ジョン・ウェスレー標準説教集

説教五十 富の使い方

「あなたがたに言います。不正の富を用いて友を作りなさい。そうしておけば、あなたがたが落ちぶれたとき、彼らが永遠の住まいに迎えてくれます」(ルカ十六・九)

(一) 私たちの主が、放蕩息子の美しいたとえを話された相手は、取税人や罪人を主が受け入れていることに不満を抱いている者たちでした。主は放蕩息子のたとえ話を終えられると、次に違った種類のたとえ話を、今度は神の子供たちに向けて話されました。「主は弟子たちに話された」。先ほどまで律法学者やパリサイ人に話していましたが、語りかける対象が変わったのです。「ある金持ちの男がいた。管理人を雇っていたが、財産を浪費していたので、男は管理人を責めた。管理人を呼び出して言った。『もう管理をさせるわけにはいかないから、どういう管理をしてきたのか説明しなさい』」(ルカ一六・一〜二)。主は悪い管理人が必要に備えて取った行動を説明してから、こう付け加えられました。「主人は不正な管理人をほめた」。管理人がほめられた理由は、時にかなった予防策を講じたという点でした。それから次の重要な考察を加えられました。「この世の子らは自分たちの世代のことについては光の子らよりも賢い」(ルカ一六・八)。この世での相続分を何よりも求める者が、「賢い」と言われています。(とはいえ、すべての点でそうなのではありません。天のことに関しては、彼らはひとり残らず極度な愚か者で狂人です。ですが、「自分たちの世代のことについて」は自分なりの流儀を持っていて、やり方が首尾一貫しています。世の子らは自分で認めた原理原則には忠実です。目的を熱心に追求します。)ただ賢いというのではなく、「光の子ら」、つまり「イエス・キリストの御顔に神の栄えの光」を見る者と比べて賢いと言われています。それから言葉をつないでおられます。「そこで、私が」――神の独り子が、創造主が、主が、天と地とその中にある万物の所有者が、さらには万民の裁き主として、あなたがたが管理の職を解雇されるときに「どういう管理をしてきたのか説明」しなければならないお方が――「私があなたがたに言う」。不正な管理人からこの点で学び、時にかなった賢い予防策を講じて「不義の富(金銭)で友達を作りなさい」。「不義の富」という言葉は、富を手に入れる方法が不正であることが多いので、そう言われています。一般的には清廉な方法で手に入れた富を使いますが。富を使って「友達を作りなさい」とは、可能なかぎり良いことを、特に神の子供たちに行いなさいという意味です。「あなたがたが落ちぶれたとき」、つまりあなたがたが日の下にもう生きる場所をなくしたたときに、先に逝った者たちがあなたを歓迎し、「永遠の住まいに迎えてくれます」。

(二) 私たちの主がここで弟子たちに説かれたのは、クリスチャンの知恵の中でも特にすぐれた分野です。それは富の使い方です。富の使い方というテーマは、世の人々の間ではなじみ深く、誰にでも一家言ありますが、神が世から連れ出した人々の間では十分に考察されてきませんでした。このテーマの重要性は熟慮を要するものですが、にもかかわらず一般的にクリスチャンは深く考えてきませんでした。また金銭を最大限に有効活用するためにはどうすれば良いのか理解していませんでした。金銭の活用法を世に紹介すればきっと、知恵と恵みに満ちた神のご配慮を知ってもらう良い機会になるでしょう。じっさい金銭の悪口となれば、時代や国を問わず、詩人や雄弁家や哲学者が口々に語ってきました。いわく、金銭は世の堕落をまねく張本人である、悪徳である、人間社会のペストである、。そのため次のような格言ほどありふれたものはありません。

Nocens ferrum, ferroque nocentius aurum. (金はどんなに鋭い剣よりも人を傷つける)

ため息まじりにこう言われたりもします。

Effodiuntur opes, irritamenta malorum. (富が掘り起こされるとすべての人が病む)

それだけでなく、ある有名な著作家が重々しく同胞にこう忠告しています。すべての悪を一度に放逐するためには「金銭を残らず海に投げ捨てなさい」と。

in mare proximum ... Summi materiem mali! (諸悪の根源を近くの海に捨てなさい!)

