説教三十三 山上の説教(十三)
「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのです。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うでしょう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言います、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはありません。岩を土台としているからです。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいます。そしてその倒れ方はひどいのです」(マタイ七・二一〜二七)
(一) 神である私たちの教師は、救いの道について神のみ旨をあますところなく告げ知らせ(使徒二〇・二七)、その道を歩もうと願う人々の主な妨げをも指摘されました。そして今、この重みのある言葉で全体を結ばれます。それによって、いわばご自分の預言に封印をし、語ってきたことにご自分の全権威を刻みつけられるのです。それが代々にわたって堅く立つためです。
(二) 主はこう言われます。これ以外に道があるなどと、だれも決して思わないためです。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのです。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うでしょう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言います、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイ七・二一〜二三)。ですから、「わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいます。そしてその倒れ方はひどいのです」(マタイ七・二六〜二七)。
(三) この説教で、私は次のことをするつもりです。第一に、このように砂の上に自分の家を建てる人のありさまを考えます。第二に、岩の上に建てる人の知恵を示します。第三に、実践への適用をもって結びます。
【一】 砂の上に家を建てる人のありさま
(一) まず第一に、砂の上に自分の家を建てる人のありさまを考えなければなりません。主が次のように言われるのは、この人のことです。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではありません」(マタイ七・二一)。そして、これは過ぎ去ることのない定めです。世々限りなく堅く立つ定めです。ですから、この言葉の力を徹底して理解することは、私たちにとってこの上なく重要です。では、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う」(マタイ七・二一)という言い方を、どう理解すべきでしょうか。それは疑いなく、わたしが今述べてきた道以外の道によって天国に行こうと考える者、という意味です。ですから、それは(最も低いところから始めるなら)あらゆる良い言葉、あらゆる口先だけの宗教を含みます。私たちが唱える信条も、私たちがする信仰告白も、それが何であれ含みます。私たちが繰り返す祈りの数や、神に読み上げ、あるいは口で述べる感謝も、それがどれほどであれ含むのです。私たちは、神の御名をほめたたえ、人の子らに神のいつくしみをあらわすこともできます。神のすべての力あるわざを語り、日ごとにその救を宣べ伝える(詩篇九六・二)こともできます。霊によって霊のことを解釈し(第一コリント二・一三)、神の言(ローマ三・二)の意味を示すこともできます。世の初めから隠されていた(マタイ一三・三五)、神の国の奥義を説き明かすこともできます。神の深み(第一コリント二・一〇)について、人の言葉というより、むしろ御使たちの言葉(第一コリント一三・一)で語ることもできます。罪人たちに、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ一・二九)と宣べ伝えることもできます。そうです、私たちは、これほどの神の力と、これほどの御霊の証明(第一コリント二・四)とをもって、これをすることもできます。多くの魂を死から救い出し、多くの罪をおおう(ヤコブ五・二〇)ほどにです。それでも、これらすべてが、「主よ、主よ」(マタイ七・二一)と言うことにすぎない、ということは十分にありうるのです。このように、ほかの人に宣べ伝えて成果をあげておきながら、なお私自身は失格者になるかもしれません(第一コリント九・二七)。私は、神の御手に用いられて多くの魂を地獄から奪い取りながら、それを終えたとき、自分がそこへ落ちるかもしれません。ほかの多くの人を天国に導きながら、私自身は決してそこにはいれないかもしれません。読者よ、もし神が私の言葉を通してあなたの魂を祝福されたことがあるなら、罪人の私を神があわれんでくださるように祈ってください!
