ジョン・ウェスレー標準説教集

説教二十五 山上の説教(五)

「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはなりません。廃するためではなく、成就するためにきたのです。よく言っておきます。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのです。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるでしょう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるでしょう。わたしは言っておきます。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできません」(マタイ五・一七〜二〇)

(一) 「侮られて人に捨てられ」た方には(イザヤ五三・三)、数多くの非難が浴びせられました。その中に、次の非難がないはずはありませんでした。この人は新奇なことを教える者であり、新しい宗教を持ち込む者だ、という非難です。この非難は、いっそうもっともらしく言い立てられたかもしれません。主の用いられた言い回しの多くが、ユダヤ人の間では普通のものではなかったからです。ユダヤ人は、それをまったく用いなかったか、用いても同じ意味ではなく、これほど十分で強い意味ではありませんでした。これに加えて、「霊とまこととをもって」神を礼拝することは(ヨハネ四・二四)、いつでも新しい宗教に見えたに違いありません。これまで外側の礼拝しか、すなわち敬虔の形しか(第二テモテ三・五)、知らなかった人々にとってはそうです。

(二) また、そうであればよいと望んだ人々も、いたかもしれません。主は古い宗教を廃して、別の宗教を持ち込もうとしておられる、と望んだのです。その宗教なら天国へのもっと楽な道になるだろう、と彼らは都合よく考えたかもしれません。けれども、私たちの主は、この言葉で、そう望んだ人々のむなしい望みも、非難した人々の根拠のない中傷も、退けておられます。

私は、これらの言葉を、並んでいる順に考えていきます。一節ずつを、話の一つの区分とします。

【一】 廃するためではなく、成就するために

(一) まず第一に、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはなりません。廃するためではなく、成就するためにきたのです」(マタイ五・一七)。

モーセがイスラエルの子らに授けた祭儀律法、すなわち儀式律法があります。それは、昔のいけにえと宮の奉仕にかかわる命令と定めを、すべて含んでいました。私たちの主は、確かに、この律法を廃し、解き、まったく取り除くために来られたのです。このことは、使徒たちがみなあかししています。バルナバとパウロだけではありません。二人は、クリスチャンが「モーセの律法を守」るべきだと教える人々に、激しく反対しました(使徒一五・五)。ペテロだけでもありません。ペテロは、これを、すなわち祭儀律法を守らせようと言い張ることを、「神を試みる」ことだと呼びました(使徒一五・一〇)。また、「われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけ」ることだと呼んだのです(使徒一五・一〇)。使徒たちも長老たちも兄弟たちも、みな心を一つにして集まり(使徒一五・二二)、こう宣言しました。この律法を守るように彼らに命じるのは、彼らの「心を乱」すことである(使徒一五・二四)、と。また、そのような負担を彼らに負わせないことに、「聖霊と」自分たちとは「決めた」、と(使徒一五・二八)。私たちの主は、この「証書を、その規定もろとも」ぬり消し、取り除いて、十字架につけてしまわれたのです(コロサイ二・一四)。

(二) けれども、十戒に含まれ、預言者たちが強く説いた道徳律法を、主は取り除かれませんでした。主が来られたのは、その一部でも取り消すためではありませんでした。これは、決して破られることのない律法です。天にある忠実な証人のように、堅く立っているのです。道徳律法は、儀式律法、すなわち祭儀律法とは、まったく違う土台の上に立っています。祭儀律法は、不従順で、かたくなな民を(出エジプト三二・九)、一時的に抑えるためだけに定められたものでした。それに対して、道徳律法は世の初めからありました。それは、「石の板にではなく」(第二コリント三・三)、すべての人の子らの心に書かれていたのです。人の子らが創造者の手から出てきたときにです。かつて神が指をもって書かれたその文字は(出エジプト三一・一八)、今では罪によって大部分がそこなわれています。けれども、私たちにいくらかでも善悪の意識があるかぎり、すっかり消し去られることはありえません。この律法のどの部分も、すべての人に対して、どの時代にも、効力を持ち続けなければなりません。それは、時や場所や、そのほか変わりうるどんな事情にもよらないからです。神の本性と人の本性、そして両者の変わることのない関係によるのです。

(三) 「廃するためではなく、成就するためにきたのです」(マタイ五・一七)。ある人々は、私たちの主の意味をこう考えました。わたしは、律法に完全に従うことによって、これを成就するために来た、と。主が、この意味で律法のあらゆる部分を成就されたことは、疑う余地がありません。けれども、主がここで意図しておられるのは、それではないようです。それは、いまの説教のねらいとは関係がないからです。疑いもなく、ここでの主の意味は、次のとおりです(前後のすべてとも一致します)。わたしは、人々のあらゆる注釈に逆らって、律法をその完全な姿で確立するために来た。律法の中の暗いところ、あいまいなところを、すべて十分にはっきりと見えるようにするために来た。律法のあらゆる部分の、まことの十分な意味を明らかにするために来た。律法に含まれるあらゆる戒めの長さと広さ、すなわちその全範囲を示すために来た。また、その高さと深さ、すなわち、そのすべての部分にわたる、思いも及ばない清さと霊性を示すために来た、と。

(四) そして、私たちの主は、目の前にあるこの説教の前の部分でも後の部分でも、このことを十分に果たしておられます。この説教の中で、主は新しい宗教を世に持ち込まれたのではありません。初めからあった同じ宗教を持ち込まれたのです。その宗教の実質は、疑いもなく、創造と同じほど古いものです。それは人と同時に始まり、「人は生きた者となった」まさにそのときに(創世記二・七)、神から出たのです。実質は、と言ったのは、その宗教のいくつかの事情が、今では、堕落した被造物としての人にかかわっているからです。それは、続くすべての世代において、律法と預言者とによってあかしされてきた宗教です(ローマ三・二一)。けれども、その宗教がこれほど十分に説明され、徹底して理解されたことは、かつてありませんでした。その偉大な創始者ご自身がへりくだって、この確かな注解を人々に与えてくださるまでは、そうだったのです。その注解は、この宗教のすべての本質的な部分にわたっています。主は同時に、この宗教が決して変えられることなく、世の終りまで効力を持ち続けることを宣言されました。

【二】 律法の一点、一画もすたることはない

(一) 「よく言っておきます」(マタイ五・一八)。これは、語られることの重要さと確かさの両方を示す、厳かな前置きです。「天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのです」(マタイ五・一八)。

