ジョン・ウェスレー標準説教集

説教三十一 山上の説教(十一)

「狭い門からはいりなさい。滅びにいたる門は大きく、その道は広いのです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちにいたる門は狭く、その道は細いのです。そして、それを見いだす者が少ないのです」(マタイ七・一三〜一四)

(一) 私たちの主は、真の宗教に初めて入るときに、たやすく私たちにまといつく危険について警告されました。それは、内側から、すなわち私たち自身の心の悪から自然に生じる妨げでした。そして今、主は、外側からの妨げ、とりわけ悪い模範と悪い助言とについて、私たちに知らせようとされます。そのどちらかによって、かつてはよく走っていた(ガラテヤ五・七)何千もの人々が、信仰を捨てて滅びてしまいました(ヘブル一〇・三九)。そうです、宗教の初心者ではなく、義においていくらか進んでいた人々の多くも、そうなったのです。ですから、主は、これらに対する警告を、できるかぎりの熱心さをもって私たちに迫られます。そして、さまざまな言い表し方で、繰り返し語られます。私たちが万一にもそれを聞き流してしまうことのないためです。こうして、前者から私たちを確かに守るために、主は言われます。「狭い門からはいりなさい。滅びにいたる門は大きく、その道は広いのです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちにいたる門は狭く、その道は細いのです。そして、それを見いだす者が少ないのです」(マタイ七・一三〜一四)。後者から私たちを守るためには、「にせ預言者を警戒しなさい」(マタイ七・一五)と言われます。今は、前者だけを考えることにします。

(二) 私たちの祝福された主は言われます。「狭い門からはいりなさい。滅びにいたる門は大きく、その道は広いのです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちにいたる門は狭く、その道は細いのです。そして、それを見いだす者が少ないのです」(マタイ七・一三〜一四)。

(三) この言葉の中に、私たちは次のことを認めることができます。第一に、地獄への道の切り離せない特質です。「滅びにいたる門は大きく、その道は広いのです。そして、そこからはいって行く者が多いのです」(マタイ七・一三)。第二に、天国への道の切り離せない特質です。「門は狭く」、「それを見いだす者が少ないのです」(マタイ七・一四)。第三に、それに基づく真剣な勧めです。「狭い門からはいりなさい」(マタイ七・一三)。

【一】 地獄への道の切り離せない特質

(一) 第一に、私たちは、地獄への道の切り離せない特質を認めることができます。「滅びにいたる門は大きく、その道は広いのです。そして、そこからはいって行く者が多いのです」(マタイ七・一三)。

(二) まことに、滅びにいたる門は大きく、その道は広いのです(マタイ七・一三)! 罪が地獄の門であり、悪が滅びへの道だからです。罪の門は、何と大きいことでしょう! 悪の道は、何と広いことでしょう! 神の「戒めは限りなく広いのです」(詩篇一一九・九六)。それは、私たちのすべての行いに及ぶだけではありません。唇から出るすべての言葉にも、そうです、心にわき起こるすべての思いにも及ぶのです。そして、罪は戒めと同じだけ広いのです。戒めを破ることは、どんなものでも罪だからです。いや、むしろ、罪は千倍も広いのです。戒めを守る道は一つしかないからです。行う事柄も、その行い方も、ほかのすべての事情も正しいのでなければ、私たちは戒めを本当に守ってはいないのです。けれども、どの戒めにも、それを破る道は千もあります。ですから、この門はまことに大きいのです。

(三) このことを、もう少し詳しく考えてみましょう。ほかのすべての罪を生み出す、あの親である罪は、何と広く及ぶことでしょう! それは、神に敵する肉の思い(ローマ八・七)、心の高慢、わがまま、世への愛です。私たちは、それらに何かの境を定めることができるでしょうか。それらは、私たちのすべての思いに広がり、すべての気質に入り混じっているではありませんか。それらは、多かれ少なかれ、私たちの心の思いのかたまり全体をふくらませるパン種(第一コリント五・六)ではないでしょうか。自分自身を綿密に、誠実に調べるなら、これらの苦い根(ヘブル一二・一五)が絶えずはえ出ているのに気づくのではないでしょうか。それが、私たちのすべての言葉を毒し、すべての行いを汚しているのに気づくのではないでしょうか。そして、それらは、どの時代にも、どの国民の中にも、何と数えきれない子孫を生み出すことでしょう! それは、全地を暗やみと暴力のすまい(詩篇七四・二〇)とでおおうほどです。

