説教二十六 山上の説教(六)
自分の施しを、「見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないでしょう。だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならしてはなりません。よく言っておきます。彼らはその報いを受けてしまっています。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせてはなりません。それは、あなたのする施しが隠れているためです。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は」、公然と「報いてくださるでしょう。また祈る時には、偽善者たちのようにしてはなりません。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好みます。よく言っておきます。彼らはその報いを受けてしまっています。あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は」、公然と「報いてくださるでしょう。また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈ってはなりません。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っています。だから、彼らのまねをしてはなりません。あなたがたの父」は、「求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのです。だから、あなたがたはこう祈りなさい。天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」。国と力と栄光とは、とこしえにあなたのものだからです。アァメン。「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるしてくださるでしょう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるしてくださらないでしょう」(マタイ六・一〜一五)
(一) 前の章で、私たちの主は、内なる宗教を、そのさまざまな部分にわたって描かれました。主は、本当のキリスト教を形づくる魂の性向を、私たちの前に示されました。それは内なる気質です。「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル一二・一四)と言われる、あの聖性に含まれる気質です。また、それは心の思いです。この思いは、本来の泉から流れ出るときには、それ自体として本質的に善く、神に喜ばれるものです。本来の泉とは、キリスト・イエスによる神への生きた信仰のことです。この章で、主はさらに進んで、次のことを示されます。私たちのあらゆる行いも、清く聖い意図によって、聖く、善く、神に喜ばれるものとなりうるのです。それ自体としては善くも悪くもない行いでさえ、そうなのです。この意図なしに行われることは、何であれ神の前で何の価値もない、と主は詳しく宣言しておられます。それに対して、このように神にささげられた外のわざは、何であれ、神の目に非常に尊いのです。
(二) 主は、この意図の清さが必要であることを、まず、普通に宗教的な行いと見なされているものについて示されます。それらは、正しい意図をもって行われるなら、実際に宗教的な行いです。その一部は、普通、敬虔のわざと呼ばれます。残りは、愛のわざ、すなわちあわれみのわざと呼ばれます。後者のうちで、主はとくに施しを挙げられます。前者のうちでは、祈りと断食を挙げられます。けれども、これらについての指示は、愛のわざであれ、あわれみのわざであれ、あらゆるわざに同じように当てはめるべきです。
【一】 施しについて
(一) まず第一に、あわれみのわざについてです。主は言われます。自分の施しを、「見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないでしょう」(マタイ六・一)。施しを「行わないように」(マタイ六・一)。ここでは施しだけが挙げられていますが、あらゆる愛のわざが含まれています。私たちが与えること、語ること、行うことで、隣人の益になるものは、みな含まれるのです。ほかの人が、体であれ魂であれ、何かの益を受けられるものは、みなそうです。飢えた人に食べさせること、裸の人に着せること、旅人をもてなし、助けること、病気の人や獄にいる人を訪ねることです。悩む人を慰めること、無知な人を教えること、悪い人に忠告すること、善を行う人を励まし、力づけることです。そのほかにもあわれみのわざがあれば、それも同じようにこの指示に含まれます。
(二) 自分の施しを、「見られるために人の前で行わないように、注意しなさい」(マタイ六・一)。ここで禁じられているのは、ただ人の目の前で善を行うことではありません。ほかの人が私たちのすることを見るという、この事情だけでは、その行いは悪くも良くもなりません。禁じられているのは、人の前で、「見られるために」(マタイ六・一)、このねらいで、この意図だけからそれを行うことです。この意図だけから、と私は言います。場合によっては、これが私たちの意図の一部であってもよいからです。私たちは、自分の行いのいくつかが人に見られるように意図してもかまいません。それでも、その行いが神に喜ばれることはあるのです。私たちは、自分の光を人々の前に輝かそうと意図してもかまいません(マタイ五・一六)。ただし、良心が聖霊によって私たちにあかしをしているときです(ローマ九・一)。そのあかしとは、こうです。人々に良きわざを見させようとする私たちの究極の目的は、彼らが「天にいます」私たちの「父をあがめるように」することです(マタイ五・一六)。けれども、自分の栄光をねらって、どんな小さなことも行わないように注意しなさい。あなたがたのあわれみのわざの中に、人の賞賛を気にかける思いが少しも入り込まないように注意しなさい。自分の栄光を求め、人からの誉を得ようと少しでも意図するなら、このねらいで行われることは何であれ、何の値打ちもありません。それは主に対してなされたものではなく、主はそれを受け入れられません。あなたがたはこのことで、「天にいます」私たちの「父から報いを受けることがない」のです(マタイ六・一)。
