説教三十四 律法の起源と性質と特質と用途
「このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものです」(ローマ七・一二)
(一) 宗教の全領域の中でも、これほど理解されていない主題は、おそらくほとんどないでしょう。この手紙の読者は、ふつう、聖パウロが律法と言うのはユダヤ人の律法のことだと教えられます。そこで、自分にはかかわりのないものだと思い、それ以上考えずに読み過ごしてしまいます。もっとも、この説明に満足しない人々もいます。彼らは、この手紙がローマ人にあてられていることに目をとめます。そして、そこから、使徒はこの章の初めで昔のローマの法をほのめかしているのだ、と推論します。けれども、彼らにとってこの法は、モーセの儀式律法と同じく、自分にかかわりのないものです。ですから、ほかのことを説明するためについでに触れられたにすぎないと思うものに、あまり心を用いません。
(二) けれども、使徒の論述を注意深く見る人は、このような軽い説明では満足しないでしょう。そして、言葉をよく考えれば考えるほど、確信するでしょう。聖パウロがこの章で言う律法は、昔のローマの法でも、モーセの儀式律法でもない、と。このことは、使徒の論述の流れに注意を払う人には、だれにでもはっきりと分かるでしょう。使徒はこの章をこう書き始めます。「兄弟たちよ。あなたがたは知らないのですか。わたしは律法を知っている人々」、すなわち若いときから律法を教えられてきた人々「に語るのですが、律法は人をその生きている期間だけ支配するものです」(ローマ七・一)。何と、ローマの法だけがそうなのでしょうか。あるいは儀式律法がでしょうか。決してそうではありません。道徳律法がそうなのです。分かりやすい例をあげれば、「すなわち、夫のある女は、夫が生きている間は」、道徳「律法によって彼につながれています。しかし、夫が死ねば、夫の律法から解放されます。であるから、夫の生存中に他の男に行けば、その女は淫婦と呼ばれますが、もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはなりません」(ローマ七・二〜三)。使徒は、この一つの例から進んで、あの一般的な結論を引き出します。「わたしの兄弟たちよ。このように」、明らかに同じ理屈によって、「あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのです」(ローマ七・四)。この律法とは、モーセの制度全体のことです。キリストのからだは、あなたがたのためにささげられ、あなたがたを新しい制度のもとに置きました。「それは、あなたがたが」何のとがめも受けずに「他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのもの」となるためです(ローマ七・四)。この方は、よみがえりによって、この変更をする権威を示されました。それはまた、「わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのです」(ローマ七・四)。以前はできなかったこのことが、今はできるのです。「というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた」のです(ローマ七・五)。「肉にあった」(ローマ七・五)とは、肉の力、すなわち腐敗した性質の力のもとにあったということです。キリストの復活の力(ピリピ三・一〇)を知るまでは、必ずそうでした。「律法による罪の欲情」(ローマ七・五)とは、モーセの律法によって示され、あおられはしても、征服はされなかった罪の欲情のことです。それが「わたしたちの肢体のうちに働いて」(ローマ七・五)、いろいろな形で噴き出していたのです。「しかし今は」、「わたしたちは律法から解放され」ています(ローマ七・六)。儀式の体制だけでなく道徳の体制をも含む、あの体制全体から解放されているのです。私たちをつないでいたものが死んだからです。すなわち、その制度全体は今はいわば死んでおり、死んだ夫が妻に対して持つ以上の権威を、私たちに対して持っていないのです。それは、私たちのために死んでよみがえられた方に、「新しい霊によって」、すなわち新しい霊的な制度において「仕え」るためです(ローマ七・六)。「古い文字によってではなく」、すなわちモーセの制度の文字に従った、ただ外的な奉仕によってではありません(ローマ七・六)。
(三) 使徒は、ここまで論証を進めてきました。キリスト教の制度がユダヤ教の制度を廃したことを、論証してきたのです。また、道徳律法そのものは、決して過ぎ去ることはありえないとはいえ、以前とは違う土台の上に立っていることも、論証しました。そして今、立ち止まって、一つの反論を持ち出し、それに答えます。「それでは、わたしたちは、なんと言いましょうか。律法は罪なのでしょうか」(ローマ七・七)。「律法による罪の欲情」(ローマ七・五)という言葉を誤解して、そう推論する人がいるかもしれないのです。使徒は、「断じてそうではない」(ローマ七・七)と言います。私たちがそう言うことなど、とんでもないことです。いや、律法は、罪と決して和解することのない敵です。「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。すなわち、もし律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしは」むさぼり、つまり悪い欲望が罪であることを「知らなかったでしょう」(ローマ七・七)。使徒は、続く四つの節でこれをさらに説き明かしたあと、次の一般的な結論を付け加えます。それは、先の例が取られた道徳律法について、とりわけ言われていることです。「このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものです」(ローマ七・一二)。