(四) ああ、だれが、そののろわれた実を数え上げることができるでしょうか。神に対するものであれ、隣人に対するものであれ、すべての罪を数えることができるでしょうか。想像が描き出すような罪ではありません。日々の、痛ましい経験となりうる罪です。それを見つけるのに、全地を巡り歩く必要はありません。どれか一つの王国、ただ一つの地方、あるいは都市や町を見渡してみなさい。この収穫は何と豊かなことでしょう! しかも、いまだにイスラム教や異教の暗やみにおおわれている国を選んではなりません。キリストの名を呼び、その栄光の福音の光(第二コリント四・四)を見ていると公言する国を選びなさい。私たちの属するこの王国、今私たちのいるこの都市より先へ行く必要はありません。私たちは、自分をクリスチャンと呼んでいます。しかも、最も純粋な種類のクリスチャンだと言っています。私たちはプロテスタントであり、改革されたクリスチャンなのだ、と! けれども、ああ、だれが、私たちの見解の改革を、心と生活にまで推し進めるのでしょうか。そう問うだけの理由がないと言えるでしょうか。私たちの罪は、何と数えきれないことでしょう。しかも、最も深い色に染まった罪です! あらゆる種類の最もひどい忌まわしいことが、日ごとに私たちの間にはびこっているではありませんか。水が海をおおっているように(イザヤ一一・九)、あらゆる種類の罪が国土をおおっているではありませんか。だれがそれを数えることができるでしょうか。それよりは、行って雨のしずくや、海辺の砂を数えるほうがたやすいでしょう。それほど「滅びにいたる門は大きく、その道は広い」のです(マタイ七・一三)!

(五) その門から「はいって行く者が多い」のです(マタイ七・一三)。その道を歩む者が多いのです。死の門をくぐる者、墓のへやに沈んでいく者と、ほとんど同じほど多いのです。次のことは否定できないからです(もっとも、恥と心の悲しみなしに、これを認めることもできません)。キリスト教国と呼ばれるこの国においてさえ、人々の大部分が滅びの道を歩んでいるのです。あらゆる年齢と性別、あらゆる職業と仕事、あらゆる身分と階級において、そうです。身分の高い者も低い者も、富む者も貧しい者も、そうなのです。この都市の住民のはるかに大部分は、今日に至るまで罪のうちに生きています。守ると公言している律法に対する、何かあからさまな、習慣的な、それと知りながらの違反のうちに生きているのです。そうです、何か外面の違反、ひどい、目に見える不信心や不義のうちに生きています。神に対する務めであれ、人に対する務めであれ、何かの務めを公然と破っているのです。ですから、だれも否定できないことですが、この人々はみな、滅びにいたる道にいるのです。この人々に、次の人々を加えなさい。生きているというのは名だけで、まだ一度も神に対して生きたことのない人々です。外側は人に美しく見えても、内側はあらゆる不潔なものでいっぱいの人々です(マタイ二三・二七〜二八)。高慢や虚栄、怒りや復讐心、野心や貪欲でいっぱいの人々です。自分を愛する者、世を愛する者、神よりも快楽を愛する者です(第二テモテ三・二、四)。確かに、この人々は人の間で尊ばれるかもしれません。けれども、主のみまえでは忌みきらわれる者です(ルカ一六・一五)。これらの世の聖人たちは、地獄の子(マタイ二三・一五)の数を、何と大きくふくらませることでしょう。そうです、さらに次の人々をみな加えなさい。ほかの点ではどうであれ、また、敬虔の形(第二テモテ三・五)を多く持っていても少なく持っていても、みな加えるのです。その人々は、「神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め」る人々です(ローマ一〇・三)。彼らは、神と和解し、神に受け入れられる根拠として、自分の義を立てようとするのです。その結果、信仰による「神からの義」(ピリピ三・九)に「従わなかった」のです(ローマ一〇・三)。さて、これらをすべて一つに合わせるなら、主の次の断言は、何と恐ろしいほど真実でしょう。「滅びにいたる門は大きく、その道は広いのです。そして、そこからはいって行く者が多いのです」(マタイ七・一三)。

