ジョン・ウェスレー標準説教集

説教三十九 公同の精神

「エヒウはそこを立って行ったが、自分を迎えにきたレカブの子ヨナダブに会ったので、彼にあいさつして、『あなたの心は、わたしがあなたに対するように真実ですか』と言うと、ヨナダブは『真実です』と答えました。するとエヒウは『それならば、あなたの手をわたしに伸べなさい』と言いました」(列王紀下一〇・一五)

(一) 愛がすべての人に対して負うべき負債であることは、この大きな負債を払っていない人々でさえ認めています。「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」(ヤコブ二・八)というきわめて尊い律法は、それを聞くすべての人にとって、それ自体で明らかだからです。しかもそれは、昔の熱心家たちがこの律法に加えたみじめな解釈に従ってのことではありません。「隣り人を愛し」、すなわち親族や知人や友を愛し、「敵を憎め」(マタイ五・四三)という解釈ではないのです。そうではありません。「わたしはあなたがたに言います」(マタイ五・四四)と主は言われました。「敵を愛し」、「のろう者を祝福し」、「憎む者に親切に」し、「はずかしめる」者と「迫害する者のために祈」りなさい(ルカ六・二七〜二八、マタイ五・四四)。それは、「天にいますあなたがたの父の子と」なり、すべての人にもそう見えるようになる「ためです。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らしてくださるからです」(マタイ五・四五)。

(二) けれども、神を愛する人々に対して私たちが負っている、特別な愛があることも確かです。ダビデもそう言っています。「地にある聖徒は、すべてわたしの喜ぶすぐれた人々です」(詩篇一六・三)。ダビデにまさる方も、こう言われました。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるでしょう」(ヨハネ一三・三四〜三五)。これこそ、使徒ヨハネがたびたび、力強く説いている愛です。ヨハネはこう言います。「わたしたちは互に愛し合うべきです。これが、あなたがたの初めから聞いていたおとずれです」(第一ヨハネ三・一一)。「主は、わたしたちのためにいのちを捨ててくださいました。それによって、わたしたちは愛ということを知りました。それゆえに、わたしたちもまた」、愛がそう求めるなら、「兄弟のためにいのちを捨てるべきです」(第一ヨハネ三・一六)。また、こうも言います。「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではありませんか。愛は、神から出たものなのです」。「愛さない者は、神を知りません。神は愛です」(第一ヨハネ四・七〜八)。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになりました」。「愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛してくださったのですから、わたしたちも互に愛し合うべきです」(第一ヨハネ四・一〇〜一一)。

(三) だれもがこれをよしとします。けれども、だれもがそれを実行しているでしょうか。日々の経験が、その反対を示しています。「わたしたちに命じられたように、互に愛し合う」(第一ヨハネ三・二三)クリスチャンでさえ、どこにいるでしょうか。その道には、何と多くの妨げがあることでしょう。大きな、全般的な妨げは二つあります。第一に、みなが同じように考えることはできない、ということです。第二に、その結果として、みなが同じように歩むことはできない、ということです。いくつかの小さな点で、考えの違いに応じて、実践も違ってこざるをえないのです。

(四) けれども、意見や礼拝の様式の違いのために、外面的に完全に一つになることは妨げられるかもしれません。それでも、心情において一つになることまで、それに妨げられる必要があるでしょうか。同じように考えることはできなくても、同じように愛することはできないでしょうか。意見は一つでなくても、心を一つにすることはできないでしょうか。疑いもなく、できるのです。この点で、神の子たちはみな、こうした小さな違いがあっても、一つになることができます。違いはそのままにしておいて、愛と良きわざにおいて互いに励まし合うことができるのです。

(五) 確かに、この点では、エヒウ自身の模範も、真剣なクリスチャンならだれもが心にとめ、見習うに十分値します。エヒウは善悪の入りまじった人物でしたが、それでもそうなのです。「エヒウはそこを立って行ったが、自分を迎えにきたレカブの子ヨナダブに会ったので、彼にあいさつして、『あなたの心は、わたしがあなたに対するように真実ですか』と言うと、ヨナダブは『真実です』と答えました。するとエヒウは『それならば、あなたの手をわたしに伸べなさい』と言いました」(列王紀下一〇・一五)。

この本文は、おのずから二つの部分に分かれます。第一に、エヒウがヨナダブに出した「あなたの心は、わたしがあなたに対するように真実ですか」(列王紀下一〇・一五)という問いです。第二に、ヨナダブが「真実です」と答えたのを受けて、エヒウが出した「それならば、あなたの手をわたしに伸べなさい」(列王紀下一〇・一五)という申し出です。

