ジョン・ウェスレー標準説教集

説教二十三 山上の説教(三)

「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るでしょう。平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるでしょう。義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものです。わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいです。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのです。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのです」(マタイ五・八〜一二)

【一】 心の清い人たちの幸い

(一) 隣り人への愛については、なんとすばらしいことが語られていることでしょう! それは「律法を完成するもの」です(ローマ一三・一〇)。戒めが「目標としている」ものです(第一テモテ一・五)。この愛がなければ、私たちの持っているものも、行うことも、忍ぶことも、すべて神の目には何の値打ちもありません。ただし、それは、神への愛から生れる隣り人への愛のことです。そうでなければ、その愛そのものも、何の値打ちもありません。ですから、私たちは、自分の隣り人への愛がどんな土台の上に立っているかを、よく調べなければなりません。それは本当に、神への愛の上に建てられているでしょうか。神が「まず」私たちを「愛してくださったから」、私たちは神を愛しているでしょうか(第一ヨハネ四・一九)。私たちは、心が清いでしょうか。これこそ、決して揺るがされることのない土台だからです。「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るでしょう」(マタイ五・八)。

(二) 「心の清い人たち」とは(マタイ五・八)、神が、「彼がきよくあられるように」、その心をきよめてくださった人たちのことです(第一ヨハネ三・三)。彼らは、イエスの血を信じる信仰によって、あらゆる聖くない情からきよめられた人たちです。彼らは、「肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ」、愛をもって「神をおそれて全く清く」なります(第二コリント七・一)。彼らは、神の恵みの力により、最も深い心の貧しさによって、高ぶりからきよめられています。柔和と優しさとによって、怒りから、またあらゆる不親切な情念や荒々しい情念から、きよめられています。今や魂全体をとらえている、あの義への飢え渇きによって、ほかの願いからきよめられています。神を喜ばせ、神を楽しみ、神をますます知り、ますます愛すること以外の、あらゆる願いからです。ですから、彼らは今、心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なる彼らの神を愛しています(マルコ一二・三〇)。

(三) けれども、どの時代の偽教師たちも、この心の清さを、なんとわずかしか顧みなかったことでしょう。彼らは人々に、神が名指しで禁じられた外の汚れを避けることだけを教えてきました。けれども、心には切り込みませんでした。そして、内なる腐敗を防がなかったことによって、実際にはそれを容認したのです。

この顕著な例を、私たちの主は、次の言葉で示しておられます。「『姦淫するな』と」昔の人々に「言われていたことは、あなたがたの聞いているところです」(マタイ五・二七)。そして、あの盲人を手引きする盲人たちは(マタイ一五・一四)、これを説明するとき、外の行いを避けることだけを人々に強く求めました。「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのです」(マタイ五・二八)。神は、真実を心のうちに求められるからです(詩篇五一・六)。神は心を探り、思いを試みられます(エレミヤ一七・一〇)。あなたが心に不義をいだいているなら、主はお聞きにならないのです(詩篇六六・一八)。

(四) また、汚れのきっかけとなるものを手放さずにいることについて、神はどんな言い訳もお認めになりません。ですから、「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益です」(マタイ五・二九)。あなたの右の目ほど大切な人々が、あなたにこのように神に罪を犯させるきっかけとなるとします。魂に聖くない欲望をかき立てる手段となるとします。そうなら、ためらわずに、力ずくでその人々から離れなさい。「もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益です」(マタイ五・三〇)。あなたの右の手ほど必要に思える人が、罪のきっかけ、汚れた欲望のきっかけとなるとします。たとえそれが心の外に出ず、言葉にも行いにも決して現れないとしてもです。そうなら、自分を強いて、すっかり、最終的に別れなさい。一撃で切り離しなさい。その人々を神にゆだねなさい。快楽を失うことであれ、財産を失うことであれ、友を失うことであれ、どんな損失も、自分の魂を失うよりはましです。