(四) この深い言葉は、ほとんど理解されていないために、ほとんど顧みられていません。そこで、この言葉を説き明かし、強く訴えるために、私は次のことを示すように努めます。第一に、この律法の起源。第二に、その性質。第三に、その特質。すなわち、それが聖であって、正しく、かつ善なるものであること(ローマ七・一二)。第四に、その用途。
【一】 律法の起源
(一) まず第一に、道徳律法の起源を示すように努めます。道徳律法は、とりわけすぐれたものとして、しばしばただ律法と呼ばれます。さて、この律法は、ある人々が想像したかもしれないように、モーセの時代になってようやく定められたものではありません。ノアは、そのときよりずっと前に、これを人々に告げ知らせました。ノアより前には、エノクが告げ知らせました。けれども、その起源は、さらにさかのぼり、世の基が置かれる前にまでたどることができます。それは、人には知られていないものの、疑いなく永遠の年代記にしるされているときです。そのとき、新たに存在へと呼び出された「明けの星」が、初めて「相共に歌」いました(ヨブ三八・七)。偉大な創造者は、これらの者を、すなわちご自分の長子たちを、知性を持つ者として造ることをよしとされました。彼らが、自分を造られた方を知るためです。この目的のために、神は彼らに悟りを授け、真理と偽り、善と悪とを見分けられるようにされました。また、その必然の結果として、自由を授けられました。すなわち、一方を選び、他方を退ける力です。これによって、彼らはまた、神に自由で喜んでする奉仕をささげることができるようになりました。それは、それ自体として報いに値する奉仕であり、また、恵み深い主人に何より喜ばれる奉仕でした。
(二) 神は、ご自分が与えたすべての能力を、とりわけ悟りと自由とを、彼らが用いるように、彼らに律法を与えられました。それは、有限な者に理解できる限りでの、あらゆる真理の完全な模範でした。また、御使の心が受け入れられる限りでの、あらゆる善の完全な模範でした。慈しみ深い統治者は、これによって、彼らの幸いが絶えず増していく道を開くこともお考えになりました。その律法に一つ従うたびに、彼らの性質の完全さが増し、またいっそう高い報いを受ける資格が与えられるからです。その報いは、正しい審判者が、時が来れば与えてくださるものでした。
(三) 同じように、神は、定められたときに、知性を持つ者の新しい種族を造られました。土のちりから人を起こし、いのちの息を吹きいれて、生きた者とされました(創世記二・七)。善と悪とを選ぶ力を授けられた者としてです。そのとき、神は、この自由で知性を持つ被造物に、長子たちに与えたのと同じ律法を与えられました。もっとも、それは石の板や、朽ちる何かの物質に書かれたのではありません。神の指によって人の心に刻まれたのです。それは、人と御使との霊のいちばん奥に書かれました。律法が決して遠いものでも、わかりにくいものでもない(申命記三〇・一一)ためです。いつも手近にあって、中天の太陽のように、いつも澄んだ光で輝いているためです。
(四) 神の律法の起源は、このようなものでした。人について言えば、律法は人の性質と同じときに始まりました。けれども、神の年長の子らについて言えば、律法はもっと前から、その輝きを余すところなく放っていました。「山がまだ生れず」、地と世界とがまだ「造られなかったとき」(詩篇九〇・二)に、すでに輝いていたのです。けれども、まもなく人は神にそむき、この栄光ある律法を破って、自分の心からそれをほとんど消し去ってしまいました。人の魂が「神のいのちから遠く離れ」た(エペソ四・一八)のと同じだけ、その悟りの目も暗くなったのです。それでも、神は、ご自分のみ手のわざを捨てられませんでした(詩篇一三八・八)。愛する御子(コロサイ一・一三)を通して人と和解し、暗く罪深い被造物の心に、ある程度、律法をふたたび書きしるされたのです。「人よ、彼は」ふたたび「よい事のなんであるかをあなたに告げられ」ました。初めのようにではありませんが、「ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むこと」を告げられたのです(ミカ六・八)。
(五) 神は、これを私たちの最初の先祖にだけでなく、その子孫のすべてにも示されました。世に来る「すべての人を照すまことの光」(ヨハネ一・九)によってです。けれども、この光があったにもかかわらず、時がたつうちに、すべての人が神の前に「その道を乱し」ました(創世記六・一二)。そこで、ついに神は人々の中から一つの特別な民を選び、ご自分の律法についてのいっそう完全な知識をお与えになりました。そして、この民は悟りが鈍かったので、律法の要点を二枚の石の板に書かれました。また、父たちに、後に続くすべての世代にわたって、それを子供たちに教えるよう命じられました。
(六) こうして今、神を知らない人々にも、神の律法が知らされているのです。彼らは、私たちの教えのために、これまでに書かれた事がら(ローマ一五・四)を、耳で聞いています。けれども、これでは十分ではありません。彼らは、これによって律法の高さ、深さ、長さ、広さ(エペソ三・一八)を理解することはできないのです。神だけが、御霊によってこれを啓示することができます(第一コリント二・一〇)。そして、神は、本当に信じるすべての人に、そうしてくださいます。神のイスラエル(ガラテヤ六・一六)のすべてに与えられた、あの恵み深い約束によるのです。「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家に新しい契約を立てる日が来ます。わたしが立てる契約はこれです。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるします。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となります」(エレミヤ三一・三一〜三三)。
【二】 律法の性質
