ジョン・ウェスレー標準説教集

説教三十二 山上の説教(十二)

「にせ預言者を警戒しなさい。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来ますが、その内側は強欲なおおかみです。あなたがたは、その実によって彼らを見わけるでしょう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があるでしょうか。そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできません。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれます。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのです」(マタイ七・一五〜二〇)

(一) どれほど多くの魂が滅びへと走って行ったかは、言い表すことも、思い描くこともほとんどできません。彼らは、細い道を歩むように説き伏せられようとしなかったのです。たとえ、それが永遠の救いへの道であってもです。そして、同じことを、私たちは今も日々見ることができます。人類の愚かさと狂気はそれほどのもので、何千もの人々が、今も地獄への道を突き進んでいます。ただ、それが広い道だというだけの理由で、そうするのです。ほかの人々がそうするから、自分もその道を歩むのです。これほど多くの人が滅びるので、自分もその数に加わろうとするのです。弱く、みじめな人の子らに対して、模範はこれほど驚くべき影響力を持っているのです! それは絶えず死の国を人で満たし、数えきれない魂を永遠の滅びの中に沈めています!

(二) 神は、このことを人類に警告し、この広がっていく伝染病からできるだけ多くの人を守ろうとされました。そのために、ご自分の見守る者たち(エゼキエル三三・七)に命じられました。大いに呼ばわって(イザヤ五八・一)、民がどんな危険の中にいるかを示すように、と。この目的のために、神は、ご自分のしもべである預言者たちを、代々にわたってつかわされました。細い道を指し示し、この世と妥協しない(ローマ一二・二)ように、すべての人に勧めさせるためです。けれども、もし見守る者たち自身が、ほかの人々に警告すべきそのわなに陥ったら、どうでしょうか。もし預言者たちが「迷わしごとを預言」したら(イザヤ三〇・一〇)、どうでしょうか。もし彼らが、民を惑わして道からそらしたら(エレミヤ二三・三二)、どうでしょうか。もし彼らが、実は永遠の死への道であるものを、永遠のいのちへの道として指し示したら、どうしたらよいでしょうか。そして、自分が歩んでいるように、細い道ではなく広い道を歩むように、ほかの人々に勧めたら、どうしたらよいでしょうか。

(三) これは前代未聞のことでしょうか。まれなことでしょうか。いいえ、そうでないことは、神がご存じです。その例はほとんど数えきれません。どの時代にも、どの国民の中にも、それを見いだすことができます。けれども、これは何と恐ろしいことでしょう! 神の使節が悪魔の手先になるのです! 人々に天国への道を教えるよう任じられた者たちが、実際には地獄への道を教えるのです! この人々は、エジプトのいなごのようです。「雹を免れて、残されているものを食い尽」すいなごです(出エジプト一〇・五)。彼らは、免れて残された人々、すなわち悪い模範によって滅ぼされなかった人々までも食い尽くすのです。ですから、賢く恵み深い私たちの主人が、これほどおごそかに彼らのことを警告されるのは、理由のないことではありません。主は言われます。「にせ預言者を警戒しなさい。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来ますが、その内側は強欲なおおかみです」(マタイ七・一五)。

(四) これは、この上なく重要な警告です。それがいっそう確かに私たちの心にしみ込むように、次のことを調べてみましょう。第一に、このにせ預言者とはだれか。第二に、彼らはどんな外見を装うか。第三に、そのうるわしい外見にもかかわらず、彼らの本当の姿をどうすれば知ることができるか。