(二) 第二に、「主よ、主よ」(マタイ七・二一)と言うことには、害を行わないことが含まれることもあります。私たちは、あらゆる故意の罪から、あらゆる種類の外的な悪から、遠ざかることができます。聖書で禁じられているあらゆるふるまいや語り方を、控えることができます。私たちは、共に暮らしているすべての人々に、「あなたがたのうち、だれがわたしに罪があると責めうるのですか」(ヨハネ八・四六)と言うことさえできるかもしれません。神に対しまた人に対して、外的な点では良心に責められることのない状態(使徒二四・一六)を保つこともできます。外的な行いについては、あらゆる汚れ、不信心、不義から潔白であることもできます。あるいは(使徒が自分についてあかししているように)、「律法の義については」、すなわち外的な義については、「落ち度のない者」であることもできます(ピリピ三・六)。けれども、私たちはこれによって義とされるのではありません。これもまた、「主よ、主よ」(マタイ七・二一)と言うことにすぎません。もしこれより先に進まないなら、私たちは決して「天国にはいる」ことはできません(マタイ七・二一)。
(三) 第三に、「主よ、主よ」(マタイ七・二一)と言うことには、ふつう良きわざと呼ばれているものの多くが含まれることもあります。人は主の晩餐に連なり、すぐれた説教をたくさん聞き、ほかのすべての神の定めにあずかる機会を一つも逃さないこともできます。私は、隣人に善を行い、飢えた者に自分のパンを分け与え、裸の者に着物を着せる(イザヤ五八・七)こともできます。良いわざに熱心な(テトス二・一四)あまり、「自分の全財産を人に施」す(第一コリント一三・三)ほどになることさえできます。そうです、私は、神に喜ばれたいと願って、これらすべてをすることもできるのです。それによって本当に神に喜ばれていると、心から信じてすることもできるのです。主が登場させておられる、主に「主よ、主よ」(マタイ七・二二)と言う人々は、否定しようもなく、まさにそうでした。それでもなお、私は、やがて現される栄光(ローマ八・一八)に何のかかわりも持たないかもしれません。
(四) もし、このことを不思議に思う人がいるなら、その人は、自分がイエス・キリストの宗教の全体を知らない者であることを認めるべきです。とりわけ、主がこの説教で私たちの前に示された、その宗教の完全な肖像を知らない者であることを、認めるべきです。これらすべては、主がそこに描かれた真の義と聖(エペソ四・二四)に、何と遠く及ばないことでしょう!信じる魂のうちに今開かれている内なる天国から、何と遠く隔たっていることでしょう。その天国は、初めは一粒のからし種のように心にまかれますが、やがて大きな枝を張ります(マルコ四・三一〜三二)。その枝には、義のあらゆる実が、すなわちあらゆる良い気質と、良い言葉と、良いわざが実るのです。
(五) 主はこのことをはっきりと告げ、何度も繰り返してこられました。自分のうちにこの神の国を持たない者は、だれも天国にはいれない、と。それでも主は、多くの人がこの言葉を受け入れないことをよくご存じでした。ですから、もう一度これを確かなものとされます。主は言われます。「その日には、多くの者が、わたしにむかって」言うでしょう(マタイ七・二二)。ひとりではありません。少数だけでもありません。これはまれなことでも、珍しいことでもないのです。彼らはこう言うだけではありません。私たちは多くの祈りをささげました。あなたを賛美しました。悪から遠ざかりました。善を行うことに励みました、と。それよりもはるかに大きなことを言うのです。「わたしたちはあなたの名によって預言し」、「あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行」いました(マタイ七・二二)、と。「わたしたちは」「預言し」ました(マタイ七・二二)。すなわち、私たちは、あなたの御旨を人々に告げ知らせました。罪人たちに、平和と栄光への道を示しました。そして、私たちはこれを「あなたの名によって」(マタイ七・二二)しました。あなたの福音の真理に従ってしました。そうです、あなたの権威によってしたのです。