ジョン・ウェスレー標準説教集

説教三十五 信仰による律法の確立(一)

「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのでしょうか。断じてそうではない。かえって、律法を確立するのです」(ローマ三・三一)

(一) 聖パウロは、この手紙の初めに、一般的な命題を示しました。すなわち、キリストの福音は「すべて信じる者に、救を得させる神の力」である(ローマ一・一六)、ということです。福音は力ある手段であり、神はこれによって、すべての信者を、今の救いと永遠の救いとにあずからせてくださるのです。そのうえで使徒は、天下には人が救われる道がほかにないことを示していきます。使徒がとりわけ語るのは、罪責からの救いです。使徒はふつう、これを義認と呼びます。すべての人がこの救いを必要としています。だれも自分の潔白を申し立てることはできません。使徒はこのことを、さまざまな議論によって詳しく証明します。その議論は、異邦人にもユダヤ人にも向けられています。そこから使徒は、この章の一九節で、こう推論します。ユダヤ人の口であれ異邦人の口であれ、「すべての口が」、自分を弁解したり義としたりできないよう、「ふさがれ」なければなりません(ローマ三・一九)。そして、全世界が神の前に罪ある者とならなければならないのです。それゆえ、と使徒は言います。人は自分の従順によって、すなわち「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられない」のです(ローマ三・二〇)。「しかし今や、神の義が、律法とは別に」、すなわち私たちが先に律法に従うこととは別に、「現され」ました(ローマ三・二一)。「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるもの」です(ローマ三・二二)。「そこにはなんらの差別も」ありません(ローマ三・二二)。義認を必要とすることにおいても、それを得る仕方においても、差別はないのです。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなって」いるからです(ローマ三・二三)。この神の栄光とは、人が造られたときの、栄光ある神のかたちのことです。そして、(義認を得る)すべての人は、「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされる」のです(ローマ三・二四)。「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされ」ました(ローマ三・二五)。「こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされる」のです(ローマ三・二六)。すなわち、ご自分の正しさを少しも損なうことなく、あの供え物のゆえに、その人にあわれみを示されるのです。そこで、「わたしたちは、こう思う」(ローマ三・二八)と使徒は結論します。これこそ、使徒が確立しようとした大きな命題でした。「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」のです(ローマ三・二八)。

(二) これには反論が出ることが、たやすく予想されました。実際、その反論は、どの時代にも出されてきました。すなわち、私たちが律法の行いなしに義とされると言うのは、律法を廃することだ、という反論です。使徒は、正式な論争にはいらず、ただその非難を否定します。使徒はこう言います。「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのでしょうか。断じてそうではない。かえって、律法を確立するのです」(ローマ三・三一)。

(三) 聖パウロは、「人が義とされるのは、律法の行いによるのではな」い(ローマ三・二八)と言います。ある人々は、それは儀式律法のことだけを言っているのだ、と考えます。この奇妙な考えは、先に引いた三一節の言葉そのものによって、十分に論破されます。聖パウロは、儀式律法を確立したでしょうか。明らかに、確立しませんでした。使徒は、信仰のゆえに、あの律法を無効にしました。そして、そうしていることを公然と認めました。私たちは信仰のゆえにこれを無効にするのではなく、確立するのだ、と使徒が本当に言うことのできたのは、道徳律法だけでした。

(四) けれども、この点で、すべての人が使徒と同じ考えなのではありません。これに同意しようとしない人が、たくさんいます。教会のどの時代にも、クリスチャンの名を負う人々の中にさえ、多くの人がこう主張してきました。聖徒たちに「ひとたび伝えられた信仰」(ユダ三)は、律法全体を無効にするためのものだ、と。彼らは、儀式律法と同じく、道徳律法をも容赦しようとしません。いわば両方とも「主の前に」「寸断」しようとするのです(サムエル記上一五・三三)。そして、激しくこう主張します。「何かの律法を確立するなら、『キリストはあなたがたに用のないものになろう』(ガラテヤ五・二)。あなたがたは『キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている』(ガラテヤ五・四)」。