(三) 「だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならしてはなりません」(マタイ六・二)。「会堂」という語は、ここでは礼拝の場所を意味するのではありません。市場や取引所のような、人が公に集まる場所なら、どこでも意味するのです。大きな財産を持つユダヤ人の間では、とりわけパリサイ人の間では、よくあることでした。かなりの施しをしようとするとき、町の最も人目につく所で、自分の前でラッパを吹き鳴らさせたのです。その表向きの理由は、施しを受けさせるために、貧しい人々を呼び集めることでした。けれども、本当のねらいは、人にほめられることでした(マタイ六・二)。けれども、あなたは彼らのようになってはなりません。自分の前でラッパを吹き鳴らさせてはなりません。善を行うときに、見せびらかしてはなりません。ただ神からだけ来る誉を目指しなさい。人の賞賛を求める人々は、その報いを受けてしまっています(マタイ六・二)。彼らは、神からの賞賛を受けることはありません。
(四) 「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせてはなりません」(マタイ六・三)。これは、ことわざのような言い方です。その意味は、こうです。できるかぎりひそかに行いなさい。ともかくそれを行うことと両立するかぎり、ひそかに行いなさい(行わずにすませてはならないからです。ひそかにであれ公然とであれ、善を行う機会を一つも逃してはなりません)。また、最も効果のある仕方で行うことと両立するかぎり、ひそかに行いなさい。ここには、もう一つ例外を設けなければなりません。行った善を隠さないことで、自分がもっと多くの善を行えるようになるとします。あるいは、ほかの人がもっと多くの善を行うように奮い立たされるとします。心の中でそう確信しているなら(ローマ一四・五)、そのときは、隠さなくてもかまいません。そのときは、あなたの光を現し、「家の中のすべてのものを照させ」なさい(マタイ五・一五)。けれども、神の栄光と人々の益とのために、そうしないわけにいかない場合もあります。その場合を除いて、事柄の性質が許すかぎり、人に知られず、目に留まらないように行いなさい。「あなたのする施しが隠れているため」です(マタイ六・四)。「すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は」、公然と「報いてくださるでしょう」(マタイ六・四)。それは、おそらくこの世においてでしょう。そのような例は、どの時代にも数多く記録されています。けれども、来るべき世においては、人と天使の大集会の前で、必ず報いてくださるのです。
【二】 祈りについて
(一) 愛のわざ、すなわちあわれみのわざから、私たちの主は、敬虔のわざと呼ばれるものに進まれます。主は言われます。「また祈る時には、偽善者たちのようにしてはなりません。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好みます」(マタイ六・五)。「偽善者たちのようにしてはなりません」(マタイ六・五)。ですから、偽善、すなわち不誠実こそ、祈りにおいて私たちがまず警戒すべきものです。心にもないことを口にしないように気をつけなさい。祈りとは、心を神に向かって上げることです。これがなければ、祈りの言葉はみな、ただの偽善です。ですから、祈ろうとするときにはいつも、ただ一つのねらいを持つようにしなさい。神と交わり、心を神に向かって上げ、神の前に心を注ぎ出すことです(サムエル記上一・一五)。偽善者たちのようであってはなりません。彼らは、「会堂や」、すなわち取引所や市場や、「大通りのつじに立って祈ることを好」みます(マタイ六・五)。「好む」とは、それを習いとしている、ということです。彼らは、人が最も多くいる所ならどこででも、「人に見せようとして」祈るのです(マタイ六・五)。これこそ、彼らがそこで繰り返した祈りの、ただ一つのねらいであり、動機であり、目的でした。「よく言っておきます。彼らはその報いを受けてしまっています」(マタイ六・五)。彼らは、天にいますあなたがたの父からは、何の報いも期待できません。
(二) けれども、私たちを天の報いから断ち切るのは、人の賞賛に目を向けることだけではありません。敬虔のわざであれ、あわれみのわざであれ、私たちのわざに神の祝福を期待する余地をなくすのは、それだけではないのです。この世のどんな報いをねらっても、意図の清さは同じように壊されます。私たちが利得や利益をねらって祈りを唱え、神の公の礼拝に出席し、貧しい人を助けるとします。それは、賞賛をねらって行ったのと少しも変わらず、神に喜ばれません。この世のどんなねらいも、永遠のこちら側にあるどんな動機も、行いを主に忌みきらわれるものにします。神の栄光と、神のための人々の幸いとを推し進めること以外のねらいは、みなそうです。どんな行いも、人の目にどれほど美しく見えても、そうなるのです。
(三) 「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」(マタイ六・六)。大いなる会衆の中で(詩篇二二・二五)、公に神をあがめ、神に祈り、神をほめたたえるべきときもあります。けれども、自分の求めるところを、もっと詳しく、もっと細かく神に申し上げたいときがあります(ピリピ四・六)。それが夕べであれ、朝であれ、真昼であれ(詩篇五五・一七)、「自分のへやにはいり、戸を閉じ」なさい(マタイ六・六)。できるかぎり、人目を避けなさい。(ただ、へやがあってもなくても、人目を避けられても避けられなくても、祈りをおろそかにしてはなりません。できることなら、神のほかにだれも見ていないときに、神に祈りなさい。それができないなら、それでも神に祈りなさい。)こうして、「隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」(マタイ六・六)。神のみ前に心を注ぎ出しなさい(詩篇六二・八)。「すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は」、公然と「報いてくださるでしょう」(マタイ六・六)。
(四) 「また、祈る場合」(マタイ六・七)、たとえ隠れた所であっても、「異邦人のように、くどくどと祈ってはなりません」(マタイ六・七)。原語は、メー・バッタロゲーセーテ(Μὴ βατταλογήσητε)です。何の意味もない言葉を、たくさん用いてはなりません。同じことを何度も繰り返して言ってはなりません。異邦人のように、祈りの実はその長さによると考えてはなりません。「彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思って」いるのです(マタイ六・七)。
