説教三十八 偏狭への戒め
「ヨハネがイエスに言った、『先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました』。イエスは言われた、『やめさせないがよい』」(マルコ九・三八〜三九)
(一) この前の節に、こう書かれています。十二弟子が「だれが一ばん偉いか」(マルコ九・三四)と論じ合っていたあとのことです。イエスはひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われました(マルコ九・三六)。「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのです。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを」受けいれるだけ「ではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのです」(マルコ九・三七)。そこで「ヨハネが答えて」(ルカ九・四九)、すなわち、主がその直前に語られたことを受けて、こう言いました。「先生、」ある者が「あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」(マルコ九・三八)。まるで、こう言ったかのようです。「私たちは、その人を受けいれるべきだったのでしょうか。その人を受けいれたら、あなたを受けいれたことになったのでしょうか。むしろ、やめさせるべきだったのではありませんか。私たちは、それでよかったのではありませんか」。けれども、イエスは「やめさせないがよい」(マルコ九・三九)と言われました。
(二) 同じ出来事は、聖ルカも、ほとんど同じ言葉で記しています(ルカ九・四九〜五〇)。けれども、こう尋ねる人がいるかもしれません。「それが私たちに何のかかわりがあるのか。今では、悪霊を追い出す者などだれもいないではないか。そうする力は、千二百年か千四百年も前から、教会から取り去られているではないか。それなら、ここに持ち出されている事例に、また、それに対する主の判断に、私たちがどうかかわるというのか」。
(三) おそらく、ふつう考えられている以上に、深くかかわっているのです。持ち出されている事例は、決して珍しい事例ではないからです。私たちがそこから十分な益を刈り取れるように、私は次のことを示すつもりです。第一に、今、人はどういう意味で悪霊を追い出すことができ、また実際に追い出しているのか。第二に、「わたしたちについてこない」(マルコ九・三八)ということを、どう理解すればよいのか。第三に、主の指図「やめさせないがよい」(マルコ九・三九)を説き明かします。そして、全体から一つの結論を引き出して結びとします。
【一】 今、人はどういう意味で悪霊を追い出すのか
(一) 第一に、今、人はどういう意味で悪霊を追い出すことができ、また実際に追い出しているのかを示します。
このことを最もはっきり見るために、思い起こすべきことがあります。聖書の記すところによれば、神が光の子らのうちに住み、働かれるように、悪魔はやみの子らのうちに住み、働いているのです。聖霊が善い人々の魂を占めておられるように、悪の霊は悪人たちの魂を占めています。そこで、使徒は悪魔を「この世の神」(第二コリント四・四)と呼んでいます。世の人々に対して、悪魔がだれにも抑えられない力を持っているからです。そこで、ほむべき主も悪魔を「この世の君」(ヨハネ一二・三一)と呼ばれます。それほど、この世に対する悪魔の支配は絶対的なのです。そこで、聖ヨハネもこう言います。「わたしたちは神から出た者であり」、神から出ていないすべての人、すなわち「全世界は」エン・トー・ポネーロー・ケイタイ(ἐν τῷ πονηρῷ κεῖται)であることを、「知っている」(第一ヨハネ五・一九)のです。これは、悪のうちに横たわっている、という意味ではありません。「悪しき者の」うちに横たわっている、という意味です。世のものでない人々が神のうちに生き、動いているように、彼らは悪しき者のうちに生き、動いているのです。
(二) というのは、悪魔は、「ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」(第一ペテロ五・八)者とだけ考えてはならないからです。あわれな魂に不意に襲いかかり、自分の「欲するままに」(第二テモテ二・二六)とりこにして連れて行く、ずる賢い敵とだけ考えてもなりません。悪魔は、彼らのうちに住み、彼らのうちを歩む者です。この世のやみ、すなわち悪を支配する者です。この世とは、世の人々と、その暗いたくらみと行いのすべてのことです。悪魔は、彼らの心を占め続け、そこに自分の王座をすえ、すべての思いを自分に服従させることによって、支配するのです。こうして、「強い人が」、「武装して自分の」家「を守っている」(ルカ一一・二一)のです。この「汚れた霊が人から出る」(ルカ一一・二四)ことが、ときにはあるかもしれません。それでも、悪霊はたびたび戻ってきます。「自分以上に悪い」「七つの霊を」連れて戻り、「中にはいり、そこに住み込む」(ルカ一一・二六)のです。悪魔は、その住まいでなまけていることもできません。悪魔は、この「不従順の子らの中に」絶えず「働いている」(エペソ二・二)のです。力をもって、強大な勢いをもって、彼らのうちに働きます。彼らを自分に似た姿に変え、神のかたちの名残をすべてぬぐい去り、あらゆる悪い言葉と悪いわざへと備えさせるのです。