【一】 エヒウがヨナダブに出した問い

(一) まず第一に、エヒウがヨナダブに出した問い、「あなたの心は、わたしがあなたに対するように真実ですか」(列王紀下一〇・一五)を考えましょう。

この言葉について、まず気づくことがあります。ここでは、ヨナダブの意見については何も尋ねられていない、ということです。しかし、ヨナダブがきわめて珍しい、実に彼独特の意見をいくつか持っていたことは確かです。また、その実践に深くかかわる意見も持っていました。ヨナダブはそうした意見をきわめて重んじたので、それを子の子に、最後の子孫に至るまで受け継がせたのです。このことは、ヨナダブの死から何年も後にエレミヤが記した記事から明らかです。「わたしはヤザニヤと、その兄弟と、そのむすこたち、およびレカブびとの全家を連れ、レカブびとの前に酒を満たしたつぼと杯を置き、彼らに、『酒を飲みなさい』と言いました。彼らは答えました、『われわれは酒を飲みません。それは、レカブの子であるわれわれの先祖ヨナダブがわれわれに命じて、「あなたがたとあなたがたの子孫はいつまでも酒を飲んではならない。また家を建てず、種をまかず、またぶどう畑を植えてはならない。またこれを所有してはならない。あなたがたは生きながらえる間は幕屋に住んでいなさい」と言ったからです。こうしてわれわれは、すべてわれわれの先祖ヨナダブがわれわれに命じたところに従い、そのように行いました』」(エレミヤ三五・三〜一〇)。この「レカブの子であるわれわれの先祖ヨナダブ」という言葉は、英語の聖書の語順では、レカブが「われわれの先祖」であるようにも読めます。「われわれの先祖ヨナダブ、レカブの子」と並べたほうが、まぎれが少ないでしょう。ヨナダブは父レカブを愛し敬っていたので、子孫がレカブの名で呼ばれることを望んだのでしょう。

(二) それなのに、エヒウはこうしたことに少しもかかわろうとせず、ヨナダブを自分の考えのままにさせています。エヒウは、世のことでも宗教のことでも、「猛烈な勢いで」(列王紀下九・二〇)事を進めるのが常だったようですが、それでもそうなのです。どちらも、自分の持つ意見のことで、相手を少しも煩わせなかったようです。

(三) 今も、多くの善い人々が独特な意見を抱いていることは、大いにありうることです。その中には、この点で、ヨナダブと同じくらい人と違っている人もいるかもしれません。そして、私たちの知るところが一部分である(第一コリント一三・九)間は、すべての人がすべてのことを同じように見るわけではないことは確かです。人がそれぞれ、日常の生活においてと同じように、宗教においても違う考えを持つことになるのは、避けられない結果です。人間の悟りが、今は弱く、足りないからです。世の初めからそうでしたし、「万物更新の時まで」(使徒三・二一)そうでしょう。

(四) いや、さらに言えば、だれでも、自分の抱いている一つ一つの意見が正しいと、必然的に信じています。ある意見が正しくないと信じることは、その意見を抱いていないのと同じことだからです。それでも、自分の意見がすべてひっくるめて正しいと確信できる人は、だれもいません。いや、ものを考える人ならだれでも、そうでないことを確信しています。人間とは、次のようなものだからです。humanum est errare et nescire (多くのことを知らず、いくつかのことでまちがうのは、人間の避けられない条件である)ですから、自分もそうだ、とその人は気づいています。自分がまちがっていることを、全体としては知っています。けれども、どの点でまちがっているかは、知りません。おそらく、知ることができないのです。

(五) 私は「おそらく、知ることができない」と言いました。克服できない無知が、あるいは、同じことになりますが、克服できない偏見が、どこまで及ぶかを、だれが言えるでしょうか。偏見は、幼い心にしばしばしっかり根づいてしまいます。そうなると、後になって、それほど深く根を張ったものを引き抜くことは、できなくなるのです。また、ある誤りにどれほど責められるべきところがあるかを、だれが言えるでしょうか。それに伴うあらゆる事情を知っているのでなければ、言えません。すべての罪責は、何らかの意志の同意を前提とするからです。そして、それを判断できるのは、人の心を探り知る方(ローマ八・二七)だけです。

(六) ですから、賢い人はだれでも、ほかの人々が自分に認めてほしいと願うのと同じ考える自由を、ほかの人々に認めます。ほかの人々に、彼らの意見を受けいれるように自分に強いてほしくはありません。それと同じように、自分の意見を受けいれるように彼らに強いることもしません。自分と違う人々を忍び、愛において一つになりたいと願う相手には、ただ一つのことを尋ねるだけです。「あなたの心は、わたしがあなたに対するように真実ですか」(列王紀下一〇・一五)。

(七) 第二に、ここではヨナダブの礼拝の様式について何も尋ねられていないことに、気づきます。この点でも、二人の間にはきわめて大きな違いがあった可能性が高いのですが、それでも尋ねていないのです。というのは、ヨナダブは、その子孫のすべてと同じように、エルサレムで神を礼拝していたと考えてよいからです。けれども、エヒウはそうではありませんでした。エヒウは、宗教よりも国の政策を重んじたのです。ですから、エヒウはバアルの礼拝者たちを殺し、「イスラエルのうちからバアルを一掃し」ました(列王紀下一〇・二八)。けれども、ヤラベアムの都合のよい罪、すなわち「金の子牛」の礼拝は「やめなかった」のです(列王紀下一〇・二九)。