「一点」(マタイ五・一八)。これは文字どおりには、イオタ一つも、ということです。最も小さな母音字一つも、ということです。「一画」も(マタイ五・一八)。原語はミア・ケライア(μία κεραία)で、子音字の角一つ、あるいは点一つのことです。これは、ことわざのような言い方です。道徳律法に含まれる戒めは、一つも廃されることがない、という意味です。どの戒めの最も小さな部分も、どれほど取るに足りないように見えても、廃されることはないのです。

律法から「すたることはなく」(マタイ五・一八)。原語は、ウー・メー・パレルテー・アポ・トゥー・ノムー(οὐ μὴ παρέλθῃ ἀπὸ τοῦ νόμου)です。ここで用いられている二重の否定は、意味を強めています。反論の余地をまったく残さないほどです。また、パレルテー(παρέλθῃ)という語は、注意すべきことに、何が起こるかを告げるただの未来形ではありません。何が起こらなければならないかを命じる、命令の力も持っているのです。これは権威の言葉です。語られた方の、主権ある意志と力を表しています。その方の言葉は天と地の法であり、世々限りなく堅く立つのです。

「天地が滅び行くまでは」、「一点、一画もすたることはな」いのです(マタイ五・一八)。あるいは、すぐあとで言われているとおり、ヘオース・アン・パンタ・ゲネータイ(ἕως ἂν πάντα γένηται)です。すなわち、すべてが(というより、すべての事物が)全うされるまで、万物が完成するまで、ということです。ですから、ここには、あのお粗末な言い逃れの入る余地はありません(ある人々は、この言い逃れを大いに喜んできました)。それはこういうものです。「律法は、律法全体が成就されるまでは、どの部分もすたることがなかった。けれども、律法はキリストによって成就された。だから、福音が確立されるためには、今は律法がすたらなければならない」。そうではありません。「ことごとく」という語は、律法全体を意味するのではなく、宇宙のすべての事物を意味しています。同じように、「全うされる」という語も、律法にかかわるのではなく、天と地のすべての事物にかかわっているのです。

(二) これらすべてから、私たちは次のことを学ぶことができます。律法と福音との間には、少しも対立はありません。福音が確立されるために、律法がすたる必要はないのです。実際、どちらも他方に取って代わることはなく、両者は完全によく調和しています。そうです、まったく同じ言葉が、違う面から見れば、律法の一部でもあり、福音の一部でもあるのです。戒めとして見れば、それは律法の一部です。約束として見れば、福音の一部です。たとえば、「心をつくし」、「主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)という言葉は、戒めとして見れば、律法の一部です。約束として見れば、福音の本質的な部分です。福音とは、約束の形で示された律法の命令にほかならないのです。ですから、心の貧しさも、心の清さも、そのほか神の聖なる律法で命じられていることは何であれ、みなそうです。福音の光で見れば、それらはどれも、尊く、大いなる約束にほかなりません(第二ペテロ一・四)。

(三) ですから、律法と福音との間には、考えうるかぎり最も密接なつながりがあります。一方では、律法は絶えず福音のために道を備え、私たちに福音を指し示します。他方では、福音は絶えず私たちを、律法をもっと正確に満たすことへと導きます。たとえば、律法は私たちに、神を愛し、隣人を愛し、柔和で、へりくだった、聖い者であることを求めます。私たちは、自分がこうしたことに足りる者ではないと感じます。そうです、「人にはそれはできない」と感じるのです(マタイ一九・二六)。けれども、私たちは神の約束を見ます。その愛を私たちに与え、私たちをへりくだった、柔和な、聖い者にしてくださるという約束です。私たちは、この福音を、この喜ばしい知らせをとらえます。すると、私たちの信仰どおりに、私たちの身になります(マタイ九・二九)。キリスト・イエスにある信仰によって、「律法の要求が」私たち「において、満たされる」のです(ローマ八・四)。

さらに、次のことにも目を留めることができます。聖書のあらゆる命令は、おおわれた約束にほかならないのです。神は、あの厳かな宣言によって、ご自分の命じることを何でも与えると約束しておられるからです。その宣言とは、こうです。「わたしが、それらの日の後」、「立てようとする契約はこれである、と主が言われ」ます。「わたしの律法を」あなたがたの「思いの中に入れ」、あなたがたの「心に書きつけ」ます(ヘブル八・一〇)。それでは、神は私たちに、「絶えず祈」るように(第一テサロニケ五・一七)命じておられるでしょうか。「いつも喜んで」いるように(第一テサロニケ五・一六)命じておられるでしょうか。神が聖なる方であるように、「聖なる者にな」るように(第一ペテロ一・一五〜一六)命じておられるでしょうか。それで十分です。神は、まさにこのことを私たちのうちに行ってくださいます。神の言葉どおり、私たちの身になるのです(ルカ一・三八)。

(四) けれども、もしこれらのことがそのとおりなら、次のような人々をどう考えるべきか、迷うことはありません。教会のどの時代にも、神の命令のいくつかを変えたり、ほかのものに置き換えたりしようとした人々がいました。彼らの公言によれば、神の御霊の特別な導きによってです。キリストはここで、そのような主張をすべて判断するための、誤ることのない基準を与えておられます。キリスト教は、命令としても約束としても、神の道徳律法全体を含んでいます。ですから、キリストの言葉に聞くなら分かるとおり、キリスト教は、神のあらゆる経綸の最後のものです。神がそのように定めておられるのです。このあとに来るものは、ほかにありません。これは、万物の完成まで続くのです。したがって、そのような新しい啓示はみな、サタンから出たものであって、神から出たものではありません。もっと完全な別の経綸があるという主張は、みな当然くずれ去ります。「天地は滅びるでしょう」(マタイ二四・三五)。しかし、この「言葉は滅びることがありません」(マタイ二四・三五)。

【三】 最も小さいいましめの一つでも破る者

(一) 「それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるでしょう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるでしょう」(マタイ五・一九)。