(五) けれども、この人々の熱心は、深い知識による(ローマ一〇・二)ものでしょうか。彼らは、律法と信仰との結びつきに目をとめたでしょうか。そして、両者が固く結びついていることを考えるなら、一方を滅ぼすことは、実は両方を滅ぼすことだ、と気づいたでしょうか。道徳律法を廃することは、実は信仰と律法とをともに廃することだ、と気づいたでしょうか。私たちを信仰に導く手段も、魂のうちにあるあの神の賜物を燃え立たせる(第二テモテ一・六)手段も、ふさわしいものが何も残らなくなるからです。

(六) ですから、キリストのもとに来たいと願う人も、受け入れたキリストにあって歩みたい(コロサイ二・六)と願う人も、みな気をつけなければなりません。「信仰のゆえに」「律法を無効にする」(ローマ三・三一)ことのないようにです。そうならないよう確かに身を守るために、次のことを調べてみましょう。第一に、「信仰のゆえに」「律法を無効にする」(ローマ三・三一)最もありふれたやり方は何か。第二に、どうすれば使徒にならって、信仰によって「律法を確立する」(ローマ三・三一)ことができるか。

【一】 律法を説教しないこと

(一) まず第一に、信仰のゆえに律法を無効にする最もありふれたやり方は何か、を調べてみましょう。さて、説教者が律法を一挙にすべて無効にするやり方は、律法をまったく説教しないことです。これは、律法を神の言(ローマ三・二)から消し去るのとまったく同じことです。それがわざとなされるときは、なおさらです。律法を説教しないことが規則とされ、「律法の説教者」という言葉そのものが、ののしりの言葉として使われるときです。まるで、それが福音の敵とほとんど変わらないものを意味するかのようにです。

(二) これはすべて、律法の性質と特質と用途とについての、まったくの無知から出ています。そして、このようにふるまう人々について、次のどちらかを証明しています。彼らがキリストを知らず、生きた信仰をまったく知らないことです。そうでなければ、少なくとも、彼らがキリストにある幼な子(第一コリント三・一)にすぎず、それゆえ「義の言葉」に通じていない(ヘブル五・一三)ことです。

(三) 彼らの大きな言い分はこうです。福音を説教することが、律法のあらゆる目的を果たす、というのです。福音を説教するとは、彼らの判断によれば、キリストの苦しみと功績のほかは何も語らないことです。けれども、私たちはこれをまったく否定します。それは、律法のいちばん最初の目的さえ果たしません。すなわち、人に罪を悟らせること、地獄のふちでなお眠っている人々を目ざめさせることです。あちこちに、例外はあったかもしれません。千人にひとりは、福音によって目ざめさせられたかもしれません。けれども、これは一般的な規則ではありません。神がふつう用いられる方法は、律法によって、ただ律法だけによって、罪人に罪を悟らせることです。福音は、神がこの目的のために定められた手段ではありません。主ご自身がこの目的のために用いられた手段でもありません。福音をこのように用いてよいという権威は、聖書のどこにもありません。それが効果をあげると考える根拠もありません。事の性質から見ても、それを期待する根拠はやはりありません。主ご自身が言われるとおり、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人です」(マタイ九・一二)。ですから、丈夫な人に、あるいは少なくとも自分は丈夫だと思っている人に、医者をすすめるのはばかげたことです。まず、その人が病気であることを納得させなければなりません。そうしなければ、あなたが骨を折っても、その人は感謝しないでしょう。同じように、まだ一度も砕かれたことのない、無傷の心の人にキリストをすすめるのも、ばかげたことです。それは、本当の意味で、「真珠を豚に投げてやる」(マタイ七・六)ことです。疑いもなく、彼らはそれを「足で踏みつけ」るでしょう(マタイ七・六)。さらに「向きなおってあなたがたにかみついてくる」(マタイ七・六)としても、それは当然予想すべきことにすぎません。

