ジョン・ウェスレー標準説教集

説教三十 山上の説教(十)

「人をさばいてはなりません。自分がさばかれないためです。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるでしょう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのですか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えるでしょうか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるでしょう。聖なるものを犬にやってはなりません。また真珠を豚に投げてやってはなりません。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるでしょう。求めよ、そうすれば、与えられるでしょう。捜せ、そうすれば、見いだすでしょう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるでしょう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからです。あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があるでしょうか。魚を求めるのに、へびを与える者があるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものをくださらないことがあるでしょうか。だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにしなさい。これが律法であり預言者です」(マタイ七・一〜一二)

(一) 私たちの祝福された主は、今や、そのおもな目的を果たし終えられました。まず、真の宗教の要点を述べ、人々が神の言葉を無にしようとする(マルコ七・一三)注釈から、それを注意深く守られました。次に、私たちがあらゆる外面の行いにおいて保つべき、正しい意図についての規則を定められました。そして今、この宗教を妨げるおもなものを指摘し、最後にふさわしい適用をもって全体を結ばれます。

(二) 第五章で、私たちの偉大な教師は、内なる宗教を、そのさまざまな枝に分けて十分に描き出されました。そこで主は、真のキリスト教を形づくる魂の性向を、私たちの前に示されました。それは、聖性に含まれる気質です。この聖性について、「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」と言われています(ヘブル一二・一四)。また、それは心の思いです。その心の思いは、本来の泉から流れ出るとき、それ自体として、本質的に善であり、神に受け入れられるものです。本来の泉とは、キリスト・イエスを通して神を信じる生きた信仰です。第六章では、私たちのすべての行いも同じようになりうることを示されました。純粋で聖い意図によって、聖く、良い、神に受け入れられるものとなりうるのです。それ自体の性質では善でも悪でもない行いでさえ、そうなるのです。この意図なしに行われることは何であれ、神の前に何の価値もない、と主は宣言されます。これに対して、このように神にささげられた外面のわざは何であれ、神の目に大きな価値があるのです。

(三) この章の前半で、主は、この聖性を妨げる、最もありふれた、最も致命的なものを指摘されます。後半では、さまざまな動機を示して、それらすべてを突き破るよう私たちに勧められます。そして、上に召してくださる神の賞与(ピリピ三・一四)を確かに得るよう勧められるのです。

(四) 主が私たちに警告される第一の妨げは、さばくことです。「人をさばいてはなりません。自分がさばかれないためです」(マタイ七・一)。他人をさばいてはなりません。主にさばかれないためです。自分の頭上に報復を招かないためです。「あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるでしょう」(マタイ七・二)。これは、はっきりとした公平な規則です。大いなる日のさばき(ユダ六)で、神はあなたがたをどう扱われるでしょうか。この規則によって、神はそれをあなたがた自身が決めることを許しておられます。

(五) 神の子はだれでも、どんな境遇にあっても、どんな時期にあっても、この警告を必要とします。それは、初めて悔い改めて福音を信じた(マルコ一・一五)ときから、愛において全うされる(第一ヨハネ四・一八)ときまで変わりません。さばく機会は、決してなくならないからです。そして、さばきへの誘惑は数えきれません。その多くは実に巧みに偽装されているので、私たちは何の危険も疑わないうちに、その罪に陥ってしまいます。これによって生じる害は、言いようもないほどです。他人をさばく者は、いつも害を受けます。こうして自分の魂を傷つけ、自分を神の正しいさばき(ローマ二・五)にさらすのです。さばかれる者も、しばしば害を受けます。その人の手はなえ(ヘブル一二・一二)、その歩みは弱められ、妨げられます。まったく道を踏みはずし(ヘブル一二・一三)、滅びにまで引き返してしまうのでなくても、そうなるのです。この「苦い根がはえ出て」(ヘブル一二・一五)、「それによって多くの人が汚される」(ヘブル一二・一五)ことがあります。そのために、真理の道そのものがそしりを受け(第二ペテロ二・二)、私たちに対して唱えられたあの尊い御名が汚されます(ヤコブ二・七)。そうです、そうしたことが、何としばしばあることでしょう!