【一】 このにせ預言者とはだれか

(一) 第一に、このにせ預言者とはだれかを調べなければなりません。このことは、なおさら念入りに行う必要があります。ほかならぬこの人々が、ひどく骨折ってこの聖句に「無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている」からです(第二ペテロ三・一六)。もっとも、彼らが招いているのは、自分だけの滅亡ではありません。ですから、すべての論争を断ち切るために、私は(ある人々がよくするように)ほこりを巻き上げて目をくらますことはしません。純朴な人々の心を欺く(ローマ一六・一八)ために、しまりのない、修辞的な感嘆の言葉を用いることもしません。飾りのない、明白な真理を語ります。理解力か慎みがいくらかでも残っている者ならだれも否定できない真理です。この言葉に先立つ説教全体の流れと、最も密接につながっている真理です。ところが、あまりにも多くの人々が、それより前のことにまったく注意を払わずに、この言葉を解釈してきました。まるで、この言葉が、その結びに置かれている説教と何の関係もないかのようにです。

(二) ここで預言者と言われているのは(聖書のほかの多くの箇所、とりわけ新約聖書でそうであるように)、来るべきことを予告する人々ではありません。神の名によって語る人々、すなわち、ほかの人々に天国への道を教えるために、神からつかわされたと公言する人々のことです。

天国への偽りの道、すなわちそこに通じていない道を教える人々は、にせ預言者です。あるいは(結局は同じことになりますが)、まことの道を教えない人々は、にせ預言者です。

(三) 広い道はみな、間違いなく偽りの道です。ですから、これが一つの明白で確かな規則です。「人々に広い道を、すなわち多くの人の歩む道を歩むように教える者は、にせ預言者です」。

さらに、天国へのまことの道は細い道です。ですから、これがもう一つの明白で確かな規則です。「人々に細い道を歩むように、すなわち人と違う者となるように教えない者は、にせ預言者です」。

(四) もっと詳しく言いましょう。天国へのただ一つのまことの道は、この言葉に先立つ説教で指し示された道です。ですから、人々にこの道を歩むように教えない者は、にせ預言者です。

さて、先立つ説教で指し示された天国への道とは、謙遜と、悲しみと、柔和と、聖い願いの道です。神と隣人とを愛し、善を行い、キリストのために悪を忍ぶ道です。ですから、これ以外の道を天国への道として教える者は、にせ預言者です。

(五) 彼らがその別の道を何と呼ぶかは問題ではありません。彼らはそれを信仰と呼ぶかもしれません。あるいは良きわざ、信仰とわざ、悔い改め、あるいは悔い改めと信仰と新しい服従と呼ぶかもしれません。これらはみな良い言葉です。けれども、これらの言葉であれ、ほかのどんな言葉であれ、この道と異なる道を人々に教えるなら、彼らはまさしくにせ預言者です。

(六) まして、この良い道をそしる者は、どれほど、その罪の宣告を受けることでしょう。とりわけ、正反対の道を教える者はそうです。高慢の道、軽薄の道、激情の道、世の欲の道、神よりも快楽を愛する(第二テモテ三・四)道です。隣人への不親切の道、良きわざへの無関心の道、義のために(マタイ五・一〇)何の悪も、何の迫害も忍ばない道です!

(七) 「いったい、だれがこれを天国への道として教えたことがあるのか。だれが今教えているのか」と問う人があるかもしれません。私は答えます。何万もの賢く地位のある人々です。どの教派に属していようと、次のような人々に、自分は天国への道にいると思い込ませる者はみな、そうです。高慢な者、軽薄な者、激しやすい者、世を愛する者、快楽にふける者、不正な者や不親切な者です。気楽で、のんきで、害もなく、役にも立たない者、義のためにそしりを何一つ受けない者です。この人々こそ、その言葉の最も強い意味でのにせ預言者です。神と人とに対する裏切り者です。彼らは、まさにサタンの初子、滅ぼす者アポルオン(黙示録九・一一)の長男たちです。彼らは、ありふれた人殺しよりもはるかに上の位にいます。人の魂を殺すからです。彼らは絶えず夜の国を人で満たしています。そして、彼らが自分の滅ぼしたあわれな魂たちのあとを追って行くときには、いつでも、「下の陰府は」彼らの「ために動いて」、彼らの「来るのを迎え」るでしょう(イザヤ一四・九)!

