ジョン・ウェスレー標準説教集

説教二十九 山上の説教(九)

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからです。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできません。それだから、あなたがたに言っておきます。何を食べようか、何を飲もうかと、自分のいのちのことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらってはなりません。いのちは食物にまさり、からだは着物にまさるではありませんか。空の鳥を見なさい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしません。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていてくださいます。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではありませんか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができるでしょうか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのですか。野の花がどうして育っているか、考えて見なさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、あなたがたに言いますが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあるでしょうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらってはなりません。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものです。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じです。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるでしょう。だから、あすのことを思いわずらってはなりません。あすのことは、あす自身が思いわずらうでしょう。一日の苦労は、その日一日だけで十分です」(マタイ六・二四〜三四)

(一) アッスリヤの王は、イスラエルを捕囚として連れ去ったあと、諸国の民を連れてきて、サマリヤの町々に住まわせました(列王紀下一七・二四)。その民について、「彼らは主を敬ったが」、また「自分たちの神々にも仕えた」と記されています(列王紀下一七・三三)。霊感を受けた記者は言います。「これらの民は主を敬い」(列王紀下一七・四一)、主に外面の奉仕をささげました。これは、知識によるものではなかったとしても、彼らに神を恐れる心があったことのはっきりした証拠です。けれども、彼らは「またその刻んだ像にも仕えたが、その子たちも、孫たちも同様であって、彼らはその先祖がおこなったように今日までおこなっている」のです(列王紀下一七・四一)。

今日のクリスチャンの大部分の行いは、この昔の異教徒の行いに、何とよく似ていることでしょう! 彼らは「主を敬」っています(列王紀下一七・三三)。主に外面の奉仕もささげ、それによって、神を恐れる心がいくらかあることを示しています。けれども、彼らは同じように「自分たちの神々にも仕え」ているのです(列王紀下一七・三三)。アッスリヤ人に教えた者たちがいたように、今も「その国の神のおきてを」彼らに「教え」る者たちがいます(列王紀下一七・二七)。その神とは、今日までその国がその名を帯びている神であり、かつてそこで聖い礼拝をもって拝まれていた神です。「しかし」(列王紀下一七・二九)、彼らは主だけに仕えているのではありません。そうするほどには、主を敬っていないのです。かえって、「その民はおのおの自分の神々を造って」います(列王紀下一七・二九)。「民は皆住んでいる町々で」そうしているのです(列王紀下一七・二九)。「これらの民は主を敬」っています(列王紀下一七・四一)。主を拝む外面の形を捨ててはいません。けれども、「その刻んだ像に」仕えているのです(列王紀下一七・四一)。それは、しろがねとこがね、人の手のわざです(詩篇一一五・四)。金銭と快楽と称賛という、この世の神々が、彼らの奉仕をイスラエルの神と分け合っています。いや、分け合う以上のものを奪っているのです。「その子たちも、孫たちも」(列王紀下一七・四一)、これと同じならわしに従っています。「彼らはその先祖がおこなったように今日までおこなって」いるのです(列王紀下一七・四一)。

(二) 人の普通の言い方に従って大まかに言えば、あの哀れな異教徒たちは「主を敬」ったと言われています(列王紀下一七・四一)。けれども、聖霊がすぐに、事の真実と本当の性質に従って、こう付け加えておられることに気づきます。彼らは主を敬わず、主がヤコブの子孫に命じられた律法と戒めにも従っていません(列王紀下一七・三四)。主は「彼らと契約を結び、彼らに命じて言われ」ました(列王紀下一七・三五)。「あなたがたは他の神々を敬ってはなりません」。また、「彼らに仕え」てもなりません(列王紀下一七・三五)。「ただあなたがたの神、主を敬わなければなりません。主はあなたがたをそのすべての敵の手から救い出されるでしょう」(列王紀下一七・三九)。

誤ることのない神の御霊は、普通クリスチャンと呼ばれているこの哀れな人々に、同じ判決を下されます。実に、神の御霊によって心の目を開かれ(エペソ一・一八)、神の事柄を見分けるようになった人々もみな、同じ判決を下します。事の真実と本当の性質に従って言えば、彼らは主を敬わず、主に仕えてもいません。彼らは、主が彼らと結ばれた契約にも、主が彼らに命じられた律法と戒めにも、従っていないからです。その戒めとは、「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」(マタイ四・一〇)というものです。彼らは今日まで、ほかの神々に仕えています。そして、「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできません」(マタイ六・二四)。

(三) だれであれ、これを目指すこと、すなわちふたりの主人に仕えようと試みることは、何とむなしいことでしょう! そのような試みが避けようもなくどんな結果になるかは、たやすく見通せるではありませんか。「一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじる」のです(マタイ六・二四)。この文の二つの部分は、別々に述べられてはいますが、互いに結びつけて理解すべきです。後半は前半の結果だからです。人は、愛する者に自然に親しみます。その主人に固く結びついて、進んで、忠実に、勤勉に仕えるのです。その一方で、憎む主人を、少なくとも次の程度まではうとんじます。その命令をほとんど顧みず、従うとしても、いいかげんに、不注意に従うのです。ですから、世の知者たちがどう考えようと、「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできません」(マタイ六・二四)。

(四) ここで「富」と訳されている語は、原語ではマモンです。マモンは、富をつかさどると考えられていた異教の神の名です。ここでは、富そのもの、すなわち金と銀、あるいは一般に金銭を指しています。また、よくある言葉のあやによって、金銭で買えるすべてのもの、たとえば安楽や名誉や官能の快楽をも指しています。

