ジョン・ウェスレー標準説教集

説教二十七 山上の説教(七)

「また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをしてはなりません。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのです。よく言っておきます。彼らはその報いを受けてしまっています」。あなたは、「断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためです。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は」、公然と「報いてくださるでしょう」(マタイ六・一六〜一八)

(一) 世の初めから、サタンは、神が合わせられたものを離そうと努めてきました(マタイ一九・六)。内なる宗教を外なる宗教から切り離し、その一方を他方と争わせようとしてきたのです。そして、この点で、サタンは、「彼の策略を知らない」人々の間で(第二コリント二・一一)、少なからぬ成功を収めてきました。

どの時代にも、神に対して熱心ではあっても、その熱心が深い知識によらない人々が大勢いました(ローマ一〇・二)。彼らは、「律法による義」(ローマ一〇・五)、すなわち外の務めを果たすことに、かたくしがみついてきました。けれども、その一方で、内なる義、すなわち「信仰に基く神からの義」(ピリピ三・九)には、まったく無頓着でした。また、反対の極端に走った人々も大勢いました。彼らは外の務めをすべて軽んじました。律法がその務めを果たすように命じるかぎりで、おそらく「律法をそしり、律法をさばく」ことさえしたのです(ヤコブ四・一一)。

(二) 信仰と行いとが、これほどたびたび互いに争わされてきたのも、サタンのまさにこの策略によります。そして、神に対して本当に熱心であった多くの人々も、しばらくの間、どちらかの側のわなに陥りました。ある人々は、信仰を重んじるあまり、良きわざをまったく締め出しました。良きわざが私たちの義認の原因であることを否定しただけではありません。人は、イエスによるあがないによって価なしに義とされる(ローマ三・二四)ことを、私たちは知っているからです。良きわざが義認の必然の実であることも否定しました。それどころか、イエス・キリストの宗教の中に何かの場所を持つことさえ、否定したのです。ほかの人々は、この危険な誤りを避けようとするあまり、反対の方向へ同じほど行き過ぎました。良きわざが義認の原因であり、少なくとも先立つ条件であると主張したのです。あるいは、良きわざがすべてであるかのように、イエス・キリストの宗教の全体であるかのように語りました。

(三) 同じように、宗教の目的と手段とが、互いに争わされてきました。善意のある人々の中には、宗教のすべてを次のことに置いているように見える人がいました。教会の祈りに出席すること、主の晩餐を受けること、説教を聞くこと、敬虔な書物を読むことです。その一方で、これらすべての目的である、神と隣人への愛をおろそかにしたのです。そして、まさにこのことのために、ほかの人々は、神の定めをおろそかにし、軽蔑さえする態度を、ますます固めました。神の定めは、それが打ち立てるはずの目的そのものを掘り崩し、覆すために、これほどみじめに悪用されたのです。

(四) けれども、恵みの手段のうちで、宗教的な断食ほど、人々が極端に走ったものはほとんどありません。それは、私たちの主が先に挙げた言葉で語っておられるものです。ある人々は、これを聖書と理性のすべてを越えて、どれほど高めてきたことでしょう。そして、ほかの人々は、これをまったく顧みませんでした。前者が重んじすぎたのと同じほど軽んじることで、いわば仕返しをしたのです。前者は、断食がすべてであるかのように語りました。目的そのものではないにしても、目的と必ず結びついているかのように語ったのです。後者は、断食がまったく無であるかのように、目的と何の関わりもない、実りのない骨折りであるかのように語りました。けれども、真理がその両者の間にあることは確かです。断食はすべてではありませんが、無でもありません。それは目的ではありませんが、目的に至る尊い手段です。神ご自身が定められた手段です。ですから、それがふさわしく用いられるとき、神は必ず私たちに祝福を与えてくださいます。

このことを最もはっきりと示すために、私は次のことを明らかにしようと思います。第一に、断食の性質とは何か、またそのいくつかの種類と程度とは何か。第二に、断食の理由と根拠と目的とは何か。第三に、断食に対する最ももっともらしい反論に、どう答えることができるか。第四に、断食はどのような仕方で行うべきか。

【一】 断食の性質と種類

(一) まず第一に、断食の性質とは何か、またそのいくつかの種類と程度とは何かを、明らかにしようと思います。その性質について言えば、旧約と新約とを問わず、霊感を受けた書き手はみな、断食するという語をただ一つの意味にとっています。食べないこと、食物を断つことです。これはあまりにも明らかです。ですから、ダビデ、ネヘミヤ、イザヤ、その後に続いた預言者たちの言葉を引くのは、むだな骨折りでしょう。私たちの主と使徒たちの言葉を引くのも、同じです。彼らはみな、断食するとは定められた期間、食べないことだ、という点で一致しているのです。

(二) 昔の人々は、これにほかの事柄も付け加えるのが常でした。それらは、断食と必然のつながりを持たない事柄です。たとえば、衣服に構わないこと、いつもの飾りを外すこと、喪服を着ること、頭に灰をまくこと、素肌に荒布をまとうことです。けれども、新約聖書には、こうしたどうでもよい事柄はほとんど述べられていません。また、より純粋な時代のクリスチャンが、それらを重んじたようにも見えません。もっとも、悔い改める人の中には、内なるへりくだりの外のしるしとして、自分から進んでそれを用いた人もいたでしょう。まして、使徒たちや、彼らと同じ時代のクリスチャンが、自分の肉を打ったり裂いたりすることはありませんでした。このような苦行は、バアルの祭司や礼拝者にこそふさわしいものでした。異教徒の神々は悪霊にすぎませんでした。その祭司たちは、「大声に呼ばわり、彼らのならわしに従って」、「身を傷つけ、血をその身に流すに至った」のです(列王紀上一八・二八)。彼らの悪霊の神は、きっとそれを喜んだことでしょう。けれども、人のいのちを滅ぼすためではなく、救うために来られた方には(ルカ九・五六)、そのようなことが喜ばれるはずはありません。また、その方に従う者にもふさわしくありません。

