ジョン・ウェスレー標準説教集

説教四十二 サタンの策略

「わたしたちは、彼の策略を知らないわけではありません」(第二コリント二・一一)

(一) この世の神(第二コリント四・四)は狡猾で、神の子たちを滅ぼそうと骨折ります。少なくとも、滅ぼせない者を苦しめ、彼らが参加すべき競走(ヘブル一二・一)を走るのをまごつかせ、妨げようとします。そのための策略は、天の星や浜べの砂(創世記二二・一七)のように数えきれません。けれども、私が今語ろうとするのは、そのうちの一つだけです。その策略はさまざまな形で用いられます。サタンはそれによって、福音を内部で分れ争わせ(マタイ一二・二五)、福音の一部によって他の部分をくつがえそうとするのです。

(二) 内なる天国は、悔い改めて福音を信じる(マルコ一・一五)すべての人の心のうちに建てられます。それは、「義と、平和と、聖霊における喜びと」(ローマ一四・一七)にほかなりません。キリストにある幼な子(第一コリント三・一)はみな、私たちがイエスを信じたまさにそのときに、これらにあずかる者とされることを知っています。けれども、これらは御霊の最初の実(ローマ八・二三)にすぎません。刈り入れはまだです。これらの祝福は考えも及ばないほど大きなものですが、それでも私たちは、これよりも大きなものを見ると確信しています。私たちは、主なる私たちの神を愛するようになると確信しています。今のように、弱いけれども真実な情愛で愛するだけではありません。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして」(マルコ一二・三〇)愛するようになるのです。私たちは、「いつも喜んで」いる力(第一テサロニケ五・一六)、「絶えず祈」る力(第一テサロニケ五・一七)、「すべての事について、感謝」する力(第一テサロニケ五・一八)を待ち望んでいます。「これが、キリスト・イエスにあって、神が」私たちに「求めておられること」だと知っているからです(第一テサロニケ五・一八)。

(三) 私たちは、愛において全うされる(第一ヨハネ四・一八)ことを期待しています。それは、苦しみを伴うすべての恐れをとり除く愛です(第一ヨハネ四・一八)。また、愛する方の栄光を現し、その方をますます愛し、仕えるという願いのほかは、すべての願いをとり除く愛です。私たちは、私たちの救主なる神を体験によって知る知識と、その神への愛とが、大きく増し加わることを待ち望んでいます。それによって、いつも、「神が光の中にいますように」、「光の中を歩く」(第一ヨハネ一・七)ことができるほどにです。私たちは、キリスト・イエスのうちにもあった思い(ピリピ二・五)が、余すところなく私たちのうちに宿るようになると信じています。また、すべての人を愛し、その人のためにいのちを捨てる(第一ヨハネ三・一六)用意ができるようになると信じています。この愛によって、怒りからも、高ぶりからも、あらゆる不親切な情愛からも解放されるほどになると信じるのです。私たちは、「すべての偶像から清め」られ、「すべての汚れから清め」られる(エゼキエル三六・二五)ことを期待しています。その汚れが「肉」のものであれ「霊」のものであれ(第二コリント七・一)、そうです。また、内のものであれ外のものであれ、「すべての汚れから救」われる(エゼキエル三六・二九)ことを期待しています。「彼がきよくあられるように」、きよくされる(第一ヨハネ三・三)ことを期待するのです。

(四) 私たちは、偽りのない神(テトス一・二)の約束に信頼しています。そのときは必ず来る、という約束です。そのとき、私たちは、どの言葉においても、どのわざにおいても、神の祝福されたみこころを行うようになります。天に行われるとおり、地でも行う(マタイ六・一〇)のです。そのとき、私たちのふるまいはすべて、塩で味つけられ(コロサイ四・六)、すべて聞いている者の益になる(エペソ四・二九)ものとなります。そのとき、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためになされる(第一コリント一〇・三一)ようになります。そのとき、私たちの言葉とわざはすべて、「主イエスの名によって」なされ、「彼によって父なる神に感謝」するものとなるのです(コロサイ三・一七)。

(五) さて、サタンの大きな策略とは、こうです。あのもっと大きなわざへの私たちの期待によって、魂のうちにある神の最初のわざを滅ぼすこと、少なくとも、その成長を妨げることです。ですから、私が今しようとしているのは、次のことです。第一に、サタンが神の最初のわざを滅ぼそうとする、いくつかのやり方を指摘すること。第二に、悪しき者の放つ火の矢(エペソ六・一六)を、どうすれば投げ返せるかを考えること。すなわち、サタンが私たちを倒すきっかけにしようとすることによって、どうすればかえっていっそう高く上がれるかを考えることです。

