説教二十四 山上の説教(四)
「あなたがたは、地の塩です。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされるでしょうか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけです。あなたがたは、世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいません。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのです。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ五・一三〜一六)
(一) 聖性の美しさ、すなわち、神のかたちに従って新しくされた(コロサイ三・一〇)、あの心の内なる人の美しさがあります。それは、神が開いてくださったすべての目を、すなわち、照されたすべての理解力を、引きつけずにはいません。柔和で、へりくだった、愛に満ちた霊という飾りは(第一ペテロ三・四)、少なくとも是認を受けるでしょう。霊的な善悪をいくらかでも見分けることのできる人なら、だれからもです。浮わついた、考えのない世は、やみにおおわれています。人々がそのやみから抜け出し始めると、そのときから、彼らはこう悟らずにはいられません。私たちを造られた方の似姿にこのように変えられるのは、なんと望ましいことだろう、と。この内なる宗教には、神のかたちがはっきりと刻まれています。ですから、その神聖な起源を疑うことができるとすれば、その魂は、すっかり血肉に浸りきっているに違いありません。私たちは、この宗教についても、神の御子ご自身について言うのと同じように言うことができます。副次的な意味でではありますが、それは「神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿」なのです(ヘブル一・三)。原語は、アパウガスマ・テース・ドクセース・アウトゥー(ἀπαύγασμα τῆς δόξης αὐτοῦ)です。すなわち、「神の」永遠の「栄光の輝き出たもの」です(ヘブル一・三)。それでいて、その輝きは和らげられているので、人の子らでさえ、ここに神を見て、なお生きていることができます(出エジプト三三・二〇)。また、原語は、カラクテール・テース・ヒュポスタセオース・アウトゥー(χαρακτὴρ τῆς ὑποστάσεως αὐτοῦ)です。すなわち、「神の本質の刻印、押された印、生きた写し」です(ヘブル一・三)。神は、美と愛の泉であり、あらゆる卓越と完全の本源です。
(二) ですから、もし宗教がこれ以上に及ばないなら、彼らは宗教について、何の疑いもいだかないでしょう。魂の熱意をすべて傾けてそれを追い求めることにも、何の異論もないでしょう。けれども、彼らはこう言います。「なぜ、宗教にほかの事柄がまとわりついているのか。行うことや忍ぶことを、なぜ宗教に背負わせる必要があるのか。そういうものこそ、魂の活力をくじき、魂を再び地に沈ませるのだ。『愛を追い求め』(第一コリント一四・一)、愛の翼に乗って舞い上がるだけで、十分ではないか。霊である神を(ヨハネ四・二四)、私たちの心の霊をもって礼拝すれば、それで足りるのではないか。外の事柄にわずらわされず、それについて考えることさえしなくてよいのではないか。思いのすべてを、高く天的な観想で満たすほうが、よいのではないか。外のことに少しもかかずらわず、ただ心の中で神と交わるほうが、よいのではないか」。
(三) 多くの著名な人々が、このように語ってきました。彼らは私たちに、「外のあらゆる行いをやめる」ように勧めました。世から完全に退き、からだを後に残すように勧めたのです。感覚でとらえられるすべてのものから、自分を引き離すように勧めました。外の宗教にはまったく心を向けず、すべての徳を意志の中で働かせるように勧めました。それが、はるかにすぐれた道であり、魂をいっそう完成させ、神にもいっそう喜ばれる道だというのです。
(四) この、下からの知恵の傑作について、だれかが私たちの主に告げる必要はありませんでした。これは、サタンが主のまっすぐな道を曲げるために(使徒一三・一〇)用いてきたあらゆる策略の中で、最も見ばえのよいものです。ああ、サタンは折々に、なんという道具を見いだして、この務めに用いてきたことでしょう。その道具に、この地獄の大がかりな兵器を振るわせ、神の最も重要な真理のいくつかに逆らわせてきたのです。それは、「できれば、選民をも惑わそうとする」人々です(マタイ二四・二四)。信仰と愛の人々をさえ、惑わそうとするのです。そうです、彼らは、一時は、選民の少なからぬ数を惑わし、連れ去ってきました。その人々は、どの時代にも、金めっきのわなに陥り、わずかに歯の皮をもってのがれたのです(ヨブ一九・二〇)。
(五) けれども、私たちの主は、ご自分の務めに何か欠けたところがおありだったでしょうか。この心地よい惑わしに対して、私たちを十分に守ってはくださらなかったでしょうか。「光の天使に擬装」したサタンに対して(第二コリント一一・一四)、ここで、私たちに堅固なよろいを着せてはくださらなかったでしょうか。そうです、まことに守ってくださいました。主はここで、ご自分が描いたばかりの、行い、忍ぶ宗教を、最もはっきりと、最も力強く弁護しておられます。行うことと忍ぶことについて語られたあとに、主がすぐに付け加えておられる言葉ほど、十分で明白なものがあるでしょうか。「あなたがたは、地の塩です。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされるでしょうか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけです。あなたがたは、世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいません。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのです。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ五・一三〜一六)。