(四) 「しかし、無関心な罪人にキリストをすすめよという命令は、聖書にはないとしても、聖書にその先例はあるのではないか」。私はないと思います。一つも知りません。あなたは、四つの福音書からも、使徒行伝からも、一つも先例を出すことはできないと思います。また、使徒たちの書いたもののどの箇所からも、使徒のだれかがそうしていたことを証明することはできません。

(五) 「いや、使徒パウロは、コリント人への第一の手紙で、『わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える』(第一コリント一・二三)と言っているではないか。また第二の手紙で、『わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える』(第二コリント四・五)と言っているではないか」。

私たちは、この点に決着をゆだねることに同意します。すなわち、パウロの足跡に従い、パウロの模範にならうことにです。ただパウロが説教したとおりに、あなたも説教しなさい。そうすれば、論争は終わります。

パウロが、あの大使徒たち(第二コリント一一・五)にも劣らず完全な仕方でキリストを宣べ伝えたことは、確かです。それでも、聖パウロ以上に律法を説教した人がいたでしょうか。ですから、パウロは、福音が律法と同じ目的を果たすとは考えていなかったのです。

(六) 記録に残っている聖パウロのいちばん最初の説教は、次の言葉で結ばれています。「モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのです。だから預言者たちの書にかいてある次のようなことが、あなたがたの身に起らないように気をつけなさい。『見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないような事なのです』」(使徒一三・三八〜四一)。さて、明らかに、これはすべて、あなたがたがこの言葉を理解している意味での、律法の説教です。パウロの聞き手は、全部ではないにしても大部分が、ユダヤ人か信心深い改宗者たち(使徒一三・四三)でした。ですから、おそらくその多くは、少なくともある程度、すでに罪を悟っていたでしょう。それでも、これは律法の説教なのです。パウロはまず、彼らに思い起こさせます。人はモーセの律法によっては義とされず、ただキリストを信じる信仰によって義とされる、ということをです。そのうえで、神のさばきをもって彼らを厳しく警告します。これは、最も強い意味で、律法の説教です。

(七) 次の説教は、ルステラで異邦人に向けて語ったものです(使徒一四・一五〜一七)。そこには、キリストの名さえ見あたりません。その趣旨はすべて、彼らがむなしい偶像を捨てて、「生ける神に立ち帰る」(使徒一四・一五)ように、ということです。さあ、本当のことを白状しなさい。もしあなたがその場にいたら、パウロよりずっと上手に説教できただろうと思うのではありませんか。あなたがさらにこう考えたとしても、私は驚きません。パウロがあれほどひどい扱いを受けたのは、あれほどまずい説教をしたからだ、と。パウロが石で打たれたのは、キリストを宣べ伝えなかったことへの正当なさばきだった、と!

(八) 確かに、獄吏は「獄に駆け込んできて、おののきながらパウロとシラスの前にひれ伏し」(使徒一六・二九)、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」(使徒一六・三〇)と言いました。そのとき、パウロはすぐに、「主イエス」キリスト「を信じなさい」(使徒一六・三一)と言いました。これほど深く罪を悟った人に対してなら、だれでも同じことを言ったでしょう。けれども、アテネの人々には、パウロはまったく違う仕方で語っています。彼らの迷信と無知と偶像礼拝とを責めています。そして、来たるべきさばきと、死人の中からのよみがえりとを考えさせて、悔い改めるよう強く促しているのです(使徒一七・二四〜三一)。同じように、ペリクスは、キリストに対する「信仰のことを、彼から聞」くために(使徒二四・二四)、わざわざパウロを呼び出しました。そのとき、パウロは、あなたがたの言う意味でキリストを宣べ伝えることはしませんでした。そうしていたら、おそらく総督は、あざけるか、反対してののしるかしたでしょう。パウロは、「正義、節制、未来の審判」について「論じ」ました(使徒二四・二五)。そしてついに、ペリクスは、あれほどかたくなな人であったのに、震えたのです。あなたも行って、パウロの足跡に従いなさい。「正義、節制、未来の審判」(使徒二四・二五)について論じることによって、無関心な罪人にキリストを宣べ伝えなさい!