(三) 断食の程度、すなわちその長さについて言えば、何日も続けて断食した人々の例があります。モーセ、エリヤ、そして私たちの祝福された主は、そのために超自然の力を授けられました。そして、「四十日四十夜」絶え間なく断食したと記されています(出エジプト三四・二八、列王紀上一九・八、マタイ四・二)。けれども、聖書がもっとたびたび述べる断食の期間は、朝から夕までの一日です。そして、これが古代のクリスチャンの間で普通に守られていた断食でした。けれども、そのほかに、彼らには半断食もありました(テルトゥリアヌスはこれをセミイェユニア(Semijejunia)と呼んでいます)。それは、一年を通じて、週の第四日と第六日(水曜日と金曜日)に行われました。その日、彼らは午後三時まで何も口にしませんでした。それは、公の礼拝から帰る時刻でした。

(四) これに近いのが、私たちの教会が「節制」という語でとくに意味していると思われるものです。これは、病気や体の弱さのために、完全には断食できないときに用いてよいものです。これは、少しだけ食べること、部分的に断つこと、いつもより少ない量の食物をとることです。聖書の中に、この例があったとは記憶していません。けれども、私はこれを責めることもできません。聖書が責めていないからです。これにも役に立つところがあり、神からの祝福を受けることもあるでしょう。

(五) 断食の最も低い種類は、もしそれを断食と呼べるならの話ですが、おいしい食物を断つことです。これについては、聖書にいくつもの例があります。ダニエルとその仲間たちの例のほかにもあるのです。ダニエルたちには、ある特別な考えがありました。「王の食物と、王の飲む酒とをもって、自分を汚すまい」と思ったのです(ダニエル一・八)。王は、その食物と酒を毎日彼らに与えるように定めていました。そこで彼らは、宦官の長に、食べるための野菜と飲むための水を求め、それを得ました(ダニエル一・八〜一六)。断食と節制のために取り分けられた期間に、肉とぶどう酒を断つという、非常に古い習慣があります。これは、おそらくこの例を誤ってまねたことから生じたのでしょう。そうでなければ、むしろ次の考えから起こったのでしょう。肉とぶどう酒が最もおいしい食物だと想定したのです。そして、厳かに神に近づくそのようなときには、最もおいしくないものを用いるのがふさわしいと信じたのです。

(六) ユダヤ人の教会には、定期の断食がいくつかありました。たとえば、七月の断食がそうです。これは、神ご自身が、最も厳しい罰をもって、全イスラエルに守らせるように定められたものです。主はモーセに言われました。「特にその七月の十日は贖罪の日です。あなたがたは」、「身を悩まし」、「あなたがたのために、あなたがたの神、主の前にあがないを」しなければなりません(レビ記二三・二六〜二八)。「すべてその日に身を悩まさない者は、民のうちから断たれるでしょう」(レビ記二三・二九)。後の時代になると、ほかにもいくつかの定期の断食が加えられました。預言者ゼカリヤも、「七月の断食」だけでなく、「四月の断食と、五月の断食と」、「十月の断食」についても述べています(ゼカリヤ八・一九)。

古代のキリスト教会にも、同じように定期の断食がありました。それには、年ごとのものと週ごとのものがありました。前者は、復活祭の前の断食です。ある人々は四十八時間、ほかの人々はまる一週間、多くの人々は二週間、これを守りました。その間、毎日夕方まで何も口にしなかったのです。後者は、週の第四日と第六日の断食です。エピファニオスは、否定できない事実としてこれに触れています。この断食はエン・ホレー・テー・オイクーメネー(ἐν ὅλῃ τῇ οἰκουμένῃ)、すなわち人の住む全世界で守られている、と書いているのです。少なくとも、クリスチャンが住んでいるあらゆる場所で守られていたのです。私たちの教会の年ごとの断食は、「四旬節の四十日、四季の斎日、祈願日、いくつかの厳かな祝日の前夜祭すなわち前日」です。週ごとの断食は、「降誕日を除く、一年のすべての金曜日」です(祈祷書「前夜祭・断食・節制の日の表」)。

けれども、定められた断食のほかに、神を恐れるどの国民にも、臨時の断食がいつもありました。それは、それぞれの国の特別な事情や機会が求めるのに応じて、そのつど定められたものです。たとえば、「モアブびと、アンモンびと」が「ヨシャパテと戦おうと攻めてきた」ことがありました。そのとき、「ヨシャパテは」、「主に顔を向けて助けを求め、ユダ全国に断食をふれさせ」ました(第二歴代二〇・一、三)。また、「ヨシヤの子エホヤキムの五年九月」、人々はバビロンの王を恐れていました。そのとき、ユダの君たちは、「エルサレムのすべての民」に、「主の前に断食を行うべきことを告げ示」しました(エレミヤ三六・九)。

同じように、一人一人の人も、自分の道に心を配り、へりくだって神と親しく歩みたいと願うなら、たびたび機会を見いだすでしょう。隠れた所においでになる父の前で、ひそかにこのように魂を悩ませる機会です。そして、ここで与えられている指示は、おもに、また何よりも、この種の断食に関わるものです。

【二】 断食の理由と根拠と目的

(一) 次に第二に、断食の根拠と理由と目的とは何かを示すことにします。

まず第一に、心が強く揺り動かされている人がいます。悲しみや恐れのような激しい感情にとらえられている人です。そういう人は、しばしばその感情にのみ込まれ、パンを食べることさえ忘れてしまいます(詩篇一〇二・四)。そのようなとき、彼らは食物をほとんど気にかけません。体を保つのに必要なものさえ気にかけず、まして、ごちそうや品数などは気にかけません。まったく別の思いで、頭がいっぱいだからです。こうして、サウルは言いました。「わたしは、ひじょうに悩んでいます。ペリシテびとがわたしに向かっていくさを起し、神はわたしを離れ」ました(サムエル記上二八・一五)。そのとき、彼は「その一日一夜、食物をとっていなかった」と記されています(サムエル記上二八・二〇)。こうして、聖パウロと共に船に乗っていた人々もそうでした。「暴風は激しく吹きすさぶので」、「助かる最後の望みもなくなった」とき(使徒二七・二〇)、彼らは十四日もの間、「食事もせずに」、「何も食べないで」過ごしました(使徒二七・三三)。きちんとした食事を一度もとらなかったのです。また、こうして、ダビデと、彼と共にいたすべての人々もそうでした。彼らは、民が戦いから逃げ、民の多くが倒れて死に、サウルとその子ヨナタンも死んだと聞きました。そのとき、「サウルのため、またその子ヨナタンのため」、「またイスラエルの家のために悲しみ泣いて、夕暮まで食を断った」のです(サムエル記下一・一二)。

