ジョン・ウェスレー標準説教集

説教五十 富の使い方

「あなたがたに言います。不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくりなさい。そうすれば、あなたがたのいのちが尽きるとき、彼らがあなたがたを永遠のすまいに迎えてくれます」(ルカ一六・九)

(一) 私たちの主は、放蕩息子の美しいたとえを語り終えられました。このたとえは、主が取税人や罪人を受け入れられることにつぶやいていた人々に、特に向けられたものでした。主は続けて、種類の違う話をもう一つ加えられます。こちらはむしろ、神の子供たちに向けられた話です。主は、それまで話しておられた律法学者やパリサイ人よりも、むしろ「弟子たちに言われ」ました。「ある金持のところにひとりの家令がいましたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者がありました。そこで主人は彼を呼んで言いました。『あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』」(ルカ一六・一〜二)。主は、不正な家令が困窮の日に備えて取った手段を語られたあと、こう付け加えられます。「主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめました」。ほめられたのは、時を逃さずに備えたという点です。さらに主は、重みのある言葉を添えられます。「この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口です」(ルカ一六・八)。この世のほかに何の分け前も求めない人々が、「利口」だと言われています。無条件にそうだというのではありません。彼らはひとり残らず、天下で最も愚かな者、最もひどく狂った者だからです。けれども、「その時代に対しては」、つまり彼らなりのやり方では利口なのです。彼らは光の子らよりも首尾一貫しています。自分が認めている原則に、より忠実です。目的を、よりたゆまず追い求めます。こうして彼らは「光の子らよりも」利口なのです。光の子らとは、「キリストの顔に輝く神の栄光」の光を見る人々のことです(第二コリント四・六)。それから、先に掲げた言葉が続きます。「あなたがたに言います」と言われるのは、神のひとり子です。天と地とその中にあるすべてのものの創造主であり、主であり、所有者である方です。すべての者の審判者です。あなたがたは、「もう家令をさせて置くわけにはいかない」と言われるとき、この方に「会計報告を出」さなければなりません(ルカ一六・二)。その方が言われます。この点では、不正な家令からさえ学びなさい。賢く時を逃さずに備えて、「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつく」りなさい(ルカ一六・九)。「富」(マモン)とは、財産や金銭のことです。これが「不正の富」と呼ばれるのは、不正なしかたで得られることが多いからです。また、正直に得たものでさえ、たいていは不正なしかたで使われるからです。この富で「友だちをつく」るとは、できるかぎりの善を、とりわけ神の子供たちに行うことです。「あなたがたのいのちが尽きるとき」とは、ちりに帰り、もはや日の下に居場所がなくなるときのことです。そのとき、先に逝った友だちが「あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれ」ます。喜んで迎え入れてくれるのです。

(二) 私たちの主はここで、すべての弟子に、クリスチャンの知恵のすぐれた一分野を説いておられます。それは金銭の正しい使い方です。世の人々は彼らなりのしかたで、この題目を盛んに論じてきました。けれども、神がこの世から選び出された人々は、十分に考えてきませんでした。この人々はたいてい、このすぐれたタラントの使い方を、題目の重要さにふさわしいほどには考えていません。また、それを最も有益に用いる方法もわかっていません。そもそも、金銭がこの世にもたらされたこと自体が、神の賢く恵み深い摂理を示す見事な一例なのです。じっさい、ほとんどあらゆる時代と国で、詩人や雄弁家や哲学者は金銭をののしってきました。金銭は世を堕落させる張本人、美徳をむしばむ毒、人間社会の疫病だというのです。ですから、次の句ほどよく耳にするものはありません。

Nocens ferrum, ferroque nocentius aurum. (鉄は害をなす。だが金は鉄よりもさらに害をなす)

そこから、こんな嘆きも聞かれます。

Effodiuntur opes, irritamenta malorum. (富が掘り出される。あらゆる悪へと誘うものが)

それどころか、ある名高い著作家は、すべての悪徳を一挙に追い払うために、「金銭を残らず海に投げ捨てよ」と、真顔で同胞に勧めています。

in mare proximum ... Summi materiem mali! (最寄りの海へ、最大の悪のもとを!)