(六) けれども、主がこの警告を、神の子たちだけに、あるいはおもに神の子たちに向けられたとは思えません。むしろ、この世の子たち、神を知らない人々(第一テサロニケ四・五)に向けられたのです。この人々は、世のものでない人々のことを耳にせずにはいられません。その人々は、先に述べた宗教を追い求めています。謙遜で、まじめで、柔和で、あわれみ深く、心の清い者であろうと努めています。これらの聖い気質を、まだ到達していない程度にまで得たいと、熱心に願っています。そして、すべての人にあらゆる善を行い、忍耐して悪を耐え忍びながら、それを待ち望んでいるのです。ここまで進んだだけの人でも、だれであれ、隠れることができません。それは、「山の上にある町」(マタイ五・一四)と同じです。では、なぜ、その人々の「よいおこないを見」る者たちが、「天にいます」その「父をあがめ」ないのでしょうか(マタイ五・一六)。その人々の足跡に従わないことに、どんな言い訳があるのでしょうか。その人々はキリストにならう者です。それなのに、その模範に倣わず、その人々にならう者とならない(第一コリント一一・一)ことに、どんな言い訳があるのでしょうか。実は、彼らは自分のための言い訳を用意しようとして、倣うべき人々を責めるのです。自分の欠点を正す代わりに、隣人の欠点を探し出すことに時間を費やします。他人が道からそれることにかかりきりになって、自分ではまったくその道に入りません。少なくとも、決して前に進みません。力のない、哀れな、死んだ敬虔の形(第二テモテ三・五)から、決して先へ進まないのです。

(七) 主が次のように言われるのは、とりわけこの人々に対してです。「なぜ、兄弟の目にあるちりを見」るのですか(マタイ七・三)。そのちりとは、神の子たちの弱さ、誤り、軽率さ、力のなさです。「自分の目にある梁を認めないのですか」(マタイ七・三)。あなたは、自分のうちにあるものを認めていません。滅びに定められるべき悔い改めのなさ、悪魔的な高慢、のろわれたわがまま、偶像礼拝のような世への愛です。それらが、あなたの生涯全体を、主の忌みきらうものとしているのです。何よりも、あなたは何という怠惰な無頓着と無関心のうちに、地獄の口の上で踊っていることでしょう! それなのに、「どうして」、どんな顔をして、どんな礼儀や慎みがあって、「兄弟にむかって」(マタイ七・四)こう言えるでしょうか。「あなたの目からちりを取らせてください」(マタイ七・四)と。そのちりとは、神への熱心の行き過ぎ、極端な自己否定、世の心配事や仕事からの離れすぎです。また、昼も夜も祈っていたい、永遠のいのちの言葉(ヨハネ六・六八)を聞いていたいという願いです。見よ、「自分の目には梁がある」のです(マタイ七・四)! これらのようなちりではありません。「偽善者よ」(マタイ七・五)! あなたは他人を気づかうふりをしながら、自分の魂のことは気にもかけていません。神の大義に熱心なように見せかけながら、実は神を愛しても恐れてもいないのです。「まず自分の目から梁を取りのけなさい」(マタイ七・五)。悔い改めのなさという梁を取りのけなさい! 自分自身を知りなさい! 自分が罪人であることを見て、感じなさい! あなたの内側がはなはだしく悪であることを感じなさい。あなたがまったく腐敗した、忌まわしい者であること、神の怒りがあなたの上にとどまっていること(ヨハネ三・三六)を感じなさい。高慢という梁を取りのけなさい。自分を忌みきらい、ちりと灰の中に沈むようにへりくだりなさい。自分の目に、ますます小さく、卑しく、さもしく、つまらない者となりなさい。わがままという梁を取りのけなさい! 次の言葉の意味を学びなさい。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て」なさい(マタイ一六・二四)。自分を捨て、日々自分の十字架を負いなさい(ルカ九・二三)。あなたの魂全体に、こう叫ばせなさい。「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためです」(ヨハネ六・三八)。死ぬことのない霊であるあなたは、知っていても知らなくても、実際に天から下ってきたのです。世への愛という梁を取りのけなさい! 世も世にあるものも、愛してはなりません(第一ヨハネ二・一五)。世に対して十字架につけられ、世もあなたに対して十字架につけられた者となりなさい。世はただ用いるだけにして、神を楽しみなさい。あなたの幸いのすべてを、神のうちに求めなさい。何よりも、あの大きな梁、すなわち怠惰な無頓着と無関心を取りのけなさい! 「無くてならぬもの」は「一つだけ」(ルカ一〇・四二)であることを、深く考えなさい。それは、あなたがこれまでほとんど考えたこともない、ただ一つのことです。あなたは、大きな淵の上で震えている、哀れな、卑しい、罪ある虫けらです。そのことを知り、感じなさい! あなたは何者でしょうか。死ぬために生れた罪人です。風に吹き回される木の葉です(ヨブ一三・二五)。しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧(ヤコブ四・一四)、空中に散って、もう二度と見られなくなる霧です。このことを見なさい。「そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるでしょう」(マタイ七・五)。そのとき、自分の魂の事柄から手が空いているなら、兄弟をも正す方法が分かるでしょう。