けれども、ここで、神に仕えるとは何のことであり、富に仕えるとは何のことだと理解すべきでしょうか。

私たちは、神を信じないかぎり、神に仕えることはできません。これが、神に仕えることの、ただ一つの真の土台です。ですから、神を信じることが、神への奉仕の第一の大きな枝です。すなわち、「キリストにおいて世をご自分に和解させ」ておられる方として(第二コリント五・一九)、愛し、赦す神として、神を信じることです。

そして、このように神を信じることには、神を私たちの力として信頼することが含まれます。神から離れては、私たちは何一つできません(ヨハネ一五・五)。神は、刻々と上からの力を私たちに授けてくださいます(ルカ二四・四九)。その力がなければ、神に喜ばれることはできないのです(ヘブル一一・六)。また、神を私たちの助け、悩める時のただ一つの助けとして(詩篇四六・一)信頼することです。神は救いの歌で私たちを囲んでくださいます。また、神を私たちの盾、私たちの守り手として信頼することです。神は、私たちを囲むすべての敵の上に、私たちの頭をもたげてくださる方です(詩篇三・三、二七・六)。

それには、神を私たちの幸いとして信頼することも含まれます。神は、霊たちの中心であり、私たちの魂のただ一つの休み場です。私たちのあらゆる能力に見合い、神が私たちに与えられたすべての願いを満たすのに足りる、ただ一つの善です。

それにはまた(これは前のことと深く結びついていますが)、神を私たちの目的として信頼することも含まれます。すべてのことにおいて神に目を注ぐこと、すべてのものを、ただ神を楽しむための手段として用いることです。どこにいても、何をしていても、見えない方が(ヘブル一一・二七)喜んで私たちを見ておられるのを見ることです。そして、キリスト・イエスにあって、すべてのことを神に帰することです。

(五) このように信じることが、神に仕えることによって理解すべき第一のことです。第二は、神を愛することです。

さて、聖書が述べる仕方で、神を愛するとはどういうことでしょうか。神ご自身が私たちに求め、求めることによって、私たちのうちに成し遂げると約束しておられる仕方で愛するとは、どういうことでしょうか。それは、神を唯一の神として愛することです。すなわち、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして」神を愛することです(マルコ一二・三〇)。それは、ただ神だけを、神ご自身のゆえに願うことです。ほかの何ものも、神との関わりにおいてでなければ願わないことです。神を喜ぶこと、主を喜びとすることです。神のうちに幸いを求めるだけでなく、見いだすことです。万人にぬきんでた方として(雅歌五・一〇)神を楽しむこと、私たちの神、私たちのすべてとして、神のうちに休むことです。一言で言えば、私たちをいつも幸いにするほどに、神を自分のものとすることです。

(六) 神に仕えることによって理解すべき第三のことは、神に似ること、すなわち神に倣うことです。

古代の教父も、こう言っています。Optimus Dei cultus, imitari quem colis. (あなたが礼拝する方に倣うことこそ、神への最上の礼拝、すなわち最上の奉仕です)

ここで言うのは、心の霊において神に倣い、神に似ることです。真にクリスチャンらしく神に倣うことは、ここから始まるからです。「神は霊」です(ヨハネ四・二四)。神に倣い、神に似ようとする者は、「霊とまこととをもって」そうしなければなりません(ヨハネ四・二四)。

さて、神は愛です(第一ヨハネ四・八)。ですから、心の霊において神に似る人々は、同じ姿に変えられます(第二コリント三・一八)。神が慈悲深いように、彼らも慈悲深いのです(ルカ六・三六)。彼らの魂は、愛そのものです。彼らは、親切で、情け深く、あわれみに富み、心が優しいのです。しかも、善良で寛容な人々にだけでなく、気むずかしい人々にもそうです(第一ペテロ二・一八)。そうです、彼らは神のように、すべての人を愛します。そして、そのあわれみは、神のすべてのみわざに及ぶのです(詩篇一四五・九)。

(七) 神に仕えることによって理解すべきことが、もう一つあります。それは、神に従うことです。霊をもってだけでなく、体をもって神の栄光をあらわすこと(第一コリント六・二〇)、神の外面の戒めを守ることです。神が命じられたことを何でも熱心に行い、神が禁じられたことを何でも注意深く避けることです。澄んだ目と清い心とをもって、生活のあらゆる普通の行いをすることです。そのすべてを、聖い、燃える愛のうちに、イエス・キリストを通して神へのいけにえとしてささげることです。

(八) では次に、他方の、富に仕えることによって何を理解すべきかを考えましょう。第一に、それには、富に、金銭に、あるいは金銭で買えるものに、私たちの力として頼ることが含まれます。それを、手がけている事を何でも成し遂げるための手段とするのです。また、それに私たちの助けとして頼ることです。それによって、悩みの中で慰められ、悩みから救い出されることを期待するのです。

それには、幸いを求めて世に頼ることが含まれます。「人のいのち」(ルカ一二・一五)、すなわち人生の慰めが、たくさんの物を持つことにある、と考えることです。見えるもの(第二コリント四・一八)のうちに休みを求め、外の豊かさのうちに満足を求めることです。神の外では決して見いだせない満足を、世のもののうちに期待することです。