あなたは、天からつかわされた聖霊(第一ペテロ一・一二)によって、御言の確かなことをお示しになりました(マルコ一六・二〇)。私たちは、あなたの名において、またあなたの名によって、すなわちあなたの言葉と御霊の力によって、「悪霊を追い出し」ました(マタイ七・二二)。悪霊が長い間自分のものだと言い張り、完全に、平穏に占領していた魂から、追い出したのです。「あなたの名によって」、すなわち私たちの力ではなく、あなたの力によって、「多くの力あるわざを行」いました(マタイ七・二二)。私たちを通して語る「神の子の声を」、「死んだ人たち」さえ「聞」いて、生きたほどです(ヨハネ五・二五)。「そのとき、わたしは」この人々にさえ「はっきり、こう言います、『あなたがたを全く知らない』」(マタイ七・二三)。そうです、あなたがたがわたしの名によって「悪霊を追い出し」ていた(マタイ七・二二)そのときでさえ、知らなかったのです。そのときでさえ、わたしは、あなたがたをわたしのものとして知ってはいませんでした。あなたがたの心が神の前に正しくなかった(使徒八・二一)からです。あなたがた自身は、柔和でも謙遜でもありませんでした。神とすべての人とを愛する者ではありませんでした。神のかたちに新しくされていませんでした。わたしが聖であるように聖ではありませんでした。これらすべてにもかかわらず、「不法を働く者どもよ、行ってしまえ」(マタイ七・二三)。「不法」と訳された語は、原語ではアノミア(ἀνομία)です。あなたがたは、わたしの律法、すなわち聖く完全な愛の律法にそむく者なのです。
(六) このことに反論の余地をまったく残さないために、主は、あのぴったりとした譬によってこれを確かなものとされます。主は言われます。「わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけ」ます(マタイ七・二六〜二七)。遅かれ早かれ、それらは必ず、すべての人の魂に打ちつけます。外からの苦難や内からの誘惑という洪水が、高慢、怒り、恐れ、欲望という嵐が打ちつけるのです。すると、「倒れてしまいます。そしてその倒れ方はひどいのです」(マタイ七・二七)。こうして、その家は永遠に滅びてしまいます。上に述べた宗教に及ばない何かに安んじている人々はみな、必ずこのような運命をたどります。しかも、彼らの倒れ方はいっそうひどくなるでしょう。彼らは「これらの言葉を聞いても」、なお「行わない」からです(マタイ七・二六)。
【二】 岩の上に家を建てる人の知恵
(一) 第二に、主の言葉を行う人、すなわち岩の上に自分の家を建てる人の知恵を示さなければなりません。「天にいますわが父の御旨を行う者」(マタイ七・二一)こそ、まことに賢い人です。その「義が律法学者やパリサイ人の義にまさってい」る人(マタイ五・二〇)こそ、本当に賢い人です。この人は、こころの貧しい人(マタイ五・三)です。自分が知られているように、自分を知っています(第一コリント一三・一二)。あがないの血によって洗い流されるまで、自分のすべての罪と、すべての罪責とを見、また感じています。自分が滅びた状態にあること、神の怒りが自分の上にとどまっている(ヨハネ三・三六)ことを自覚しています。自分で自分を救うことがまったくできないことも自覚しています。聖霊における平和と喜び(ローマ一四・一七)に満たされるまで、そうなのです。この人は、柔和で優しく、すべての人に対して寛容です(第一テサロニケ五・一四)。「悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報い」て(第一ペテロ三・九)、ついには善をもって悪に勝つ(ローマ一二・二一)のです。彼の魂は、地上の何ものをも慕わず、ただ神を、いける神を慕っています(詩篇四二・二)。すべての人に対して深い愛の心を持ち、自分の敵のためにさえ、いのちを捨てる用意があります。心をつくし、思いをつくし、精神をつくし、力をつくして、主なる自分の神を愛しています(マルコ一二・三〇)。天国にはいるのは、この精神をもって、すべての人に善を行う人だけです。そのために人に侮られて捨てられ(イザヤ五三・三)、憎まれ、そしられ、迫害されても、喜び、「よろこ」ぶ(マタイ五・一二)人だけです。この人は、自分の信じてきたかたを知っています(第二テモテ一・一二)。そして、このしばらくの軽い患難が、「永遠の重い栄光を」自分に「得させる」ことを確信しているのです(第二コリント四・一七)。