【一】 サタンが神の最初のわざを滅ぼそうとするやり方

(一) 第一に、いくつかのやり方を指摘します。サタンはそれによって、魂のうちにある神の最初のわざを滅ぼそうとし、少なくともその成長を妨げようとします。サタンは、あのもっと大きなわざへの私たちの期待によって、そうするのです。一、サタンは、主にある私たちの喜びに水を差そうとします。私たちに、自分の卑しさ、罪深さ、ふさわしくなさを考えさせるのです。そのうえ、今よりもはるかに大きな変化がなければ、主を見ることはできない(ヘブル一二・一四)ということも考えさせます。もし、死ぬ日まで今のままでいなければならないと分かっていたとします。それなら、そのやむをえなさから、乏しいながらも一種の慰めを引き出せたかもしれません。けれども、私たちは、この状態にとどまっている必要がないことを知っています。もっと大きな変化が来ることを、確信しています。また、この世で罪がすっかり取り除かれなければ、栄光のうちに神を見ることはできないことも、確信しています。それで、あの狡猾な敵は、私たちがまだ得ていないものと、それを得ることの絶対の必要とを、ゆがめて描いてみせます。そうして、すでに得たものについて本来なら感じるはずの喜びに、しばしば水を差すのです。こうして、私たちは、持っているものを喜べなくなります。まだ持っていないものが、もっとあるからです。神は私たちのために大いなる事をなされました(詩篇一二六・三)。それなのに、私たちは神のいつくしみを正しく味わえません。神がまだなされていない、もっとはるかに大いなる事があるからです。同じように、神は私たちのうちに、今の自分が聖くないことを自覚させてくださいます。また私たちは、神が約束された全き聖性を、心のうちで願います。その自覚が深いほど、その願いが激しいほど、私たちは、神の今の賜物を軽く考えるように誘惑されます。まだ受けていないもののために、すでに受けたものを低く見るように誘惑されるのです。

(二) サタンがここまでうまくいけば、つまり私たちの喜びに水を差すことができれば、すぐに私たちの平安にも攻撃をしかけてきます。サタンはこうささやきます。「あなたは神を見るのにふさわしいのか。神は目が清く、不義を見られない方だ(ハバクク一・一三)。それなのに、どうして、神があなたを喜んで見ておられるなどと、都合よく思いこめるのか。神は聖であり、あなたは聖くない。光とやみとなんの交わりがあるか(第二コリント六・一四)。これほど汚れているあなたが、神に受けいれられた状態にいるなどということが、どうしてありうるのか。確かに、あなたは目標を、上に召してくださる神の賞与を見ている(ピリピ三・一四)。だが、それがはるか遠くにあることが見えないのか。それなら、どうして、あなたの罪がもうすべてぬぐい去られている(使徒三・一九)などと思い上がれるのか。もっと神に近づけられるまで、もっと神に似た者になるまで、どうしてそんなことがありえようか」。こうして、サタンは、あなたの平安を揺るがすだけでなく、その土台そのものまでくつがえそうとします。気づかないほど少しずつ、あなたを最初の出発点に連れもどそうとするのです。すなわち、行いによって、あるいは自分自身の義によって義認を求めるところへ、です。自分のうちにある何かを、神に受けいれられる根拠にさせようとします。少なくとも、受けいれられる前に必ずなければならない条件にさせようとするのです。

(三) あるいは、私たちがこう堅く信じているとします。「すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできません。そして、この土台はイエス・キリストです」(第一コリント三・一一)。また、私は「価なしに、神の恵みにより」、イエス「によるあがないによって義とされて」います(ローマ三・二四)、と。それでもサタンは、しきりにこう迫ってやみません。「だが、木はその実でわかる(マタイ一二・三三)。あなたには義認の実があるのか。キリスト・イエスのうちにあった思い(ピリピ二・五)が、あなたのうちにあるのか。あなたは罪に死に、義に生きている(第一ペテロ二・二四)のか。キリストの死のさまとひとしくなり、その復活の力を知っている(ピリピ三・一〇)のか」。すると私たちは、自分の魂のうちに感じるわずかな実を、約束の豊かさと比べて、こう結論しそうになります。「きっと神は、私の罪が赦されたとは言われなかったのだ。きっと私は、罪の赦しを受けてはいないのだ。聖別された人々の中で(使徒二六・一八)、私に何の分があるだろうか」。