これらの大切な言葉を十分に説明し、強く勧めるために、私は次のことを示したいと思います。第一に、キリスト教は本質的に、人と交わる宗教であること。これをひとりきりの宗教に変えるのは、これを滅ぼすことであること。第二に、この宗教を隠すことはできず、また隠すことは、この宗教の創始者の意図にまったく反すること。第三に、いくつかの反論に答えます。そして、実践への適用をもって全体を結びます。
【一】 キリスト教は人と交わる宗教である
(一) 第一に、キリスト教が本質的に人と交わる宗教であることを示したいと思います。これをひとりきりの宗教に変えるのは、実にこれを滅ぼすことなのです。
キリスト教と言うとき、私は、イエス・キリストがここで人に啓示された、神を礼拝する方法のことを言っています。これは本質的に人と交わる宗教だ、と言うとき、私は次のような意味で言っています。人との交わりがなければ、すなわち、ほかの人々と共に生き、語り合うことがなければ、この宗教は、うまく存続できないだけではありません。まったく存続できないのです。これを示すにあたって、私は、目の前にあるこの説教そのものから出てくる考察だけに限ります。そして、これが示されるなら、この宗教をひとりきりの宗教に変えるのは、疑いもなく、これを滅ぼすことになります。
だからといって、人との交わりの中に、独りでいる時間や、退いて静まる時間を織り交ぜることを、決して責めることはできません。それは許されるだけでなく、有益なことです。いや、日々の経験が示すとおり、すでに本当のクリスチャンである人にも、そうなりたいと願う人にも、それは必要なことです。まる一日、絶えず人々と交わって過ごしながら、魂に損失を受けず、神の聖霊をいくらかでも悲しませずにいることは(エペソ四・三〇)、まずありえません。私たちは、毎日、少なくとも朝と夕には、世から退く必要があります。神と語り、隠れた所においでになる私たちの父と(マタイ六・六)、もっと自由に交わるためです。また、経験のある人なら、信仰のためにもっと長い期間退いて静まることさえ、責めることはできません。ただし、それが、神の摂理が私たちを置かれたこの世の仕事を怠ることにならないかぎりです。
(二) けれども、そのように退くことが、私たちの時間をすべて飲み込んではなりません。そうなれば、まことの宗教を進めるのではなく、滅ぼすことになるでしょう。私たちの主が先の言葉で描かれた宗教は、人との交わりがなければ存続できません。すなわち、私たちがほかの人々と共に生き、語り合うことがなければ、存続できないのです。そのことは、次のことから明らかです。この宗教の最も本質的な部分のいくつかは、私たちが世と交わりを持たなければ、そもそも成り立たないのです。
(三) たとえば、柔和ほどキリスト教にとって本質的な心の性質はありません。ところで、柔和は、神への服従や、痛みと病気の中での忍耐を意味します。その意味でなら、荒野でも、隠者の小部屋でも、まったくの孤独の中でも、存続できるかもしれません。けれども、柔和は、温和と優しさと寛容をも意味します(これも、同じように必ず意味するのです)。その意味での柔和は、ほかの人々との交わりがなければ、決して存在できません。天の下のどこにも、居場所がないのです。ですから、これをひとりきりの徳に変えようとするのは、これを地の表から滅ぼすことです。
(四) まことのキリスト教のもう一つの必要な部分は、平和をつくり出すこと、すなわち善を行うことです。これが、イエス・キリストの宗教のほかのどの部分とも同じように本質的であることを示すのに、これ以上強い論拠はありえません(ですから、ほかの論拠を挙げるのはばかげているでしょう)。それは、主がご自分の宗教の根本について定められた、もとの設計図の中に、これがここで組み込まれている、ということです。ですから、これを退けるのは、私たちの偉大な主人の権威に対する大胆な侮辱です。あわれみ深さや心の清さや、主の定められたほかのどの部分を退けるのと、同じ侮辱なのです。ところが、私たちを荒野へと招く人々はみな、明らかにこれを退けています。彼らは、キリストにある幼子にも、若者にも、父たちにも、まったくの孤独を勧めるのです。いったい、だれが断言するでしょうか。ひとりきりのクリスチャンが(そう呼ばれてはいますが、それはほとんど言葉の矛盾です)、あわれみ深い人でありうる、と。すなわち、あらゆる機会をとらえて、すべての人にあらゆる善を行う人でありうる、と。イエス・キリストの宗教のこの根本的な部分は、人との交わりがなければ、決して存続できません。私たちがほかの人々と共に生き、語り合うことがなければ、存続できないのです。これほど明白なことがあるでしょうか。
(五) 「それでも、善い人々とだけ交わるほうが、得策ではないか」と、当然尋ねる人もいるでしょう。「柔和であわれみ深く、心も生活も聖いと分かっている人々とだけ、交わるほうがよいのではないか。それとは反対の性格の人々もいる。私たちの主イエス・キリストの福音に従わず、おそらくは信じてもいない人々だ(第二テサロニケ一・八)。そういう人々とは、どんな付き合いも交わりも控えるほうが、得策ではないか。コリントのクリスチャンたちへのパウロの勧めも、これを支持しているように見える。『わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いた』(第一コリント五・九)」。確かに、そのような人々と、またどんな不義を行う者とも、特別に親しく交際するのは勧められません。固い友情を結ぶほどに交際するのも、勧められません。そのような人と親密な関係を結んだり、続けたりするのは、クリスチャンにとって決して得策ではありません。それは、必ずその人を、多くの危険とわなにさらすことになります。そこから救い出されるという、理にかなった望みは持てないのです。