それどころか、心が深く何かに向けられている人は、どんな妨げにも我慢できず、必要な食物さえいやがることがよくあります。食物が、全注意を注ぎたいと願っている事柄から、思いをそらしてしまうからです。先に述べた場面で、サウルがそうでした。彼は「地に伸び、倒れ」、「その力はうせてしまった」のに(サムエル記上二八・二〇)、「わたしは食べません」と言いました。そして、「彼のしもべたちも、その女もしいてすすめ」るまで、食べなかったのです(サムエル記上二八・二三)。

(二) ですから、ここに断食の自然な根拠があります。深い苦しみの中にあり、罪の悲しみと神の怒りへの強い恐れとに押しつぶされている人がいるとします。その人は、何の規則がなくても、「パンを食べることを忘れ」るでしょう(詩篇一〇二・四)。それが神の命令であるかどうかを知りも考えもせずに、そうするのです。おいしい食物だけでなく、必要な食物さえ断つでしょう。ちょうど聖パウロがそうでした。彼はダマスコに連れて行かれたあと、「三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった」のです(使徒九・九)。

そうです、嵐が激しくなるときがあります。「はなはだしい恐れが」、この世で神もなく過ごしてきた人を(エペソ二・一二)「おおい」ます(詩篇五五・五)。そのとき、その人の魂は「すべての食物をきら」うでしょう(詩篇一〇七・一八)。食物は不快で、わずらわしいものとなるでしょう。その人は絶え間なく叫びます。「主よ、お助けください」、私は滅びそうです、と(マタイ八・二五)。その叫びを妨げるものには、何であれ我慢できなくなるでしょう。

私たちの教会は、説教集「断食について」の第一部で、このことを何と力強く言い表していることでしょう。「人が自分の内に罪の重荷を感じ、その報いが滅びであることを知り、心の目で地獄の恐ろしさを見るとします。そのとき、人は震え、おののき、心の悲しみに内から打たれます。そして、自分を責めずにはいられず、全能の神に自分の嘆きを打ち明け、神にあわれみを呼び求めます。これが真剣になされると、その人の心はすっかりふさがれ〔奪われ〕ます。一方では悲しみと重苦しさで、他方では地獄と滅びのこの危険から救われたいという切なる願いで、ふさがれるのです。そのため、食べ物や飲み物への願いはすべて脇に置かれます。そして、この世のあらゆる物事と楽しみへのいとわしさ〔すなわち嫌悪〕が、それに代わって入ってきます。こうして、そのときには、泣き、嘆き、悲しむことほど、彼らの心にかなうものはありません。言葉と体のふるまいの両方で、生きることに疲れたことを示すことほど、心にかなうものはないのです」(説教集「断食について」第一部)。

(三) 断食のもう一つの理由、すなわち根拠は、こうです。今、神を恐れている人々の多くは、こうした正当なものを乱用して、どれほどたびたび神に罪を犯してきたかを深く感じています。彼らは、食べ過ぎによってどれほど多くの罪を犯してきたかを知っています。節度について、またおそらくは節酒についても、どれほど長く神の聖なる律法に背いてきたかを知っています。また、自分がどれほど肉の欲にふけってきたかを知っています。おそらく体の健康を損なうほどに、そして確かに、魂を少なからず傷つけるほどにです。こうして、彼らは絶えず、あの浮かれた愚かさを養い、増し加えてきたのです。あの心の軽さ、気質の浮つき、最も大切な事柄に対する陽気な無関心、霊の軽はずみと不注意をです。それらは、まさに魂の酩酊にほかなりませんでした。それらは、ぶどう酒や強い酒の飲み過ぎと同じように、彼らの最も高貴な能力をすべて麻痺させたのです。ですから、その結果を取り除くために、彼らは原因を取り除きます。あらゆる行き過ぎから遠ざかります。自分を永遠の滅びにもう少しで突き落とすところだったものを、できるかぎり断ちます。しばしば、まったく口にしません。そして、いつも、あらゆることにおいて控えめで節度を保つように気をつけます。

(四) 彼らはまた、食物に飽き足りることが(エゼキエル一六・四九)、何を増し加えたかをよく覚えています。霊の不注意と軽さだけでなく、愚かで汚れた欲望をも、そうです、不潔で卑しい情欲をも増し加えたのです。このことは、経験によって、まったく疑いの余地がありません。上品で規則正しい肉の楽しみでさえ、絶えず魂を肉的にし、滅びうせる獣と同じところにまで魂を沈めていきます(詩篇四九・一二)。食物の品数の多さとおいしさが、体だけでなく心にどれほどの影響を及ぼすかは、言い表すことができません。それは心を、機会が誘えばすぐに、あらゆる感覚の快楽に飛びつくばかりの状態にするのです。ですから、この根拠からも、賢い人はみな、自分の魂を抑え、低く保ちます。下等な欲望へのあらゆるふけりから、魂をますます引き離します。そうしたふけりは、本来、魂を地につなぎとめ、魂をおとしめ、汚すものだからです。ここに、断食のもう一つの絶えることのない理由があります。情欲と肉の楽しみの糧を取り除き、愚かで有害な欲と、卑しくむなしい情欲とを誘うものを、取り去ることです。