けれども、こうした怒りの声はじつは空疎なものではないでしょうか。確かな根拠があるのでしょうか。いいえ、事実無根です。と申しますのも、世は何もしなくても堕落していくものだからです。金や銀に責任があるでしょうか。「金銭を愛することがすべての悪の根である」と私たちは知っていますが、しかし金銭自体が悪なのではありません。金銭に非があるのではなく、問題は使い方です。悪い使い方がありえるように、良い使い方もありえます。最悪の目的のためにも使えますし、最善の目的のためにも使えます。金銭は、文明の発達したすべての国にとって、生活の問題と密接に関わっていて、その場面は数え切れないほどさまざまです。どんな仕事をするにしても、金銭はそれを遂行する最も簡便な道具ですから、クリスチャンの知恵によって用いるならという条件付きですが、良い行いをするための道具にもなります。真実を申し上げますが、もし人の罪がなくなるとしたら、あるいはすべての人が「聖霊に満たされる」としたら、初期のエルサレム教会と同じように金銭の使い方が百八十度変わるでしょう。初期の教会では「誰も自分の持ち物とみなさなかった」のに「配分は全員に必要なぶんだけあった」と伝えられています。私たちには想像も及びませんが、天の住民にもそういう習慣があるのでしょう。けれども、現在の人類にあっては、金銭を崇高な目的のために使うことは、神の素晴らしい賜物です。神の子たちの手にある金銭は、飢える者にとって食物であり、渇く者にとって飲み物であり、裸の者にとって衣服です。旅行者と放浪者にとって横になって休める寝床です。金銭があれば、やもめには夫を、孤児には父を提供できます。虐げられている者には守りを、病気の者には治療を、痛みにある者には安心を提供できます。目の見えない者には目を、足のなえた者には足を。そうです、人々を死の門から引き上げることができます。

(三) そのため、最大の関心事は、神を恐れるすべての人が、この価値ある賜物の使い方を知り、このような栄光の目的のために使うにはどうしたらよいかを学ぶことです。そして、そのために必要なものは三つの平易な原則に要約できます。それを厳密に守ることによって私たちは「不義の富」を管理する忠実な管理人となることができます。

【一】 大いに獲得しなさい

(一) 第一に、(聞いておられる方は理解してください!)「大いに獲得しなさい」。世の子らのような言い方に聞こえるかもしれませんが、まず世の子らと同じ土俵に立ちます。金を買うのに必要以上に払わず、価値以上の値段を支払わずに、大いに獲得することが私たちの義務です。けれども、いのちを削ってまで、また(同じことですが)健康を損なってまでして、金銭を獲得しようとしてはなりません。ですから、金銭を獲得するためといっても、長時間一生懸命に働き過ぎて体を壊してしまうような働き方は、単発の仕事でも継続的な仕事でもとにかく避けるべきです。またどんな仕事をするにしても、食事と睡眠は自然の要求するとおり一定量必要なのですから、それを適宜取れないような仕事は、始めるべきではありませんし続けるべきでもありません。じっさい、ここに大きな違いがあります。誰でも必ず健康に害となる仕事というものはあります。ヒ素などの有毒な物質を多量に取り扱う仕事や、溶けた鉛のガスで汚染された空気を吸いこんでしまうような仕事は、どんなに丈夫な体でも損ないます。あるいは、誰でもというほどでなくても、体の弱い人にとって健康に害となる仕事もあります。たとえば長時間書き続けなければいけない仕事、特に座りっぱなしで背中を折り曲げ、無理な姿勢をずっと維持しなければならない場合などは、体の弱い人にはつらいでしょう。健康を損なうことが理性や経験から判断できるような仕事には就いてはいけません。「いのちは肉にまさり、体は衣服にまさる」とあるとおり、いのちは肉よりも価値があるのですから。もし、もうすでにそういう仕事についているなら、できるだけ早く転職するべきです。たとえ収入が少なくなっても、健康を損なわない仕事を探すべきです。