(八) けれども、「人をさばくな」(マタイ七・一)というこの言葉の本当の意味は何でしょうか。ここで禁じられているさばきとは、何でしょうか。それは、しばしば悪口と結びついてはいますが、悪口と同じではありません。悪口とは、その場にいない人について、何か悪いことを語ることです。一方、さばくことは、その場にいない人にも、いる人にも、同じように関わりえます。また、さばくことは、語ることを必ずしも含みません。含まれるのは、他人を悪く思うことだけです。とはいえ、他人を悪く思うことがすべて、主が責めておられるさばきだというのではありません。ある人が強盗や殺人を犯すのを見たり、神の御名を汚すのを聞いたりするとします。そのとき私は、その強盗や殺人者を悪く思わずにはいられません。けれども、これは悪いさばきではありません。これには何の罪もなく、優しい愛情に反するものも何もありません。

(九) ここで責められているさばきとは、愛に反する仕方で他人のことを考えることです。そして、これにはさまざまな種類があります。第一に、私たちは、他人に責められるべき点がないのに、あると考えることがあります。その人に罪のないことを、(少なくとも自分の心の中で)その人のせいにすることがあります。その人が一度も語ったことのない言葉や、一度もしたことのない行いを、その人に負わせるのです。あるいは、その人の行いの仕方が間違っていたと考えることがあります。実際には間違っていなかったのにです。また、行いそのものにも、その仕方にも、正当に責められる点が何もないことがあります。そのようなときでさえ、私たちは、その人の意図が良くなかったと推測し、それを理由にその人を責めることがあります。そのとき、人の心を探り知るかた(ローマ八・二七)は、その人の単純さと、神にかなう誠実さとをご覧になっているのです。

(一〇) けれども、私たちがさばきの罪に陥るのは、罪のない人を責めることによってだけではありません。第二に、罪のある人を、その人が受けるべき以上に責めることによっても陥るのです。この種のさばきも、あわれみに背くだけでなく、正義にも背く罪過です。しかも、最も強く、最も優しい愛情のほかには、何もこの罪過から私たちを守ることができません。この愛情がなければ、私たちは、落ち度があると認められている人を、実際よりも大きな落ち度があるものと、すぐに思い込みます。その人のうちに見いだされる善は何であれ、低く見積もります。いや、何か悪いところを見つけた人のうちに、何か良いものが残っているとは、なかなか信じる気になれないのです。

(一一) これはみな、あの愛が明らかに欠けていることを示しています。その愛は、ウー・ロギゼタイ・カコン(οὐ λογίζεται κακόν)、すなわち悪を思いません(第一コリント一三・五)。どんな前提からも、不正な結論や不親切な結論を決して引き出しません。ある人が一度あからさまな罪に陥ったとします。愛は、それだけで、その人がいつもそうしている、習慣的にその罪を犯している、と推論したりはしません。また、その人がかつて習慣的にその罪を犯していたとしても、愛は、今もそうだと結論づけはしません。まして、今この罪を犯しているなら、ほかの罪も犯しているはずだ、などと結論づけはしません。こうした悪い推論はみな、主がここで私たちに警戒させておられる、罪深いさばきに属します。私たちが神を、あるいは自分の魂を愛しているなら、このさばきを避けることは、私たちにとって何よりも重大なことです。