(四) とりわけ、病気や痛みのときには、サタンは全力でこれを押しつけてきます。「偽りのない方の言葉に、『きよくならなければ、だれも主を見ることはできない』(ヘブル一二・一四)とあるではないか。だが、あなたは聖くない。あなたはそれをよく知っている。聖性とは神のかたちが完全に備わることだと知っている。それは何と高く、あなたの目の届かないところにあることか。あなたはそれに達することはできない。だから、あなたの労苦はすべてむだだった。あなたが苦しんできたこともみな、むだだった。あなたはむなしく力を費した(イザヤ四九・四)のだ。あなたはいまなお罪の中にいる(第一コリント一五・一七)。だから、最後には滅びるほかないのだ」。こうして、あなたが、あなたの罪をすべてご自分の身に負われた方(第一ペテロ二・二四)に、目をしっかり注いでいないとします。そのとき、サタンは、あなたを再びあの恐怖の下に連れもどします。あなたは長い間、その「死の恐怖のために」「奴隷となっていた」(ヘブル二・一五)のです。こうしてサタンは、主にあるあなたの喜びだけでなく平安をも、すっかり滅ぼさないまでも、損なうのです。

(五) けれども、サタンの狡猾さの最高傑作は、まだ後に控えています。サタンは、あなたの平安と喜びを打つだけでは満足せず、その企てをさらに先へ進めます。あなたの義にも攻撃の矛先を向けるのです。サタンは、あなたがすでに受けた聖性を揺るがそうとします。いや、できることなら滅ぼそうとします。しかも、もっと受けること、神のかたちのすべてに達することへの、あなたの期待そのものによってです。

(六) サタンがこれをどのようにして企てるかは、すでに述べたことから、いくらか明らかでしょう。というのは、第一に、サタンは主にある私たちの喜びを打つことによって、私たちの聖性をも打つからです。聖霊における喜び(ローマ一四・一七)は、あらゆる聖い気質を育てる尊い手段だからです。それは神の選り抜きの道具であり、神はそれによって、信じる魂のうちでご自分のわざの多くを進められます。そして、それは内なる聖性だけでなく、外なる聖性にも大きな助けとなります。喜びは私たちの手を強め、信仰の働きと愛の労苦(第一テサロニケ一・三)を続けさせます。雄々しく「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得」させます(第一テモテ六・一二)。喜びは、内と外の両方の苦しみに対する釣り合いの重りとなるように、神によって特に定められています。「なえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐに」するためです(ヘブル一二・一二)。ですから、主にある私たちの喜びに水を差すものは何でも、それに比例して私たちの聖性を妨げます。それで、サタンは、私たちの喜びを揺るがす分だけ、私たちの聖性をも妨げるのです。

(七) サタンが何らかの手段で私たちの平安を滅ぼすか、揺るがすことができれば、同じ結果が生じます。神の平安(ピリピ四・七)は、私たちのうちに神のかたちを進ませる、もう一つの尊い手段だからです。聖性にとって、これ以上の助けはほとんどありません。すなわち、霊の絶えざる静けさ、神により頼む心の落ち着き、イエスの血のうちでの穏やかな安らぎです。これがなければ、「わたしたちの主」「イエス・キリストの恵みと」生きた「知識とにおいて、ますます豊かにな」る(第二ペテロ三・一八)ことは、ほとんどできません。恐れはすべて、魂を凍らせ、しびれさせるからです。ただし、優しい、子としての恐れは別です。恐れは、霊のいのちのあらゆる泉をせき止め、神に向かう心のあらゆる動きを止めてしまいます。また、疑いは、いわば魂を泥まみれにします。それで魂は、深い泥にはまりこんで動けなくなるのです。ですから、このどちらかが力をふるうのに比例して、聖性における私たちの成長は妨げられます。