(二) この人は、何と本当に賢いことでしょう!この人は自分を知っています。自分は、神から出て、泥の家(ヨブ四・一九)の中に送り込まれた、永遠の霊であることを知っているのです。それは、自分のこころのままを行うためではなく、自分をつかわされたかたのみこころを行うため(ヨハネ六・三八)でした。この人は世を知っています。世は、永遠のすまい(ルカ一六・九)へ向かう途中で、わずかな日々か年月を過ごす場所です。そこに住む者としてではなく、旅人であり寄留者として(第一ペテロ二・一一)過ごす場所なのです。ですから、この人は、世と交渉を持っても深入りしません。この世の有様は過ぎ去る(第一コリント七・三一)ことを知っているからです。この人は神を知っています。神は、彼の父であり友です。すべての善の源、すべての肉なる者の霊の中心、知性を持つすべての者のただ一つの幸いです。この人は、真昼の太陽の光よりもはっきりと見ています。人の目的とは、人をご自分のために造られた方の栄光をあらわし、その方を永遠に愛し、喜ぶことだ、と。そして、同じようにはっきりと、その目的に、すなわち栄光のうちに神を喜ぶことに至る手段を見ています。それは、今このときから、神を知り、神を愛し、神にならい、神がつかわされたイエス・キリスト(ヨハネ一七・三)を信じることです。
(三) この人は、神の目から見てさえ賢い人です。「岩の上に自分の家を建て」るからです(マタイ七・二四)。千歳の岩、とこしえの岩(イザヤ二六・四)、すなわち主イエス・キリストの上に建てるのです。主がそう呼ばれるのは、ふさわしいことです。主は変ることがないからです。主は、「きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」方です(ヘブル一三・八)。昔の神の人も、その言葉を引く使徒も、主についてこうあかししています。「主よ、あなたは初めに、地の基をおすえになりました。もろもろの天も、み手のわざです。これらのものは滅びてしまいますが、あなたは、いつまでもいますかたです。すべてのものは衣のように古び、それらをあなたは、外套のように巻かれます。これらのものは、衣のように変りますが、あなたは、いつも変ることがなく、あなたのよわいは、尽きることがありません」(ヘブル一・一〇〜一二)。ですから、主の上に建てる人は賢いのです。主をただ一つの土台としてすえ(第一コリント三・一一)、ただ主の血と義の上に、すなわち主が私たちのために行い、また苦しまれたことの上に建てる人です。この人は、この隅のかしら石(エペソ二・二〇)に信仰をすえ、その上に魂の重みのすべてを置きます。この人は、神に教えられて(ヨハネ六・四五)、こう言います。「主よ、私は罪を犯しました。私は最も深い地獄に値する者です。けれども、私は、価なしに、あなたの恵みにより、イエス・キリストによるあがないによって義とされています(ローマ三・二四)。そして、私がいま生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をささげられた方を信じる信仰によって、生きているのです(ガラテヤ二・二〇)。私がいま生きているいのちとは、神からの、天的ないのちです。キリストと共に神のうちに隠されているいのち(コロサイ三・三)です。私はいま、肉にあってさえ、愛のいのちを、神と人とに対する純粋な愛のいのちを生きています。聖性と幸いのいのちを生き、神を賛美し、すべてを神の栄光のためにしているのです(第一コリント一〇・三一)」。