(六) また、これは卑しい群衆、すなわち人類の中の貧しく、卑しく、愚かな部分だけに関わることではありません。世の中で名の知れた人々、多くの畑や何対もの牛を持つ人々も、これだけは断ろうとはしません。それどころか、人間的に知恵のある者、すなわち人間の判断の仕方で知恵があるとされる者が、多く召されています。権力や勇気や富において力のある者が多く、身分の高い者が多く、召されています(第一コリント一・二六)。世と肉と悪魔によって、広い道へと召されているのです。そして、彼らはその召しにそむきません。そうです、富と権力において高く上げられるほど、彼らは深く悪に沈みます。神から多くの祝福を受けるほど、多くの罪を犯します。名誉や富、学識や知恵を、自分の救いの達成に努める(ピリピ二・一二)手段としてではなく、むしろ悪徳にひいでる手段として用います。こうして、自分の滅びを確かなものにしてしまうのです!

【二】 天国への道の切り離せない特質

(一) これらの人々の多くが、広い道をこれほど安心して進んで行く理由は、まさに、その道が広いからです。それが滅びへの道の切り離せない特質であることを、考えないのです。主は、「そこからはいって行く者が多い」(マタイ七・一三)と言われます。彼らは、まさにそこから逃げるべき理由のために、そこへはいって行くのです。逃げるべきなのは、「いのちにいたる門は狭く、その道は細い」(マタイ七・一四)からです。「それを見いだす者が少ない」からです(マタイ七・一四)。

(二) これが、天国への道の切り離せない特質です。いのちに、すなわち永遠のいのちにいたる道は、それほど細く、その門はそれほど狭いのです。汚れたものも、聖くないものも、何一つはいることができません(黙示録二一・二七)。罪人はだれも、すべての罪から救われるまでは、その門を通ることができません。外面の罪から、すなわち「先祖伝来の」悪い「生活」(第一ペテロ一・一八)から救われるだけではありません。「悪を行うことをやめ」(イザヤ一・一六)、「善を行うことをなら」った(イザヤ一・一七)だけでは足りません。その人は、あらゆる罪深い行いから、また、あらゆる悪い、むだな話から救われなければなりません。それだけでなく、内側から変えられ、心の深みまで、すっかり新たにされなければなりません(エペソ四・二三)。そうでなければ、いのちの門を通ることはできず、栄光にはいることはできません。

(三) なぜなら、いのちにいたる「その道は細い」からです(マタイ七・一四)。それは、あらゆる面にわたる聖性の道です。まことに、こころの貧しさの道は細いのです。聖い悲しみの道、柔和の道、義に飢えかわく(マタイ五・六)道も細いのです。あわれみ深さの道、偽りのない愛(第二コリント六・六)の道、心の清さの道は細いのです。すべての人に善を行う道、義のために(マタイ五・一〇)悪を、あらゆる悪を喜んで耐え忍ぶ道も細いのです。

(四) 「そして、それを見いだす者が少ないのです」(マタイ七・一四)。ああ、異教徒の正直さの道さえ、見いだす者は何と少ないことでしょう! 自分が人からしてほしくないことを、人にしない者は、何と少ないことでしょう。神の前で、不正な行いからも不親切な行いからも潔白な者は、何と少ないことでしょう! 「舌をもって罪を犯さない」(詩篇三九・一)者、不親切なことも偽りも何一つ語らない者は、何と少ないことでしょう。外面の違反についてさえ罪のない者は、人類のうちの何とわずかな割合でしょう! まして、神の前に心が正しく、神の目に清く聖い者は、何とさらにわずかなことでしょう。すべてを探り知る神の目が、次のような者と見分ける人々は、どこにいるのでしょうか。本当に謙遜な人々、救い主なる神の前で、ちりと灰の中で自分を忌みきらう人々です。自分の欠乏を感じ、「宿っている間を、おそれの心をもって過ご」し(第一ペテロ一・一七)、深く、変わることなくまじめな人々です。本当に柔和で優しく、決して「悪に負け」ず、かえって「善をもって悪に勝」つ(ローマ一二・二一)人々です。心から神を慕いかわき(詩篇四二・二)、神のかたちに新たにされることを絶えずあえぎ求める人々です。次のような人々は、地上に何とまばらにしか散らばっていないことでしょう。魂がすべての人への愛に広げられ、力をつくして神を愛し(マルコ一二・三〇)、神に心をささげ、天にも地にも神のほかに何も慕わない(詩篇七三・二五)人々です。神と人とを愛する人々で、すべての人に善を行うために全力を費やす者は、何と少ないことでしょう。一つの魂を永遠の死から救い出す(ヤコブ五・二〇)ために、すべてを、そうです、死そのものをも忍ぶ覚悟のある者は、何と少ないことでしょう!