(一二) けれども、私たちが罪のない人を責めず、罪のある人をも受けるべき以上には責めないとします。それでも、わなからまったく逃れているとはかぎりません。罪深いさばきには第三の種類があるからです。それは、十分な証拠がないのに、だれかを少しでも責めることです。私たちが想定する事実が、どれほど真実であったとしても、それで私たちが無罪になるわけではありません。それらは想定されるべきではなく、証明されるべきだったからです。そして、証明されるまでは、私たちは何の判断も下すべきではなかったのです。私は「証明されるまでは」と言います。事実がどれほど強く証明できるものであっても、それだけでは私たちは許されないからです。判決を下す前にその証拠が示され、相手側の証拠と比べられなければ、許されません。また、訴えられた人が自分で弁明する前に最終的な判決を下すなら、私たちは決して許されません。このことは、あわれみや兄弟愛を抜きにした、単なる正義の教えとしてなら、ユダヤ人でさえ私たちに教えることができます。ニコデモはこう言っています。「わたしたちの律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ、さばくことをしないのではありませんか」(ヨハネ七・五一)。そうです、ユダヤ民族のおもだった人々が、ある異教徒に、彼が預かっている囚人に不利な判決を求めました。そのとき、その異教徒でさえ、こう答えることができました。「訴えられた者が、訴えた者の前に立って、告訴に対し弁明する機会を与えられない前に」、人をさばくのは、「ローマ人の慣例にはないこと」です(使徒二五・一六)。

(一三) 実際、あの異教のローマ人たちの中のもうひとり〔セネカ〕が、自分の行いの尺度であったと断言している規則があります。その規則を守りさえすれば、私たちはたやすく罪深いさばきに陥ることはないでしょう。彼はこう言います。「私は、ある人がほかの人に不利な証言をするとき、それがだれの証言であっても、軽々しく信じたりはしません。それどころか、人が自分自身に不利な証言をしても、たやすく、すぐには信じないのです。私はいつも、その人に考え直す時間を与え、しばしば人に相談する機会も与えます」。クリスチャンと呼ばれているあなたも、行って同じようにしなさい(ルカ一〇・三七)。そうでないと、かの日に異教徒が立ち上がって、あなたを罪に定めるでしょう(マタイ一二・四一)!

(一四) けれども、主ご自身が、あの明白で、はっきりと言い表された規則を教えてくださいました。それに従って歩むなら、私たちが互いに責めたり、さばいたりすることは、どれほどまれになるでしょう。少なくとも、その悪はどれほど早く正されるでしょう。「もしあなたの兄弟が」あなたに対して「罪を犯すなら」(マタイ一八・一五)、あるいは罪を犯したと聞いたり信じたりするなら、「行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい」(マタイ一八・一五)。これが、あなたが踏むべき第一の段階です。「もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためです」(マタイ一八・一六)。これが第二の段階です。「もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい」(マタイ一八・一七)。教会の監督たちにでも、会衆全体にでも申し出るのです。そのとき、あなたは自分の務めを果たしたのです。それからは、もうそのことを考えず、すべてを神にゆだねなさい。

(一五) けれども、あなたが神の恵みによって「自分の目から梁を取りのけ」(マタイ七・五)、今は「兄弟の目にあるちり」(マタイ七・三)や梁が「はっきり見える」(マタイ七・五)とします。それでも、兄弟を助けようと努めることで、自分が害を受けないように気をつけなさい。やはり、「聖なるものを犬にやってはなりません」(マタイ七・六)。だれであれ、軽々しくこの部類に数えてはなりません。けれども、その呼び名に値することが明らかになったなら、そのときは、「真珠を豚に投げてやってはなりません」(マタイ七・六)。深い知識によらない熱心(ローマ一〇・二)に気をつけなさい。これは、「天の父が完全であられるように」、「完全な者と」(マタイ五・四八)なろうとする人々の道にある、もう一つの大きな妨げだからです。これを願う人々は、すべての人が共通の祝福にあずかることを願わずにはいられません。私たち自身が初めて天よりの賜物(ヘブル六・四)にあずかるときのことです。それは、神から与えられる、「まだ見ていない事実を確認すること」です(ヘブル一一・一)。そのとき私たちは、自分にはこれほどはっきり見えている事柄を、すべての人が見ていないことに驚きます。そして、少しでも交わりのある人々の目を、みな開くことができると、少しも疑わないのです。そのため、私たちは出会う人をだれかれなく、すぐさま攻め立て、相手が望もうと望むまいと、無理にでも見させようとします。そして、この節度のない熱心が失敗に終わることで、私たちはしばしば自分の魂に痛手を受けます。私たちがこのように力をむだに費やすことのないよう、主はこの必要な警告を付け加えられます(これはすべての人に必要ですが、今、初めの愛に燃えている人々には、ことに必要です)。「聖なるものを犬にやってはなりません。また真珠を豚に投げてやってはなりません。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるでしょう」(マタイ七・六)。