(一) 私が示そうとした第二のことは、律法の性質です。それは、初めに天の御使たちと楽園の人とに与えられた律法です。また神が、本当に信じるすべての人の心に新しく書きしるすと、あわれみ深く約束された律法です。そのために、まず指摘しておきたいことがあります。「律法」と「戒め」(ローマ七・一二)とは、違う意味にとられることもあります。そのとき、戒めは律法の一部分だけを指します。けれども、この聖句では、二つは同じ意味の言葉として用いられ、一つの同じものを指しています。けれども、ここでは、そのどちらによっても、儀式律法を指していると理解することはできません。使徒が先に引いた言葉で、「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかった」(ローマ七・七)と言っているのは、儀式律法のことではありません。これは、証明するまでもなく明らかです。そのすぐあとに続く言葉で「むさぼるな」(ローマ七・七)と言っているのも、儀式律法ではありません。ですから、儀式律法は、いまの問題には何の関係もありません。
(二) また、この聖句に出てくる律法を、モーセの制度と理解することもできません。確かに、この言葉がそのように理解されることもあります。たとえば、使徒はガラテヤ人に語って、こう言います。「あらかじめ立てられた契約」(ガラテヤ三・一七)、すなわち信仰の父アブラハムとの契約は、「四百三十年の後にできた律法によって破棄され」ることはない(ガラテヤ三・一七)、と。この「律法」(ガラテヤ三・一七)とは、モーセの制度のことです。けれども、この聖句では、そのように理解することはできません。使徒は、あの不完全で影のような制度に、これほど高い賛辞を与えることは決してないからです。使徒は、モーセの制度が霊的な律法である(ローマ七・一四)とも、それが聖であって、正しく、かつ善なるもの(ローマ七・一二)であるとも、どこにも言っていません。また、神が、もはやその罪を思い出されない人々(ヘブル八・一二)の心に、その律法を書きしるされる、というのも本当ではありません。こうして、とりわけ律法と呼ばれるものは、道徳律法にほかならないことになります。
(三) さて、この律法は、とこしえに住む、いと高く聖なる方(イザヤ五七・一五)の、朽ちることのない肖像です。それは、その本質においてはだれも見た者がなく、見ることもできない方(第一テモテ六・一六)が、人と御使とに見えるようにされたものです。それは、おおいを取られた神の御顔です。被造物が耐えられる程度に、被造物に現された神です。いのちを滅ぼすためではなく、いのちを与えるために現された神です。被造物が神を見て、なお生きるためです。それは、人に明かされた神の御心です。そうです、ある意味では、使徒が神の御子について言っていることを、この律法に当てはめてもよいでしょう。この律法は、アパウガスマ・テース・ドクセース、カイ・カラクテール・テース・ヒュポスタセオース・アウトゥー(ἀπαύγασμα τῆς δόξης, καὶ χαρακτὴρ τῆς ὑποστάσεως αὐτοῦ)です(ヘブル一・三)。すなわち、神の栄光から流れ出るもの、輝き出るものであり、「神の本質の真の姿」です(ヘブル一・三)。
(四) 昔の異教徒はこう言いました。「もし徳が、私たちの目で見ることのできるような姿をとることができたなら、私たちのうちに、何とすばらしい愛をかき立てることだろう!」もし徳にそれができたなら、と言うのですか。それは、もうなされています。神の律法は、あらゆる徳を一つにしたものです。それは、神が目を明らかにしてくださったすべての人が、顔おおいなしに(第二コリント三・一八)見ることのできる姿をとっています。律法とは、目に見える形をとった神の徳と知恵でなくて、何でしょうか。それは、真理と善との原型でなくて、何でしょうか。その原型は、永遠の昔から、造られたのではない神の心のうちに宿っていました。それが今、引き出され、人の悟りにさえ見えるような衣をまとったのです。
(五) 神の律法を別の視点から眺めるなら、それは至高の、変わることのない理性です。変えることのできない正しさです。存在するもの、またかつて造られたすべてのものの、永遠の適合性です。私たちは、こうしたかすかな絵で、神の深み(第一コリント二・一〇)を描き出そうと努めます。そのとき、これらの言葉にも、人間のほかのどんな言葉にも、どれほど足りないところがあるかを、私はわきまえています。不適切なところさえあるのです。それでも、私たちがこの幼な子のような状態にある間は、これよりよい道はありません。いや、ほかに道はないのです。私たちは今、「一部分」しか「知る」ことができません(第一コリント一三・九)。それと同じように、神のことを「一部分」だけ「預言する」、すなわち語るほかはないのです(第一コリント一三・九)。この泥の家(ヨブ四・一九)にいる間は、「われわれは暗くて、言葉をつらねることはできません」(ヨブ三七・一九)。私は「幼な子」である間は、「幼な子らしく語」らなければなりません(第一コリント一三・一一)。けれども、まもなく「幼な子らしいことを捨て」るでしょう(第一コリント一三・一一)。「全きものが来る時には、部分的なものはすたれる」(第一コリント一三・一〇)からです。
(六) 話をもとに戻しましょう。人間的な言い方をするなら(ローマ六・一九)、神の律法は、永遠の知性の写しであり、神の本性の写本です。そうです、それは、永遠の父の最も美しい子であり、父の本質である知恵の最も輝かしい流出であり、いと高き方の目に見える美しさです。それは、ケルビムとセラピムと天の全会衆との喜びであり、驚きです。また、地上のすべての賢い信者、よく教えられたすべての神の子の、栄光であり喜びです。
【三】 律法の特質