(八) けれども、心のまっすぐな人々がいます。「良心に責められることのないように」(使徒二四・一六)と願う人々です。そういう人々の間でさえ、さまざまな意見がある限り、神を礼拝するさまざまな仕方があるのは避けられません。意見の多様さは、必然的に実践の多様さを伴うからです。いつの時代にも、人々の間で、至高の存在についての意見ほど違ってきたものはありません。同じように、その方を礼拝する仕方ほど、互いに違ってきたものもないのです。これが異教の世界だけのことであったなら、少しも驚くにはあたらなかったでしょう。ご承知のように、異教徒は自分の「知恵によって神を認めるに至らなかった」(第一コリント一・二一)のですから、神をどう礼拝すべきかも知りえなかったのです。けれども、キリスト教の世界でさえそうなのは、不思議ではないでしょうか。キリスト教の世界ではみな、全体としては、「神は霊ですから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきです」(ヨハネ四・二四)という点で一致しています。それなのに、神を礼拝する個々の様式は、異教徒の間とほとんど同じくらい多様なのです。

(九) では、これほど多様なものの中から、どう選べばよいのでしょうか。だれも、ほかの人のために選んだり、ほかの人に指図したりすることはできません。各自が、単純さと、神にかなう誠実さとをもって、自分の良心の命じるところに従わなければなりません。各自がそれぞれ心の中で確信を持ち(ローマ一四・五)、それから、自分の持っている最善の光に従って行動しなければなりません。また、どんな被造物にも、自分の規則に従って歩むように、ほかの者に強いる力はありません。神は、人の子らのだれにも、このように兄弟の良心を支配する権利を与えておられません。だれもが、自分で判断しなければなりません。だれもが、神に対して自分の言いひらきをしなければならない(ローマ一四・一二)からです。

(一〇) ですから、キリストに従う者はだれでも、どこかの特定の会衆に属さなければなりません。ふつう言われるように、どこかの教会に属さなければならないのです。それは、キリスト教の制度そのものの性質によることです。そして、それは神を礼拝する特定の仕方を含んでいます。「ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩く」ことはできないからです(アモス三・三)。けれども、ある会衆をほかの会衆より、ある礼拝の仕方をほかの仕方より選ぶように人を強いることができるのは、その人自身の良心だけです。地上のほかのどんな力にも、それはできません。ふつう、こう考えられていることは、私も知っています。生まれた場所によって、属すべき教会が決まる。たとえば、イギリスに生まれた人は、英国国教会と呼ばれている教会の一員となるべきだ。したがって、その教会が定めている特定の仕方で神を礼拝すべきだ、というのです。私もかつては、この考えを熱心に支持していました。けれども、この熱心を和らげるべき理由を、数多く見いだしています。この考えには、理性ある人ならだれも乗り越えられないような難点が伴うのではないかと思います。その中でも決して小さくない難点は、こうです。もしこの規則が行われていたなら、教皇制からの宗教改革はありえなかったでしょう。この規則は、個人が判断する権利をすっかり打ち壊してしまうからです。あの宗教改革全体は、その権利の上に立っているのです。

(一一) ですから、私は、自分の礼拝の様式をほかのだれかに押しつけることなど、あえてしません。私は、それが本当に初代教会のもので、使徒的なものだと信じています。けれども、私がそう信じていることは、ほかの人にとっての規則ではありません。ですから、愛において一つになりたい相手に、私は尋ねません。「あなたは私の教会に、私の会衆に属していますか。私と同じ教会の統治の形を受けいれ、同じ教会の役職を認めていますか。私が神を礼拝するのと同じ祈りの形式に加わっていますか」。「あなたは、私と同じ姿勢と仕方で主の晩餐を受けていますか」とも尋ねません。また、洗礼の執行において、私と一致しているかどうかも尋ねません。受洗者のために代父母を立てることで、執行の仕方で、あるいは洗礼を授けるべき人の年齢で、一致しているかどうかを尋ねないのです。いや、あなたが洗礼と主の晩餐をそもそも認めているかどうかさえ、尋ねません。私自身は、このことについて心の中ではっきりしているのですが、それでも尋ねないのです。こうしたことはみな、わきに置いておきましょう。必要なら、もっと都合のよいときに話し合いましょう。今、私が尋ねるのは、ただこのことだけです。「あなたの心は、わたしがあなたに対するように真実ですか」(列王紀下一〇・一五)。

(一二) けれども、この問いには、本来どういうことが含まれているのでしょうか。エヒウがそこにどういう意味を込めたか、ということではありません。キリストに従う者がこの問いを兄弟のだれかに出すとき、それによってどういうことを理解すべきか、ということです。

