説教四十一 さまよう思い
「すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ」(第二コリント一〇・五)
(一) けれども、神は「すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ」てくださる(第二コリント一〇・五)のでしょうか。それも、私たちがまだ肉体のうちにいる間でさえ、さまよう思いが心に入りこむ余地がまったくないほどにでしょうか。ある人々は、そうだと激しく主張してきました。いや、こう断言してきました。すべてのさまよう思いがなくなるほどに悟りにおいても全うされていなければ、だれも愛において全うされてはいない、と。すべての情愛と気質が聖く、正しく、善いだけでは足りない、と言うのです。心に浮かぶ思いの一つ一つまでが賢く、秩序正しくなければ、愛において全うされてはいない、と。
(二) これは、決して小さくない問題です。というのも、神を恐れ、いや、おそらく心をつくして神を愛している人々の中にさえ、このことでひどく苦しんできた人が、何と多いことでしょう。これを正しく理解しなかったために、苦しんだだけでなく、魂にひどい傷を負った人も、何と多いことでしょう。彼らは、益のない、いや、害のある理屈に投げこまれました。その理屈は、神に向かう彼らの歩みをゆるめ、参加すべき競走(ヘブル一二・一)を走る力を弱めたのです。いや、まさにこのことを誤解したために、神の尊い賜物を捨ててしまった人も多いのです。彼らは、神が自分の魂になされたわざを、まず疑い、次には否定するように誘われました。こうして神の御霊を悲しませ(エペソ四・三〇)、ついに御霊は退いて、彼らをまったくの暗やみに残されたのです!
(三) では、どうしたことでしょうか。近ごろは、ほとんどあらゆる主題について多くの本が出版されています。それなのに、さまよう思いについての本は一冊もありません。少なくとも、落ち着いた真剣な心を少しでも満足させる本は、一冊もないのです。そこで、いくらかでもその心を満足させるために、私は次のことを調べようと思います。第一に、さまよう思いには、どんな種類があるか。第二に、さまよう思いは、一般に何によって生じるか。第三に、そのうちどれが罪であり、どれが罪でないか。第四に、そのうちどれから解放されることを期待し、祈り求めてよいか、です。
【一】 さまよう思いには、どんな種類があるか
(一) 第一に、さまよう思いにはどんな種類があるかを調べます。細かな種類は数えきれません。けれども、大きく分ければ二種類です。神からさまよう思いと、今取り組んでいる特定の事柄からさまよう思いです。
(二) 前者について言えば、私たちの思いは、生れながらにすべてこの種類のものです。私たちの思いは、絶えず神からさまよっているからです。私たちは、神のことを何も考えません。私たちの思いのどこにも、神はいません(詩篇一〇・四)。使徒が言うように、私たちは一人残らず、「この世の中で」「神もない者」(エペソ二・一二)です。私たちは、自分の愛するものを思います。けれども、神を愛してはいません。ですから、神のことを思わないのです。あるいは、ときおり、しばらく神のことを考えないわけにいかなくなるとします。それでも、私たちはそれを喜びとしません。いや、むしろ、その思いは味気ないだけでなく、いとわしく、わずらわしいものです。それで、私たちはできるだけ早くその思いを追い出し、思うのが好きなものへと戻るのです。こうして、世と世にあるもの(第一ヨハネ二・一五)が、私たちの時間をすべて奪い、思いをすべて占めてしまいます。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか(マタイ六・三一)。何を見ようか、何を聞こうか、何を得ようか。どうやって感覚や想像を楽しませようか、ということです。ですから、世を愛している限り、すなわち生れながらの状態にある限り、私たちの思いはすべて、さまよう思いにほかなりません。朝から晩まで、晩から朝まで、そうなのです。