(四) けれども、このような人も、もう戦いに会うことはないとか、今はもう誘惑の届かないところにいるとか、考えてはなりません。神は、なお、ご自分が与えた恵みを試されます。この人は、火の中の金のように試されるでしょう。この人は、神を知らない人々に劣らず誘惑を受けるでしょう。もしかすると、はるかに多く受けるかもしれません。サタンは、滅ぼすことのできない者を、とことんまで試さずにはおかないからです。ですから、「雨」は激しく「降」ります(マタイ七・二五)。ただし、それが降るのは、ある方がよしとされるときに、よしとされる仕方でだけです。それは、空中の権をもつ君(エペソ二・二)ではなく、「そのまつりごとはすべての物を統べ治める」方(詩篇一〇三・一九)です。「洪水」、すなわち激流が「押し寄せ」ます(マタイ七・二五)。洪水は大波をあげ、恐ろしく荒れ狂います。けれども、洪水の上に座し、とこしえに王であられる主(詩篇二九・一〇)は、それらにもこう言われます。「ここまで来てもよい、越えてはならぬ」、あなたがたの「高波はここにとどまるのだ」(ヨブ三八・一一)、と。「風が吹いてその家に打ちつけ」ます(マタイ七・二五)。まるで、家を土台から引き抜こうとするかのようです。けれども、風は打ち勝つことができません。家は倒れません。岩を土台としているからです(マタイ七・二五)。この人は、信仰と愛によってキリストの上に建てています。ですから、倒されることはありません。彼は、「たとい地は変り、山は海の真中に移るとも」、「恐れない」でしょう(詩篇四六・二)。「たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも」(詩篇四六・三)、彼はなお、「いと高き者のもとにある隠れ場に住」み、「全能者の陰に」あって安全です(詩篇九一・一)。
【三】 実践への適用
(一) それなら、これらのことを実際に自分に当てはめることは、すべての人の子にとって、何と切実なことでしょう! 自分が何の土台の上に、岩の上にか砂の上にか、建てているかを念入りに調べることは、何と切実なことでしょう!あなたにとって、次のように問うことは、何と深くかかわることでしょう。「私の望みの土台は何か。天国にはいるという期待を、私は何の上に建てているのか。それは砂の上に建てられているのではないか。私の正統信仰、すなわち正しい意見の上に建てられているのではないか。私は、言葉をひどく乱用して、それを信仰と呼んできた。ほかの人々の考えよりも合理的で、聖書的だと思われる一組の考えを持っていることの上に、建てられているのではないか」。ああ、これは何という狂気でしょう! これは確かに砂の上に、いや、むしろ海の泡の上に建てることです!こう言いなさい。「私はこのことを確信した。だが、私はまたしても、同じように望みを支えることのできないものの上に、望みを建ててはいないか。もしかすると、『これほどすぐれた教会、まことの聖書の型に従って改革され、最も純粋な教理と、最も初代教会に近い典礼と、最も使徒的な教会政治とに恵まれた教会!』に属していることの上に、建ててはいないか。これらは、疑いもなく、どれも神を賛美する理由だ。どれも聖性への助けになりうるからだ。けれども、それは聖性そのものではない。そして、もしそれが聖性から切り離されているなら、私に何の益にもならない。いや、私をいっそう弁解の余地のない者(ローマ一・二〇)とし、もっときびしいさばき(マタイ二三・一四)にさらすだろう。だから、もし私がこの土台の上に望みを建てるなら、私はやはり砂の上に建てているのだ」。
(二) あなたは、ここに安んじることはできません。安んじてはならないのです。次には、救いの望みを何の上に建てるのでしょうか。自分の潔白の上にでしょうか。害を行わないこと、だれにも不正をせず、だれも傷つけないことの上にでしょうか。よろしい。その申し立てが本当だとしましょう。あなたは、あらゆる取引で公正です。まったく正直な人です。だれにでも受けるべきものを支払います。だましもせず、ゆすり取りもしません。すべての人に公平にふるまいます。そして、神に対して良心を持っています。分かっている罪の中に生きてはいません。ここまでは結構です。けれども、それはまだ肝心のものではありません。ここまで進んでも、決して天国に行き着かないことがありうるのです。この害のなさがすべて正しい原理から流れ出ているときでも、それはキリストの宗教のいちばん小さな部分です。けれども、あなたの場合、それは正しい原理から流れ出ていません。ですから、宗教の一部でさえまったくないのです。ですから、この上に救いの望みを置くなら、あなたはやはり砂の上に建てているのです。