(九) あなたが「しかし、パウロは手紙の中では、違う仕方でキリストを宣べ伝えたではないか」と言うなら、私はこう答えます。一、パウロは、手紙の中では、そもそも説教していません。少なくとも、私たちが言う意味では説教していません。いまの問題で説教というのは、会衆の前で語ることだからです。けれども、このことはおくとしても、こう答えます。二、パウロの手紙は、いま話しているような不信者にあてられたのではありません。ローマやコリントやピリピなどにいる神の「聖徒」たち(ローマ一・七、第一コリント一・二、ピリピ一・一)にあてられています。疑いもなく、パウロは、この世の中で神もない者(エペソ二・一二)に対してよりも、この人々に対して、キリストのことを多く語ったでしょう。三、それでも、これらの手紙は、どれも律法に満ちています。ローマ人への手紙とガラテヤ人への手紙でさえ、そうです。この二つの手紙で、パウロは、あなたがたが「律法の説教」と呼ぶことをしています。しかも、不信者に対してだけでなく、信者に対してもしているのです。

(一〇) このことから明らかなように、あなたがたは、使徒の言う意味でキリストを宣べ伝えるとはどういうことかを、知らないのです。疑いもなく、聖パウロは、自分はキリストを宣べ伝えていると考えていました。ペリクスに対しても、アンテオケでもルステラでもアテネでも、そうです。この模範から、考える人ならだれでも、こう推論しなければなりません。罪人へのキリストの愛を告げることは、使徒の言う意味でキリストを宣べ伝えることです。それだけでなく、キリストが炎の中で天から来られる(第二テサロニケ一・七)と告げることも、そうなのです。そうです、聖書が言うこの言葉の十分な意味で、そうなのです。キリストを宣べ伝えるとは、旧約聖書であれ新約聖書であれ、キリストが啓示されたことを宣べ伝えることです。ですから、あなたが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ一・二九)と言うとき、あなたは本当にキリストを宣べ伝えています。それと同じように、「悪しき者、また神を忘れるもろもろの国民は陰府へ去って行きます」(詩篇九・一七)と言うときも、本当にキリストを宣べ伝えているのです。

(一一) このことをよく考えなさい。キリストを宣べ伝えるとは、キリストが語られたすべてのことを宣べ伝えることです。キリストのすべての約束、すべての警告と命令、キリストの書にしるされているすべてのことを宣べ伝えることです。そうすれば、律法を無効にすることなしにキリストを宣べ伝えるにはどうすればよいかが、分かるでしょう。

(一二) 「しかし、キリストの功績と苦しみをとりわけ語る説教にこそ、最大の祝福が伴うのではないか」。

嘆き悲しむ人々の会衆、あるいは信者の会衆に説教するときには、おそらく、そうした説教に最大の祝福が伴うでしょう。そういう説教は、彼らの状態にとりわけふさわしいからです。少なくとも、そうした説教は、たいてい最も多くの慰めを与えるでしょう。けれども、それがいつも最大の祝福だとは限りません。私は、ときには、心を刺し、私をちりにまでへりくだらせる説教によって、はるかに大きな祝福を受けることがあります。また、もし私が、キリストの苦しみについての説教のほかは何も語らず、何も聞かないとしたら、あの慰めさえ受けないでしょう。そうした説教は、絶えず繰り返されるうちに力を失い、ますます気が抜けて生気を失っていくでしょう。そしてついには、霊もいのちも力もない、退屈な言葉の繰り返しになってしまうでしょう。ですから、このようにキリストを宣べ伝えることは、時がたつうちに、律法だけでなく福音をも無効にしてしまうに違いありません。

【二】 信仰が聖性を不要にすると教えること

(一) 信仰のゆえに律法を無効にする第二のやり方は、信仰があれば聖性は必要なくなる、と教えることです。この道は、千もの細い小道に分かれています。そして、そこを歩く人がたくさんいます。実際、これをまったく免れる人はほとんどいません。私たちが信仰によって救われると確信した人は、ほとんどみな、遅かれ早かれ、多かれ少なかれ、このわき道に引き込まれるのです。