(五) 断食のもう一つの理由も、まったく省く必要はないでしょう(もっとも、それをあまり重んじるのがよいことかどうか、私には分かりません)。それは、ある善い人々が詳しく主張してきた理由です。すなわち、神の良い賜物を乱用したことのために、ときにはそれをまったく断つことで、自分を罰することです。こうして彼らは、自分自身に一種の聖なる報復を加えるのです。自分の健康のためになるはずのものを、つまずきの機会に変えてしまった、過去の愚かさと恩知らずとに対してです。彼らの考えでは、ダビデはこのことを念頭に置いていました。泣いて、断食をもって自分の魂を懲らしめた、すなわち罰した、と言ったときです(詩篇六九・一〇)。また聖パウロも、神のみこころに添うた悲しみがコリントの人々を「処罰に至らせた」と述べるとき(第二コリント七・一一)、そうでした。

(六) 断食の第五の、もっと重い理由は、それが祈りの助けになるということです。とくに、ひそかな祈りのために、もっと長い時間を取り分けるときにそうです。とりわけそのようなときに、神はしばしば、ご自分のしもべたちの魂を、地上のすべてのものの上に引き上げてくださいます。ときには、いわば第三の天にまで引き上げてくださるのです(第二コリント一二・二)。断食が神の手の中で、これほどたびたび、徳を強め、増し加える手段となってきたのは、おもに、それが祈りの助けになるからです。強められるのは、一つの徳、すなわち貞潔だけではありません(ある人々は、聖書にも理性にも経験にも何の根拠もないのに、むなしくそう思い込んできました)。霊の真剣さ、熱心、良心の鋭さと柔らかさ、世に対して死んでいることも強められます。したがって、神への愛と、あらゆる聖く天的な心の思いも、強められ、増し加えられるのです。

(七) 断食と、神がそれによって与えてくださる祝福との間に、何か自然な、あるいは必然のつながりがあるというのではありません。けれども、神は、あわれもうとするままに、あわれまれます(ローマ九・一五)。神は、ご自分の良しとされるものを何でも、ご自分が定めようとされるどんな手段によってでも、与えてくださいます。そして神は、どの時代にも、これを手段として定めてこられました。ご自分の怒りをそらし、私たちがそのつど必要とするどんな祝福をも得るための手段です。

これが神の怒りをそらすのに、どれほど力のある手段であるかは、アハブの著しい例から学ぶことができます。「アハブのように」、「悪を行うことに」身を売った者は「なかった」のです(列王紀上二一・二五)。身を売るとは、お金で買われた奴隷のように、自分をすっかり明け渡すことです。それでも、アハブが「衣を裂き、荒布を身にまとい、食を断ち」、「打ちしおれて歩いた」とき(列王紀上二一・二七)、主の言葉がエリヤに臨みました。「アハブがわたしの前にへりくだっているのを見ましたか。彼がわたしの前にへりくだっているゆえ、わたしは彼の世には災を下しません」(列王紀上二一・二八〜二九)。

ダニエルが「断食をなし、荒布を着、灰をかぶって」神を求めたのも(ダニエル九・三)、この目的のため、すなわち神の怒りをそらすためでした。このことは、彼の祈りの全体の趣旨から、とくにその厳かな結びから明らかです。「主よ、どうぞあなたが、これまで正しいみわざをなされたように」、すなわちあわれみをなされたように、「あなたの聖なる山から、あなたの怒り」を「取り去ってください」。「しもべの祈」を「聞いてください」。「あの荒れたあなたの聖所に、あなたのみ顔を輝かせてください」。「主よ、聞いてください。主よ、ゆるしてください。主よ、み心に留めて、おこなってください」。「あなたご自身のために」(ダニエル九・一六〜一九)。

(八) 神の怒りが起こるとき、断食と祈りによって神を求めることを、私たちは神の民からだけ学ぶのではありません。異教徒からさえ学ぶのです。ヨナが「四十日を経たらニネベは滅びる」と告げたとき(ヨナ三・四)、ニネベの人々は断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着ました(ヨナ三・五)。ニネベの王も、「その王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座し」たのです(ヨナ三・六)。そして、王は「ニネベ中にふれさせて言」いました。「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはなりません。物を食い、水を飲んではなりません」(ヨナ三・七)。(獣が罪を犯したとか、悔い改めることができたとかいうのではありません。そうではなく、人がその例によって諭されるためでした。人の罪のために、神の怒りがすべての被造物の上にかかっていることを、人が考えるためです。)「あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれません。だれがそれを知るでしょうか」(ヨナ三・九)。そして、彼らの骨折りはむだではありませんでした。神の激しい怒りは、彼らから取り去られました。「神は彼らのなすところ」を「見られ」ました(すなわち、神がご自分の預言者によって彼らのうちに起こされた、あの悔い改めと信仰との実を見られたのです)。そして、「彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめにな」りました(ヨナ三・一〇)。

(九) そして、断食は、神の怒りをそらす手段であるだけではありません。私たちが必要とするどんな祝福をも得る手段なのです。こうして、ほかの部族がベニヤミンの人々の前に打ち負かされたことがありました。そのとき、「イスラエルのすべての人々」は「ベテルに上って行って泣き」、「その日夕暮まで断食し」ました(士師記二〇・二六)。すると、主はもう一度「のぼれ」と言われました。「わたしはあす彼らをあなたがたの手にわたします」(士師記二〇・二八)。こうして、サムエルは、イスラエルがペリシテびとに隷属していたとき、全イスラエルを集めました。人々は主の前で「その日、断食し」ました(サムエル記上七・六)。そして、「ペリシテびとはイスラエルと戦おうとして近づいて」きました。そのとき、「主は」、「大いなる雷をペリシテびとの上にとどろかせて、彼らを乱されたので、彼らはイスラエルびとの前に敗れ」ました(サムエル記上七・一〇)。エズラもそうでした。「わたしは」、「アハワ川のほとりで断食を布告し、われわれの神の前で身をひくくし、われわれと、われわれの幼き者」とのために、「正しい道を示されるように神に求め」ました(エズラ八・二一)。そして、「神はその願いを聞きいれられ」ました(エズラ八・二三)。ネヘミヤもそうでした。「わたしは」、「断食して天の神の前に祈って」言いました(ネヘミヤ一・四)。「どうぞ、きょう、しもべを恵み、この人の目の前であわれみを得させてください」(ネヘミヤ一・一一)。そして神は、王の目の前で、彼にあわれみを得させてくださいました。