ここでとがめられているのは、ただ祈りが長いことではありません。短いことがとがめられていないのと同じです。そうではなく、第一に、意味のない長さです。多くを語りながら、ほとんど何も、あるいはまったく何も意味しないことです。また、むなしい繰り返しを用いることです。繰り返しがすべていけないのではありません。私たちの主ご自身、三度、同じ言葉で祈られたからです(マタイ二六・四四)。とがめられているのは、異邦人がしたような、むなしい繰り返しです。彼らは、自分たちの神々の名を何度も何度も唱えました。クリスチャンの間でも(俗にそう呼ばれているだけですが)、同じことが行われています。ローマ・カトリック教徒の間だけではありません。彼らは、同じ一連の祈りを何度も何度も唱えますが、自分の語ることを少しも感じていないのです。第二に、言葉かずが多ければ聞きいれられると考えることです(マタイ六・七)。神は祈りをその長さで測り、言葉の最も多い祈り、神の耳に最も長く響く祈りを最も喜ばれる、と思い込むことです。これらは、迷信と愚かさの例です。キリストの名で呼ばれるすべての人は、これを異邦人に任せておくべきです。栄光の福音の輝きに一度も照らされたことのない人々に、任せておくべきなのです(第二コリント四・四)。
(五) 「だから、彼らのまねをしてはなりません」(マタイ六・八)。キリスト・イエスにある神の恵みを味わったあなたがたは、十分に確信しています。「あなたがたの父」は、「求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのです」(マタイ六・八)。ですから、あなたがたが祈る目的は、神に知らせることではありません。神があなたがたの必要をまだご存じないかのように、知らせるのではないのです。むしろ、あなたがた自身に知らせることです。その必要を感じる思いを、もっと深く心に刻むためです。また、あなたがたの必要をすべて満たすことのできるただひとりの方に、自分が絶えず頼っていることを、もっと深く心に感じるためです。祈りは、神を動かすためというより、あなたがた自身を動かすためです。神は、あなたがたが求めるよりも、いつももっと与えようとしておられます。あなたがた自身を動かすのは、神が備えてくださった良い物を、喜んで、すぐに受けられるようになるためです。
【三】 主の祈り
(一) 祈りの本当の性質と目的を教えられたあとで、私たちの主は、その例を付け加えられます。それは、あの神聖な祈りの形です。ここでは、おもにひな型として、すなわち私たちのあらゆる祈りの模範と基準として示されているようです。「だから、あなたがたはこう祈りなさい」(マタイ六・九)。それに対して、ほかの箇所では、主はまさにこの言葉を用いるように命じておられます。「彼らに言われた、『祈るときには、こう言いなさい』」(ルカ一一・二)。
(二) この神聖な祈りについて、全体として、次のことに目を留めることができます。第一に、この祈りは、私たちが道理にかなって、また罪を犯さずに祈り求めることのできるものを、すべて含んでいます。神に求める必要のあるもの、また神を怒らせずに求めることのできるものは、何一つ漏れていません。みな、直接にか間接にか、この包括的な祈りに含まれています。第二に、この祈りは、私たちが道理にかなって、また罪を犯さずに願うことのできるものを、すべて含んでいます。神の栄光のためになるものは、何でも含まれています。私たち自身だけでなく、天と地のあらゆる被造物にとって必要なもの、益になるものは、何でも含まれているのです。実際、私たちの祈りは、私たちの願いをはかる正しい試金石です。祈りの中に置くのがふさわしくないものは、願いの中に置くのもふさわしくありません。祈り求めてはならないものは、願ってもならないのです。第三に、この祈りは、神と人とに対する私たちの義務をすべて含んでいます。清く聖いことは何でも、神が人の子らに求められることは何でも、この祈りに言い表されているか、含まれています。神の目に喜ばれることは何でも、私たちが隣人の益となりうることは何でも、そうなのです。
(三) この祈りは、三つの部分から成っています。序言と、願いと、頌栄、すなわち結びです。序言の「天にいますわれらの父よ」(マタイ六・九)は、祈りの全体の土台を据えています。聞かれるという確信をもって祈るには、その前に、神についてまず知らなければならないことがあります。序言はそれを含んでいるのです。また、序言は、私たちがどのような気質をもって神に近づくべきかを、すべて指し示しています。私たちの祈りであれ生活であれ、神に受け入れられたいと願うなら、その気質こそ、何よりも欠かせないものです。
(四) 「われらの父よ」(マタイ六・九)。神が父であるなら、神は子らに対して善い方であり、愛に満ちた方です。ここに、祈りの第一の大きな理由があります。神は祝福しようとしておられます。私たちは祝福を求めましょう。「われらの父よ」(マタイ六・九)。それは、私たちの創造者、私たちの存在の造り主です。地のちりから私たちを起し、私たちに命の息を吹きいれ、こうして私たちを生きた者とされた方です(創世記二・七)。神が私たちを造られたのなら、求めましょう。神は、ご自分の手のわざに、どんな良い物も拒まれることはありません(詩篇八四・一一)。「われらの父よ」(マタイ六・九)。それは、私たちを守る方です。ご自分が与えたいのちを、日ごとに支えてくださる方です。その変わらない愛によって、私たちは今も、いつの瞬間も、命と息と万物とを受けています(使徒一七・二五)。ですから、ますます、はばかることなく神に近づきましょう。そうすれば、私たちは「あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受ける」ことができます(ヘブル四・一六)。何よりも、神は私たちの主イエス・キリストの父であり、主を信じるすべての者の父です。神は私たちを、「価なしに、神の恵みにより」、「イエスによるあがないによって」義としてくださいます(ローマ三・二四)。私たちのすべての罪を「ぬぐい去」り(詩篇五一・九)、私たちの「すべての」弱さを「いやし」てくださいました(詩篇一〇三・三)。子とすることと恵みとによって、私たちをご自分の子として受け入れてくださいました。また、私たちは「子であるのだから」、「わたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って」くださいました(ガラテヤ四・六)。また、私たちを「朽ちない種から」新たに生れさせ(第一ペテロ一・二三)、「キリスト・イエスにあって」新しく「造」ってくださいました(エペソ二・一〇)。ですから、私たちは、神がいつでも私たちの願いを聞きいれてくださることを知っています(ヨハネ一一・四二)。ですから、私たちは絶えず神に祈ります(第一テサロニケ五・一七)。私たちは、愛しているから祈るのです。そして、私たちが神を愛するのは、「神がまずわたしたちを愛してくださった」からです(第一ヨハネ四・一九)。