(三) ですから、この世の神であり君である者が、今も、神を知らないすべての人を占めていることは、疑う余地のない真理です。ただ、今、彼らを占めている仕方が、昔そうしていた仕方と違うだけです。当時は、魂だけでなく体もたびたび苦しめました。しかも、何の偽装もせず、あからさまに苦しめたのです。今は、まれな場合を除いて、魂だけを苦しめます。しかも、できるだけひそかに苦しめるのです。この違いの理由は明白です。当時、悪魔のねらいは人類を迷信に追い込むことでした。ですから、できるだけあからさまに働いたのです。けれども、今の悪魔のねらいは、私たちを不信仰に追い込むことです。ですから、できるだけひそかに働きます。隠れていればいるほど、ますます勝ちを得るからです。
(四) とはいえ、歴史家の言うことを信じてよいなら、今でも、悪魔が以前と同じようにあからさまに働いている国々があります。「しかし、なぜ未開で野蛮な国々でだけなのか。なぜイタリアやフランスやイギリスではないのか」。ごく明白な理由からです。悪魔は相手をよく知っていて、それぞれをどう扱えばよいかを知っているのです。ラップランド人には、素顔のまま現れます。彼らを迷信とひどい偶像礼拝に縛りつけておくことがねらいだからです。けれども、あなたがたに対しては、違うねらいを追っています。あなたがたに自分自身を偶像として拝ませることです。あなたがたを、自分の目に、神ご自身よりも、神の言(ローマ三・二)のすべてよりも、賢い者にすることです。ところで、そうするためには、悪魔は自分の姿で現れてはなりません。そんなことをすれば、自分のもくろみがくじかれてしまうからです。そうではありません。悪魔はあらゆる術を使って、あなたがたに自分の存在を否定させます。ついには、あなたがたを自分の場所にしっかり捕えてしまうまで、そうするのです。
(五) ですから、悪魔は、仕方こそ違え、どちらの国でも同じように絶対的に支配しています。陽気なイタリアの不信者も、荒々しいタタール人と同じように、しっかりと悪魔の牙にくわえられています。けれども、その不信者は獅子の口の中でぐっすり眠っています。獅子は賢いので、彼を眠りから覚ましたりはしません。ですから、獅子は今のところ彼をもてあそんでいるだけで、気が向けば、彼をのみ込んでしまうのです!
この世の神は、イギリス人の礼拝者を、ラップランドの礼拝者とまったく同じようにしっかり捕えています。けれども、彼らを驚かすことは、悪魔の仕事ではありません。驚かせば、彼らが天の神のもとへ逃げて行くかもしれないからです。ですから、やみの君は、自分から進んで従うこの臣下たちを支配している間、姿を現しません。征服者は、捕虜たちを、それだけいっそう確かに捕えています。捕虜たちが、自分は自由だと思い込んでいるからです。こうして、「強い人が」、「武装して自分の」家「を守って」いて、「その持ち物は安全」(ルカ一一・二一)なのです。理神論者も名ばかりのクリスチャンも、悪魔がそこにいることを疑いもしません。ですから、悪魔と彼らは、互いにまったく平和に過ごしているのです。
(六) その間ずっと、悪魔は彼らのうちで力強く働いています。彼らの悟りの目をくらませるので、キリストの栄光の福音の光(第二コリント四・四)が、彼らを照すことができません。悪魔は、彼ら自身の卑しい情の鎖で、彼らの魂を地と地獄につなぎとめます。世への愛、金銭への愛、快楽への愛、称賛への愛によって、彼らを地に縛りつけます。また、高ぶり、ねたみ、怒り、憎しみ、復讐心によって、彼らの魂を地獄に近づかせます。彼らは悪魔が働いていることさえ知らないので、悪魔はそれだけ安心して、思うままに働くのです。
(七) けれども、その結果から、原因を何とたやすく知ることができるでしょう。その結果は、ときにはひどく、はっきり目に見えるものです。異教の国々のうちで最も洗練された国でも、そうでした。称賛され、徳が高いとされたローマ人を見るだけで十分です。学問と栄光の絶頂にあったときのローマ人が、どうであったかが分かるでしょう。「あらゆる不義と」淫行と「悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、そしる者」、「不遜な者、高慢な者、大言壮語する者」、「親に逆らう者」、「不誠実、無情」、和らぎがたい者、「無慈悲な者となっている」(ローマ一・二九〜三一)のです。
(八) この描写の最も強い部分は、ある人によって裏づけられています。ある人々には、もっと文句のつけようのない証人と思われるかもしれない人です。それは、彼らと同じ異教徒のディオン・カッシオスのことです。彼はこう述べています。カエサルがガリアから帰る前には、あらゆる種類の暴食と淫らさが、隠されもせず、あからさまに行われていた。偽りと不正と無慈悲が、家庭だけでなく公の法廷にもあふれていた。それだけでなく、このうえなく乱暴な強盗、略奪、殺人がローマの至るところであまりにも頻繁に起こった。そのため、遺言を書かずに外出する人はほとんどいなかった。生きて帰れるかどうか分からなかったからだ、と。
(九) 今日の異教徒の、すべてとは言わないまでも多くの間でも、悪魔のわざは同じようにひどく、はっきり目に見えます。クリーク族、チェロキー族、チカソー族、そのほか、私たちの南部の植民地に接するすべてのインディアンの自然宗教があります。少数の個人の宗教ではなく、部族全体の宗教です。その宗教とは、捕虜をみな朝から晩まで拷問にかけ、ついには火あぶりにして殺すことです。また、ほんのささいな、悪気のない挑発を受けただけで、自分の同胞のだれであれ、後ろから近づいて撃ち殺すことです。そうです、彼らの間では、よくあることなのです。息子は、父親が長生きしすぎると思えば、その頭を打ち砕きます。母親は、子供たちに嫌気がさせば、その首に石をくくりつけ、三、四人を次々に川に投げ込むのです!
