説教四十 クリスチャンの完全
「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく」(ピリピ三・一二)
(一) 聖書の中で、この言葉ほど人の反感を買ってきた言葉は、ほとんどありません。「完全」という語に、多くの人は耐えられません。その響きを聞くだけで、彼らは忌みきらいます。よく言われるように、完全を説く者、すなわち、完全はこの世で到達できると主張する者がいます。そういう者はだれでも、彼らから、異邦人や取税人(マタイ一八・一七)よりも悪い者とみなされる大きな危険を冒すのです。
(二) そのため、こうした言葉を使うのをすっかりやめるように勧めた人々もいます。「それはあまりにも大きな反感を買ってきたから」というのです。けれども、こうした言葉は、神のみことばの中にあるのではないでしょうか。そうなら、たとえすべての人が反感をいだくとしても、神の使者は、どんな権威によってそれをわきに置けるでしょうか。私たちは、そのようにキリストに学んだのではありません(エペソ四・二〇)。また、そのようにして悪魔に機会を与えてはなりません(エペソ四・二七)。神が語られたことは何でも、私たちも語ります。人々が聞いても、拒んでも(エゼキエル二・七)、語るのです。私たちは知っているのです。キリストの教役者は、「神のみ旨を皆あますところなく」人々に「伝えておいた」(使徒二〇・二七)ときにだけ、「すべての人の血について、なんら責任がない」(使徒二〇・二六)者となれる、と。
(三) ですから、私たちはこうした言葉をわきに置いてはなりません。これは人の言葉ではなく、神の言葉だからです。けれども、その意味を説明することはできますし、またそうすべきです。それは、心の誠実な人々が、上に召してくださる神の賞与を得る目標(ピリピ三・一四)から、右にも左にもそれないためです。そして、このことはなおさら必要です。先に読んだ節で、使徒は自分のことを、完全ではないと言っているからです。使徒は、「すでに完全な者になっているとか言うのではなく」(ピリピ三・一二)と言います。それなのに、そのすぐ後の一五節では、自分を、いや、ほかの多くの人々をも、完全な者として語っています。「わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきです」(ピリピ三・一五)と言うのです。
(四) ですから、この見かけの矛盾から生じる難点を取り除きたいと思います。また、目標を目ざして走っている(ピリピ三・一四)人々に光を与え、足のなえている者が踏みはずすことのない(ヘブル一二・一三)ようにしたいと思います。そのために、私は次のことを示すように努めます。第一に、クリスチャンはどういう意味で完全でないか。第二に、どういう意味で完全であるか、です。
【一】 クリスチャンはどういう意味で完全でないか
(一) 第一に、クリスチャンがどういう意味で完全でないかを示すように努めます。経験からも聖書からも、次のことが明らかです。第一に、クリスチャンは知識において完全ではありません。この世では、無知から解放されるほど完全ではないのです。クリスチャンは、ほかの人々と同じように、今の世にかかわる多くのことを知っているかもしれません。また、来るべき世については、神が啓示された全般的な真理を知っています。同じように、クリスチャンは、「神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わった」(第一ヨハネ三・一)かを知っています。これは、生れながらの人が受けいれないことです(第一コリント二・一四)。こうしたことは、御霊によって判断されるべきものだからです。彼らは、自分の心のうちで御霊が力強く働かれる(エペソ三・一六)ことを知っています。また、神の摂理の知恵を知っています。その摂理は、彼らのすべての道をまっすぐにし(箴言三・六)、万事を益となるようにしてくださる(ローマ八・二八)のです。そうです、彼らは、生活のどんな場合にも、主が自分に何を求めておられるかを知っています。また、どうすれば神に対しまた人に対して、良心に責められることのない状態を保てるか(使徒二四・一六)を知っています。
(二) けれども、彼らの知らないことは数えきれません。全能者ご自身については、彼らは、その限界を窮めることができません(ヨブ一一・七)。「見よ、これらはただ彼の道の端にすぎません」。「しかし、その力のとどろきに至っては、だれが悟ることができるでしょうか」(ヨブ二六・一四)。彼らには悟れません。天においてあかしをするものが三つ、すなわち父と子と聖霊とがあり、この三つが一つである(第一ヨハネ五・七)のは、どうしてなのか。永遠の神の御子が、どのようにして「僕のかたちをと」られた(ピリピ二・七)のか。こうしたことが悟れないのは、言うまでもありません。神の性質(第二ペテロ一・四)の属性の一つさえ、事情の一つさえ、悟れないのです。また、神が地上でその大いなるわざを行われる時期や場合は、彼らの知る限りではありません(使徒一・七)。神が世の初めから、そのしもべである預言者たちによって部分的に示してこられた(アモス三・七)ことさえ、知りえないのです。まして、神が「選ばれた者の数を満たして、御国を早められる」(祈祷書「埋葬式」)のは、いつなのか。「天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ」る(第二ペテロ三・一〇)のは、いつなのか。それは、なおさら知りません。
(三) 神が今、人の子らを扱っておられる多くのわざについてさえ、彼らはその理由を知りません。ただ、次のことに安んじるほかないのです。「雲と暗やみとはそのまわりにあり」ますが、「義と正とはそのみくらの基です」(詩篇九七・二)。そうです、彼ら自身に対する神の扱いについても、主はしばしばこう言われます。「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるでしょう」(ヨハネ一三・七)。いつも目の前にあるもの、神の御手による目に見えるわざについてさえ、彼らは何と少ししか知らないことでしょう! 神が「北の天を空間に張り、地を何もない所に掛けられる」(ヨブ二六・七)のは、どのようにしてなのか。この巨大な機械のすべての部分を、断ち切れない秘密の鎖でどのように結び合わせておられるのか。最も善い人々でさえ、その無知はこれほど大きく、その知識はこれほど乏しいのです!