(五) 「われらの父よ」(マタイ六・九)。今この方に呼ばわっている私だけの父ではなく、最も広い意味で、私たちの父です。神は、「すべての肉なる者の」霊の「神」であり、その父です(民数記一六・二二)。天使と人との父です。異教徒でさえ、神をそのような方と認めていました。パテール・アンドローン・テ・テオーン・テ(πατὴρ ἀνδρῶν τε θεῶν τε)、すなわち人と神々との父と呼んだのです。神は宇宙の父であり、天と地にあるすべての家族の父です。ですから、神には、かたより見ることがありません(ローマ二・一一)。神は、ご自分の造られたすべてのものを愛しておられます。「主はすべてのものに恵みがあり、そのあわれみはすべてのみわざの上にあります」(詩篇一四五・九)。そして主は、おのれを恐れる者と、そのいつくしみを望む者とを喜ばれます(詩篇一四七・一一)。愛する御子によって神に信頼する人々を、喜ばれるのです。その人々は、自分が「その愛する御子によって」受け入れられていることを知っています(エペソ一・六)。けれども、「神がこのようにわたしたちを愛してくださったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきです」(第一ヨハネ四・一一)。そうです、すべての人を愛すべきです。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださった」からです(ヨハネ三・一六)。御子を死なせるほどに、愛してくださったのです。それは人々が「滅びないで、永遠の命を得るため」です(ヨハネ三・一六)。
(六) 「天にいます」(マタイ六・九)。神は、いと高く、いと上なる方です(イザヤ五七・一五)。万物の上にいます、永遠にほむべき神です(ローマ九・五)。神は、天の円の上に座して、天と地のすべてのものを見ておられます。その目は、造られたものの全領域を見通しています。そうです、まだ造られていない夜の領域までも見通しているのです。神には、ご自分のわざがすべて知られています(使徒一五・一八)。あらゆる被造物のわざも、すべて知られています。それは、英語の聖書の言う「世の初めから」だけではありません(使徒一五・一八)。これは、貧しく、低く、弱い訳です。原語はアプ・アイオーノス(ἀπ᾽ αἰῶνος)で、永遠の昔から、とこしえからとこしえまで(詩篇九〇・二)、ということです。神は、人の子らだけでなく、天の万軍にも、驚きと畏れをもってこう叫ばせる方です。「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は」(ローマ一一・三三)。「天にいます」(マタイ六・九)。神は万物の主であり、支配者です。万物を見守り、治めておられます。あなたは、もろもろの王の王、もろもろの主の主、祝福に満ちた、ただひとりの力あるかたです(第一テモテ六・一五)。あなたは強く、大能を帯び(詩篇六五・六)、みこころにかなうすべての事を行われます(詩篇一一五・三)。あなたは全能者です。あなたが望まれるときにはいつでも、それを行う力があなたにあるからです。「天に」(マタイ六・九)。とりわけ天におられます。天はあなたの位です(イザヤ六六・一)。そこは、「あなたの栄光の」とりわけ「とどまる所」です(詩篇二六・八)。けれども、天にだけおられるのではありません。あなたは、天と地とに、すなわち空間の広がり全体に満ちておられるからです(エレミヤ二三・二四)。「天も地も、あなたの栄光に満ちています。いと高き主よ、栄光があなたにありますように」(祈祷書「聖餐式」)。
ですから、私たちは「恐れをもって主に仕え」、畏敬をもって主を喜ぶべきです(詩篇二・一一)。ですから、私たちは、主なる王の目のもとに、そのみ前に絶えずいる者として、考え、語り、行うべきです。
(七) 「御名があがめられますように」(マタイ六・九)。これは、この祈りそのものを形づくる六つの願いのうち、最初のものです。神の御名とは、神ご自身のことです。人に示されうるかぎりでの、神の本性のことです。ですから、それは神の存在と共に、神のあらゆる属性、すなわち完全さを意味します。まず、神の永遠性があります。それはとくに、エホバという、ほかのだれにも与えられない偉大な御名によって表されています。使徒ヨハネは、この御名をこう訳しています。ト・アルファ・カイ・ト・オーメガ、アルケー・カイ・テロス、ホ・オーン・カイ・ホ・エーン・カイ・ホ・エルコメノス(τὸ Α καὶ τὸ Ω, ἀρχὴ καὶ τέλος, ὁ ὢν καὶ ὁ ἦν καὶ ὁ ἐρχόμενος)。すなわち、「アルパでありオメガ」、「初めであり終り」(黙示録二一・六)、「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者」です(黙示録一・八)。神の存在の満ちあふれがあります。それは、もう一つの偉大な御名、「わたしは、有って有る者」によって示されています(出エジプト三・一四)。神の遍在があり、神の全能があります。神は実に、物質の世界でただひとりの行為者です。あらゆる物質は、本質的に鈍く、自分では動かず、神の指に動かされるときにだけ動くからです。また、神は、見えるものと見えないものとを問わず、あらゆる被造物の働きの源です。被造物は、神の全能の力が絶えず流れ込み、働くのでなければ、働くことも存在することもできません。神の知恵があります。それは、見えるものから、すなわち宇宙のみごとな秩序から、はっきりと導き出されます。一体における三位、三位における一体があります。それは、書かれたみことばの、まさに最初の一行で、私たちに示されています。原語はバーラー・エロヒーム(בָּרָא אֱלֹהִים)で(創世記一・一)、文字どおりには「神々が創造した」です。複数の名詞が、単数の動詞と結びついているのです。また、それは、その後のあらゆる啓示の中でも示されています。その啓示は、すべての聖なる預言者と使徒たちの口を通して与えられたものです。神の本質的な清さと聖性があります。そして、何よりも神の愛があります。この愛こそ、神の栄光の輝きそのものです(ヘブル一・三)。