そして、こうしているなら、私たちは世を自分の目的とせずにはいられません。私たちの企てのすべてとは言わないまでも、少なくとも多くの企てや行いや目論見の、究極の目的とするのです。そうした企てにおいて、私たちは、永遠のものには何の顧慮もしないでしょう。ただ富を増やすこと、快楽や称賛を得ること、この世のものをもっと多く手に入れることだけを目指すのです。

(九) 富に仕えることには、第二に、世を愛することが含まれます。世をそれ自体のゆえに願い、世のものに喜びを置き、それに心を向けることです。そこに自分の幸いを求めることです(実際には、それを見いだすことはできないのですが)。魂の全重量をかけて、この折れた葦のつえに寄りかかることです。けれども、日々の経験が示すように、それは私たちを支えることができず、ただ私たちの「手を刺し通す」だけです(イザヤ三六・六)。

(一〇) 世に似ること、世と同じ姿になることが、富に仕えることによって理解すべき第三のことです。目論見だけでなく、願いも気質も心の思いも、世のそれにふさわしいものを持つことです。地上の、肉的な思いを持ち、地上のものに鎖でつながれていることです。わがままで、度を越して自分を愛する者となり(第二テモテ三・二)、自分の到達したところを高く評価することです。人のほまれ(ヨハネ一二・四三)を願い、喜ぶこと、そしりを恐れ、避け、忌みきらうことです。忠告に耐えられず、すぐにいらだち、たちまち悪をもって悪に報いる(第一ペテロ三・九)ことです。

(一一) 富に仕えることは、最後に、外面で世の格言と習慣に合わせることによって、世に従うことです。ほかの人々が歩くように、ありふれた道を、広く、平らな、踏みならされた道を歩むことです。流行に従い、多数に従い(出エジプト二三・二)、ほかの隣人たちと同じようにすることです。すなわち、肉とその思いとの欲するままを行い(エペソ二・三)、自分の欲望と好みを満たすことです。自分自身にいけにえをささげ、言葉においても行いにおいても、ふだんの歩みの全体で、自分の安楽と快楽とを目指すことです。

さて、私たちは、このように神と富とに兼ね仕えることはできません(マタイ六・二四)。これ以上に、否定しようもなく明らかなことがあるでしょうか。

(一二) だれでも、両方に仕えては心安らかでいられないことが分かるのではないでしょうか。神と世との間でどっちつかずにふるまうなら、確かに両方に失望し、どちらにも休みを得られません。そのことが分かるのではないでしょうか。神を恐れてはいても愛してはおらず、神に仕えてはいても心をつくしてはいない人がいます。その人は、宗教の労苦だけを持ち、その喜びを持っていません。そういう人は、何と心安らかでない状態にいることでしょう。その人には、自分をみじめにするのに十分なだけの宗教はあっても、幸いにするのに十分なだけの宗教はありません。その宗教は、彼に世を楽しませず、世は、彼に神を楽しませません。こうして、両者の間で迷っているために(列王紀上一八・二一)、彼は両方を失い、神にも世にも平安を持たないのです。

(一三) だれでも、自分自身と矛盾せずに両方に仕えることはできない、と分かるのではないでしょうか。この二人の主人の両方に従おうと努め、「神と富とに兼ね仕え」ようとする人がいます(マタイ六・二四)。その人のふるまい全体には、絶えず矛盾が現れるに違いありません。これ以上にあからさまな矛盾が考えられるでしょうか。その人は、まことに「二つの道を行く罪人」です。一歩進んでは、一歩退くのです。一方の手で絶えず建て上げては、もう一方の手で引き倒しています。彼は罪を愛し、かつ憎みます。いつも神を求めていながら、いつも神から逃げているのです。したいと思い、したくないとも思います。一日として同じ人ではありません。いや、一時間続けて同じ人でいることもないのです。彼は、あらゆる種類の相反するものの寄せ集めであり、一つにごたまぜにされた矛盾の山です。ああ、どちらか一方に決めて、自分と矛盾しない者となりなさい! 右に向かうか、左に向かうか、どちらかにしなさい。富が神ならば、富に仕えなさい。主が神ならば、主に仕えなさい。けれども、心をつくしてでなければ、どちらに仕えようとも決して考えてはなりません。