(四) ですから、この世で無知から解放されるほど完全な人は、だれもいません。第二に、誤りから解放されるほど完全な人もいません。誤りは、実に、無知からほとんど避けがたく生じるものです。「知るところは、今は一部分にすぎない」(第一コリント一三・一二)者は、知らないことについて、いつもまちがいやすいからです。確かに、神の子たちは、救いに欠かせないことについてはまちがいません。「暗きを光とし、光を暗し」とする(イザヤ五・二〇)ことはありません。また、「自分の生活の迷いによって死を求める」こともありません。彼らは「神に教えられる」(ヨハネ六・四五)からです。そして、神が彼らに教える道、すなわち聖なる道は、きわめて明らかです。旅人は、たとえ「愚かなる者」でも、「そこに迷い入ることはない」(イザヤ三五・八)ほどなのです。けれども、救いに欠かせないものでないことについては、彼らもまちがいます。しかも、たびたびまちがうのです。最も善く、最も賢い人々も、事実についてさえ、たびたびまちがいます。本当にあったことをなかったと信じたり、なされなかったことをなされたと信じたりするのです。あるいは、事実そのものについてはまちがわないとします。それでも、その事情についてはまちがうことがありえます。その事情の全部か多くが、実際とはまったく違っていたと信じるのです。そこから、さらに多くの誤りが生じないわけにはいきません。そのために、過去や現在の悪い行いを善いと信じ、善い行いを悪いと信じることがありえます。またそのために、人の人柄について、真実に従わない判断を下すことがありえます。善い人を実際より善いと思ったり、悪い人を実際より悪いと思ったりするだけではありません。ひどく悪い人を善い人だと信じることもあります。あるいは、聖く、責められるところのない人を、悪い人だと信じることもあるかもしれません。
(五) いや、聖書そのものについても、最も善い人々でさえ、まちがいやすく、実際に日々まちがっています。どれほど注意して避けようとしても、そうなのです。とりわけ、実践にあまり直接かかわらない部分については、そうです。ですから、神の子たちでさえ、聖書の多くの箇所の解釈について一致していません。けれども、意見が違うことは、どちらかの側が神の子でないという証拠にはなりません。それはむしろ、生きている人のだれにも誤りがないことは期待できない、という証拠です。全知であることを期待できないのと同じです。
(六) この項目と前の項目で述べたことに対して、次のような反論があるとします。使徒ヨハネは信仰の兄弟たちに語って、こう言っているではないか。あなたがたは「聖なる者に油を注がれている」ので、すべてのことを知っている(第一ヨハネ二・二〇)、と。答えは明らかです。「あなたがたは、自分の魂の健康に必要なすべてのことを知っている」という意味です。使徒がこの言葉をそれ以上に広げるつもりは決してなかったこと、絶対的な意味で言うことはできなかったことは、明らかです。第一に、そうでなければ、使徒は弟子を「その師以上のもの」(マタイ一〇・二四)として描くことになるからです。キリストご自身でさえ、人としては、すべてのことを知っておられたわけではないのです。キリストはこう言われました。「その時は、だれも知りません」。「子も知らない、ただ父だけが知っておられます」(マルコ一三・三二)。第二に、そのあとに続く使徒自身の言葉から明らかです。「わたしは、あなたがたを惑わす者たちについて、これらのことを書きおくりました」(第一ヨハネ二・二六)。また、使徒がたびたび繰り返している「だれにも惑わされてはなりません」(第一ヨハネ三・七)という戒めからも明らかです。もし、聖なる者から油を注がれた(第一ヨハネ二・二〇)まさにその人々が、無知だけでなく誤りにも陥りやすいのでなかったとします。それなら、この戒めはまったく不要だったでしょう。
(七) ですから、クリスチャンでさえ、無知からも誤りからも解放されるほど完全ではありません。第三に、弱さからも解放されていない、と付け加えることができます。ただ、この語を正しく理解するように気をつけましょう。ある人々がするように、自分で知っている罪に、この穏やかな名前を付けないようにしましょう。たとえば、ある人は私たちに、「人にはだれでも弱さがある。私の弱さは酒に酔うことだ」と言います。別の人には汚れの弱さがあり、また別の人には、神の聖なる御名をみだりに唱える(出エジプト二〇・七)弱さがあります。さらに別の人には、兄弟に「ばか者」と言う(マタイ五・二二)弱さや、「悪口をもって悪口に報い」る(第一ペテロ三・九)弱さがあります。このように言うあなたがたはみな、悔い改めないなら、その弱さを抱えたまま、生きながら地獄に下ることは明らかです。けれども、私がここで弱さと言うのは、本来、体の弱さと呼ばれるものだけではありません。道徳的な性質を持たない、内面や外面のあらゆる不完全さのことです。たとえば、悟りの弱さや遅さ、理解の鈍さや混乱、思考のまとまりのなさ、想像力の不規則な速さや重さがそうです。この種のものをこれ以上は挙げませんが、すぐに思い出す記憶力や、よく覚えておく記憶力が欠けていることもそうです。別の種類では、ふつうこれらからある程度生じるものがそうです。すなわち、話すことの遅さ、言葉づかいの不適切さ、発音の見苦しさです。これに、人との交わりやふるまいにおける名もない無数の欠点を、加えることもできるでしょう。これらが、最も善い人々にも、多かれ少なかれ見られる弱さです。そして、だれも、霊がこれを授けた神に帰る(伝道一二・七)ときまでは、これらから完全に解放されることを望めません。
(八) また、そのときまでは、誘惑からすっかり解放されることも期待できません。そのような完全は、この世のものではありません。確かに、ほしいままにあらゆる不潔な行いをすることに身をゆだねている(エペソ四・一九)人々がいます。彼らは、抵抗しない誘惑にほとんど気づかないので、誘惑がないように見えます。また、死んだ敬虔の形(第二テモテ三・五)の中でぐっすり眠りこんでいる人々も、多くいます。魂の賢い敵は、彼らがそうなのを見て、ひどい罪へは誘惑しません。彼らがとこしえの燃える火(イザヤ三三・一四)の中に落ちる前に、目を覚ましてしまわないためです。私は、次のことも知っています。神の子たちの中には、今は価なしに義とされ(ローマ三・二四)、キリストの血によるあがない(エペソ一・七)を見いだした人々がいます。彼らは、さしあたり何の誘惑も感じていません。神は彼らの敵に、「わが油そそがれた者たちにさわってはならない」、わが子らに「害を加えてはならない」(第一歴代一六・二二)と言われました。そしてこの期間、それは何週間か何か月かでしょうが、神は彼らに「高き所を乗り通らせ」ます(申命記三二・一三)。鷲の翼に載せる(出エジプト一九・四)ようにして、悪しき者の放つあらゆる火の矢(エペソ六・一六)の上に、彼らを運ばれるのです。けれども、この状態がいつまでも続くわけではありません。そのことは、ただ一つのことを考えるだけで分かります。神の御子ご自身が、肉の生活のとき(ヘブル五・七)、生涯の終わりまで誘惑を受けられた(ヘブル四・一五)ということです。ですから、そのしもべも同じことを覚悟すべきです。「僕がその主人のようであれば、それで十分」だからです(マタイ一〇・二五)。
(九) ですから、クリスチャンの完全は、無知や誤り、弱さや誘惑を免れることを意味するのではありません。ある人々は、そう想像してきたようです。実に、それは聖性の別名にすぎません。この二つは、同じものの二つの名前なのです。ですから、完全な人はみな聖く、聖い人はみな、聖書の意味で完全です。けれども、最後に、この点でも地上には絶対的な完全はない、ということに注意しておきます。いわゆる段階の完全はありません。絶えず増し加わる余地のない完全は、一つもないのです。ですから、人がどれほど到達していても、どれほど高い程度で完全であっても、なお「恵み」において「ますます豊かにな」る(第二ペテロ三・一八)必要があります。また、日々、救主なる神を知る知識と、神への愛とにおいて、進んで行く必要があるのです。