(八) 私たちの賢い敵は、完全な愛の必要についての私たちの確信を、疑いと恐れで平安を揺るがすきっかけにしようとします。それと同時に、私たちの信仰を、滅ぼさないまでも弱めようとします。実に、平安と信仰とは切り離せないほど結びついていて、立つも倒れるも一緒です。信仰が続く限り、私たちは平安のうちにとどまります。心が主に信頼している間は、心はゆるぎません(詩篇一一二・七)。けれども、信仰を手放すなら、すなわち、愛し、赦してくださる神への子としての信頼を手放すなら、平安は終わります。平安が立っていた土台そのものが、くつがえされるからです。そして、信仰は、平安のただ一つの土台であり、聖性のただ一つの土台でもあります。ですから、信仰を打つものは何でも、あらゆる聖性の根そのものを打つのです。この信仰がなければ、私が神を愛することはできないからです。キリストが私を愛し、私のためにご自身をささげられた(ガラテヤ二・二〇)という、変わらない実感がなければ、そうです。神がキリストのゆえに罪人の私をあわれんでくださるという、変わらない確信がなければ、そうなのです。私たちが神を愛するのは、「神がまずわたしたちを愛してくださった」からです(第一ヨハネ四・一九)。そして、私たちの神への愛は、神が私たちを愛し、御子にあって受けいれてくださったという確信の強さと明らかさに比例します。そして、神を愛さなければ、自分を愛するように隣り人を愛する(マタイ二二・三九)ことはできません。したがって、神に対しても人に対しても、正しい情愛を持つことはできません。ここから明らかに、私たちの信仰を弱めるものは何でも、同じ程度に私たちの聖性を妨げるはずだ、ということになります。そして、これは、あらゆる聖性を滅ぼすのに最も効果的であるだけでなく、最も手っ取り早いやり方でもあります。これは、クリスチャンの気質の一つ、恵みや御霊の実(ガラテヤ五・二二)の一つだけを損なうのではないからです。うまくいく限り、神のわざ全体の根そのものを引き抜いてしまうのです。

(九) ですから、やみの世の主権者(エペソ六・一二)が、ここで全力をふるうのも不思議ではありません。実際、私たちも経験からそれを知っています。義に飢えかわいている人たち(マタイ五・六)に、この誘惑がしばしば言いようのない激しさで押しつけられるからです。その激しさは、言い表すよりも、思い描くほうがはるかにたやすいのです。彼らが、強く明るい光のうちに見るとします。一方では、自分の心がはなはだしく悪に染まっている(エレミヤ一七・九)のを見ます。他方では、キリスト・イエスにあって召されている、しみのない聖性を見ます。一方では、自分の腐敗の深さ、神からまったく離れていることの深さを見、他方では、神の栄光の高さ、聖なる方のかたちを見ます。そのかたちに、彼らは新しくされることになっているのです。そのとき、しばしば彼らのうちには、もはや元気もなくなります。彼らは、「神にもこれはできない!」と叫びそうになるのです。彼らは、信仰も望みも捨ててしまいそうになります。まさにあの確信を放棄しそうになるのです(ヘブル一〇・三五)。その確信によってこそ、彼らは、自分を強くしてくださるキリストによって(ピリピ四・一三)、すべてに打ち勝ち、何事でもすることができるはずなのです。またその確信によって、彼らは「神の御旨を行って」、「約束のものを受ける」(ヘブル一〇・三六)はずなのです。

(一〇) そして、彼らが「最初の確信を、最後までしっかりと持ち続ける」(ヘブル三・一四)なら、疑いもなく神の約束を受けます。その約束は、この世から永遠にまで及ぶのです。けれども、ここに、私たちの足もとに仕掛けられた、もう一つのわながあります。私たちは、約束のうち、この世で成就する部分を、すなわち「神の子たちの栄光の自由」(ローマ八・二一)を、熱心に慕い求めます。その間に、やがて現される栄光(ローマ八・一八)を思うことから、知らないうちにそらされてしまうかもしれません。私たちの目は、気づかないうちに、あの冠からそらされるかもしれません。それは、公平な審判者が、かの日に、「主の出現を」愛する「すべての人」に授けてくださる(第二テモテ四・八)と約束された冠です。また、私たちのために天にたくわえてある、朽ちない資産(第一ペテロ一・四)を見ることから、引き離されるかもしれません。けれども、これもまた、私たちの魂にとって損失となり、私たちの聖性の妨げとなるでしょう。目ざすところを絶えず見ながら歩むことは、私たちの参加すべき競走(ヘブル一二・一)を走るのに、必要な助けだからです。昔、モーセを励ましたのも、これでした。モーセは「報いを望み見ていた」(ヘブル一一・二六)ので、「罪のはかない歓楽にふけるよりは」、むしろ「神の民と共に虐待される」道を選び、「キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考え」たのです(ヘブル一一・二五〜二六)。いや、モーセにまさる方についても、はっきりこう言われています。その方は、「自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び」、ついに「神の御座の右に座するに至った」のです(ヘブル一二・二)。ここから、たやすく推し量ることができます。私たちにとっては、前におかれているあの喜びを見ることが、どれほどなおさら必要であることでしょう。それは、神の知恵が私たちに負わせるどんな十字架をも忍び、聖性を通って栄光へと進み続けるためです。