(三) けれども、多くの場合、私たちは「この世の中で」「神もない者」(エペソ二・一二)であるだけではありません。神に逆らって戦ってもいます。すべての人のうちには、生れつき「肉の思い」があり、それは「神に敵する」からです(ローマ八・七)。ですから、人が不信仰な思いにあふれているのも、不思議ではありません。人は、心のうちに「神はない」(詩篇一四・一)と言ったり、神の力や知恵、あわれみや正義や聖性を、否定しないまでも疑ったりするのです。人が神の摂理を、少なくとも摂理がすべての出来事に及ぶことを、たびたび疑うのも、不思議ではありません。また、摂理を認めていても、なお不平や不満の思いをいだくのも、不思議ではありません。これらに近く、またしばしばこれらと結びついているのが、高慢でむなしい想像です。また、人はときには、怒りや悪意や復讐の思いにとらわれます。別のときには、感覚であれ想像であれ、快楽のとりとめのない光景にとらわれます。それによって、地につく肉的な心は、ますます地につき、肉的になるのです。さて、これらすべてによって、人は神に公然と戦いをいどんでいます。これらは、最もひどい種類のさまよう思いです。
(四) これらと大きく違うのが、もう一つの種類のさまよう思いです。そこでは、心が神からさまようのではなく、悟りが、そのとき目の前にあった特定の事柄からさまようのです。たとえば、私は腰をおろして、主題聖句の前の節の言葉を考えます。「わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく」、神によって力あるものです(第二コリント一〇・四)。私は思います。「クリスチャンと呼ばれる者はみな、こうあるべきだ。ところが、実際は何とかけ離れていることか。キリスト教世界と呼ばれるところの、ほとんどどの部分でもよい、見回してみるがよい。この人々は、どんな武器を使っているのか。どんな戦いをしているのか。
人々は悪鬼のように互いに引き裂き合う、地獄のような戦いの狂乱のただ中で。
「見よ、このクリスチャンたちが、互いに何と愛し合っていることか! 彼らは、トルコ人や異教徒より、どこがまさっているのか。イスラム教徒や異教徒のうちに見られる忌まわしいことで、クリスチャンのうちにも見られないものが、何かあるだろうか」。こうして、私の心は、気づかないうちに、一つの事柄から別の事柄へと走って行きます。さて、これらはみな、ある意味でさまよう思いです。神からさまようのではなく、まして神に逆らって戦うのでもありません。それでも、私が目の前に置いていた特定の事柄からは、確かにさまよっているからです。
【二】 さまよう思いは、一般に何によって生じるか
以上が、さまよう思いの性質であり、種類です。哲学的にというより、役に立つように言えば、そうなります。では、さまよう思いは、一般に何によって生じるのでしょうか。これを第二に考えなければなりません。
(一) 前者の種類の思いとは、神に逆らい、神からさまよう思いです。それが一般に罪深い気質から生じることは、たやすく見てとれます。たとえば、生れながらの人の思いのどこにも、いや、どの一つの思いにも、神がいないのはなぜでしょうか。理由は明らかです。富んでいても貧しくても、学があってもなくても、その人は無神論者だからです。世間ではそう呼ばれていなくても、そうなのです。その人は、神を知りもせず、愛しもしません。その人の思いが、絶えず世を追ってさまようのはなぜでしょうか。偶像礼拝者だからです。確かに、像を拝んだり、木のはしくれの前にひれ伏したり(イザヤ四四・一九)はしません。それでも、同じように滅びに値する偶像礼拝に沈んでいます。世を愛しているのです。すなわち、世を拝んでいるのです。その人は、見えるもの(第二コリント四・一八)のうちに、使えば尽きてしまう(コロサイ二・二二)快楽のうちに、幸いを求めます。その人の存在のまさに目的は、キリストにある神を知ることです。その人の思いが、その目的からいつもさまよっているのはなぜでしょうか。不信仰な者だからです。信仰を持っていないからです。少なくとも、悪魔以上の信仰は持っていないからです。こうして、これらのさまよう思いはみな、不信仰という悪い根から、たやすく自然に生じるのです。
(二) ほかの場合も同じです。高慢、怒り、復讐心、虚栄、情欲、貪欲は、どれもみな、それぞれの性質にふさわしい思いを生じさせます。人の心が持ちうる罪深い気質は、どれもそうです。その一つ一つを数え上げることは、ほとんどできませんし、その必要もありません。次のことに注意すれば十分です。ある魂のうちに悪い気質が住みついていれば、その数と同じだけの道で、その魂は神から離れて行きます。最も悪い種類のさまよう思いによって離れるのです。