そこに含まれている第一のことは、こうです。あなたの心は、神に対して真実ですか。あなたは、神の存在と、その完全な属性とを信じていますか。神の永遠、無限、知恵、力を、神の正義、あわれみ、真実を信じていますか。神が今も「その力ある言葉をもって万物を保っておられる」(ヘブル一・三)ことを、信じていますか。また、神が、最も小さなものさえ、最も有害なものさえ治めておられることを、信じていますか。神は、それをご自分の栄光と、神を愛する者たちの益(ローマ八・二八)とに役立てておられるのです。あなたは、神のことについて、神からの証拠を、超自然的な確信を持っていますか。あなたは、「見えるものによらないで、信仰によって歩いて」(第二コリント五・七)いますか。一時的なものにではなく、永遠のものに目を注いで(第二コリント四・一八)いますか。

(一三) あなたは、主イエス・キリストを、「万物の上にいます神」、「永遠にほむべき」方(ローマ九・五)と信じていますか。キリストは、あなたの魂の内に啓示されて(ガラテヤ一・一六)いますか。あなたは、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストを(第一コリント二・二)知っていますか。キリストはあなたのうちに住み、あなたはキリストのうちに住んでいますか。キリストの形が、信仰によって、あなたの心のうちにできていますか(ガラテヤ四・一九)。あなたは、自分のわざ、自分の義をすべてまったく捨てて、「神の義に従」いましたか(ローマ一〇・三)。それは、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」(ローマ三・二二)です。あなたは、「自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義」を受けて、「キリストのうちに自分を見いだす」ようになっていますか(ピリピ三・九)。そして、キリストによって、「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得」しようとしていますか(第一テモテ六・一二)。

(一四) あなたの信仰は、エネルグーメネー・ディ・アガペース(ἐνεργουμένη δι᾽ ἀγάπης)ですか。すなわち、愛の力に満ちていますか(ガラテヤ五・六)。あなたは神を、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして」愛していますか(マルコ一二・三〇)。私は「何にもまして」とは言いません。それは聖書にない言い方で、あいまいな言い方でもあるからです。あなたは、自分の幸いのすべてを、ただ神のうちにだけ求めていますか。そして、求めているものを見いだしていますか。あなたの魂は、絶えず「主をあがめ」、あなたの霊は「救主なる神を」喜んでいますか(ルカ一・四六〜四七)。「すべての事について、感謝」すること(第一テサロニケ五・一八)を学んで、「感謝するのは、喜ばしく楽しいことです」と分かっていますか。神は、あなたの魂の中心であり、あなたのあらゆる願いのすべてですか。それに従って、あなたは天に宝をたくわえ(マタイ六・二〇)、ほかのすべてのものをふん土やかすのように思っていますか(ピリピ三・八)。神への愛が、あなたの魂から世への愛を追い出しましたか。それなら、あなたは世に対して十字架につけられています。地上のすべてのものに対して死んでいます。そして、あなたの「いのちは、キリストと共に神のうちに隠されている」のです(コロサイ三・三)。

(一五) あなたは、「自分のこころのままを行う」のではなく、あなたを「つかわされたかたのみこころを行う」(ヨハネ六・三八)ことに、励んでいますか。その方は、あなたを地上につかわして、しばらくここに寄留させ、見知らぬ国でわずかな日々を過ごさせておられます。与えられたわざをあなたがなし遂げて、父の家に帰るまで、そうさせておられるのです。「天にいます」あなたの「父のみこころを行う」こと(マタイ一二・五〇)が、あなたの食物(ヨハネ四・三四)であり、飲み物ですか。あなたの目は、すべてのことにおいて澄んで(マタイ六・二二)いますか。いつも神に注がれ、いつもイエスを仰ぎ見て(ヘブル一二・二)いますか。あなたは、何をするにも、すべての労働、仕事、ふるまいにおいて、神を目指していますか。すべてにおいて、ただ神の栄光だけをねらっていますか。「あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝して」いますか(コロサイ三・一七)。

(一六) 神への愛に促されて、あなたは恐れをもって神に仕え(詩篇二・一一)、「畏敬をもって神を喜んで」いますか。あなたは、死や地獄よりも、神の不興を買うことのほうを恐れていますか。神の栄光の御目をおかす(イザヤ三・八)と考えることほど、あなたにとって恐ろしいことはありませんか。この理由から、あなたは「すべての悪い道を憎み」、神の聖く完全な律法へのあらゆる違反を憎んでいますか。そして、この点で、「神に対しまた人に対して、良心に責められることのないように」努めていますか(使徒二四・一六)。

(一七) あなたの心は、隣り人に対して真実ですか。あなたは、すべての人を例外なく、自分のように愛していますか。「自分を愛してくれる者を」だけ「愛したからとて、どれほどの手柄になるでしょうか」(ルカ六・三二)。あなたは「敵を愛し」ていますか(マタイ五・四四)。あなたの魂は、敵に対する善意と、細やかな愛情とに満ちていますか。神の敵さえ、すなわち恩を知らない者や聖くない者さえ、愛していますか。あなたの心は、彼らのために痛んでいますか。彼らのためなら、現世において「この身がのろわれて」も「いとわない」と思えますか(ローマ九・三)。そして、「のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈」り(ルカ六・二八)、「迫害する者のために祈」る(マタイ五・四四)ことによって、それを示していますか。