(一六) 「聖なるものを犬にやってはなりません」(マタイ七・六)。だれかがこの呼び名に値すると考えないように気をつけなさい。十分で、反論の余地のない証拠、もはや抗しきれないほどの証拠があるまでは、そう考えてはなりません。けれども、その人々が聖くない、悪い人々であることが、はっきりと疑いなく証明されたとします。神に対しても、すべての義とまことの聖性に対しても、無縁であるだけでなく、敵であることが証明されたとします。そのときは、こういう人々に「聖なるもの」を「やってはなりません」(マタイ七・六)。「聖なるもの」とは、ト・ハギオン(τὸ ἅγιον)、すなわち、とりわけそう呼ばれる「聖なるもの」です。福音の聖なる、独特の教理は、昔は「代々にわたって」「隠されていた」ものです(コロサイ一・二六)。それは今、ただイエス・キリストの啓示と、その聖霊の息吹によってだけ、私たちに知らされています。このような教理を、聖霊なるものがあることさえ知らない(使徒一九・二)人々に、安売りしてはならないのです。もっとも、キリストの使者たち(第二コリント五・二〇)は、大いなる会衆の中では、その教理を語らずにはいられません。その会衆の中に、こういう人々が何人かいるかもしれないとしてもです。私たちは、人々が聞いても、拒んでも(エゼキエル二・七)、語らなければなりません。けれども、一般のクリスチャンの場合はそうではありません。一般のクリスチャンは、あの畏るべき職務を帯びてはいません。また、反対し、神を汚す言葉を吐き、これらの真理に根深い敵意を抱いている人々がいます。そういう人々に、この偉大で栄光ある真理を押しつける義務は、少しもありません。いや、そうすべきではありません。むしろ、相手が耐えられる程度に応じて導くべきです。こういう人々と、罪の赦しや聖霊の賜物(使徒二・三八)について話し始めてはなりません。むしろ、彼ら自身の流儀で、彼ら自身の原理に立って語り合いなさい。理性的で、名誉を重んじるが、不正な快楽主義者とは、「正義、節制、未来の審判」について論じなさい(使徒二四・二五)。これが、ペリクスを震えあがらせる、最も見込みのある方法です。もっと高い主題は、もっと高く到達した人々のために取っておきなさい。