(一〇) このようなひどい、目に見える悪魔のわざを行ってきたのが、異教徒だけであればよかったのですが。けれども、私たちは、そうだとはとても言えません。残虐と流血においてさえ、クリスチャンは何と異教徒に引けを取っていないことでしょう。南アメリカで何千人もの人を虐殺したスペイン人やポルトガル人だけではありません。スペイン人に一歩一歩ならった、東インドのオランダ人や北アメリカのフランス人だけでもありません。私たちの同胞も、血にふけり、部族をまるごと絶滅させてきました。それによって、不従順の子らの中に住み、働いている(エペソ二・二)のがどんな霊であるかを、はっきり証明してきたのです。
(一一) こうした怪物たちのことを考えると、私たち自身の国で行われている悪魔のわざを、見過ごしてしまいそうになるかもしれません。けれども、ああ、この国でも、目を開けば、至るところにそれが見えてしまうのです。今も私たちの国の至るところに、こういう人々が見られます。いつも神の名をみだりに口にする者、酒に酔う者、不品行な者、姦淫する者、盗む者、強盗、男色をする者、人殺しです。これは、悪魔の力を示す小さな証拠でしょうか。この世の君(ヨハネ一二・三一)は、こうした不従順の子ら(エペソ二・二)のすべてのうちで、何と勝ち誇って支配していることでしょう!
(一二) 悪魔は、それほどあからさまではなくても、同じように効果的に働いています。偽る者、告げ口する者、うそつき、中傷する者のうちにです。しいたげる者や暴利をむさぼる者、偽りの誓いをする者、自分の友や名誉や良心や祖国を売る者のうちにも働いています。それなのに、こうした人々が、今も宗教や良心について、名誉や徳や公共心について語ることがあるのです。けれども、彼らが神を欺けないのと同じように、サタンを欺くこともできません。サタンもまた、自分の者たちを知っています。それは、あらゆる国民、民族のうちからの大ぜいの群衆で、今日、サタンは彼らを完全に占めているのです。
(一三) このことを考えるなら、人が今も、どういう意味で悪霊を追い出すことができるかが、分からないはずはありません。そうです、キリストの教役者はみな、主のわざがその手によって栄える(イザヤ五三・一〇)なら、実際に悪霊を追い出しているのです。
その言葉に伴う神の力によって、教役者はこうした罪人を悔い改めに導きます。悔い改めとは、外だけでなく内も完全に変わること、あらゆる悪からあらゆる善へと変わることです。そして、これこそ、健全な意味で、悪霊を追い出すことです。悪霊がそれまで住んでいた魂から、追い出すのです。強い人は、もう自分の家を守ることができません。もっと強い者が襲ってきて(ルカ一一・二二)、彼を追い出し、その家を自分のものとし、御霊による神のすまい(エペソ二・二二)としたのです。ですから、ここでサタンの力は終わり、神の御子が「悪魔のわざを滅ぼして」(第一ヨハネ三・八)しまわれるのです。今や、罪人の悟りは照され、その心は神へと優しく引き寄せられます。その人の願いは高められ、情はきよめられます。そして、聖霊に満たされて、恵みのうちに成長します。ついには、心において聖いだけでなく、あらゆる行いにおいて聖なる者(第一ペテロ一・一五)となるのです。
(一四) これはみな、まことに神のわざです。サタンを追い出すことがおできになるのは、神だけです。けれども、神はたいてい、人をご自分の手の道具として、これをなさることを喜ばれます。そのとき、その人は、神の名によって、神の力と権威によって、悪霊を追い出すと言われるのです。神は、この大きなわざに、ご自分がつかわそうと思われる者をつかわされます。けれども、それはたいてい、人が思いもよらなかったような者です。神の「道」は私たちの「道」とは異なり、神の「思い」は私たちの「思い」とは異なっている(イザヤ五五・八)からです。ですから、神は、強い者をはずかしめるために弱い者を選び、知者をはずかしめるために愚かな者を選ばれます(第一コリント一・二七)。その理由は明白です。栄光を確かにご自分のものとし、「どんな人間でも、神のみまえに誇ることがない」(第一コリント一・二九)ようにするためです。
【二】 「わたしたちについてこない」の意味
(一) けれども、このように「悪霊を追い出している」(マルコ九・三八)者でも、もし「わたしたちについてこない」(マルコ九・三八)なら、やめさせるべきではないでしょうか。これが、使徒の判断であり、行いでもあったようです。この事例を自分の主人にゆだねるまでは、そうだったのです。ヨハネは、「その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」(マルコ九・三八)と言います。ヨハネは、それで十分すぎるほどの理由になると思っていたのです。この「わたしたちについてこない」(マルコ九・三八)という言い方を、どう理解すればよいか。これが、次に考えるべき点です。