(一) とこしえにほむべき神の律法の性質は、このようなものです。第三に、その特質を示さなければなりません。すべての特質ではありません。それは御使の知恵をも超えることでしょう。この聖句に挙げられている特質だけです。それは三つあります。律法は聖であって、正しく、かつ善なるものです(ローマ七・一二)。まず第一に、律法は聖です。
(二) この言い方で、使徒は、律法の効果についてではなく、むしろその性質について語っているように思われます。聖ヤコブも、同じものを別の名で呼んで、「上からの知恵は、第一に清く」と言っています(ヤコブ三・一七)。この上からの知恵とは、私たちの心に書かれたこの律法にほかなりません。「清く」(ヤコブ三・一七)と訳された語は、原語ではハグネー(ἁγνή)です。純潔で、しみがなく、永遠に、また本質的に聖である、ということです。ですから、それが魂だけでなく生活にも写しとられるとき、それは、同じ使徒の言葉で言えば、トレースケイア・カタラ・カイ・アミアントス(θρησκεία καθαρὰ καὶ ἀμίαντος)です(ヤコブ一・二七)。すなわち、「清く汚れのない信心」(ヤコブ一・二七)であり、清く、きよらかで、汚れのない神礼拝です。
(三) まことに、律法はこの上なく清く、純潔で、きよらかで、聖です。そうでなければ、律法は、本質的に聖である神から直接に生まれたものではありえず、まして神の生き写しではありえません。律法は、あらゆる罪から清く、どんな悪にも触れず、汚れもしみもありません。律法は清らかなおとめであり、どんな汚れも受けず、汚れたもの、聖くないものと混じり合うこともありえません。律法は、どんな種類の罪とも交わりを持ちません。「光とやみとなんの交わりがあるでしょうか」(第二コリント六・一四)。罪がその本性からして神に敵するものであるように、神の律法は罪に敵するものです。
(四) ですから、使徒は、ある冒涜的な想定を、これほどの嫌悪をもって退けるのです。神の律法が罪そのものである、あるいは罪の原因である、という想定です。律法が罪を見つけ出すからといって、律法を罪の原因だと考えることなど、決してあってはなりません。律法が、やみに隠れたことを見破り、白日のもとに引き出すからといって、そう考えてはならないのです。確かに、使徒が指摘しているように、これによって「罪の罪たることが現れ」ます(ローマ七・一三)。罪の変装はすべてはぎ取られ、罪は生まれつきの醜さのままで現れます。また、確かに、「罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとな」ります(ローマ七・一三)。罪は、今や光と知識とに逆らって犯されるのであり、知らなかったというみじめな言い訳さえはぎ取られています。こうして、罪は、変装だけでなく弁解をも失い、神にも人にもはるかに憎むべきものとなるのです。そうです、罪が「善なるものによって」人を「死に至らせ」る(ローマ七・一三)ことも、確かです。その善なるものは、それ自体としては清く、聖なるものです。罪は、明るみに引き出されると、いっそう荒れ狂います。抑えられると、いっそう激しく噴き出します。こうして使徒は、罪を自覚しながら、まだそこから解放されていない人の立場で語ります。「罪は戒めによって機会を捕え」たのです(ローマ七・八)。その戒めは、罪を見破り、抑えようとするものでした。罪はその抑えをあなどって、なおさら「わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させ」ました(ローマ七・八)。すなわち、あらゆる愚かで有害な欲を起こさせたのです。それは、あの戒めが抑えようとした欲でした。こうして、「戒めが来るに及んで、罪は生き返」りました(ローマ七・九)。罪はいっそういら立ち、荒れ狂ったのです。けれども、これは戒めの汚点ではありません。戒めは、悪用されても、汚されることはありえません。これは、ただ人の「心は」「はなはだしく悪に染まっている」(エレミヤ一七・九)ことを証明するだけです。けれども、神の「律法」は、なお「聖なるもの」です(ローマ七・一二)。
(五) 第二に、律法は正しいものです。律法は、すべての者にその受けるべきものを与えます。律法は、何が正しいかを正確に定めます。何をし、何を言い、何を思うべきかを、きっちりと定めるのです。私たちの存在の造り主に対しても、私たち自身に対しても、また神が造られたすべての被造物に対しても、そうです。律法は、あらゆる点で、ものごとの本性に、すなわち宇宙全体と一つ一つの個物との本性にかなっています。律法は、それぞれのあらゆる事情に、また互いのあらゆる関係に、ふさわしいものです。その関係が、初めから存在してきたものであっても、その後のいつかに始まったものであっても、そうです。律法は、ものごとの適合性に、本質的なものであれ偶然的なものであれ、正確にかなっています。律法は、そのどれとも少しも衝突しません。また、そのどれとも無関係であることはありません。恣意的という言葉を、ものごとと無関係という意味にとるなら、神の律法には、恣意的なものは何もありません。とはいえ、律法の全体もその一部分も、すべてまったく神の御旨にかかっています。ですから、「みこころが」「行われますように」(マタイ六・一〇)ということが、地においても天においても、至高の、普遍の律法なのです。
(六) 「しかし、神の御旨が神の律法の原因なのか。神の御旨が正と不正との起源なのか。神がそれを望まれるから、ものごとは正しいのか。それとも、それが正しいから、神はそれを望まれるのか」。
この有名な問いは、役に立つというより、好奇心をそそるだけのものではないかと思います。そして、ふつう論じられているような仕方では、おそらく、ふさわしい敬意とあまりよく調和しないでしょう。被造物が、万物の創造者であり統治者である方に払うべき敬意とです。人が至高の神を呼び出して、自分に申し開きをさせるのは、礼儀にかなったこととはとても言えません。それでも、畏れとうやうやしさをもってなら、少しは語ってもよいでしょう。もし私たちの語ることが間違っていたら、主が赦してくださいますように!