(一〇) 同じように、使徒たちは、大切な事業に神の祝福を願うとき、いつも断食を祈りに結びつけました。こうして、次のように記されています。「アンテオケにある教会には」、「預言者や教師がい」ました(使徒一三・一)。「一同が主に礼拝をささげ、断食をしていると」(それはきっと、まさにこの件で導きを得るためでした)、「聖霊が『さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当らせなさい』と告げ」ました(使徒一三・二)。そこで一同は、もう一度、「断食と祈とをして、手をふたりの上においた後、出発させ」ました(使徒一三・三)。

こうして、次の章にあるように、パウロとバルナバ自身もそうしました。彼らは、「ルステラ、イコニオム、アンテオケの町々に帰って行き、弟子たちを力づけ」ました(使徒一四・二一〜二二)。そして、「教会ごとに彼らのために長老たちを任命し、断食をして祈り、彼らを」、「主にゆだね」たのです(使徒一四・二三)。

そうです、ほかの方法では得られない祝福が、この手段を用いることで得られます。私たちの主は、そのことをはっきりと宣言しておられます。弟子たちの問いに答えられた言葉の中でです。弟子たちは問いました。「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」(マタイ一七・一九)。イエスは言われました。それは、あなたがたが信じないからです、と。「よく言い聞かせておきますが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るでしょう」。そして、「あなたがたにできない事は、何もないでしょう」(マタイ一七・二〇)。「しかし、このたぐいは」、すなわちこの種の悪霊は、「祈と断食とによらなければ、追い出すことはできません」(マタイ一七・二一)。これらこそ、悪霊までがあなたがたに服従する(ルカ一〇・一七)、あの信仰を得るために定められた手段なのです。

(一一) これらは定められた手段でした。神の民は、どの時代にも、これらの目的のための手段として断食を用いるように導かれてきました。それは、ただ理性の光や、いわゆる生れながらの良心の光によるのではありません。彼らは、そのつど、神ご自身から、そのみこころのはっきりとした公然の啓示によって、それを教えられてきたのです。預言者ヨエルによる、あの著しい啓示がそうです。主は言われます。「あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ」(ヨエル二・一二)。「神があるいは立ち返り、思いかえして祝福をその後に残し」てくださらないと、「だれが知るでしょうか」(ヨエル二・一四)。「シオンでラッパを吹きならせ。断食を聖別し、聖会を召集しなさい」(ヨエル二・一五)。そのとき、「主は自分の地のために、ねたみを起し、その民をあわれまれ」ます(ヨエル二・一八)。そうです、「わたしは穀物と新しい酒と油とをあなたがたに送ります」。「わたしは重ねてあなたがたにもろもろの国民のうちでそしりを受けさせません」(ヨエル二・一九)。

また、これらの手段を用いるときに、神がご自分の民に期待するように示されるのは、この世の祝福だけではありません。神は、断食と嘆きと悲しみとをもってご自分を求める人々に、こう約束されました。わたしの「大軍、すなわち群がるいなご、とびいなご、滅ぼすいなご、かみ食らういなごの食った年をわたしはあなたがたに償います」(ヨエル二・二五)。それと同時に、こう付け加えておられます。「あなたがたは、じゅうぶん食べて飽き」、「あなたがたの神、主のみ名をほめたたえ」ます(ヨエル二・二六)。「あなたがたはイスラエルのうちにわたしのいることを知り、主なるわたしがあなたがたの神であ」ることを知ります(ヨエル二・二七)。そして、すぐ後に、あの偉大な福音の約束が続きます。「わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぎます。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見ます。その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぎます」(ヨエル二・二八〜二九)。

(一二) さて、昔の人々を励まして、この務めを熱心に、絶えず果たさせた理由は、どんなものであれ、今も同じ力をもって私たちを励まします。けれども、これらすべてにまさって、私たちには、たびたび断食する(第二コリント一一・二七)特別な理由があります。それは、私たちがその名で呼ばれている方の命令です。確かに、主はこの箇所で、断食も、施しも、祈りも、はっきりと命じてはおられません。けれども、どのように断食し、施しをし、祈るべきかについての主の指示は、そのような命令と同じ力を持っています。何かをこのように行えと私たちに命じることは、疑いもなく、そのことを行えという命令だからです。そもそも行われないなら、それをこのように行うことはできないのです。したがって、このような仕方で「施しをし、祈り、断食しなさい」と言うことは、はっきりとした命令です。これらの務めをすべて行え、という命令なのです。また、決して報いからもれることのない(マタイ一〇・四二)その仕方で行え、という命令でもあるのです。

そして、この務めを果たすことへの、さらにもう一つの動機と励ましがあります。それは、この務めをふさわしく果たすことに、私たちの主が恵み深く添えてくださった約束です。「隠れた事を見ておられるあなたの父は」、公然と「報いてくださるでしょう」(マタイ六・一八)。以上が、断食のはっきりとした根拠と理由と目的です。また、断食を続けることへの私たちの励ましです。自分の主よりも賢い人々が、断食に対して絶えずたくさんの反論を持ち出してきました。それでも、私たちは断食を続けるように励まされているのです。

【三】 断食への反論に答える

(一) 次に、これらの反論のうち、最ももっともらしいものを考えることにします。まず第一に、たびたびこう言われてきました。「クリスチャンは、食物ではなく、罪を断つべきだ。これこそ神がクリスチャンに求めておられることだ」。確かに神はそれを求めておられます。けれども、もう一方のことも求めておられるのです。ですから、こちらを行うべきであり、あちらもおろそかにしてはなりません(マタイ二三・二三)。