律法を説くことを、非難の的にする人々がいます。いったい、彼らはだれなのでしょうか。何者なのでしょうか。彼らは、自分たちの非難がだれの上に降りかかるのか、分からないのでしょうか。最後にはだれの頭に落ちかかるのか、分からないのでしょうか。このことで私たちを拒む者はだれでも、私たちをおつかわしになったかたを拒むのです(ルカ一〇・一六)。主は、世をさばくためではなく、救うために来られました(ヨハネ三・一七)。「福音によっていのちと不死とを明らかに示」すために、わざわざ来られたのです(第二テモテ一・一〇)。そのときでさえ、主のように律法を説いた人が、かつていたでしょうか。キリストがこの言葉で説いておられる以上に、はっきりと、厳しく、律法を説くことのできる人がいるでしょうか。そして、この言葉を改めることのできる人が、だれかいるでしょうか。説教の仕方を神の御子に教えることのできる人が、だれかいるでしょうか。御子が父から受けた使信を伝える、もっとよい方法を、だれが御子に教えるのでしょうか。

(二) 「これらの最も小さいいましめの一つでも破り」(マタイ五・一九)。すなわち、これらのいましめのうちで最も小さいものの一つでも破る者は、ということです。注意すべきことに、私たちの主は、「これらのいましめ」(マタイ五・一九)という言葉を、律法と同じ意味で用いておられます。あるいは、律法と預言者と同じ意味で用いておられます。この二つは同じことです。預言者たちは、律法に何も付け加えず、ただ、聖霊に感じて(第二ペテロ一・二一)、律法を告げ、説明し、強く説いただけだからです。

「これらの最も小さいいましめの一つでも破」る者は(マタイ五・一九)。とりわけ、故意に、あるいは思い上がって破る場合です。

「これらの最も小さいいましめの一つ」(マタイ五・一九)、すなわち、これらのいましめのうちで最も小さいものの一つです。ここで、もう一つの言い訳が断たれています。多くの人々は、神を欺くことはできないのに、この言い訳によって、みじめにも自分の魂を欺いています。罪人は言います。「この罪は、小さいではないか(創世記一九・二〇)。主はこの事で、私をゆるしてくださるのではないか(列王紀下五・一八)。私は律法のもっと重要な事柄では(マタイ二三・二三)、罪を犯していないのだから、主はきっと、このことを厳しくとがめたりはなさらないだろう」。むなしい望みです。人間的な言い方をすれば、これは大きな戒め、あれは小さな戒め、と呼ぶことはできます。けれども、実際にはそうではありません。言葉を正確に使うなら、小さな罪などというものはありません。あらゆる罪は、聖く完全な律法にそむくことであり、天の偉大な主権者を侮辱することだからです。

(三) 「またそうするように人に教えたりする者は」(マタイ五・一九)。ある意味では、こう言うことができます。どんな戒めであれ、公然と破る者はだれでも、ほかの人々に同じことを教えているのです。模範は語るからです。しかも多くの場合、教えよりも大きな声で語るのです。この意味で、明らかに、公然と酒に酔う者はみな、酩酊を教える教師です。安息日を破る者はみな、主の日を汚すことを、絶えず隣人に教えているのです。けれども、それだけではありません。習慣的に律法を破る者は、ここでとどまって満足することは、めったにありません。その人はたいてい、模範によってだけでなく言葉によっても、ほかの人々に同じことをするように教えます。とりわけ、かたくなになり(箴言二九・一)、懲しめを憎むとき(箴言一二・一)はそうです。そのような罪人は、まもなく罪の弁護者になります。捨てまいと決めているものを弁護し、離れようとしない罪の言い訳をします。こうして、自分の犯すあらゆる罪を、じかに教えるのです。

「天国で最も小さい者と呼ばれるでしょう」(マタイ五・一九)。すなわち、天国に何の分も持たない、ということです。その人は、地上にある天国とは無縁です。その嗣業に何の分け前もありません。あの「義と、平和と、聖霊における喜び」に(ローマ一四・一七)、少しもあずかっていないのです。したがって、やがて現されようとする栄光にも(ローマ八・一八)、何の分も持つことができません。

(四) ある人々は、このように「これらの最も小さいいましめの一つ」(マタイ五・一九)でも破り、ほかの人々にも破るように教えます。そういう人々でさえ、「天国で最も小さい者と呼ばれる」のです(マタイ五・一九)。キリストと神との国に、何の分も持たないのです(エペソ五・五)。このような人々でさえ、「外のやみに」投げ込まれ、「そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりする」のです(マタイ八・一二)。そうであるなら、私たちの主がこの言葉で、何よりもまず念頭に置いておられる人々は、どこに現れることになるでしょうか。それは、神からつかわされた教師という肩書きを持ちながら、自分で神の戒めを破る人々です。そうです、ほかの人々にもそうするように公然と教え、生活においても教理においても腐敗している人々です。

(五) このような人々には、いくつかの種類があります。第一の種類は、故意の、習慣的な罪の中に生きている人々です。普通の罪人でさえ、その模範によって教えるのです。まして罪深い教役者は、なおさらそうです。たとえ自分の罪を弁護したり、言い訳したり、軽く見せようとしたりしなくても、そうなのです。もしそうするなら、その人はまさに人殺しです。そうです、自分の会衆を殺す、人殺しの総大将です。その人は、死の領域を人で満たします。その人は、やみの君の最もえり抜きの道具です。その人がこの世を去るとき、「下の陰府は」その人のために「動いて」、その人の「来るのを迎え」ます(イザヤ一四・九)。また、その人が底知れぬ所に(黙示録二〇・一)沈んでいくときには、必ず大勢の人を引きずり込んでいきます。

(六) これに次ぐのは、人のよい、善良な種類の人々です。彼らは、気楽で、害のない生活を送ります。外の罪にも、内の聖性にも、わずらわされることがありません。どちらの方向にも目立たない人々です。宗教的であることでも、無宗教であることでも目立ちません。公にも私的にも、たいへん規則正しい生活をしていますが、隣人たちより少しでも厳格であろうとはしません。この種の教役者が破るのは、神の最も小さい戒めの一つや、いくつかだけではありません。神の律法の中で、敬虔の力にかかわる、大きく重要な部分をすべて破るのです。また、次のことを私たちに求める部分を、すべて破るのです。「地上に宿っている間を、おそれの心をもって過ごす」こと(第一ペテロ一・一七)。「恐れおののいて自分の救の達成に努め」ること(ピリピ二・一二)。いつも「腰に帯をしめ、あかりをともして」いること(ルカ一二・三五)。「狭い戸口からはいるように努め」ること、すなわち苦闘することです(ルカ一三・二四)。そして、その人は、生活のあり方全体と説教の大筋とによって、人々にそうするように教えます。その説教は、いつも、心地よい夢の中にいる人々をなだめる方向に向かいます。自分はクリスチャンだと思い込んでいるのに、実はそうでない人々をです。その人の務めに連なるすべての人に、このまま眠り続けて休んでいるように説き勧めるのです。ですから、その人も、その人に従う人々も、共にとこしえの燃える火の中で(イザヤ三三・一四)目をさますとしても、不思議ではありません。