(五) けれども、いのちの道に見いだされる者はこれほど少なく、滅びの道にいる者はこれほど多いのです。ですから、模範の激流が私たちをも彼らと一緒に押し流してしまう、大きな危険があります。ただ一つの模範でさえ、いつも目の前にあれば、私たちに強い印象を与えがちです。とりわけ、それが生れながらの性質を味方につけているとき、私たち自身の好みと一致するときは、そうです。それなら、これほど多くの模範が絶えず目の前にあるのです。そのすべてが私たち自身の心と一緒になって、私たちを生れながらの性質の流れに押し流そうとするのです。その力は何と大きいことでしょう! その潮流に逆らい、自分を「世の汚れに染まずに」保つ(ヤコブ一・二七)ことは、何と難しいことでしょう!

(六) この困難をさらに大きくするのは、次のことです。私たちに模範を示し、下り坂の道に群がっているのは、人類の中の粗野で無分別な人々ではありません。少なくとも、その人々だけではありません。洗練された人々、育ちのよい人々、上品な人々、賢い人々、世の中を心得た人々です。知識があり、深く多方面にわたる学識を持つ人々、理性的な人々、雄弁な人々です。この人々はみな、あるいはほとんどみな、私たちに反対しています。私たちは、どうしてこの人々に立ち向かえるでしょうか。彼らの舌からはマナがしたたるではありませんか。彼らは、柔らかな説得のあらゆる術を身につけているではありませんか。推論の術も身につけています。彼らは、あらゆる論議と言葉の争い(第一テモテ六・四)に通じているのです。ですから、彼らにとっては、次のことを証明するのはたやすいことです。道は広いのだから正しい。多数に従う者が悪を行うはずはなく、多数に従おうとしない者だけが悪を行うのだ。あなたの道は細く、それを見いだす者がこれほど少ないのだから、間違っているに違いない、と。彼らは、悪は善であり、善は悪である(イザヤ五・二〇)ことを、論証によって明らかにしてみせます。聖性の道は滅びの道であり、世の道こそ天国へのただ一つの道であることを、明らかにしてみせるのです。

(七) ああ、無学な、ただの人たち(使徒四・一三)が、このような相手に対して、どうして自分の主張を守れるでしょうか! しかも、彼らが戦わなければならない相手は、これだけではありません。その務めにどれほど力が及ばなくても、戦わなければならないのです。滅びにいたる道には、賢い人々だけでなく、力ある人々、身分の高い人々、権力のある人々も大勢いるからです。そして、この人々には、理性や議論よりも手っ取り早い論破の仕方があります。彼らはたいてい、自分に反対する者の理解力にではなく、恐れに訴えます。これは、議論が何の役にも立たないところでさえ、めったに失敗しない方法です。すべての人の能力に見合っているからです。推論ができてもできなくても、だれでも恐れることはできるのです。神を堅く信頼せず、神の力と愛とに確かに寄り頼んでいない者がいます。そういう者はみな、世の権力を手にしている人々の機嫌を少しでも損ねることを、恐れずにはいられません。ですから、この人々の模範が、神を知らないすべての人にとっておきてとなるとしても、何の不思議があるでしょうか。