あなたの議論を、その全体の形で眺めてみなさい。そうすれば、その強さがどれほどのものか、たやすく判断できるでしょう。

クリスチャンが罪を断つべきであるなら、食物を断つべきではない。

ところで、クリスチャンは罪を断つべきである。

ゆえに、クリスチャンは食物を断つべきではない。

クリスチャンが罪を断つべきであることは、まったくそのとおりです。けれども、そこから、どうして食物を断つべきではないということになるのでしょうか。そうです、クリスチャンは、その両方を行うべきです。神の恵みによって、いつも罪を断つべきです。そして、たびたび食物を断つべきです。それによってかなえられると、経験と聖書がはっきり示している理由と目的のためにです。

(二) 第二に、こう反論されてきました。「しかし、食物を断つよりも、高慢と虚栄、愚かで有害な欲、気むずかしさ、怒り、不満を断つほうが、よいのではないか」。疑いもなく、そのほうがよいのです。けれども、ここでも私たちは、あなたがたに主の言葉を思い起こさせる必要があります。「それもしなければならないが、これも見のがしてはなりません」(マタイ二三・二三)。実際、後者は前者のためにあるにすぎません。それは、あの大きな目的のための手段です。私たちは、次のことをねらって食物を断ちます。神の恵みは、神が定められたほかのあらゆる恵みの通り道と共に、この外の手段を通しても、私たちの魂に注がれます。その恵みによって、神の目に喜ばれないあらゆる情念と気質を断つことができるようになるためです。私たちが一方を控えるのは、上から力を授けられて(ルカ二四・四九)、もう一方を控えることができるようになるためです。ですから、あなたの議論は、あなたがねらったのとちょうど反対のことを証明しています。それは、私たちが断食すべきだということを証明しているのです。なぜなら、私たちが悪い気質と欲を断つべきであるなら、そのために、このように食物を断つべきだからです。こうした小さな自己否定は、神があの大いなる救いを授けるために選ばれた道なのです。

(三) 第三の反論は、こうです。「しかし、実際にはそうはならない。私たちはたくさん、たびたび断食してきた。だが、それが何の役に立ったのか。私たちは少しも良くならなかった。そこに何の祝福も見いださなかった。それどころか、助けになるより、むしろ妨げになった。たとえば、怒りやいらだちを防ぐどころか、それらをひどく増し加える手段となった。そのため、私たちは他人にも自分にも耐えられなくなったのだ」。そういうことは、十分にありうるでしょう。断食するにせよ祈るにせよ、前よりもずっと悪くなるような仕方で、それを行うことはありうるのです。もっと不幸せになり、もっと聖くなくなるような仕方で、です。けれども、その落ち度は手段そのものにあるのではなく、それを用いる仕方にあります。それをなお用いなさい。ただし、違う仕方で用いなさい。神が命じられることを、神が命じられるとおりに行いなさい。そうすれば、疑いもなく、神の約束がたがうことはありません。神の祝福は、もはや差し止められることはありません。あなたがひそかに断食するとき、「隠れた事を見ておられる」方は、公然と「報いてくださるでしょう」(マタイ六・一八)。

(四) 第四に、こう反論されてきました。「しかし、神がこのような小さなことに目を留められると思うのは、ただの迷信ではないか」。もしそうだと言うなら、あなたは神の子らのすべての世代を責めることになります。けれども、あなたは、この人たちはみな弱く迷信深い人間だった、と言うのでしょうか。あなたは、モーセとヨシュア、サムエルとダビデについて、そう断言するほど大胆になれるのでしょうか。ヨシャパテ、エズラ、ネヘミヤ、すべての預言者たちについても、そうでしょうか。そうです、これらすべての人にまさる方、すなわち神の御子ご自身についても、そう断言できるのでしょうか。確かなことがあります。私たちの主人も、そのしもべであるこれらすべての人々も、こう考えていたのです。断食は小さなことではなく、最も高い者よりもさらに高い方がそれに目を留められる、と。明らかに、主の使徒たちもみな、同じ考えでした。彼らが「御霊と知恵とに満ちた」者となってからも、そうでした(使徒六・三)。彼らは「聖なる者に油を注がれ」(第一ヨハネ二・二〇)、その油が「すべてのことを」彼らに「教え」ていました(第一ヨハネ二・二七)。そのときにも、彼らはなお、神の僕として自分を人々にあらわしていました(第二コリント六・四)。「左右に持っている義の武器により」(第二コリント六・七)だけでなく、断食によっても、そうしたのです(第二コリント六・五)。「花婿が奪い去られる」と、彼らは「その日には断食を」しました(ルカ五・三五)。また、彼らは(先に見たように)、神の栄光に深く関わることは、何であれ、祈りだけでなく厳かな断食もせずに企てることはありませんでした。収穫のために働き人を送り出すこと(マタイ九・三八)などが、そうです。

(五) 第五に、ある人々は言います。「しかし、断食が本当にそれほど大切で、それほどの祝福を伴うのなら、いつも断食するのがいちばんよいのではないか。ときどきするのではなく、絶えず断食を守り、いつでも、体の力が耐えられるかぎりの節制をするのが、いちばんよいのではないか」。だれも、こうすることをためらってはなりません。ぜひとも、いつでも、体の力が耐えられるかぎり、少なく質素な食物をとり、この点でできるかぎり自己否定をしなさい。そして、これは、神の祝福によって、先に述べた大きな目的のいくつかに役立つでしょう。それは、貞潔だけでなく、天に心を向けることにも、大きな助けとなるでしょう。地上のものから心を引き離し、上にあるものに心を向けることにも、助けとなるのです(コロサイ三・二)。けれども、これは断食ではありません。聖書の言う断食ではないのです。聖書全体のどこにも、これが断食と呼ばれているところはありません。これは、ある程度、断食の目的のいくつかにかないます。それでも、断食とは別のものです。ぜひともこれを実行しなさい。けれども、それによって神の命令を退けることのないようにしなさい。神のさばきをそらし、神の子らの祝福を得るために制定された手段を、退けることのないようにしなさい。