(一一) けれども、私たちは、この栄光を目ざし、またその備えとなるあの栄光の自由をも目ざして、手を伸ばしています。その間に、悪魔のもう一つのわなに陥る危険にさらされるかもしれません。悪魔はそのわなで、神の子たちを絡め取ろうと骨折るのです。私たちは、あすのことを思いわずらいすぎて(マタイ六・三四)、今日を生かすことをおろそかにするかもしれません。完全な愛を待ち望むあまり、すでに私たちの心に注がれている愛(ローマ五・五)を用いないかもしれません。このために大きな損失をこうむった人々の例は、事欠きません。その人々は、これから受けるものに心を奪われるあまり、すでに受けていたものをまったくおろそかにしました。あと五タラントをもらえると期待して、自分の一タラントを地の中に隠したのです(マタイ二五・二五)。少なくとも、神の栄光と自分の魂の益のために、生かせたはずのようには、それを生かしませんでした。

(一二) こうして、神と人との狡猾な敵は、神のみこころを無にしよう(ルカ七・三〇)とします。福音を内部で分れ争わせ、福音の一部に他の部分をくつがえさせることによってです。そのとき、魂のうちにある神の最初のわざは、神の完全なわざへの期待によって滅ぼされるのです。私たちは、敵がいわば聖性の泉を断つことによってこれを企てる、いくつかのやり方を見てきました。けれども、敵はまた、あの祝福に満ちた望み(テトス二・一三)を聖くない気質のきっかけにすることによって、もっと直接にもこれを行います。

(一三) たとえば、私たちの心が、尊く、大いなる約束(第二ペテロ一・四)のすべてを熱心に渇き求めるとします。しかが谷川を慕いあえぐように(詩篇四二・一)、神の満ちあふれる豊かさを慕いあえぐとします。私たちの魂が、熱い願いのあまり、「どうして彼の車の来るのがおそいのか」(士師記五・二八)と叫び出すとします。そのようなときにはいつも、敵は、私たちを誘惑して神に向かってつぶやかせる機会を逃しません。敵は、あらゆる知恵と力を使います。油断したときに、私たちが主に不平を言うように仕向けられるかもしれない、と思うからです。主がこのように来られるのを遅らせておられる、という不平です。少なくとも、いくらかのいらだちや焦りを起こさせようと骨折ります。またおそらく、上に召してくださる神の賞与(ピリピ三・一四)をすでに得たと私たちが信じる人々へのねたみを、起こさせようとします。こうした気質のどれかに身をまかせれば、私たちは、建てようとしているものそのものを引き倒していることになります。敵はそれをよく知っています。こうして完全な聖性を追い求めることによって、私たちは前よりも聖くなくなってしまいます。そうです、私たちの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる(第二ペテロ二・二〇)大きな危険があります。使徒があの恐ろしい言葉で語っている人々のようになるのです。「義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよいのです」(第二ペテロ二・二一)。

(一四) そして、敵はここから、もう一つの利益を得ようと望んでいます。すなわち、良い道について悪いうわさを立てることです。ある教えの偶然の濫用と、その本来の傾向とを区別できる人は、何と少ないことでしょう。また、区別しようとしない人も、あまりに多いのです。敵はそれを承知しています。ですから、敵は、クリスチャンの完全の教えについて、この二つを絶えず混ぜ合わせます。不注意な人々の心に、神の栄光ある約束に対する偏見をいだかせるためです。そして、敵はこのことで、何とたびたび、何と広く、ほとんど至るところでと言いたいほどに、成功してきたことでしょう。というのは、この教えから偶然生じた悪い結果のどれかを見る人は、だれでも、すぐに結論するからです。これがこの教えの本来の傾向だ、と。そして、たちまち「見よ、これがあのような教えの実だ」と叫ぶのです。ここで実と言うのは、本来の、必然的な実という意味です。そうではありません。それは、大いなる尊い真理を濫用することから、偶然生じうる実です。けれども、この教えであれ、ほかの聖書の教えであれ、それを濫用しても、その正しい用い方が損なわれることは決してありません。また、人が自分の正しい道を曲げる不真実によって、神の約束が無になることがあるでしょうか(ローマ三・三)。断じてそうではありません。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきです(ローマ三・四)。主の言葉は、必ず立ちます。「約束をしてくださったのは忠実なかたです」(ヘブル一〇・二三)。神は「このことをしてくださるでしょう」(第一テサロニケ五・二四)。ですから、私たちは、「福音の望みから移り行く」(コロサイ一・二三)ことのないようにしましょう。むしろ、第二に予告したことを考えましょう。悪しき者の放つ火の矢(エペソ六・一六)を、どうすれば投げ返せるか。敵が私たちを倒すきっかけにしようとすることによって、どうすればかえっていっそう高く上がれるか、ということです。