(七) けれども、これらすべての上に、キリストの福音の敵の最上位にいる人々がいます。それは、公然と、はっきりと、律法そのものを「さばき」(ヤコブ四・一一)、「律法をそし」る人々です(ヤコブ四・一一)。彼らは、戒めを一つだけ破るように教えるのではありません。最も小さいものであれ、最も大きいものであれ、一つだけではなく、すべての戒めを一挙に破るように人々に教えるのです。「破る」の原語はリューサイ(λῦσαι)で、解く、ゆるめる、義務を解き放つ、という意味です。彼らは、何の包み隠しもなく、はっきりとこう教えます。「私たちの主は、律法をどうしたか。廃したのだ。義務はただ一つ、信じることだけだ。命令はみな、今の時代にはふさわしくない。律法が何を求めても、今ではだれも、一歩も進む必要はない。一文も施す必要はない。一口でも食べたり控えたりする必要はないのだ」。これは実に、傲然とことを運ぶことです。私たちの主に面とむかって逆らい(ガラテヤ二・一一)、主はつかわされて伝えるべき使信の伝え方をご存じなかった、と言うことです。主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないでください(使徒七・六〇)。父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです(ルカ二三・三四)。

(八) この強い惑わしに伴う事情の中で、何より驚くべきことは、次のことです。その惑わしに身をゆだねた人々は、キリストの律法をくつがえすことによって、キリストをあがめていると本気で信じているのです。キリストの教えを壊しながら、キリストの務めを光栄あるものとしていると(ローマ一一・一三)、本気で信じているのです。そうです、彼らがキリストをあがめるのは、ちょうどユダがしたのと同じです。ユダは、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻したのです(マタイ二六・四九)。ですから、キリストは、彼らの一人一人に向かって、同じように正当にこう言うことができます。「あなたは接吻をもって人の子を裏切るのですか」(ルカ二二・四八)。キリストの血について語りながら、その冠を奪う人がいます。福音を推し進めるという口実で、キリストの律法のどこかを軽んじる人がいます。それは、接吻をもってキリストを裏切ることにほかなりません。実際、信仰を説くのに、直接にせよ間接にせよ、従順のどれかの部分を退けるような説き方をする人がいます。そういう人はだれも、この非難を免れることはできません。キリストを説くのに、神の戒めの最も小さいものを、どんな形であれ廃したり弱めたりするような説き方をする人も、同じです。

(九) 確かに、「神に選ばれた者たちの信仰」を(テトス一・一)、尊びすぎるということはありえません。そして、私たちはみな、こう宣言しなければなりません。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのです」(エペソ二・八)。「決して行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エペソ二・九)。悔い改めるすべての罪人に向かって、声を上げて叫ばなければなりません。「主イエス」キリスト「を信じなさい。そうしたら、あなたは救われます」(使徒一六・三一)。けれども同時に、私たちは、すべての人に次のことを知らせるように心がけなければなりません。私たちが尊ぶのは、愛によって働く信仰だけです(ガラテヤ五・六)。また、私たちが信仰によって救われるのは、罪の罪責からだけでなく、罪の力からも救い出されるかぎりにおいてです。また、私たちが「信じなさい。そうしたら、あなたは救われます」(使徒一六・三一)と言うとき、それは、次のような意味ではありません。「信じなさい。そうしたら、あなたは、間に何の聖性もはさまずに、罪から天国へ一足飛びに移ります。信仰が聖性の代わりをします」。そうではなく、こういう意味です。「信じなさい。そうしたら、あなたは聖い者となります。主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたは平安と力とを共に得ます。あなたは、自分の信じる方から力を得て、罪を足の下に踏みつけます。心をつくし、主なるあなたの神を愛し、力をつくして神に仕える力を得ます(マルコ一二・三〇)。あなたは、『耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める』力を得ます(ローマ二・七)。あなたは、神のすべての戒めを、最も小さいものから最も大きいものまで、行いもし、教えもします。あなたは、言葉によってだけでなく生活によっても、それを教えます。こうして、『天国で大いなる者と呼ばれ』ます(マタイ五・一九)」。

【四】 律法学者やパリサイ人の義にまさる義

(一) 私たちは、天国へ、すなわち光栄とほまれと朽ちぬものとへ(ローマ二・七)至る道として、ほかの道を教えるかもしれません。それがどんな道であっても、実は滅びに至る道です(マタイ七・一三)。それを信仰の道と呼ぼうと、ほかのどんな名で呼ぼうと、そうです。その道は、最後に人に平安をもたらしません。主はこう言われるからです。「わたしは言っておきます。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできません」(マタイ五・二〇)。

律法学者は、私たちの主に最も根強く、最も激しく反対した人々の一部として、新約聖書にたびたび出てきます。英語の呼び名は「書く人」を意味します。けれども、彼らは、その呼び名から思わされるような書記、すなわち書くことだけに携わる人々ではありませんでした。また、彼らは、私たちが普通に言う意味での法律家でもありませんでした。もっとも、英語の聖書は、ノミコイ(νομικοί)という語を「法律家」と訳しています。彼らの職務は、私たちの間の法律家の職務とは、何の共通点もありませんでした。彼らが通じていたのは、神の律法であって、人の法律ではありませんでした。神の律法こそ、彼らの研究するものでした。律法と預言者を朗読し、解き明かすこと、とりわけ会堂でそうすることが、彼らの本来の固有の務めでした。彼らは、ユダヤ人の間の、通常の定まった説教者でした。ですから、原語の意味に注意を払うなら、この語を「神学者」と訳してもよいでしょう。この人々は、神学を職業としていたからです。また、彼らはたいてい、(その名が文字どおり示すとおり)文字の人、すなわち学問のある人々でした。当時のユダヤ人の国で、学識において最も重んじられていた人々だったのです。