これによって理解できる最も軽い事情は、その人が私たちと外面的なつながりを持っていない、ということです。私たちは、互いに協力して働いているのではありません。その人は、福音における私たちの協力者ではありません。実際、主が多くの働き人を収穫のために送り出す(マタイ九・三八)ことをよしとされるときがあります。そのときには、その全員が、互いに従属したり、つながったりして働くことはできません。いや、互いに個人的に知り合いになることも、互いに名を知られることさえも、できないのです。収穫の畑のあちこちには、どうしても、こういう働き人が大勢いることになります。互いに行き来がないどころか、まるで違う時代に生きていたかのように、まったく見知らぬ者どうしなのです。そして、私たちの知らないこうした人々のだれについても、疑いなく、「わたしたちについてこない」(マルコ九・三八)と言えるのです。
(二) この言い方の第二の意味は、その人が私たちの党派に属していない、ということでしょう。エルサレムのために平安を祈る(詩篇一二二・六)すべての人にとって、長い間、悲しい思いで考えずにはいられないことがあります。みなクリスチャンと呼ばれている人々の間に、今もこれほど多くの党派が分かれて存在していることです。これは、とりわけ私たちの同胞に見られることでした。彼らは、どうでもよい点をめぐって、しかもたびたび宗教とは何のかかわりもない点をめぐって、絶えず互いに分かれてきたのです。ごくささいな事情から、さまざまな党派が生まれ、それが何世代も続いてきました。そして、どの党派も、向こう側にいる人に対して、すぐに「わたしたちについてこない」(マルコ九・三八)と言って反対するでしょう。
(三) 第三に、この言い方は、その人が宗教上の意見において私たちと違っている、という意味かもしれません。すべてのクリスチャンが、心を一つにし思いを一つにしていた(使徒四・三二)ときがありました。彼らが初めて聖霊に満たされたとき、大きなめぐみが彼ら一同に注がれていた(使徒四・三三)のです。けれども、この祝福は何と短い間しか続かなかったことでしょう。あの一致は、何と早く失われたことでしょう。そして、キリストの教会の中にさえ、ふたたび意見の違いが生じました。しかも、名ばかりのクリスチャンではなく、本物のクリスチャンの間に生じたのです。いや、その最もおもだった人々、使徒たち自身の間にさえ生じたのです。そのとき始まった違いが、完全に取り除かれたことがあったとも思えません。神の宮のあの柱たちでさえ、地上にとどまっている間に、同じように考え、思いを一つにするようになったとは見えません。とりわけ、儀式律法についてはそうです。ですから、今、キリスト教会の中に限りなく多様な意見が見られるのも、少しも驚くにはあたりません。その結果として、大いにありうることがあります。だれかが「悪霊を追い出している」(マルコ九・三八)のを見るときにはいつも、その人がこの意味で「わたしたちについてこない」(マルコ九・三八)者だ、ということです。すなわち、私たちと意見が同じでない者だということです。その人が、すべての点で、宗教の点でさえ、私たちと同じ考えであるとは、ほとんど考えられません。重要な問題のいくつかについてさえ、その人は私たちと違う考え方をしている可能性が大いにあります。たとえば、道徳律法の性質と用途、神の永遠の聖定、神の恵みの十分さと効力、神の子たちの堅忍などです。
(四) 第四に、その人は、意見においてだけでなく、実践のある点においても、私たちと違っているかもしれません。私たちの会衆で行われている神の礼拝の仕方を、よしとしないかもしれません。カルヴァンやマルティン・ルターに由来する礼拝の仕方のほうが、自分の魂にとって益になると判断するかもしれません。私たちがほかの何よりも良いと認めている礼拝式文に、多くの異議を持っているかもしれません。私たちが使徒的で聖書的だと重んじている教会の統治の形に、多くの疑いを抱いているかもしれません。もしかすると、さらに私たちから遠ざかるかもしれません。良心の原則から、私たちがキリストの定めと信じているもののいくつかを、控えるかもしれないのです。あるいは、それが神に定められたものだという点では、私たちとその人の意見が一致するとします。それでも、その定めを執り行う仕方について、あるいはそれを授けるべき人について、なお違いが残るかもしれません。ところで、こうした違いのどれからも、避けられない結果が生じます。このように私たちと違う人は、その点について、私たちの交わりから離れざるをえないのです。ですから、この点で、その人は「わたしたちについてこない」(マルコ九・三八)のです。私たちの言い方をすれば、その人は私たちの教会に属していないのです。
(五) けれども、もっとずっと強い意味で「わたしたちについてこない」(マルコ九・三八)人もいます。違う教会に属しているだけでなく、私たちが多くの点で反聖書的、反キリスト教的と見なしている教会に属している人です。それは、教えにおいてまったく偽りで誤っており、実践においてもきわめて危険なほどまちがっている、と私たちが信じている教会です。偶像礼拝だけでなく、ひどい迷信の罪も犯している教会です。聖徒たちにひとたび伝えられた信仰(ユダ三)に、多くの信条を付け加えた教会です。神の戒めを一つまるごと落とし、ほかのいくつかの戒めを、その言伝えによって無にしてきた(マルコ七・一三)教会です。古代の教会を最も深く敬い、最も厳密にそれに従うと称している教会です。それなのに、古代にも聖書にも何の根拠もない、数えきれない新しいことを持ち込んできたのです。これほど私たちから遠く隔たっている人は、まったく確かに、「わたしたちについてこない」(マルコ九・三八)のです。