【二】 にせ預言者が装う外見

(一) けれども、彼らは今、自分の本当の姿で来るでしょうか。決してそうではありません。もしそうなら、滅ぼすことはできないでしょう。あなたは危険を察して、必死に逃げ出すでしょう。ですから、彼らはまったく正反対の外見を装います(これが、考えるべき第二のことでした)。「彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来ますが、その内側は強欲なおおかみです」(マタイ七・一五)。

(二) 「彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来」ます(マタイ七・一五)。すなわち、害のない外見をして来るのです。彼らは、この上なく穏やかで、人の気にさわらない態度で来ます。敵意のしるしや気配は少しもありません。この物静かな者たちが、だれかに何かの害を加えるなどと、だれが想像できるでしょうか。もしかすると、彼らは、そうあってほしいと願うほどには、善を行うことに熱心でも活発でもないかもしれません。それでも、彼らが害を加えようという願いさえ持っていると疑う理由は、あなたには見当たりません。けれども、これだけではありません。

(三) 第二に、彼らは役に立つ者の外見をして来ます。実際、彼らは、このこと、すなわち善を行うことのために、特に召されています。まさにこのことのために、取り分けられているのです。彼らは、あなたの魂を見守り、あなたを永遠のいのちへと育てるように、特に任じられています。彼らの仕事のすべては、「よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々を」「いやしながら、巡回」することです(使徒一〇・三八)。そして、あなたはいつも、彼らをそのような目で見ることに慣れてきました。あなたに祝福をもたらすためにつかわされた、神の使者として見てきたのです。

(四) 第三に、彼らは宗教の外見をして来ます。彼らのすることはみな、良心のためなのです! 彼らは、自分が神を偽り者としている(第一ヨハネ五・一〇)のは、ひたすら神への熱心からだ、とあなたに請け合います。彼らが宗教を根こそぎ滅ぼそうとするのは、純粋に宗教を思う心からなのです。彼らの語ることはみな、ただ真理への愛と、真理がそこなわれはしないかという恐れから出ています。また、おそらく、教会への敬意と、教会をそのすべての敵から守りたいという願いから出ているのです。

(五) 何よりも、彼らは愛の外見をして来ます。彼らがこれほど骨を折るのは、ただあなたのためなのです。あなたに好意を持っているのでなければ、あなたのことで心をわずらわせたりはしないでしょう。彼らは、自分の善意を大いに言い立てます。あなたの置かれている危険を案じていることを言い立てます。あなたを誤りから、新奇で有害な教えに巻き込まれることから守りたいと、切に願っていることを言い立てるのです。これほど善意のある人が何かの極端に走るのを見るのは、とても残念だ、と彼らは言います。奇妙で分かりにくい考えに混乱させられたり、惑わされて熱狂に陥ったりするのを見るのも、残念だと言うのです。だからこそ、彼らはあなたに、平凡な中道にじっととどまるよう勧めます。「義に過ぎ」ることのないように、それで「自分を滅ぼ」すことのないように(伝道七・一六)、気をつけなさいと勧めるのです。

【三】 にせ預言者の本当の姿を知る方法

(一) けれども、そのうるわしい外見にもかかわらず、彼らの本当の姿をどうすれば知ることができるでしょうか。これが、調べようと予告した第三のことでした。私たちの祝福された主は、にせ預言者を見分けることが、すべての人にとってどれほど必要かを見ておられました。どのように変装していても、見分けなければならないのです。また、ほとんどの人が、長い推論の連鎖をたどって真理を導き出すことがどれほどできないかも、見ておられました。ですから、主は私たちに、短く明白な規則を与えてくださいます。最も能力の乏しい人にもたやすく理解でき、どんな場合にもたやすく当てはめられる規則です。「あなたがたは、その実によって彼らを見わけるでしょう」(マタイ七・一六)。