しかし、これはみな空虚な大言壮語にすぎないのではないでしょうか。そこに確かな根拠があるでしょうか。決してありません。世がどれほど腐敗していようと、その責めは金や銀にあるでしょうか。私たちが知っているとおり、「金銭を愛することは、すべての悪の根です」(第一テモテ六・一〇)。けれども、金銭そのものが悪の根なのではありません。非は金銭にではなく、それを使う人にあります。金銭は悪く使われることがあります。けれども、悪く使われえないものがあるでしょうか。金銭は同じように、良く使うこともできます。最悪の用途にも、最善の用途にも、まったく同じように役立ちます。文明の開けたすべての国で、日常生活のあらゆることに、言い尽くせないほど役立っています。金銭は、あらゆる取引を行うための最も手軽な道具です。また(クリスチャンの知恵に従って使うなら)あらゆる善を行うための最も手軽な道具でもあります。確かに、人が無垢の状態のままであったなら、金銭はいらなかったでしょう。また、すべての人が「聖霊に満たされ」るなら(使徒四・三一)、金銭はいらなくなるでしょう。生まれたばかりのエルサレム教会のようになるからです。そこでは「だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく」(使徒四・三二)、「それぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられ」ました(使徒四・三五)。天に住む者たちの間に、金銭のようなものがあるとは考えられないのと同じです。けれども、人類の今の状態では、金銭は神のすぐれた賜物であり、最も崇高な目的にかなうものです。神の子供たちの手にあれば、金銭は飢えた者の食べ物、渇いた者の飲み物、裸の者の着物になります。旅人や寄留者に、まくらする所を与えます。金銭によって、私たちはやもめには夫の、みなしごには父の代わりになれます。しいたげられる者の守りとなれます。病気の者には健康を、痛みに苦しむ者には安らぎを得させる手段となれます。金銭は、目の見えない人の目となり、足の不自由な人の足となります。そうです、死の門から引き上げるものにさえなるのです!

(三) ですから、神を恐れる人がみな、この貴重なタラントの用い方を知ることは、何より大切です。どうすればそれがこの栄光ある目的に、しかも最高の程度にかなうのかを、教えられることが大切です。そのために必要な教えは、おそらくすべて、三つのわかりやすい原則にまとめられるでしょう。それを厳密に守るなら、私たちは「不正の富」の忠実な管理人であることを示せます(ルカ一六・九)。

【一】 大いに獲得しなさい

(一) 第一の原則は(聞く者は悟りなさい!)、「大いに獲得しなさい」です。ここでは、私たちも世の子らと同じように語れます。彼らの土俵で彼らと向き合うのです。そうすることは、私たちの当然の義務です。得られるかぎりを得るべきです。ただし、金を高く買いすぎてはなりません。金の値打ち以上の代価を払ってはなりません。してはならないことは、はっきりしています。いのちを犠牲にして金銭を得てはなりません。また、(実際には同じことですが)健康を犠牲にして得てもなりません。ですから、どれほどの利益があっても、体を損なうような仕事に就いたり、とどまったりしてはなりません。仕事の性質によってそうなるものも、労働があまりに厳しく長いためにそうなるものも同じです。また、体の求めるだけの食事と睡眠を、適切なときに取れなくする仕事も、始めたり続けたりしてはなりません。もっとも、この点では仕事によって大きな違いがあります。ある種の仕事は、完全に、まったく健康に悪いものです。ヒ素や、それと同じほど有害な鉱物を多く扱う仕事がそうです。溶けた鉛の蒸気で汚れた空気を吸う仕事もそうです。これらは、どれほど丈夫な体もやがては必ず損ないます。ほかに、だれにとっても健康に悪いわけではなく、体の弱い人にだけ悪い仕事もあります。長い時間を書きものに費やさなければならない仕事がそうです。特に、座って書く人が腹を机に押しつけて前かがみになったり、無理な姿勢を長く続けたりする場合はそうです。理性や経験から見て、健康や体力を損なうとわかるものには、何であれ身をゆだねてはなりません。「命は食物にまさり、からだは着物にまさる」からです(マタイ六・二五)。もうそのような仕事に就いているなら、できるだけ早く、ほかの仕事に替えるべきです。収入は減っても、健康は損なわない仕事にです。