【二】 クリスチャンはどういう意味で完全であるか
(一) では、クリスチャンはどういう意味で完全なのでしょうか。これを第二に示すように努めます。けれども、前もって言っておくべきことがあります。肉体の一生と同じように、クリスチャンの生活にもいくつかの段階がある、ということです。神の子たちのある者は、まだ生れたばかりの乳飲み子(第一ペテロ二・二)にすぎません。ほかの者は、もっと成熟に達しています。それに応じて、ヨハネはその第一の手紙で(第一ヨハネ二・一二〜一四)、子たちと呼ぶ人々、若者たちと呼ぶ人々、父たちと呼ぶ人々に、それぞれ語りかけています。使徒は言います。「子たちよ。あなたがたにこれを書きおくるのは」、あなたがたの「罪がゆるされたから」です(第一ヨハネ二・一二)。あなたがたは、ここまで到達したのです。「価なしに義とされ」(ローマ三・二四)、「イエス・キリストにより、神に対して平和を得て」いる(ローマ五・一)のです。「若者たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、悪しき者にうち勝ったから」です(第一ヨハネ二・一三)。あるいは、後で付け加えているように、「あなたがたが強い者であり、神の言があなたがたに宿」っている「から」です(第一ヨハネ二・一四)。あなたがたは、悪しき者の放つ火の矢を消しました(エペソ六・一六)。それは、悪しき者があなたがたの最初の平和をかき乱した疑いと恐れです。そして、あなたがたの罪が赦されたという神のあかしが、今、あなたがたの心にとどまっています。「父たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、初めからいますかたを知ったから」です(第一ヨハネ二・一三)。あなたがたは、魂の最も奥深いところで、父をも子をもキリストの霊をも知りました。あなたがたは、「全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで」至っています(エペソ四・一三)。
(二) この説教の後半で私が主に語るのは、この人々のことです。この人々だけが、本来の意味でクリスチャンだからです。けれども、キリストにある幼な子(第一コリント三・一)でさえ、第一に、罪を犯さないという意味で完全です。言いかえれば、そういう意味で神から生れているのです(この言い方も、さまざまな意味でとられます)。神の子たちのこの特権を疑う人がいるとします。その問題は、抽象的な推論によって決めるべきではありません。そうした推論は果てしなく引き延ばされ、問題を前とまったく同じままに残しかねないからです。また、あれこれの特定の人の経験によって決めるべきでもありません。多くの人は、罪を犯しているのに、犯していないと思いこむかもしれません。けれども、それはどちらの側にとっても、何の証明にもなりません。私たちは、教えとあかしとに訴えます(イザヤ八・二〇)。「あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきです」(ローマ三・四)。私たちは神の言葉に、ただそれだけに、とどまります。それによって、私たちは判断されるべきです。
(三) さて、神の言葉は、はっきりとこう宣言しています。義とされた人々、最も低い意味で新しく生れた人々でさえ、「罪にとどまる」ことはなく、「なお、その中に生き」ることはできない(ローマ六・一〜二)。彼らは、キリストに「結びついてその死の様にひとしく」なっている(ローマ六・五)。彼らの「古き人はキリストと共に十字架につけられ」、罪のからだは滅ぼされて、もはや罪の奴隷となることはない。キリストと共に死んだので、罪から解放されている(ローマ六・六〜七)。彼らは「罪に対して死んだ者であり」、「神に生きている者」である(ローマ六・一一)。「律法の下にあるのではなく、恵みの下にある」彼らは、「罪に支配されることはない」(ローマ六・一四)。それどころか、彼らは「罪から解放され、義の僕となった」(ローマ六・一八)。神の言葉はこう宣言しているのです。
(四) これらの言葉に含まれていることとして、どんなに少なく見ても、次のことは言えます。ここで語られている人々、すなわち、すべての真のクリスチャンは、外面の罪から解放されている、ということです。真のクリスチャンとは、言いかえれば、キリストを信じる者のことです。パウロがここでさまざまな言い方で表している同じ解放を、ペテロは次の一つの言い方で表しています。「肉において苦しんだ人は」、「罪からのがれたの」です。それは、「もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすため」です(第一ペテロ四・一〜二)。というのは、この罪からのがれることを、最も低い意味で、外面のふるまいだけにかかわるものと解釈するとします。それでも、それは外面の行為から、律法に対する外面のあらゆる違反から離れることを、意味するはずだからです。
(五) けれども、最もはっきりしているのは、ヨハネの第一の手紙三章八節以下の、よく知られた言葉です。「罪を犯す者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためです。すべて神から生れた者は、罪を犯しません。神の種が、その人のうちにとどまっているからです。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができません」(第一ヨハネ三・八〜九)。また、五章の言葉もそうです。「すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っています」。神から生れた者は自分を守り、「悪しき者が手を触れるようなことはありません」(第一ヨハネ五・一八)。
(六) 確かに、これはただ次のような意味だと言われます。その人は故意には罪を犯さない。あるいは、習慣的には罪を犯さない。あるいは、ほかの人々のようには犯さない。あるいは、以前のようには犯さない、と。けれども、だれがそう言うのでしょうか。ヨハネがでしょうか。そうではありません。本文には、そのような言葉はありません。その章全体にも、その手紙全体にも、ヨハネの書いたもののどこにもありません。それなら、大胆な主張に答える最善の方法は、ただそれを否定することです。そして、もしだれかがそれを神の言葉から証明できるなら、その人に有力な論拠を持ち出してもらいましょう。
(七) そして、こうした奇妙な主張を支えるために、たびたび持ち出されてきた論拠のようなものがあります。神の言葉に記されている実例から引き出されたものです。彼らは言います。「何だって! アブラハム自身、罪を犯したではないか。言い逃れをして、自分の妻を妻ではないと言ったではないか(創世記一二・一三、二〇・二)。モーセも、争いの水のほとりで神を怒らせたとき(民数記二〇・一〇〜一三)、罪を犯したではないか。いや、一人ですべてを代表させるなら、神の『心にかなう人』(サムエル記上一三・一四)であるダビデでさえ、ヘテびとウリヤのことで罪を犯したではないか。殺人と姦淫さえ犯したではないか」。確かに、ダビデは罪を犯しました。これはみな本当です。けれども、あなたはここから何を推論しようとするのでしょうか。次のことは認めてよいでしょう。第一に、ダビデは、生涯の大筋において、ユダヤ人の中で最も聖い人の一人でした。第二に、ユダヤ人の中で最も聖い人々も、ときには罪を犯しました。けれども、あなたがここから、次のように推論しようとするとします。すべてのクリスチャンは生きている限り罪を犯しているし、犯さなければならない、と。そういう結論を、私たちはまったく否定します。その前提から、それは決して出てきません。