(六) ですから、好きなだけ、絶えず節制をしなさい。このような意味での節制は、クリスチャンの節度にほかなりません。けれども、これは、あなたが厳かな断食と祈りのときを守ることを、少しも妨げる必要はありません。たとえば、あなたが突然、大きな悲しみと悔恨、すさまじい恐れとおびえに襲われたとします。そのとき、ふだんの節制や節度は、あなたがひそかに断食することを妨げないでしょう。そのような心の状態になれば、あなたはほとんど断食せずにはいられないでしょう。日ごとの食物をいやがるでしょう。体に必要な補給をとることさえ、ほとんど耐えられないでしょう。神が「滅びの穴から」あなたを「引きあげて」、あなたの「足を岩の上におき」、あなたの「歩みをたしかにされ」るまでは、そうなのです(詩篇四〇・二)。あなたが願いのあまり苦しみもだえ、神の祝福を求めて神と激しく格闘しているときも、同じでしょう。くちびるの求め(詩篇二一・二)がかなえられるまでパンを食べるなと、だれかに教えてもらう必要はないでしょう。

(七) また、あなたがニネベにいたとします。そして、町中にこうふれられたとします。「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはなりません。物を食い、水を飲んではなりません」(ヨナ三・七)。「ひたすら神に呼ばわり」なさい(ヨナ三・八)。そのとき、あなたが絶えず断食していることは、あの全体のへりくだりに加わらない理由になったでしょうか。疑いもなく、ならなかったでしょう。あなたも、ほかのだれとも同じように、その日には食物を味わわないように心がけたことでしょう。

同じように、イスラエルの人々のだれ一人として、七月の十日の断食を免除されはしなかったでしょう。節制をしていても、また絶えず断食を守っていても、そうです。「すべてその日に身を悩まさない者」、すなわち断食しない者は、「民のうちから断たれる」からです(レビ記二三・二九)。

最後に、バルナバとサウロを送り出す前に、アンテオケの兄弟たちが断食して祈ったとき、あなたが彼らと共にいたとします。あなたの節度や節制が、それに加わらない十分な理由になったと、いったい考えられるでしょうか。疑いもなく、もし加わらなかったなら、あなたはすぐにクリスチャンの共同体から断たれたことでしょう。あなたは、神の教会に混乱を持ち込む者として、当然、彼らの中から追い出されたことでしょう。

【四】 断食の仕方

(一) 最後に、断食が主に喜ばれる奉仕となるために、どのような仕方で断食すべきかを示します。まず第一に、目をひたすら主に注いで、主に対して断食しましょう。この点での私たちの意図は、これであり、これだけであるようにしましょう。それは、天にいます私たちの父をあがめることです(マタイ五・一六)。また、神の聖なる律法に対する数々の背きのために、悲しみと恥を言い表すことです。また、清める恵みが増し加えられるのを待ち望むことです。その恵みは、私たちの心を上にあるものへと引き寄せます(コロサイ三・二)。さらに、祈りに真剣さと熱心を加えることです。神の怒りをそらし、神がイエス・キリストにあって私たちに与えてくださった、尊く大いなる約束(第二ペテロ一・四)のすべてを得ることです。

神をあざけることのないように気をつけましょう。この世のねらいを少しでも混ぜるなら、とくに人の賞賛を求めるなら、祈りだけでなく断食も、主に忌みきらわれるものになってしまいます。そうならないように気をつけましょう。私たちの祝福された主は、本文の言葉で、とくにこのことに対して私たちを守っておられます。「また断食をする時には、偽善者がするように」してはなりません(マタイ六・一六)。神の民と呼ばれていた人々の中にも、そのような者があまりにも多くいました。「陰気な顔つきをする」とは(マタイ六・一六)、気むずかしい顔をし、わざと悲しげにし、表情を特別な形に作ることです。「彼らは」、「自分の顔を見苦しくする」のです(マタイ六・一六)。不自然にゆがめるだけでなく、ちりと灰で顔をおおうことによってもです。それは、「断食をしていることを人に見せよう」とするためです(マタイ六・一六)。これこそ、彼らのただ一つのねらいではないにしても、おもなねらいです。「よく言っておきます。彼らはその報いを受けてしまっています」(マタイ六・一六)。すなわち、人の感嘆と賞賛を受けてしまっているのです。あなたは、「断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい」(マタイ六・一七)。ほかのときにいつもしているとおりにしなさい。「それは断食をしていることが人に知れない」ためです(マタイ六・一八)。人に知られることを、あなたの意図の一部にしてはなりません。あなたが少しも望まないのに人々がそれを知るなら、それはかまいません。それで、あなたが良くなるわけでも、悪くなるわけでもないのです。むしろ、「隠れた所においでになるあなたの父に知られるため」です。「すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は」、公然と「報いてくださるでしょう」(マタイ六・一八)。

(二) けれども、この報いを願うなら、第二に、断食によって神から何かを受ける功績があると思い込まないように気をつけましょう。このことは、どれほどたびたび警告されても、されすぎることはありません。「自分の義を立てよう」とする願いが(ローマ一〇・三)、私たちすべての心にこれほど深く根を下ろしているからです。それは、救いを恩恵としてではなく、当然の支払いとして(ローマ四・四)手に入れようとする願いです。断食は、神が定められた一つの道にすぎません。その道で、私たちは、受けるに値しない神のあわれみを待ち望むのです。また、その道で、神は、私たちに何の功績もないのに、価なしに祝福を与えると約束してくださったのです。

(三) だからといって、ただ外の行為を行えば、神から何かの祝福を受けると思ってはなりません。主は言われます。「このようなものは、わたしの選ぶ断食でしょうか。人がおのれを苦しめる日でしょうか。そのこうべを葦のように伏せ、荒布と灰とをその下に敷くことでしょうか」(イザヤ五八・五)。どれほど厳格に行われても、これらの外の行為が、人が「おのれを苦しめる」ということの意味のすべてなのでしょうか(イザヤ五八・五)。「あなたは、これを断食ととなえ、主に受けいれられる日と、となえるでしょうか」(イザヤ五八・五)。決して、そうではありません。それがただ外の務めにすぎないなら、それはほとんどむだな骨折りです。そのような行いは、もしかすると体を苦しめるかもしれません。けれども、魂については、何の益にもなりません。