けれども、使徒は、神を知らない人々とでさえ、交わりを全然持ってはならない、と禁じているのではありません。使徒は言います。「もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになります」(第一コリント五・一〇)。使徒が、彼らにそうするよう勧めることは、決してありえませんでした。けれども、使徒はこう付け加えます。「兄弟と呼ばれる人で」、すなわちクリスチャンだと公言している人で、「不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば」(第一コリント五・一一)、「そんな人と交際をしてはいけない、食事を共にしてもいけない」と書いたのです(第一コリント五・一一)。これは当然、その人とのあらゆる親しさ、あらゆる親密な付き合いを断つことを意味します。けれども、使徒はほかの所でこう言っています。「しかし、彼を敵のように思わないで、兄弟として訓戒しなさい」(第二テサロニケ三・一五)。これは、このような場合でさえ、その人とのあらゆる交わりを捨ててはならないことを、はっきり示しています。ですから、ここには、悪い人々からでさえ完全に離れよ、という勧めはありません。そうです、まさにこの言葉は、それとはまったく反対のことを教えているのです。
(六) 私たちの主の言葉は、なおさらそうです。主は、世とのあらゆる交わりを断つように指示されるどころではありません。主の描かれるキリスト教によれば、世との交わりがなければ、私たちはまったくクリスチャンでありえないのです。次のことを示すのは、たやすいでしょう。主が御国への道として描かれたあらゆる気質を十分に発揮するには、不信心な者や聖くない人々とさえ、ある程度の交わりがぜひとも必要です。それは、心の貧しさや悲しみを完全に働かせるためにも、欠かすことができません。ここで、すなわちイエス・キリストのまことの宗教の中で、位置を占めているほかのあらゆる心の性質についても、同じです。そうです、それらのいくつかにとっては、そもそも存在するために、それが必要なのです。たとえば、あの柔和がそうです。柔和は、「目には目を、歯には歯を」と要求するのではなく(マタイ五・三八)、悪に「手向か」いません。むしろ、「右の頬を打」たれるなら、「ほかの頬をも向け」させます(マタイ五・三九)。また、あのあわれみ深さがそうです。それによって私たちは、「敵を愛し」(マタイ五・四四)、「のろう者を祝福し」、「憎む者に親切に」し(ルカ六・二七〜二八)、「はずかしめる者」や「迫害する者のために祈」ります(ルカ六・二八、マタイ五・四四)。さらに、義のために苦しむ(第一ペテロ三・一四)中で働く、あの愛とあらゆる聖い気質とが一つに結び合わさったものがそうです。明らかに、もし私たちが本当のクリスチャン以外のだれとも交わらないなら、これらはみな、存在しえないでしょう。
(七) 実際、もし私たちが罪人たちから完全に離れてしまうなら、どうしてあの呼び名にふさわしくありうるでしょうか。主がまさにこの言葉で私たちに与えておられる呼び名です。「あなたがたは」(クリスチャンたちよ、へりくだって、まじめで、柔和なあなたがたよ。義に飢え、神と人とを愛し、すべての人に善を行い、そのために悪を忍ぶあなたがたよ。そのあなたがたは)、「地の塩です」(マタイ五・一三)。自分のまわりにあるものすべてに味をつけることこそ、あなたがたの本性です。あなたがたのうちにある神聖な味の本性は、あなたがたが触れるどんなものにも広がることです。四方に、あなたがたが共にいるすべての人々に、行きわたることです。神の摂理が、あなたがたをこのようにほかの人々と混ぜ合わせられたのは、大きな理由があってのことです。あなたがたが神から受けた恵みが、何であれ、あなたがたを通してほかの人々に伝えられるためです。あなたがたのあらゆる聖い気質と言葉と行いが、ほかの人々にも影響を及ぼすためです。この方法によって、世にある腐敗は、ある程度くいとめられるでしょう。そして、少なくともその小さな一部は、全体に広がる感染から救われ、神の前に聖く清いものとされるでしょう。
(八) 主は続いて、受けた宗教を人に分け与えない人々の、絶望的な状態を示されます。それは、私たちが、できるかぎりすべてのものに、あらゆる聖い天的な気質で味をつけようと、いっそう熱心に励むためです。実際、その宗教が自分の心にとどまっているかぎり、それを分け与えずにいることは決してできないのです。「もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされるでしょうか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけです」(マタイ五・一三)。聖く、天に思いを向け、そのために良きわざに熱心であった(テトス二・一四)あなたがたが、もはや自分のうちにその味を持たないとします。そのために、もはやほかの人々に味をつけないとします。気が抜け、味がなくなり、死んだようになって、自分の魂には無頓着になり、ほかの人々の魂には役に立たなくなったとします。そうなら、あなたがたは、何によって塩味をつけられるのでしょうか。どうして元に戻れるでしょうか。どんな助けがあるでしょうか。どんな望みがあるでしょうか。味のなくなった塩が、その味を取りもどせるでしょうか。いいえ、できません。「もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて」、ちまたの泥のように(イザヤ一〇・六)、「人々にふみつけられるだけです」(マタイ五・一三)。限りない恥辱に沈められるだけなのです(ダニエル一二・二)。もしあなたがたが、一度も主を知らなかったなら、望みもあったかもしれません。「キリストのうちに」見いだされたことが一度もなかったなら(ピリピ三・九)、です。けれども、主がここで語られたこととちょうど並行する、主のあの厳かな宣言に、あなたがたは今、何と言うことができるでしょうか。「わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞ」かれます(ヨハネ一五・二)。「人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになります」(ヨハネ一五・五)。「人がわたしにつながっていないならば」、すなわち実を結ばないならば、「枝のように外に投げすてられて枯れます。人々はそれをかき集め」、もう一度植えるためではなく、「火に投げ入れ」るのです(ヨハネ一五・六)。