(二) 第二に、大いに獲得するといっても、肉体だけでなく精神も損なわないようにしなさい。どちらも傷つけてはなりません。何をするにしても、健康な心の霊を保たなければなりません。ですから、罪となるような商売、神の律法や国の法律に反するような商売は、始めるべきではありませんし続けるべきでもありません。たとえば王から関税を奪い取ったりだまし取ったりするような仕事です。それは少なくとも、王の正当な権利を騙し取っているという点で、人の物を盗むのと同じ罪です。私たちが家や衣服を所有する権利があるのと同じように、王には税関を所有する正当な権利があるのですから。また他にも、その仕事自体は悪くなくても、また現在のイングランド国内では合法でも、罪を犯さずには続けられない仕事もあります。たとえば、嘘やごまかしなしではきちんと維持できないような事業や、良心に反する習慣にのっとった事業といったものです。商習慣にのっとって行うとしても、そういう仕事で金銭を獲得するのは、宗教的観点からすると避けるべきです。金銭を得るために魂を損しては本末転倒です。あるいは他にも、多くの人がまったく罪を犯さずに行うことができ、体や心を傷つけるわけではないものの、人によっては個人的に避けるべき仕事もあります。少し間違うと魂を損なう可能性のある仕事に就いたとき、繰り返し何度も試すうちに、あなたが個人的に罪とそうでない部分を上手に切り分けられないとわかってくるかもしれません。つまり、肉体の個人差があるのと同じように魂にも個人差があって、他の人には何でもないとしても、あなたにとってはその仕事に何か魂に害毒となるものがあるかもしれません。私の場合、これは何度も試した結果確信しているのですが、数学、算術、代数などをある程度きちんと習得しようとすれば、無神論者とまではいかないまでも理神論者にならずにいられません。他の方々は数学を学ぶときにそういう不自由を忍ぶ必要はないかもしれません。ですから、誰も他人を決めつけることはできませんが、おのおのが自分自身を裁いて、個人的に魂に害なすとわかったものは差し控えなければなりません。

(三) 第三に、大いに獲得するといっても、隣人を傷つけないようにしなさい。とはいえ、自分自身のように隣人を愛するなら、このようなことは起こりえないのですが。人を自分自身のように愛するなら、誰かの財産を損なうようなことはしません。他人の土地が増えるのをうらやんだり、他人が土地や家を持っていること自体をうらやんで、それを奪い取ろうと画策し、賭け事をしたり、請求書を乱発したり、違法な利息を取ったりするといったことはありえません。そのため、質屋業はやめるべきです。どんなに良いことをしているつもりでも、公平な人が見れば悪によって大きく逸脱していることはお見通しです。たとえそうでなくとも、私たちは「善を来たらせるために悪を行う」ことを許されていません。また私たちは兄弟愛の思想に立つなら、物を市場価格より不当に低く売ることはできません。自分が市場で優位に立つために隣人の商売を邪魔するようなことを企んだりしません。隣人の使用人や雇い人を引き抜いたり何かを受け取ろうとしたりしません。誰でも金銭を獲得するために隣人の財産を飲み込むなら、地獄の罰をも獲得することになります!

(四) 隣人の体も傷つけないようにしなさい。健康を害するものを売ってはいけません。目立った例をあげると、よくドラムとか蒸留酒とか言われるアルコールのたぐいです。酒が医薬品としても用いられるのは事実です。体が不調のときに使うこともありましょう。といっても、医者不足の現状が解決していれば酒を使う機会はそうそうありませんが。ですから、純粋に医療目的で酒を常備しておいたり販売したりするなら良心に咎めはありません。けれども、そんな人がいるでしょうか。医療目的での販売に徹している蒸留業者が、イングランドにたとえ十人でもいるでしょうか。いるとしたらこの言い分は正当ですが。しかし、買いたい者には誰にでも酒を売るという従来の販売をする者はみな、およそ害毒のもとです。彼らは卸売によって主の臣民を殺しています。その目には同情もあわれみもありません。羊を誘い導くようにして人々を地獄に引き入れています。彼らの獲得するものは自分自身の血ではないでしょうか。広大な地所や豪邸を誰がうらやむでしょうか。呪いが彼らのただ中にあるというのに。神の呪いが石に、材木に、家具に、庭に、小道に、木立にかけられています。火が地獄の底から燃えています。血、血です。土台に、床に、壁に、屋根に血が塗られています! 望めようか、血の人よ、あなたは「緋色の上質な衣服を着て、毎日贅沢に暮らしている」が。望めようか、血の土地を三代まで継がせることを。否。天の神がおられるから、あなたの名はすぐに根絶やしにされる。あなたが体も魂も破滅に追いやった人々のように、「あなたの記憶はあなたと共に滅ぼされる」。