(七) それでは、難しさはすべて、神の御旨を神から区別して考えることから生じているように思われます。そうでなければ、難しさは消えてしまうのです。神が神の律法の原因であることを、だれも疑うことはできないからです。けれども、神の御旨とは、神ご自身なのです。それは、このように、あるいはあのように望んでおられる者として考えられた神です。したがって、神の御旨が律法の原因であると言うことと、神ご自身が律法の原因であると言うこととは、一つの同じことです。
(八) また、律法は、正と不正との変わることのない規準です。その律法が、ものごとの本性と適合性とに、また互いの本質的な関係に、かかっているとします(永遠の関係とは言いません。時間の中に存在するものの永遠の関係というのは、ほとんど矛盾だからです)。繰り返しますが、律法がものごとの本性と関係とにかかっているなら、律法は神に、あるいは神の御旨に、かかっているのでなければなりません。ものごとそれ自体が、そのあらゆる関係とともに、神のみ手のわざだからです。万物はみな、神の御旨によって、すなわちただ神のみこころのままに、「存在し、また造られた」のです(黙示録四・一一)。
(九) それでも、次のことは認めてよいでしょう。おそらく、思慮深い人が主張したいのは、これだけでしょう。すなわち、一つ一つの場合において、神がこのこと、あるいはあのことを望まれるのは、それが正しいからだ、ということです。たとえば、人が父母を敬うことがそうです。それが、ものごとの適合性に、すなわち、人が置かれている関係にかなっているからです。
(一〇) こうして、律法は、すべてのことについて正しく、公正です。そして、律法は、正しいだけでなく、善なるものでもあります。このことは、律法が流れ出た泉から、たやすく推し量ることができます。その泉とは、神の善でなくて、何だったでしょうか。善のほかに何が、神を動かして、ご自分の写しであるあの神聖なものを、聖なる御使たちに分け与えさせたでしょうか。神がご自分の本性の同じ写しを人に授けられたことを、ほかの何に帰することができるでしょうか。また、優しい愛のほかに何が、神に迫って、堕落した人にふたたび御旨を現させたでしょうか。アダムにも、アダムと同じように「神の栄光を受けられなくなって」いた(ローマ三・二三)その子孫のだれにも、です。人の悟りが暗くなったあとで、神を動かしてご自分の律法を公にさせたのは、ただ愛ではなかったでしょうか。預言者たちをつかわして、目の見えない、思慮のない人の子らにその律法を告げさせたのも、ただ愛ではなかったでしょうか。疑いなく、神の善が、エノクとノアを起こして義の宣伝者(第二ペテロ二・五)としたのです。神の善が、神の友アブラハムと、イサクと、ヤコブとに、神の真理をあかしさせたのです。「暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおお」っていた(イザヤ六〇・二)とき、モーセに、またモーセを通して神の選ばれた民に、書かれた律法を与えたのは、ただ神の善でした。ダビデと、それに続くすべての預言者とによって、この生ける御言葉(使徒七・三八)を説き明かしたのは、愛でした。そしてついに、時が満ちるに及んで(ガラテヤ四・四)、神はひとり子をつかわされました。律法を「廃するためではなく、成就するため」(マタイ五・一七)、その一点一画(マタイ五・一八)までも確かなものとするためです。この愛は、やがて御子が律法をすべての神の子らの心に書きしるし、あらゆる敵をその足もとに置く(第一コリント一五・二五)ときまで続きます。そのとき、御子は仲保者としての「国を父」に「渡される」のです(第一コリント一五・二四)。それは、「神がすべての者にあって、すべてとなられるため」です(第一コリント一五・二八)。
(一一) この律法は、神の善が初めに与え、あらゆる時代を通して保ってきたものです。それは、そのわき出る泉と同じように、善と慈しみとに満ちています。律法は穏やかで、親切です。詩篇の作者が言うように、「蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い」のです(詩篇一九・一〇)。律法は人をひきつけ、愛すべきものです。律法は、「すべて愛すべきこと、すべてほまれあること」を含んでいます(ピリピ四・八)。神とその聖なる御使たちの前に「徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば」(ピリピ四・八)、それらはみな律法に含まれています。律法のうちには、神の知恵と知識と愛との宝が、いっさい隠されているのです(コロサイ二・三)。