(三) 後者の種類のさまよう思いを生じさせるものは、きわめてさまざまです。その多くは、魂と体との自然の結びつきによって生じます。病んだ体によって、悟りは何とすぐに、何と深く影響を受けることでしょう! 脳の中で血が不規則に動きさえすれば、秩序だった思考はすべて終わってしまいます。激しい狂気が起こります。そうなれば、落ち着いた思考には、もう別れを告げるほかありません。そうです、ただ精気がある程度まで急き立てられたり、かき乱されたりするだけで、一時的な狂気、すなわちせん妄が起こります。そして、定まった思考はすべて妨げられます。また、同じ思考の乱れは、ある程度まで、あらゆる神経の病によっても生じるのではないでしょうか。こうして、「朽ちる体は魂を押さえつけ、多くのことに思いをめぐらさせる」のです。
(四) けれども、体がこうした思考の乱れを生じさせるのは、病気のときや、異常な不調のときだけでしょうか。いいえ、程度の差はあっても、いつでも、完全に健康な状態のときでさえ、そうなのです。どれほど健康な人でも、二十四時間ごとに、多かれ少なかれせん妄状態になります。というのは、人は眠るのではありませんか。そして、眠っている間は、夢を見がちではありませんか。そのとき、だれが自分の思いの主人でいられるでしょうか。だれが思いの秩序とつながりを保てるでしょうか。だれがそのとき、思いを一つの事柄に固定しておけるでしょうか。思いが地の果てから果てまでさまようのを、だれが防げるでしょうか。
(五) けれども、目を覚ましているとします。それでも、私たちはいつも、自分の思いをしっかり治められるほど目覚めているでしょうか。体というこの機械の性質そのものによって、私たちは、反対の両極端に避けがたくさらされているのではないでしょうか。ときには、重すぎ、鈍すぎ、だるすぎて、思考の筋道を少しもたどれません。またときには、逆に、活発すぎます。想像は、許しも得ずにあちこちへ飛び出し、私たちが望もうと望むまいと、私たちをあちらこちらへ連れ去ります。しかも、これはみな、ただ精気の自然な動きや、神経の振動から起こるのです。
(六) さらに、私たちの観念のさまざまな連合からも、何と多くの思考のさまよいが生じうることでしょう。この連合は、私たちのまったく知らないうちに、私たちの選択とはかかわりなく作られます。このつながりがどのようにしてできるのかは、分かりません。けれども、それは無数の違ったしかたでできるのです。最も賢い人、最も聖い人でさえ、その連合を断ち切ることはできません。また、その必然の結果、日々目にする結果を防ぐこともできません。火が導火線の一端に触れさえすれば、火はたちまち他の端まで走ります。
(七) もう一つあります。私たちが、ある主題に、できる限り熱心に注意を集中しているとします。それでも、快楽か苦痛が生じれば、特にそれが激しいものなら、それはすぐに私たちの注意を求め、思いを自分に引きつけます。それは、最も落ち着いた黙想をも妨げ、心を好きな主題からそらします。
(八) さまよう思いを生じさせるこれらのものは、内にあって、私たちの本性そのものに織りこまれています。けれども、さまよう思いは、同じように、外の物のさまざまな刺激からも、自然に、また必然的に生じます。目や耳といった感覚の器官を打つものは何でも、心に知覚を起こします。それで、見たり聞いたりするものは何でも、それまでの思考の流れに割りこんできます。ですから、私たちの目の前で何かをし、私たちの聞こえるところで何かを話す人はだれでも、私たちの心をさまよわせます。それまで考えていた事柄から、多かれ少なかれ離れさせるのです。
(九) また、疑いもなく、悪霊どもは、これまで述べたあらゆる機会を利用して、私たちの心を急き立て、かき乱します。この悪霊どもは、食いつくすべきものを絶えず求めている(第一ペテロ五・八)のです。彼らは、ときにはこの手段で、ときにはあの手段で、私たちを悩ませ、まごつかせます。そして、神の許される限り、私たちの思いを妨げます。特に、思いが最も良い主題に向けられているときに、そうするのです。これは少しも不思議ではありません。彼らは、思考の源そのものを理解しているに違いありません。また、想像も悟りも、心のほかのあらゆる働きも、体のどの器官により直接に依存しているかを知っているに違いありません。それによって、彼らは、その器官に働きかけて、それに依存する働きを左右するすべを知っています。これに加えて、彼らは、これまで述べた手段を何も使わずに、無数の思いを注ぎこむことができます。物質が物質に働きかけるのと同じように、霊が霊に働きかけるのは自然なことだからです。これらのことを考えれば、私たちの思いが、目の前に置いた事柄から、これほどたびたびさまようのも、驚くにはあたりません。