(二) パリサイ人は、ユダヤ人の中の、非常に古い一派、すなわち一団の人々でした。その名は、もともとヘブル語のパラシュ(פרש)という語から来ています。これは、分ける、区別する、という意味です。とはいえ、彼らが国民の教会から正式に分離したとか、その中に分裂を起こしたとかいうのではありません。彼らはただ、生活がほかの人々より厳格で、ふるまいがほかの人々より几帳面であることで、区別されていただけです。彼らは、ごく細かい点に至るまで律法に熱心でした。はっか、いのんど、クミンの十分の一まで、宮に納めていたのです(マタイ二三・二三)。そのために、彼らはすべての民から尊ばれ、一般に最も聖い人々と見なされていました。

律法学者の多くは、パリサイ派に属していました。たとえば、パウロ自身がそうです。パウロは、律法学者となるために教育を受けました。初めはタルソの大学で、その後エルサレムで、ガマリエルのひざもとで学んだのです(使徒二二・三)。ガマリエルは、当時その国にいた最も学識のある律法学者、すなわち律法の教師の一人でした。そのパウロが、議会の前で、自分についてこう言っています。「わたしはパリサイ人であり、パリサイ人の子です」(使徒二三・六)。また、アグリッパ王の前では、こう言っています。「わたしは、わたしたちの宗教の最も厳格な派にしたがって、パリサイ人としての生活をしていたのです」(使徒二六・五)。また、律法学者の全体が、たいていパリサイ人を重んじ、パリサイ人と歩調を合わせて行動していました。ですから、私たちの救い主は、両者を多くの点で同じように扱うべきものとして、たびたび並べて語っておられます。この箇所で両者が並べて挙げられているのは、宗教を最も際立って公言する人々としてであるようです。前者は最も賢い人々と見なされ、後者は最も聖い人々と見なされていました。

(三) 「律法学者やパリサイ人の義」が(マタイ五・二〇)、実際にどのようなものであったかを見定めるのは、難しくありません。私たちの主は、彼らの一人が自分について述べた、確かな記録を残しておられます。その人は、自分の義を、はっきりと詳しく描いています。その一部でも言い落としたとは考えられません。その人は確かに、「祈るために宮に上った」のです(ルカ一八・一〇)。けれども、自分の徳にすっかり心を奪われていたので、何のために来たのかを忘れてしまいました。注目すべきことに、その人は本当の意味ではまったく祈っていません。自分がどれほど賢く善い者であるかを、神に告げているだけです。「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」(ルカ一八・一一〜一二)。ですから、その人の義は、三つの部分から成っていました。第一に、その人は、自分は「ほかの人たちのような」者ではない、と言います(ルカ一八・一一)。暴利をむさぼる者でも、不正な者でも、姦淫をする者でもなく、「この取税人のような人間でもない」と言うのです(ルカ一八・一一)。第二に、「わたしは一週に二度断食して」いる、と言います(ルカ一八・一二)。そして第三に、「全収入の十分の一をささげてい」る、と言います(ルカ一八・一二)。

「ほかの人たちのような」者ではない(ルカ一八・一一)。これは小さな点ではありません。だれもがこう言えるわけではないのです。これは、その人がこう言っているのと同じです。「私は、習慣というあの大きな激流に、押し流されるままにはなりません。習慣によってではなく、道理によって生きています。人々の手本によってではなく、神の言葉によって生きています。私は、暴利をむさぼる者でも、不正な者でも、姦淫をする者でもありません。これらの罪は、神の民と呼ばれる人々の間でさえ、ありふれていますが、私は違います。(とりわけ、暴利をむさぼることは、国の隅々にまで満ちています。これは、法にかなった一種の不正であり、人間のどんな法律でも罰することができません。他人の無知や窮乏につけこんで利益を得ることです。)また、この取税人のような人間でもありません。公然の罪や思い上がった罪を犯してはいません。外に現れる罪人ではありません。生活もふるまいも非の打ちどころのない、公正で正直な人間です」。

(四) 「わたしは一週に二度断食して」います(ルカ一八・一二)。この言葉には、私たちが初めに気づくよりも多くのことが含まれています。厳格なパリサイ人はみな、毎週の断食を守っていました。すなわち、毎週月曜日と木曜日です。月曜日には、彼らの言い伝えによればこの日にモーセが二枚の石の板を受けたので、それを記念して断食しました。その板は、神が指をもって書かれたものです(出エジプト三一・一八)。木曜日には、モーセが、民が金の子牛の周りで踊るのを見て、その板を手から投げうったことを記念して(出エジプト三二・一九)、断食しました。これらの日には、午後三時まで、何の食物もとりませんでした。それは、宮で夕べのいけにえをささげ始める時刻でした。その時刻まで、彼らは宮の中に、その片隅や部屋や庭のどこかに、とどまっているのが習慣でした。あらゆるいけにえを手伝い、あらゆる公の祈りに加わる用意をしておくためです。その間の時間の一部を、彼らはいつも、神への個人的な祈りに用いました。残りは、聖書を調べること、すなわち律法と預言者を読み、それを思いめぐらすことに用いていました。パリサイ人の義の第二の部分である、「わたしは一週に二度断食して」いる(ルカ一八・一二)という言葉には、これだけのことが含まれているのです。

(五) 「全収入の十分の一をささげています」(ルカ一八・一二)。パリサイ人は、これをこの上なく几帳面に行いました。最も取るに足りないものさえ、除こうとはしませんでした。そうです、はっか、いのんど、クミンさえ除きませんでした(マタイ二三・二三)。神に当然属すると信じるものは、最も小さな部分も、手もとに残そうとしませんでした。毎年、全財産のまるまる十分の一をささげ、また、何であれ、すべての収益の十分の一をささげたのです。

そうです、厳格なパリサイ人は(古代ユダヤの文書に通じた人々がたびたび指摘してきたとおり)、財産の十分の一を、祭司とレビ人を通して神にささげるだけでは満足しませんでした。さらにもう十分の一を、貧しい人々を通して神にささげました。しかも、それを絶えず行ったのです。彼らは、持っているすべてのものから、いつも十分の一としてささげていたのと同じ割合を、施しとして与えました。そして、これもまた、この上なく几帳面に計算しました。どの部分も手もとに残さず、神のものを神にすっかり返すためです(マタイ二二・二一)。彼らは、これを神のものと見なしていたのです。ですから、全体として、彼らは毎年、持っているすべてのもののまるまる五分の一を、手放していたのです。