(二) どんな場合にも、あなたはこの規則をたやすく当てはめることができます。神の名によって語るだれかが、にせ預言者か、まことの預言者かを知るために、次のことをたやすく観察できます。第一に、彼らの教えが彼ら自身にどんな実を結んでいるかです。それは彼らの生活にどんな効果をもたらしたでしょうか。彼らは、すべてのことにおいて聖く、責められるところがないでしょうか。それは彼らの心にどんな効果をもたらしたでしょうか。彼らのふるまい全体の流れから見て、彼らの気質は聖く、天的で、神々しいでしょうか。キリスト・イエスのうちにあった思い(ピリピ二・五)が、彼らのうちにあるでしょうか。彼らは柔和で、謙遜で、忍耐強く、神と人とを愛し、良いわざに熱心(テトス二・一四)でしょうか。

(三) 第二に、彼らの教えが、それを聞く人々にどんな実を結んでいるかを、たやすく観察できます。すべての人にではなくても、少なくとも多くの人に結んでいるかです。使徒たち自身も、聞いた人をみな回心させたわけではないからです。この聞き手たちは、キリストのうちにあった思い(ピリピ二・五)を持っているでしょうか。キリストが歩かれたように歩んでいる(第一ヨハネ二・六)でしょうか。そして、この人々に聞くことによって、そうし始めたのでしょうか。彼らに聞くまでは、内も外も悪い者だったのでしょうか。もしそうなら、それは、その人々がまことの預言者、神からつかわされた教師であることの明らかな証拠です。けれども、もしそうでなく、彼らが自分にも他人にも、神を愛し神に仕えることを実際に教えていないとします。それは、彼らがにせ預言者であることの明らかな証拠です。神が彼らをつかわされなかったのです。

(四) これは厳しい言葉です! これに耐えられる人は、何と少ないことでしょう! 主はこのことをよくご存じでした。ですから、へりくだって、いくつかの明白で説得力のある論拠によって、これを詳しく証明してくださいます。主は言われます。「茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があるでしょうか」(マタイ七・一六)。この悪い人々が良い実を結ぶことを、あなたは期待するのですか。それは、茨がぶどうを実らせ、あざみにいちじくがなるのを期待するのと同じことです。「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます」(マタイ七・一七)。まことの預言者はみな、わたしがつかわした教師はみな、聖性という良い実を結びます。けれども、にせ預言者、すなわちわたしがつかわさなかった教師は、罪と悪だけを結びます。「良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできません」(マタイ七・一八)。まことの預言者、神からつかわされた教師は、ときどき良い実を結ぶだけではなく、いつも結びます。たまたま結ぶのではなく、一種の必然によって結ぶのです。同じように、にせ預言者、すなわち神がつかわされなかった者は、たまたま、あるいはときどき悪い実を結ぶのではありません。いつも、必然的に結ぶのです。「良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれます」(マタイ七・一九)。良い実を結ばない預言者、魂を罪から救わず、罪人を悔い改めに導かない預言者の運命は、間違いなくそうなるでしょう。これを永遠の規則として立てましょう。「このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのです」(マタイ七・二〇)。高慢な者、激しやすい者、無慈悲な者、世を愛する者を、実際に変える人々がいます。謙遜で、優しく、神と人とを愛する者に変えるのです。その人々こそまことの預言者です。彼らは神からつかわされています。だからこそ、神は彼らの言葉を確かなものとされるのです。他方、聞き手が以前に不義な者だったなら、今も不義なままでいるとします。あるいは少なくとも、「律法学者やパリサイ人の義にまさ」る義(マタイ五・二〇)を少しも持たないままでいるとします。そのような聞き手を持つ人々は、にせ預言者です。彼らは神からつかわされていません。ですから、彼らの言葉は地に落ちます(サムエル記上三・一九)。そして、恵みの奇跡がないかぎり、彼らもその聞き手も、ともに底知れぬ所(黙示録二〇・一)に落ちるのです!