(六) けれども、これよりさらに大きな違いもありえます。判断や実践において私たちと違う人が、判断においてよりも、感情においてもっと遠く私たちから隔たっていることもありえます。実際、これは、判断の違いからきわめて自然に、きわめてよく生じる結果です。意見の点で始まった違いは、そこで終わることはめったにありません。たいていは感情にまで広がり、そうなると親しい友を離れさせる(箴言一六・二八)のです。また、宗教の不一致から生じる敵意ほど、深く、和解しがたい敵意はありません。そのために、人の最もひどい敵は、その家の者(マタイ一〇・三六)となるのです。そのために、父は自分の子に、子は父に逆らって立ち(マタイ一〇・二一)、ことによると互いに死に至るまで迫害し合います。しかもその間ずっと、自分たちは神に仕えているのだと思っている(ヨハネ一六・二)のです。ですから、次のようなことは、私たちが予想できることにすぎません。宗教上の意見や実践において私たちと違う人々が、やがて私たちに対して、とげとげしさを、いや、苦々しさを抱くようになることです。また、彼らが私たちにますます偏見を抱くようになることです。ついには、私たちの主義についてと同じように、私たちの人柄についても、悪い考えを抱くようになるのです。そうなれば、ほとんど必然的に、彼らは私たちについて考えているとおりに語るようになるでしょう。彼らは私たちに逆らって立ち、できる限り私たちのわざを妨げるでしょう。そのわざが、彼らには神のわざではなく、人のわざか悪魔のわざに見えるからです。このように考え、語り、ふるまう人は、最も強い意味で、「わたしたちについてこない」(マルコ九・三八)のです。
(七) 確かに、本文で使徒が語っている人が、ここまで進んでいたとは、私は思いません。もっとも、その人については、前後の文脈にも、聖書のほかのどの箇所にも、詳しい記述はないのですが。その人と使徒たちとの間に何か大きな違いがあったと考える根拠は、何もありません。まして、その人が使徒たちやその主人に対して何か偏見を持っていたと考える根拠など、ありません。このことは、本文のすぐあとに続く主ご自身の言葉から、くみ取れるように思われます。「だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできません」(マルコ九・三九)。けれども、私はわざと、この事例を最も強い光の中に置き、考えうるかぎりの事情をすべて加えました。誘惑がその全力で来ることをあらかじめ警告されて、どんな場合にもその誘惑に屈せず、神を敵にまわす(使徒五・三九)ことのないようにするためです。
【三】 「やめさせないがよい」という主の指図
(一) それでは、ある人が私たちと何の行き来もないとします。私たちの党派に属していないとします。私たちの教会から離れているとします。そうです、判断においても実践においても感情においても、私たちと大きく違っているとします。それでも、そういう人でさえ「悪霊を追い出している」(マルコ九・三八)のを見るなら、イエスは「やめさせないがよい」(マルコ九・三九)と言われるのです。主のこの大切な指図を、第三に説き明かしたいと思います。
(二) 「そういう人が悪霊を追い出しているのを見るなら」と言いました。けれども、そういう場合には、自分の目で見たことさえ信じられれば、自分の感覚をうそつき呼ばわりしなければ、上出来なのです。上に述べたすべての意味で、あるいはそのほとんどの意味で、「わたしたちについてこない」(マルコ九・三八)人がいるとします。その人が本当に悪霊を追い出していると信じることに、私たちがどれほどひどく気が進まないかは、すぐに分かるはずです。それが分からない人は、人間の本性をよく知らないに違いありません。いや、上の意味のどれか一つにおいてでも、と言いそうになりました。人は、すべての点で自分と一致しない人のうちに、何か良いものを認めることを、ひどく嫌がります。そのことは、自分の胸のうちで起こることからさえ、たやすく学べるからです。
(三) 「しかし、ある人が(上に述べた意味で)悪霊を追い出していることの、十分で理にかなった証拠とは何か」。答えは簡単です。次のことに、十分な証拠があるでしょうか。一、私たちの前にいるある人が、以前はひどい、あからさまな罪人だったこと。二、その人が今はそうでなく、罪を断ち切って、クリスチャンの生活を送っていること。三、この変化が、その人がこの人の説教を聞いたことによって生じたこと。この三つの点が明白で否定できないなら、あなたには、この人が悪霊を追い出していることの、十分で理にかなった証拠があります。故意の罪を犯さずには逆らえない証拠です。