(六) これが、「律法学者やパリサイ人の義」でした(マタイ五・二〇)。それは多くの点で、多くの人がそれについていつもいだいてきた考えを、はるかに越える義でした。けれども、こう言う人もいるでしょう。「それはみな、偽りの見せかけにすぎなかった。彼らはみな、偽善者の集まりだったのだから」。疑いもなく、彼らのうちのある者はそうでした。本当は宗教をまったく持たず、神を恐れることも、神を喜ばせたいと願うこともない人々でした。彼らは、神からの誉を少しも気にかけず(ヨハネ五・四四)、ただ人のほまれだけを気にかけていました(ヨハネ一二・四三)。私たちの主が、多くの機会に、あれほど厳しく罪に定め、あれほど鋭くとがめておられるのは、この人々です。けれども、多くのパリサイ人が偽善者であったからといって、すべてがそうであったと考えてはなりません。実際、偽善は、パリサイ人の性格にとって、決して本質的なものではありません。偽善は、彼らの派を見分けるしるしではありません。私たちの主の説明によれば、それはむしろ、次のことです。彼らは、「自分を義人だと自任して他人を見下げている」のです(ルカ一八・九)。これこそ、彼らの本当の記章です。けれども、この種のパリサイ人は、偽善者ではありえません。その人は、普通の意味で誠実であるに違いありません。そうでなければ、「自分を義人だと自任」することはできないでしょう(ルカ一八・九)。ここで神に向かって自分をほめていたこの人は、疑いもなく、自分を義人だと思っていました。したがって、その人は偽善者ではありませんでした。自分に何の不誠実も自覚していなかったのです。その人はこのとき、思っているとおりのことを神に語ったのです。すなわち、自分はほかの人々よりはるかにすぐれている、と。

けれども、ほかに例がないとしても、パウロの例だけで、このことをまったく疑いのないものにするのに十分です。パウロは、クリスチャンになってから、こう言うことができました。「わたしはまた、神に対しまた人に対して、良心に責められることのないように、常に努めています」(使徒二四・一六)。それだけでなく、パリサイ人であったときのことについてさえ、こう言うことができたのです。「兄弟たちよ、わたしは今日まで、神の前に、ひたすら明らかな良心にしたがって行動してきました」(使徒二三・一)。ですから、パウロは、クリスチャンであったときと同じように、パリサイ人であったときにも誠実でした。パウロは、かつて迫害していた信仰を宣べ伝えていたとき(ガラテヤ一・二三)、偽善者ではありませんでした。教会を迫害していたときにも(ピリピ三・六)、同じように偽善者ではなかったのです。ですから、「律法学者やパリサイ人の義」には(マタイ五・二〇)、次のことも加えましょう。自分は義人であり、すべてのことにおいて「神に仕えている」のだという、誠実な確信です(ヨハネ一六・二)。

(七) それでも、私たちの主は言われます。「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできません」(マタイ五・二〇)。これは厳かで重い宣言です。キリストの名で呼ばれる人はみな、これをまじめに深く考えるべきです。けれども、私たちの義がどのようにして彼らの義にまさりうるかは、あとで問うことにしましょう。その前に、私たちが今、彼らの義に達しているかどうかを調べてみましょう。

第一に、パリサイ人は「ほかの人たちのような」者ではありませんでした(ルカ一八・一一)。外面において、際立って善い人でした。私たちはそうでしょうか。私たちには、少しでも人と違っていようとする勇気があるでしょうか。むしろ、流れのままに泳いでいるのではないでしょうか。人と違って見られたくないばかりに、宗教も道理も共に投げ捨ててしまうことが、たびたびあるのではないでしょうか。救いの道から外れることよりも、流行から外れることのほうを、しばしば恐れているのではないでしょうか。私たちには、潮の流れに逆らい、世に逆らって走り、「人間に従うよりは、神に従う」(使徒五・二九)勇気があるでしょうか。そうでなければ、パリサイ人は、まさに第一歩で私たちを置き去りにします。私たちが再び彼に追いつけるなら、まだよいほうです。

けれども、もっと身近に迫りましょう。私たちは、パリサイ人の第一の申し立てを、神に向かって用いることができるでしょうか。その申し立ては、要するにこうです。「私は何の害も行いません。外に現れる罪の中に生きていません。自分の心にとがめられるようなことは、何もしていません」。あなたは、していないでしょうか。それは確かでしょうか。自分の心にとがめられるような習慣の中に、生きていないでしょうか。あなたは、姦淫をする者ではないかもしれません。言葉においても行いにおいても、不品行ではないかもしれません。けれども、不正な者ではないでしょうか。正義の、またあわれみの、大いなる尺度はこうです。「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりに」しなさい(ルカ六・三一)。あなたは、この基準に従って歩んでいるでしょうか。人からしてほしくないことを、だれかにすることは、決してないでしょうか。いや、あなたは、はなはだしく不正な者ではないでしょうか。暴利をむさぼる者ではないでしょうか。売るときにも買うときにも、だれかの無知や窮乏につけこんで、利益を得てはいないでしょうか。あなたが商売をしているとします。あなたは、売る品の本当の値打ち以上のものを、要求したり受け取ったりしていないでしょうか。物を知らない人から、物を知っている人よりも多く、要求したり受け取ったりしていないでしょうか。小さな子供から、経験を積んだ商人よりも多く、要求したり受け取ったりしていないでしょうか。もしそうしているなら、なぜあなたの心はあなたをとがめないのでしょうか。あなたは、厚かましく暴利をむさぼる者です。差し迫った必要の中にいる人から、品物の通常の値段以上のものを要求していないでしょうか。その人は、あなただけが与えることのできる物を、しかもすぐに、手に入れなければならないのです。もしそうしているなら、これもまた、まぎれもない暴利です。実際、あなたは、パリサイ人の義に達していません。