(五) 同じ罪の共犯者とならないようにしなさい。比較的軽い罪だとしてもいけません。たとえば外科医と薬剤師と内科医が結託して、利益を獲得するために人のいのちと健康をもてあそび、本当はすぐに治せるのに、ことさらに痛みや病気を長引かせたり、財産をかすめ奪うために患者の治療を遅らせたりするなどは、言語道断です。医者には「できるかぎりの手を打って」治療を早め、「できるかぎり早く」痛みと病を除去するという義務がありますが、それを果たさないなら、神の御前で潔白でいられるでしょうか。いいえ、罪ありとされます。と申しますのも、「隣人を自分自身のように愛せよ」、また「自分のしてもらいたいことを人にもせよ」という戒めに反していることは火を見るよりも明らかだからです。

(六) 次のような場合、金銭は獲得できても高価な代償がつきます。たとえば隣人の魂を傷つけることで儲けようとする行為は何であれそうです。隣人の不貞や不節制を助長するような行為を考えてみてください。神を畏れる者や、神のみこころを行おうと真に願う者なら、直接的にも間接的にもそういうことを必ず避けるでしょう。他人事ではありません。居酒屋、飲食屋、オペラハウス、遊技場など、多くの人が来る流行の娯楽に関わっている人たちは、このことについて考えていただきたい。もし人の魂に利するのなら、あなたは潔白で、あなたの仕事は良いもので、あなたの獲得は正当です。しかし、その仕事それ自体が罪であるか、あるいはさまざまな罪になしくずし的に誘導する入り口になるのなら、おそれるべきです。悲しくも、申し開きをしなければなりません。ああ、気をつけなさい。神がその日、こう仰せにならないように。「彼らは自分の咎のゆえに滅びたが、その血の責任をわたしはあなたの手に求める」

(七) 以上の諸注意と条件を守ることが前提ですが、その上で、最初にお話しした大原則が、世の商売に携わる人の大切な義務になります。「大いに獲得しなさい」とは金銭に関するクリスチャンの知恵です。真面目に働いて大いに獲得しなさい。あなたの召しに力の限り誠実に応えなさい。時間を無駄にしてはいけません。もしあなたが自分が何者であるかを知り、神と自分との関係、また人と自分との関係を理解するなら、惜しむものは何もないとわかるでしょう。もしあなたが召された職務を理解するなら、手をこまねいている暇はありません。どんな仕事でも、毎日毎時間働くに値するものです。あなたの置かれた場所で懸命に働くなら、馬鹿げた無益な娯楽に費やす暇はありません。いつも多少なりともやり方を改善し、益になるものを求めます。「その手でやるべきことを見つけたら、何でも力のかぎりしなさい」。できりかぎり早くしなさい。遅らせてはなりません! 日を伸ばさず、時間を伸ばさずに行いなさい! 今日やれることを明日に伸ばしてはなりません。できるかぎりしっかりやりなさい。居眠りやあくびをしながらではいけません。全身全霊を込めなさい。痛みを避けてはなりません。途中で投げ出したり、見くびって雑な仕事をしてはいけません。辛抱して働けば完了できる仕事を未完のままにしてはいけません。

(八) 大いに獲得しなさい。ただし良識を働かせて。仕事は神から与えられたものであると理解しなさい。まったく驚いてしまうのですが、このように行う人が非常に少ないのです。ほとんどは先祖と同じ単調な道をたどろうとします。けれども、神を知らない人が何をしようと、それがクリスチャンの原則になるわけではありません。クリスチャンなら何を仕事にするにしても、やり方を改善しないのは恥です。他の人の経験からも、自分自身の経験からも継続的に学ぶべきです。よく読み、よく考えて、昨日よりも今日、何事につけてももっと上達するよう努力してご覧なさい。学んだことを何でも実践してみなさい。そうすれば身につけた技術を極めることができます。

【二】 大いに節約しなさい

(一) 正直を知略とし地道を旨に、大いに獲得したなら、次なるクリスチャンの知恵、二番目の原則はこうです。「大いに節約しなさい」。高価なタラントを海に投げ捨ててはなりません。そういう愚行は異教の哲学者に任せればよろしい。浪費は、金銭を海に投げ捨てるも同然です。ごく一部分だとしても、肉の欲や目の欲、生活の見栄のために浪費してはいけません。