【二】 悪しき者の放つ火の矢を、どうすれば投げ返せるか

(一) 第一に、サタンが、主にあるあなたの喜びに水を差そうとするとします。あなたに自分の罪深さを考えさせ、そのうえ、全き、あらゆる点での聖性がなければ、だれも主を見ることはできない(ヘブル一二・一四)と考えさせるのです。あなたは、この矢をサタン自身の頭に投げ返すことができます。神の恵みによって、自分の卑しさを感じれば感じるほど、そのすべてが取り除かれるという確かな望みをいだいて、ますます喜ぶのです。この望みを堅く保っている間は、あなたが感じる悪い気質はどれも、へりくだった喜びを減らすのでなく、むしろ増す手段となりえます。たとえあなたがその気質を全く憎んでいても(詩篇一三九・二二)、そうなのです。あなたはこう言うことができます。「これも、あれも、同じように主の前から滅び去ります。ろうが火の前に溶けるように、これも主の御顔の前に溶け去ります」。こうして、あなたの魂のうちには、まだなされずに残っている変化があります。それが大きければ大きいほど、あなたはますます主にあって勝ち誇ることができます。あなたの救の神によって喜ぶ(ハバクク三・一八)ことができるのです。この神は、すでにあなたのために大いなる事をなされました(詩篇一二六・三)。そして、これよりもはるかに大いなる事をなさるのです。

(二) 第二に、サタンが、あのささやきで、あなたの平安を激しく攻撃するとします。「神は聖であり、あなたは聖くない。あなたは、あの聖性からはかり知れないほど遠く離れている。その聖性がなければ、神を見ることはできない(ヘブル一二・一四)。それなら、どうして神の恵みのうちにいられるのか。どうして自分が義とされていると思いこめるのか」。攻撃が激しければ激しいほど、あなたは、いっそう真剣に注意して、次のことを堅く保ちなさい。「私は、自分の行った義のわざによってではなく(テトス三・五)、キリストのうちに見いだされています(ピリピ三・九)。愛する御子によって受けいれられています(エペソ一・六)。私は、自分の義を持っているのではありません(ピリピ三・九)」。ここで言う自分の義とは、神の前での私たちの義認の、全体であれ一部であれ、原因となる義のことです。「私が持っているのは、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義です(ピリピ三・九)」。ああ、これをあなたの首に結びなさい。あなたの心の碑にしるしなさい(箴言三・三)。これを腕輪のように腕につけ、目の間の覚えとしなさい(申命記六・八)。「私は、『価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされ』ています(ローマ三・二四)」。私たちは「恵みにより、信仰によ」って救われている(エペソ二・八)という尊い真理を、ますます重んじ、大切にしなさい。神の価なしの恵みに、ますます感嘆しなさい。神はこの世をこれほど愛して、「そのひとり子を賜わった」(ヨハネ三・一六)のです。「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠のいのちを得るため」です(ヨハネ三・一六)。そうすれば、一方では、あなたが感じる罪深さの自覚が、他方では、あなたが待ち望む聖性の自覚が、どちらも助けとなるでしょう。あなたの平安を確かなものにし、平安を川のように流れさせる(イザヤ四八・一八)助けとなるのです。そうすれば、その平安は、不信心のあらゆる山々があっても、穏やかな流れとなって流れ続けるでしょう。その山々は、主があなたの心を完全にご自分のものにしようと来られる日に、平地となる(ゼカリヤ四・七)のです。病気も痛みも、死が近づくことも、疑いや恐れを引き起こすことはないでしょう。神にあっては、一日も、一時間も、一瞬も、千年のようである(第二ペテロ三・八)ことを、あなたは知っています。あなたの魂のうちに、まだなされずに残っていることを行われるのに、神が時間に追われることはありえません。そして、神のときは、いつも最善のときです。ですから、何事も思いわずらってはなりません。ただ、あなたの求めるところを神に申し上げなさい(ピリピ四・六)。しかも、疑いや恐れをもってではなく、感謝をもって申し上げなさい。神があなたに良い物を何一つ拒まれるはずがない(詩篇八四・一一)と、前もって確信しているからです。