(九) 神の良きみ言葉を一度も味わったことのない人々に対しては(ヘブル六・五)、神は確かに、慈愛とあわれみとに富んだ方です(ヤコブ五・一一)。けれども、正義が行われる人々もいます。主が恵み深い方であることを味わい知りながら(第一ペテロ二・三)、そののち、かつて「自分に授けられた聖なる戒め」から離れ去った人々です(第二ペテロ二・二一)。「いったん、光を受け」た人々がいます(ヘブル六・四)。すなわち、イエス・キリストの顔に輝く神の栄光の知識を与えるために、神がかつてその心を照してくださった人々です(第二コリント四・六)。彼らは、キリストの血によるあがない、すなわち罪の赦しという(エペソ一・七)、「天よりの賜物を味わい」ました(ヘブル六・四)。「聖霊にあずかる者となり」ました(ヘブル六・四)。へりくだりと柔和とに、また、与えられた聖霊によって心に注がれた、神と人とへの愛に(ローマ五・五)、あずかったのです。そして、「堕落した」のです(ヘブル六・六)。原語はカイ・パラペソンタス(καὶ παραπεσόντας)です。ここにあるのは仮定ではなく、事実の率直な宣言です。こういう人々が、「ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能です」(ヘブル六・六)。彼らは、「またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにする」からです(ヘブル六・六)。
けれども、だれもこの恐るべき言葉を誤解しないように、次のことに注意深く目を留めるべきです。一、ここで語られているのはだれか、ということです。それは、かつてこのように「光を受け」た人々であり(ヘブル六・四)、その人々だけです。あの「天よりの賜物を味わい」、このように「聖霊にあずかる者とな」った人々だけです(ヘブル六・四)。ですから、これらのことを経験したことのない人はみな、この聖句とはまったく関係がありません。二、ここで語られている堕落とは何か、ということです。それは、絶対的な、全面的な背教です。信者は、倒れても、堕落しないことがありえます。倒れても、また起き上がることがありえます。たとえ倒れて、罪に陥ることさえあっても、その状態は、恐ろしいものではあっても、絶望的ではありません。なぜなら、「父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられ」るからです(第一ヨハネ二・一)。「彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物です」(第一ヨハネ二・二)。けれども、何よりも、「罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする」ことのないように(ヘブル三・一三)、気をつけなければなりません。ますます低く沈んでいき、ついには完全に堕落して、ききめのなくなった塩のようになることがないように(マタイ五・一三)、気をつけなければなりません。もし私たちが、体験による「真理の知識を受けたのちにも」、このようにことさらに罪を犯すなら、「罪のためのいけにえは、もはやあり得ません」(ヘブル一〇・二六)。ただ、「逆らう者たちを焼きつくす激しい火」を、「恐れつつ待つことだけがあります」(ヘブル一〇・二七)。
【二】 この宗教を隠すことはできない
(一) 「けれども、人々から完全に離れてはならないとしよう。神が私たちの心に造り出してくださった宗教で、人々に味をつけるべきだ、ということも認めよう。それでも、それを人知れず行ってはいけないのか。ひそかに、ほとんど気づかれない仕方で、それをほかの人々に伝えてはいけないのか。いつ、どのようにそれがなされたのか、ほとんどだれにも分からないように。ちょうど塩が、少しも音を立てず、外から少しも気づかれずに、味をつけるものに自分の味を伝えるように。もしそうなら、私たちは、世から出て行かなくても、世の中に隠れていることができる。その程度には、自分の宗教を自分の中にしまっておくことができる。そうすれば、助けることのできない人々の気を害することもない」。
(二) 血肉から出たこのもっともらしい理屈も、私たちの主はよくご存じでした。そして主は、これから考える言葉の中で、それに十分に答えておられます。その言葉を説明しながら、私は、第二に示すと予告したことを示したいと思います。まことの宗教が私たちの心にとどまっているかぎり、それを隠すことはできません。また、隠すことは、その偉大な創始者の意図にまったく反するのです。
まず第一に、イエス・キリストの宗教を持っている人はだれも、それを隠すことはできません。私たちの主は、二重のたとえによって、このことを反論の余地なく明らかにしておられます。「あなたがたは、世の光です。山の上にある町は隠れることができません」(マタイ五・一四)。クリスチャンであるあなたがたは、気質においても行いにおいても、「世の光です」(マタイ五・一四)。あなたがたの聖性は、あなたがたを、中天の太陽のように目立たせます。あなたがたは、世から出て行くことができないのと同じように、すべての人の目に触れずに世にとどまることもできません。あなたがたは、人々から逃げてはなりません。そして、人々の間にいるかぎり、自分のへりくだりと柔和を隠すことはできません。天の父が完全であられるように完全な者となることを(マタイ五・四八)目ざさせる、ほかの心の性質も、隠すことはできません。愛は、光と同じように、隠すことができません。とりわけ、愛が行いとなって輝き出るとき、あなたがたが愛の労苦に(第一テサロニケ一・三)、あらゆる種類の善行に励むときは、なおさらです。クリスチャンを隠そうと思うのは、町を隠そうと思うのと同じです。そうです、神と人とを愛する、聖い、熱心な、活動的な人を隠すのは、山の上にある町を隠すのと同じです。
(三) 確かに、光よりもやみの方を愛する人々がいます。おこないが悪いからです(ヨハネ三・一九)。その人々は、あなたがたのうちにある光はやみだ、と証明しようとして、あらゆる骨折りをするでしょう。彼らは、あなたがたのうちにある善について、偽って悪口を、様々の悪口を言うでしょう(マタイ五・一一)。あなたがたの思いから最も遠いことを、あなたがたの罪として責めるでしょう。あなたがたのありのままの姿とすべての行いとは、まったく逆のことをです。そして、あなたがたは耐え忍んで善を行い(ローマ二・七)、主のためにすべてを柔和に忍びます。迫害のただ中で、穏やかにへりくだって喜びます。善をもって悪に勝とうと(ローマ一二・二一)、たゆまず労苦します。それらのことが、あなたがたを、以前よりもいっそう人目につく、目立つ者にするでしょう。