【三】 どれが罪であり、どれが罪でないか
(一) どんな種類のさまよう思いが罪であり、どれが罪でないかが、第三に調べるべきことです。まず第一に、神からさまよう思い、私たちの心に神の場所を残さない思いは、みな疑いもなく罪です。これらはみな、実践上の無神論を含んでおり、これらによって、私たちは、この世の中で神もない者(エペソ二・一二)となるからです。まして、神に反する思い、神への反抗や敵意を含む思いは、なおさら罪です。不平や不満の思いはみなそうです。それは事実上、あなたが「王になるのをわれわれは望んでいない」(ルカ一九・一四)と言っているのです。不信仰な思いもみなそうです。それが神の存在についてであっても、神の属性や摂理についてであっても、そうです。私の言う摂理とは、宇宙のすべての人々だけでなく、すべての物にも及ぶ、神の個別の摂理のことです。それなしには、すずめの「一羽も地に落ちることはない」(マタイ一〇・二九)摂理です。それによって、私たちの「頭の毛」が「みな数えられている」(マタイ一〇・三〇)摂理です。というのは、世間で言う一般的な摂理、つまり個別の摂理と区別されたものは、体裁がよく響きのよい言葉にすぎないからです。それは、まったく何も意味しません。
(二) また、罪深い気質から生じる思いは、みな疑いもなく罪です。たとえば、復讐心に満ちた気質から、高慢や情欲や虚栄から生じる思いが、そうです。「悪い木が良い実をならせることはできません」(マタイ七・一八)。ですから、木が悪ければ、その実も悪いはずです。
(三) 罪深い気質を生み出したり、養ったりする思いも、同じく罪であるはずです。高慢や虚栄、怒りや世への愛を生じさせる思いも、そうです。これらの、あるいはほかの聖くない気質や情念や情愛を強め、増す思いも、そうです。悪から流れ出るものだけでなく、悪へ導くものも、みな悪だからです。魂を神から遠ざけ、魂を地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なもの(ヤコブ三・一五)にし、またそうしておこうとするものは、みな悪なのです。
(四) ですから、弱さや病気、体の自然のしくみ、魂と体の生命の結びつきの法則によって生じる思いでさえ、罪となります。それは、その思いが私たちのうちに何かの罪深い気質を生み出したり、はぐくんで増したりするときです。その思いは、それ自体ではどれほど罪のないものであっても、そのときには罪となるのです。たとえば、肉の欲、目の欲、持ち物の誇(第一ヨハネ二・一六)がそうです。同じように、ほかの人の言葉や行いによって生じるさまよう思いもあります。それが何かのまちがった性向を生じさせたり、養ったりするなら、そのときから罪となります。悪魔によってささやかれたり、注ぎこまれたりする思いについても、同じことが言えます。その思いが、何かの地につく気質や悪魔的な気質に仕えるとき、それは、仕えている気質と同じように罪となります。私たちがその思いに場所を与え、それによって自分のものにするときには、いつでもそうなるのです。
(五) けれども、こうした場合を別にすれば、後者の意味でのさまよう思いは、少しも罪ではありません。後者の意味とは、悟りが目の前の事柄からさまよう思いのことです。血管の中の血の動きや、脳の中の精気の動きが罪でないのと同じです。その思いが、弱い体質から、あるいは偶然の弱さや不調から生じるとします。それなら、弱い体質や不調な体を持つことが罪でないのと同じく、その思いにも罪はありません。神経の具合の悪さも、どんな種類の熱も、一時的なせん妄も長く続くせん妄も、まったく罪のない状態と両立しえます。確かに、だれもそれを疑いません。また、健康な体と結ばれた魂のうちに、さまよう思いが生じるとします。それは、体と魂の自然な結びつきから生じることもあるでしょう。思考に仕える体の器官に起こりうる無数の変化の、どれかから生じることもあるでしょう。そのどの場合にも、その思いは、それが生じた原因と同じく、まったく罪がありません。観念の偶然の、意志によらない連合から生じるときも、同じです。