(四) それなら、「やめさせないがよい」(マルコ九・三九)のです。権威によってであれ、議論によってであれ、説得によってであれ、その人を妨げようとしないように気をつけなさい。神がその人に与えられた力をすべて用いることを、どんな仕方でも妨げようとしてはなりません。その人に対して権威を持っているなら、その権威を、神のわざを止めるために用いてはなりません。もうイエスの名によって語るべきでない理由を、その人に与えてはなりません。あなたがサタンに加勢しなくても、サタンは必ずそういう理由をその人に与えるでしょう。そのわざから離れるように、その人を説き伏せてはなりません。もしその人が悪魔とあなたに譲ってしまうなら、多くの魂が自分の悪のために滅びるかもしれません。けれども、神はその血を、あなたの手から求められるでしょう(エゼキエル三・一八)。
(五) 「しかし、悪霊を追い出しているのが、ただの信徒だったらどうなのか。それなら、やめさせるべきではないか」。
その事実は認められているでしょうか。この人が悪霊を追い出したこと、あるいは今追い出していることに、理にかなった証拠があるでしょうか。あるなら、その人をやめさせてはなりません。いいえ、自分の魂を危うくしたくなければ、決してやめさせてはなりません。神は、ご自分が用いようと思われる者によって働かれるのではないでしょうか。神がともにおられるのでなければ、だれもこういうわざを行うことはできません(ヨハネ三・二)。神がまさにこのためにその人をつかわされたのでなければ、できないのです。けれども、神がその人をつかわされたのなら、あなたはその人を呼び戻すのですか。行くことを、やめさせるのですか。
(六) 「しかし、私は、その人が神からつかわされていることを知らないのだ」。その人の使命の印である人々のだれもが、すなわち、その人がサタンから神へと立ち帰らせた人々のだれもが、こう言うかもしれません。「わたしの目をあけて下さったのに、そのかたがどこからきたか、ご存じないとは、不思議千万です。もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです」(ヨハネ九・三〇、三三)。その事実を疑うなら、その人の両親を呼びなさい(ヨハネ九・一八)。兄弟や友人や知人を呼びなさい。けれども、それを疑うことができないとします。「著しいしるしが行われた」(使徒四・一六)ことを、どうしても認めざるをえないとします。それなら、どんな良心で、どんな顔をして、神がつかわされた人に命じることができるでしょうか。「今後は」神の名によって「語ってはいけない」(使徒四・一七)と。
(七) 確かに、神の名によって説教する人はだれでも、内なる召しだけでなく外からの召しも受けているのが、きわめて望ましいことです。私もそれは認めます。けれども、それが絶対に必要だということは、私は否定します。
「いや、聖書ははっきりこう言っているではないか。『だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである』(ヘブル五・四)」。
この聖句は、この問題で、主張の力そのものを含んでいるかのように、数えきれないほど引かれてきました。けれども、これほど的はずれな引用は、確かにかつてありませんでした。というのは、第一に、アロンは説教するために召されたのではまったくないからです。「罪のために供え物といけにえとをささげる」(ヘブル五・一)ために召されたのです。それが、アロンに固有の務めでした。第二に、この人々はいけにえをまったくささげず、ただ説教するだけです。そして、説教することは、アロンはしませんでした。ですから、聖書全体のうちに、これほど論点からかけ離れた聖句を一つでも見つけることはできません。
(八) 「しかし、使徒の時代の慣行はどうだったのか」。それは、使徒行伝を見ればすぐに分かります。第八章によれば、エルサレムにある教会に対して大迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの地方に散らされて行きました(使徒八・一)。そこで、「散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた」(使徒八・四)のです。では、この人々はみな、説教するために外からの召しを受けていたのでしょうか。正気の人なら、だれもそうは考えられません。ですから、ここに、使徒の時代の慣行がどうであったかの、否定できない証拠があります。ここには、一人ではなく、大勢の信徒説教者がいます。ただ神だけからつかわされた人々です。
(九) 実際、使徒の時代の慣行は、按手を受ける前に説教するのは不法だった、と私たちに思わせるどころではありません。むしろ、当時は按手の前に説教することが必要だと見なされていた、と考える理由があるのです。確かに、使徒パウロの慣行と指示は、人がそもそも按手を受ける前に、その人を調べる、というものでした。パウロは言います。「彼らは」、すなわち執事たちは、「まず調べられて」、「それから執事の職につかすべき」(第一テモテ三・一〇)です。調べるとは、どのようにでしょうか。ギリシャ語の文を一つ訳させ、ありきたりの質問をいくつかすることによってでしょうか。ああ、キリストの教役者を調べる、何と驚くべき方法でしょう! いいえ、そうではありません。はっきりした、公然の試験をすることによってです。ヨーロッパのプロテスタント教会のほとんどが、今もそうしています。その試験では、彼らの生活が聖く、責められるところのないものかどうかを調べます。それだけでなく、キリストの教会の徳を高めるのにどうしても欠かせない賜物を、持っているかどうかを調べるのです。