(一八) あなたは、行いによって愛を示していますか。時のある間に、機会のあるごとに、実際に「だれに対しても」「善を行」っていますか(ガラテヤ六・一〇)。隣人にも見知らぬ人にも、友にも敵にも、善人にも悪人にも、そうしていますか。彼らに、できる限りのあらゆる善を行っていますか。彼らのあらゆる必要を満たそうと努めていますか。力の限り、体においても魂においても彼らを助けていますか。クリスチャンならだれでも、こう言ってよいでしょう。あなたがこのような思いでいるなら、「あなたの心は、わたしがあなたに対するように真実です」(列王紀下一〇・一五)。いや、ただ心からそれを願い、それを得るまで追い求めているだけでも、そうなのです。

【二】 ヨナダブの答えを受けたエヒウの申し出

(一) 「それならば、あなたの手をわたしに伸べなさい」(列王紀下一〇・一五)。私は、「私の意見に従いなさい」という意味で言っているのではありません。その必要はありません。私はそれを期待もせず、望みもしません。また、「私があなたの意見に従います」という意味でもありません。私にはできません。それは私の選択によることではないのです。見ることや聞くことを思いのままにできないのと同じように、考えることも思いのままにはできません。あなたは自分の意見を保ちなさい。私は私の意見を保ちます。しかも、これまでと同じように、しっかりと保つのです。私の側に移ろうとしたり、私をあなたの側に移らせようとしたりする必要さえありません。そうした点について議論することも、それについて一言でも聞いたり話したりすることも、私はあなたに望みません。どちらの側の意見も、すべてそのままにしておきましょう。ただ、「あなたの手をわたしに伸べなさい」(列王紀下一〇・一五)。

(二) 私は、「私の礼拝の様式を受けいれなさい」とか、「私があなたの様式を受けいれます」とかいう意味で言っているのではありません。これもまた、あなたの選択にも私の選択にもよらないことです。私たちは二人とも、各自が心の中で確信を持っている(ローマ一四・五)とおりに、行動しなければなりません。あなたは、神に最も喜ばれると信じるものを、しっかり守りなさい。私もそうします。私は、主教制の教会の統治の形が、聖書的で使徒的であると信じています。あなたが、長老制や独立派の形のほうが良いと考えるなら、そのまま考え続け、それに従って行動しなさい。私は、幼児に洗礼を授けるべきだと信じています。また、それは水に浸すことによっても、水を振りかけることによっても行ってよいと信じています。あなたが違う確信を持っているなら、そのまま持ち続け、自分の確信に従いなさい。私には、定式の祈りが、とりわけ大きな会衆の中で、すぐれた役に立つように思われます。あなたが、即興の祈りのほうが役に立つと判断するなら、自分の判断にふさわしく行動しなさい。私の考えはこうです。人々が洗礼を受けるための水を、私はこばむべきではない(使徒一〇・四七)。また、死なれた私の主人を記念して(第一コリント一一・二四〜二五)、パンを食べ、ぶどう酒を飲むべきだ。けれども、あなたがこれに納得していないなら、自分の持っている光に従って行動しなさい。これまでに挙げたどの項目についても、私はあなたと一瞬たりとも議論したいとは思いません。こうした小さな点は、みなわきに置いておきましょう。それが決して目に入らないようにしましょう。あなたの心が私の心と同じであるなら、すなわち、あなたが神とすべての人を愛しているなら、私はそれ以上何も求めません。「あなたの手をわたしに伸べなさい」(列王紀下一〇・一五)。

(三) 私が言うのは、第一に、私を愛してください、ということです。それも、あなたがすべての人を愛するようにだけではありません。あなたの敵を、あるいは神の敵を、すなわち、あなたを憎み、あなたを「はずかしめる者」(ルカ六・二八)や「迫害する者」(マタイ五・四四)を愛するようにだけでもありません。見知らぬ人として、善い人とも悪い人とも知らない人として愛するようにだけでもありません。私はそれでは満足しません。そうではありません。あなたの心が、「わたしがあなたに対するように真実」であるなら(列王紀下一〇・一五)、私をきわめて細やかな愛情をもって愛してください。兄弟よりもたのもしい友(箴言一八・二四)として、キリストにある兄弟として、新しいエルサレムの同じ国籍の者(エペソ二・一九)として愛してください。同じ救いの君(ヘブル二・一〇)のもとで、同じ戦いに加わっている戦友として愛してください。イエスの御国と忍耐とにあずかる仲間(黙示録一・九)として、キリストと栄光を共にする共同の相続人(ローマ八・一七)として、私を愛してください。