(一二) そして、律法は、その性質においてだけでなく、その効果においても善なるものです。木がそうであるように、その実もそうです。心に書かれた神の律法の実は、義と、平和と、とこしえの信頼です(イザヤ三二・一七)。いや、むしろ律法そのものが義です。律法は、人知ではとうてい測り知ることのできない平安(ピリピ四・七)で魂を満たします。そして、神に対する正しい良心のあかしのうちに、私たちをいつも喜ばせます(第一テサロニケ五・一六)。それは、担保と言うより、むしろ「わたしたちが神の国をつぐことの保証」(エペソ一・一四)、すなわち手付けです。あがなわれた所有物の一部だからです。それは、私たちの肉において現された神であり、永遠のいのちを携えて来られる神です。神は、あの清く完全な愛によって、私たちが「あがないの日のために」「証印を受けた」(エペソ四・三〇)ことを確信させてくださいます。また、神は、「人が自分に仕える子をあわれむように」私たちを「あわれ」んでくださる(マラキ三・一七)ことを確信させてくださいます。それは、神がご自分の宝を集められるその日のことです。そして、私たちには「しぼむことのない栄光の冠」(第一ペテロ五・四)が残されていることを、確信させてくださるのです。
【四】 律法の用途
(一) 残っているのは、第四に、そして最後に、律法の用途を示すことだけです。律法の第一の用途は、疑いもなく、罪について世の人の目を開くこと(ヨハネ一六・八)です。これは、確かに聖霊に特有のわざです。聖霊は、何の手段もなしにこれをなさることもできます。あるいは、ご自分のよしとされるどんな手段によってでも、なさることができます。その手段が、それ自体としては、そのような効果を生むのに不十分であっても、不適当でさえあっても、そうです。ですから、病気のときであれ健康なときであれ、目に見える原因も外的な手段も何もないのに、一瞬のうちに心を打ち砕かれた人々もいます。また、ほかの人々(一つの時代にひとりほどですが)は、「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ」た(第二コリント五・一九)と聞いて目ざめました。そして、「神の怒り」が自分の「上にとどまる」(ヨハネ三・三六)ことを感じるようになったのです。けれども、神の御霊がふつう用いられる方法は、律法によって罪人に罪を悟らせることです。良心に深く突きつけられて、たいてい岩を打ち砕く(エレミヤ二三・二九)のは、この律法です。神の言のうちでも、とりわけこの部分こそが、ゾーン・カイ・エネルゲース(ζῶν καὶ ἐνεργής)です(ヘブル四・一二)。すなわち、生きていて、力があり、いのちと力に満ち、「もろ刃のつるぎよりも鋭」いのです(ヘブル四・一二)。この律法は、神の御手に、また神のつかわされた人々の手に用いられて、欺く心のあらゆるひだを刺し通します。そして、「精神と霊魂と」をさえ「切り離す」のです(ヘブル四・一二)。そうです、いわば「関節と骨髄と」をさえ切り離すのです(ヘブル四・一二)。これによって、罪人は自分の姿を見せられます。彼のいちじくの葉(創世記三・七)はすべてはぎ取られます。そして、自分が「みじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者」(黙示録三・一七)であることを見るのです。律法は、四方から罪の自覚の光を放ちます。彼は、自分がまったくの罪人であると感じます。彼には、支払うものが何もありません。その「口がふさがれ」(ローマ三・一九)、彼は神の前に罪ある者として立つのです。
(二) こうして、罪人を殺すことが、律法の第一の用途です。罪人が頼みとしているいのちと力とを打ち壊し、彼が生きながら死んでいることを悟らせることです。彼は、死の宣告のもとにあるだけでなく、実際に神に対して死んでいて、霊的ないのちをまったく欠いています。「罪過と罪とによって死んで」いるのです(エペソ二・一)。律法の第二の用途は、罪人をいのちへと、キリストへと導いて、生きるようにすることです。確かに、この二つの務めを果たすとき、律法はきびしい養育掛(ガラテヤ三・二四)の役を演じます。律法は、愛によって私たちを引き寄せるというより、力によって私たちを追い立てます。それでも、すべての源は愛なのです。愛の霊が、この痛ましい手段によって、肉を頼みとする(ピリピ三・三)私たちの心をはぎ取ります。頼みとする折れかけた葦(イザヤ三六・六)さえ、私たちに残しません。こうして愛の霊は、すべてをはぎ取られた罪人に迫って、魂の苦しみのうちに叫ばせ、あるいは心の奥底でうめかせるのです。
私はほかのあらゆる申し立てを捨てます。主よ、私は罪に定められています。けれども、あなたは死んでくださいました。
(三) 律法の第三の用途は、私たちを生かし続けることです。律法は、ほむべき御霊が、神のいのちをさらに豊かに分け与えるために、信者を備えさせる大いなる手段です。