(一〇) けれども、ある人がそういう賜物を持ち、罪人を悔い改めに導いてきたのに、主教がその人に按手しようとしないなら、どうでしょうか。そのとき、主教は、その人が悪霊を追い出すのをやめさせているのです。けれども、私には、あえてその人をやめさせることはできません。私はその理由を、全世界に向けて公にしてきました。それでも、私はそうすべきだと、今も言い張られています。そう言い張るあなたがたは、その理由に答えなさい。私の知る限り、これまでだれもそうしたことはなく、そうしようと試みた人さえいません。ただ、ある人々が、それをきわめて弱い、取るに足りない理由だと言っただけです。そして、それはなかなか賢明なことでした。議論に答えるよりも、それを軽んじるほうが、少なくとも軽んじているふりをするほうが、はるかにたやすいからです。それでも、そういう理由への答えがなされるまでは、私はこう言わなければなりません。だれかが悪霊を追い出していることに、理にかなった証拠があるとします。そのときは、ほかの人々がどうしようと、私には、あえてその人をやめさせることはできません。そうすれば、神を敵にまわすことにさえなる(使徒五・三九)かもしれないからです。
(一一) あなたがだれであれ、神を恐れる人よ、「やめさせないがよい」(マルコ九・三九)。直接にも間接にも、やめさせてはなりません。やめさせる方法はたくさんあります。神がその人の手によってなさったわざを、まったく否定するとします。あるいは、軽んじて重く見ないとします。そのとき、あなたは間接にその人をやめさせているのです。その人のわざに水をさすとき、あなたは間接にその人をやめさせています。議論に引き込んだり、異議を唱えたり、おそらく起こらない結果で脅したりして、水をさすときです。言葉においてであれ、ふるまいにおいてであれ、その人に何か不親切なことをするとき、あなたはその人をやめさせています。ほかの人々に向かって、その人のことを不親切に、あるいは軽蔑して語るときは、なおさらです。だれかに向かって、その人を憎むべき者、あるいは卑しむべき者として描こうと努めるときも、そうです。その人の悪口を言っている間、あるいはその人の労苦を重く見ないでいる間、あなたはずっとその人をやめさせているのです。ああ、こうしたどの方法でも、その人をやめさせてはなりません。ほかの人々がその人の話を聞くのをやめさせることによっても、やめさせてはなりません。すなわち、罪人が自分の魂を救う力のある御言(ヤコブ一・二一)を聞こうとするのに、水をさしてはならないのです!
(一二) そうです、主の指図を、その意味と範囲のすべてにわたって守ろうとするなら、主の言葉を思い起こしなさい。わたしたち「の味方でない者は」、わたしたち「に反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものです」(ルカ一一・二三)。人々を神の国へと集めない者は、確かに人々をそこから散らしているのです。この戦いには、中立の者はありえないからです。だれもが、神の側にいるか、サタンの側にいるかのどちらかです。あなたは神の側にいるでしょうか。それなら、悪霊を追い出す人をだれもやめさせないだけでなく、力の限りを尽くして、その人のわざを進めようと努めるでしょう。あなたは、それが神のわざであることを進んで認め、その大きさを言い表すでしょう。できる限り、その人の道からあらゆる困難と異議を取り除くでしょう。すべての人の前でその人のことを敬意をもって語り、自分の見たこと聞いたこと(使徒四・二〇)を公に言い表して、その人の手を強めるでしょう。ほかの人々がその人の言葉に耳を傾け、神がつかわされた人に聞くように、励ますでしょう。そして、その人に優しい愛を実際に示す機会を神が与えてくださるなら、その一つも逃さないでしょう。
【四】 全体からの結論
(一) もし私たちが、こうした点のどれかで、わざと怠るとします。「わたしたちについてこない」(マルコ九・三八)からといって、直接にでも間接にでも、その人をやめさせるとします。それなら、私たちは偏狭な人です。これが、これまで述べてきたことから私が引き出す結論です。けれども、「偏狭」という言葉は、これほどひんぱんに使われています。それなのに、「熱狂」という言葉とほとんど同じくらい理解されていないのではないかと思います。偏狭とは、自分の党派、意見、教会、宗教に、あまりにも強く執着すること、それを好みすぎることです。ですから、偏狭な人とは、こうしたもののどれかをあまりにも好み、強く執着している人です。そのため、悪霊を追い出す人がいても、これらの点のどれか、あるいはすべてにおいて自分と違うからといって、やめさせるのです。