(二) 第二に、体と同じように心も損なうことなく、大いに獲得しなさい。心もまた損なってはならないからです。何としても、健やかな精神を保たなければなりません。ですから、罪深い商売、神の律法や国の法律に反する商売を、始めたり続けたりしてはなりません。王の正当な関税を奪ったり、ごまかしたりせずには成り立たない商売は、みなそうです。王の権利をごまかすのは、同じ臣民から盗むのと少なくとも同じくらい罪深いからです。私たちが自分の家や衣服に対して持っている権利と同じだけの権利を、王は関税に対して持っています。ほかにも、それ自体はどれほど罪のないものでも、今では、少なくともイングランドでは、罪を犯さずには営めない商売があります。たとえば、ごまかしや嘘によらなければ、相応の暮らしを立てられない商売です。正しい良心と相いれない慣習に従わなければ、暮らしが成り立たない商売もそうです。これらも固く避けなければなりません。その商売の慣習に従えば、どれほどの利益が伴うとしてもです。金銭を得るために、自分の魂を失ってはならないからです。さらにほかにも、多くの人が体も心も損なわずに、まったく罪なく営んでいる仕事があります。けれども、あなたにはそれができないかもしれません。その仕事のために、あなたの魂を滅ぼすような仲間と関わらざるをえなくなるかもしれません。何度か試してみて、その仕事とその仲間とを切り離せないとわかることもあるでしょう。あるいは、あなたの魂に特異な体質があるのかもしれません。多くの人の体に特異な体質があるのと同じです。そのために、ほかの人なら安全に営める仕事が、あなたには命取りになることがあります。私自身、何度も試してみて確信していることがあります。数学や算術や代数を少しでも深く究めようとすれば、私は無神論者にならないまでも、理神論者になってしまうのです。ところが、ほかの人は一生これらを学んでも、何の害も受けないかもしれません。ですから、この点では、だれもほかの人のために決めることはできません。各自が自分で判断し、自分の魂に害があるとわかったものは何であれ、控えなければなりません。

(三) 第三に、隣人を損なうことなく、大いに獲得しなさい。自分自身のように隣人を愛しているなら(マタイ二二・三九)、隣人を損なってはなりませんし、損なうこともできません。すべての人を自分自身のように愛しているなら、だれの財産も損なうことはできません。賭け事によって、隣人の土地の収益を、ことによると土地や家そのものまでも食いつぶすことはできません。法外な請求書によってもできません。医療費であれ、訴訟費用であれ、ほかの何であれ同じです。国の法律でさえ禁じているほどの利息を求めたり受け取ったりして、食いつぶすこともできません。これによって、質屋業はすべて除外されます。それによってどんな善がなされうるとしても、その善ははるかに大きな悪に打ち消されています。偏見のない人はみな、それを悲しみをもって認めています。たとえそうでなかったとしても、私たちは「善をきたらせるために」悪を行うことを許されていません(ローマ三・八)。兄弟愛と矛盾せずに、相場より安く品物を売ることはできません。自分の商売を伸ばすために、隣人の商売をつぶそうと図ることもできません。まして、隣人に必要な召使いや職人を誘い出したり、雇い入れたりすることはできません。隣人の財産を飲み込んで利益を得る者は、だれでも地獄の刑罰をも得ることになります!