(八) 第二に、パリサイ人は(その意味を私たちの普通の言い方で表すなら)、あらゆる恵みの手段を用いました。彼は、たびたび、しかも長く、毎週二度断食しました。同じように、あらゆるいけにえに出席しました。公の祈りにも個人の祈りにも、また聖書を読むことにも聞くことにも、たゆみませんでした。あなたは、ここまでしているでしょうか。たびたび、しかも長く、一週に二度、断食しているでしょうか。していないのではないかと思います。少なくとも週に一度、「一年のすべての金曜日に」断食しているでしょうか(祈祷書「前夜祭・断食・節制の日の表」)。(私たちの教会は、すべての会員に、はっきりと断固としてそうするように命じています。これらの日を、前夜祭や四旬節の四十日と同じく、断食または節制の日として守るように命じているのです。)一年に二度は断食しているでしょうか。私たちの中には、これさえ申し立てられない人がいるのではないかと思います。キリスト教のいけにえに出席し、それにあずかる機会を、一つも逃さずにいるでしょうか。自分をクリスチャンと呼びながら、それにまったく無頓着な人が、どれほど多いことでしょうか。何か月も、おそらくは何年も続けて、あのパンを食べず、あの杯から飲まない人が、どれほど多いことでしょうか。あなたは、毎日、聖書を聞くか、あるいは読んで思いめぐらしているでしょうか。大いなる会衆と共に祈りに加わっているでしょうか。機会があれば毎日、なければできるときにはいつでも、加わっているでしょうか。とりわけ、あなたが「覚えて、これを聖と」する日には(出エジプト二〇・八)、加わっているでしょうか。機会をつくり出そうと努めているでしょうか。人々があなたにむかって「われらは主の家に行こう」(詩篇一二二・一)と言うとき、あなたは喜ぶでしょうか。個人の祈りに熱心で、勤勉でしょうか。祈らずに一日を過ごすことは、一日もないでしょうか。むしろ、あなたがたのうちのある人々は、(パリサイ人のように)一日に何時間も祈りに費やすどころではありません。一時間でも十分だ、多すぎるほどだ、と思っているのではないでしょうか。あなたは、隠れた所においでになるあなたの父に(マタイ六・六)祈ることに、一日に、あるいは一週間に、一時間を費やしているでしょうか。いや、一か月に一時間でも費やしているでしょうか。生れてこのかた、一時間続けて個人の祈りをしたことがあるでしょうか。ああ、あわれなクリスチャンよ。そのパリサイ人が、さばきの場にあなたと共に立って、あなたを罪に定めるのではないでしょうか(マタイ一二・四一)。天が地よりも高いように(イザヤ五五・九)、その人の義は、あなたの義よりはるかに高いのです。

(九) 第三に、パリサイ人は、持っているすべてのものから、十分の一をささげ、施しをしました。しかも、なんと惜しみなくしたことでしょう。ですから、彼は、私たちの言い方で言えば、多くの善を行う人でした。私たちは、この点で彼に達しているでしょうか。私たちのうち、だれが彼ほど良きわざに富んでいるでしょうか。私たちのうち、だれが全財産の五分の一を神にささげているでしょうか。元金からも、収益からもです。私たちのうち、だれが、(たとえば)年に百ポンドのうちから二十ポンドを、神と貧しい人々とにささげているでしょうか。五十ポンドのうちから十ポンドを、そして、それより多くても少なくても同じ割合で、ささげているでしょうか。あらゆる恵みの手段を用いること、神のあらゆる定めに出席すること、悪を避けて善を行うこと。これらにおいて、私たちの義は、いつになったら、少なくとも律法学者やパリサイ人の義に等しくなるのでしょうか。

(一〇) もっとも、たとえ私たちの義が彼らの義に等しくなるだけだとしても、それが何の益になるでしょうか。「わたしは言っておきます。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできません」(マタイ五・二〇)。けれども、私たちの義は、どのようにして彼らの義にまさることができるのでしょうか。クリスチャンの義は、どの点で、律法学者やパリサイ人の義にまさっているのでしょうか。クリスチャンの義は、第一に、その範囲において彼らの義にまさっています。パリサイ人の多くは、多くのことで厳格に几帳面でした。それでも、昔の人々の言伝えに(マタイ一五・二)力を得て、同じように重要なほかのことは、しなくてよいことにしていました。たとえば、彼らは第四の戒めを守ることにはきわめて几帳面で、安息日に麦の穂を手でもむことさえしませんでした(ルカ六・一〜二)。けれども、第三の戒めを守ることには、まったく几帳面ではありませんでした。軽々しい誓いや、偽りの誓いさえ、ほとんど問題にしなかったのです。ですから、彼らの義は部分的でした。それに対して、本当のクリスチャンの義は、すべてにわたっています。本当のクリスチャンは、神の律法の一つの部分やいくつかの部分を守って、残りをなおざりにするのではありません。神のすべての戒めを守り、そのすべてを愛し、金よりも宝石よりも尊びます。

(一一) 確かに、律法学者やパリサイ人の中には、すべての戒めを守ろうと努めた人々もいたかもしれません。そうであれば、彼らは、律法の義については、すなわち律法の文字によれば、落ち度のない者でした(ピリピ三・六)。けれども、それでもなお、クリスチャンの義は、律法学者やパリサイ人のこうした義のすべてにまさっています。律法の文字だけでなく霊をも満たすからです。外の従順だけでなく、内の従順によっても満たすからです。この点で、すなわちその霊性において、クリスチャンの義は比べものになりません。これこそ、私たちの主が、この説教の全体を通して、あれほど詳しく証明しておられる点です。彼らの義は外面だけのものでした。クリスチャンの義は、内なる人にあります。パリサイ人は「杯と皿との外側はきよめ」ました(マタイ二三・二五)。クリスチャンは、内側が清いのです。パリサイ人は、良い生活を神にささげようと努めました。クリスチャンは、聖い心をささげようと努めます。前者は、罪の葉を、あるいは実をも、振り落としました。後者は、「斧」を「木の根もとに置」きます(マタイ三・一〇)。クリスチャンは、敬虔の外の形が、どれほど正確であっても、それだけでは満足しないからです。いのちが、御霊が、救いを得させる神の力が(ローマ一・一六)、魂の最も奥で感じられなければ、満足しないのです。

このように、害を行わないこと、善を行うこと、神の定めに出席すること(パリサイ人の義)は、すべて外のものです。それに対して、心の貧しさ、悲しみ、柔和、義に飢えかわくこと、隣人への愛、心の清さ(クリスチャンの義)は、すべて内のものです。平和をつくり出すこと(すなわち善を行うこと)や、義のために苦しむことでさえ、それに伴う祝福を受ける資格を持つのは、限られた場合だけです。それらがこうした内なる心の性質を含むかぎりにおいてです。すなわち、それらがこの心の性質から生れ、これを働かせ、これを強めるかぎりにおいてです。ですから、律法学者やパリサイ人の義は、外のものだけでした。それに対して、クリスチャンの義は、ある意味で、内のものだけである、と言うことができます。クリスチャンの行いも苦しみも、それ自体としては無に等しいからです。それらは、そこから生れてくる気質によってのみ、神の前に評価されるのです。