(二) 高価なタラントのごく一部分でも、肉の欲を満足させるために、また肉的な感覚を喜ばせるために浪費してはなりません。特に味覚を肥えさせてはなりません。ただ単に大食や酒浸りをやめよと申し上げているのではありません。真面目な異教徒でも罪だと言うでしょう。そういうことよりも、ごく当たり前の、むしろ褒めそやされている種類の快楽があります。美食です。美食は、直ちに胃を悪くするわけではありませんし、(少なくとも感覚的には)知性を衰えさせたりもしません。それでも、(他の悪影響についてはひとまず置いておきますが)美食はそれなりの出費がなければ維持できません。こういう無駄な出費を切り詰めてください! 美味しさ、種類の豊富さは二の次にして、自然の欲求を満たす簡素な食事で満足してください。

(三) 高価なタラントのごく一部分でも、目の欲を満足させるために浪費してはなりません。ことさらに高価な服を着たり、必要ない調度品を買ったりといったことです。見映えを良くするための家の装飾に浪費してはなりません。ことさらに高価な家具、高額な絵画、金箔で装丁された本、実用的というより絢爛な庭園。世の装いにまさるものを知らない隣人にそういうことは任せなさい。「死人を葬ることは死人に任せよ」。私たちの主が仰せになるのは、「あなたはわたしについて来なさい」。従う心づもりがあるならば節約は可能です。

(四) 人の歓心や称賛を得ようとする生活の見栄を満足させるために物を買ってはなりません。この浪費欲はたいていの場合、肉の欲や目の欲と混ざり合っています。食事や衣服や家具に散財するのは、何も食欲や目の欲や想像力を満足させたいからと同時に、人からよく見られたいという動機もあるのです。「自分のことに手間暇かけていればあなたの評判は良い」。「紫色の上質な衣服を着て、毎日贅沢に暮らしている」なら、確かに多くの人があなたの高尚な趣味と気前の良さと親切なもてなしに拍手喝采を送るでしょう。けれども、人の歓心を買うためにそんなふうに金銭をつぎ込んではなりません。それよりは神からの誉れに満足しなさい。

(五) 欲望を満たすことは欲望を増長させることである、という事実をよく考えれば、こういう欲望のために出費したいと誰が思うでしょうか。日頃の経験からおわかりのとおり、欲望というものは満たそうとすればするほど増長します。これほど確かな事実はありません。ですから、舌など肉的感覚を満たすための出費はつねに、快楽をもっと得ようと際限なく支払うことになります。目の欲を満たすための消費は、好奇心をもっと満たそうと際限なく散財することになります。一過性の喜びにますます惹きつけられるようになるからです。人の称賛を得るために物を買うと、際限なく見栄を買うことになります。見栄、快楽、好奇心を満たすものを以前は十分に持っていなかったのでしょうか。追加する必要があったのでしょうか。それを買うためにも支払いたいと思っていたのでしょうか。知恵があるなら、金銭を文字通り海に投げ捨てたほうがまだ害も少なく賢いといえます。

(六) また、自分以上に子供たちに無駄遣いすることもあります。子供のために繊細な味の食べ物や派手で高価な服など余計なものを買い込むわけですが、どうしてあえてそういう浪費をする必要がありましょうか。見栄や官能、虚栄、愚かで有害な欲望を刺激するものをどうしてあえて買い与える必要がありましょうか。子供は持っているもの以上に欲しがりません。すでに十分持っています。自然が豊かに与えています。それなのにどうしてあえて誘惑を増長し、余計な悲しみで刺し通すようなことのために無駄な出費をする必要がありましょうか。

(七) 子供に遺産を残さないでください。無駄遣いのもとです。今あなたの手にある財産を相続させるとして、子供が財産を肉の欲、目の欲、生活の見栄を満足させるために使い、それによって欲望を増長させると思われ、そのことに十分な根拠があるなら、結局は子供とあなた自身の魂に危難を招くことになるのですから、罠を子供の道に置かないでください。息子娘をモレクに捧げるのはもってのほかですが、ベリアルにも捧げてはなりません。罪を増長させ、最終的に永遠の地獄に向かって罪の深みに落ち込ませるような障害物は、大人が容易に予知できるときには、あわれみをもって子供の道から取り除いてあげなさい! 子供に十分な遺産を残せないと思っている熱に浮かされた両親にはまったくあきれます! どういうことでしょうか! 子供に矢を、たいまつを、死を十分に残せないのが残念なのでしょうか。愚かで有害な欲望を。見栄を、欲望を、むなしい野望を。永遠の火を残せないのが残念なのでしょうか。あわれな人よ! あなたは恐れなくてよいものを恐れています。あなたが地獄に目を向ければ、遺産を残すということは「死ぬことのないうじ」と「消えることのない火」を残すことだとわかるに違いありません。