(四) また、隣人の体を損なって利益を得てもなりません。ですから、健康を損なうものを売ってはなりません。とりわけ、あの液体の火がそうです。一般に火酒とか蒸留酒とか呼ばれているものです。確かに、これらは医薬として用いられることがあり、ある種の体の不調には役立つかもしれません。もっとも、医者の腕が未熟でなければ、それが必要になることはめったにないでしょう。ですから、もっぱら医療のためにこれを造り、売る人は、良心を清く保てます。けれども、そういう人はどこにいるでしょうか。もっぱら医療のためにこれを造って売る人が、いるでしょうか。そのような蒸留業者を、イングランドで十人でも知っていますか。それなら、その人たちは責めないでおきましょう。けれども、ふつうのやり方で、買う者にはだれにでもこれを売る人々は、みな無差別に毒を盛る者です。彼らは国王陛下の臣民を、まとめて大量に殺しています。その目は惜しむことも、あわれむこともありません。彼らは人々を、羊のように地獄へ追いやります。では、彼らの利益とは何でしょうか。この人々の血ではないでしょうか。それなら、だれが彼らの広い地所や豪華な邸宅をうらやむでしょうか。そのただ中には呪いがあります。神の呪いが、その石にも、材木にも、家具にもまといついています。神の呪いが、その庭にも、散歩道にも、木立にもあります。それは地獄の底にまで燃え行く火なのです。血です。そこには血があります。土台も、床も、壁も、屋根も、血に染まっています! 血を流す人よ、あなたは「緋の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮して」いるかもしれません(ルカ一六・一九)。けれども、その血の畑を三代目まで譲り渡せると望めるでしょうか。そうはいきません。天には神がおられるからです。ですから、あなたの名はまもなく根絶やしにされます。あなたが体も魂も滅ぼした人々と同じように、「あなたの記憶はあなたと共に消えうせる」のです(詩篇九・六)。

(五) では、程度はより軽いとしても、同じ罪責にあずかっている人々がいるのではないでしょうか。外科医であれ、薬剤師であれ、内科医であれ、自分の利益を増やすために、人のいのちや健康をもてあそぶ人々です。すぐに取り除けるはずの痛みや病気を、わざと長引かせる人々です。患者の財産をかすめ取るために、その体の治療を引き延ばす人々です。あらゆる病気を「できるかぎり」短くし、あらゆる病と痛みを「できるかぎり早く」取り除こうとしない人が、神の前に潔白でいられるでしょうか。いられません。その人が「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」という戒めを守っていないことは(マタイ二二・三九)、何よりも明らかだからです。「人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりに」していないことも明らかです(マタイ七・一二)。

(六) これは高くついた利益です。隣人の魂を損なって得たものも、すべてそうです。たとえば、直接にであれ間接にであれ、隣人の不品行や不節制に手を貸して得たものです。神を少しでも恐れ、神に喜ばれたいと本当に願う人なら、決してそんなことはできません。居酒屋、飲食店、オペラハウス、劇場など、流行の娯楽のための公共の場所があります。そうした所に何らかの関わりを持つ人はみな、このことをよく考える必要があります。それは身に迫った問題なのです。これらが人の魂に益となるなら、あなたは潔白です。あなたの仕事は良いもので、その利益は罪のないものです。けれども、それ自体が罪深いものであるかもしれません。さまざまな罪へとおのずから通じる入口であるかもしれません。そうであれば、おそらく、あなたはつらい申し開きをすることになるでしょう。ああ、気をつけなさい。かの日に、神がこう言われないように。「彼らは自分の悪のために死にました。しかしその血を私はあなたの手から求めます」(エゼキエル三・一八)。

(七) これらの注意と制限を守ったうえで、世の仕事に携わる人はみな、金銭についてのクリスチャンの知恵の第一の大原則を守る義務があります。「大いに獲得しなさい」。正直に勤勉に働いて、大いに獲得しなさい。自分の職業に、できるかぎりの勤勉を尽くしなさい。時間を少しもむだにしてはなりません。自分自身を知り、神と人に対する自分の関係を理解しているなら、余分な時間などないとわかるはずです。自分に与えられた職業をしかるべく理解しているなら、時間をもてあますことはないでしょう。どんな仕事にも、毎日、毎時間を満たすだけのなすべきことがあります。あなたの置かれている職業に本気で取り組むなら、くだらない無益な娯楽にふける暇はありません。あなたにはいつも、もっとよい、なすべきことがあります。多かれ少なかれ自分の益になることがあるのです。そして、「すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくして」しなさい(伝道九・一〇)。それも、できるかぎり早くしなさい。ぐずぐずしてはなりません! 一日延ばし、一時間延ばしにしてはなりません! 今日できることを、明日に残してはなりません。しかも、できるかぎり上手にしなさい。居眠りやあくびをしながらしてはなりません。全力を仕事に注ぎなさい。労を惜しんではなりません。何事も中途半端に、いいかげんに、ぞんざいにしてはなりません。働けば、あるいは忍耐すればできることは、仕事の中で一つもやり残してはなりません。