(一四) 道理をわきまえる人、ものを考える人ならだれでも、神と富とに兼ね仕えることなど、とうていできないと分かるのではないでしょうか。両者の間には、最も絶対的な対立が、最も和解しがたい敵意があるからです。地上で最も相反するもの、すなわち火と水、やみと光の間の対立も、神と富との間の対立に比べれば、無に等しくなります。ですから、どの点で一方に仕えるにしても、あなたは必ず他方を捨てることになります。あなたは、キリストを通して神を信じていますか。あなたの力、助け、盾、はなはだ大きい報い(創世記一五・一)として、神に信頼していますか。あなたの幸い、すべてにおけるあなたの目的として、何にもまさって神に信頼していますか。それなら、あなたは富に頼ることはできません。神へのこの信仰を持っているかぎり、富に頼ることは絶対にできないのです。あなたはこのように富に頼っていますか。それなら、あなたは信仰を捨てたのです(第一テモテ五・八)。あなたは生ける神に頼っていません(第一テモテ四・一〇)。あなたは神を愛していますか。神のうちに幸いを求め、見いだしていますか。それなら、あなたは世も世にあるものも愛することはできません(第一ヨハネ二・一五)。あなたは世に対して十字架につけられ、世もあなたに対して十字架につけられているのです。あなたは世を愛していますか。あなたの心の思いは下にあるものに向けられていますか(コロサイ三・二)。地上のもののうちに幸いを求めていますか。それなら、あなたが神を愛することはできません。それなら、父の愛はあなたのうちにありません(第一ヨハネ二・一五)。あなたは神に似ていますか。あなたの父が慈悲深いように、あなたも慈悲深いですか(ルカ六・三六)。あなたは心を新たにすることによって造りかえられ(ローマ一二・二)、あなたを造られた方のかたちに変えられていますか(コロサイ三・一〇)。それなら、あなたは今の世と同じ姿になることはできません。あなたは、世のあらゆる心の思いと欲とを捨てたのです。あなたは世と同じ姿になっていますか。あなたの魂は、なお土に属している形をとっていますか(第一コリント一五・四九)。それなら、あなたは心の霊において新たにされていません。天に属している形をとっていないのです(第一コリント一五・四九)。あなたは神に従っていますか。御使たちが天で行うように、地で神のみこころを行うことに熱心ですか(マタイ六・一〇)。それなら、あなたが富に従うことはできません。それなら、あなたは世に公然と挑んでいるのです。世の習慣と格言を足で踏みにじり、それに従うことも、それに導かれることもしないのです。あなたは世に従っていますか。ほかの人々と同じように生きていますか。人に喜ばれようとしていますか。自分を喜ばせていますか。それなら、あなたは神の僕であることはできません(ガラテヤ一・一〇)。あなたは、あなたの主人であり父である悪魔から出た者です(ヨハネ八・四四)。

(一五) ですから、「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕え」なさい(マタイ四・一〇)。ふたりの主人に従おうとする考え、神と富とに兼ね仕えようとする考えを、すべて捨てなければなりません。神のほかには、どんな目的も、どんな助けも、どんな幸いも、自分の前に置いてはなりません。地においても天においても、神のほかに何も求めてはなりません。神を知り、神を愛し、神を楽しむことのほかに、何も目指してはなりません。これこそが、地上でのあなたがたの務めのすべてです。あなたがたが道理にかなって持ちうるただ一つの目当てであり、すべてのことにおいて追い求めるべきただ一つの目論見です。だからこそ、主は話を続けてこう言われるのです。「それだから、あなたがたに言っておきます。何を食べようか、何を飲もうかと、自分のいのちのことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらってはなりません」(マタイ六・二五)。これは深く重い指示です。私たちはこれをよく考え、徹底的に理解しなければなりません。

(一六) 私たちの主はここで、この世の生活の事柄についてさえ、まったく何も考えないことを求めておられるのではありません。浮ついた、無頓着な気質は、イエス・キリストの宗教全体から最も遠く離れたものです。また主は、私たちが仕事を怠り、仕事にだらしなく、ぐずぐずしていることを求めておられるのでもありません(ローマ一二・一一)。これもまた、主の宗教の精神と特質の全体に反しています。クリスチャンは、泥酔を忌みきらうのと同じように怠惰を忌みきらい、姦淫から逃げるのと同じように無為から逃げます。クリスチャンは、神が喜ばれる一種の思いと配慮があることを、よく知っています。それは、神の摂理が自分を召した外の仕事を、ふさわしく果たすためにどうしても必要なものです。

だれもが働いて自分で得たパンを食べること(第二テサロニケ三・一二)、それが神のみこころです。そうです、だれもが自分の親族のために、ことに自分の家族のために備えること(第一テモテ五・八)も、神のみこころです。また、私たちが「何人にも借りがあってはならない」こと(ローマ一三・八)、すべての人の前で正しいものを備えること(ローマ一二・一七)も、神のみこころです。けれども、これは、いくらか考えをめぐらし、心にいくらかの配慮を持たなければできません。そうです、しばしば、長く真剣に考え、多くの熱心な配慮をしなければできないのです。したがって、私たちの祝福された主は、自分と家族のために備えようとするこの配慮を責めてはおられません。すべての人にその当然受けるべきものを返そうとするこの思いも、責めてはおられません。そうです、それは、私たちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことです(第一テモテ二・三)。

手がけていることについて、何をしようとしているのかがはっきり分かるように考えをめぐらすこと。仕事に取りかかる前に、その計画を立てること。それは、神にとって良いことであり、みこころにかなうことです。また、その仕事でどんな手順を踏むべきかを、そのつど注意深く考えるのは正しいことです。最も効果的な仕方で仕事を進めるために、すべてを前もって準備するのも正しいことです。ある人々が「頭の配慮」と呼ぶこの配慮を責めることは、決して私たちの主の意図ではありませんでした。