(四) 大多数の人々を愛するよりも高い程度で、寛容で情深い愛(第一コリント一三・四)をもって、私を愛してください。その愛は忍耐深く、私が無知で迷っている(ヘブル五・二)ときには、私の重荷を負い(ガラテヤ六・二)、それを増し加えることをしません。そして、なおも優しく、穏やかで、思いやり深いのです。また、その愛はねたむことをしません(第一コリント一三・四)。神が、ご自分のわざにおいて、ときにあなたよりも私をいっそう栄えさせることをよしとされても、ねたまないのです。いらだたない(第一コリント一三・五)愛をもって、私を愛してください。私の愚かさや弱さにいらだたない愛です。私が神の御旨に従わずに行動しているように、ときにあなたに見えることがあっても、それにさえいらだたない愛です。私について悪を思わないように、私を愛してください。あらゆる疑いと邪推を捨てるように、愛してください。すべてをおおう愛をもって、私を愛してください。私の欠点も弱さも決して言いふらさない愛です。すべてを信じる(第一コリント一三・七)愛です。いつも最善に考え、私のすべての言葉と行いを最も好意的に解釈しようとする愛です。すべてを望む(第一コリント一三・七)愛です。すなわち、話に聞いたことは実はなかったのだと望みます。あるいは、話に聞いたような事情のもとで行われたのではないと望みます。あるいは少なくとも、善い意図から、あるいは急な誘惑に迫られて行われたのだと望むのです。そして、最後まで望んでください。まちがっていることは、神の恵みによって正される、と望んでください。欠けているものは、キリスト・イエスにある神のあわれみの豊かさによって満たされる、と望んでください。

(五) 私が言うのは、第二に、あなたのすべての祈りの中で、私を神にゆだねてください、ということです。私のために神と格闘してください。神が私のうちに見られるまちがいを速やかに正し、私に欠けているものを満たしてくださるように、祈ってください。恵みの御座(ヘブル四・一六)に最も近づくときには、そのときあなたのすぐそばにおられる方に、こう願ってください。私の心がもっとあなたの心のようになり、神に対しても人に対しても、もっと真実になりますように。私が、まだ見ていない事実(ヘブル一一・一)についてもっと十分な確信を持ち、キリスト・イエスにある神の愛をもっと力強く見ることができますように。見えるものによらないで、信仰によって(第二コリント五・七)もっと着実に歩み、もっと熱心に永遠のいのちをつかむことができますように。神への愛とすべての人への愛が、私の心にもっと豊かに注がれる(ローマ五・五)ように祈ってください。私が、天にいます父のみこころを行う(マタイ一二・五〇)ことにもっと熱心で活発になるように、祈ってください。良いわざにもっと熱心になり(テトス二・一四)、悪のどんな見かけからも遠ざかることにもっと注意深くなるように、祈ってください。

(六) 私が言うのは、第三に、愛と善行とを励むように私を促してください(ヘブル一〇・二四)、ということです。機会のあるごとに、私の魂の健康のためになると信じることは何でも、愛をもって私に語ってください。そうして、あなたの祈りを後押ししてください。神が私に与えられたわざにおいて、私を奮い立たせてください。それをもっと完全に行う方法を、私に教えてください。そうです、「いつくしみをもってわたしを打」ち、「わたしを責め」てください(詩篇一四一・五)。私をつかわされた方のみこころよりも、むしろ自分の思いを行っているように私が見えるところでは、どこででも、そうしてください。ああ、ためらわずに語ってください。私の欠点を改め、私の弱さを強め、私を愛において築き上げるのに役立つと信じることは、何でも語ってください。私をあらゆる点で主人に役立つもの(第二テモテ二・二一)にすると信じることも、語ってください。

(七) 私が言うのは、最後に、言葉だけでなく、行いと真実とをもって(第一ヨハネ三・一八)私を愛してください、ということです。あなたの良心が許す限り、神のわざにおいて私と協力してください。あなた自身の意見と、あなた自身の神を礼拝する仕方は、そのまま保っていてかまいません。そして、手をたずさえて進んで行きましょう。ここまでなら、確かに、あなたは進むことができます。どこにいても、神のわざについては、神がだれを通して働かれるにしても、敬意をもって語ってください。神の使者たちについては、好意をもって語ってください。そして、もしできるなら、彼らが困難や苦しみの中にあるときに同情するだけでなく、快く、実際に役立つ助けを彼らに与えてください。それは、彼らがあなたのことで神に栄光を帰す(第二コリント九・一三)ためです。

(八) この最後の項目で述べたことについて、二つのことに注意すべきです。一つは、こうです。私は、心が私に対して真実な人、私の心がその人に対してそうであるように真実な人に、愛や愛のつとめを、霊的な助けやこの世の助けを求めます。何を求めるにしても、それと同じものを、私も、神の恵みによって、自分の分に応じて、その人に与える用意があるのです。もう一つは、私がこう求めるのは、私自身のためだけではない、ということです。神と人とに対して心が真実なすべての人のためでもあるのです。それは、キリストが私たちを愛してくださったように(ヨハネ一三・三四)、私たちがみな互いに愛し合うためです。