(二) 次のような人々は、みなこのわき道に引き込まれています。キリストを信じる信仰があれば、キリストの律法を守る必要はまったくなくなる。彼らは、そうはっきり判断してはいないかもしれません。それでも、次のどれかを想定しているのです。一、聖性は、キリストが来られる前ほどには、今は必要でない。二、今は、より低い程度の聖性で足りる。三、聖性は、ほかの人々ほどには、信者には必要でない。そうです、次のような人々もみなそうです。一般論としては判断が正しくても、個々の場合には、信じる前にできた以上の自由をとってもよいと考える人々です。実際、自由という言葉をこのように、従順や聖性からの自由という意味で使うことは、すぐに示しています。彼らの判断がゆがんでいること、そして、自分からは遠いと思っていた罪を犯していることをです。すなわち、信仰があれば聖性は必要なくなると想定して、信仰のゆえに律法を無効にするという罪です。

(三) これをはっきりと教える人々の第一の言い分は、こうです。私たちは今、行いの契約ではなく、恵みの契約のもとにある。だから、もはや律法の行いをする必要はない、と。

では、いったいだれが行いの契約のもとにあったでしょうか。堕落する前のアダムのほかには、だれもいません。アダムは、完全に、また本来の意味で、あの契約のもとにありました。その契約は、受け入れられるためのただ一つの条件として、完全で全面的な従順を求めました。そして、ほんの小さな違反にも、赦しの余地を残しませんでした。けれども、ほかにはだれも、この契約のもとにあったことはありません。ユダヤ人も異邦人も、キリスト以前の人もそれ以後の人もです。アダムの子らはみな、恵みの契約のもとにあったのであり、今もそうです。彼らが受け入れられる仕方は、こうです。神の価なしの恵みが、キリストの功績によって、信じる者に赦しを与えます。その信じる者とは、愛によって働き(ガラテヤ五・六)、あらゆる従順と聖性とを生み出す信仰をもって信じる者です。

(四) ですから、事情は、あなたが想定しているようなものではありません。人はかつて、今よりも、神に従い、神の律法のわざを行う義務を多く負っていた、というのではないのです。これは、あなたが立証できない想定です。そうではなく、もし私たちが行いの契約のもとにあったなら、受け入れられる前に、そのわざを行わなければならなかったでしょう。ところが今は、すべての良きわざは、以前と同じように必要ではあっても、受け入れられることに先立つのではありません。それに続くものなのです。ですから、恵みの契約の性質を理由に、どんな場合や程度の従順も、聖性のどんな部分や分量も、退けてよいことにはなりません。恵みの契約は、その根拠も励ましも、少しもあなたに与えないのです。

(五) 「しかし、私たちは、律法の行いなしに、信仰によって義とされるのではないか」。疑いもなく、そうです。儀式律法の行いも道徳律法の行いもなしに、義とされるのです。すべての人がこのことを確信してくれたらと、心から願います。そうすれば、数えきれない悪が防がれるでしょう。とりわけ、律法廃棄論が防がれるでしょう。一般的に言って、律法廃棄論者を生み出すのはパリサイ人だからです。パリサイ人は、聖書にこれほど明らかに反する極端に走ることで、ほかの人々を反対の極端に走らせるのです。パリサイ人は、行いによって義とされようとします。そのために、ほかの人々をおびえさせ、行いに少しの場所も認めないようにさせてしまうのです。

(六) けれども、真理は両者の間にあります。疑いもなく、私たちは信仰によって義とされます。これは、キリスト教という建物全体の隅のかしら石です。私たちは、義認に先立つ条件としての律法の行いなしに、義とされます。けれども、行いは、私たちを義とするあの信仰の、直接の実なのです。ですから、もし良きわざが、すなわち内と外とのあらゆる聖性が、私たちの信仰に続かないとします。そのときは、私たちの信仰に何の値打ちもないことは明らかです。私たちは、いまなお罪の中にいるのです(第一コリント一五・一七)。私たちは信仰によって、しかも行いによらない信仰によって義とされます。けれども、ここまで見てきたように、そのことは、信仰のゆえに律法を無効にする根拠にはなりません。信仰があれば、どんな種類、どんな程度の聖性も免除される、と思う根拠にもなりません。

