説教二十八 山上の説教(八)
「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはなりません。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからです。目はからだのあかりです。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいでしょう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いでしょう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなでしょう」(マタイ六・一九〜二三)
(一) 普通、宗教的な行いと呼ばれるものがあります。それが純粋で聖い意図から出て、それにふさわしい仕方で行われるなら、真の宗教の本当の枝です。私たちの主は、そうした行いから、日常の生活の行いへと進まれます。そして、施しや断食や祈りと同じように、普通の仕事においても、同じ意図の純粋さがどうしても必要であることを示されます。
そして、疑いもなく、「施しと祈りとを神に受け入れられるものにする」同じ意図の純粋さが、「私たちの労働や職業をも、神へのふさわしいささげものにしなければなりません。人が、世の中で名誉と富のある身分に自分を引き上げようとして仕事に励むなら、その人はもはや職業において神に仕えてはいません。そして、人に見られるために施しをする人や、人に聞かれるために祈る人と同じく、神からの報いを受ける資格はありません。むなしい地上の目論見は、施しや祈りにおいて許されないのと同じように、職業においても許されないからです。そうした目論見は、私たちの良きわざに」、すなわち宗教的な行いに、「混じるときに悪であるだけではありません。職業の普通の仕事に入り込むときにも、同じ悪い性質を持っています。もし世の職業においてそれを追い求めることが許されるなら、祈りにおいてもそれを追い求めることが許されるでしょう。けれども、施しと祈りとは、純粋な意図から出るときにだけ、神に受け入れられる奉仕となります。それと同じように、普通の職業も、同じ心の敬虔さをもって行われるときにだけ、神への奉仕と見なされるのです」。
(二) 私たちの祝福された主は、このことを、力強く包括的な言葉で、最も生き生きと宣言しておられます。主はこの章全体を通して、その言葉を説き明かし、強調し、敷衍しておられるのです。「目はからだのあかりです。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいでしょう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いでしょう」(マタイ六・二二〜二三)。目とは意図のことです。体にとって目であるものが、魂にとっては意図なのです。目が体のあらゆる動きを導くように、意図は魂のあらゆる動きを導きます。魂のこの目が澄んでいると言われるのは、ただ一つのものだけを見るときです。すなわち、私たちがほかに何の目論見も持たず、ただ神と、神が「つかわされたイエス・キリストとを知る」ことだけを目指すときです(ヨハネ一七・三)。神をふさわしい心の思いをもって知り、神が私たちを愛してくださったように神を愛することです。すべてのことにおいて神に喜ばれることです。(神を愛するように)心をつくし、思いをつくし、精神をつくし、力をつくして神に仕えることです(マルコ一二・三〇)。そして、この世においても永遠においても、すべてのものの中で、すべてのものにまさって、神を楽しむことです。
(三) 「あなたの目が」このように「澄んでおれば」、すなわちこのように神に据えられているなら、「全身も明るいでしょう」(マタイ六・二二)。「全身」とは(マタイ六・二二)、体が目に導かれるように、意図に導かれるすべてのものです。あなたのあり方のすべて、あなたの行いのすべてです。すなわち、あなたの願い、気質、心の思い、またあなたの考えと言葉と行いです。これらのすべてが「明るい」でしょう(マタイ六・二二)。すなわち、神についての真の知識に満ちるのです。これが、ここで光という語によって理解してよい第一のことです。あなたは神の「光によって光を見る」でしょう(詩篇三六・九)。昔、「『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は」、あなたの「心を照して」くださるでしょう(第二コリント四・六)。神は、ご自分の栄光の知識によって、あなたの心の目を明らかにしてくださいます(エペソ一・一八、第二コリント四・六)。神の御霊は、あなたに神の深みを啓示してくださいます(第一コリント二・一〇)。聖なる方の息があなたに悟りを与え(ヨブ三二・八)、ひそかに知恵を知らせてくださいます(詩篇五一・六)。そうです、あなたが神から受ける油が、あなたのうちに「とどま」り、「すべてのことを」あなたに「教える」でしょう(第一ヨハネ二・二七)。
経験は、これを何とよく裏づけていることでしょう! 神が私たちの心の目を開いてくださったあとでさえそうです。私たちが神以外の何かを求めたり願ったりするなら、無知な心は何と早く暗くなることでしょう(ローマ一・二一)。すると、再び雲が魂の上にかかります。疑いと恐れが、再び私たちを圧倒します。私たちは吹きまわされ(エペソ四・一四)、いかになすべきかを知らず(第二歴代二〇・一二)、どの道を行くべきかも分からなくなります。けれども、神のほかに何も願わず、求めないとき、雲と疑いは消え去ります。「以前はやみであった」私たちが、「今は主にあって光となって」います(エペソ五・八)。今や、夜も昼のように輝きます(詩篇一三九・一二)。そして私たちは、正しい人の道は光であることを知ります。神は、私たちが行くべき道を示し、私たちの前に道をまっすぐにしてくださいます(詩篇五・八)。