神が、すなわち神の御名が「あがめられ」(マタイ六・九)、栄光を帰されるように祈るとき、私たちは何を祈っているのでしょうか。神があるがままに知られるように、と祈っているのです。神を知ることのできるすべてのもの、すなわち知性あるすべての存在に知られるように祈るのです。その知識にふさわしい心の思いをもって知られるように祈るのです。また、上は天、下は地にあるすべてのものから、神がふさわしく敬われ、恐れられ、愛されるように祈っています。すべての天使と人から、そうされるように祈るのです。神は、まさにそのために、彼らを、永遠にご自分を知り、愛することのできる者として造られたのです。
(八) 「御国がきますように」(マタイ六・一〇)。これは、前の願いと密接につながっています。神の御名があがめられるために、私たちは、神の国が、すなわちキリストの国が来るように祈るのです。この国が一人一人の人に来るのは、その人が「悔い改めて福音を信」じるときです(マルコ一・一五)。すなわち、その人が神に教えられて(ヨハネ六・四五)、自分自身を知るときです。それだけでなく、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストを知るときです(第一コリント二・二)。「永遠の命とは、唯一の、まことの神」と、神の「つかわされたイエス・キリストとを知ること」です(ヨハネ一七・三)。それと同じように、これを知ることが、地上で始まった神の国であり、信じる者の心に建てられた神の国です。「全能者にして主なる」神は、キリスト・イエスによって知られるとき、「王なる支配者であられ」ます(黙示録一九・六)。神は、ご自分の大いなる力をとって、万物をご自身に従わせられます(ピリピ三・二一)。神は、魂の中で、勝利の上にもなお勝利を得ようとして進んで行かれます(黙示録六・二)。万物をその足もとに従わせるまで(第一コリント一五・二七)、「すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ」るまで(第二コリント一〇・五)、進んで行かれるのです。
やがて、神が御子に「もろもろの国を嗣業として」与え、「地のはてまでも」御子の「所有として与える」ときが来ます(詩篇二・八)。もろもろの国が「彼の前にひれ伏し、もろもろの国民は彼に仕える」ときが来ます(詩篇七二・一一)。「主の家の山」、すなわちキリストの教会が、「もろもろの山のかしらとして堅く立」つときが来ます(イザヤ二・二)。「異邦人が全部救われるに至」り(ローマ一一・二五)、「イスラエル人は、すべて救われる」ときが来ます(ローマ一一・二六)。そのとき、「主は王となり、威光の衣をまと」っておられることが(詩篇九三・一)、明らかになります。主は、すべての人の魂に、もろもろの王の王、もろもろの主の主として(黙示録一九・一六)、現れてくださるのです。主の出現を待ち望むすべての人は(第二テモテ四・八)、主がそのときを早めてくださるように祈るのがふさわしいのです。主のこの国が、すなわち恵みの国が、すみやかに来て、地のすべての国をのみ尽くすように祈るのです。すべての人が主を王として受け入れ、その名を本当に信じて、義と平和と喜び(ローマ一四・一七)、聖性と幸いとに満たされるように祈るのです。やがて彼らは、ここから主の天の国へ移され、そこで主と共に世々限りなく支配するのです。
「御国がきますように」(マタイ六・一〇)という言葉で、私たちはこのことも祈っています。私たちは、神のとこしえの国が、すなわち天にある栄光の国が来るように祈るのです。それは、地上の恵みの国が続いて、完成したものです。したがって、この願いも、前の願いと同じく、知性あるすべての被造物のためにささげられています。彼らはみな、この大いなる出来事にかかわっているからです。それは、万物が最終的に新しくされることです。神は悲惨と罪、弱さと死とを終わらせ、万物をご自分の手に収め、よろずよに続く国を打ち立てられるのです。
これにぴったり対応するのが、埋葬式の祈りの中にある、あの厳かな言葉です。「どうか、恵み深いいつくしみによって、選ばれた者の数をすみやかに満たし、御国を早めてくださいますように。あなたの聖なる御名へのまことの信仰のうちに、世を去った人々がいます。私たちが、その人々すべてと共に、完全な成就と至福とを得ることができますように。それも、あなたのとこしえの栄光のうちで、体と魂の両方において得ることができますように」(祈祷書「埋葬式」)。
(九) 「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(マタイ六・一〇)。これは、神の国が来たところではどこでも、必ず、ただちに生じる結果です。神が信仰によって魂のうちに住み、キリストが愛によって心のうちで支配しておられるところでは、どこでもそうです。
おそらく多くの人は、いや、たぶん大部分の人は、この言葉を一見して、こう思い込みがちです。これは、ただ神にゆだねることを言い表したもの、あるいはそれを願うものにすぎない、と。私たちに関する神のみこころが何であれ、それを甘んじて受ける心構えを願うものだ、と思うのです。確かに、これは疑いもなく神聖ですぐれた気質であり、神の最も尊い賜物です。けれども、私たちがこの願いで祈り求めているのは、それではありません。少なくとも、この願いの主な、第一の意味では、そうではありません。私たちは、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(マタイ六・一〇)と言います。そのとき祈っているのは、神のみこころに受け身で従うことよりも、むしろ、進んで従うことなのです。
天にいる神の天使たち、すなわち今、喜びつつ神の御座を取り巻いている者たちは、みこころをどのように行っているでしょうか。彼らは、それを喜んで行います。神の戒めを愛し、神のみことばに喜んで聞き従います(詩篇一〇三・二〇)。みこころを行うことが、彼らの食べ物であり、飲み物です。それが、彼らの最高の栄光であり、喜びなのです。彼らは、それを絶えず行います。彼らの喜んでする奉仕には、途切れることがありません。彼らは、昼も夜も休むことなく(黙示録四・八)、すべての時間を用います。神の命令を果たし、神の計画を実行し、神の御旨の計りごとを成し遂げるために用いるのです(これは人間的な言い方です。そうでなければ、日、夜、時間という私たちの時の尺度は、永遠には存在しません)。そして、彼らはそれを完全に行います。天使の心には、どんな罪も、どんな欠けもありません。確かに、「星も彼の目には清くない」のです(ヨブ二五・五)。神の前で相共に歌う明けの星でさえ、そうです(ヨブ三八・七)。「彼の目には」(ヨブ二五・五)、すなわち神と比べれば、天使たちでさえ清くないのです。けれども、これは、天使たちがそれ自体として清くない、ということではありません。疑いもなく、彼らは清いのです。しみもなく、きずもないのです(第二ペテロ三・一四)。彼らは、まったく神のみこころにささげられ、すべてのことにおいて完全に従っています。