(三) あなたは、さらに先へ進んでいるでしょうか。害を行わないことに、すべての神の定めに連なることを加えているでしょうか。あらゆる機会に主の晩餐にあずかっているでしょうか。公の祈りと個人の祈りをしているでしょうか。しばしば断食しているでしょうか。聖書を聞き、調べ、それを思いめぐらしているでしょうか。これらのことも、あなたが初めて天国に顔を向けたときから、しなければならなかったことです。けれども、これらのことも、それだけでは無に等しいのです。「律法の中でもっと重要な」こと(マタイ二三・二三)がなければ、無に等しいのです。そして、それをあなたは忘れてしまいました。少なくとも、それを体験していません。それは、信仰と、あわれみと、神への愛です。心の聖性です。魂のうちに開かれた天国です。ですから、あなたはやはり砂の上に建てているのです。
(四) これらすべてに加えて、あなたは良いわざに熱心(テトス二・一四)でしょうか。機会のあるごとに、だれに対しても善を行っているでしょうか(ガラテヤ六・一〇)。飢えた者に食べさせ、裸の者に着せ、困っている孤児や、やもめを見舞っているでしょうか(ヤコブ一・二七)。病気の人を見舞い、獄にいる人を助けているでしょうか。旅人がいれば、宿を貸しているでしょうか(マタイ二五・三五〜三六)。友よ、もっと上の方へ進みなさい(ルカ一四・一〇)!あなたはキリストの「名によって」「預言し」ているでしょうか(マタイ七・二二)。イエスにある真理(エペソ四・二一)を宣べ伝えているでしょうか。そして、キリストの御霊の働きがあなたの言葉に伴い、それを救を得させる神の力(ローマ一・一六)としているでしょうか。キリストは、罪人たちをやみから光へ、サタンの支配から神のみもとへ(使徒二六・一八)連れ帰ることができるように、あなたを強めておられるでしょうか。それなら、行って、あなたがあれほどたびたび教えてきたことを学んできなさい。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのです」(エペソ二・八)。「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって」、「わたしたちは救われた」のです(テトス三・五)。自分のしてきたことをすべて、ふん土のように、かすのように思って(ピリピ三・八)、裸のままキリストの十字架にすがることを学びなさい。死に臨んだ強盗(ルカ二三・四二)の心で、七つの悪霊につかれていた遊女の心で、そのままキリストに頼りなさい! そうしなければ、あなたはなお砂の上にいます。ほかの人を救ったあとで、自分の魂を失うでしょう。
(五) 主よ、もし私が今信じているなら、私の信仰を増してください(ルカ一七・五)! そうでないなら、からし種一粒ほどの(マタイ一七・二〇)信仰でもかまいません、私に信仰を与えてください!けれども、「ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つでしょうか。その信仰は彼を救うことができるでしょうか」(ヤコブ二・一四)。ああ、できません! 次のような信仰は、福音の信仰ではありません。行いのない信仰、内と外との聖性を生み出さない信仰です。神のかたちの全体を心に刻まず、神がきよくあられるように私たちをきよくしない(第一ヨハネ三・三)信仰です。これまでの章に述べられた宗教の全体を生み出さない信仰は、福音の信仰でも、キリスト教の信仰でも、栄光に導く信仰でもないのです。ああ、悪魔のほかのどんなわなにもまして、このわなに気をつけなさい。聖くない、救わない信仰に安んじることに、気をつけなさい!もしこれに頼るなら、あなたは永遠に滅びます。あなたはなお、砂の上に自分の家を建てているのです。「雨が降り、洪水が押し寄せ」るとき、その家は必ず「倒れてしまいます。そしてその倒れ方はひどい」のです(マタイ七・二七)。