【三】 公同の精神とは何か

(一) これまで述べてきたことから、一つの結論を引き出すことができます。ここから、公同の精神とは何かを学ぶことができるのです。

この言葉ほど、ひどく誤解され、危険なほど誤用されてきた言葉は、ほとんどありません。けれども、これまで述べてきたことを落ち着いて考える人なら、だれでもできることがあります。そうした誤解をたやすく正し、そうした誤用を防ぐことです。

というのは、ここから、第一に、公同の精神は理論上の広教主義ではない、ということを学べるからです。公同の精神は、あらゆる意見に無関心であることではありません。そのような無関心は地獄の落とし子であって、天の子ではありません。この考えの定まらなさ、この「様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたり」(エペソ四・一四)することは、祝福ではなく大きなのろいです。真の公同性にとって、友ではなく、和解しがたい敵なのです。本当に公同の精神を持つ人は、今さら自分の宗教を探し求めたりはしません。キリスト教の教理の主要な部分についての判断において、その人は太陽のように揺るぎません。確かに、その人は、自分の原則に反して持ち出されることは何でも、いつでも喜んで聞き、よく考えます。けれども、それは、その人の心の動揺を示すものではなく、また、動揺を引き起こすものでもありません。その人は、二つのものの間に迷う(列王紀上一八・二一)ことはなく、二つの意見をむなしく一つに混ぜ合わせようとすることもしません。自分がどんな霊の者か知らないあなたがたは、このことに注意しなさい。あなたがたは、自分を公同の精神の人と呼んでいます。けれども、それはただ、悟りが濁っているからにすぎません。心がすっかり霧に包まれているからにすぎません。定まった一貫した原則を持たず、あらゆる意見をごちゃ混ぜにしようとしているからにすぎないのです。あなたがたは、すっかり道を踏み外していることを悟りなさい。自分がどこにいるのかさえ分かっていないのです。あなたがたは、キリストの霊そのものに入ったと思っています。けれども実際には、反キリストの霊(第一ヨハネ四・三)のほうに近いのです。まず行って、キリストの福音の初歩を学びなさい。そうすれば、本当に公同の精神を持つことを学ぶでしょう。

(二) これまで述べてきたことから、第二に、公同の精神は、どんな種類の実践上の広教主義でもない、ということを学べます。それは、公の礼拝に、あるいはその外面的な執り行い方に、無関心であることではありません。これもまた、祝福ではなく、のろいでしょう。そのような無関心は、霊とまこととをもって神を礼拝する(ヨハネ四・二四)ことの助けになるどころではありません。それが続く限り、言いようのない妨げとなるでしょう。けれども、本当に公同の精神を持つ人は、すべてのものを聖所のはかりで量っています。そのうえで、自分が加わっている特定の礼拝の様式について、何の疑いも、ためらいもまったく持っていません。神を礼拝するこの仕方は、聖書的でもあり、理にかなってもいると、はっきり確信しています。これ以上聖書的な仕方も、これ以上理にかなった仕方も、世に一つもないことを知っています。ですから、あちこちさまよい歩くことなく、その仕方にしっかりと付きます。そして、そうする機会が与えられていることを、神に感謝してほめたたえるのです。

(三) ここから、第三に、公同の精神は、あらゆる会衆に無関心であることではない、ということを学べます。それは別の種類の広教主義で、前に述べたものに劣らず不合理で、聖書に反しています。けれども、本当に公同の精神を持つ人は、それからほど遠いのです。その人は、原則においてと同じように、会衆においても揺るぎません。一つの会衆に、霊においてだけでなく、クリスチャンの交わりのあらゆる外面的なきずなによって結ばれています。そこで、その人は、神の定めのすべてにあずかります。そこで、主の晩餐を受けます。そこで、公の祈りの中で魂を注ぎ出し、公の賛美と感謝に加わります。そこで、和解の福音(第二コリント五・一九)を、神のめぐみの福音(使徒二〇・二四)を聞くことを喜びます。この最も近い、最も愛する兄弟たちとともに、厳粛なときには、断食して神を求めます。とりわけこの兄弟たちを、その人は愛をもって見守ります。兄弟たちも、その人の魂を見守ります。互いに諭し、勧め、慰め、忠告し、あらゆる仕方で、信仰において互いの徳を高めるのです。この兄弟たちを、その人は自分の家族(第一テモテ五・八)と見なしています。ですから、神が与えてくださった力に応じて、おのずから彼らを顧みます。そして、彼らが、いのちと信心とにかかわるすべてのもの(第二ペテロ一・三)を持てるように備えるのです。

(四) けれども、その人は、自分の宗教上の原則に、すなわちイエスにある真理(エペソ四・二一)と信じるものに、しっかりと立っています。神の目に最も喜ばれると判断する神の礼拝に、かたく付いています。最も細やかで最も緊密なきずなによって、一つの特定の会衆に結ばれています。それでいて、その人の心は、すべての人に向かって、知っている人にも知らない人にも、広くなっている(第二コリント六・一一)のです。隣人も見知らぬ人も、友も敵も、強い心からの愛情をもって抱きしめます。これが、公同の、すなわち普遍的な愛です。そして、この愛を持つ人が、公同の精神を持つ人なのです。愛だけが、この呼び名にふさわしい資格を与えるからです。公同の愛こそ、公同の精神なのです。