(四) ここで光によって理解してよい第二のことは、聖性です。あなたがすべてのことにおいて神を求めるなら、すべてのことの中に神を見いだすでしょう。神はあらゆる聖性の泉であり、ご自分の似姿で、すなわち正義とあわれみと真実とで、絶えずあなたを満たしてくださいます。あなたがイエスを、ただイエスだけを仰ぎ見るなら(ヘブル一二・二)、イエスのうちにあった思いに満たされるでしょう(ピリピ二・五)。あなたの魂は、それを造られた方のかたちに従って(コロサイ三・一〇)、日ごとに新しくされていくでしょう(第二コリント四・一六)。あなたの心の目が神から離れないとします。あなたが「見えないかたを見ているようにして」(ヘブル一一・二七)忍びとおし、天にも地にもほかに何も求めないとします。そのとき、あなたは主の栄光を見つつ、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」でしょう。それは「霊なる主の働きによる」のです(第二コリント三・一八)。
また、私たちがこのように「恵みにより」、信仰によって救われていることも(エペソ二・八)、日々の経験の事実です。心の目が開かれて、神の栄光ある愛の光を見るようになるのは、信仰によるのです。そして、心の目が、その光に、すなわちキリストにおいて世をご自分に和解させておられる神に(第二コリント五・一九)、しっかりと据えられているとします。そのかぎり、私たちは、神と人への愛に、柔和と慈愛と寛容とに、ますます満たされていきます(ガラテヤ五・二二〜二三)。また、聖性のあらゆる実に満たされていきます。それは、キリスト・イエスによって、父なる神の栄光をあらわすものです(ピリピ一・一一)。
(五) 澄んだ目を持つ人を満たすこの光は、第三に、聖性だけでなく幸いをも含んでいます。確かに、「光は快いものです。目に太陽を見るのは楽しいことです」(伝道一一・七)。けれども、義の太陽が(マラキ四・二)絶えず魂の上を照しているのを見るのは、それよりどれほど楽しいことでしょう。もし何かキリストにある慰め、愛の励ましがあるなら(ピリピ二・一)、それは目の澄んだ人のものです。人知ではとうてい測り知ることのできない平安(ピリピ四・七)があるなら、それも目の澄んだ人のものです。神の栄光にあずかる希望をもっての喜び(ローマ五・二)も、そうです。こうして、その人は「全身も明るい」のです(マタイ六・二二)。その人は、神が光の中にいますように、光の中を歩みます(第一ヨハネ一・七)。いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝します(第一テサロニケ五・一六〜一八)。キリスト・イエスにあって、神がその人に求めておられることを、何であれ楽しむのです。
(六) 「しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いでしょう」(マタイ六・二三)。「あなたの目が悪ければ」(マタイ六・二三)。ここから、澄んだ目と悪い目との間に、中間がないことが分かります。目が澄んでいなければ、それは悪いのです。私たちが何をするにしても、その意図がただ神だけに向けられていないとします。ほかの何かを求めるとします。そのとき、私たちの「知性も良心も汚れてしまって」います(テトス一・一五)。
ですから、何をするにしても神以外の目的を目指すなら、私たちの目は悪いのです。神を知り、神を愛し、すべてのことにおいて神に喜ばれ、神に仕えること。それ以外の何かを目当てにするなら、目は悪いのです。神を楽しみ、今も永遠にも神にあって幸いであること。それ以外の何かを目論むなら、目は悪いのです。
(七) あなたの目がただ神だけに据えられていないなら、「全身も暗いでしょう」(マタイ六・二三)。おおいがなお、あなたの心にかかったままでしょう(第二コリント三・一五)。あなたの思いは、「この世の神」によって(第二コリント四・四)、ますますくらまされるでしょう。それは、「キリストの栄光の福音の輝き」が(第二コリント四・四)、あなたを照さないようにするためです。あなたは、神の事柄について、無知と誤りに満ちるでしょう。それを受けいれることも、判断することもできないのです(第一コリント二・一四)。また、神に仕えたいという願いがいくらかあるときでさえ、どのように仕えるべきかについて、迷いに満ちるでしょう。どこを向いても疑いと困難に出会い、逃れる道がまったく見えないのです。
そうです、あなたの目が澄んでいないなら、地上のものの何かを求めるなら、あなたは不信心と不義とに満ちるでしょう(ローマ一・一八)。あなたの願いも気質も心の思いも、みな道を外れ、みな暗く、卑しく、むなしいものになるでしょう。そして、あなたの心だけでなく、あなたのふるまいも悪くなるでしょう。それは、「塩で味つけられた」ものでも(コロサイ四・六)、聞く者に恵みを与えるにふさわしいものでも(エペソ四・二九)ありません。むしろ、むだで、益がなく、腐っていて、神の聖霊を悲しませる(エペソ四・三〇)ものとなるでしょう。
(八) あなたの道には、破壊と不幸とがあります(ローマ三・一六)。あなたは「平和の道を知らない」からです(ローマ三・一七)。神を知らない人々には、平安がありません。落ち着いた、確かな平安はないのです。心をつくして神を求めない人には、だれであれ、真の満足も長続きする満足もありません。滅びるものの何かを目指しているかぎり、「すべて、きたらんとする事は皆空」です(伝道一一・八)。そうです、空であるだけでなく、霊の悩みです(伝道一・一四)。追い求めているときも、楽しんでいるときも、そうなのです。あなたは、まことにむなしい影の中を歩み、むなしく思い煩っています。あなたは、さわれるほどのくらやみの中を歩んでいます(出エジプト一〇・二一)。眠り続けなさい。けれども、休むことはできません。人生の夢は、痛みを与えることはできます。それはあなたも知っています。けれども、安らぎを与えることはできません。この世にも来るべき世にも、休みはありません。ただ、霊たちの中心である神のうちにだけ、休みがあるのです。
「もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなでしょう」(マタイ六・二三)。意図は、魂の全体を照し、知識と愛と平安とで魂を満たすはずのものです。そして実際、それが澄んでいるかぎり、ただ神だけを目指しているかぎり、そうするのです。もしこの意図が暗いとします。神以外の何かを目指し、その結果、魂を光ではなくやみで、無知と誤りで、罪と悲惨とで覆うとします。ああ、そのやみは、どれほど大きいことでしょう。それは、底知れぬ所の穴から立ちのぼる煙そのものです(黙示録九・二)! 最も深い淵に(詩篇八八・六)、死の陰の地に君臨する、夜そのものです!