(六) ですから、今、岩の上に建てなさい。神の恵みによって、自分を知りなさい。あなたは不義のなかに生れ、あなたの母は罪のうちにあなたをみごもった(詩篇五一・五)ことを、知り、また感じなさい。そして、善悪を見わけることができるようになってからずっと、あなた自身が罪に罪を積み重ねてきたことを、知り、また感じなさい。自分が永遠の死に当たる罪を負っていることを認めなさい。そして、自分で自分を救えるという望みを、すべて捨てなさい。キリストの血で洗われ、その御霊によってきよめられることを、あなたの望みのすべてとしなさい。この方は、「十字架にかかって」、あなたのすべての「罪をご自分の身に負われた」のです(第一ペテロ二・二四)。そして、主があなたの罪を取り除いてくださったことを知っているなら、なおさら主の前に自分を低くしなさい。良い思いも、良い言葉も、良いわざも、すべて主にまったく頼っていることを、絶えず感じていなさい。主があなたに「常に水をそそ」いでくださらなければ(イザヤ二七・三)、どんな善もまったくできないことを、絶えず感じていなさい。
(七) 今、自分の罪のために泣き、神を慕って悲しみなさい。神があなたの憂いを喜びに変えてくださる(ヨハネ一六・二〇)までです。そして、そのときにも、泣く者と共に泣きなさい(ローマ一二・一五)。自分のために泣かない人々のためにも泣きなさい。人々の罪と悲惨のために悲しみなさい。そして、すぐ目の前に、永遠という果てしない大洋を見なさい。底も岸もない大洋です。それはすでに幾億幾千万の人々を呑み込み、まだ残っている人々を呑み込もうと口を開けているのです!こちらには、天にある神の永遠の家(第二コリント五・一)を見なさい! あちらには、おおい隠すもののない陰府と滅びの穴(ヨブ二六・六)を見なさい! そして、そこから、一瞬一瞬の重さを学びなさい。一瞬は現れたかと思うと、永遠に過ぎ去ってしまうのです!
(八) 今、あなたの真剣さに、知恵にかなう柔和(ヤコブ三・一三)を加えなさい。すべての感情について、とりわけ怒りと悲しみと恐れについて、はかりを平らに保ちなさい。何であれ神の御旨であることに、静かに従いなさい。どんな境遇にあっても、足ることを学びなさい(ピリピ四・一一)。善良な人に穏やかでありなさい。すべての人に対して優しくありなさい。とりわけ、悪人や恩を知らぬ者(ルカ六・三五)に対して優しくありなさい。兄弟にむかってラカとか、ばか者とか言う(マタイ五・二二)ような、外に表れる怒りに気をつけるだけではいけません。愛に反する内なる感情のすべてに気をつけなさい。たとえ、それが心の中にとどまるとしてもです。罪に対しては、天の大いなる方への侮辱として怒りなさい。けれども、罪人はなお愛しなさい。私たちの主のようにしなさい。主は「怒りを含んで」パリサイ人たちを「見まわし、その心のかたくななのを嘆」かれました(マルコ三・五)。主は、罪人を嘆き、罪を怒られたのです。このように、あなたも「怒ることがあっても、罪を犯して」はなりません(エペソ四・二六)!
(九) 今、「朽ちる食物」にではなく、「永遠のいのちに至る朽ちない食物」に飢えかわきなさい(ヨハネ六・二七)。世と、世にあるもの(第一ヨハネ二・一五)とを、すなわちこれらすべての富と、誉れと、快楽とを、足の下に踏みつけなさい。世があなたにとって何でしょうか。死人を葬ることは、死人に任せておきなさい(マタイ八・二二)。あなたは神のかたちを追い求めなさい。あの祝福された渇きが、すでにあなたの魂のうちにかき立てられているかもしれません。そうなら、俗に宗教と呼ばれているものによって、それを消してしまわないよう気をつけなさい。それは、みすぼらしく退屈な茶番です。形だけの宗教、うわべを見せるだけの宗教です。それは、心をなおちりについたままにしておき(詩篇一一九・二五)、相変わらず地につくもの、肉に属するもの(ヤコブ三・一五)のままにしておくのです。敬虔の力のほかには、霊であり、またいのちである(ヨハネ六・六三)宗教のほかには、何ものにも満足してはなりません。それは、あなたが神におり、神もあなたにいます(第一ヨハネ四・一六)ことです。永遠に住む者となることです。そそがれた血(ヘブル一二・二四)によって「幕の内」にはいり(ヘブル六・一九)、「キリスト・イエスにあって」「共に天上で座につ」くことです(エペソ二・六)!