(一七) 「また真珠を豚に投げてやってはなりません」(マタイ七・六)。だれに対しても、この判断を下すことには、ひどく慎重でありなさい。けれども、その事実が明白で否定しようがないとします。少しの議論の余地もなく明らかだとします。豚が自分を偽ろうともせず、かえって自分の恥を誇る(ピリピ三・一九)とします。心にも生活にも清さを装うことすらせず、ほしいままにあらゆる不潔な行いをしている(エペソ四・一九)とします。そのときは、彼らの前に真珠を「投げてやって」はなりません(マタイ七・六)。彼らに御国の奥義を語ってはなりません。目がまだ見ず、耳がまだ聞かなかったことを語ってはなりません(第一コリント二・九)。彼らには、ほかに知識の入り口がなく、霊的な感覚もないので、そうしたことは当然、彼らの心に思い浮びもしないのです。神がその愛する御子(コロサイ一・一三)にあって私たちに与えてくださった、「尊く、大いなる約束」(第二ペテロ一・四)を、彼らに語ってはなりません。彼らは、世にある欲のために滅びることを免れたいとさえ願いません。その彼らが、神の性質にあずかる者となる(第二ペテロ一・四)ことを、どうして思い描けるでしょうか。この世の泥沼に、すなわち世の快楽と欲望と心配事に、浸りきっている人々がいます。彼らが神の深み(第一コリント二・一〇)を味わい、福音の奥義を知る程度は、豚が真珠を知り、真珠を味わう程度とちょうど同じです。ああ、これらの真珠を、こういう人々の前に投げてはなりません。「恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ」るでしょう(マタイ七・六)! すなわち、自分に理解できないものをまったく軽んじ、自分が知りもしないことをそしるでしょう(ユダ一〇)。いや、起こる不都合はおそらく、それだけではないでしょう。彼らが、その本性のままに、「向きなおってあなたがたにかみついてくる」(マタイ七・六)としても、不思議ではありません。善に悪をもって報い(詩篇一〇九・五)、祝福にのろいをもって、好意に憎しみをもって報いたとしても、不思議ではないのです。肉の思いは、神と、神に関わるすべてのことに、これほど敵するのです(ローマ八・七)。あなたがたは、彼らの魂を死から救い出そうとし(ヤコブ五・二〇)、火の中から燃えさしを取り出すように(ゼカリヤ三・二)彼らを救い出そうとします。それは、彼らにとって赦しがたい侮辱なのです。そのような侮辱を加えるなら、こういう人々からはこのような扱いを受けるものと覚悟しなければなりません。

(一八) それでも、今は「向きなおってあなたがたにかみついてくる」(マタイ七・六)こういう人々についてさえ、まったく望みを捨てる必要はありません。あなたがたの議論や説得がすべて失敗しても、まだもう一つの手だてが残っているからです。ほかのどんな方法も役に立たないときに、しばしば効き目のあることが分かる手だてです。それは祈りです。ですから、ほかの人のためであれ、自分の魂のためであれ、何を願うときも、何が足りないときも、こうしなさい。「求めよ、そうすれば、与えられるでしょう。捜せ、そうすれば、見いだすでしょう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるでしょう」(マタイ七・七)。これを怠ることが、聖性を妨げる第三の大きなものです。私たちは今もなお、「求めないから得られない」のです(ヤコブ四・二)。ああ、あなたがたがただ求めてさえいたなら、常に祈り続けていたなら(ローマ一二・一二)、今日、どれほど柔和で優しく、心へりくだり、神と人への愛に満ちていられたことでしょう! ですから、少なくとも今からは、「求めよ、そうすれば、与えられるでしょう」(マタイ七・七)。求めなさい。私たちの主がここでこれほど美しく描かれた宗教の全体を、徹底して経験し、完全に実践できるように求めなさい。そうすれば、主が聖であられるように聖なる者となることが、あなたがたに与えられるでしょう。心においても、あらゆるふるまいにおいても、聖なる者となるのです(第一ペテロ一・一五)。主が定められた道で捜しなさい。聖書を調べ(ヨハネ五・三九)、主のみことばを聞き、それを思いめぐらし、断食し、主の晩餐にあずかることによって捜しなさい。そうすれば、必ず見いだすでしょう。あの高価な真珠(マタイ一三・四六)を見いだすでしょう。世に勝つ信仰(第一ヨハネ五・四)、世が与えることのできない平安(ヨハネ一四・二七)、あなたがたが受け継ぐものの保証である愛(エペソ一・一四)を見いだすでしょう。門をたたきなさい。祈り続け、主のほかのあらゆる道を歩み続けなさい。弱り果てて意気そそうしてはなりません(ヘブル一二・三)。目標を目ざして進みなさい(ピリピ三・一四)。拒まれても引き下がってはなりません。主が祝福してくださるまで、主を去らせてはなりません(創世記三二・二六)。そうすれば、あわれみの門、聖性の門、天の門が、あなたがたのために開かれるでしょう。