(一七) 主がここで責めておられるのは、心の配慮です。すなわち、気をもむ不安な心配、苦しみを伴う心配、魂にであれ体にであれ害を与えるあらゆる心配です。主が禁じておられるのは、悲しい経験が示すように、血をすり減らし、気力を飲み尽くす心配です。恐れているあらゆる悲惨を先取りし、まだその時ではないのに来て、私たちを苦しめる心配です(マタイ八・二九)。主が禁じておられるのは、あすに起こるかもしれないことを恐れて、きょうの恵みに毒を盛る心配だけです。将来の欠乏を案じるあまり、今の豊かさを楽しめない心配だけです。このような心配は、ひどい病、魂の重い病であるだけではありません。神に対する憎むべき罪過であり、最も深く染まった罪なのです。それは、恵み深い統治者、万物を賢く配する方に対する、大きな侮辱です。それは必ず、偉大な審判者が公義を行われない(創世記一八・二五)、万物を良く整えられない、ということを含んでいます。それは、神には知恵か善かのどちらかが欠けている、ということをはっきりと含んでいます。私たちに何が必要かを神がご存じないなら、知恵が欠けていることになります。神に信頼するすべての人に、神がそれを備えてくださらないなら、善が欠けていることになります。ですから、この意味で思いわずらわないように気をつけなさい。何事も思いわずらってはなりません(ピリピ四・六)。不安な思いわずらいをしてはなりません。不安な心配は許されない心配である、というのが、はっきりとした確かな規則です。澄んだ目でただ神だけを見つめ、すべての人の前で正しいものを備えるために、自分にできるかぎりのことをしなさい。そのうえで、すべてをもっと良い手にゆだね、結果はすべて神にまかせなさい。

(一八) この種の思いわずらい、すなわち不安な思いわずらいは、自分のいのちのことでさえ、してはなりません。「何を食べようか、何を飲もうかと、自分のいのちのことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらってはなりません。いのちは食物にまさり、からだは着物にまさるではありませんか」(マタイ六・二五)。では、神がより大きな賜物であるいのちを与えられたのなら、それを支える食物を与えてくださらないはずがあるでしょうか。神があなたがたに体を与えられたのなら、それをおおう着物を与えてくださることを、どうして疑えるでしょうか。あなたがたが自分を神にゆだね、心をつくして神に仕えるなら、なおさらです。目の前の「空の鳥を見」なさい(マタイ六・二六)。「まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしません」(マタイ六・二六)。それでも、何一つ欠けていません。「それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていてくださいます。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではありませんか」(マタイ六・二六)。神を受け入れることのできる被造物であるあなたがたは、神の目に、もっと重んじられているのではありませんか。存在の階段の中で、もっと高い位にあるのではありませんか。「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができるでしょうか」(マタイ六・二七)。それなら、このように気をもんで思いわずらうことから、何の益があるでしょうか。それは、どの点から見ても実りがなく、役に立ちません。

「また、なぜ、着物のことで思いわずらうのですか」(マタイ六・二八)。どこに目を向けても、毎日、忠告を受けているではありませんか。「野の花がどうして育っているか、考えて見なさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、あなたがたに言いますが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいませんでした」(マタイ六・二八〜二九)。「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草」は、刈り取られ、焼かれ、もう二度と見られなくなります。その草「でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあるでしょうか。ああ、信仰の薄い者たちよ」(マタイ六・三〇)。神は、あなたがたを、いつまでも存続するように、ご自分の永遠の姿を映すものとして造られたのです! あなたがたは、まことに信仰の薄い者です。そうでなければ、神の愛と配慮を疑うことはできないはずです。そうです、一瞬たりとも疑えないはずです。

(一九) 地上に宝をたくわえないとしたら、「何を食べようか」(マタイ六・三一)。力をつくして神に仕え、目をただ神だけに据えるとしたら、「何を飲もうか」。世と同じ姿にならず、自分に益を与えてくれるかもしれない人々の機嫌をそこねるとしたら、「何を着ようか」。「だから」、そう「言って思いわずらってはなりません」(マタイ六・三一)。「これらのものはみな、異邦人が切に求めているもの」です(マタイ六・三二)。異邦人とは、神を知らない異教徒です(第一テサロニケ四・五)。けれども、あなたがたは、「あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである」(マタイ六・三二)ことを知っています。そして神は、それらを絶えず与えられるための、誤ることのない道を示してくださいました。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるでしょう」(マタイ六・三三)。

(二〇) 「まず神の国」を「求めなさい」(マタイ六・三三)。ほかのどんな思いや配慮にも場所を与える前に、次のことを心にかけなさい。私たちの主イエス・キリストの父なる神が(エペソ一・三)、あなたがたの心を治めてくださることです。あなたがたの魂にご自分を現し、そこに住んで支配してくださることです。この神は、「そのひとり子を賜わった」方です(ヨハネ三・一六)。それは、あなたがたが御子を信じて、「滅びないで、永遠のいのちを得るため」でした(ヨハネ三・一六)。また、神が、「神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ」てくださることです(第二コリント一〇・五)。神だけがあなたがたを支配されるようにしなさい。競う者なしに神が治められるようにしなさい。神があなたがたの心のすべてを所有し、ただひとりで支配されるようにしなさい。神を、あなたがたのただ一つの願い、喜び、愛としなさい。そうして、あなたがたのうちにあるすべてのものが、絶えず、「全能者にして主なる」神は「王なる支配者であられる」(黙示録一九・六)と叫ぶようにしなさい。

「神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ六・三三)。義とは、神が心を治められることの実です。そして、義とは愛にほかなりません。すなわち、神への愛とすべての人への愛です。その愛はイエス・キリストへの信仰から流れ出て、謙そん、柔和、慈愛、寛容(コロサイ三・一二、ガラテヤ五・二二〜二三)、忍耐、世に対して死んでいることを生み出します。また、神に対しても人に対しても、心のあらゆる正しい性向を生み出すのです。そして、これらによって、義はあらゆる聖い行いを生み出します。すべて愛すべきこと、ほまれあること(ピリピ四・八)を生み出します。神に受け入れられ、人に益となる、あらゆる信仰の働きと愛の労苦(第一テサロニケ一・三)を生み出すのです。