(五) ああ、このような「にせ預言者を警戒しなさい」(マタイ七・一五)! 彼らは「羊の衣を着て」来ますが、「その内側は強欲なおおかみ」なのです(マタイ七・一五)。彼らは、ただ群れを滅ぼし、食い尽くすだけです。助ける者がいなければ、群れを引き裂きます。彼らは、あなたを天国への道に導こうとしませんし、導くこともできません。自分自身がその道を知らないのに、どうして導けるでしょうか。ああ、彼らがあなたを道から外れさせ、「働いて得た成果を失う」(第二ヨハネ八)ようにさせることのないよう、気をつけなさい!

(六) けれども、あなたはこう尋ねるかもしれません。「彼らに聞くことにそれほどの危険があるなら、そもそも彼らに聞くべきなのか」。これは重大な問いです。最も深く考えるに値し、最も冷静に考え、最も慎重に思いめぐらしたうえでなければ、答えるべきではない問いです。長年の間、私はこのことについて何かを語ることさえ、ほとんど恐れてきました。どちらとも決めかね、何の判断も下せなかったのです。すぐに思い浮かび、「彼らに聞いてはならない」と言いたい気にさせる理由は、たくさんあります。けれども、主がご自分の時代のにせ預言者について語られたことは、その反対を意味しているように思われます。「そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、『律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている』」(マタイ二三・一〜二)。すなわち、彼らはあなたがたの教会の、正規の、定まった教師だということです。「だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないからです」(マタイ二三・三)。さて、この人々が最も強い意味でのにせ預言者であったことを、主はその公生涯の全体を通して示されました。まさに「彼らは言うだけで、実行しない」(マタイ二三・三)という言葉でも、示しておられます。ですから、弟子たちは、彼らの実によって彼らを見分けないわけにはいきませんでした。その実は、すべての人の目にさらされていたからです。それで、主は弟子たちに、このにせ預言者たちを警戒するよう、何度も警告されます。それなのに、主は、この人々に聞くことさえ禁じてはおられません。いや、実際には、聞くように命じておられるのです。「だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい」(マタイ二三・三)という言葉によってです。彼らに聞かなければ、彼らが行うように言うことを知ることはできず、まして守ることなどできなかったからです。それなら、ここで主ご自身が、使徒たちにも群衆全体にも、はっきりした指示を与えておられるのです。ある状況のもとでは、にせ預言者に、それもにせ預言者だと知られ、認められている者にさえ、聞きなさいという指示です。

(七) けれども、こう言われるかもしれません。「主が彼らに聞くように指示されたのは、彼らが会衆に聖書を朗読するときだけだ」。私は答えます。彼らはこうして聖書を朗読すると同時に、たいていその解き明かしもしていました。そして、ここには、朗読には聞いても、解き明かしには聞くべきでない、というほのめかしは少しもありません。いや、「彼らがあなたがたに言うことは、みな」(マタイ二三・三)という言葉そのものが、そのような制限をまったく締め出しているのです。

(八) さらに、彼らに、すなわち否定しようもないにせ預言者たちに、しばしば聖餐の執行までもゆだねられています。ああ、これは口にするのも悲しいことです。まことに、このような事は、あるべきではありません(ヤコブ三・一〇)。ですから、人々に彼らに聞かないよう指示することは、実際には、人々を神の定めから断ち切ることになるでしょう。けれども、私たちには、あえてそうすることはできません。神の定めの効力は、それを執り行う者の善良さによるのではなく、それを定めた方の真実によるからです。その方は、ご自分の定めた道で、私たちに会おうとされ、実際に会ってくださいます。ですから、この理由からも、私は「にせ預言者にさえ聞いてはならない」と言うことをためらうのです。自分自身はのろいの下にある者たちを通してさえ、神は私たちに祝福を与えることがおできになり、実際に与えてくださいます。彼らがさくパンが、「キリストのからだにあずかること」(第一コリント一〇・一六)であることを、私たちは経験によって知っているからです。そして、彼らの汚れた唇を通してさえ神が祝福された杯は、私たちにとって、キリストの血にあずかること(第一コリント一〇・一六)だったのです。