(一九) 私たちの心はかたくなで、神の善をなかなか信じようとしません。主はそれをあわれんで、この点について詳しく語り、言われたことを繰り返し、確かなものとしてくださいます。主はこう言われます。「すべて求める者は得」るのです(マタイ七・八)。ですから、だれも祝福にあずかりそこなう必要はありません。「捜す者は」、すなわち捜す者はだれでも、神の愛と神のかたちとを「見いだし」ます(マタイ七・八)。「門をたたく者は」(マタイ七・八)、すなわち門をたたく者はだれでも、義の門をあけてもらえるのです(詩篇一一八・一九)。ですから、だれかが落胆する余地は、ここにはまったくありません。求めても、捜しても、門をたたいても、むだに終わるかのように思う必要はないのです。ただ、失望せずに、常に祈り、捜し、門をたたくことを忘れないようにしなさい(ルカ一八・一)。そうすれば、約束は確かに立ちます。それは天の柱のように堅固です。いや、もっと堅固です。天地は滅びますが、主の言葉は滅びることがないからです(マタイ二四・三五)。

(二〇) 私たちの祝福された主は、不信仰のあらゆる口実を断つために、続く節で、言われたことをさらに説き明かされます。私たち自身の胸のうちに起こることに訴えるのです。主は言われます。「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があるでしょうか」(マタイ七・九)。自然な情愛でさえ、愛する者のもっともな願いを拒むことを、あなたがたに許すでしょうか。「魚を求めるのに、へびを与える者があるでしょうか」(マタイ七・一〇)。益になるものの代わりに、害になるものを与えるでしょうか。ですから、あなたがたは、自分自身が感じ、行っていることからさえ、このうえない確信を得ることができます。一方では、求めることに悪い結果が伴うことはありえない、という確信です。他方では、求めることには良い結果が、すなわちあらゆる必要が十分に満たされるという結果が伴う、という確信です。「あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものをくださらないことがあるでしょうか」(マタイ七・一一)。この父は、純粋で、混じりけのない、善そのものである方です。あるいは、主が別の折に言い表されたように、「求めて来る者に聖霊をくださらないことがあるでしょうか」(ルカ一一・一三)。聖霊のうちに、あらゆる良いものが含まれています。あらゆる知恵、平安、喜び、愛、聖性と幸いとの宝のすべてが含まれています。神がご自分を愛する者たちのために備えられたすべてのもの(第一コリント二・九)が含まれているのです。

(二一) けれども、あなたがたの祈りが神の前で十分な重みを持つように、すべての人と愛のうちにあるよう心がけなさい。そうでなければ、祈りは、あなたがた自身の頭上に、祝福よりもむしろのろいを招くでしょう。隣人に対して愛を持っていない間は、神から何の祝福も受けることを期待できません。ですから、この妨げを、ためらわずに取り除きなさい。互いへの愛と、すべての人への愛を確かなものにしなさい。そして、言葉だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛しなさい(第一ヨハネ三・一八)。「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにしなさい。これが律法であり預言者です」(マタイ七・一二)。

(二二) これこそ、あのきわめて尊い律法(ヤコブ二・八)、正義だけでなくあわれみの黄金律です。異教徒の皇帝でさえ、これを宮殿の門の上に書かせました。多くの人は、この規則が、世に生れてくるすべての人の心に、生れつき刻み込まれていると信じています。少なくとも次のことは確かです。この規則は、聞いたとたんに、すべての人の良心と理解力とに受け入れられます。ですから、だれも、知りながらこれに背くなら、自分の胸のうちで罪に定められずにはいられないのです。

(二三) 「これが律法であり預言者です」(マタイ七・一二)。神が昔、人類に示された律法に書かれていることは、何であれ、この短い言葉のうちに要約されています。神が「古くから、聖なる預言者たち」(ルカ一・七〇)によって与えられた戒めも、何であれ、そうです。それらはすべて、この簡潔な指示のうちに含まれているのです。そして、これを正しく理解するなら、主が地上に打ち立てるために来られた宗教の全体が、ここに含まれています。

(二四) これは、肯定の意味にも、否定の意味にも理解できます。否定の意味に理解すれば、こういう意味です。「人々からしてほしくないと思うことは何事でも、人々にもしてはなりません」。ここに、いつも手もとにあり、いつもたやすく当てはめられる、明白な規則があります。隣人に関わるすべての場合に、その人の立場を自分の立場としなさい。境遇が入れ替わって、自分がちょうど今のその人のようになったと考えてみなさい。そのうえで、もしそのように境遇が入れ替わっていたら、その人のうちに見て責めたであろうことを考えなさい。そのような気質や思いを、自分に許さないように気をつけなさい。そのような言葉が一つも口から出ないように、そのような一歩を一つも踏み出さないように気をつけなさい。直接的な、肯定の意味に理解すれば、その明白な意味は次のとおりです。「自分がその人の境遇にいると考えてみなさい。そのとき、その人に道理にかなって望めることは何でも、力の限りを尽くして、すべての人の子に行いなさい」。