(八) 「それならお前ならどうしたいと思うのか。もしひとかどの財産を持っているとしたら」。私が遺産を残したいと思うかどうかわかりませんが、どうすべきかは知っています。理性的に考えて疑問の余地はありません。私に子供がいるとしましょう。若くてもいいし大人になっていてもいいですが、子供のうちひとりが金銭の価値を知っているとしましょう。私の絶対不可欠な義務は、金銭を正しく使えると私が信じられるその子に遺産の大半を相続させることであると考えるべきです。ほかの子供たちには慣れた生活を維持できるくらいの相続を与えます。「だが、子供たちが誰ひとり金銭の正しい使い方を知らなかったらどうするのか」。そのときにはこうすべきです。(耳ざわりで申し上げにくいのですが)子供たちには困窮しない程度に遺産を残し、残りは神の栄光に最もふさわしいと思われることに使い切ります。

【三】 大いに与えなさい

(一) ここまでにあげた「大いに獲得しなさい」「大いに節約しなさい」を守ったとしても、それだけで終わったとしたら、何事かをなしたと考えてはいけません。その先に進まなければ意味がありません。先の目的を目指さなければ無駄になります。あてなくむやみに貯め込むのは、じっさいのところ、節約したとさえ言えません。金銭を地中に埋めておくのは、海に投げ捨てるのと何ら変わりません。また金銭を衣装棚に隠したりイングランド銀行に貯金してそのままにしたりするのは、地中に埋めるのと何ら変わりません。ですから、もし本当に「不義の富で友を作」りたいとお考えでしたら、第三の原則を加えてください。第一が「大いに獲得しなさい」、第二が「大いに節約しなさい」、そして第三が「大いに与えなさい」。

(二) この原則の理由と根拠を理解するためにぜひ考えていただきたいのですが、天地の所有者である方があなたを創造し、この世に置かれたのは、あなたを所有者とするためではなく、管理者とするためです。地上でしばらくの間、さまざまなものの管理を任せたのであって、その唯一の所有権は神にあります。所有権は譲渡していません。あなた自身も、あなたのものではなく神のものです。あなたが楽しむ万物も神のものです。あなたの体も魂も神のものです。ましてやあなたの財産は神のものです。そして、神は最も明瞭な言葉で、財産を神のためにどう用いるべきかを命じておられます。キリスト・イエスによって、神に受け入れられる、聖なる供え物となるようにしなさい、と。この軽く、行ないやすい奉仕について、神は重い永遠の栄光を報酬として約束してくださっています。

(三) この世の財産の使い方について神が私たちに与えた命令は、次の二点からなります。現在あなたの手に預けられた財産はもともと主のものであり、神にはいつでも取り返す権利があるのですが、その財産の忠実な賢い管理人になりたいと願うなら、次の命令を守るべきです。第一に、自分の必要のために使いなさい。食べ物、衣服など、肉体を健康に保つために自然が適度に必要とするすべてのものです。第二に、妻、子供、召使い、家族に与えなさい。それでまだ余剰があれば、そのときには「信仰の家族に良い行いをしなさい」。それでもまだ余剰があれば、「機会があるのですから、すべての人に良い行いをしなさい」。このようにして大いに与えなさい。いえ、それどころか、文字通りの意味で持ち物全部を与えなさい。なにしろ、このように使うものはすべて、現実には神に捧げているのですから。あなたは「神のものを神に捧げます」。この言葉の意味するところは、貧しい人に与えることだけでなく、自分や家族の必要のために使うのもそうなのです。

(四) すると、自分や家族のために何かを買おうとするたびに、買うべきか否か、頭の中に疑問が浮かんでくるに違いありません。疑問を解決する簡単なやり方があります。心をしずめ、真剣に自問自答してください。一、この支払いは自分の役にふさわしいだろうか。主のものの所有者ではなく管理者として。
二、神のことばに従順だろうか。どの聖句がこの行いを要求しているだろうか。
三、この支払いの行為をイエス・キリストによる神の供え物として捧げられるだろうか。
四、義人の復活のときに報酬をいただけると信じられる理由がこの行いにあるだろうか。
次々に頭の中に浮かんでくる疑問を解決することはほとんど何にもまして必要なものですが、この四点さえおさえておけば、あなたの行く道を照らす光となるでしょう。