このような完全で最終的な別れの前に、二つの段階だけは踏んでもよいでしょう。第一に、断食と祈りによって、汚れた霊を追い出せないかどうか、試みなさい。また、悪のきっかけとなると分かった行いや言葉や目つきを、どれも注意深く避けなさい。それによって追い出せないかどうかも、試みなさい。第二に、この方法で解放されないなら、その別れの時期と仕方について、あなたの魂を見守っている人に相談しなさい。少なくとも、神の道に経験のある人に相談しなさい。けれども、血肉に相談してはなりません(ガラテヤ一・一六)。そうしないと、あなたは「迷わす力」にゆだねられて、「偽りを信じる」ようになるかもしれません(第二テサロニケ二・一一)。

(五) また、結婚そのものも、聖なる尊いものではありますが、欲望を野放しにする口実に使ってはなりません。確かに、「『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われてい」ます(マタイ五・三一)。そして、それで万事よしとされていました。夫が、妻を好まない、あるいはほかの女のほうが好きだ、ということのほかに、何の理由も挙げなくてもそうだったのです。「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は」(不品行とは姦淫のことです。ポルネイア(πορνεία)という語は、結婚していてもいなくても、不貞一般を意味します)、その女が再婚するなら、その女に「姦淫を行わせるのです。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのです」(マタイ五・三二)。

この言葉では、あらゆる重婚がはっきり禁じられています。私たちの主はここで、夫が生きている女が再婚するのは姦淫である、と明言しておられるからです。同じ理屈で、男も、妻が生きているかぎり、再婚するのは姦淫です。そうです、たとえ二人が離婚していてもそうです。ただし、その離婚が姦淫のためだった場合は別です。その場合にだけ、再婚を禁じる聖句はありません。

(六) これが、神の求められる心の清さです。神は、その愛する御子を信じる人々のうちに、この清さを造り出されます。そして、このように「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るでしょう」(マタイ五・八)。神は彼らに、「ご自身を」「あらわ」されます(ヨハネ一四・二一〜二二)。それは、「世にはあらわそうとされない」ような仕方であるだけではありません(ヨハネ一四・二二)。ご自分の子供たちにさえ、いつもはあらわされないような仕方なのです。神は、御霊を最もはっきりと分け与え、「父ならびに御子」との最も親しい「交わり」を与えて(第一ヨハネ一・三)、彼らを祝福されます。ご自分の臨在を絶えず彼らの前に進ませ、御顔の光を彼らの上に照されます(詩篇四・六)。彼らの心は、絶えずこう祈ります。「どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください」(出エジプト三三・一八)。そして、神に願い求めたことは、かなえられるのです(第一ヨハネ五・一五)。彼らは今、信仰によって神を見ます(肉の幕が、いわば透き通るようにされているのです)。神のわざの中で最も低いこれらのものの中にさえ、神を見るのです。彼らを取り巻くすべてのもの、神が創造し造られたすべてのものの中に、神を見るのです。上は高い所に、下は深い所に、神を見ます。神がすべてのものを、すべてのもののうちに満たしておられるのを見ます(エペソ一・二三)。心の清い人たちは、すべてのものが神に満ちているのを見ます。天の大空に神を見ます。照りわたって動く月に(ヨブ三一・二六)、神を見ます。勇士のように、その道を喜び走る日に(詩篇一九・五)、神を見ます。神が「雲をおのれのいくさ車とし、風の翼に乗りある」くのを見ます(詩篇一〇四・三)。神が「地のために雨を備え」(詩篇一四七・八)、地の「もえ出るのを祝福し」(詩篇六五・一〇)、「家畜のために草をはえさせ、また人のために」青草を与えられるのを見ます(詩篇一〇四・一四)。万物の造り主が、万物を賢く治め、「その力ある言葉をもって万物を保っておられる」のを見ます(ヘブル一・三)。「主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう」(詩篇八・一)。

(七) 心の清い人たちは、自分自身に、自分の魂やからだにかかわる神のすべての摂理の中に、もっと特別に神を見ます。神の御手が、いつも彼らの上にあって、彼らの益をはかっているのを見ます。神は、すべてのものを、重さと量りとに従って彼らに与えられます。彼らの頭の毛までも数え(マタイ一〇・三〇)、彼らとそのすべての所有物のまわりに、まがきを設けられます(ヨブ一・一〇)。そして、ご自分の知恵とあわれみの深さに従って、彼らの生涯のあらゆる事情を整えられるのです。