(四) 自分の宗教を捨てないかぎり、それが人に見られないようにすることは、それほど不可能なのです。光を消さないかぎり、光を隠そうと考えるのは、それほどむなしいのです。確かに、ひそかな、人目につかない宗教は、イエス・キリストの宗教ではありえません。隠すことのできる宗教は、どんなものであれ、キリスト教ではありません。もしクリスチャンを隠すことができるなら、クリスチャンは、山の上にある町にたとえられることはありえないでしょう。世の光に、すなわち、天から輝き、下の全世界から見られる太陽に、たとえられることもありえないでしょう。ですから、神によって心の深みまで新たにされた人は(エペソ四・二三)、その光を隠そうという思いを、決して心にいだいてはなりません。自分の宗教を自分の中にしまっておこうという思いも、いだいてはなりません。まして、まことのキリスト教を隠すことは、不可能であるだけではありません。その偉大な創始者の意図にまったく反することでもあるのです。
(五) このことは、次の言葉からはっきり分かります。「また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいません」(マタイ五・一五)。これは、こう言っているのと同じです。人があかりをつけるのは、それをおおって隠すためではない。それと同じように、神が、ご自分の栄光ある知識と愛とで魂を照されるのは、それをおおい隠させるためではない。偽りの思慮によっても、恥によっても、わざとらしい謙そんによっても(コロサイ二・一八)、おおい隠させるためではない。荒野であれ、世の中であれ、人々を避けることによってであれ、人々と交わりながらであれ、それを隠させるためではない、と。「むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのです」(マタイ五・一五)。同じように、神の意図は、すべてのクリスチャンが、だれからもよく見える所に置かれることです。周りのすべての人を照し、イエス・キリストの宗教を目に見える形で表すためです。
(六) このように、神は、どの時代にも、教えによってだけでなく、模範によっても、世に語ってこられました。福音の声が広まったどの国民の中でも、神は「ご自分のことをあかししないでおられたわけではありません」(使徒一四・一七)。言葉だけでなく生活によっても、神の真理をあかしする少数の人々を、残しておかれたのです。この人々は、「暗やみに輝くともしび」のようでした(第二ペテロ一・一九)。そして、折々に、ある人々を照し、残りの者を保つための手段となってきました。主のものとして一代に数えられる小さな種を、保つ手段となってきたのです。彼らは、少数のあわれな羊を世のやみから連れ出し、その足を平和の道へ導いてきました(ルカ一・七九)。
(七) 聖書も事物の道理も、これほど明白に、はっきりと語っています。ですから、反対の側からはたいしたことは言えないだろう、と思う人もいるでしょう。少なくとも、もっともらしいことは何も言えないだろう、と。けれども、そう思う人は、サタンの深みを(黙示録二・二四)ほとんど知らないのです。聖書と理性がこれほど語ったあとでも、ひとりきりの宗教を支持する口実は、きわめてもっともらしいのです。クリスチャンが世から出て行くこと、少なくとも世の中に身を隠すことを支持する口実は、そうなのです。ですから、そのわなを見抜くには神のあらゆる知恵が、そこからのがれるには神のあらゆる力が必要です。人と交わり、隠れず、活動するクリスチャンであることに対して持ち出されてきた反論は、それほど多く、強いのです。
【三】 反論に答える
(一) これらの反論に答えることが、私の予告した第三のことでした。まず第一に、しばしばこう反論されてきました。宗教は外のことにあるのではなく、心に、魂の最も奥にある。宗教とは、魂と神との結合であり、人の魂のうちにある神のいのちである。外側だけの宗教には何の値打ちもない。神は、外の奉仕である「燔祭」を「喜ばれない」からだ(詩篇五一・一六)。清く聖い心こそ、神が「かろしめられ」ない「いけにえ」なのだ(詩篇五一・一七)、と。
私は答えます。宗教の根が心に、魂の最も奥にあることは、まったくそのとおりです。それが魂と神との結合であり、人の魂のうちにある神のいのちであることも、そのとおりです。けれども、この根が本当に心にあるなら、枝を出さずにはいません。その枝とは、外の従順の様々な実例です。それらは根と同じ性質にあずかっています。ですから、それらは宗教のしるしや表れであるだけでなく、宗教の実質的な部分なのです。
また、心に根を持たない、外側だけの宗教に何の値打ちもないことも、そのとおりです。神がユダヤ人の燔祭を喜ばれないように、そのような外の奉仕も喜ばれないことも、そのとおりです。清く聖い心が、神のいつも喜ばれるいけにえであることも、そのとおりです。けれども、神は、心から出てくる外の奉仕も、すべて喜ばれます。公のものであれ個人のものであれ、私たちの祈りといういけにえを、また、賛美と感謝といういけにえを、喜ばれます。へりくだって神にささげられ、すべて神の栄光のために用いられる、私たちの財産といういけにえを、喜ばれます。そして、私たちのからだといういけにえを喜ばれます。神はそれを特別にご自分のものとして求めておられます。使徒も、「神のあわれみによって」、からだを「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として」神に「ささげ」るように、私たちに勧めています(ローマ一二・一)。
(二) これと密接に関係する第二の反論は、こうです。愛がすべてである。愛は「律法を完成するもの」であり(ローマ一三・一〇)、神のあらゆる戒めが「目標としている」ものである(第一テモテ一・五)。私たちが行うことも忍ぶことも、もし愛がなければ、いっさいは無益である(第一コリント一三・三)。だからこそ使徒は、「愛を追い求めなさい」と命じ(第一コリント一四・一)、これを「最もすぐれた道」と呼んでいるのだ(第一コリント一二・三一)、と。