(九) ですから、私の言えることは、これだけです。個々の場合に、へりくだった切なる祈りをもって神を待ち望み、そのうえで、自分の持っている最善の光に従って行動しなさい。全体として見て、自分の霊の益に最もなると確信することに従って、行動しなさい。軽率にさばくことのないよう、よく気をつけなさい。だれかを、軽々しくにせ預言者と思うことのないようにしなさい。そして、十分な証拠をつかんだときにも、怒りや軽蔑が心に少しも入り込まないようにしなさい。そのうえで、神のみまえで、神を恐れつつ、自分で決めなさい。私はただ、こう言えるだけです。彼らに聞くことが自分の魂を害すると経験によって分かったなら、彼らに聞いてはなりません。そのときは、静かに控え、自分の益になる人々に聞きなさい。反対に、それが自分の魂を害さないと分かったなら、そのまま彼らに聞き続けてもかまいません。ただ、「どう聞くかに注意」しなさい(ルカ八・一八)。彼らと彼らの教えとを警戒しなさい。恐れおののきつつ(ピリピ二・一二)聞きなさい。欺かれて、彼らと同じように迷わす力(第二テサロニケ二・一一)に引き渡されることのないためです。彼らは絶えず真理と偽りとを混ぜ合わせているのですから、あなたは両方を一緒に何とたやすく取り込んでしまうことでしょう! 人に知恵を教えるただひとりの方に、熱心に絶えず祈りながら聞きなさい。そして、聞くことは何でも、「教とあかしと」(イザヤ八・二〇)に照らすようにしなさい。試していないものは何一つ受け入れてはなりません。聖所のはかりで量ってみるまでは、何も受け入れてはなりません。彼らの言うことは、聖書の言葉によってはっきり確かめられないかぎり、何も信じてはなりません。聖書と異なるもの、聖書によって確かめられないものは、何であれすっかり退けなさい。救いの道として説かれるもののうち、主が先立つ説教で示された道と異なるもの、それに及ばないものがあれば、とりわけそれを、この上ない嫌悪をもって退けなさい。

(一〇) 結ぶにあたって、今まで語ってきた人々に、飾りのない言葉を少し語らないわけにはいきません。ああ、にせ預言者たちよ! 枯れた骨よ! せめて一度は、主の言葉を聞きなさい(エゼキエル三七・四)! あなたがたは、いつまで神の名によって偽りを語るのですか。神があなたがたを通して語られたのではないのに、いつまで「神が語られた」と言うのですか。いつまで、主のまっすぐな道を曲げ(使徒一三・一〇)、暗やみを光とし、光を暗やみとする(イザヤ五・二〇)のですか。いつまで死の道を教え、それをいのちの道と呼ぶのですか。神のもとに導くと公言している魂を、いつまでサタンに引き渡す(第一コリント五・五)のですか。

(一一) 「盲人を手引きする盲人」(マタイ一五・一四)たちよ、「あなたがたは、わざわいです。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせません。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしないのです」(マタイ二三・一三)。「狭い戸口からはいるように努め」(ルカ一三・二四)ようとする人々を、あなたがたは広い道へ呼び戻します。神の道をやっと一歩踏み出したばかりの人々に、あなたがたは悪魔のように、行き過ぎないよう注意します。やっと「義に飢えかわ」き(マタイ五・六)始めた人々に、あなたがたは「義に過ぎ」ないよう(伝道七・一六)警告します。こうして、あなたがたは、彼らを入口そのものでつまずかせます。そうです、倒れて二度と起き上がれないようにするのです。ああ、なぜ、あなたがたはこんなことをするのですか。彼らが墓に下るとき、その血に何の益があるでしょうか(詩篇三〇・九)。あなたがたにとって、みじめな益です! 彼らは「自分の罪によって死」にます。「しかし」神は「その血を」あなたがたの「手に求め」られるのです(エゼキエル三三・八)!