(八) このように論じる人々は、主の次の宣言を一度も考えたことがないようです。「あなたがたによく言っておきます。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起りませんでした。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きいのです」(マタイ一一・一一)。実に、ここで言う「天国」(マタイ一一・一一)を、栄光の御国の意味だと想像してきた人々もいるのではないかと思います。まるで神の御子が、ただ次のことを私たちに明かされたにすぎないかのようです。天で栄光を受けた最も小さな聖徒も、地上のどんな人より大きい、ということです。これは、口にするだけで十分に反駁になります。ですから、疑いの余地はありません。ここで言う「天国」は、あるいはルカの言い方では「神の国」(ルカ七・二八)は、地上の神の国です。キリストを信じるすべての真の信者、すべての真のクリスチャンが属している国です。次の節で、天国が激しく襲われ、奪い取られる(マタイ一一・一二)と言われているのと同じです。ですから、この言葉で、主は二つのことを宣言しておられます。第一に、主が肉体をとって来られる前には、すべての人の子らの中で、バプテスマのヨハネより大きい者は一人もいなかった、ということです。そこから明らかに、アブラハムもダビデも、どのユダヤ人も、ヨハネより大きくはなかった、ということになります。第二に、主は、神の国で最も小さい者も、ヨハネよりは大きい、と宣言しておられます。この神の国とは、主が地上に打ち立てるために来られた御国で、激しく襲う者たちが今、奪い取り始めていた御国です。ある人々が解釈したように、もっと大きな預言者だというのではありません。それは、事実として明らかにまちがいです。そうではなく、神の恵みにおいて、また私たちの主イエス・キリストを知る知識において、大きいのです。ですから、真のクリスチャンの特権を、昔ユダヤ人に与えられた特権で測ることはできません。彼らの「務」、すなわち制度が、「栄光のうちに行われ」たことを、私たちは認めます。けれども、私たちの務めは「はるかに栄光に満ちたもの」です(第二コリント三・七〜九)。ですから、キリスト教の制度をユダヤ教の水準まで引き下げようとする人がいます。律法と預言者に記された弱さの実例を拾い集め、そこから、「キリストを着た」(ガラテヤ三・二七)人々もそれ以上の力を与えられていない、と推論する人がいます。そういう人はだれでも、「聖書も神の力も知らないから、思い違いをして」いるのです(マタイ二二・二九)。
(九) 「しかし、たとえあの実例から推論できないとしても、同じことを証明する言明が聖書にあるではないか。聖書ははっきりと、『正しい人でさえ、一日に七たび罪を犯す』と言っているではないか」。私は答えます。いいえ。聖書は、そのようなことを言っていません。聖書全体のどこにも、そのような本文はありません。意図されているのは、箴言二四章一六節のようです。その言葉はこうです。「正しい者は七たび倒れても、また起きあがります」(箴言二四・一六)。けれども、これはまったく別のことです。というのは、第一に、「一日に」という語は本文にないからです。ですから、正しい人が生涯に七たび倒れるなら、ここで言われていることは、それで満たされます。第二に、ここでは罪に陥ることは、まったく述べられていません。ここで述べられているのは、この世の苦難に陥ることです。そのことは、前の節から明らかです。その言葉はこうです。悪しき者よ、「正しい者の家をうかがってはならない、その住む所に乱暴をしてはなりません」(箴言二四・一五)。続いて、こうあります。「正しい者は七たび倒れても、また起きあがる、しかし、悪しき者は災によって滅びます」(箴言二四・一六)。これは、こう言っているかのようです。「神は正しい者を、その苦難から救い出されます。けれども、あなたが倒れるときには、あなたを救い出す者はだれもいません」。
(一〇) 反対者たちは続けます。「しかし、ほかの箇所では、ソロモンははっきりと、『罪を犯さない者はない』(列王紀上八・四六、第二歴代六・三六)と言っている。いや、『善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない』(伝道七・二〇)と言っているではないか」。私は答えます。疑いもなく、ソロモンの時代にはそうでした。そうです、アダムからモーセまで、モーセからソロモンまで、ソロモンからキリストまで、そうでした。そのころは、罪を犯さない人はいませんでした。罪がこの世にはいった(ローマ五・一二)その日から、善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいませんでした。神の御子が私たちの罪をとり除くために現れた(第一ヨハネ三・五)ときまで、そうだったのです。「相続人が子供である間は」、「僕となんの差別も」ない(ガラテヤ四・一)ことは、疑いもなく本当です。また、それと同じく、彼らが教会のあの幼い状態の間、この世の初歩的なものの下に縛られていた(ガラテヤ四・三)ことも、本当です。彼らとは、ユダヤ教の制度の下にあった昔の聖徒たちすべてのことです。「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を」、「律法の下に生れさせて、おつかわしになりました。それは、律法の下にある者をあがない出すため」、彼らに「子たる身分を授けるためでした」(ガラテヤ四・四〜五)。すなわち、彼らが「今や、わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵み」(第二テモテ一・一〇)を受けるためでした。「キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのです」(第二テモテ一・一〇)。ですから今、彼らは「もはや僕ではなく、子です」(ガラテヤ四・七)。ですから、律法の下にあった人々がどうであったにせよ、私たちはヨハネとともに、安心してこう断言できます。福音が与えられてからは、「神から生れた者は罪を犯さない」(第一ヨハネ五・一八)のです。
(一一) ユダヤ教の制度とキリスト教の制度との間にある大きな違いに注意することは、きわめて重要です。しかも、ふつうなされているよりもっと注意深く、注意すべきです。また、同じ使徒がその福音書の七章で示している、その違いの根拠にも注意すべきです(ヨハネ七・三八〜三九)。ヨハネはそこで、ほむべき主の言葉を記しています。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るでしょう」(ヨハネ七・三八)。そのすぐ後に、こう付け加えています。「これは」、「御霊をさして言われたの」です。それは、フー・エメッロン・ランバネイン・ホイ・ピステウオンテス・エイス・アウトン(οὗ ἔμελλον λαμβάνειν οἱ πιστεύοντες εἰς αὐτόν)、すなわち、イエスを信じる人々が後になって受けることになっていた御霊です。「すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのです」(ヨハネ七・三九)。さて、ある人々は、ここで使徒が、奇跡を行う聖霊の力はまだ与えられていなかった、と言っているのだと教えてきました。けれども、使徒がそういう意味で言っているはずはありません。その力は与えられていたからです。主は、最初に使徒たちを福音を宣べ伝えるためにつかわされたとき、その力を使徒たち全員に与えておられました。主はそのとき、彼らに汚れた霊を追い出す権威(マタイ一〇・一)を与え、病人をいやし、さらに死人をよみがえらせる(マタイ一〇・八)力を与えられたのです。けれども、聖霊は、人を聖くする恵みとしては、まだ与えられていませんでした。イエスが栄光を受けられた後に与えられたようには、与えられていなかったのです。主は、「高いところに上った時、とりこを捕えて引き行」かれた(エペソ四・八)、まさにそのときに、人々のための贈り物を受けられたのです。いや、そむく者のためにさえ、受けられたのです。それは、主なる神が彼らの間に住まわれるためでした(詩篇六八・一八)。そして、五旬節の日がきた(使徒二・一)とき、そのとき初めて、それが起こりました。「父の約束を待っ」ていた(使徒一・四)人々が、与えられた聖霊によって、罪に勝ち得て余りある者(ローマ八・三七)とされたのです。