(二) あなたは、これに気をつけなさい。注意しなさい。一、自分と違う人が悪霊を追い出していることを、なかなか信じようとしないとします。そのことで、自分が偏狭であることを自分で明らかにしてしまわないようにしなさい。そして、ここまでは潔白で、その事実を認めているなら、次に自分を吟味しなさい。二、私は、直接にでも間接にでもその人をやめさせることで、偏狭であることが明らかになっているのではないでしょうか。私は、ある理由で、直接にその人をやめさせているのではないでしょうか。その人が私の党派に属していないから、私の意見に同調しないから、という理由です。あるいは、私が父祖から受け継いだ宗教の体系に従って神を礼拝しないから、という理由です。
(三) 自分を吟味しなさい。私は、こうした理由のどれかで、少なくとも間接には、その人をやめさせているのではないでしょうか。このようなまちがった意見を持つ人を、神がこのように認め、祝福されることを、私は残念に思っているのではないでしょうか。その人が私の教会に属していないからといって、その人に水をさしているのではないでしょうか。そのことについて議論を仕掛けたり、異議を唱えたり、遠い先の帰結を持ち出して心を惑わせたりして、です。言葉においてであれ、行いにおいてであれ、私は、怒りや軽蔑や、どんな種類の不親切も示していないでしょうか。その人のいないところで、その人の過ち、すなわち欠点や弱さを口にしているのではないでしょうか。それが本当の過ちであれ、そう思われているだけの過ちであれ、です。罪人がその人の言葉を聞くのを、私は妨げているのではないでしょうか。こうしたことのどれかをしているなら、あなたは今もなお偏狭な人なのです。
(四) 「主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心と思いとを練りきよめてください」(詩篇二六・二)。「わたしに」偏狭の「道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください」(詩篇一三九・二四)。自分を徹底的に吟味するために、この事例を最も強い形で持ち出してみましょう。もし私が、ローマ・カトリック教徒やアリウス派やソッツィーニ派の人が、悪霊を追い出しているのを見たとしたら、どうでしょうか。そのときでも、私はその人をやめさせることはできません。やめさせれば、自分が偏狭であることを明らかにしてしまうからです。そうです、ユダヤ人や、理神論者や、トルコ人が同じことをしているのを私が見る、ということを仮に想定できるとします。そのときでも、直接にでも間接にでもその人をやめさせるなら、私はやはり偏狭な人にすぎないのです。
(五) ああ、このことから身を離していなさい。けれども、悪霊を追い出す人をやめさせないだけで満足してはなりません。ここまで進むのはよいことです。けれども、ここで止まってはなりません。あらゆる偏狭を避けたいなら、先へ進みなさい。このような例ではいつも、用いられた道具がだれであっても、神の指(ルカ一一・二〇)を認めなさい。認めるだけでなく、神のわざを喜び、感謝をもって神の名をほめたたえなさい。神が用いることをよしとされる人がだれであっても、その人がそのわざに全身をささげるように励ましなさい。どこにいても、その人のことを良く言いなさい。その人の人柄と使命を弁護しなさい。できる限り、その人の働きの場を広げなさい。言葉においても行いにおいても、あらゆる親切を示しなさい。そして、その人のために、絶えず神に叫び求めなさい。その人が、自分自身と自分の教えを聞く者たちとを救う(第一テモテ四・一六)ことができるように、と。
(六) 付け加える必要がある戒めは、一つだけです。他人の偏狭が、あなた自身の偏狭の言い訳になると思ってはなりません。自分では悪霊を追い出している人が、それでもあなたにはそうすることをやめさせる、ということもありえないことではありません。お気づきのとおり、これはまさに本文で取り上げられている事例です。使徒たちは、自分たちがしていることを、ほかの人がするのをやめさせたのです。けれども、仕返しをしないように気をつけなさい。悪をもって悪に報いる(ローマ一二・一七)のは、あなたのすべきことではありません。ほかの人が主の指図を守らないことは、あなたがそれをなおざりにしてよい理由にはなりません。いや、偏狭はすべてその人だけのものにさせておきなさい。その人があなたをやめさせても、あなたはその人をやめさせてはなりません。むしろ、その人への愛を固めるために、いっそう努め、目をさまし、祈りなさい。その人があなたについて様々の悪口を言う(マタイ五・一一)なら、あなたはその人について、様々の良いことを言いなさい。ただし、本当のことをです。この点で、ある偉大な人の、あの輝かしい言葉にならいなさい(ああ、その人がいつも同じ精神を持っていたらよかったのですが)。「ルターが私を百の悪魔と呼んでもかまいません。それでも私は、ルターを神の使者として敬います」。