別の角度から見ると、次のことに目を留めることができます。天にいる神の天使たちは、神のみこころをすべて行います。そして、それ以外のことは何も行いません。神のみこころだと完全に確信していること以外は、何も行わないのです。また、彼らは、神のみこころをすべて、神の望まれるとおりに行います。神の喜ばれるやり方で行い、ほかのやり方では行いません。そうです、彼らがこれを行うのは、ただそれが神のみこころだからです。この目的のためであって、ほかの理由からではありません。
(一〇) ですから、神のみこころが「天に行われるとおり、地にも行われますように」(マタイ六・一〇)と祈るとき、その意味はこうです。地に住むすべての者が、すなわち全人類が、天にいます父のみこころを行うように、ということです。聖なる天使たちと同じように喜んで行うように、ということです。人々が、天使たちと同じように、喜んでする奉仕を少しも途切れさせず、絶えずそれを行うように、ということです。そうです、人々がそれを完全に行うように、ということです。「平和の神が」(ヘブル一三・二〇)、永遠の契約の血によって、あらゆる良きわざにおいて彼らを全うしてくださるように、ということです。彼らがみこころを行うためです。また、「みこころにかなうことを」すべて彼らのうちに行ってくださるように、ということです(ヘブル一三・二一)。
言い換えれば、私たちは、私たちとすべての人が、すべてのことにおいて神のみこころを残らず行うように祈っています。また、それ以外のことは何も行わないように祈っています。聖く、神に喜ばれるみこころでないことは、どんな小さなことも行わないように祈るのです。私たちは、神のみこころを残らず、神の望まれるとおりに、神の喜ばれるやり方で行うように祈ります。そして最後に、それが神のみこころだから行うように祈ります。私たちが何を考え、何を語り、何を行うにしても、これがただ一つの理由と根拠であるように祈るのです。全体にしてただ一つの動機であるように祈るのです。
(一一) 「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」(マタイ六・一一)。前の三つの願いで、私たちはすべての人のために祈ってきました。今度は、とくに自分たちの必要が満たされるように願います。とはいえ、ここでも、祈りをまったく自分たちだけに限るように指示されているのではありません。この願いも、続く願いのどれも、地上のキリストの教会全体のために用いてよいのです。
「食物」(マタイ六・一一)とは、魂のためであれ体のためであれ、必要なすべてのものだと理解してよいでしょう。タ・プロス・ゾーエーン・カイ・エウセベイアン(τὰ πρὸς ζωὴν καὶ εὐσέβειαν)、すなわち「いのちと信心とにかかわる」ものです(第二ペテロ一・三)。私たちが理解するのは、ただ外側の食物、すなわち私たちの主が「朽ちる食物」と呼ばれるものだけではありません(ヨハネ六・二七)。それよりもはるかに、霊の食物、すなわち神の恵みです。「永遠の命に至る朽ちない食物」です(ヨハネ六・二七)。古代の教父の多くは、ここで聖餐のパンも理解すべきだと判断しました。聖餐のパンは、初めはキリストの教会全体で毎日受けられ、大いに重んじられていました。それは、神の御霊の恵みが神のすべての子らの魂に伝えられる大きな通路だったのです。多くの人の愛が冷えるまでは(マタイ二四・一二)、そうでした。
「日ごとの食物」(マタイ六・一一)。私たちが「日ごとの」と訳している語は、注解者によってさまざまに説明されてきました。けれども、最も平明で自然な意味は、次のものだと思われます。これは、古いものでも新しいものでも、ほとんどすべての訳に保たれています。すなわち、きょう一日に足りるもの、そして、次々に来る一日一日に足りるもの、という意味です。
(一二) 「お与えください」(マタイ六・一一)。私たちは、何一つ権利として要求するのではなく、ただ価なしのあわれみによって求めるからです。私たちは、自分の吸う空気にも、自分を支える大地にも、自分を照らす太陽にも、値しません。私たちが値するのは、ただ地獄だけだ、と私たちは認めます。けれども、神は私たちを価なしに愛してくださいます。ですから、私たちは神に、与えてくださるように求めるのです。それは、神の手から受けるに値しないのと同じように、自分では手に入れることのできないものです。
とはいえ、神の善さや力は、私たちが何もせずに立っている理由にはなりません。神のみこころは、私たちがすべてのことにあらゆる勤勉を尽くすことです。成功が自分の知恵と力から自然に生じる結果であるかのように、最大限の努力を払うことです。そのうえで、まるで何もしなかったかのように、神に頼るべきです。神は、あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物を与えてくださる方です(ヤコブ一・一七)。
「きょうも」(マタイ六・一一)。私たちは、あすのことを思いわずらってはならないからです(マタイ六・三四)。まさにこの目的のために、知恵ある創造者は、人生をこのような短い時間の区切りに分けられました。区切りは互いにはっきりと分かれています。それは、私たちが毎日を、神からの新しい賜物として、神の栄光にささげることのできるもう一つの人生として見るためです。また、毎晩を人生の終わりのように見るためです。その向こうには、永遠のほかに何も見るべきものはないのです。
(一三) 「私たちに罪を犯す者を私たちがゆるすように、私たちの罪過をおゆるしください」。神の惜しみない恵みがあらゆる被造物に流れ出るのを妨げうるのは、罪だけです。ですから、この願いは、前の願いに自然に続きます。それは、あらゆる妨げが取り除かれて、私たちが愛の神に、あらゆる良いものについて、もっとはっきりと信頼するためです。