私は答えます。偽りのない信仰から出てくる(第一テモテ一・五)、神と人とへの愛がすべてであり、律法を完成するものであり、神のあらゆる戒めの目標であることは、認めます。これがなければ、何を行っても、何を忍んでも、無益であることは、そのとおりです。けれども、だからといって、愛が、信仰や良きわざに取って代わるような意味ですべてである、ということにはなりません。愛は「律法を完成するもの」です(ローマ一三・一〇)。それは、私たちを律法から解き放つからではありません。律法に従うように私たちを駆り立てるからです。愛が、戒めが「目標としている」ものであるのは(第一テモテ一・五)、あらゆる戒めが愛へと導き、愛に集まるからです。愛なしに何を行っても、何を忍んでも、無益であることは、認めます。けれども同時に、愛をもって行い、忍ぶことは何であれ、決してその報いからもれることはありません(マタイ一〇・四二)。それがただ、キリストのためにそしりを受けることであっても、そうです。キリストの名のゆえに冷たい水一杯を飲ませることであっても、そうです。
(三) 「けれども、使徒は、『愛を追い求めなさい』と命じているではないか(第一コリント一四・一)。それを『最もすぐれた道』と呼んでいるではないか(第一コリント一二・三一)」。確かに使徒は、「愛を追い求めなさい」と命じています(第一コリント一四・一)。けれども、愛だけを追い求めよ、と命じているのではありません。使徒の言葉は、こうです。「愛を追い求めなさい。また、霊の賜物を」「熱心に求めなさい」(第一コリント一四・一)。そうです、「愛を追い求めなさい」(第一コリント一四・一)。そして、兄弟たちのために費用を使い、自分自身をも使いつくすことを願いなさい(第二コリント一二・一五)。「愛を追い求めなさい」(第一コリント一四・一)。そして、機会のあるごとに、だれに対しても善を行いなさい(ガラテヤ六・一〇)。
また、この愛の道を「最もすぐれた道」と呼んでいる、その同じ節で(第一コリント一二・三一)、使徒はコリント人に、愛のほかの賜物をも求めるように命じています。そうです、熱心に求めるように命じているのです。使徒は言います。「更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示しましょう」(第一コリント一二・三一)。何と比べて、すぐれているのでしょうか。前の節で挙げられている、いやしの賜物や、異言を語ることや、異言を解くことよりもです(第一コリント一二・三〇)。けれども、従順の道よりすぐれている、というのではありません。使徒は、従順の道について語っているのではありません。外の宗教について語っているのでもまったくありません。ですから、この聖句は、いま問題になっていることからは、まったく外れているのです。
けれども、仮に使徒が、内の宗教と同じく外の宗教についても語っていて、両者を比べていたとします。その比較の中で、内の宗教のほうをきわめて強く優先していたとします。(当然そうしてよいのですが)愛に満ちた心を、どんな外のわざよりも優先していたとします。それでも、そのどちらかを捨ててよい、ということにはならないでしょう。いいえ、神は、世の初めから、この二つを合わせてこられました。神が合わせられたものを、人は離してはなりません(マタイ一九・六)。
(四) 「けれども、『神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである』(ヨハネ四・二四)。それで十分ではないか。いや、私たちは、そのために心の力のすべてを用いるべきではないか。外の事柄に心を配ることは、魂の足かせとなって、聖い観想の中に高く舞い上がれなくするのではないか。思いの活力をくじくのではないか。心をわずらわせ、乱す傾向が、もともとあるのではないか。それに対してパウロは、私たちが『思い煩わない』ようにし(第一コリント七・三二)、『余念なく主に奉仕』するように(第一コリント七・三五)望んでいるのだ」。
私は答えます。「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきです」(ヨハネ四・二四)。そうです、それで十分です。私たちは、そのために心の力のすべてを用いるべきです。けれども、それなら尋ねたいと思います。霊である神を、霊とまこととをもって礼拝するとは、どういうことでしょうか。それは、私たちの霊をもって神を礼拝することです。霊のほかにはできない仕方で、神を礼拝することです。それは、神を、賢く、正しく、聖い方として信じることです。目が清く、不義を見られない方として(ハバクク一・一三)信じることです。しかもなお、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、悪と、とがと、罪とを赦す方として(出エジプト三四・六〜七)信じることです。私たちの罪をことごとくご自分の後に捨て(イザヤ三八・一七)、愛する御子にあって私たちを受け入れてくださる方として信じることです。それは、心をつくし、思いをつくし、精神をつくし、力をつくして(マルコ一二・三〇)、神を愛し、神を喜び、神を慕い求めることです。神がきよくあられるように、自らをきよくして(第一ヨハネ三・三)、愛する神にならうことです。そして、私たちの愛し、信じている神に、思いにおいても、言葉においても、行いにおいても従うことです。したがって、霊とまこととをもって神を礼拝することの一つの枝は、神の外の戒めを守ることです。ですから、霊をもってだけでなく、からだをもっても神の栄光をあらわすこと(第一コリント六・二〇)。心を神に引き上げながら、外の仕事をやり遂げること。日々の仕事を神へのいけにえとすること。神の栄光のために、売り買いし、飲み食いすること(第一コリント一〇・三一)。これは、荒野で神に祈るのと同じように、霊とまこととをもって神を礼拝することなのです。