(八) 同じように、多くの富んだ人々も広い道にいます。そして、この人々は、人々の望みと、あらゆる愚かな欲とに訴えます。力ある人々や身分の高い人々が恐れに訴えるのと同じほど、強く、効果的に訴えるのです。ですから、下界のすべてに対して死んでいなければ、あなたが御国の道を歩み続けることは困難です。世に対して十字架につけられ、世もあなたに対して十字架につけられていなければ、困難です。神のほかに何も望まないのでなければ、困難なのです。

(九) 反対側の眺めは、何と暗く、何と慰めがなく、何と近寄りがたいことでしょう! 狭い門! 細い道! しかも、その門を見いだす者はわずかです! その道を歩む者はわずかです。そのうえ、そのわずかな人々でさえ、賢い人々ではなく、学識や雄弁のある人々でもありません。力強く推論することも、はっきり推論することもできません。議論を持ち出しても、少しも有利に運べません。自分が信じていると公言することを、どう証明すればよいか分かりません。自分が経験していると言うことさえ、説明できません。確かに、このような弁護者たちは、自分の支持する主張を人に勧めるどころか、かえってその信用を落とすでしょう。

(一〇) これに加えて、彼らは身分の高い人々でも、地位のある人々でもありません。もしそうなら、彼らの愚かさを我慢できるかもしれません。彼らは、世の中で何の勢力も、何の権威もなく、物の数にも入らない人々です。卑しく、さもしく、身分の低い人々です。たとえその気があっても、あなたを害する力のない人々です。ですから、彼らから恐れるべきものは何もありません。望むべきものも何もありません。彼らの大部分は、「金銀はわたしには無い」(使徒三・六)と言えるからです。少なくとも、ごくわずかしか持っていません。いや、中には、食べる物も着る物もろくにない人々もいます。このために、また、その歩みがほかの人々の歩みと違っているために、彼らはいたるところで反対され(使徒二八・二二)、軽んじられます。汚名を着せられ(ルカ六・二二)、さまざまに迫害されます。そして、この世のちり、人間のくずのように扱われるのです(第一コリント四・一三)。ですから、あなたの恐れも、望みも、すべての欲求も(神から直接与えられたものは別です)、絶えずあなたを広い道に戻るように傾けます。そうです、生れながらのすべての情念が、そうするのです。

【三】 この特質に基づく真剣な勧め

(一) だからこそ、主はこれほど熱心に勧められるのです。「狭い門からはいりなさい」(マタイ七・一三)。あるいは(同じ勧めが別の箇所で言い表されているように)、「はいるように努めなさい」(ルカ一三・二四)。原語はアゴーニゼステ・エイセルテイン(ἀγωνίζεσθε εἰσελθεῖν)です。すなわち、「苦闘するように努めなさい」(ルカ一三・二四)ということです。主は言われます。「はいろうとしても」、すなわち怠惰に努めても、「はいれない人が多い」のです(ルカ一三・二四)。

(二) 確かに、主は、これにすぐ続く言葉の中で、彼らがはいれないことについて、別の理由と思えるものをほのめかしておられます。主は、「はいろうとしても、はいれない人が多い」(ルカ一三・二四)と、あなたがたに言っておく、と言われました。そのあとで、こう付け加えられるのです。「家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うでしょう」(ルカ一三・二五、二七)。原文はアルクセーステ・エクソー・ヘスタナイ(ἄρξησθε ἔξω ἑστάναι)で、直訳すれば『外に立ち始め』です。けれども、むしろ『外に立ち』と読むべきでしょう。アルクセーステ(始める)は、文を整える優美な虚辞にすぎないと思われるからです。

(三) この言葉をざっと見ると、こう見えるかもしれません。彼らがはいれなかった理由は、その求め方よりも、むしろ求めること自体を遅らせたことにあった、と。けれども、結局は同じことになるのです。彼らが立ち去るよう命じられたのは、「悪事を働く者ども」(ルカ一三・二七)だったからです。広い道を歩んできたからです。言いかえれば、苦闘して「狭い戸口からはいる」ように努めなかったからです(ルカ一三・二四)。おそらく彼らは、戸が閉じられる前に求めはしたのでしょう。けれども、それでは足りませんでした。そして、戸が閉じられたあとには、確かに努めました。けれども、そのときにはもう遅すぎたのです。