(五) まだ疑問が残っていれば、次に述べる探求の知恵によって自分自身を祈りによって調べるとよいかもしれません。心を探る方にこう言うことができるでしょうか。良心がチクリと痛まないでしょうか。「主よ、あなたは見ておられます。食べ物、衣服、家具にこれだけの金額を支払おうとしている私を。あなたは知っておられます。私があなたの所有物の管理者として一心に働いており、この持ち分をあなたが任せてくださったときに持っておられたご計画を実現しようとして、この支払いを行おうとしていることを。あなたが命じられたとおり、またあなたが命じられたからこそ、主に従ってこれを行うことを。どうかこれをイエス・キリストによって聖なる供え物として受け入れてくださいますように! 私のうちに証をください。この愛の働きのゆえに、あなたが人をその行いに従って報いる日に、報酬をいただけるという証を」。今もし良心が、この祈りは神に喜ばれると聖霊によって証するなら、その出費は正しく良いものであると疑う理由はありません。何も恥じることなく出費なさい。

(六) 以上で「不義の富で友を作る」とはどういうことか、「あなたがたが落ちぶれたとき、彼らが永遠の住まいに迎えて」くれる友をどのように得るのか、ご理解いただけたと思います。真実なクリスチャンの「抜け目なさ」がどういう性質のものか、どの程度のものか、重大なタラントである金銭の使い方に絞って見てきました。大いに獲得しなさい。ただし、自分自身も隣人も、その魂も体も傷つけずに。たゆまず勤勉に、神の与えてくださった知性を総動員して獲得しなさい。――大いに節約しなさい。愚かな欲望の耽溺に資するだけの出費を一つひとつ切り詰め、肉の欲、目の欲、生活の見栄を満足させることは避けなさい。生きているものにも死んでいるものにも、罪となることにも愚かであることにも、自分のためにも子供のためにも、浪費しないようにしなさい。――それから、大いに与えなさい。別の言葉で申しあげますと、持てる全部を神に捧げなさい。あれこれと損得勘定して、まるでクリスチャンというよりユダヤ人のように、出し惜しみしてはなりません。「神に捧げなさい」。十分の一でもなく、三分の一でもなく、二分の一でもなく、全部を。持っているものが多くても少なくても、すべて神のものなのですから。自分のため、家族のため、信仰の家族のため、全人類のために使いなさい。あなたが管理人を解雇されたときに、どういう管理をしてきたのかしっかり申し開きができるように使いなさい。一般的な教えによっても個別的な教えによっても、神の啓示が教えるとおりに使いなさい。何をするにしてもその行動が「神へのかぐわしい香りの供え物」となるようにしなさい。主が全聖徒と共に来られる日に、その行いによって報酬を受けられるように励みなさい。

(七) 兄弟の皆さん、私たちが主の所有物をこのように管理するのでなければ、賢い忠実な管理人といえるでしょうか。いいえ、神の啓示だけでなく私たちの良心も証するのでなければ、到底そういえません。ですから、遅らせる必要がどこにありましょうか。血肉や世の人と相談する必要がどこにありましょうか。異教徒の慣習は私たちと関係ありません。私たちは人間に従うよりもキリストに従います。キリストに聞きなさい。そうです、今日のうちに、今日と言われるうちに、神の御声に聞き従いなさい。今、この時間に、この時間から、神のみこころを行いなさい。この主題についても、万事につけても、神のことばを実現しなさい! 主イエス・キリストの御名によってあなたに懇願します。あなたの召しの品位にふさわしく行いなさい。もう怠惰はお捨てなさい! その手でやるべきことを見つけたら、何でも力のかぎりしなさい! もう浪費はおやめなさい! 流行や気まぐれや血肉が要求する出費は退けなさい! むやみに欲しがることはもうおやめなさい! 神があなたにお任せになったものを良い行いに使いなさい。偉大なことから些細なことまでありとあらゆる良い行いを、信仰の家族に、全人類に行いなさい! これは「義人の知恵」のごく小さな一部分ではありません。あなたの持ち物全部を、あなた自身と共に霊的供え物として神に捧げなさい。神はご自分の御子を、独り子を、あなたに惜しまず与えてくださったのですから。ですから、「永遠のいのちを得るために、やがて来る時に備えて自分のために良い基礎を築きなさい」。