(四) そうです、ときには体が苦しめられすぎて、自分の職業の務めに向かなくなることがあります。このことにも、私たちは注意深く気をつけなければなりません。健康は神の良い賜物として、守るべきものだからです。ですから、断食するときにはいつも、断食を自分の力に釣り合わせるように気をつけなければなりません。私たちは、殺人をいけにえとして神にささげてはなりません。魂を助けるために、体を滅ぼしてはならないのです。

けれども、こうした厳かなときには、体がひどく弱っていても、もう一方の極端を避けることはできます。昔、自分たちの断食を受け入れてくださらないと言って神に抗議した人々を、神はこの極端のゆえに責められたのです。彼らは言います。「われわれが断食したのに、なぜ、ごらんにならないのですか」(イザヤ五八・三)。主は言われます。「見よ、あなたがたの断食の日には、おのが楽しみを求め」ています(イザヤ五八・三)。食物をまったく断つことができないなら、少なくとも、おいしい食物を断つことはできます。そうすれば、私たちは、むなしく神の御顔を求めることにはならないでしょう。

(五) けれども、体だけでなく、魂をも苦しめるように気をつけましょう。公の断食であれ、ひそかな断食であれ、そのときをみな、聖い心の思いを働かせるときにしましょう。砕けた悔いた心(詩篇五一・一七)に含まれる、あらゆる聖い心の思いです。そのときを、敬虔な嘆きのとき、罪に対する神のみこころに添うた悲しみのときにしましょう。それは、コリントの人々の悲しみのような悲しみです。使徒はそれについて、こう言っています。「喜んでいます。それは、あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めるに至ったからです。あなたがたがそのように悲しんだのは、神のみこころに添うたことであって、わたしたちからはなんの損害も受けなかったのです。神のみこころに添うた悲しみは」、原語ではヘー・カタ・テオン・リュペー(ἡ κατὰ θεὸν λύπη)です。それは神に従う悲しみであり、神の御霊の尊い賜物です。この悲しみは神から流れ出て、魂を神へと引き上げます。この悲しみは、「悔いのない救を得させる悔改めに導」きます(第二コリント七・九〜一〇)。そうです、神のみこころに添うた私たちの悲しみが、私たちのうちにも同じ内と外の悔い改めを生み出すようにしましょう。真の義と聖とにおいて神のかたちに新しくされる(エペソ四・二四)、同じ全き心の変化を生み出すようにしましょう。そして、私たちがあらゆるふるまいにおいて、神が聖であるように聖なる者となるまで(第一ペテロ一・一五)、同じ生活の変化を生み出すようにしましょう。その悲しみが、私たちのうちに同じ熱情を生み出すようにしましょう。しみもなくきずもなく、主のうちに見いだされようとする熱情です(第二ペテロ三・一四)。また、同じ弁明を生み出すようにしましょう。言葉よりも生活によって、悪のように見えるものすべてから遠ざかることによって、身の潔白を明かす弁明です。同じ義憤、すなわちあらゆる罪への激しい嫌悪を生み出しましょう。偽る自分の心に対する(エレミヤ一七・九)、同じ恐れを生み出しましょう。すべてのことにおいて、聖く、喜ばれる神の御旨にかなう者となりたいという、同じ愛慕を生み出しましょう。同じ熱意を生み出しましょう。神の栄光の手段となりうるもの、また私たちの主イエス・キリストを知る知識において成長する手段となりうるものに対する熱意です。そして、サタンとそのすべてのわざとに対する、また肉と霊とのいっさいの汚れ(第二コリント七・一)に対する、同じ報復の心を生み出しましょう(第二コリント七・一一)。

(六) そして、断食には、いつも熱心な祈りを結びつけましょう。神の前に魂のすべてを注ぎ出し(サムエル記上一・一五)、罪を、それを重くするあらゆる事情と共に告白しましょう。神の力強い御手の下に自らを低くし(第一ペテロ五・六)、自分のあらゆる必要、あらゆる罪責と無力とを、神の前にさらけ出しましょう。このときは、自分自身のためにも、兄弟たちのためにも、祈りを広げるときです。今こそ、私たちの民の罪を嘆き、私たちの神の都のために大声で叫びましょう。主がシオンを築き(詩篇一〇二・一六)、その荒れたさまに御顔を輝かせてくださるように(ダニエル九・一七)、叫び求めましょう。こうして、昔の神の人々は、いつも祈りと断食とを結びつけていたことに、私たちは気づきます。先に引いたすべての例で、使徒たちもそうしました。そして、私たちの主も、いま見ている説教の中で、両者を結びつけておられます。

(七) 主に喜ばれる断食を守るために残っているのは、ただ一つです。それに施しを加えることです。力に応じて、人々の体にも魂にも、あわれみのわざを加えることです。「神は、このようないけにえ」をも「喜ばれ」ます(ヘブル一三・一六)。こうして、天使は、自分の家で断食し祈っていたコルネリオに、こう告げています。「あなたの祈や施しは神のみ前にとどいて、おぼえられています」(使徒一〇・四)。そして、神ご自身が、このことをはっきりと詳しく宣言しておられます。「わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではありませんか。また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではありませんか。そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなります。また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが叫ぶとき、『わたしはここにおる』と言われます」(イザヤ五八・六〜九)。もし、断食するときに、あなたが飢えた者に心を注ぎ、「苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになります」(イザヤ五八・一〇)。「主は常にあなたを導き」、ひでりのときにもあなたの魂を満ち足らせ、「あなたの骨を強くされ」ます。「あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようにな」ります(イザヤ五八・一一)。