「神の義」(マタイ六・三三)。これは、どこまでも神の義です。それは、義なるイエス・キリスト(第一ヨハネ二・一)のゆえに与えられる、神ご自身の価なしの賜物です。ただキリストによってだけ、それは私たちのために買い取られたのです。また、それは神のわざです。聖霊の息吹によって、それを私たちのうちに成し遂げてくださるのは、ただ神だけです。

(二一) このことをよくわきまえるなら、私たちがいつもそれほどはっきりとは理解してこなかったほかの聖句にも、光が当たるかもしれません。聖パウロは、ローマ人への手紙の中で、信じないユダヤ人について語って、こう言っています。「彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかった」のです(ローマ一〇・三)。私は、この言葉の一つの意味は次のことだと思います。彼らは「神の義を知らない」のでした(ローマ一〇・三)。それは、すべての信者に帰せられるキリストの義を知らなかったというだけではありません。その義によって、信者のすべての罪は消し去られ、信者は神の恵みへと和解させられるのです。けれども、それだけでなく(ここではこちらのほうが、より直接に意味されているようですが)、彼らはあの内なる義を、あの心の聖性を知らなかったのです。それは、まさにふさわしく神の義と呼ばれるものです。キリストを通して与えられる神ご自身の価なしの賜物であり、また全能の御霊による神ご自身のわざだからです。そして、このことを「知らない」ので(ローマ一〇・三)、彼らは「自分の義を立てようと努め」たのです(ローマ一〇・三)。彼らは、まさに自分の義と呼ぶのがふさわしい、あの外側の義を立てようと骨折りました。その義は、神の御霊によって成し遂げられたものでもなく、神に認められ、受け入れられたものでもなかったからです。彼らは、生れながらの自分の力で、それを行うことができたかもしれません。けれども、行い終えたとき、それは神の鼻にとって悪臭だったのです。それでも彼らは、これに頼って、「神の義に従わなかった」のです(ローマ一〇・三)。そうです、彼らは、神の義を得ることのできるただ一つの道である信仰に対して、心をかたくなにしたのです。「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられた」のです(ローマ一〇・四)。キリストは、「すべてが終った」と言われたとき(ヨハネ一九・三〇)、あの律法を、すなわち外面の儀式と祭儀の律法を終わらせられました。それは、もっとすぐれた義を、すなわち神のかたちを、信じるすべての者の魂の奥底にもたらすためでした。ご自分の血により、ただ一度ささげられた、ご自身という一つの供え物によってです。

(二二) これと深く関わっているのが、ピリピ人への手紙にある使徒の言葉です。「わたしは」いっさいのものを「ふん土のように思っています。それは、わたしがキリストを得るため」です(ピリピ三・八)。すなわち、キリストの永遠の御国に入るためです。また、キリストを信じて、「キリストのうちに自分を見いだすようになるため」です(ピリピ三・九)。そのとき、私は「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて」いるのです(ピリピ三・九)。「律法による自分の義ではなく」(ピリピ三・九)。それは、ただ外面だけの義、私が以前持っていた外側の宗教です。そのころ私は、「律法の義については落ち度のない者」(ピリピ三・六)であるから神に受け入れられる、と望んでいました。「キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義」です(ピリピ三・九)。それは、あの心の聖性、魂のすべての願いと気質と心の思いとが新たにされることです。それは「神から」の義であり(それは神のわざであって、人のわざではありません)、「信仰に基く」のです(ピリピ三・九)。すなわち、キリストを信じる信仰によるのです。私たちのうちにイエス・キリストが啓示されることにより、キリストの血を信じる信仰によるのです。ただこの信仰によってだけ、私たちは罪の赦しを得、聖別された人々に加わって受け継ぐものを得るのです(使徒二六・一八)。

(二三) 「まず」この「神の国」を、あなたがたの心のうちに「求めなさい」(マタイ六・三三)。また、この義を求めなさい。それは神の賜物であり、神のわざであり、あなたがたの魂のうちに新たにされた神のかたちです。「そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるでしょう」(マタイ六・三三)。すなわち、体に必要なすべてのものが与えられます。神が、ご自分の御国を進めるのに最もふさわしいと見られる量だけ、すべてが与えられるのです。これらのものは添えて与えられます。おまけとして、余分に与えられるのです。神の平安と神の愛とを求めるなら、あなたがたは、より直接に求めているもの、すなわち震われない国(ヘブル一二・二八)を見いだすだけではありません。求めていないもの、すなわち、それ自体のためには決して求めず、ただ前者との関わりにおいてだけ求めるものも、見いだすのです。あなたがたは御国への道の途中で、外のあらゆるものを、それがあなたがたのためになるかぎり、見いだすでしょう。この配慮を、神はご自分で引き受けてくださいました。自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねなさい(第一ペテロ五・七)。神は、あなたがたに必要なものをご存じです。欠けているものは何であれ、必ず満たしてくださいます。