(三) 第三に、あなたが、自分のたて(エペソ六・一六)を手放すように、自分の信仰を、神の愛への確信を捨てるように誘惑されるとします。誘惑が強ければ強いほど、ますます注意して、達し得たところ(ピリピ三・一六)を堅く保ちなさい。ますます励んで、あなたのうちにある神の賜物を、再び燃えたたせなさい(第二テモテ一・六)。次のことを決して手放してはなりません。「私には、『父のみもとには』、『助け主、すなわち、義なるイエス・キリスト』がおられます(第一ヨハネ二・一)。また、『わたしがいま』『生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのです』(ガラテヤ二・二〇)」。これを、あなたの誇りとし、喜びの冠としなさい(第一テサロニケ二・一九)。そして、あなたの冠がだれにも奪われないようにしなさい(黙示録三・一一)。次のことを堅く保ちなさい。「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は」「地の上に立たれます」(ヨブ一九・二五)。また、「私はいま、『その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受け』ています(エペソ一・七)」。こうして、信仰から来るあらゆる喜びと平安とに満たされて(ローマ一五・一三)、信仰の平安と喜びのうちに進み続けなさい。あなたの魂全体が、あなたを造られた方のかたちに従って新しくされる(コロサイ三・一〇)ところまで、進み続けなさい。その間、絶えず神に叫び求めなさい。上に召してくださる神の賞与(ピリピ三・一四)を見ることができるように、と。サタンが描いてみせるような、身の毛のよだつ恐ろしい姿でではなく、その本来のありのままの美しさのうちに見ることができるように、と。なければ地獄に行くことになる、なくてはならないものとしてではありません。あなたを天国へ導くために与えられうるものとして見ることができるように、と。それを、神の豊かなあわれみの倉のすべての中で、最も望ましい賜物とみなしなさい。この正しい光の中でそれを見るなら、あなたはますますそれに飢え求めるでしょう。あなたの魂全体が、神を渇き求め、神に似た者となるこの栄光ある姿を渇き求めるでしょう。そして、このことについての確かな望み(第二テサロニケ二・一六)と、恵みによる力強い励まし(ヘブル六・一八)とを受けて、あなたはもはや弱り果てて意気そそうする(ヘブル一二・三)ことなく、達するまで追い求め続けるでしょう。

(四) 同じ信仰の力のうちに、栄光へと進み続けなさい。実に、これはやはり同じ一つの見通しなのです。神は初めから、赦しと聖性と天国とを合わせられました。それなのに、なぜ人がそれを離してよいでしょうか(マタイ一九・六)。ああ、このことに気をつけなさい! この金の鎖の輪の一つも、断ち切られてはなりません。「神は、キリストのゆえに私を赦してくださいました(エペソ四・三二)。神は今、私をご自分のかたちに新しくしておられます。まもなく神は、私をご自分にふさわしい者とし、御顔の前に立たせるために私を迎えてくださいます。神は御子の血によって私を義としてくださいました。その私は、御霊によってすっかりきよめられて、すぐにも『新しいエルサレム』(黙示録二一・二)、『生ける神の都』(ヘブル一二・二二)へ上って行きます。もうしばらくすれば(ヘブル一〇・三七)、私は、『長子たちの』大いなる集いと『教会』に、『万民の審判者なる神』に、『新しい契約の仲保者イエス』に近づきます(ヘブル一二・二三〜二四)。この影は何とすぐに消え去り、永遠の日が私の上に明けそめることでしょう。私は何とすぐに、『神と小羊との御座から出て』いる『いのちの水の川』から飲むことでしょう(黙示録二二・一)。そこでは、『その僕たちは』みな、神をほめたたえ、『御顔を仰ぎ見る』のです(黙示録二二・三〜四)。『彼らの額には、御名がしるされている』のです(黙示録二二・四)。『夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する』のです(黙示録二二・五)」。