(五) けれども、そうであるなら、観想は、霊とまこととをもって神を礼拝する一つの方法にすぎません。ですから、観想にすっかり身をゆだねてしまうのは、霊的な礼拝の多くの枝を滅ぼすことになるでしょう。その枝はどれも、同じように神に喜ばれ、同じように魂に益をもたらすもので、害になるものではありません。なぜなら、神の摂理が私たちを召された外の事柄に心を配っても、クリスチャンの足かせにはならないからです。見えないかたをいつも見ていることの(ヘブル一一・二七)、少しの妨げにもなりません。そうなると考えるのは、大きな間違いです。外の事柄に心を配っても、その人の思いの熱は少しもくじかれません。その人の心がわずらわされたり、乱されたりもしません。すべてを主に対してするように(コロサイ三・二三)行う人には、不安な、害になる思い煩いも生じません。その人は、言葉によるとわざによるとを問わず、何をするにも、いっさい主イエスの名によってすることを学んでいるのです(コロサイ三・一七)。その人は、魂の目の一つだけを外の事柄に向けて動かし、もう一つの目を、動かずに神に注いでいます。あわれな隠遁者たちよ、これがどういう意味か学びなさい。自分の信仰の薄さを、はっきりと見分けるためです。そうです、もう自分を基準にしてほかの人をさばかないように、次の言葉がどういう意味か、学んできなさい(マタイ九・一三)。
主よ、あなたは優しい愛をもって私の重荷をすべて負ってくださいます。私の心を上にあるものへ引き上げ、いつまでもそこに据えてくださいます。騒がしく回る車輪の上に、私は静かに座ります。忙しい群衆のただ中で、ひとり、あなたの足もとで、心安らかに待ちます。あなたのみこころが、すべて成るまで。
(六) けれども、最大の反論が、まだ残っています。彼らは言います。「私たちは、経験に訴える。私たちの光は確かに輝いていた。私たちは何年も外の事柄を用いてきた。それでも、何の益もなかった。私たちは、神の定めにすべてあずかった。だが、そのために少しも良くならなかった。実際、ほかのだれも良くならなかった。いや、かえって悪くなった。キリスト教が何を意味するかも知らないのに、そうしているからといって、自分をクリスチャンだと思い込んだからだ」。
その事実は認めます。あなたがたも、ほかの何万もの人々も、このように神の定めを誤用してきたことは、認めます。手段を目的と取り違えてきたのです。これらを行うこと、あるいはほかの何かの外のわざを行うことが、イエス・キリストの宗教だと思い込んできました。あるいは、それがその宗教の代わりに受け入れられると思い込んできたのです。けれども、誤用は取り除き、正しい用い方は残しなさい。今こそ、外の事柄をすべて用いなさい。ただし、真の義と聖とにおいて(エペソ四・二四)魂が新しくされることに、いつも目を向けて用いなさい。
(七) けれども、それだけではありません。彼らは断言します。「経験はまた、善を行おうとするのは、むだ骨にすぎないことを示している。人々が今にも永遠の火に落ちようとしているのなら、そのからだに食べさせたり着せたりして、何の役に立つのか。また、人が彼らの魂に、どんな善を行えるというのか。魂が変わるとすれば、それは神ご自身がなさることだ。そのうえ、すべての人は、善い人か、少なくともそうなりたいと願っている人か、さもなければ、かたくなに悪い人かのどちらかだ。前者は、私たちを必要としない。神に助けを求めればよいのだ。そうすれば与えられる。後者は、私たちからの助けを受け入れはしない。いや、私たちの主も、『真珠を豚に投げてやる』ことを禁じておられる(マタイ七・六)」。
私は答えます。一、彼らが最後に滅びるにせよ、救われるにせよ、あなたがたは、飢えた人に食べさせ、裸の人に着せるように、はっきりと命じられています(マタイ二五・三五〜三六)。もしそれができるのにしないなら、彼らがどうなるにせよ、あなたがた自身が永遠の火にはいってしまうのです(マタイ二五・四一)。二、心を変えるのは神だけですが、神は普通、人を通してそれをなさいます。私たちの務めは、まるで自分で心を変えられるかのように熱心に、自分にできるすべてのことを行い、そのうえで結果を神にゆだねることです。三、神は、子供たちの祈りに答えて、子供たちどうしを通して、あらゆる良い賜物において子供たちを築き上げられます。神は「すべての節々の助けにより」、「全身」を養い、強められるのです(エペソ四・一六)。ですから、「目は手にむかって、『おまえはいらない』とは言え」ません(第一コリント一二・二一)。いや、「頭は足にむかって」さえ、「『おまえはいらない』とも言えない」のです(第一コリント一二・二一)。最後に、目の前の人々が犬や豚だと、どうして確信できるのでしょうか(マタイ七・六)。試してみるまでは、さばいてはなりません(マタイ七・一)。人よ、あなたが兄弟を得ないと(マタイ一八・一五)、どうして分かるのでしょうか(第一コリント七・一六)。神のもとで、その魂を死から救い出さないと(ヤコブ五・二〇)、どうして分かるのでしょうか。その人があなたの愛をはねつけ、良きみ言葉を汚すとき、そのときこそ、その人を神にゆだねるべきときです。
(八) 「私たちは試してみた。罪人たちを改めさせようと努めた。それで、何の役に立ったか。多くの人には、何の感銘も与えられなかった。しばらくの間、変わった人がいても、その善良さは朝の露のようなもので、彼らはすぐに元どおり悪くなった。いや、以前よりも悪くなった。だから、私たちは彼らを傷つけ、自分自身も傷つけただけだった。私たちの心は、せき立てられ、かき乱され、おそらく愛ではなく怒りで満たされたのだから。だから、自分の宗教を自分の中にしまっておいたほうがよかったのだ」。
この事実も、本当である可能性は十分あります。あなたがたは善を行おうと試みたけれども、うまくいかなかったのでしょう。そうです、改まったように見えた人々が、再び罪に陥り、その人たちの後の状態は、初めよりももっと悪くなったのでしょう(第二ペテロ二・二〇)。けれども、何の不思議があるでしょうか。僕はその主人以上の者でしょうか(マタイ一〇・二四)。主は、どれほどたびたび罪人を救おうと努められたことでしょう。けれども、彼らは聞こうとしませんでした。あるいは、しばらく主に従ったあと、犬が自分の吐いた物に帰るように(第二ペテロ二・二二)、引き返していったのです。けれども、主は、だからといって、善を行おうと努めることをやめはされませんでした。あなたがたも、結果がどうであれ、やめてはなりません。命じられたとおりに行うのが、あなたがたの務めです。結果は神の御手の中にあります。あなたがたには、結果の責任はありません。すべてをよく治められる神に、それをゆだねなさい。「朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはなりません。実るのは、これであるか、あれであるか、あなたは知らないからです」(伝道一一・六)。