(八) 常識を働かせ、神から与えられた知性をすべて仕事に用いて、大いに獲得しなさい。驚くべきことに、そうする人はほとんどいません。たいていの人は、先祖と同じ退屈な道をそのままたどっています。けれども、神を知らない人々が何をしていようと、それはあなたの規範ではありません。何に取りかかるにしても、彼らにまさる工夫をしないのは、クリスチャンの恥です。他の人の経験から、あるいは自分自身の経験や読書や思索から、絶えず学び続けなさい。なすべきことを何でも、昨日よりも今日、もっとうまくできるようになるためです。そして、学んだことを必ず実行しなさい。そうすれば、あなたの手にあるすべてのものを最もよく生かせます。

【二】 大いに節約しなさい

(一) 正直な知恵とたゆまぬ勤勉によって大いに獲得したなら、クリスチャンの思慮の第二の原則はこうです。「大いに節約しなさい」。この貴重なタラントを海に投げ捨ててはなりません。そんな愚かなことは、異教の哲学者に任せておきなさい。むだな出費でそれを捨ててもなりません。それは海に投げ捨てるのとまったく同じです。「肉の欲、目の欲、持ち物の誇」を満たすためだけに、その一部でも費やしてはなりません(第一ヨハネ二・一六)。

(二) これほど貴重なタラントのどの部分も、肉の欲を満たすためだけに浪費してはなりません。どんな種類のものであれ、感覚の快楽を得るために浪費してはなりません。とりわけ、味わう楽しみを増すために浪費してはなりません。私が言っているのは、大食や酒浸りを避けよということだけではありません。それなら正直な異教徒でさえ非難するでしょう。けれども、節度があり、世間体もよい種類の官能があります。上品な美食趣味です。それはすぐに胃をこわすわけではなく、(少なくとも目に見えては)知性を損なうわけでもありません。それでも(ほかの影響は今は言わないとしても)、かなりの出費なしには続けられません。こうした出費はすべて断ちなさい! 美食や品数の多さを退け、飾らない自然が求めるもので満足しなさい。

(三) これほど貴重なタラントのどの部分も、目の欲を満たすためだけに浪費してはなりません。余計な服や高価な服、不要な装身具に浪費してはなりません。家を凝って飾り立てることに、少しも浪費してはなりません。余計な家具や高価な家具、高価な絵画、塗装、金めっき、本、役に立つというより優美なだけの庭園も同じです。これ以上よいことを知らない隣人たちには、そうさせておきなさい。「その死人を葬ることは、死人に任せて」おきなさい(マタイ八・二二)。私たちの主は言われます。「あなたにはなんの係わりがありますか。あなたは、私に従ってきなさい」(ヨハネ二一・二二)。その気がありますか。それなら、あなたにもそうできます。

(四) 持ち物の誇を満たすために、人に感心され、ほめられるために、何も費やしてはなりません。この出費の動機は、たいてい前の二つのどちらか、あるいは両方と絡み合っています。人が食事や衣服や家具に金をかけるのは、ただ食欲を満たしたり、目や想像力を楽しませたりするためだけではありません。虚栄心を満たすためでもあるのです。「あなたがみずから幸な時に、人々はあなたを称賛します」(詩篇四九・一八)。あなたが「紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮して」いるかぎり(ルカ一六・一九)、多くの人がきっとほめそやすでしょう。あなたの洗練された趣味や、気前のよさ、もてなしのよさをです。けれども、そんなに高い代価を払って、人の称賛を買ってはなりません。むしろ、「神からの誉」で満足しなさい(ヨハネ五・四四)。