(一二) あなたがたの目はどこにあるのですか。あなたがたの理解力はどこにあるのですか。ほかの人々を欺いているうちに、自分自身をも欺いてしまったのですか。自分の知りもしない道を教えることを、だれが、あなたがたに求めたのですか(イザヤ一・一二)。あなたがたは、「迷わす力」に引き渡されて、偽りを教えるだけでなく、「偽りを信じる」までになっているのですか(第二テサロニケ二・一一)。そして、神があなたがたをつかわした、あなたがたは神の使者だと、本当に信じることができるのですか。いいえ。もし主があなたがたをつかわされたのなら、主のわざはあなたがたの手によって栄えるはずです。主は生きておられます。もしあなたがたが神の使者なら、神はその使者の言葉を確かなものとされるはずです。けれども、主のわざは、あなたがたの手によって栄えていません。あなたがたは、罪人をひとりも悔い改めに導いていません。主は、あなたがたの言葉を確かなものとされません。あなたがたは、一つの魂も死から救っていないからです。

(一三) これほど十分で、これほど強く、これほどはっきりした主の言葉の力から、どうして逃れることができるでしょうか。自分の実によって、すなわち悪い木の悪い実によって、自分自身を知ることから、どうして逃れられるでしょうか。そして、ほかになりようがあるでしょうか。「茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があるでしょうか」(マタイ七・一六)。これが当てはまる人々よ、これを自分のこととして受けとめなさい! ああ、実を結ばない木々よ、なぜ土地をむだにふさいでいるのですか(ルカ一三・七)。「すべて良い木は良い実を結びます」(マタイ七・一七)。ここには例外がないことが分からないのですか。それなら、あなたがたは良い木ではないことを知りなさい。良い実を結んでいないからです。「悪い木は悪い実を結びます」(マタイ七・一七)。そして、あなたがたは初めからそうしてきました。あなたがたは、神から出たかのように語ってきました。その結果、聞いた人々は、悪魔のわざにではないとしても、悪魔の気質に固められただけでした。ああ、あなたがたがその名によって語っている方から、警告を受けなさい。その方が宣告された判決が執行される前にです。「良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれます」(マタイ七・一九)。

(一四) 愛する兄弟たち、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけません(ヘブル三・八)! あなたがたは、あまりにも長い間、光に対して目を閉ざしてきました。手遅れにならないうちに、外のやみ(マタイ八・一二)に投げ出されないうちに、今、目を開きなさい! この世のどんな配慮にも、心を動かされてはなりません。永遠がかかっているのです。あなたがたは、つかわされる前に走ったのです(エレミヤ二三・二一)。ああ、もうこれ以上進んではなりません! 自分自身と、自分に聞く人々とを滅びに定めることを、続けてはなりません! あなたがたの労苦には、何の実もありません。それはなぜでしょうか。ほかでもなく、主があなたがたと共におられないからです。けれども、あなたがたは、自分で費用を出して、この戦いを続けることができるでしょうか(第一コリント九・七)。それはできません。それなら、主の前にへりくだりなさい。ちりの中から主に叫び求めなさい。主がまず、あなたの魂を生かし、愛によって働く信仰(ガラテヤ五・六)を与えてくださるためです。それは、謙遜で柔和な、清くあわれみ深い信仰、良いわざに熱心な(テトス二・一四)信仰です。患難の中でも、そしりの中でも、苦しみの中でも、義のための迫害(マタイ五・一〇)の中でも喜ぶ信仰です! そうすれば、「栄光の霊」、キリストの霊が、あなたに「宿る」でしょう(第一ペテロ四・一四)。そして、神があなたをつかわされたことが明らかになるでしょう。そうすれば、あなたは本当に、「伝道者のわざをなし、自分の務を全う」するでしょう(第二テモテ四・五)。そうすれば、あなたの口にある神の言葉は、「岩を打ち砕く鎚」となるでしょう(エレミヤ二三・二九)! そのとき、あなたの実によって、あなたが主の預言者であることが知られるでしょう。神があなたに賜わった子たち(イザヤ八・一八)によって、知られるのです。そして、「多くの人を義に導」いたあなたは、「星のようになって永遠に」輝くのです(ダニエル一二・三)!