(五) あなたがこうして、神の「良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わ」う(ヘブル六・五)とします。そうすれば、まだ「光のうちにある聖徒たちの特権にあずかるに足る者」(コロサイ一・一二)になっていないからといって、神に向かってつぶやくことはないでしょう。まだすっかり解放されていないことに不平を言うかわりに、ここまで解放してくださったことのゆえに、神をほめたたえるでしょう。神がなされたことのゆえに神をあがめ、それを、神がこれからなさることの保証(第二コリント一・二二)として受け取るでしょう。まだ新しくされていないからといって、神にいらだつことはなく、やがて新しくされるのだからと、神をたたえるでしょう。また、「今は」すべての罪からのあなたの「救が、初め信じた時よりも、もっと近づいている」(ローマ一三・一一)からと、神をたたえるでしょう。まだそのときが十分に満ちていないからといって、むだに自分を苦しめるかわりに、落ち着いて静かにそのときを待つでしょう。それが「臨む。滞りはしない」(ハバクク二・三)ことを知っているからです。ですから、あなたは、まだあなたのうちに残っている罪の重荷を、今しばらくは、なおさら快く耐え忍ぶことができます。それはいつまでも残るわけではないからです。もうしばらくすれば、それはすっかりなくなります。ただ、「主のときを待ち望みなさい」。強くありなさい。そうすれば、「主はあなたの心を慰めてくださいます」。そして、主に信頼しなさい!

(六) また、すでに自分の望みにあずかり、すでに愛において全うされた(第一ヨハネ四・一八)ように見える人々を、あなたが見るとします。ただし、それは人が判断できる限りでのことです。心を探るのは、ただ神だけです(エレミヤ一七・一〇)。その人々のうちにある神の恵みをねたむどころか、それによってあなたの心を喜ばせ、慰めなさい。その人々のゆえに、神をあがめなさい。「一つの肢体が尊ばれると」、「ほかの肢体もみな共に喜ぶ」(第一コリント一二・二六)のではないでしょうか。その人々について、ねたんだり悪く勘ぐったりするかわりに、その慰めのゆえに神をほめたたえなさい。神がすべての約束を成就される真実の、新しい証拠を得たことを喜びなさい。そして、あなたも「キリスト・イエスによって捕えられている」その目的を「捕え」る(ピリピ三・一二)ために、いっそう奮い立ちなさい!

(七) そのために、時を生かして用いなさい(エペソ五・一六)。今この瞬間を生かしなさい。恵みにおいて成長する機会、善を行う機会を、一つ残らず買い取りなさい。あすもっと恵みを受けるという思いのために、今日をおろそかにしてはなりません。あなたは今、一タラントを持っています。あと五タラントを期待するなら、なおさら、持っているものを生かしなさい。これから受けることを期待すればするほど、今、神のためにいっそう働きなさい。その日の恵みは、その日一日だけで十分です。神は今、あなたの上に祝福を注いでおられます。今こそ、今の神の恵みの忠実な管理人であることを示しなさい(第一ペテロ四・一〇)。あすがどうであれ、今日、力の限りをつくして、あなたの信仰に、勇気と節制と忍耐と兄弟愛とを加えなさい(第二ペテロ一・五〜七)。そして、神を恐れる心をも加えなさい。あの清く完全な愛に達するときまで、そうしなさい。今、これらのものが「あなたがたに備わって、いよいよ豊かに」なるようにしなさい(第二ペテロ一・八)。今、怠る者、実を結ばない者となってはなりません(第二ペテロ一・八)。「こうして、わたしたちの主」「イエス・キリストの永遠の国に入る恵みが」与えられるのです(第二ペテロ一・一一)!

(八) 最後に、神が聖であるように聖くなる(第一ペテロ一・一五〜一六)というこの祝福に満ちた望みを、あなたが以前に濫用したことがあるとします。それでも、だからといって、それを捨ててはなりません。濫用はやめ、正しく用いることは続けなさい。今、神のいっそう豊かな栄光と、自分の魂の益のために、それを用いなさい。あなたがたは、揺るがない信仰のうちに、霊の穏やかな静けさのうちに、望みの全き確信のうちに、進みなさい。神のなされたことを、いつも喜びながら(第一テサロニケ五・一六)、完全を目ざして進みなさい(ヘブル六・一)。日ごとに、私たちの主イエス・キリストを知る知識において成長しなさい(第二ペテロ三・一八)。ゆだねる心と忍耐のうちに、また、すでに得たものとこれから得るものとへのへりくだった感謝のうちに、力から力に進みなさい(詩篇八四・七)。そして、「イエスを仰ぎ見つつ」(ヘブル一二・二)、あなたがたの参加すべき競走(ヘブル一二・一)を走りなさい。完全な愛を通して、主の栄光にはいるときまで、走り続けなさい!