(五) 欲望を満たせば欲望が増す。このことをよく考えるなら、だれがこうした欲望を満たすために何かを費やすでしょうか。これほど確かなことはありません。日々の経験が示すとおり、欲望はふければふけるほど増していきます。ですから、味覚やほかの感覚を喜ばせるために何かを費やすたびに、あなたはその額を払って官能を買っているのです。目を喜ばせるために金を使うたびに、あなたはその額を払って好奇心を増やしているのです。使えば尽きてしまう楽しみに、いっそう強く執着するようになるのです。人がほめそやすものを買うたびに、あなたはさらに虚栄を買っています。あなたには、虚栄も官能も好奇心も、もう十分にあったのではありませんか。それを増やす必要があったでしょうか。しかも、金を払ってまで増やすのでしょうか。これはどういう知恵でしょうか。文字どおり金を海に投げ捨てるほうが、まだ害の少ない愚かさではないでしょうか。

(六) 自分のためにしてはならないのと同じように、子供のためにも金銭を投げ捨ててはなりません。おいしい食べ物にも、派手な服や高価な服にも、そのほかどんなぜいたく品にも使ってはなりません。どうして子供のために、もっと多くの高ぶりや情欲、もっと多くの虚栄を買い与えるのでしょうか。「無分別な恐ろしいさまざまの情欲」を、どうして買い与えるのでしょうか。子供たちはこれ以上、何も必要としていません。もう十分に持っています。自然が十分に備えています。それなのにどうして、さらに金を使って、子供の「誘惑と、わな」を増やすのでしょうか。どうして、もっと多くの「苦痛をもって」子供を「刺しとおす」のでしょうか(第一テモテ六・九〜一〇)。

(七) 子供が投げ捨てるような財産を残してはなりません。今あなたが持っているものを、子供たちが浪費するだろうと考える十分な理由があるとしましょう。子供たちはそれを、肉の欲、目の欲、持ち物の誇を満たすために使い、かえってそうした欲を増し加えるでしょう。そうなれば、子供たち自身の魂もあなたの魂も危うくなります。それなら、子供たちの道にそのようなわなを置いてはなりません。息子や娘をモレクにささげてはならないのと同じように、ベリアルにもささげてはなりません。子供たちをあわれみなさい。罪を増し加え、その結果、永遠の滅びにいっそう深く沈ませると容易に予想できるものは、子供たちの道から取り除きなさい! それにしても、子供にはいくら残しても足りないと考える親たちの心迷いには、まったく驚かされます! 何ということでしょう! あなたは子供たちに、矢や燃え木や死を、まだ十分に残せないというのですか(箴言二六・一八)。愚かで有害な欲望を、まだ十分に残せないのですか。高ぶりや情欲や野心や虚栄を、まだ十分に残せないのですか。「とこしえの燃える火」を、まだ十分に残せないのですか(イザヤ三三・一四)。あわれな人よ! あなたは「恐るべきことのない時に」恐れています(詩篇五三・五)。あなたも子供たちも、やがて地獄で目をあげるでしょう(ルカ一六・二三)。そのときにはきっと、「うじがつきず、火も消えることがない」苦しみを、十分すぎるほど味わうことになります(マルコ九・四八)。

(八) 「では、もしあなたが私の立場だったらどうするのか。残すべき相当な財産があったらどうするのか」。私が実際にそうするかどうかはともかく、何をすべきかはわかっています。これには、まともな疑問の余地はありません。私の子供のうちに、上の子であれ下の子であれ、金銭の価値を知っている子がひとりいるとします。その子なら金銭を本当の用途に用いると信じられるとします。そのときには、その子に財産の大部分を残すことが、私の絶対の、欠かせない義務だと考えるでしょう。ほかの子供たちには、それまで慣れてきた暮らしを続けられるだけのものを残すべきだと考えます。「だが、子供たちがみな同じように金銭の本当の使い方を知らなかったら、どうなのか」。そのときには、子供たちのそれぞれに、困窮しないだけのものを与えるべきです。そして残りはすべて、神の栄光のために最もよいと私が判断するしかたで用いるべきです。「これは、ひどい言葉です。だれがそんなことを聞いていられるでしょうか」(ヨハネ六・六〇)。