(二四) 「だから、あすのことを思いわずらってはなりません」(マタイ六・三四)。地上にどう宝をたくわえ、どう世の財産を増やすかを、思いわずらってはなりません。食べられる以上の食物を、着られる以上の着物を、どう手に入れるかを思いわずらってはなりません。生活の質素で道理にかなった目的のために日々必要な額を超える金銭を、どう手に入れるかを思いわずらってはなりません。けれども、それだけではありません。体にどうしても必要なものについてさえ、不安な思いわずらいをしてはならないのです。まだずっと先の時期に何をするかを考えて、今から思い悩んではなりません。その時期は、おそらく決して来ないでしょう。あるいは、来てもあなたには関わりのないことでしょう。その前に、あなたはすべての波を越えて、永遠の岸に着いているでしょう。そのような遠い見通しは、どれもあなたのものではありません。あなたは、一日だけの被造物にすぎないからです。いや、もっと厳密に言えば、あすがあなたに何の関わりがあるでしょうか。なぜ、必要もないのに思い悩むのですか。神は、ご自分が与えられたいのちを支えるのに必要なものを、きょう、あなたのために備えてくださいます。それで十分です。自分を神の手にゆだねなさい。もう一日生きるなら、神はその日のためにも備えてくださるでしょう。

(二五) 何よりも、将来のことへの心配を、今の務めを怠る口実にしてはなりません。これは、「あすのことを思いわずら」う(マタイ六・三四)最も致命的な仕方です。しかも、それは人々の間に何とありふれていることでしょう! 私たちが多くの人に、良心に責められることのない状態を保つように(使徒二四・一六)、悪だと確信していることを控えるように、と勧めるとします。すると、彼らはためらわずにこう答えます。「それなら、どうやって生きていけというのか。自分と家族の面倒を見なくてもよいというのか」。そして彼らは、これが、知りながら故意に罪を犯し続ける十分な理由になると思い込んでいます。彼らは、やがて食べるパンを失うのでなければ、今すぐにでも神に仕えるのだが、と言います。おそらく、そう思ってもいるのでしょう。永遠に備えたいとは思っていても、生活の必需品に事欠くことを恐れているのです。こうして彼らは、一切れのパンのために悪魔に仕えます。欠乏を恐れて地獄へ突き進みます。いつか体に必要なものに事欠くことがないようにと、自分の哀れな魂を投げ捨てるのです!

このように事を神の手から取り上げる人々が、求めているまさにそのものを、しばしば得られずに失望するのは、不思議ではありません。地上のものを確保しようとして天を投げ捨てながら、天は失い、地上のものは得られないのも、不思議ではありません。ねたむ神は、ご自分の摂理の賢い道筋において、しばしばこのことを許されます。自分の思いわずらいを神にゆだねようとしない人々がいます。この世のものを思いわずらって、永遠のものにはほとんど関心を持たない人々です。ですから、彼らは自分で選んだその分け前そのものを失うのです。彼らのすべての企てには、目に見える枯れが臨みます。何をしても、栄えないのです。そのため、世のために神を捨てたあと、彼らは求めていなかったものだけでなく、求めていたものも失います。彼らは、神の国と神の義とに達しません。そのうえ、ほかのものも添えて与えられないのです。

(二六) 「あすのことを思いわずら」う(マタイ六・三四)もう一つの仕方があります。それも、この言葉で同じように禁じられています。霊的な事柄についてさえ、誤った仕方で思いわずらうことがありうるのです。やがて起こるかもしれないことにあまりに気を取られて、今、私たちの手に求められていることを怠ってしまうのです。絶えず目をさまして祈っていないなら、私たちは何と知らず知らずのうちに、これに滑り込んでしまうことでしょう! 私たちは何とたやすく、一種の白昼夢に運び去られ、遠い計画を立て、自分の想像の中ですばらしい場面を描いてしまうことでしょう! 私たちは考えます。こういう所にいるようになったら、こういう時が来たら、どんなに善いことをするだろうか、と。暮らし向きがもっと楽になったら、どんなに役に立つ者となり、良きわざにどんなに富む者となるだろうか、と。こういう妨げがいったん取り除かれたら、どんなに熱心に神に仕えるだろうか、と。

あるいは、あなたは今、魂が重く沈んでいるかもしれません。神が、いわば御顔をあなたから隠しておられるのです。神の御顔の光が、ほとんど見えません。神のあがないの愛を味わうことができません。そのような心の状態にあるとき、こう言うのは何と自然なことでしょう。「ああ、神が再び御顔の光を私の魂の上に照されるとき(詩篇四・六)、私はどんなに神をほめたたえることだろう! 神の愛が再び私の心に注がれるとき(ローマ五・五)、私はどんなに人々に、神をほめたたえるよう勧めることだろう! そのときには、こうもし、ああもしよう。どこででも神のために語ろう。キリストの福音を恥としない(ローマ一・一六)。そのときには、時を生かして用いよう(エペソ五・一六)。受けたすべてのタラントを、余すところなく用いよう」。自分を信じてはなりません。今しないなら、そのときにもしないでしょう。「小事に忠実な人は」、それがどんな種類のものであれ、すなわち世の財産であれ、神への恐れや愛であれ、「大事にも忠実です」(ルカ一六・一〇)。けれども、もしあなたが今、一タラントを地の中に隠すなら(マタイ二五・二五)、そのときには五タラントを隠すでしょう。もちろん、それがいつか与えられるならの話です。けれども、それが与えられると期待する理由は、ほとんどありません。まことに、「持っている人は」、すなわち持っているものを用いる人は、「与えられて、いよいよ豊かになる」のです(マタイ二五・二九)。けれども、「持っていない人は」、すなわち、多かれ少なかれすでに受けている恵みを用いない人は、「持っているものまでも取り上げられる」でしょう(マタイ二五・二九)。