(一二) 罪からのこの大いなる救いが、イエスが栄光を受けられるまでは与えられなかったことを、ペテロもはっきりとあかししています。ペテロは、肉による兄弟たちが今、「信仰の結果なるたましいの救を得ている」(第一ペテロ一・九)ことを語って、こう付け加えています。「この救については、あなたがたに対する恵み」、すなわち恵みの制度、「のことを預言した預言者たちも、たずね求め、かつ、つぶさに調べました。彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光」、すなわち栄光ある救い、「とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのです。彼らには、「自分たちのためではなくて」、私たちのための「奉仕であることを示されました。それらの事は、天からつかわされた聖霊に感じて福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされたのです」(第一ペテロ一・一〇〜一二)。聖霊は、五旬節の日につかわされ、そうして、あらゆる時代に、すべての真の信者の心につかわされたのです。この根拠、すなわち、イエス・キリストの現れによって彼らにもたらされた恵みの上に、使徒はあの力強い勧めを築くことができました。「それだから、心の腰に帯を締め」なさい(第一ペテロ一・一三)。「あなたがたを召してくださった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」(第一ペテロ一・一五)。
(一三) これらのことをよく考えた人々は、認めざるをえません。クリスチャンの特権は、ユダヤ教の制度の下にあった人々について旧約聖書が記していることによっては、決して測れないのです。今や時が満ち、今や聖霊が与えられ、神の大いなる救いがイエス・キリストの現れによって人々にもたらされているからです。天国は今、地上に打ち立てられています。この天国について、神の御霊は昔、こう宣言されました。「彼らの中の弱い者も、その日には、ダビデのようになります。またダビデの家は神のように、彼らに先だつ主の使のようになります」(ゼカリヤ一二・八)。ダビデは、クリスチャンの完全の模範や基準であるどころではないのです。
(一四) ですから、あなたが、こう証明したいとします。「神から生れた者は罪を犯さない」(第一ヨハネ五・一八)という使徒の言葉は、その平明で自然な、明白な意味に従って理解すべきではない、と。それなら、新約聖書から証拠を持ってこなければなりません。そうでなければ、空を打つような拳闘をする(第一コリント九・二六)ことになるでしょう。そうした証拠の中で、ふつう最初に持ち出されるのは、新約聖書に記されている実例から取られたものです。こう言われます。「使徒たち自身が罪を犯したではないか。いや、使徒の中で最も大いなるペテロとパウロでさえ、罪を犯した。パウロはバルナバとの激論によって(使徒一五・三九)、ペテロはアンテオケでの偽善によって(ガラテヤ二・一一〜一三)罪を犯したのだ」。よろしい。ペテロもパウロも、そのとき罪を犯したとしましょう。あなたはそこから何を推論しようとするのですか。ほかの使徒たちもみな、ときには罪を犯した、ということでしょうか。そこには、証明の影もありません。あるいは、そこから、使徒時代のほかのクリスチャンもみな罪を犯した、と推論するのでしょうか。ますます悪くなります。それは、正気の人なら決して思いつかないだろうと思われるような推論です。あるいは、こう論じるのでしょうか。「使徒のうちの二人が一度罪を犯したのなら、あらゆる時代のほかのクリスチャンもみな、生きている限り罪を犯しているし、これからも犯すのだ」。ああ、兄弟よ! 人並みの悟りのある子供でも、このような論じ方は恥ずかしく思うでしょう。まして、だれかが罪を犯さなければならない、などと、もっともらしい論拠をもって推論することは、なおさらできません。そうではありません。私たちがそのように言うことなど、断じてありません! 使徒たちに、罪を犯す必然が負わされていたのではありません。神の恵みは、確かに彼らに対して十分でした(第二コリント一二・九)。そして今日、私たちに対しても十分です。彼らに臨んだ試錬と同時に、のがれる道がありました(第一コリント一〇・一三)。どんな試錬においても、どの人の魂にも、のがれる道があるのと同じです。ですから、どんな罪へ誘惑される人も、屈する必要はありません。だれも、耐えられないような試錬に会わされることはないからです(第一コリント一〇・一三)。
(一五) 「しかし、パウロは三度も主に祈ったが、それでも自分の試錬からのがれることができなかったではないか」。パウロ自身の言葉を、文字どおりに訳して考えてみましょう。「わたしの肉に対するとげ、サタンの使い」、すなわち使者、「がわたしに与えられました。わたしを打つためです。このことについて、わたしは、それが」、あるいは彼が、「わたしから離れ去るようにと、三度も主に祈りました。すると主は、わたしに言われました。『わたしの恵みはあなたに対して十分です。わたしの力は弱さのうちに完全にされるのです』。それだから、わたしはむしろ大いに喜んで」、これらの「わたしの弱さを誇りましょう。キリストの力がわたしに宿るためです。だから、わたしは弱さを喜びとします。わたしが弱いときにこそ、わたしは強いからです」(第二コリント一二・七〜一〇)。
(一六) この聖句は、罪を擁護する人々のとりでの一つですから、十分に吟味するのがよいでしょう。では、次のことに注意しましょう。第一に、このとげが何であったにせよ、それがパウロに罪を犯させたとは、決して見えません。まして、パウロに罪を犯す必然を負わせたとは、なおさら見えません。ですから、ここから、クリスチャンのだれかが罪を犯さなければならない、と証明することは決してできません。第二に、古代の教父たちは、それが体の痛みであったと伝えています。テルトゥリアヌスは、「激しい頭痛」だと言います(『貞潔について』)。クリュソストモスもヒエロニムスも、それに同意しています。キュプリアヌスは(『死について』)、もう少し一般的に、こう言い表しています。Carnis et corporis multa ac gravia tormenta (肉と体の多くの重い苦しみ)第三に、使徒自身の言葉が、これにぴったり一致します。「わたしを打ち、たたき、こぶしで打つための、肉に対するとげ」(第二コリント一二・七)。「わたしの力は弱さのうちに完全にされる」(第二コリント一二・九)。この「弱さ」という同じ語が、この二つの節だけで四度も出てきます。けれども、第四に、それが何であったにせよ、内面の罪でも外面の罪でもありえませんでした。それは、高ぶりや怒りや情欲の外面の表れでありえなかったのと同じように、その内面のうごめきでもありえませんでした。このことは、すぐ後に続く言葉から、どんな異論の余地もなく明らかです。「わたしは大いに喜んで」これらの「わたしの弱さを誇りましょう。キリストの力がわたしに宿るためです」(第二コリント一二・九)。何ですって! パウロは高ぶりを、怒りを、情欲を誇ったのでしょうか。こうした弱さによって、キリストの力がパウロに宿ったのでしょうか。パウロは続けます。「だから、わたしは弱さを喜びとします。わたしが弱いときにこそ、わたしは強いからです」(第二コリント一二・一〇)。すなわち、体において弱いときにこそ、霊において強いのです。けれども、だれが、「私が高ぶりや情欲によって弱いときにこそ、私は霊において強い」などと、あえて言うでしょうか。