(九) ですから、「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはなりません」(マタイ六・一九)。もしたくわえるなら、あなたがたの目が悪いことは明らかです。目がただ神だけに据えられていないのです。
神の戒めの大部分について考えてみましょう。心に関わるものであれ生活に関わるものであれ、アフリカやアメリカの異教徒は、クリスチャンと呼ばれる人々とほぼ同じ水準に立っています。クリスチャンは(わずかな例外を除いて)、異教徒とほとんど同じ程度に、それを守っています。たとえば、イングランド生れの人々は、普通クリスチャンと呼ばれています。その大多数は、喜望峰の近くに住む異教徒の大多数と同じくらいに、酒を慎み、節度を保っています。同じように、オランダやフランスのクリスチャンは、チョクトーやチェロキーのインディアンと同じくらいに、へりくだっており、貞潔です。ヨーロッパの諸国民の大部分をアメリカの諸国民と比べるとき、どちらがすぐれているかを言うのは容易ではありません。少なくとも、アメリカの人々のほうが大きくまさっているわけではありません。けれども、いま私たちの前にある命令については、そう言い切ることはできません。ここでは、異教徒のほうがはるかにまさっているのです。異教徒は、食べるための質素な食物と、着るための質素な衣服のほかには、何も願わず、求めません。しかも、それをその日その日に求めるだけです。何も取っておかず、何もたくわえません。ただ、一年のある季節に、その季節が再びめぐって来るまでに必要なだけの穀物をたくわえるのは別です。ですから、異教徒は、この命令を知らないのに、絶えず、きちょうめんに守っているのです。彼らは、「自分のために」、「地上に、宝をたくわえ」ません(マタイ六・一九)。「虫が食い、さびがつき」(マタイ六・一九)、また「盗人らが押し入って盗み出す」ような(マタイ六・一九)、紫の衣や細布の蓄えも、金銀の蓄えも持たないのです。けれども、クリスチャンは、いと高き神の命令として受け入れていると公言しているものを、どのように守っているでしょうか。まったく守っていません! 少しも守っていないのです。そのような命令がかつて人に与えられたことなど、なかったかのようです。ほかの人々からも自分自身からも善いクリスチャンと見なされている人々でさえ、この命令にまったく注意を払いません。彼らの気の留め方から言えば、この命令は、いまだに元のギリシャ語の中に隠されたままであっても同じことでしょう。できるだけ多くの宝をたくわえ、できるかぎり財産を増やす。そのことを少しでもためらう人が、どのキリスト教の町に、五百人に一人でもいるでしょうか。確かに、これを不正な仕方ではしようとしない人々はいます。強奪も盗みもしない人々は大勢います。隣人をだまさない人々もいます。それどころか、隣人の無知や窮乏によってもうけようとしない人々もいます。けれども、これはまったく別の問題です。こうした人々でさえ、ためらうのは事柄そのものではなく、そのやり方なのです。彼らは、「地上に、宝をたくわえ」ること(マタイ六・一九)をためらうのではありません。不正直によってたくわえることをためらうのです。彼らがひるむのは、キリストに従わないことに対してではなく、異教徒の道徳を破ることに対してです。ですから、こうした正直な人々でさえ、追いはぎや押し込み強盗と同じく、この命令に従ってはいないのです。それどころか、彼らはそれに従おうと思ったことさえありません。若いころから、そんなことは一度も彼らの頭に浮かびませんでした。彼らは、クリスチャンの親や主人や友人に育てられましたが、この命令について何の教えも受けませんでした。教えられたとすれば、次のことだけです。できるだけ早く、できるだけ多くこの命令を破り、生涯の終わりまで破り続けよ、ということです。
(一〇) 世の中に、霊的な迷妄の例で、これ以上驚くべきものは一つもありません。まさにこうした人々の大部分が、聖書を読むか、聖書が読まれるのを聞いています。その多くは、主の日ごとにそうしています。彼らは、これらの言葉を百回も読み、また聞いてきました。それなのに、自分がそれによって罪に定められているとは、少しも思いません。親がむすこや娘をモレクにささげるのを禁じる言葉(レビ記一八・二一)が、自分を罪に定めるとは思わないのと同じです。ああ、神が、ご自分の声で、力強い声で、この哀れな自己欺瞞の人々に語ってくださればよいのですが! そうすれば、彼らもついに悪魔のわなから目ざめ(第二テモテ二・二六)、目からうろこが落ちるでしょう(使徒九・一八)!
(一一) 「地上に、宝をたくわえる」とはどういうことか(マタイ六・一九)、と問うのですか。これを徹底的に調べる必要があるでしょう。そこで、まず、この命令で禁じられていないことは何かに注目しましょう。そうすれば、禁じられていることは何かを、はっきりと見分けることができるでしょう。
第一に、この命令は、すべての人の前で正しいものを備えること(ローマ一二・一七)を、私たちに禁じてはいません。すべての人に、その当然受けるべきものを返せるように備えることも、禁じてはいないのです。それは、彼らが私たちに正当に求めうるもののすべてです。それどころか、私たちは、「何人にも借りがあってはならない」と神から教えられています(ローマ一三・八)。ですから、だれにも借りがないように、私たちは自分の職業においてあらゆる勤勉を尽くすべきです。これは、普通の正義のはっきりとした律法にほかなりません。私たちの主は、それを「廃するためではなく、成就するために」来られたのです(マタイ五・一七)。
第二に、主はここで、体に必要なものを自分のために備えることも、禁じてはおられません。食べるための質素で健康によい食物と、着るための清潔な衣服とを、十分に備えることです。そうです、神が私たちにその力を与えてくださるかぎり、これらのものを備えることも私たちの務めです。それは、私たちが「自分で得たパンを食べ」(第二テサロニケ三・一二)、だれにも負担をかけないためです(第二テサロニケ三・八)。
第三に、自分の子供たちや自分の家族のために備えることも、禁じられてはいません。これもまた、異教徒の道徳の原則から言ってさえ、私たちの務めです。だれでも、自分の妻と子供たちのために、生活に必要な質素なものを備えるべきです。そして、自分が去って、もはや見られなくなったとき、彼らが自分でそれを備えることができるようにしておくべきです。私が言うのは、これら、すなわち生活に必要な質素なものを備えることです。ごちそうでも、ぜいたく品でもありません。しかも、彼ら自身の勤勉な労働によって備えることができるようにするのです。自分自身にであれ家族にであれ、ぜいたくや怠惰の手段を与えることは、だれの務めでもないからです。けれども、もしだれかが、自分の子供たちのために、ここまで備えないとします(自分の家のやもめたちのためにも同じです。聖パウロがテモテにあてたよく知られた言葉の中で語っているのは、おもにこのやもめたちのことです)。その人は、実際上、「その信仰を捨てたことになるのであって、不信者」、すなわち異教徒「以上にわるい」のです(第一テモテ五・八)。