けれども、その試みは、あなたがた自身の魂をせき立て、いらだたせる、と言うのでしょう。おそらく、そうなったのは、まさに次の理由からでしょう。あなたがたが、結果に責任があると思っていたからです。けれども、だれも結果に責任はありませんし、実際、ありえないのです。あるいは、おそらく、あなたがたが油断していたからでしょう。自分の霊に気をつけていなかったからでしょう。けれども、これは神に従わない理由にはなりません。もう一度試みなさい。ただし、前よりも用心深く試みなさい。赦すときと同じように、「七たび」までだけではなく、「七たびを七十倍するまで」善を行いなさい(マタイ一八・二二)。ただ、経験によって賢くなりなさい。毎回、前よりも慎重に試みなさい。神の前に、もっとへりくだりなさい。自分では何一つできないことを(ヨハネ一五・五)、もっと深く確信しなさい。自分の霊に、もっと気を配りなさい。もっと優しく、もっと目をさまして祈りなさい。こうして、「あなたのパンを水の上に投げ」なさい。そうすれば、「多くの日の後、あなたはそれを得る」のです(伝道一一・一)。
【四】 実践への適用
(一) 光を隠すためのこうしたもっともらしい口実がどれほどあっても、「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ五・一六)。これが、私たちの主ご自身が、先の考察から引き出しておられる、実践への適用です。
「そのように、あなたがたの光を」「輝かし」なさい(マタイ五・一六)。その光とは、あなたがたの心のへりくだりです。あなたがたの優しさと、知恵にかなう柔和です(ヤコブ三・一三)。永遠の事柄に対するまじめで重い関心と、人々の罪と悲惨に対する悲しみです。全き聖性と、神にある満ちあふれる幸いとを求める、熱心な願いです。すべての人に対する細やかな善意と、至高の恩人である神への燃える愛です。神があなたがたの魂を照してくださった、この光を、隠そうとしてはなりません。むしろ、それを人々の前に、あなたがたが共にいるすべての人の前に、あなたがたのふるまいの全体を通して輝かしなさい。あなたがたの行いにおいて、すべての人にできるかぎりの善を行うことにおいて、さらにいっそう際立って輝かしなさい。また、義のために苦しむことにおいて(第一ペテロ三・一四)、輝かしなさい。そのとき、あなたがたは、「天においてあなたがたの受ける報いは大きい」ことを知って、「喜び、よろこ」ぶのです(マタイ五・一二)。
(二) 「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見」るようにしなさい(マタイ五・一六)。クリスチャンは、自分の宗教を隠そうともくろんだり願ったりすることなど、決してあってはなりません。それどころか、宗教を隠さないことを、光を枡の下におかないことを(マタイ五・一五)、あなたがたの願いとしなさい。光を「燭台の上において、家の中のすべてのものを照させる」ように(マタイ五・一五)、心がけなさい。ただし、そこで自分の誉れを求めないように、自分に何かの栄誉を願わないように、注意しなさい。むしろ、あなたがたの良きわざを見るすべての人が、「天にいますあなたがたの父をあがめる」ようになることを(マタイ五・一六)、ただ一つの目的としなさい。
(三) すべてのことにおいて、これをあなたがたの唯一の究極の目的としなさい。この目的のために、飾らず、隠しだてをせず、偽りのない者でありなさい。あなたがたの愛には偽りがあってはなりません(ローマ一二・九)。美しく、私心のない愛を、なぜ隠す必要があるでしょうか。あなたがたの口に偽りがないようにしなさい(黙示録一四・五)。あなたがたの言葉が、心のありのままの写しとなるようにしなさい。あなたがたのふるまいに、暗さや隠しだてがないようにしなさい。あなたがたの態度に、偽装がないようにしなさい。そのようなことは、ほかのもくろみを持っている人々に任せておきなさい。光に耐えられないもくろみを持つ人々にです。すべての人に対して、飾り気なく単純でありなさい。すべての人が、あなたがたのうちにある神の恵みを見ることができるためです。ある人々は心をかたくなにするでしょう。それでも、ほかの人々は、あなたがたがイエスと共にいた者であることを認めるでしょう(使徒四・一三)。そして、魂の偉大な監督であるかたのもとに立ち帰って(第一ペテロ二・二五)、「天にいますあなたがたの父をあがめる」でしょう(マタイ五・一六)。
(四) 人々があなたがたを見て神をあがめるようにという、このただ一つの意図をもって、神の御名によって、神の偉大な力によって(エペソ六・一〇)、進んで行きなさい。たとえひとりで立つことになっても、それが神の道においてであるなら、恥じてはなりません。あなたがたの心にある光を、あらゆる良きわざにおいて、すなわち、敬虔のわざにおいても、あわれみのわざにおいても、輝かしなさい。そして、善を行う力を広げるために、あらゆるぜいたくを捨てなさい。食べ物にも、家具にも、衣服にも、不必要な出費はすべて切り捨てなさい。神のあらゆる賜物の、良い管理人でありなさい。神の賜物の中で最も低いこれらのものの、良い管理人でもありなさい。時間の不必要な浪費を、すべて切り捨てなさい。不必要な、あるいは役に立たない仕事を、すべて切り捨てなさい。そして、「すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてな」しなさい(伝道九・一〇)。一言で言えば、信仰と愛に満ちていなさい。善を行いなさい。悪を忍びなさい。そして、このことにおいて、「堅く立って動かされず」にいなさい(第一コリント一五・五八)。そうです、「いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては」、あなたの「労苦がむだになることはないと」、あなたは「知っているからです」(第一コリント一五・五八)。