(二五) これを、一つ二つの分かりやすい例に当てはめてみましょう。だれでも自分の良心に照らして明らかなように、私たちは、ほかの人にさばかれたくはありません。理由もなく、あるいは軽々しく、悪く思われたくはありません。まして、だれかに悪口を言われたくはありません。私たちの本当の欠点や弱さを言いふらされたくはないのです。これを自分に当てはめなさい。人からしてほしくないことを、ほかの人にしてはなりません。そうすれば、もう決して隣人をさばかず、だれのことも、理由もなく、あるいは軽々しく悪く思わなくなるでしょう。まして悪口を言うことはないでしょう。その場にいない人の本当の欠点でさえ、口にしなくなるでしょう。ただ、ほかの人々の魂の益のためにどうしても必要だと確信するかぎりでは、別です。

(二六) また、私たちは、すべての人が自分を愛し、重んじ、正義とあわれみと真実とをもって自分に接してくれることを望みます。そして、人々が自分を損なわずにできるかぎりの善を、私たちにしてくれることを、道理にかなって望むことができます。そうです、外のものについては、よく知られた規則のとおりにしてくれることさえ望めます。すなわち、彼らの余分なものは私たちの便利のために、彼らの便利は私たちの必要のために譲られることを望めます。彼らの必要は私たちの窮乏のために譲られることを望めるのです。それなら、私たちも同じ規則に従って歩みましょう。人々にしてほしいと望むとおりに、すべての人にしましょう。すべての人を愛し、敬いましょう。正義とあわれみと真実とが、私たちの思いと行いのすべてを治めるようにしましょう。私たちの余分なものを、隣人の便利のために譲りましょう(そうすれば、だれに余分なものが残るでしょうか)。私たちの便利を隣人の必要のために、私たちの必要を隣人の窮乏のために譲りましょう。

(二七) これこそ、純粋で真正な道徳です。これを行いなさい。そうすれば、いのちが得られます(ルカ一〇・二八)。「この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがありますように」(ガラテヤ六・一六)。彼らは「神のイスラエル」だからです(ガラテヤ六・一六)。けれども、次のことに注意しなければなりません。まず神を愛するのでなければ、だれもこの規則に従って歩むことはできません(世の初めから、神を愛さずにそう歩んだ者はいません)。自分を愛するように隣り人を愛する(マタイ二二・三九)こともできないのです。そして、キリストを信じるのでなければ、だれも神を愛することはできません。キリストの血によるあがない(エペソ一・七)を受けていなければ、愛することはできません。神の御霊が、自分の霊と共に、自分が神の子であることをあかししてくださる(ローマ八・一六)のでなければ、愛することはできないのです。ですから、信仰はどこまでも、すべての根です。将来の救いの根であるだけでなく、今の救いの根でもあるのです。私たちは今もなお、すべての罪人に言わなければなりません。「主イエス」キリスト「を信じなさい。そうしたら」、あなたは「救われます」(使徒一六・三一)。あなたは今救われます。それは、永遠に救われるためです。地上で救われます。それは、天で救われるためです。キリストを信じなさい。そうすれば、あなたの信仰は、愛によって働くでしょう(ガラテヤ五・六)。あなたは、主なるあなたの神を愛するでしょう(マタイ二二・三七)。神があなたを愛してくださったからです(第一ヨハネ四・一九)。また、自分を愛するように、あなたの隣り人を愛するでしょう(マタイ二二・三九)。そのとき、この愛を働かせ、増し加えることが、あなたの誇りと喜びとなるでしょう。それは、愛に反することを、すなわち不親切な思いと言葉と行いをすべて、ただ避けることによってだけではありません。人にしてほしいと望むあらゆる親切を、すべての人に示すことによってなのです。