(一二) ですから、クリスチャンという聖く尊い名を帯びているあなたは、だれであれ、次のことに気をつけなさい。第一に、あなたの義が、律法学者やパリサイ人の義に劣ることのないようにしなさい。「ほかの人たちのような」者であってはなりません(ルカ一八・一一)。勇気をもって、ひとりで立ちなさい。「手本に逆らって、際立って善い者」でありなさい。あなたが少しでも「多数に従」うなら、それは必ず「悪をおこな」うことになります(出エジプト二三・二)。習慣や流行ではなく、道理と宗教を、あなたの導き手としなさい。ほかの人々がどうしているかは、あなたには関係ありません。「ひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべき」なのです(ローマ一四・一二)。確かに、もしほかの人の魂を救うことができるなら、救いなさい。けれども、少なくとも一つの魂を、あなた自身の魂を救いなさい。死の道が広く、多くの人がそこを歩いているからといって(マタイ七・一三)、その道を歩いてはなりません。いや、まさにそのしるしによって、それが死の道だと分かるのです。あなたが今歩いている道は、広く、人通りの多い、流行の道でしょうか。それなら、その道は間違いなく滅びに至ります。ああ、付き合いで滅びてはなりません。悪をやめなさい。蛇の前から逃げるように、罪から逃げなさい。少なくとも、害を行ってはなりません。「罪を犯す者は、悪魔から出た者です」(第一ヨハネ三・八)。あなたは、そのような者の中に見いだされてはなりません。外の罪については、確かに神の恵みは、今でもあなたに対して十分です(第二コリント一二・九)。少なくとも、この点では、「神に対しまた人に対して、良心に責められることのないように」努めなさい(使徒二四・一六)。

第二に、神の定めについて、あなたの義が彼らの義に劣らないようにしなさい。あなたの仕事や体力が、一週に二度断食することを許さないとしても、自分の魂には誠実に向き合いなさい。そして、体力が許すかぎりたびたび断食しなさい。祈りの中で魂を注ぎ出す機会を、公のものも個人のものも、一つも逃してはなりません。あのパンを食べ、あの杯から飲む機会を、一つもなおざりにしてはなりません。それは、キリストのからだと血とにあずかることなのです(第一コリント一〇・一六)。熱心に聖書を調べなさい。できるかぎり読み、昼も夜もそれを思いなさい(詩篇一・二)。「キリストの使者」(第二コリント五・二〇)、すなわち「神の奥義を管理している者」(第一コリント四・一)が告げる、「和解の福音」(第二コリント五・一九)を聞く機会を、喜んですべてとらえなさい。あらゆる恵みの手段を用い、神のあらゆる定めに絶えず注意深く出席しなさい。そのようにして、「律法学者やパリサイ人の義」に(マタイ五・二〇)恥じない生き方をしなさい(少なくとも、それを越えられるようになるまでは)。

第三に、善を行うことにおいて、パリサイ人に劣ってはなりません。持っているすべてのものから、施しをしなさい。だれかが飢えているでしょうか。食べさせなさい。かわいているでしょうか。飲ませなさい。裸でしょうか。着物を着せなさい(マタイ二五・三五〜三六)。あなたが世の富を持っているなら(第一ヨハネ三・一七)、あなたの善行を、わずかな割合に限ってはなりません。力の限りあわれみ深くありなさい。このパリサイ人と同じほどに、そうしてはいけない理由があるでしょうか。今、時のあるうちに、「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつく」りなさい(ルカ一六・九)。そうすれば、あなたが絶えるとき、彼らはあなたを「永遠のすまいに迎えてくれる」でしょう(ルカ一六・九)。あなたが絶えるときとは、この地上の幕屋がこわれるときのことです(第二コリント五・一)。

(一三) けれども、ここでとどまってはなりません。あなたの「義が律法学者やパリサイ人の義にまさ」るようにしなさい(マタイ五・二〇)。「律法をことごとく守」りながら、「その一つの点にでも落ち度があ」る(ヤコブ二・一〇)、という状態で満足してはなりません。神のすべての戒めを堅く守りなさい。そして、「すべての偽りの道を」心から「憎」みなさい(詩篇一一九・一二八)。神が命じられたことは、何でもすべて行いなさい。しかも、力をつくして行いなさい。あなたは、キリストから離れては何一つできません(ヨハネ一五・五)。けれども、あなたを強くしてくださるキリストによって、何事でもすることができるのです(ピリピ四・一三)。

何よりも、清さと霊性において、あなたの義が彼らの義にまさるようにしなさい。どれほど正確な宗教の形も、あなたにとって何でしょうか。どれほど完全な外側の義も、何でしょうか。それらすべてよりも、もっと高く、もっと深く進みなさい。あなたの宗教を、心の宗教としなさい。心の貧しい者でありなさい。自分の目に、小さく、卑しく、取るに足りない、つまらない者でありなさい。あなたの「主キリスト・イエスにおける神の愛」に(ローマ八・三九)驚き、ちりにまで低くされなさい。まじめでありなさい。あなたも、すべての人の子らも、大きな淵の縁に立っています(ルカ一六・二六)。今にも、とこしえの栄光の中へか、とこしえの燃える火の中へか(イザヤ三三・一四)、落ち込もうとしているのです。このことを最も深く確信しなさい。そして、あなたの思いと言葉と行いの流れ全体が、その確信から流れ出るようにしなさい。柔和でありなさい。あなたの魂を、すべての人に対する温和と優しさと忍耐と寛容で満たしなさい。それと同時に、あなたのうちにあるすべてのものが、神を、いける神を慕ってかわくようにしなさい(詩篇四二・二)。神のみかたちに似た者として目ざめ、それに満ち足りることを、切に願うようにしなさい。神を愛し、すべての人を愛する者でありなさい。この心で、すべてのことを行い、すべてのことを忍びなさい。こうして、「律法学者やパリサイ人の義にまさ」りなさい(マタイ五・二〇)。そうすれば、あなたは「天国で大いなる者と呼ばれる」でしょう(マタイ五・一九)。