キリストの力が自分に宿っているのを知っているあなたがたすべてを、私はきょう証人として呼びます。あなたがたは、怒りや高ぶりや情欲を誇ることができますか。こうした弱さを喜びとすることができますか。こうした弱さが、あなたがたを強くしますか。もしできるなら、それから逃れるために、地獄に飛びこんでもよいとさえ思うのではないでしょうか。それなら、使徒がそれを誇り、喜びとすることができたかどうか、あなたがた自身で判断してください。最後に、次のことに注意しましょう。このとげがパウロに与えられたのは、パウロがこの手紙を書くより十四年以上も前でした(第二コリント一二・二)。そして、この手紙そのものも、パウロが走るべき行程を走りつくす(第二テモテ四・七)何年も前に書かれたのです。ですから、パウロにはその後、走るべき長い行程があり、戦うべき多くの戦いがあり、得るべき多くの勝利がありました。神のあらゆる賜物と、イエス・キリストを知る知識とにおいて、大きく増し加わることもあったのです。ですから、パウロがそのとき感じた霊的な弱さから、もしそういうものだったとしても、次のように推論することは決してできません。パウロが決して強くされなかった。老年になったパウロ(ピレモン九)、キリストにある父が、なお同じ弱さに苦しんでいた。死ぬ日まで、もっと高い状態にはなかった、と。これらすべてから、パウロのこの例はこの問題とはまったく無関係であることが、明らかです。「神から生れた者は罪を犯さない」(第一ヨハネ五・一八)というヨハネの断言とも、決してぶつからないのです。
(一七) 「しかし、ヤコブはこれに真っ向から反対しているではないか。ヤコブは『わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである』(ヤコブ三・二)と言っている。そして、あやまちを犯すことは、罪を犯すことと同じではないか」。この箇所では同じだと、私も認めます。ここで語られている人々が罪を犯したことを、認めます。いや、彼らがみな多くの罪を犯したことを、認めます。けれども、ここで語られている人々とは、だれでしょうか。それは、神がつかわされなかった多くの師、すなわち教師たちです。おそらく、前の章で厳しくとがめられている、行いのない信仰を教えた、あのむなしい人々と同じ人々でしょう。使徒自身でも、真のクリスチャンのだれかでもありません。「わたしたち」という語は、霊感による書物だけでなく、ほかのすべての書物にも共通する言葉のあやで使われています。この語に、使徒が自分自身やほかの真の信者を含めることがありえなかったことは、明らかです。第一に、九節の同じ語から明らかです。使徒は言います。「わたしたちは、この舌で」神「をさんびし、また、その同じ舌で」、「人間をのろって」います。「同じ口から、さんびとのろいとが出て来」ます(ヤコブ三・九〜一〇)。そのとおりです。けれども、それは使徒の口からでもなく、キリストにある新しく造られた者(第二コリント五・一七)のだれの口からでもありません。第二に、本文のすぐ前にあって、本文と明らかにつながっている節から明らかです。「わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は」、師に、すなわち「教師にならないがよい。わたしたち」が、「もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているから」です(ヤコブ三・一)。「わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものです」(ヤコブ三・二)。「わたしたち」とは! だれのことでしょうか。使徒たちでも、真の信者でもありません。あの多くのあやまちのゆえに、もっときびしいさばきを受けることを知っている人々です。けれども、これは使徒自身についても、その足跡に従って歩んだ人々についても、言われたはずがありません。肉によらず霊によって歩く(ローマ八・四)者は、「罪に定められることがない」(ローマ八・一)からです。いや、第三に、この節そのものが証明しています。「わたしたちは皆」、「あやまちを犯す」(ヤコブ三・二)という言葉は、すべての人についても、すべてのクリスチャンについても言われたものではありえません。その節では、すぐに続いて、最初に挙げられた「わたしたち」のようにはあやまちを犯さない人のことが述べられているからです。ですから、その人は、あの「わたしたち」とはっきり区別されて、「完全な人」(ヤコブ三・二)と宣言されているのです。
(一八) このように、ヤコブは自分の言葉をはっきりと説明し、その意味を定めています。それでも、なお疑う人がいないように、ヨハネは、先に挙げたはっきりした宣言によって、この問題にまったく決着をつけています。ヨハネは、ヤコブより何年も後に書いたのです。けれども、ここで新しい難点が生じるかもしれません。ヨハネを、ヨハネ自身とどう調和させればよいのか、という難点です。ある箇所では、ヨハネは「すべて神から生れた者は、罪を犯さない」(第一ヨハネ三・九)と宣言しています。また、「神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている」(第一ヨハネ五・一八)とも言っています。それなのに、別の箇所では、「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない」(第一ヨハネ一・八)と言っています。また、「もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない」(第一ヨハネ一・一〇)とも言っています。
(一九) これは、初めは大きな難点に見えるかもしれません。けれども、次のことに注意すれば、消えうせます。第一に、一〇節が八節の意味を定めています。前の節の「もし、罪がないと言うなら」(第一ヨハネ一・八)は、後の節の「もし、罪を犯したことがないと言うなら」(第一ヨハネ一・一〇)によって説明されているのです。第二に、今考えている問題は、私たちが以前に罪を犯したかどうかではありません。そして、この二つの節のどちらも、私たちが今罪を犯している、とは断言していません。第三に、九節が八節と一〇節の両方を説明しています。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめてくださいます」(第一ヨハネ一・九)。これは、ヨハネがこう言っているかのようです。「わたしは前に、イエス・キリストの血が、『すべての罪からわたしたちをきよめる』(第一ヨハネ一・七)と断言しました。けれども、だれも、自分にはそれは要らない、自分にはきよめられるべき罪などない、と言ってはなりません。罪がないと言うなら、罪を犯したことがないと言うなら、わたしたちは自分を欺き、神を偽り者とするのです。しかし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、『神は真実で正しいかた』です。神は『その罪をゆるし』てくださるだけでなく、『すべての不義からわたしたちをきよめて』くださいます(第一ヨハネ一・八〜一〇)。それは、わたしたちが『今後はもう罪を犯さない』(ヨハネ八・一一)ためです」。