(八) けれども、彼らがもっと特別な仕方で神を見るのは、神の定めの中においてです。彼らは、大いなる会衆の中に出て(詩篇二二・二五)、「そのみ名にふさわしい栄光を主に帰」し、「聖なる装いをして主を拝」みます(詩篇九六・八〜九)。あるいは、「自分のへやにはい」り、そこで、「隠れた所においでになる」「父」の前に、魂を注ぎ出します(マタイ六・六)。神の言を調べることもあります(ローマ三・二)。キリストの使者たちが(第二コリント五・二〇)救いの良い知らせを告げるのを聞くこともあります。あるいは、あのパンを食し、あの杯を飲んで、主が天の雲に乗って「こられる時に至るまで、主の死を告げ知らせる」こともあります(第一コリント一一・二六)。神の定められたこれらすべての道において、彼らは、言い表せないほど神に近づくのです。彼らは、いわば顔と顔とを合わせて神を見ます。そして、「人がその友と語るように」、神と語ります(出エジプト三三・一一)。これは、天のあのすまい(ヨハネ一四・二)にふさわしい備えです。彼らはそこで、神のまことの御姿を見るのです(第一ヨハネ三・二)。

(九) けれども、ある人々は、神を見ることから、なんと遠かったことでしょう。彼らは、「昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていた」ことを聞いて(マタイ五・三三)、それをこう解釈したのです。「主なるエホバをさして誓うときには、いつわり誓うな。そのような誓いは、『主に対して果せ』。けれども、ほかの誓いなら、主は顧みない」。

パリサイ人は、そう教えました。彼らは、普段の会話でのあらゆる誓いを許しただけではありません。神の固有の名をさして誓ったのでなければ、偽りの誓いさえ、小さなことと見なしたのです。

けれども、私たちの主はここで、あらゆる偽りの誓いと同じように、あらゆる普段の誓いも、無条件に禁じておられます。そして、同じ恐るべき事実によって、その両方の極悪さを示しておられます。すべての被造物は神のものであり、神はどこにでもおられ、すべてのうちに、すべての上におられる、という事実です。「わたしはあなたがたに言います。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるからです」(マタイ五・三四)。ですから、天をさして誓うのは、天の円の上に座しておられる方をさして誓うのと同じです。「また地をさして誓うな。そこは神の足台であるからです」(マタイ五・三五)。神は、天と同じように地にも、親しく臨んでおられます。「またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるからです」(マタイ五・三五)。神は、その宮殿でよく知られています。「また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができません」(マタイ五・三六)。明らかに、頭でさえ、あなたのものではなく、神のものだからです。神だけが、天と地のすべてを意のままにされるのです。「あなたがたの言葉は」(マタイ五・三七)、すなわち互の会話、互の話は、「ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきです」。飾らない、まじめな肯定か否定であるべきなのです。「それ以上に出ることは、悪から来るのです」(マタイ五・三七)。原語は、エク・トゥー・ポネールー・エスティン(ἐκ τοῦ πονηροῦ ἐστιν)です。すなわち、悪い者から出るのです。それは悪魔から出たもので、悪魔の子らのしるしです。