「私たちの罪過」。この語は、本来は私たちの「負債」を意味します(マタイ六・一二)。聖書では、私たちの罪は、たびたびこのように表されています。罪を一つ犯すたびに、私たちは神に新しい負債を負うのです。私たちは神に、いわば一万タラントの負債を、すでに負っています(マタイ一八・二四)。それなら、神が「借金を返せ」と言われるとき(マタイ一八・二八)、私たちは何と答えることができるでしょうか。私たちは、まったく支払うことができません。返すものが何もありません。財産をすべて使い果たしてしまったのです(ルカ一五・一三)。ですから、神がその律法の厳しさに従って私たちを扱われるとします。正当に取り立てうるものを取り立てられるとします。そうなれば、神はこう命じられるほかありません。私たちの「手足をしばって」(マタイ二二・一三)、「獄吏に引きわた」せ、と(マタイ一八・三四)。
実際、私たちはすでに、自分の罪の鎖で手足をしばられています。罪は、私たち自身との関係で見れば、鉄の鎖であり、青銅のかせです。罪は傷です。世と肉と悪魔とが、この傷で私たちの全身を切り裂き、ずたずたにしたのです。罪は病です。私たちの血と気力を吸い尽くし、私たちを墓のへやへ下らせる病です。けれども、ここでのように神との関係で見れば、罪は負債です。計り知れないほど大きく、数えきれない負債です。ですから、返すものが何もない私たちは、神に叫び求めるのがふさわしいのです。私たちをみな、惜しみなく「ゆるして」くださるように、と(ルカ七・四二)。
「ゆるす」と訳されている語は、負債を免じることか、鎖を解くことかを意味します。そして、前者を得るなら、後者は当然ついてきます。負債が免じられるなら、鎖は手から落ちるのです。キリストにある神の価なしの恵みによって、私たちは「罪のゆるしを得」ます(使徒二六・一八)。そうするやいなや、主を「信じる信仰によって、聖別された人々に加わる」ことにもなるのです(使徒二六・一八)。罪は力を失いました。「恵みの下にある」人々を(ローマ六・一四)、すなわち神の恵みを受けている人々を、罪は支配することがありません。「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」ように(ローマ八・一)、彼らは罪責からだけでなく、罪からも解き放たれています。「律法の要求が」彼らに「おいて、満たされ」、彼らは「肉によらず霊によって歩く」のです(ローマ八・四)。
(一四) 「私たちに罪を犯す者を私たちがゆるすように」。この言葉で、私たちの主ははっきりと宣言しておられます。私たちは、どんな条件で神にゆるされることを期待できるのか。また、どの程度に、どのようにゆるされることを期待できるのか。それを宣言しておられるのです。私たちがほかの人をゆるすなら、また、私たちがほかの人をゆるすように、私たちのすべての罪過と罪とはゆるされるのです。〔第一に、私たちがほかの人をゆるすなら、神は私たちをゆるしてくださいます。〕これは、この上なく大切な点です。私たちの祝福された主は、私たちがいつかこのことを忘れてしまわないかと、深く気づかっておられます。そのため、主はこれを祈りの本文に入れただけでなく、すぐあとで二度繰り返しておられます。主は言われます。「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるしてくださるでしょう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるしてくださらないでしょう」(マタイ六・一四〜一五)。第二に、私たちがほかの人をゆるすように、神は私たちをゆるしてくださいます。ですから、もし悪意や恨みが、あるいは不親切や怒りの汚れが少しでも残っているとします。私たちが、すべての人の罪過を、はっきりと、完全に、心からゆるさないとします。そうすれば、私たちは自分自身のゆるしを、ひどく切り詰めてしまうのです。神は、私たちをはっきりと完全にゆるすことがおできになりません。いくらかのあわれみを示すことはおできになるでしょう。けれども、神が私たちのすべての罪をぬぐい去り、すべての不義をゆるされることを(詩篇一〇三・三)、私たち自身が拒むのです。
一方、私たちが心から隣人の罪過をゆるさないでいるとします。その間、この言葉を口にするたびに、私たちは神にどんな祈りをささげていることになるでしょうか。私たちは実に、神に公然と挑んでいるのです。最悪のことをしてみよと、神に挑戦しているのです。「私たちに罪を犯す者を私たちがゆるすように、私たちの罪過をおゆるしください」。これは、はっきり言えば、こういうことです。「私たちを少しもゆるさないでください。私たちは、あなたの手から何の恵みも望みません。私たちの罪を覚えておいてください。あなたの怒りが私たちの上にとどまりますように」。けれども、あなたがたは、そのような祈りを本気で神にささげることができるでしょうか。それでも神は、まだあなたがたを生きたまま地獄に投げ込んではおられないのです。ああ、これ以上、神を試みてはなりません。今、まさに今、神の恵みによって、自分がゆるされたいようにゆるしなさい。神がこれまであなたをあわれみ、これからもあわれんでくださるのと同じように、今、あなたの仲間をあわれみなさい(マタイ一八・三三)。
(一五) 「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」(マタイ六・一三)。「わたしたちを試みに会わせないで」(マタイ六・一三)。「試み」と訳されている語は、どんな種類の試練をも意味します。英語の temptation(誘惑)という語も、昔は善い意味にも悪い意味にもとれる語として用いられていました。もっとも、今では普通、罪への誘いの意味に解されています。ヤコブは、この語を両方の意味で用いています。初めは一般的な意味で、次に限られた意味で用いているのです。前の意味でとっているのは、次のように言うときです。「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいです」(ヤコブ一・一二)。ためされて、すなわち神に認められて、「いのちの冠を受ける」からです(ヤコブ一・一二)。すぐにヤコブは、後の意味でこの語をとって、こう付け加えます。「だれでも誘惑に会う場合、『この誘惑は、神からきたものだ』と言ってはなりません。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさいません」(ヤコブ一・一三)。「人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ」るときです(ヤコブ一・一四)。