この大切で重要な真理は、ほとんど理解されていないのではないかと思います。世の人々にだけでなく、神が世から取り出された多くの人々にさえ、そうなのです。彼らは、信仰による本当の神の子たちなのですが。その多くの人々は、疑う余地のない真理として、こう決めてかかっています。私たちはキリストのもとに来たとき、律法とは縁が切れたのだ、そしてこの意味で、「キリストは、すべて信じる者に」「律法の終り」なのだ(ローマ一〇・四)、と。「律法の終り」(ローマ一〇・四)。確かにキリストはそうです。「すべて信じる者に義を得させるために」、すなわち義認のために、「律法の終りとなられた」のです(ローマ一〇・四)。この点で、律法は終わっています。律法はだれをも義としません。ただ人々をキリストのもとに連れて行くだけです。そして、キリストはまた、別の点でも律法の終わり、すなわち目標です。律法が絶えず目ざしている的なのです。けれども、律法は私たちをキリストのもとに連れて行ったあとにも、なお務めを持っています。私たちをキリストのもとにとどめておくことです。律法は、すべての信者を絶えずかき立てて、互いにいよいよ励まし合うようにさせるからです。信者たちが、律法の高さと深さと長さと広さとを見れば見るほど、そうなのです。
いよいよ近く、すがりつきましょう主の愛の抱擁に。主の満ちあふれるものを受けることを、恵みに応える恵みを、待ち望みましょう。
(四) それでは、こう認めましょう。律法がユダヤ教の儀式律法を、あるいはモーセの制度全体を意味するなら、すべての信者は律法と縁が切れています。キリストがそれらを取り除かれた(コロサイ二・一四)からです。そうです、義認を得る手段としては、私たちは道徳律法とも縁が切れている、と認めましょう。私たちは、「価なしに、神の恵みにより」、イエス「によるあがないによって義とされる」からです(ローマ三・二四)。けれども、別の意味では、私たちはこの律法と縁が切れていません。律法は、今もなお言い尽くせないほど役に立つからです。第一に、律法は、私たちの心と生活とになお残っている罪を悟らせ、それによって私たちをキリストのそばにとどめるのに役立ちます。キリストの血が、絶えず私たちをきよめる(第一ヨハネ一・七)ためです。第二に、私たちのかしらであるキリストから、その生きた肢体に力を引き出すのに役立ちます。その力によって、キリストは肢体に、ご自分の律法が命じることを行えるようにされるのです。第三に、律法が命じていながら私たちがまだ達していないことについて、私たちの望みを確かにするのに役立ちます。すなわち、キリストの約束の満ちあふれるものを実際に手にするまで、恵みに恵みを(ヨハネ一・一六)受けるという望みです。
(五) このことは、本当の信者すべての経験と、何とはっきり一致していることでしょう。信者は、「いかにわたしはあなたのおきてを愛することでしょう。わたしはひねもすこれを深く思います」(詩篇一一九・九七)と叫びます。そう叫びながら、あの神の鏡のうちに、自分の罪深さを日ごとにますます見ていくのです。彼は、いよいよはっきりと見ます。自分は、すべての点でなお罪人であることを見ます。自分の心も道も神の前に正しくないことを見ます。そして、その一瞬一瞬が自分をキリストのもとへ送ることを見るのです。これによって、彼は次のように書かれていることの意味を知ります。「あなたはまた純金の板を造り」、「その上に『主に聖なる者』と刻みなさい。これはアロンの額にあり」(アロンは、私たちの偉大な大祭司の型です)、「そしてアロンはイスラエルの人々がささげる聖なる物、すなわち彼らのもろもろの聖なる供え物についての罪の責めを負うでしょう」。私たちの祈りや聖なる物は、私たちに残っている罪をあがなうどころではないのです! 「これは主の前にそれらの受けいれられるため、常にアロンの額になければなりません」(出エジプト二八・三六、三八)。
(六) ただ一つの例でこれを説明しましょう。律法は、「あなたは殺してはならない」(出エジプト二〇・一三)と言います。そして、主が教えておられるように(マタイ五・二一〜二二)、律法はこれによって、外的な行いだけでなく、あらゆる不親切な言葉や思いをも禁じています。さて、私は、この完全な律法をのぞき込めばのぞき込むほど、自分がどれほどそれに及ばないかを感じます。そして、それを感じれば感じるほど、キリストの血と御霊とを必要としていることを感じます。私のすべての罪をあがなう血と、私の心をきよめ、私を「完全な、でき上がった」、「なんら欠点のない」者(ヤコブ一・四)としてくださる御霊とをです。
(七) ですから、私は、キリストなしにやっていけないのと同じく、律法なしにも一瞬たりともやっていけません。かつて私は、キリストのもとに連れて行かれるために律法を必要としました。今も、それと同じだけ、キリストのもとにとどまるために律法を必要としているからです。そうでなければ、この「不信仰な悪い心」は、たちまち「生ける神から離れ去る」でしょう(ヘブル三・一二)。実際、それぞれが私を絶えずもう一方へ送ります。律法はキリストへ、キリストは律法へと送るのです。一方では、律法の高さと深さが私に迫って、キリストにある神の愛へと逃れさせます。他方では、キリストにある神の愛が、律法を私にとって「金よりも」、宝石よりも慕わしいものにします(詩篇一一九・一二七)。律法のどの部分も、私の主が時に応じて成就してくださる恵みの約束だと知っているからです。