最後に、この言葉は、世の仕事を続けていくのに必要なものを、そのつどたくわえることを禁じてはいません。ただし、先に述べた目的を果たすのに足りるだけの量と程度においてです。その量とは、次のことができるだけの量です。第一に、だれにも借りがないこと。第二に、自分のために生活の必需品を手に入れること。第三に、生きている間は家族にそれを与え、自分が神のもとへ去ったあとは、家族がそれを手に入れる手段を与えることです。
(一二) 今や、ここで禁じられているものが何であるかを、はっきりと見分けることができます(見分けたくないのでなければ、ですが)。それは、先に述べた目的を果たすのに足りる以上に、この世の財を、わざと手に入れることです。世の財産をもっと多く、金銀をもっと多く増やそうと骨折ることです。これらの目的が求める以上のものをたくわえること、それこそが、ここではっきりと、絶対的に禁じられていることなのです。この言葉に何かの意味があるとすれば、それはこれに違いありません。ほかの意味にとることはできないからです。したがって、だれにも借りがなく、自分と家族のための衣食がある人がいるとします(第一テモテ六・八)。そのうえ、これらの道理にかなった目的を果たすのに足りるだけ、世の仕事を続ける蓄えもあるとします。繰り返して言います。すでにこのような状態にありながら、地上でなおいっそう多くの分け前を求める人がいます。その人は、だれであれ、自分をあがなってくださった主を(第二ペテロ二・一)、公然と、習慣的に否定して生きているのです。その人は、実際上「その信仰を捨てたことになるのであって」、アフリカやアメリカの「不信者以上にわるい」のです(第一テモテ五・八)。
(一三) 世に住み、自分の住む世を愛する者たちよ、みな、これを聞きなさい(詩篇四九・一)。あなたがたは、「人々の間で尊ばれる」かもしれません(ルカ一六・一五)。けれども、あなたがたは「神のみまえでは忌みきらわれる」ものです(ルカ一六・一五)。いつまで、あなたがたの魂はちりについているのですか(詩篇一一九・二五)。いつまで、厚い泥で自分を重くするのですか。いつになったら目をさまし、公然の、信条の上での異教徒のほうが、あなたがたよりも天国に近いことを悟るのですか。いつになったら、良い方を、すなわちあなたがたから取り去られることのないものを、選ぶ気になるのですか(ルカ一〇・四二)。いつになったら、ほかのすべての宝を捨て、恐れ、忌みきらって、ただ「天に、宝をたくわえ」ることだけを求めるのですか(マタイ六・二〇)。もし「地上に、宝をたくわえ」ることを(マタイ六・一九)目指すなら、あなたがたは、ただ時間をむだにしているだけではありません。かてにもならぬもののために力を費やしているだけでもないのです(イザヤ五五・二)。もし成功したら、その実は何でしょうか。あなたがたは自分の魂を殺したのです! 魂のうちにある霊のいのちの最後の火花を、消してしまったのです! 今や、まことに、あなたがたは生のただ中で死の中にいます! あなたがたは、生きている人間ですが、死んだクリスチャンなのです。「あなたの宝のある所には、心もあるからです」(マタイ六・二一)。あなたがたの心はちりの中に沈み、魂は地についています。あなたがたの心の思いは、上にあるものではなく、地上のものに向けられています(コロサイ三・二)。哀れないなご豆に(ルカ一五・一六)向けられているのです。それは、神のために造られた永遠の霊を、毒することはあっても、満たすことはできません。あなたがたの愛も、喜びも、願いも、みな、使えば尽きてしまうもの(コロサイ二・二二)に置かれています。あなたがたは、天にある宝を投げ捨てました。神もキリストも失われたのです! あなたがたが得たのは、富と、地獄の火です!
(一四) ああ、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいこと」でしょう(マルコ一〇・二三)。主の弟子たちは、主がこのように語られるのを聞いて驚きました(マルコ一〇・二四)。けれども、主はそれを取り消すどころか、同じ大切な真理を、前よりも強い言葉で繰り返されました。「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」のです(マルコ一〇・二五)。自分の言葉の一つ一つがほめそやされる人々にとって、自分を賢いとしない(イザヤ五・二一)のは、何とむずかしいことでしょう! 貧しく、卑しく、教育のない群衆よりも自分がすぐれていると思わないのは、何とむずかしいことでしょう! 富のうちに、また富に頼るもののうちに、幸いを求めないのは、何とむずかしいことでしょう。肉の欲、目の欲、持ち物の誇を(第一ヨハネ二・一六)満たすことに、幸いを求めないのは、何とむずかしいことでしょう。ああ、富んでいる者たちよ、あなたがたは、どうして地獄の刑罰をのがれることができるでしょうか(マタイ二三・三三)。ただ、神にはすべてのことができます(マルコ一〇・二七)!
(一五) また、たとえ成功しなくても、地上に宝をたくわえようと努めることの実は何でしょうか。「富むことを願い求める者は」(第一テモテ六・九)、原語ではホイ・ブーロメノイ・プルーテイン(οἱ βουλόμενοι πλουτεῖν)です。成功してもしなくても、富を願い、富を求めて努める者のことです。そういう者は、「誘惑と、わなとに陥」ります(第一テモテ六・九)。そのわなとは、悪魔のわな、悪魔の仕掛けです。また、「無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥る」のです(第一テモテ六・九)。これは原語ではエピテューミアス・アノエートゥス(ἐπιθυμίας ἀνοήτους)で、理性とは何の関わりもない欲のことです。それは本来、理性ある不死の存在にではなく、ただ悟りのない獣にだけふさわしい欲です。その情欲は、「人を滅びと破壊とに沈ませる」のです(第一テモテ六・九)。すなわち、今の悲惨と永遠の悲惨とに沈ませるのです。ただ目を開きさえすれば、そのことの痛ましい証拠を毎日見ることができます。富むことを願い、富もうと決心し、すべての悪の根である金銭を欲しがった人々がいます。彼らは、すでに多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおしました(第一テモテ六・一〇)。そして、自分が向かっている地獄を、前もって味わっているのです!
ここで使徒が語る慎重さは、大いに注目に値します。使徒は、これを富んでいる人について無条件に断言してはいません。人は、自分に何の落ち度もなく、自分の選びに先立って働く摂理の支配によって、富んでいることもありうるからです。そうではなく、使徒はこれを、ホイ・ブーロメノイ・プルーテイン(οἱ βουλόμενοι πλουτεῖν)、すなわち富むことを願い、求める人々について断言しているのです。富は、危険なものではあっても、いつも「人を滅びと破壊とに沈ませる」とはかぎりません(第一テモテ六・九)。けれども、富を願うことは、必ずそうするのです。落ち着いて富を願い、熟慮の上で富を得ようと求める人々は、実際に全世界をもうけてももうけなくても、必ず自分の魂を損するのです(マタイ一六・二六)。これこそ、ご自分の血をもって自分を買い取ってくださった方を、わずかな金貨や銀貨で売り渡す人々です。彼らは、死と陰府と契約を結びます(イザヤ二八・一五)。そして、その契約は成り立つのです。彼らは、悪魔とその使たちと共に(マタイ二五・四一)、その受け継ぐものにあずかるにふさわしい者に、日ごとに自分をしているからです!