【三】 大いに与えなさい

(一) けれども、ここまで進んだだけで、つまり「大いに獲得し、大いに節約し」ただけで止まるなら、何かをなし遂げたと思ってはなりません。さらに先へ進まないなら、これはみな無に等しいのです。これらすべてを、さらに先の目的に向けないなら、何にもなりません。ただ貯め込むだけなら、本当の意味で節約したとは言えません。金を地に埋めるのは、海に投げ捨てるのと同じです。金庫やイングランド銀行にしまっておくのは、地に埋めるのと同じです。使わないのは、実際には捨てるのと同じです。ですから、本当に「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつく」りたいなら(ルカ一六・九)、前の二つの原則に第三の原則を加えなさい。第一に大いに獲得し、第二に大いに節約したなら、そのうえで「大いに与えなさい」。

(二) その根拠と理由を知るために、考えてみなさい。天地の所有者である方は、あなたを存在させ、この世に置かれたとき、所有者としてではなく管理人として置かれました。管理人として、しばらくのあいだ、さまざまな財産をあなたに託されたのです。けれども、それらの所有権は今も神だけにあり、神から切り離されることはありえません。あなた自身があなたのものではなく神のものであるように(第一コリント六・一九)、あなたが享受しているすべてのものも神のものです。あなたの魂も体も、あなたのものではなく神のものです。とりわけ、あなたの財産はそうです。そして神は、それをご自分のためにどう用いるべきかを、この上なく明瞭に告げておられます。そのすべてが、キリスト・イエスによって神に喜ばれる、聖なる供え物となるように用いるのです(ローマ一二・一)。この軽くたやすい奉仕に、神は「永遠の重い栄光」をもって報いると約束しておられます(第二コリント四・一七)。

(三) この世の財産の使い方について神が与えてくださった指示は、次のようにまとめられます。あなたの手には今、主の財産の一部が預けられています。ただし主は、望まれるときにはいつでもそれを取り戻す権利を持っておられます。あなたがその財産の忠実で賢い管理人でありたいと願うなら、その中から、第一に、自分自身に必要なものを備えなさい。食べる物、着る物、そのほか体を健やかに丈夫に保つために、自然が適度に求めるものです。第二に、妻や子供、召使い、そのほかあなたの家に属する人々のために、これらのものを備えなさい。そうしてなお余りがあれば、「信仰の仲間に対して、善を行」いなさい。それでもまだ余りがあれば、「機会のあるごとに、だれに対しても」善を行いなさい(ガラテヤ六・一〇)。こうするとき、あなたは大いに与えているのです。いや、正しい意味では、持っているすべてを与えているのです。このように用いるものはみな、実際には神にささげられているからです。あなたは「神のものは神に返」しているのです(マタイ二二・二一)。貧しい人に与えるものによってだけではありません。自分と家族に必要なものを備えるために使うものによってもです。

(四) では、自分自身や家族のだれかのために使おうとしているものについて、いつか心に疑いが起きたとしましょう。そのときには、それを取り除く簡単な方法があります。落ち着いて、真剣に自分に問いなさい。一、これを使うとき、私は自分の立場にふさわしく行動しているだろうか。所有者としてではなく、主の財産の管理人として行動しているだろうか。二、私はこれを、主のみことばに従って行っているだろうか。聖書のどこで、主は私にそうするよう求めておられるだろうか。三、この行い、この出費を、イエス・キリストによって、神へのいけにえとしてささげられるだろうか。四、まさにこのわざのために、「正しい人々の復活の際には」報いを受けると信じる理由があるだろうか(ルカ一四・一四)。この点で疑いが起きても、それを取り除くのに、これ以上のものが必要になることはめったにないでしょう。この四つの問いによって、あなたは進むべき道について、はっきりした光を受けるはずです。