(六) ほかの人々がさまざまに私たちの感覚に働きかけることによって、私たちの思いが目の前の事柄からさまようとします。その場合も、その思いには同じく罪がありません。私が見たり聞いたりするものを理解するのは、目や耳を持つことが罪でないのと同じく、罪ではないからです。多くの場合、私は、見ること、聞くこと、理解することを避けられないのです。「しかし、悪魔がさまよう思いを注ぎこむなら、その思いは悪いのではないか」。その思いは、わずらわしいものです。その意味では悪いものです。けれども、罪ではありません。悪魔が、耳に聞こえる声で主に語ったのかどうかは、私には分かりません。悪魔は、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」(マタイ四・九)と言いました。そのとき、おそらく主の心にだけ語ったのでしょう。けれども、悪魔が内に語ったにせよ外に語ったにせよ、主は疑いもなく、悪魔の言ったことを理解されました。ですから、主は、その言葉に対応する思いを持たれたのです。けれども、それは罪深い思いだったでしょうか。そうでなかったことを、私たちは知っています。主には、行いにも、言葉にも、思いにも、なんらの罪もありませんでした(第一ヨハネ三・五)。サタンは、主に従うだれにでも、同じ種類の無数の思いを注ぎこむかもしれません。けれども、その思いにも何の罪もありません。
(七) ですから、こうしたさまよう思いは、どれも完全な愛と矛盾しません。不注意な人々が何と断言してきたにせよ、そうなのです。彼らはそう断言して、主が悩ますことをなさらなかった人々を悩ましてきました(エゼキエル一三・二二)。実に、もし矛盾するなら、激しい痛みだけでなく、眠りそのものも、完全な愛と矛盾することになるでしょう。激しい痛みがそうなるのは、次の理由からです。痛みが起こるときにはいつも、それまで何を考えていたにせよ、思考が妨げられ、当然、思いが別の流れへ引きこまれるのです。そうです、眠りそのものも矛盾することになります。眠りは、何も感じず、何も分からない状態だからです。また、ふつう、地上をさまよう、とりとめのない、でたらめな、まとまりのない思いが混じる状態だからです。けれども、確かに、これらは完全な愛と両立します。それなら、この種のさまよう思いも、みな両立するのです。
【四】 どれから解放されることを期待し、祈り求めてよいか
(一) これまで述べたことから、最後の問いにはっきり答えるのはたやすいことです。どんな種類のさまよう思いから解放されることを期待し、祈り求めてよいか、という問いです。
前者の種類のさまよう思いとは、心が神からさまよう思いです。神の御旨に反する思い、私たちをこの世の中で神もない者(エペソ二・一二)にしておく思いです。愛において全うされた人はみな、こうした思いから、疑いもなく解放されています。ですから、この解放は期待してよいのです。これを祈り求めてよいのです。いや、祈り求めるべきなのです。この種のさまよう思いは、神への敵意とまではいかなくても、不信仰を含んでいます。けれども、神はこの両方を滅ぼし、すっかり終わらせてくださいます。実に、罪深いさまよう思いのすべてから、私たちは完全に解放されるのです。愛において全うされた人はみな、これから解放されています。そうでなければ、罪から救われてはいないことになります。人も悪霊も、あらゆるしかたで彼らを誘惑するでしょう。けれども、彼らに打ち勝つことはできません。
(二) 後者の種類のさまよう思いについては、事情が大きく違います。原因が取り除かれるまでは、結果がやむことを期待するのは、道理に合いません。けれども、これらの原因やきっかけは、私たちが肉体のうちにいる限り残ります。ですから、その間は、結果も残ると信じる十分な理由があるのです。
(三) もっと具体的に言いましょう。ある魂が、どれほど聖くても、不調な体に住んでいるとします。脳がすっかり乱れて、激しい狂気が生じるとします。その乱れが続く限り、思いはみな、でたらめで、つながりのないものになるのではないでしょうか。熱のために、せん妄と呼ばれる一時的な狂気が生じるとします。そのせん妄が去るまで、思考に正しいつながりがありうるでしょうか。そうです、神経の病と呼ばれるものが高じて、少なくとも部分的な狂気を生じさせるとします。そのとき、無数のさまよう思いが生じるのではないでしょうか。そして、この乱れた思いは、それを生じさせる病が続く限り、続かないわけにはいかないのではないでしょうか。