(一〇) あなたは、自分を強くしてくださるキリストによって、何事でもすることができます(ピリピ四・一三)。ですから、今、天の父が慈悲深いように、あなたも慈悲深い者となりなさい(ルカ六・三六)!自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい(マタイ二二・三九)! 友も敵も、自分の魂のように愛しなさい!そして、あなたの愛を、すべての人に対して寛容で、忍耐強いものとしなさい。その愛を、情深く、穏やかで、優しいものとしなさい。この上なく愛らしいやわらかさと、この上なく熱く細やかな愛情とを、あなたに吹き込むものとしなさい。その愛が、どこに見いだされるものであれ、真理を喜ぶ(第一コリント一三・六)ようにしなさい。信心にかなう真理(テトス一・一)を喜ぶようにしなさい。何であれ、神に栄光を帰し、人々の間に平和と善意とを広めるものを、喜びなさい。愛をもって、すべてをおおいなさい。死んだ人や居合わせない人については、良いことのほかは何も語ってはなりません。隣人の人柄の疑いを晴らすのに少しでも役立つことは、すべて信じなさい。隣人に有利なことは、すべて望みなさい。そして、すべてを耐え、あらゆる反対に打ち勝ちなさい(第一コリント一三・七)。まことの愛は、この世でも永遠でも、いつまでも絶えることがないからです(第一コリント一三・八)。
(一一) 今、心の清い者(マタイ五・八)となりなさい。信仰によって、あらゆる聖くない情からきよめられた者(使徒一五・九)となりなさい。「肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清く」なりなさい(第二コリント七・一)。神の恵みの力によって、深いこころの貧しさによって高慢からきよめられなさい。柔和とあわれみによって、怒りから、あらゆる不親切な激情や荒々しい激情からきよめられなさい。義に飢えかわく(マタイ五・六)ことによって、神に喜ばれ、神を喜ぶこと以外のあらゆる願いからきよめられなさい。そのうえで、今、「心をつくし」、「力をつくして、主なるあなたの神を愛し」なさい(マルコ一二・三〇)!
(一二) 一言で言えば、あなたの宗教を心の宗教としなさい。それを、魂のいちばん奥深くに置きなさい。自分の目に(言葉で言い表せないほど)小さく、卑しく、取るに足りない、つまらない者となりなさい。キリスト・イエスにおける神の愛(ローマ八・三九)に驚き、ちりにまで低くされなさい。真剣でありなさい。あなたの思いと言葉と行いの流れのすべてを、最も深い確信から流れ出させなさい。あなたも、すべての人の子らも、大きな淵(ルカ一六・二六)のふちに立っていて、今にも落ち込もうとしている、という確信です。落ちる先は、永遠の栄光か、とこしえの燃える火(イザヤ三三・一四)かのどちらかです!あなたの魂を、すべての人に対する穏やかさと、優しさと、忍耐と、寛容とで満たしなさい。同時に、あなたのうちにあるすべてのものが、神を、いける神を慕う(詩篇四二・二)ようにしなさい。目ざめるとき、神のみかたちを見て、満ち足りる(詩篇一七・一五)ことを切に願うようにしなさい!神とすべての人とを愛する者となりなさい! この精神をもって、すべてを行い、すべてを忍びなさい!このようにして、行いによって信仰を見せなさい(ヤコブ二・一八)。このようにして、「天にいます」あなたの「父の御旨を行」いなさい(マタイ七・二一)!そして、あなたが今地上で神とともに歩んでいる(創世記五・二四)のが確かであるように、栄光のうちに神とともに支配することも確かなのです!