(二〇) ですから、ヨハネは、ほかの聖なる記者たちとも、ヨハネ自身とも、よく一致しています。このことについてのヨハネの断言をすべて、一目で見渡せるように並べれば、そのことはいっそう明らかになるでしょう。ヨハネは、第一に、イエス・キリストの血がすべての罪から私たちをきよめる(第一ヨハネ一・七)と宣言しています。第二に、だれも、私は罪を犯したことがない、私にはきよめられるべき罪がない、と言うことはできません。第三に、けれども神は、私たちの過去の罪を赦し、これから先も罪から救ってくださる用意がおありです(第一ヨハネ一・七〜一〇)。第四に、使徒は、「これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もし、罪を犯す者があれば」(第一ヨハネ二・一)と言います。この語は、「罪を犯した者があれば」と訳すこともできます。そういう人も、罪にとどまっている必要はありません。「父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられ」るからです(第一ヨハネ二・一)。ここまでは、すべて明らかです。けれども、これほど重大な点に疑いが残らないように、使徒は三章でこの主題をもう一度取り上げ、自分の意味を詳しく説明しています。使徒は言います。「子たちよ。だれにも惑わされてはなりません」(第一ヨハネ三・七)。使徒がこう言うのは、自分が罪にとどまる者たちを少しでも励ましたかのように受け取られないためです。「彼が義人であると同様に、義を行う者は義人です。罪を犯す者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためです。すべて神から生れた者は、罪を犯しません。神の種が、その人のうちにとどまっているからです。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができません。神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかです」(第一ヨハネ三・七〜一〇)。ここで、この点に決着がつけられています。それまでは、弱い心にはいくらか疑いの余地があったかもしれない点です。霊感を受けた記者たちの最後の人が、わざわざ決着をつけ、最もはっきりした仕方で決めているのです。ですから、ヨハネの教えにも、新約聖書全体の趣旨にも従って、私たちはこの結論を定めます。クリスチャンは、罪を犯さないという点で完全です。
(二一) これは、すべてのクリスチャンの栄光ある特権です。そうです、キリストにある幼な子にすぎない人でも、そうなのです。けれども、第二の意味で完全だと断言できるのは、一部の人々についてだけです。主にあって強い(エペソ六・一〇)人々、「悪しき者にうち勝った」(第一ヨハネ二・一三)人々、いやむしろ「初めからいますかたを知った」(第一ヨハネ二・一四)人々です。第二の意味とは、悪い思いと悪い気質から解放されている、という意味です。まず、悪い思い、罪深い思いからの解放です。けれども、ここで注意しておきます。悪についての思いが、いつも悪い思いであるとは限りません。罪についての思いと、罪深い思いとは、大きく違うのです。たとえば、人は、ほかの人が犯した殺人のことを考えることがあります。けれども、これは悪い思いでも、罪深い思いでもありません。同じように、悪魔は、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」(マタイ四・九)と言いました。そのとき、ほむべき主ご自身も、確かにその言葉のことを考え、理解されました。それでも、主には悪い思いも、罪深い思いもありませんでした。実に、そのような思いをいだくことなど、ありえなかったのです。そして、まさにここから、真のクリスチャンにもそのような思いはない、ということになります。完全な者はみな、その師のようだ(ルカ六・四〇)からです。ですから、主が悪い思いや罪深い思いから解放されておられたのなら、彼らも同じように解放されているのです。
(二二) そして、実に、その主人のようになった僕の中で、悪い思いがどこから出て来るでしょうか。「人の心の中から」、もし出て来るとすればですが、「悪い思いが出て来る」のです(マルコ七・二一)。ですから、もしその人の心がもはや悪くないなら、悪い思いがもはやそこから出て来ることはありえません。もし木が悪ければ、実も悪いでしょう。けれども、木は良いのです。ですから、実も良いのです(マタイ一二・三三)。主ご自身が、こうあかししておられます。「すべて良い木は良い実を結」びます。「良い木が悪い実をならせることはない」のです。「悪い木が良い実をならせることはできない」のと同じです(マタイ七・一七〜一八)。
(二三) 真のクリスチャンのこの同じ幸いな特権を、パウロは自分の経験から断言しています。パウロは言います。「わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく」、神によって「要塞をも破壊するほどの力あるものです。わたしたちはさまざまな議論を破り」ます(第二コリント一〇・四)。ここで「議論」と訳されている語は、英語の聖書では「想像」となっていますが、むしろ「議論」です。ロギスムース(λογισμούς)という語は、そういう意味だからです。神の宣言や約束や賜物に逆らう、高ぶりと不信仰のあらゆる議論のことです。さらに、神を知る知識に「逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ」ます(第二コリント一〇・五)。
(二四) そして、クリスチャンは実に悪い思いから解放されているように、第二に、悪い気質からも解放されています。このことは、先に挙げた主ご自身の宣言から明らかです。「弟子はその師以上のものではない」が、完全な者はみな、その師のようになります(ルカ六・四〇)。主はその直前に、キリスト教の最も崇高な教えのいくつかを語っておられました。それは、血肉にとって最もつらい教えでもありました。「あなたがたに言います。敵を愛し、憎む者に親切に」しなさい(ルカ六・二七)。「あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けて」やりなさい(ルカ六・二九)。主は、世がこれを受けいれないことをよく知っておられました。ですから、すぐに付け加えられます。「盲人は盲人の手引ができるでしょうか。ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか」(ルカ六・三九)。これは、主がこう言われたかのようです。「こうしたことについて、血肉に相談してはなりません(ガラテヤ一・一六)。霊的な判断力のない人々、神がその心の目を開いておられない(エペソ一・一八)人々に、相談してはなりません。彼らもあなたがたも、ともに滅びることのないためです」。次の節で、主は、こうした賢い愚か者たちがいたるところで私たちに持ち出す、二つの大きな反論を取り除かれます。「これは重すぎて負いきれない」という反論と、「これは高すぎて到達できない」という反論です。主はこう言われます。「『弟子はその師以上のものではない』(ルカ六・四〇)。ですから、わたしが苦しんだのなら、わたしの足跡に従うことに甘んじなさい。そして、わたしが自分の言葉を成就することを、疑ってはなりません。完全な者はみな、その師のようになるのです」(ルカ六・四〇)。けれども、その師は、あらゆる罪深い気質から解放されておられました。ですから、その弟子も、すなわちすべての真のクリスチャンも、そうなのです。
(二五) この人々はみな、パウロとともにこう言うことができます。「わたしはキリストと共に十字架につけられました」(ガラテヤ二・一九)。「生きているのは、もはや、わたしではありません。キリストが、わたしのうちに生きておられるのです」(ガラテヤ二・二〇)。これは、外面の罪からだけでなく、内面の罪からの解放をも、明らかに述べている言葉です。このことは、否定的にも肯定的にも表されています。否定的には、私は生きていない、と表されています。すなわち、私の悪い性質、罪のからだが滅ぼされたのです。肯定的には、キリストが私のうちに生きておられる、と表されています。したがって、聖であって、正しく、かつ善なる(ローマ七・一二)すべてのものが、私のうちに生きているのです。実に、キリストが私のうちに生きておられることと、私が生きていないこととの二つは、切り離せないほど結びついています。「光とやみとなんの交わりがあるでしょうか。キリストとベリアルとなんの調和があるでしょうか」(第二コリント六・一四〜一五)。