(七) 「いや、聖パウロははっきりこう言っているではないか。『働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められる』(ローマ四・五)。そこから、信仰は信者にとって、義の代わりに、義の場所に置かれる、ということにならないか。しかし、信仰が義あるいは聖性の代わりになるなら、そのうえ義や聖性まで、何の必要があるのか」。

認めなければなりませんが、これは要点を突いています。実際、これは律法廃棄論の主柱です。それでも、長い答えや骨の折れる答えは必要ありません。私たちは、次のことを認めます。一、神は不信心な者を義とされます(ローマ四・五)。すなわち、そのときまでまったく不信心であった者です。あらゆる悪に満ち、あらゆる善を欠いている者です。二、神は、働きのない(ローマ四・五)不信心な者を義とされます。すなわち、その瞬間まで、何一つ良いわざをしない者です。また、することもできない者です。悪い木が良い実をならせることはできない(マタイ七・一八)からです。三、神は、先立つどんな善も義もなしに、ただ信仰によってその人を義とされます。四、そのとき、信仰がその人の義と認められます(ローマ四・五)。すなわち、先立つ義と認められるのです。言いかえれば、神は、キリストの功績によって、信じる者を受け入れてくださるのです。その人がすでにすべての義を果たしたかのようにです。けれども、これがみな、あなたの論点と何のかかわりがあるでしょうか。使徒は、ここでもほかのところでも、この信仰がその人の後に続く義と認められる、とは言っていません。使徒は、信仰の前には義がないと確かに教えています。けれども、信仰の後にも義がないと、どこで教えているでしょうか。使徒は、聖性が義認に先立つことはありえないと確かに主張しています。けれども、聖性が義認に続く必要はない、とは主張していません。ですから、聖パウロは、信仰があれば聖性は必要なくなると教えて律法を無効にする口実を、あなたに少しも与えていないのです。

【三】 実際の生活で律法を無効にすること

(一) 信仰のゆえに律法を無効にするやり方は、まだほかにもあります。それは、前の二つのどちらよりもありふれています。それは、実際の生活でそうすることです。原則の上ではなくても、事実の上で律法を無効にすることです。信仰が私たちを聖性から免除するためのものであるかのように生きることです。

使徒は、あのよく知られた言葉で、私たちがそうならないよう、何と熱心に守っていることでしょう。「それでは、どうなのでしょうか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきでしょうか。断じてそうではない」(ローマ六・一五)。これは、徹底的に考える必要のある警告です。この上なく重要だからです。

(二) 「律法の下に」(ローマ六・一五)あるとは、ここでは次のような意味にとることができます。一、儀式律法を守る義務を負っていること。二、モーセの制度全体に従う義務を負っていること。三、神に受け入れられる条件として、道徳律法全体を守る義務を負っていること。四、神の怒りとのろいのもとにあること。すなわち、永遠の死の宣告のもとにあり、罪責と罪に定められることとを感じて、恐怖と奴隷のような恐れに満ちていることです。

(三) さて、信者は「神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にある」のです(第一コリント九・二一)。それでも、信じたその瞬間から、いま述べたどの意味でも「律法の下に」(ローマ六・一五)はありません。それどころか、信者は「恵みの下に」(ローマ六・一五)あります。すなわち、もっと慈しみ深い、恵みの制度のもとにあるのです。信者は、もはや儀式律法のもとにも、モーセの制度のもとにもありません。受け入れられる条件として道徳律法を守る義務さえ負っていません。それと同じように、信者は、神の怒りとのろいから救い出されています。罪責と罪に定められることとを感じることからも、すっかり救い出されています。以前、信者は、死と地獄へのあの恐怖と恐れのために、一生涯、奴隷となっていました(ヘブル二・一五)。その恐怖と恐れのすべてからも、救い出されているのです。そして信者は今、喜んでする全面的な従順をささげます。これは、「律法の下に」(ローマ六・一五)あった間はできなかったことです。信者が従うのは、奴隷のような恐れが動機なのではありません。もっと高貴な原理によるのです。すなわち、神の恵みが心を治め、すべてのわざを愛のうちに行わせてくださるのです。