「欲」とは欲望のことです。「引かれ」の原語はエクセルコメノス(ἐξελκόμενος)で、神から引き出されることです。人は、神のうちにいるときにだけ安全なのです。また、「さそわれる」ときです(ヤコブ一・一四)。魚がえさで捕えられるように、捕えられるのです。人がこのように引かれ、さそわれるとき、そのとき本当の意味で「誘惑に陥」るのです(マタイ二六・四一)。そのとき、誘惑は雲のように人をおおい、その魂全体に広がります。そうなれば、そのわなからのがれるのは、どれほど難しいことでしょう。ですから、私たちは神に、「わたしたちを試みに会わせ」ないように願うのです(マタイ六・一三)。すなわち(神はだれをも誘惑なさらないのですから)、私たちが誘惑に導かれるままにしておかれないように、と願うのです。「悪しき者からお救いください」(マタイ六・一三)。英語の聖書は「悪から」と訳していますが(マタイ六・一三)、むしろ「悪しき者から」です。原語はアポ・トゥー・ポネールー(ἀπὸ τοῦ πονηροῦ)です。ホ・ポネーロス(ὁ πονηρός)とは、疑いもなく、とりわけそう呼ばれる悪しき者のことです。それは、この世の君(ヨハネ一二・三一)、この世の神であり(第二コリント四・四)、不従順の子らの中に力強く働いている者です(エペソ二・二)。けれども、信仰によって神の子となった人々はみな、その手から救い出されています。悪しき者は、彼らに戦いを挑むかもしれません。実際、挑んでくるでしょう。けれども、彼らが自分の魂を裏切らないかぎり、勝つことはできません。しばらくの間は苦しめるかもしれませんが、滅ぼすことはできません。神が彼らの味方だからです。神は最後には必ず、「日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださ」います(ルカ一八・七)。主よ、私たちが試みられるとき、誘惑に陥らないようにしてください(マタイ二六・四一)。私たちのために、のがれる道を備えてください(第一コリント一〇・一三)。悪しき者が私たちに手を触れることのないようにしてください(第一ヨハネ五・一八)。
(一六) この神聖な祈りの結びは、普通、頌栄と呼ばれます。それは厳かな感謝であり、神の属性とみわざとを簡潔に言い表したものです。国は、あなたのものだからです。すなわち、今あるもの、また、かつて造られたすべてのものに対する主権は、あなたのものです。そうです、あなたの国はとこしえの国、あなたのまつりごとはよろずよに絶えることがありません(詩篇一四五・一三)。力も、あなたのものです。それは、あなたがとこしえの御国で万物を治められる、執行の力です。あなたは、この力によって、あなたの治められるすべての所で、みこころにかなうすべての事を行われます(詩篇一三五・六)。栄光も、あなたのものです。それは、すべての被造物があなたにささげるべき賛美です。その賛美は、あなたの力と、あなたの国の偉大さとのためです。また、あなたが永遠の昔から行い、世々限りなく行われる、すべてのくすしきみわざのためです。とこしえに。アァメン。そうなりますように。真剣な読者には、ここに「主の祈りの言い換え」を付け加えても、喜ばれないことはないと思います。
すべてのものの父よ、あなたの力ある声はこの全宇宙を呼び出しました。あなたのあわれみは、すべての上に喜び、限りない世々を通じて変わりません。あなたは、みことばによって万物を保ち、あなたの豊かな愛は、すべてのものに示されています。あなたは、すべての被造物の呼び声を聞き、すべての口を良い物で満たされます。
あなたは天で、光の中の御座について治め、自然の広がりは、あなたの下に広げられています。地も、空も、海も、あなたの目の前に、地獄の深いやみさえ、あらわにされています。知恵と力と愛とは、あなたのものです。私たちは、あなたの御顔の前にひれ伏し、あなたの神聖な属性を告白し、万物の主権者なる主をたたえます。
主権者なる主よ、あなたを告白させてください、地に、空に、天に動くすべてのものに。あなたの力を敬い、あなたの善をほめたたえ、あなたの鋭い目の前に、おののかせてください。主によって生れたものたちよ、みなあらゆる時間を賛美に用いなさい。エホバは治めておられる。地よ、喜べ。明けの星よ、喜び呼ばわれ。
御父の永遠の愛の御子よ、あなたの大いなる力をとってください。地のすべての子らに、あなたのあわれみを味わわせ、血を流されたあなたの恵みを、みなにあがめさせてください。あなたの愛の勝利を現してください。すべての心の中で、あなたおひとりが治めてください。やがて、あなたのすべての敵があなたの支配を認め、恵みが始めたことを、栄光が完成するときまで。
恵みと、いやしと、力との御霊よ、この地上の光と愛との泉よ、あなたのいやしの力を、広く注いでください。すべての国々の上に、それを流れさせてください。完全な愛で、私たちの心を燃え立たせ、私たちのうちで、信仰のわざを成し遂げてください。そうすれば、天の万軍でさえ、みこころを行うのに、地上の私たちより速く動くことはないでしょう。
父よ、日ごとに、あなたの子らの必要に新しい備えを与えるのは、あなたです。あなたは野のゆりを装い、若いからすの鳴く声を聞かれます。私たちは思いわずらいをあなたにゆだね、あなたによって生きています。あなたは、私たちのあらゆる必要をご存じです。ああ、あなたの恵みで私たちを養い、きょう、私たちの魂に生きたパンを与えてください。
永遠の、傷のない神の小羊よ、世の初めから、ほふられた方よ、いつも、あなたの血を私たちに注いでください。ああ、私たちをきよめ、いつまでもきよく保ってください。すべての魂に向かって(あなたにすべての賛美がありますように)、私たちのあわれみの心を動かしてください。こうして、すべての人が、これを見て知りますように。神が私たちのうちにおられることを。神は愛だからです。
いのちの与え主であり、主である方よ、あなたの力と守りの心づかいは、すべてのものに惜しみなく注がれます。激しい誘惑のときには、あなたのもとへ、罪とサタンから、私たちをのがれさせてください。主よ、私たちはあなたのもの、あなたは私たちのものです。私たちのうちに、あなたのすべての善を現してください。私たちの心を新しくし、広げ、満たしてください。平安と、喜びと、天と、神とで。
祝福とほまれ、賛美と愛とが、等しく、共に永遠なる三位の神よ、下は地で、上は天で、あなたのすべてのみわざから、あなたにささげられますように。三たび聖なる方よ、国はあなたのもの、全能の力はあなたのものです。造られた自然が死に絶えるときも、あなたの絶えることのない栄光は輝きます。