(一六) ああ、だれが、このまむしの子らに、迫ってきている神の怒りからのがれるよう警告するのでしょうか(マタイ三・七)! それは、彼らの門前に横たわる人々、足もとにへつらう人々、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望む人々ではありません(ルカ一六・二〇〜二一)。彼らの好意を求めたり、そのしかめ面を恐れたりする人々でもありません。地上のことを思う人は、だれもそうではありません。けれども、地上にクリスチャンがいるとします。世に勝ち、神のほかに何も願わず、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたのほかにはだれも恐れない人がいるとします(マタイ一〇・二八)。神の人よ、あなたこそ、声を惜しまずに語りなさい。あなたの声をラッパのようにあげなさい(イザヤ五八・一)! 大声で叫び、この身分の高い罪人たちに、彼らが立っている絶望的な状態を示しなさい! もしかすると、千人に一人は、聞く耳を持つかもしれません(マタイ一三・九)。起き上がって、身からちりを振り落とし(イザヤ五二・二)、自分を地につなぎとめている鎖を断ち切って、ついには天に宝をたくわえるかもしれません。
(一七) そして、もしこの人々のうちのひとりが、神の大能の力によって目ざめ、「わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」と問うとします(使徒一六・三〇)。そのとき、神の言による答え(ローマ三・二)は、はっきりとして、余すところなく、明確です。神は、あなたに、「持っているものをみな売り払」いなさい、とは言われません(ルカ一八・二二)。確かに、人の心を見られる方は、ある特別な場合に、すなわち若い富んだ役人の場合に、これを命じる必要があると見られました。けれども、それを、後に続くすべての世代の、すべての富んだ人への一般の規則として定められたことはありません。神の一般の指示は、第一に、「高慢にな」らないことです(第一テモテ六・一七)。神は、人が見るようには見られません(サムエル記上一六・七)。神は、あなたの富や威光や供回りのゆえに、あなたを重んじられるのではありません。直接にであれ間接にであれ、あなたの富のおかげで得た資格や教養のゆえに、あなたを重んじられるのでもありません。富で買ったり手に入れたりできるもののゆえにでもありません。これらはみな、神の前では、ふん土やかすのようなものです(ピリピ三・八)。あなたにとっても、そうであるようにしなさい。これらのもののために、自分が少しでも賢い、すぐれていると思わないように気をつけなさい。別のはかりで自分を量りなさい。神があなたに分け与えてくださった信仰と愛の量りによってだけ(ローマ一二・三)、自分を評価しなさい。あなたの羊の群れの犬と一緒にいる者がいます(ヨブ三〇・一)。もしあなたが、その者よりも、神を知る知識と神への愛とを多く持っているとします。そうであれば、あなたはこの理由によってだけ、その者よりも賢く、すぐれ、価値があり、尊いのです。けれども、もしこの宝を持っていないなら、あなたはもっと愚かで、もっと卑しく、本当にもっと軽蔑すべき者です。あなたの家にいる最も身分の低い召使よりも、とは言いません。あなたの門前に横たわる、でき物だらけのこじきよりも、そうなのです(ルカ一六・二〇)。
(一八) 第二に、「たよりにならない富に望みをお」いてはなりません(第一テモテ六・一七)。助けを得ようとして、富に頼ってはなりません。また、幸いを得ようとして、富に頼ってはなりません。
第一に、助けを得ようとして、富に頼ってはなりません。金や銀に助けを求めるなら、あなたはみじめな思い違いをしています。金銀は、あなたを悪魔の上に置くことができないのと同じく、世の上に置くこともできません。世も、この世の君も(ヨハネ一二・三一)、自分たちに対するそのような備えを、みなあざ笑っていることを知りなさい。悩みの日には、金銀はほとんど役に立たないでしょう。たとえ試練のときに残っていたとしてもです。けれども、残っているかどうかは確かではありません。富はどれほどたびたび、「自ら翼を生じて」、「飛び去る」ことでしょう(箴言二三・五)! しかし、たとえ飛び去らないとしても、人生の普通の悩みにおいてさえ、富がどんな支えを与えてくれるでしょうか。あなたの目の喜ぶ者(エゼキエル二四・一六)、あなたの若い時の妻(箴言五・一八)が、一撃のうちに取り去られます。あなたの子、あなたのひとり子(創世記二二・二)、あるいはあなたと身命を共にした友(申命記一三・六)が、取り去られるのです。あなたの富は、息のない土くれを生き返らせ、さきほどまでそこに住んでいた者を呼び戻すでしょうか。富は、あなたを病気や疾患や痛みから守ってくれるでしょうか。こうしたものは、貧しい人だけを訪れるのでしょうか。いいえ、あなたの羊を飼う者や、あなたの土地を耕す者のほうが、あなたよりも病気や痛みが少ないのです。彼のもとには、こうした招かれざる客はめったに訪れません。たとえ訪れても、「雲をいただく宮殿」からよりも、小さな小屋からのほうが、たやすく追い払われるのです。そして、あなたの体が痛みによって懲らされ(ヨブ三三・一九)、やつれる病に衰えていく間、あなたの宝はどのようにあなたを助けるでしょうか。哀れな異教徒に答えさせましょう。
Ut lippum pictae tabulae, fomenta podagrum, Auriculas citharae collecta sorde dolentes. (ただれ目に描いた絵が、痛風に湿布が、耳垢がたまって痛む耳に竪琴が役立つほどにしか、役に立たない)
(一九) けれども、これらすべてよりも大きな悩みが、すぐそこに迫っています。あなたは死ぬのです! ちりの中に沈み、あなたが取られた土に帰り(創世記三・一九)、ありふれた土くれに混じるのです。あなたの体は、もとのように土に帰り、霊は、これを授けた神に帰るのです(伝道一二・七)。そして、そのときは近づいています。年月は、音もなく、しかし速い足取りで過ぎ去っていきます。おそらく、あなたの日はもう傾いています(ルカ二四・二九)。人生の昼は過ぎ、夕べの影があなたの上にかかり始めています。あなたは、確かな衰えが近づいているのを、自分の内に感じています。いのちの源は、みるみる衰えていきます。では、あなたの富に、どんな助けがあるでしょうか。富は死を甘くするでしょうか。あの厳かなときを、いとしいものにするでしょうか。まったく逆です。「ああ、死よ、自分の持ち物に囲まれて安らかに暮らす人にとって、おまえは何と苦いことでしょう」。「あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう」(ルカ一二・二〇)という恐ろしい宣告は、その人にとって、何と受け入れがたいことでしょう。それとも、富は、招かれざる一撃を防ぎ、恐ろしいときを引き延ばしてくれるでしょうか。富は、あなたの魂を救って、死を見ないようにすることができるでしょうか(詩篇八九・四八)。過ぎ去った年月を取り戻すことができるでしょうか。定められた時に(ヨブ一四・五)、一か月を、一日を、一時間を、一瞬を加えることができるでしょうか。それとも、あなたがこの世で自分の分け前として選んだ良いものが、あの大きな淵を越えて(ルカ一六・二六)、あなたについて来るでしょうか。そうではありません。あなたは裸でこの世に来ました。裸で帰らなければなりません(ヨブ一・二一)。