(一〇) 私たちの主はここで、為政者に求められたときに「真実と正義と」をもって「誓う」ことを(エレミヤ四・二)、禁じてはおられません。それは、次のことから明らかです。一、この部分の教えが語られたきっかけからです。主がここで責めておられた悪習は、偽りの誓いと普段の誓いでした。為政者の前での誓いは、まったく問題になっていなかったのです。二、主が全体の結論を述べておられる、その言葉そのものからです。「あなたがたの言葉は」、すなわち話は、「ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきです」(マタイ五・三七)。三、主ご自身の模範からです。主は、為政者に求められたとき、ご自身、誓いのもとで答えられました。大祭司が主に、「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」と言いました(マタイ二六・六三)。するとイエスは、すぐに、そうだと答えられました。「あなたの言うとおりです」(すなわち、それは真実だ、ということです)。「しかし」(むしろ「そのうえ」と訳すべきです)、「わたしは言っておきます。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るでしょう」(マタイ二六・六四)。四、神、すなわち父ご自身の模範からです。「神は、約束のものを受け継ぐ人々に、ご計画の不変であることを、いっそうはっきり示そうと思われ、誓いによって保証された」のです(ヘブル六・一七)。五、パウロの模範からです。パウロは神の御霊を受けており、自分の主のみこころをよく理解していた、と私たちは考えます。パウロは、ローマ人には、神が自分の証人であると言って、祈るたびに絶えず彼らのことを覚えている、と書いています(ローマ一・九)。コリント人には、こう書いています。「わたしは自分の魂をかけ、神を証人に呼び求めて言うが、わたしがコリントに行かないでいるのは、あなたがたに対して寛大でありたいためです」(第二コリント一・二三)。また、ピリピ人には、こう書いています。「わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どんなに深くあなたがたを思っていることか、それを証明してくださるかたは神です」(ピリピ一・八)。ここから、否定しようもなく明らかになります。使徒が自分の主の言葉の意味を知っていたなら、その言葉は、重大な場合には、互の間でさえ誓うことを禁じていないのです。まして、為政者の前で誓うことを禁じているはずはありません。六、最後に、偉大な使徒が厳粛な誓い全般について述べている、あの断言からです(もし主が誓いを全面的に禁じておられたなら、使徒が少しもとがめずにそれに触れることは、ありえなかったでしょう)。「いったい、人間は自分より上のものをさして誓う」のです(ヘブル六・一六)。すなわち、自分よりも偉大な方をさして誓うのです。「そして、その誓いはすべての反対論を封じる保証となる」のです(ヘブル六・一六)。

(一一) けれども、ほむべき私たちの主が、ここで教え込み、この例によって明らかにしておられる大切な教訓は、次のことです。神は、すべてのもののうちにおられます。私たちは、あらゆる被造物という鏡の中に、造り主を見なければなりません。どんなものも、神から切り離して用いたり眺めたりしてはなりません。そうすることは、実に一種の実践的な無神論です。むしろ、真に壮大な思いをもって、天と地とその中のすべてのものを見渡さなければなりません。それらはみな、神がたなごころの中に収めておられるものです。神は、親しく臨んでおられることによって、それらすべてを存在させておられます。造られた全体に行きわたり、これを動かしておられます。神は、真の意味で、宇宙の魂なのです。

【二】 平和をつくり出す人たちの幸い

(一) 私たちの主は、ここまで、主として心の宗教を教えることに力を注いでこられました。クリスチャンがどのような者であるべきかを示してこられました。主は続いて、クリスチャンが何をなすべきかも示されます。内なる聖性が、外のふるまいにどう現れるべきかを示されるのです。主は言われます。「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるでしょう」(マタイ五・九)。

(二) 「平和をつくり出す人たち」とあります(マタイ五・九)。原語は、ホイ・エイレーノポイオイ(οἱ εἰρηνοποιοί)です。よく知られているように、エイレーネー(εἰρήνη)、すなわち平和という語は、聖書では、あらゆる種類の善を意味します。魂にかかわるものであれ、からだにかかわるものであれ、あらゆる祝福を意味します。時にかかわるものであれ、永遠にかかわるものであれ、そうなのです。ですから、パウロが手紙の冒頭で、ローマ人やコリント人に恵みと平安を祈るとき、それは、こう言っているのと同じです。「神の価なしの、受けるに値しない愛と恵みとの実として、あなたがたが、霊とこの世とのあらゆる祝福を享受するように。神がご自分を愛する者たちのために備えられた(第一コリント二・九)、あらゆる良いものを享受するように」。