(二七) また、あすの誘惑のことを思いわずらってはなりません。これもまた、危険なわなです。「こういう誘惑が来たら、私はどうしたらよいのか。どうして立っていられよう。私には抵抗する力がないと感じる。あの敵に勝つことはできない」と考えてはなりません。まったくそのとおりです。今必要としていない力を、あなたは今持っていません。あなたは今、その敵に勝つことはできません。そして今、その敵はあなたを襲ってはいないのです。今持っている恵みでは、今受けていない誘惑に立ち向かうことはできないでしょう。けれども、誘惑が来るときには、恵みも来ます。もっと大きな試練の中では、もっと大きな力が与えられます。苦難が満ちあふれるときには、神の慰めも、それに比例して満ちあふれるでしょう(第二コリント一・五)。ですから、どんな状況においても、神の恵みはあなたに対して十分です(第二コリント一二・九)。神は、きょう、あなたを「耐えられないような試錬に会わせる」ことはなさいません(第一コリント一〇・一三)。そして、どの試錬においても、「のがれる道も備えて」くださるのです(第一コリント一〇・一三)。あなたの日々に応じて、あなたの力もあるでしょう(申命記三三・二五)。

(二八) ですから、「あすのことは、あす自身が思いわずらう」にまかせなさい(マタイ六・三四)。すなわち、あすが来たら、そのときにあすのことを考えなさい。あなたは、きょうを生きなさい。今この時を生かすことを、あなたの熱心な心がけとしなさい。今この時は、あなたのものです。それがあなたのすべてです。過去は無に等しく、まるでなかったかのようです。未来は、あなたにとって何ものでもありません。それはあなたのものではなく、おそらく決してあなたのものにはならないでしょう。これから来るものに頼ることはできません。あなたは、「一日のうちに何がおこるかを知ることができない」からです(箴言二七・一)。ですから、きょうを生きなさい。一時間もむだにしてはなりません。この瞬間を用いなさい。それがあなたの分だからです。だれが、自分より前にあったことや、自分のあとに日の下にあることを知っているでしょうか(伝道六・一二)。世の初めからあった世代は、今どこにいるのでしょうか。過ぎ去り、忘れられました。彼らはいました。自分の日を生きました。そして、木から葉が振り落とされるように、地から振り落とされました。朽ち果てて、ありふれたちりとなったのです! 次々に別の世代が続きました。そして彼らも、「おのれの先祖の仲間に連な」りました(詩篇四九・一九)。「彼らは絶えて光を見ることが」ありません(詩篇四九・一九)。今は、地上でのあなたの番です。「若い者よ、あなたの若い時に楽しみ」なさい(伝道一一・九)。「よわいは終ることが」ない方(詩篇一〇二・二七)を楽しむことによって、まさに今この時を楽しみなさい。今、あなたの目を、ただこの方だけに据えなさい。この方には、「変化とか回転の影とかいうものはない」のです(ヤコブ一・一七)。今、この方にあなたの心をささげなさい。今、この方により頼みなさい。今、この方が聖なる方であるように、あなたも聖なる者となりなさい(第一ペテロ一・一六)。今、神に喜ばれる全きみこころ(ローマ一二・二)を行う、この祝福された機会をとらえなさい。今、「すべてを失」うことを喜びなさい(ピリピ三・八)。そうして、「キリストを得る」のです(ピリピ三・八)!

(二九) 神がきょうあなたに臨むのを許されることは、何であれ、御名のために(使徒五・四一)、きょう喜んで忍びなさい。けれども、あすの苦しみに目を向けてはなりません。「一日の苦労は、その日一日だけで十分です」(マタイ六・三四)。人間の言い方で言えば、それは悪です(英語の聖書は、この「苦労」を「悪」と訳しています)。そしりであれ欠乏であれ、痛みであれ病であれ、そうです。けれども、神の言葉で言えば、すべては祝福です。それは、神の知恵によって調合され、神の子供たちの魂のさまざまな病に応じて、さまざまに分け与えられる、尊い香油です。そして神は、一日に、その日に十分なだけを与えてくださいます。病人の必要と体力とに釣り合うだけを与えてくださるのです。ですから、もしあなたが、あすに属するものをきょうつかみ取り、すでに与えられているものにそれを加えるとします。それは、あなたが負いきれないものとなるでしょう。これは、自分の魂をいやすのではなく、滅ぼす道です。ですから、神がきょうあなたに与えてくださる分だけを、受け取りなさい。きょう、神のみこころを行い、忍びなさい! きょう、キリスト・イエスを通して、あなた自身を、あなたの体と魂と霊とを、神にささげなさい。あなたのあり方のすべて、行いのすべて、苦しみのすべてにおいて、神が栄光をお受けになること。それ以外には何も願わないようにしなさい。永遠の御霊(ヘブル九・一四)によって、神とその御子イエス・キリストとを知ること。それ以外には何も求めないようにしなさい。今この時も永遠に至るまでも、神を愛し、神に仕え、神を楽しむこと。それ以外には何も追い求めないようにしなさい!

「私とすべての世界とを造られた父なる神」に、「私とすべての人とをあがなわれた子なる神」に、「私と神のすべての選びの民とをきよめられる聖霊なる神」に(祈祷書「教理問答」)、ほまれと賛美と、威光と主権とが、世々限りなくありますように! アーメン。