Linquenda tellus, et domus, et placens Uxor; neque harum quas colis arborum Te, praeter invisas cupressos, Ulla brevem dominum sequetur! (大地も家も、愛しい妻も、残して行かねばならない。あなたが育てている木々のうち、つかの間の主人であるあなたについて行くものは、忌まわしい糸杉のほかには一本もない)
これらの真理は、否定できないほど明白なので、かえって明白すぎて気づかれないのです。もしそうでなければ、死ぬべき人はだれも、たよりにならない富に助けを求めて頼ることなど、決してできないでしょう。
(二〇) また、幸いを得ようとして、富に頼ってはなりません。ここでも、富は「はかりの上で偽る」ものだと分かるでしょう。実際、このことは、すでに述べたことから、道理をわきまえた人ならだれでも推論できます。幾千の金銀も(詩篇一一九・七二)、それで買える利益や楽しみも、私たちが不幸になるのを防げないとします。そうであれば、それらが私たちを幸いにすることもできないのは明らかです。それらのただ中にいながら、こう叫ばずにはいられない人に、富はどんな幸いを与えることができるでしょうか。
私の新しい宮殿に、悲しい思いがなお立ち帰り、金を塗った私の屋根の周りに、心配が漂いまとう。
実際、ここでは経験があまりにも豊かで、力強く、否定できないので、ほかの論証はすべて不要になります。ですから、事実に訴えましょう。富んだ人々、身分の高い人々だけが、幸いな人なのでしょうか。そして、そのひとりひとりは、自分の富の量に比例して、幸いであったりなかったりするのでしょうか。そもそも彼らは幸いなのでしょうか。私は、彼らはすべての人の中で最もあわれむべき者だ(第一コリント一五・一九)、と言いそうになりました。富んだ人よ、一度でいいから、心から真実を語りなさい(詩篇一五・二)。自分のためにも、兄弟たちのためにも、語りなさい!
有り余るものの中にあっても、なお何かが、私にも、あなたにも、彼にも欠けている!その手に入らない残酷な何かが、ほかのすべてを蝕み、損なう。
そうです、あなたの疲れるむなしい日々が、死の夜に閉ざされるまで、そうなのです。
ですから、確かに、幸いを得ようとして富に頼ることは、日の下にあるあらゆる愚かさの中で、最大の愚かさです。あなたは、このことを確信していないのですか。それでもなお、金銭や、金銭で手に入るあらゆるものの中に、幸いを見いだせると期待できるのですか。なんと! 金銀が、飲み食いが、馬や召使が、きらびやかな衣服が、娯楽や(いわゆる)楽しみが、あなたを幸いにできるのでしょうか。それらがあなたを幸いにできるのは、あなたを不死にできるのと同じことです!
(二一) これらはみな、死んだ見せかけです。気に留めてはなりません。生ける神に頼りなさい(第一テモテ四・一〇)。そうすれば、あなたは全能者の陰に(詩篇九一・一)安全にいるでしょう。神の真実とまことが、あなたの大盾、また小盾となるでしょう(詩篇九一・四)。神は、悩める時のいと近き助けです(詩篇四六・一)。決して尽きることのない助けです。そうすれば、ほかの友がみな死んでも、あなたはこう言うでしょう。「主は生きておられます」、わが強い助け手は「ほむべきかな」と(詩篇一八・四六)。あなたが病の床に伏すとき、人の助けがむなしいとき(詩篇六〇・一一)、神はあなたを覚えてくださいます。地上のあらゆるものが何の支えも与えられないとき、神は、あなたが病むとき、あなたの床をすっかり整えてくださいます(詩篇四一・三)。神は、あなたの痛みを和らげてくださいます。神の慰めは(ヨブ一五・一一)、炎の中でさえ、あなたに手を打ち鳴らさせるでしょう。そして、やがてこの地上の家(第二コリント五・一)は、ほとんど揺り倒され、今にもちりの中に崩れ落ちようとするでしょう。そのときでさえ、神は、あなたにこう言うことを教えてくださいます。「死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」(第一コリント一五・五五)。墓よ、「おまえの勝利は、どこにあるのか」(第一コリント一五・五五)。「感謝すべきことには、神は」私の「主イエス・キリストによって」、私に「勝利を賜わ」ります(第一コリント一五・五七)。
ああ、助けのためだけでなく、幸いのためにも、神に頼りなさい。幸いの泉は、すべて神のうちにあります。「わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませてくださる神に」頼りなさい(第一テモテ六・一七)。原語ではパレコンティ・プルーシオース・パンタ・エイス・アポラウシン(παρέχοντι πλουσίως πάντα εἰς ἀπόλαυσιν)です。神は、ご自分の豊かな、価なしのあわれみによって、いわばご自分の手でそれらを私たちに差し出してくださいます。それは、私たちがそれを神の賜物として、神の愛の保証として受け、自分の持っているすべてのものを楽しむためです。私たちが味わうすべてのものに味わいを与えるのは、神の愛です。神の愛が、すべてのものにいのちと甘さを吹き込みます。そのとき、あらゆる被造物が私たちを偉大な創造主へと導き、地のすべてが天へのはしごとなるのです。神は、ご自分の右にある喜びを(詩篇一六・一一)、感謝するご自分の子供たちに与えるすべてのものに注ぎ込まれます。その子供たちは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりを持ち(第一ヨハネ一・三)、すべてのものの中で、すべてのものにまさって、神を楽しむのです。