(二六) ですから、真の信者のうちに生きておられる方は、「その信仰によって彼らの心をきよめ」られました(使徒一五・九)。それで、栄光の望みであるキリスト(コロサイ一・二七)を自分のうちに持つ人はみな、「彼がきよくあられるように、自らをきよく」するのです(第一ヨハネ三・三)。その人は、高ぶりからきよめられています。キリストは、心のへりくだった方だった(マタイ一一・二九)からです。その人は、我意から、すなわち自分の欲するままを行うことから、きよめられています。キリストは、ただ父のみこころを行い、そのみわざをなし遂げる(ヨハネ四・三四)ことだけを望まれたからです。そして、ふつうの意味での怒りから、きよめられています。キリストは柔和で優しく、忍耐深く、寛容な方だったからです。私は、ふつうの意味での、と言います。すべての怒りが悪いわけではないからです。主ご自身についても、主があるとき「怒りを含んで彼らを見まわし」た(マルコ三・五)と書かれています。けれども、それはどんな種類の怒りだったでしょうか。次の語がそれを示しています。シュルリュプーメノス(συλλυπούμενος)、すなわち、主は同時に「その心のかたくななのを嘆いて」おられたのです(マルコ三・五)。ですから、主は罪に対して怒り、同じ瞬間に、罪人たちのために嘆かれたのです。罪過に対しては怒り、あるいは不快に思われましたが、罪を犯す者たちのためには悲しまれたのです。主は、その行為を、怒りをもって、いや憎しみをもって見られました。その人々を、悲しみと愛をもって見られました。完全な人よ、あなたも行って同じようにしなさい(ルカ一〇・三七)。このように怒りなさい。そうすれば、あなたは罪を犯しません(エペソ四・二六)。神に対するあらゆる罪過には不快を覚えても、罪を犯す者に対しては、ただ愛と優しいあわれみだけをいだくのです。
(二七) このようにして、イエスは「おのれの民をそのもろもろの罪から救」われます(マタイ一・二一)。外面の罪からだけでなく、心の罪からも、悪い思いからも悪い気質からも救われるのです。ある人々は言います。「そのとおりだ。私たちはそのように罪から救われるだろう。けれども、死ぬまではそうならない。この世ではそうならない」。けれども、これを、ヨハネのはっきりした言葉と、どう調和させればよいのでしょうか。「わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができます。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのです」(第一ヨハネ四・一七)。使徒はここで、反論の余地なく、自分自身とほかの生きているクリスチャンについて語っています。まるでこの言い逃れを見越して、それを根底から覆そうとしたかのように、使徒はきっぱり断言しています。彼らは、死ぬときや死んだ後だけでなく、この世において、その主人のようである(第一ヨハネ四・一七)、と。
(二八) この手紙の一章のヨハネの言葉は、これとぴったり一致しています。「神は光であって、神には少しの暗いところもありません」(第一ヨハネ一・五)。「わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのです」(第一ヨハネ一・七)。また、こうも言います。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめてくださいます」(第一ヨハネ一・九)。さて、使徒がここでも、この世でなされる解放について語っていることは明らかです。使徒は、キリストの血が死ぬときに、あるいはさばきの日にきよめるだろう、とは言っていないからです。そうではなく、生きているクリスチャンである「わたしたち」を、今このとき、「すべての罪から」「きよめる」と言っているのです(第一ヨハネ一・七)。そして、同じように明らかなことがあります。もし何かの罪が残っているなら、私たちはすべての罪からきよめられてはいません。もし何かの不義が魂に残っているなら、その魂は、すべての不義からきよめられてはいないのです。また、自分の魂に対して罪を犯す者はだれも、これは義認だけにかかわる、と言ってはなりません。罪の罪責から私たちをきよめることだけにかかわる、と言ってはならないのです。第一に、それは、使徒がはっきり区別しているものを混同することだからです。使徒は、まず私たちの罪を赦すことを挙げ、次に、すべての不義から私たちをきよめることを挙げています。第二に、それは、考えうる最も強い意味で、行いによる義認を主張することだからです。外面の聖性だけでなく内面の聖性もすべて、必ず義認に先立つものにすることになるのです。というのは、ここで言われているきよめが、罪の罪責から私たちをきよめることにほかならないとします。それなら、「神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩く」(第一ヨハネ一・七)ことが条件になります。そうしなければ、私たちは罪責からきよめられない、すなわち義とされないのです。ですから、残る結論はこうです。クリスチャンは、この世において、すべての罪から、すべての不義から救われています。今、罪を犯さず、悪い思いと悪い気質から解放されているという意味で、完全なのです。
(二九) このようにして、主は、古くから聖なる預言者たちの口によってお語りになった(ルカ一・七〇)ことを、成就されました。とりわけ、モーセによって、こう言われました。わたしは「あなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ」ます(申命記三〇・六)。ダビデによっては、こう叫ぶ言葉で語られました。「わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください」(詩篇五一・一〇)。そして、最も著しくは、エゼキエルによって、次の言葉で語られました。「わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清めます。わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせます。あなたがたは、わが民となり、わたしはあなたがたの神となります。わたしはあなたがたをそのすべての汚れから救います」(エゼキエル三六・二五〜二九)。あなたがたの神、主はこう言われます。わたしが「あなたがたのすべての罪を清める日に」、「諸国民は主なるわたしがくずれた所を建て直し」たことを「悟るようになります。主なるわたしがこれを言い、これをなすのです」(エゼキエル三六・三三〜三六)。
(三〇) 「愛する者たちよ。わたしたちは、このような約束を与えられている」のです(第二コリント七・一)。その約束は、律法にも預言者にも与えられています。また、預言の言葉は、福音において、ほむべき主とその使徒たちによって、私たちに確かにされています。ですから、「肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではありませんか」(第二コリント七・一)。これほど多くの「神の安息にはいるべき約束が」、私たちに与えられています。その安息にはいった者は、自分のわざを休んだのです(ヘブル四・一〇)。ですから、「万一にも、はいりそこなう者が」、私たちの「中から出ることがないように、注意しようではありませんか」(ヘブル四・一)。「ただこの一事を努め」ましょう。「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞与を得ようと努め」ましょう(ピリピ三・一三〜一四)。そして、私たちもまた「滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る」(ローマ八・二一)ときまで、昼も夜も神に叫び求めましょう!