(三) ここから、「平和をつくり出す人たち」という語を、どれほど広い意味に理解すべきかが、たやすく分かります。文字どおりの意味では、この語は、神と人とを愛する人たちを指します。彼らは、あらゆる争いと口論、あらゆる不和と論争を、心から憎み、忌みきらいます。そこで、力のかぎり努めます。この地獄の火が燃えつかないように、燃えついたなら燃え上がらないように、燃え上がったなら広がらないように、努めるのです。彼らは、人々の荒れた心を静め、激しい情念を鎮め、争う人々の心を和らげ、できるなら互に和解させようと努めます。平和があるところではそれを保ち、平和がないところではそれを取り戻すために、罪のないあらゆる手立てを使います。自分のあらゆる力を、神から与えられたあらゆる賜物を用いるのです。人々の間に、互の善意を広め、固め、増し加えることが、彼らの心の喜びです。特に、神の子たちの間ではそうです。神の子たちが、比較的小さな事柄でどれほど分かれていても、そうなのです。神の子たちにとって、「主は一つ、信仰は一つ」です(エペソ四・五)。彼らはみな、「一つの望みを目ざして召された」のです(エペソ四・四)。それと同じように、みなが「召されたその召しにふさわしく歩き、できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努め」るように、と彼らは願うのです(エペソ四・一〜三)。

(四) けれども、この語の十分な広がりにおいては、平和をつくり出す人とは、次のような人のことです。その人は、機会のあるごとに、「だれに対しても」「善を行」います(ガラテヤ六・一〇)。その人は、神への愛とすべての人への愛とに満たされています。そのため、その愛の表し方を限ることができません。自分の家族や友人や知人に、自分の党派に、自分と同じ意見の人々に限ることはできないのです。いや、同じ尊い信仰を授かった人々にさえ(第二ペテロ一・一)、限ることができないのです。その人は、これらの狭い境界をすべて踏み越えます。すべての人に善を行うためです。何とかして、隣り人にも見知らぬ人にも、友にも敵にも、自分の愛を表すためです。その人は、機会のあるごとに、すなわち、できるかぎりのあらゆる機会に、すべての人に善を行います。そのために、「今の時を生かして用い」ます(エペソ五・一六)。あらゆる機会を買い取り、一時間一時間を活用し、ほかの人を益することのできる瞬間を、一瞬も失わないのです。その人の行う善は、ある特定の種類の善ではありません。善一般であり、あらゆる可能な仕方で行う善です。そのために、あらゆる種類の賜物を、からだと魂のあらゆる力と能力を、自分の財産も、影響力も、評判も、すべて用います。ただ、主人が来られるとき、こう言ってくださることだけを願っているのです。「良い忠実な僕よ、よくやった」(マタイ二五・二一)。

(五) その人は、力のかぎり、すべての人のからだにも善を行います。「飢えた者に」自分の「パンを分け与え」、「裸の者」に衣を「着せ」ることを喜びます(イザヤ五八・七)。旅人がいるでしょうか。その人は、旅人を迎え入れ(マタイ二五・三五)、必要に応じて助けます。病気の人や獄にいる人がいるでしょうか。その人は、彼らを見舞い(マタイ二五・三六)、最も必要としている助けを与えます。そして、そのすべてを、人に対してするのではなく、こう言われた方を覚えて行うのです。「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのです」(マタイ二五・四〇)。