(四) 激しい痛みから必然的に生じる思いについても、同じではないでしょうか。その思いは、自然の犯すことのできない秩序によって、痛みが続く間は、多かれ少なかれ続きます。理解力や判断力や想像力に、体の生れつきの体質から来る欠陥があって、思考が乱され、断たれ、妨げられることがあります。その場合にも、同じようにこの秩序が当てはまります。また、説明のつかない、意志によらない観念の連合から、何と多くの妨げが生じうることでしょう。さて、これらはみな、直接にせよ間接にせよ、朽ちる体が心を押さえつけることによって生じます。ですから、「この朽ちるものが朽ちないものを着」る(第一コリント一五・五四)ときまでは、それが取り除かれることも期待できません。
(五) 今、私たちは人々に取り囲まれていて、その中で見たり聞いたりするものによって、さまよう思いが生じます。そうした思いから解放されるのは、私たちがちりの中に横たわるときだけです。これを避けるには、この世から出て行かねばなりません(第一コリント五・一〇)。私たちが世にとどまり、まわりに男や女がいて、私たちに見る目と聞く耳がある限り、日々見聞きするものは必ず心に働きかけるからです。そして、多かれ少なかれ、それまでの思考に割りこみ、それを妨げるのです。
(六) また、悪霊どもがこのみじめで乱れた世をあちこち歩きまわっている限り、彼らは、血肉を持つすべての住人を襲うでしょう。打ち勝てても、打ち勝てなくても、襲うのです。彼らは、滅ぼすことのできない人々さえ悩ませます。征服できなくても、攻撃するのです。休むことも疲れることも知らないこの敵の攻撃から、すっかり解放されることは期待できません。「悪人も、あばれることをやめ、うみ疲れた者も、休みを得」る(ヨブ三・一七)所に宿るまでは、そうなのです。
(七) 全体をまとめましょう。悪霊によって生じるさまよう思いから解放されることを期待するとします。それは、悪魔が死ぬか、眠りこむか、少なくとも、もはやほえたけるししのように歩き回らない(第一ペテロ五・八)ことを期待するのと同じです。ほかの人々によって生じる思いから解放されることを期待するのは、人が地上からいなくなることを期待するのと同じです。あるいは、私たちが人々からまったく隔てられ、何の交わりも持たなくなることを期待するのと同じです。あるいは、目があっても見ず、耳で聞かず、木や石のように何も感じなくなることを期待するのと同じです。そして、体によって生じる思いから解放されるように祈るのは、事実上、体を離れられるように祈ることです。そうでなければ、それは、不可能でばかげたことを祈ることになります。矛盾を両立させてくださるようにと、神に祈ることになるのです。朽ちる体との結びつきを続けさせながら、その結びつきの自然で必然的な結果を取り除いてくださるように、と。それは、御使いであると同時に人であり、死ぬものであると同時に死なないものであるように祈るようなものです。いいえ! 死なないものが来るとき、死ぬべきものはすたれるのです。
(八) むしろ、霊で祈ると共に、知性でも祈りましょう(第一コリント一四・一五)。これらすべてのことが、共に働いて私たちの益となるように(ローマ八・二八)と祈るのです。本性のあらゆる弱さ、人々によるあらゆる妨げ、悪霊のあらゆる攻撃とささやきを、私たちが耐え忍ぶように祈りましょう。そのすべてにおいて「勝ち得て余りがある」(ローマ八・三七)者となるように祈りましょう。すべての罪から解放されるように祈りましょう。根も枝も滅ぼされるように祈りましょう。「肉と霊とのいっさいの汚れから」(第二コリント七・一)、すべての悪い気質と言葉と行いから、きよめられるように祈りましょう。私たちが「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なる」私たちの「神を愛」する(マルコ一二・三〇)ように祈りましょう。御霊の実(ガラテヤ五・二二)のすべてが私たちのうちに見いだされるように祈りましょう。愛、喜び、平和だけでなく、「寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ五・二二〜二三)も見いだされるように祈るのです。これらすべてのものが栄え、満ちあふれ、あなたがたのうちにますます増し加わるように祈りなさい。私たちの主イエス・キリストの永遠の国にはいる恵みが、あなたがたに豊かに与えられる(第二ペテロ一・一一)ときまで、そう祈りなさい!