(四) それでは、どうでしょうか。この福音的な行動の原理は、律法的な原理よりも力が弱いのでしょうか。私たちは、奴隷のような恐れから神に従っていたほどには、子としての愛からは神に従わない、というのでしょうか。

これがありふれた事態でなければよいのですが。この実際上の律法廃棄論が、何千人もの信者に感染していなければよいのですが。これは、信仰のゆえに律法を無効にする、気づかれないやり方です。

それは、あなたに感染していないでしょうか。正直に、念入りに、自分を調べなさい。あなたは「律法の下に」(ローマ六・一五)、すなわち、私たちがふつう言う罪の自覚のもとにあったとき、あえてしなかったことがあるでしょう。それを、今はしているのではありませんか。たとえば、そのとき、あなたは食べ物でぜいたくをしようとはしませんでした。必要なだけを、しかも最も安いものを取りました。今は、自分にもっと勝手を許していないでしょうか。以前より少し多く、自分を甘やかしていないでしょうか。ああ、「律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって」、「罪を犯す」(ローマ六・一五)ことのないように気をつけなさい!

(五) 罪の自覚のもとにあったとき、あなたは、目の欲(第一ヨハネ二・一六)を少しも満たそうとはしませんでした。ただ好奇心を満たすためだけに、大小を問わず何かをすることはありませんでした。家具でも衣服でも、清潔さと必要だけを、せいぜいごく控えめな便利さだけを考えていました。どんな種類のものであれ、余分なものや飾り立てたものは、あなたにとって恐ろしいものであり、忌まわしいものでした。流行の優雅さも、同じでした。

今もそうでしょうか。これらのことで、あなたの良心は、今もあのときと同じように敏感でしょうか。今も家具と衣服とで同じ規則に従っているでしょうか。あらゆる飾り立てたもの、あらゆる余分なもの、無用なもの、ただ飾りのためだけのものを、足の下に踏みつけているでしょうか。どれほど流行しているものでもです。むしろ、いったん捨てたものを、また使うようになっていないでしょうか。あのときには、良心を傷つけずには使えなかったものをです。そして、「いや、私は今はそれほど気にしなくなった」と言うことを覚えたのではありませんか。あなたが今も気にしていればよいのにと、心から願います! そうすれば、「律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって」(ローマ六・一五)、このように罪を犯すことはないでしょう!

(六) あなたはかつて、人を面と向かってほめることも気にしていました。人にほめられるままにしておくことは、なおさら気にしていました。それは、あなたの心を刺す一突きでした。あなたはそれに耐えられませんでした。ただひとりの神からの誉れ(ヨハネ五・四四)だけを求めていたのです。あなたは、そのような会話に耐えられませんでした。人の徳を高めるのに役立たない(エペソ四・二九)会話には、どんなものにも耐えられませんでした。むだ話も、くだらないおしゃべりも、すべて忌みきらっていました。恐れるだけでなく、憎んでいました。時間の価値を、尊く過ぎ去っていく一瞬一瞬の価値を、深く感じていたからです。同じように、むだな出費を恐れ、忌みきらっていました。お金を、時間の次に大切にしていました。そして、不正の富(ルカ一六・一一)についてさえ、不忠実な管理人とされることのないよう、おののいていたのです。

今も、あなたは称賛を、死に至る毒と見ているでしょうか。魂を危険にさらさずには、与えることも受けることもできない毒とです。今も、徳を高めるのに役立たない(エペソ四・二九)会話をすべて恐れ、忌みきらっているでしょうか。一瞬一瞬を生かそうと努め、どの一瞬も、あなたを前よりよくしないまま過ぎ去ることのないようにしているでしょうか。お金と時間との使い方に、前ほど気をつけなくなっていないでしょうか。今は、かつてはできなかったような仕方で、そのどちらをも使えるようになっていないでしょうか。ああ、何と、「あなたの益となるべきであったものが、あなたのつまずきの機会となってしまった」ことでしょう。あなたは何と、「律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって」「罪を犯」した(ローマ六・一五)ことでしょう!