(五) ですから、この言葉を最も厳密な意味でとるなら、公同の精神の人とは、次のような人です。上に述べた仕方で、心が自分の心に対して真実なすべての人に、手を伸べる人です。自分の受けているあらゆる恵まれた点を重んじ、それを神に感謝してほめたたえることを知っている人です。その恵まれた点とは、神のことについての知識と、神を礼拝する真に聖書的な仕方です。そして何よりも、神を敬い義を行う(使徒一〇・三五)会衆と一つに結ばれていることです。こうした祝福を最も注意深く保ち、目のひとみのように(申命記三二・一〇)守りながら、同時に、主イエス・キリストを信じるすべての人を愛する人です。どんな意見の人でも、どんな礼拝の人でも、どんな会衆の人でもかまいません。その人々を、友として、主にある兄弟として、キリストの肢体として、神の子として愛するのです。今ある神の国にともにあずかる者として、神の永遠の御国をともに受け継ぐ者として愛するのです。その人々とは、神と人とを愛する人々です。神を喜ばせることを喜び、神の不興を買うことを恐れて、悪から遠ざかることに注意深く、良いわざに熱心な(テトス二・一四)人々です。本当に公同の精神を持つ人とは、こうした人々をみな、いつも心にかけている人です。その人々一人一人に言いようのない優しさをいだき、その幸いを切に願う人です。人々の前で彼らを弁護するだけでなく、祈りの中で彼らを神にゆだねることをやめない人です。彼らに慰めの言葉をかけ、あらゆる言葉によって、神によって彼らを力づけ(サムエル記上二三・一六)ようと努める人です。霊的なことでもこの世のことでも、あらゆることにおいて、力の限り彼らを助けます。彼らのために、「費用を使い」、自分「自身をも使いつくす」(第二コリント一二・一五)用意があります。そうです、彼らのためにいのちを捨てる(第一ヨハネ三・一六)用意さえあるのです。

(六) 神の人よ(第一テモテ六・一一)、あなたは、これらのことを心にとめなさい(ピリピ四・八)。もしあなたがすでにこの道にいるなら、進み続けなさい。もしこれまで道を誤っていたなら、あなたを連れ戻してくださった神をほめたたえなさい。そして今、普遍的な愛という王の道において、あなたの前に置かれている競走を走りなさい。判断において揺れ動くことのないように、また、心をせばめる(第二コリント六・一二)ことのないように気をつけなさい。むしろ、着実な歩みを保ちなさい。聖徒たちにひとたび伝えられた信仰(ユダ三)に根ざし、愛を、真の公同の愛を基として(エペソ三・一七)歩みなさい。ついには、永遠に愛のうちにのみ込まれるまで、そうしなさい!

〔版によっては、ここにチャールズ・ウェスレーの讃美歌「公同の愛」が加えられています。〕

この言葉ばかりの争いに疲れ、観念や、形式や、様式や、名前に疲れて、道であり、真理であり、いのちであるあなたへ、その愛が私の素朴な心を燃え立たせるあなたへ、神に教えられて、私はついに飛んで行きます。あなたとあなたの民とともに、生き、また死ぬために。

バベルのただ中から連れ出され、私は党派も分派も後ろに捨てます。心は広げられ、思いは自由にされて、隠れた真理をどこに見いだしても、その隠れた真理を喜んで認め、ただイエスの名の前にだけ、ひれ伏します。

あなたの全能の恵みにあがなわれて、私は栄光の自由を味わいます。両腕を広げて世を抱きしめ、けれども、あなたに付き従う人々にこそ付き従い、ただあなたの聖徒たちだけを喜びとします。最も清い白い衣を着て、神とともに歩む人々を。

小さな群れと一つになって、私は憩います。かしらにしっかりと連なる、健やかな肢体たちと。赦しに恵まれた、選ばれた少数の人々、油を注ぐ御霊に導かれて、あなたのうちにあった思いへ、神の深みへと入って行く人々と。

この人々こそ、私の兄弟、友、親族です。天にいます私の父のみこころを行う人々です。完全な聖性を目指し、あなたのご計画をすべて成し遂げようとし、あなたがおられるとおりの者になることを渇き求め、心をつくして自分の神を愛する人々です。

この人々に対して、肉においてはどれほど離れていても、地上のどこに散らされていても、私は、偽りのない、限りない愛をいだきます。それは、神のいのちのように変わらない愛です。いのちの泉、そこからこの愛はわき出ました。その泉と同じように清く、むらがなく、強い愛です。

人に知られない、隠れた教会に結ばれて、この確かな完全のきずなのうちに、人目につかず安らかに、私はひとり住み、一つに結ぶ恵みを誇ります。私に、一人一人の信者に与えられ、地と天にいる、あなたのすべての聖徒たちに与えられた恵みを。(チャールズ・ウェスレー)