(四) ですから、あなたがたは今、あなたがたのこの日に、「狭い戸口からはいる」(ルカ一三・二四)ように努めなさい。そのために、次のことを心に定め、いつも思いの一番上に置きなさい。もしあなたが広い道にいるなら、あなたは滅びにいたる道にいるのだ、ということです。多くの人があなたと一緒に行くなら、神が真実であるのと同じほど確かに、彼らもあなたも地獄へ向かっています! 大多数の人が歩むように歩んでいるなら、あなたは底知れぬ所(黙示録二〇・一)へ向かって歩んでいるのです! 多くの賢い人、多くの富んだ人、多くの力ある人や身分の高い人が、同じ道をあなたと一緒に旅しているでしょうか。それなら、このしるしによって、それ以上進まなくても、その道がいのちに至らないことが分かります。ここに、細かいことに立ち入る前の、短く、明白で、誤ることのない規則があります。あなたがどんな職業についていても、人と違う者とならなければ、滅びに定められます! 地獄への道には、人と違うところが何もありません。けれども、天国への道は、どこまでも人と違うことばかりです。神に向かって一歩でも進むなら、あなたはもう、ほかの人たちのようではなくなります(ルカ一八・一一)。けれども、そのことを気にしてはなりません。穴に落ちるよりは、ひとりで立つほうがはるかにましです。ですから、その競走の仲間はわずかでも、あなたの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬきなさい(ヘブル一二・一)。仲間がいつまでもわずかなわけではありません。もうしばらくすれば、あなたは「無数の天使の祝会」(ヘブル一二・二二)、「長子たちの教会」、「全うされた義人の霊」(ヘブル一二・二三)に近づくのです。

(五) それでは今、「狭い戸口からはいるように努め」なさい(ルカ一三・二四)。あなたの魂が置かれている言いようのない危険を、心の底まで深く感じながら、努めなさい。広い道にいるかぎり、あなたの魂はその危険の中にあるのです。こころの貧しさを欠き、あの内なる宗教のすべてを欠いているかぎり、そうなのです。その内なる宗教を、多くの人々、富んだ人々、賢い人々は狂気と見なします。「はいるように努めなさい」(ルカ一三・二四)。これほど長い間、考えのない群衆と一緒に走り続けてきたことへの悲しみと恥とに刺し通されながら、努めなさい。その間、あなたは聖性を、軽んじてはいなかったとしても、まったくなおざりにしてきたのです。「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル一二・一四)と言われる、あの聖性です。聖い恐れのうちに苦闘するようにして、努めなさい。あなたがたには「神の安息にはいるべき約束が」(ヘブル四・一)与えられています。それは、「神の民のためにまだ残されている」(ヘブル四・九)安息です。それなのに、万一にも「はいりそこなう」(ヘブル四・一)ことのないように、努めなさい。燃えるような願いを尽くし、「言葉にあらわせない切なるうめき」(ローマ八・二六)をもって、努めなさい。絶えず祈る(第一テサロニケ五・一七)ことによって、努めなさい。いつでも、どこでも、心を神に向けて上げ、神を休ませずに(イザヤ六二・七)、努めなさい。神のみかたちに似た者として目ざめ、それに満ち足りるまで、努めなさい。

(六) 結びに申します。「狭い戸口からはいるように努め」なさい(ルカ一三・二四)。魂のこの苦闘、すなわち罪の自覚と、悲しみと、恥と、願いと、恐れと、絶えざる祈りとの苦闘によって努めるだけではありません。自分のふるまいを正しく整え、力を尽くして神のすべての道を歩むことによっても、努めなさい。罪のない道、敬虔の道、あわれみの道を歩むのです。あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい(第一テサロニケ五・二二)。すべての人に、できるかぎりの善を行いなさい。すべてのことにおいて自分を、自分の意志を捨て、日々自分の十字架を負いなさい(ルカ九・二三)。右の手を切り、右の目を抜き出して捨てる(マタイ五・二九〜三〇)覚悟をしなさい。財産も、友も、健康も、地上のすべてのものを失う(ピリピ三・八)覚悟をしなさい。天国にはいることさえできるなら、それでよいのです!