(七) あなたがこれ以上このように「神の恵みを放縦な生活に変え」(ユダ四)続けることなど、決してあってはなりません! ああ、これらすべてのことについて、かつてあなたがどれほど明らかで強い確信を持っていたかを、思い起こしなさい。そして同時に、その確信がだれから来たのかも、あなたはよく分かっていました。世の人々は、あなたが惑わしに陥っていると言いました。けれども、あなたは、それが神の声であることを知っていました。これらのことで、あのとき、あなたは気にしすぎていたのではありません。今、あなたは十分に気にしていないのです。神は、あなたをあのつらい学校に長くとどめられました。あなたがあの大切な教えを、いっそう完全に学ぶためです。それなのに、あなたはもう、それを忘れてしまったのですか。ああ、手遅れにならないうちに、それを思い出しなさい。あなたがあれほど多くの苦しみを受けたのは、むだだったのでしょうか。まだむだではないと、私は信じます。今こそ、苦しみなしにあの確信を用いなさい! むちなしにあの教えを実行しなさい。以前は、神の燃える憤りがあなたを動かしました。今、神のあわれみを、それより軽く受けとめることのないようにしなさい。愛は、恐れよりも力の弱い動機なのでしょうか。そうでないなら、これを変わることのない規則としなさい。「私は今『恵みの下に』(ローマ六・一五)あるのだから、『律法の下に』(ローマ六・一五)あったときにあえてしなかったことは、何もしない」。

(八) この項を結ぶにあたって、怠りの罪についても自分を調べるよう、あなたに勧めないわけにはいきません。「恵みの下に」(ローマ六・一五)ある今、あなたは「律法の下に」(ローマ六・一五)あったときと同じように、この罪を免れているでしょうか。あのとき、あなたは何と熱心に神の言葉を聞いたことでしょう。一つの機会でもおろそかにしたでしょうか。昼も夜も、それに通ったではありませんか。ちょっとした妨げで、あなたが来なくなることがあったでしょうか。少しの用事で、来客で、軽い体の不調で、柔らかい寝床で、暗い朝や寒い朝で、来なくなることがあったでしょうか。あのとき、あなたはたびたび断食したではありませんか。あるいは、できる限りの節制をしたではありませんか。地獄の口の上にぶら下がっていた間、心は冷たく重かったとはいえ、あなたは多くの時を祈りに費やしたではありませんか。知られない神(使徒一七・二三)のためにさえ、あなたはためらわずに語ったではありませんか。大胆にその方のために弁じ、罪人を責め、邪悪な時代(マルコ八・三八)の前で真理を公言したではありませんか。そして今、あなたはキリストを信じる者なのでしょうか。世に勝つ信仰(第一ヨハネ五・四)を持っているのでしょうか。何ということでしょう。それなのに、今あなたは、主人を知らなかったときよりも、主人のために熱心でなくなっているのですか。断食にも、祈りにも、主人の言葉を聞くことにも、罪人を神に招くことにも、前ほど励まなくなっているのですか。ああ、悔い改めなさい! 自分のいたましい損失を見て、感じなさい! どこから落ちたかを思い起こしなさい(黙示録二・五)! 自分の不忠実を嘆きなさい! 今こそ熱心になって(黙示録三・一九)、初めのわざを行いなさい(黙示録二・五)。もし「信仰のゆえに」「律法を無効にする」(ローマ三・三一)ことを続けるなら、神はあなたを断ち、不信者たちと同じ目にあわせられるでしょう!