(五) それでもなお疑いが残るなら、今の四つの問いに沿って、祈りによってさらに自分を吟味するとよいでしょう。良心に責められることなく、心を探り知る方に、次のように言えるかどうか試してみなさい。「主よ、ご覧のとおり、私はこれだけの金額を、この食べ物に、衣服に、家具に使おうとしています。そしてあなたはご存じです。私はこの点で、あなたの財産の管理人として、澄んだ目で行動しています。あなたがこれを私に託されたときのご計画に従って、その一部をこのように使おうとしているのです。あなたはご存じです。私はあなたの命じられたとおりに、またあなたが命じられたからこそ、主に従ってこれを行います。どうかこれが、イエス・キリストによって喜ばれる、聖なる供え物となりますように! 私のうちにあかしを与えてください。あなたがおのおのに、そのわざにしたがって報いられるとき、この愛の労苦のために私が報いを受けられるというあかしを」。もし良心が聖霊によって、この祈りは神に喜ばれるとあかしするなら、その出費が正しく良いものであることを疑う理由はありません。それは、決してあなたを恥じさせることのない出費です。

(六) これで、「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくる」とはどういうことか、おわかりでしょう。また、「あなたがたのいのちが尽きるとき、彼らがあなたがたを永遠のすまいに迎えてくれる」ためには、どうすればよいかもおわかりでしょう(ルカ一六・九)。金銭という大きなタラントの使い方に関するかぎり、本当にクリスチャンらしい思慮がどういうものかも、おわかりでしょう。それがどこまで及ぶのかも、おわかりでしょう。自分自身も隣人も、魂においても体においても損なうことなく、大いに獲得しなさい。そのために、絶え間ない勤勉と、神から与えられた知性のすべてを用いなさい。大いに節約しなさい。愚かな欲望にふけるためだけの出費、肉の欲、目の欲、持ち物の誇を満たすためだけの出費を、一つ残らず断ちなさい。生きている間も、死ぬときも、自分のためにも子供のためにも、罪や愚かなことに何一つ浪費してはなりません。そのうえで、大いに与えなさい。言い換えれば、持っているすべてを神にささげなさい。クリスチャンではなくユダヤ人のように、何分の一という割合に自分を限ってはなりません。「神に返しなさい」(マタイ二二・二一)。十分の一でも、三分の一でも、半分でもなく、多くても少なくても、神のものすべてを返しなさい。そのすべてを、自分のため、家族のため、信仰の仲間のため、全人類のために用いなさい。もう管理人でいられなくなるときに、自分の管理についてよい申し開きができるように用いなさい。神のことばが一般の教えと個別の教えとによって指示するとおりに用いなさい。何をするにしても、それが「神へのかんばしいかおりのささげ物」となるように用いなさい(エペソ五・二)。そして、主がすべての聖なる者と共に来られる日に、一つひとつの行いが報われるように用いなさい。

(七) 兄弟たちよ、私たちがこのように主の財産を管理しないなら、賢い管理人とも忠実な管理人とも言えるでしょうか。言えません。神のことばだけでなく、私たち自身の良心もそうあかししています。それなら、なぜためらうのでしょうか。なぜこれ以上、血肉や世の人々に相談するのでしょうか(ガラテヤ一・一六)。私たちの国も、私たちの知恵も、この世のものではありません(ヨハネ一八・三六)。異教徒の慣習は、私たちには何の関係もありません。私たちが人に従うのは、その人がキリストに従う者であるかぎりにおいてです。この方に聞きなさい(マタイ一七・五)。そうです、きょう、「きょう」といううちに(ヘブル三・一三)、その御声を聞いて従いなさい! 今この時に、またこの時から、主のみこころを行いなさい。この点でも、すべてのことでも、主のみことばを実行しなさい! 主イエスの御名によって、あなたがたにお願いします。召されたその召しにふさわしく歩みなさい(エペソ四・一)。もう怠けてはなりません! 「すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくして」しなさい(伝道九・一〇)。もう浪費してはなりません! 流行や気まぐれや血肉が求める出費は、すべて断ちなさい! もう貪欲であってはなりません! 神から託されたものは何でも、善を行うために用いなさい。信仰の仲間に、すべての人に、あらゆる種類と程度で、できるかぎりの善を行いなさい! これは「義人の知恵」の、決して小さくない一部です(ルカ一・一七)。あなたがたの持っているすべてを、あなたがた自身のすべてと共に、霊のいけにえとして神にささげなさい。神は、ご自分の御子を、ひとり子をさえ、あなたがたのために惜しまれなかったのです(ローマ八・三二)。こうして、「真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げ」なさい(第一テモテ六・一九)。