(二二) 第三に、財産を増やそうと求めてはなりません。「自分のために」(マタイ六・一九)、「地上に、宝をたくわえてはなりません」(マタイ六・一九)。これは、きっぱりとした、明文の命令です。「あなたは姦淫してはならない」(出エジプト二〇・一四)と少しも変わらないほど、はっきりしています。それなら、富んだ人が、自分をあがなってくださった主を否定せずに(第二ペテロ二・一)、さらに富むことが、どうしてできるでしょうか。そうです、すでに生活の必需品を持っている人が、それ以上のものを得ようとし、また目指すとします。それで罪がないということが、どうしてありうるでしょうか。私たちの主は言われます。「地上に、宝をたくわえてはなりません」(マタイ六・一九)。それにもかかわらず、あなたがお金や財産をたくわえ、またたくわえようとするとします。それは、「虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出す」ようなものです(マタイ六・一九)。家に家を建て連ね、田畑に田畑をまし加えようとするとします(イザヤ五・八)。それなら、なぜ自分をクリスチャンと呼ぶのですか。あなたは、イエス・キリストに従っていません。従おうとも思っていません。それなのに、なぜキリストの名で自分を呼ぶのですか。主ご自身が言われます。「わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのですか」(ルカ六・四六)。
(二三) あなたがたは、こう問うかもしれません。「だが、財産をたくわえてはならないなら、私たちは財産をどうすればよいのか。私たちには、使う必要のある以上のものがあるのだ。それを投げ捨てなければならないのか」。私は答えます。たとえ財産を海に投げ込んでも、火に投げ入れて焼き尽くしても、今よりはましな使い方でしょう。子孫のためにたくわえること、愚かさとぜいたくのために自分に費やすこと。財産を投げ捨てるやり方として、これほど有害なやり方は見つかりません。財産を投げ捨てるあらゆる方法の中で、この二つこそ最悪です。キリストの福音に最も反し、あなたがた自身の魂に最も有害なのです。
このうち後者が、あなたがた自身の魂にどれほど有害であるかは、近ごろのある著作家が見事に示しています。
「私たちがお金を浪費するなら、神から与えられたタラントを浪費する罪を犯すだけではありません。私たちは、自分にさらに害を加えるのです。この有益なタラントを、自分を堕落させる強力な手段に変えてしまうのです。お金は、誤って使われるかぎり、何かの誤った気質を支えるために使われ、何かのむなしい不合理な欲を満たすために使われるからです。そうした欲を、私たちはクリスチャンとして捨てなければならないのです。
「機知やすぐれた才能は、ただむだに費やされるだけでは済まず、それを持つ人をもっと大きな愚かさにさらします。それと同じように、お金も、ただむだに費やされるだけでは済みません。理性と宗教に従って使われないなら、お金は、それがなかった場合よりも愚かで、ぜいたくな生活を人々に送らせるのです。ですから、もしお金をほかの人に善を行うために使わないなら、自分を害するために使うことになるのです。あなたは、こういう人と同じことをしているのです。自分で飲めば血をたぎらせてしまうだけの強壮剤を、病気の友に与えることを拒む人です。余分なお金とは、まさにそういうものだからです。それを必要としている人に与えれば、それは強壮剤です。必要でもない何かのために自分に費やせば、それはあなたの心をたぎらせ、乱すだけです。
「富が本当に役に立つのでもなく、私たちが本当に必要としているのでもないところで、富を使うとします。そのとき、私たちは、ただ自分に大きな害を与えるために使っているだけです。不合理な欲を生み出し、悪い気質を養い、愚かな情念にふけり、むなしい心の傾きを支えるために使っているのです。ぜいたくな飲み食い、りっぱな衣服とりっぱな家、威儀と供回り、華やかな楽しみと娯楽。これらはどれもみな、本来、私たちの心を害し、乱すものだからです。それらは、私たちの本性のあらゆる愚かさと弱さとの糧であり、養分です。それらはみな、支えられるべきでない何かを支えるものです。それらは、神の事柄を味わう、あの心の慎みと敬虔さに反しています。それらは、私たちの心にかかる重しの数々です。それらのために、私たちは、考えと心の思いとを上にあるものへ引き上げることが、できにくくなり、またしたくなくなるのです。
「ですから、このように使われたお金は、ただ浪費され、失われるだけではありません。悪い目的とみじめな結果のために使われるのです。私たちの心を堕落させ、乱すために、私たちが福音の崇高な教えに従えなくなるようにするために、使われるのです。それは、貧しい人々にお金を渡さずにおいて、自分のために毒を買うようなものにすぎません」。
(二四) どんな道理にかなった目的のためにも必要でないものを、たくわえる人々も、同じように弁解の余地がありません。
「ある人が、手や目や足を持っていて、それを必要としている人々に与えることができるとします。その人が、それを目の見えない、足の不自由な兄弟たちに与える代わりに、箱にしまい込んで鍵をかけたとします。私たちは当然、その人を人でなしと見なすのではないでしょうか。目や手を必要としている人々にそれを与えれば、永遠の報いを受ける資格を得られます。それなのに、もしその人が、むしろそれをため込んで楽しむほうを選ぶとします。私たちは当然、その人を正気でないと見なすのではないでしょうか。
「さて、お金は、目や足と非常によく似た性質を持っています。ですから、貧しい人々や苦しんでいる人々は、必要な用のためにお金を必要としています。それなのに、私たちがそれを箱にしまい込んで鍵をかけるなら、あの人の残酷さから遠くありません。手や目を、それを必要としている人々に与えるよりも、ため込むほうを選ぶ人の残酷さです。もし、お金をよく用いて永遠の報いを受ける資格を得るよりも、それをたくわえるほうを選ぶなら、私たちは、あの人の狂気と同じ罪を犯しています。目や手を、必要としている人々に与えて永遠に祝福された者となるよりも、しまい込むほうを選ぶ人の狂気です」。
(二五) 富んでいる者が天国にはいるのが、これほどむずかしい(マタイ一九・二三)もう一つの理由は、ここにあるのではないでしょうか。彼らの大多数は、のろいの下に、神の特別なのろいの下にあります(マラキ三・九)。彼らは、生活の全体の流れにおいて、絶えず神の物を盗み(マラキ三・八)、主人の財産を横領し、浪費しています(ルカ一六・一)。そして、まさにそのことによって、自分の魂を堕落させているのです。それだけではありません。彼らは、貧しい人、飢えた人、裸の人から盗み、やもめとみなしごを虐げています。そして、取り除くことができるのに取り除かない、あらゆる欠乏と苦しみと悩みとについて、自分に責任を負わせているのです。彼らが不必要にたくわえたり費やしたりするもの、それがないために滅びる人々がいます。そうです、そのすべての人々の血が、地から彼らを訴えて叫んでいる(創世記四・一〇)のではないでしょうか。ああ、彼らは、生ける者と死ねる者とをさばくかたに(第一ペテロ四・五)、どんな申し開きをするのでしょうか!
