によってこうむった、真の義と聖と(エペソ四・二四)の全き喪失を、回復することです。この目的とは、私たちの魂が、魂を造られた方のかたちに従って(コロサイ三・一〇)、神のかたちに新しくされることです。あなたがたは知っています。この目的にかなわない宗教、この目的に届かずに止まる宗教は、どれもみな、あわれな茶番にすぎません。神をあざけるものにすぎません。そして、私たち自身の魂を滅ぼすものなのです。ああ、そんなものをキリスト教だと言って押しつけようとする、偽りを教える者たちすべてに気をつけなさい。たとえ彼らが、あらゆる不義の惑わし(第二テサロニケ二・一〇)をもってあなたがたのところに来ても、彼らに心を留めてはなりません。あらゆるなめらかな言葉、あらゆる上品さ、いや、美しく優雅な表現をもって来ても、そうです。あなたがたへの心からの好意と、聖書への敬意とを、どれほど言い表して来ても、そうです。聖徒たちに「ひとたび伝えられた」(ユダ三)、素朴な昔からの信仰を守りなさい。神の御霊によって私たちの心に伝えられた信仰を守りなさい。自分の病を知りなさい! 自分の治療法を知りなさい! あなたがたは罪のうちに生れました。ですから、「あなたがたは新しく生れなければならない」(ヨハネ三・七)のです。神から生れなければならないのです。あなたがたは、生れながらには、まったく腐敗しています。恵みによって、まったく新しくされるのです。アダムにあって、あなたがたはみな死にました。第二のアダムにあって、すなわちキリストにあって、あなたがたはみな生かされています(第一コリント一五・二二)。神は、「罪過によって死んでいた」あなたがたを「生かし」てくださいました(エペソ二・五)。神はすでに、あなたがたにいのちの源を与えてくださいました。それは、あなたがたを愛し、あなたがたのためにご自身をささげられた方(ガラテヤ二・二〇)への信仰です。今、信仰から信仰へと進み続けなさい(ローマ一・一七)。あなたがたの病がすっかりいやされるまで、進み続けなさい。キリスト・イエスのうちにもあった思い(ピリピ二・五)が、余すところなくあなたがたのうちに宿るまで、進み続けなさい!