(八) それなら、「ああ人よ」(ローマ九・二〇)、「律法をさばき」、「律法をそし」る(ヤコブ四・一一)あなたは、いったい何者なのでしょうか。律法を罪やサタンや死と同列に置き、それらをみな一緒に地獄へ送ってしまうあなたは、いったい何者なのでしょうか。使徒ヤコブは、律法をさばくこと、すなわち「律法をそし」ること(ヤコブ四・一一)を、きわめて大きな悪だと考えました。ですから、兄弟をさばく罪がこれを含むことを示すよりほかに、その罪の重さを強調する方法を知らなかったのです。ヤコブは言います。それなら、あなたは「律法の実行者ではなくて、その審判者なのです」(ヤコブ四・一一)。神があなたをさばくために定められたものの、審判者なのです! こうしてあなたは、キリストのさばきの座(第二コリント五・一〇)に自分をすえ、キリストが世をさばかれる規準を投げ捨ててしまったのです。ああ、サタンがあなたに対してどれほど優位に立ったかを悟りなさい。そして、これから後は、神の恵みのこの祝福された器を、決して軽んじて考えたり語ったりしてはなりません。まして、かかしに仕立て上げてはなりません。そうです、律法を愛し、重んじなさい。律法がそこから出てきた方のために、また律法が導いていく方のためにです。キリストの十字架に次いで、律法をあなたの誇りとし、喜びとしなさい。律法をほめたたえ、すべての人の前でそれを尊いものとしなさい。
(九) そして、あなたが、律法は神から生まれたものであり、まねのできない神のすべての完全さの写しであると、深く確信しているとします。また、律法は「聖であって、正しく、かつ善なるもの」であり(ローマ七・一二)、とりわけ信じる者にとってそうであると、深く確信しているとします。それなら、律法を汚れたもののように投げ捨てるのではなく、いよいよそれにすがるようにしなさい。あわれみとまことの律法、神と人とを愛する律法、謙遜と柔和と清さの律法が、決してあなたから離れることのないようにしなさい。「それをあなたの首に結び、心の碑にしるしなさい」(箴言三・三)。キリストのそばにいたいなら、律法のそばにいなさい。それをかたくとらえて、離してはなりません(箴言四・一三)。律法が、あなたを絶えずあがないの血へ導き、あなたの望みを絶えず確かにするようにしなさい。「律法の要求が」あなたのうちに残らず「満たされ」(ローマ八・四)、あなたが「神に満ちているもののすべてをもって」「満たされる」(エペソ三・一九)ときまでです。
(一〇) そして、あなたの主は、すでにその言葉を成就してくださったかもしれません。すでにご自分の「律法を」あなたの「心にしる」してくださった(エレミヤ三一・三三)かもしれません。そうなら、キリストがあなたを自由にしてくださった、その自由のうちに「堅く立って」いなさい(ガラテヤ五・一)。あなたは、ユダヤ教の儀式から、罪責から、地獄への恐れから自由にされただけではありません。これらは、クリスチャンの自由の全体どころか、そのいちばん小さく、いちばん低い部分です。それよりはるかに大きなこととして、罪の力から、悪魔に仕えることから、神を怒らせることから、自由にされたのです。ああ、この自由のうちに堅く立ちなさい。これに比べれば、ほかのすべては、名を挙げる値打ちさえありません! 心をつくして神を愛し、力をつくして神に仕えることのうちに、堅く立ちなさい。これこそ完全な自由です。このように神の律法を守り、神のすべての戒めを落ち度なく行う(ルカ一・六)ことです。「二度と奴隷のくびきにつながれてはなりません」(ガラテヤ五・一)。私が言うのは、ユダヤ教の奴隷の状態のことではありません。地獄への恐れの奴隷となることでもありません。それらは、あなたから遠く離れていると信じます。けれども、罪のくびきに、すなわち律法に対する内外のどんな違反にも、ふたたびつながれないよう気をつけなさい。死や地獄よりもはるかに、罪を忌みきらいなさい。罪の罰よりもはるかに、罪そのものを忌みきらいなさい。高慢の、欲望の、怒りの奴隷とならないよう、またあらゆる悪い気質と言葉とわざの奴隷とならないよう、気をつけなさい。「イエスを仰ぎ見」なさい(ヘブル一二・二)。そのために、完全な律法を、「自由の律法」(ヤコブ一・二五)を、ますますのぞき込み、それに「たゆま」ずにいなさい(ヤコブ一・二五)。そうすれば、あなたは日ごとに、「わたしたちの主」「イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かに」なるでしょう(第二ペテロ三・一八)。