(二六) 第四に、自分に必要でないものを用いる正しい方法は、私たちの主の言葉から学ぶことができます。それは、前に述べた言葉と対をなす言葉です。「自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい」(マタイ六・二〇)。あなたが余せるものは何でも、この世が与えうるよりも確かな保証のある所に預けなさい。あなたの宝を天の銀行にたくわえなさい。そうすれば、神はかの日に、それを返してくださいます。「貧しい者をあわれむ者は主に貸すのです」(箴言一九・一七)。その人が施すものは何であれ、その人に返されるのです。主は言われます。「それをわたしの借りにしておいて」ください(ピレモン一八)。けれども、そのうえ、「あなたが、あなた自身をわたしに負うている」のです(ピレモン一九)!
澄んだ目で、まっすぐな心で、貧しい人々に与えなさい。そして、「神にこれだけささげた」と書きつけなさい。なぜなら、主はこう言われるからです。「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのです」(マタイ二五・四〇)。
これこそ、「忠実な思慮深い家令」(ルカ一二・四二)の務めです。何か特別な事情がそれを求めるのでなければ、その家令は、家も土地も元手も、多かれ少なかれ、売りはしません。また、それをむなしいことに浪費しないのと同じく、それを増やそうと願ったり努めたりもしません。そうではなく、主人がそれを自分の手にゆだねてくださった、あの賢く道理にかなった目的のために、それをすべて用いるのです。賢い家令は、いのちと信心とにかかわるもの(第二ペテロ一・三)を自分の家族に備えます。そのあと、そのつど残る「不正の富」(ルカ一六・九)のすべてで、自分のために友だちをつくります。それは、自分が尽きたとき、彼らが自分を「永遠のすまいに迎えてくれる」ためです(ルカ一六・九)。すなわち、いつであれ彼の地上の幕屋がこわれるときに(第二コリント五・一)、迎えてもらうためです。先にアブラハムのふところに送られた人々がいます(ルカ一六・二二)。彼らは、彼のパンを食べ、彼の羊の毛を着て(ヨブ三一・二〇)、その慰めのゆえに神をほめたたえた人々です。その人々が、彼をパラダイスに迎え、「天にある」、神の「永遠の家」に迎えるのです(第二コリント五・一)。
(二七) ですから、私たちは、私たちの偉大な主であり主人である方から権威を受けた者として、「この世で富んでいる」あなたがたに「命じ」ます(第一テモテ六・一七)。アガトエルゲイン(ἀγαθοεργεῖν)、すなわち習慣的に善を行い、良きわざを続けて生きるようにと命じるのです(第一テモテ六・一八)。天にいます「あなたがたの父」が「慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者と」なりなさい(ルカ六・三六)。父は善を行い、やめることがありません。「慈悲深い者と」なりなさい(ルカ六・三六)。どこまででしょうか。あなたがたの力に応じて、神が与えてくださるあらゆる能力をもってです。これを、善を行うことのただ一つの尺度としなさい。世のけちな格言や習慣を尺度にしてはなりません。私たちは、あなたがたが「良いわざに富」むように命じます(第一テモテ六・一八)。多く持っているのですから、豊かに与えるように命じます。「ただで受けたのだから、ただで与え」なさい(マタイ一〇・八)。天のほかには、どこにも宝をたくわえないようにしなさい。ひとりひとりの必要に応じて、「惜しみなく施」しなさい(第一テモテ六・一八)。惜しげなく施し、貧しい者に与えなさい(詩篇一一二・九)。飢えた者に、あなたがたのパンを分け与えなさい(イザヤ五八・七)。裸の者に着せ、旅人をもてなし、獄にいる人々に救いの品を届けるか、送りなさい(マタイ二五・三五〜三六)。病人をいやしなさい(マタイ一〇・八)。奇跡によってではなく、時宜にかなったあなたがたの援助に神が祝福を与えてくださることによってです。ひどい欠乏のために今にも滅びようとした者の祝福が、あなたに来るようにしなさい(ヨブ二九・一三)。しえたげられる者を守り、みなしごのために弁護し(イザヤ一・一七)、やもめの心を喜び歌わせなさい(ヨブ二九・一三)。
(二八) 私たちは、主イエス・キリストの名によって、あなたがたが「人に分け与えることを喜」ぶように勧めます(第一テモテ六・一八)。原語ではコイノーニクース・エイナイ(κοινωνικοὺς εἶναι)です。すなわち、昔の信者たちと(外の境遇は同じでなくても)同じ霊を持つように勧めます。彼らは、エン・テー・コイノーニアー(ἐν τῇ κοινωνίᾳ)、すなわちあの祝福された聖い交わりのうちに、ひたすらとどまっていました(使徒二・四二)。その交わりでは、「だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた」のです(使徒四・三二)。家令になりなさい。神と貧しい人々との、忠実な思慮深い家令に(ルカ一二・四二)なりなさい。あなたがたが貧しい人々と違うのは、次の二つの点だけです。第一に、あなたがたの必要は、あなたがたの手に残っている主人の財産の分け前から、まず満たされること。第二に、あなたがたには、与える幸いがあることです(使徒二〇・三五)。こうして、「よい土台を自分のために築き上げ」なさい(第一テモテ六・一九)。今ある世においてではなく、むしろ「未来に備えて」築くのです(第一テモテ六・一九)。それは、永遠のいのちを得るためです。確かに、この世のものであれ永遠のものであれ、神のあらゆる祝福の大いなる土台は、主イエス・キリストです。キリストの義と血であり、キリストが私たちのためになさったこと、苦しまれたことです。そして、この意味では、ほかの土台を「すえることは、だれにもできません」(第一コリント三・一一)。そうです、使徒にもできず、天からの御使にもできません(ガラテヤ一・八)。けれども、キリストの功績によって、私たちがキリストの名によって行うことは何でも、良い報いを受ける土台となります。それは、「それぞれその働きに応じて報酬を得る」日のための土台です(第一コリント三・八)。ですから、あなたは「朽ちる食物のためではなく、永遠のいのちに至る朽ちない食物のために働」きなさい(ヨハネ六・二七)。ですから、今、「すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてな」しなさい(伝道九・一〇)。ですから、次のようにしなさい。
良い機会を一つも見過ごすな。飛び去る黄金のときをつかみ取り、わずかな、はかない年月によって、永遠を確かなものとせよ!
あなたは、「耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求め」なさい(ローマ二・七)。あらゆる良きわざを、絶えず熱心に行いながら、あの幸いなときを待ちなさい。王がこう言われるときです。「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれました」(マタイ二五・三五〜三六)。「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい」(マタイ二五・三四)。