(六) まして、だれかの魂に何かの善を行うことができるなら、その人はどれほど喜ぶことでしょう。確かに、この力は神に属します(詩篇六二・一一)。心を変えるのは、神だけです。心が変わらなければ、ほかのどんな変化も、むなしさよりも軽いのです。けれども、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる方は(第一コリント一二・六)、おもに人を通して人を助けることを、よしとされます。ご自分の力と祝福と愛とを、ある人を通してほかの人に伝えることを、よしとされるのです。ですから、地上でなされる助けは神ご自身がなさるのだ、ということは確かです。それでも、だからといって、神のぶどう園で何もしないで立っている必要は(マタイ二〇・六)、だれにもありません。平和をつくり出す人は、何もしないでいることができません。いつもそこで働いています。神の御手の中の道具として、主人のために土地を整え、あるいは御国の種をまき、あるいはすでにまかれたものに水をそそぎます。神が成長させてくださるかもしれないからです(第一コリント三・六)。その人は、受けた恵みの量りに従って、あらゆる努力を尽くします。ひどい罪人に忠告し、滅びにいたる広い道を(マタイ七・一三)まっしぐらに走っている人々を、連れ戻そうとします。あるいは、「暗黒」「に住む者を照し」ます(ルカ一・七九)。その人々は、「知識がないために滅ぼされ」ようとしているのです(ホセア四・六)。あるいは、「弱い者を助け」(第一テサロニケ五・一四)、「なえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐに」します(ヘブル一二・一二)。あるいは、足がなえて道を踏みはずした者を連れ戻し、いやします(ヘブル一二・一三)。また、すでに狭い戸口からはいろうと努めている人々を(ルカ一三・二四)力づけることにも、劣らず熱心です。立っている人々を強めて、彼らが「参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬ」けるようにします(ヘブル一二・一)。自分の信じてきたかたを知っている人々を(第二テモテ一・一二)、最も神聖な信仰の上に築き上げます(ユダ二〇)。その人々に、内にいただいた神の賜物を再び燃えたたせるように(第二テモテ一・六)勧めます。それは、彼らが日ごとに恵みにおいて成長し、「わたしたちの主また救主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みが」、彼らに「豊かに与えられる」ためです(第二ペテロ一・一一)。

(七) このように、信仰の働きと愛の労苦とに(第一テサロニケ一・三)絶えず励んでいる人たちは、「さいわい」です(マタイ五・九)。「彼らは神の子と呼ばれる」のです(マタイ五・九)。「呼ばれる」とは、そうなる、ということです(よくあるヘブライ語の言い回しです)。神は、子たる身分を授ける霊を(ローマ八・一五)、彼らのうちに保ち続けてくださいます。そうです、その霊を、彼らの心にもっと豊かに注いでくださいます。ご自分の子供たちのあらゆる祝福をもって、彼らを祝福してくださいます。御使たちと人々との前で、彼らを子として認めてくださいます。「もし子であれば、相続人でもあります。神の相続人であって」、「キリストと共同の相続人なのです」(ローマ八・一七)。

【三】 義のために迫害されてきた人たちの幸い

(一) これまでに描いてきたような人は、人々に最も愛される人になるはずだ、と思われるでしょう。その人は、まことのへりくだりに満ち、飾り気なくまじめで、温和で優しく、あらゆる利己的なたくらみから自由です。神に身をささげ、人々を活発に愛しています。けれども、私たちの主は、今の状態の人間の本性を、もっとよく知っておられました。そこで主は、この神の人の姿を描き終えるにあたって、その人が世でどんな扱いを覚悟しなければならないかを示されます。主は言われます。「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものです」(マタイ五・一〇)。

(二) これを十分に理解するために、第一に、迫害されるのはだれか、を尋ねてみましょう。これは、パウロから、たやすく学ぶことができます。「その当時、肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様です」(ガラテヤ四・二九)。使徒は、さらにこう言っています。「キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受けます」(第二テモテ三・一二)。ヨハネも、同じことを教えています。「兄弟たちよ。世があなたがたを憎んでも、驚くには及びません。わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知っています」(第一ヨハネ三・一三〜一四)。これは、こう言っているのと同じです。兄弟たち、すなわちクリスチャンを愛することができるのは、死からいのちへ移ってきた人たちだけだ、と。そして、私たちの主は、最もはっきりとこう教えておられます。「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したでしょう。しかし、あなたがたはこの世のものではありません。だから、この世はあなたがたを憎むのです。わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するでしょう」(ヨハネ一五・一八〜二〇)。

これらの聖句のすべてから、迫害されるのがだれであるかは明らかです。すなわち、正しい人たちです。「霊から生れる者」です(ヨハネ三・六)。「キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者」みなです(第二テモテ三・一二)。「死からいのちへ移ってきた」人たちです(第一ヨハネ三・一四)。「この世のものではない」人たちです(ヨハネ一五・一九)。柔和で心のへりくだった人たち(マタイ一一・二九)、神を求めて悲しむ人たち、神のかたちに飢えている人たち、みなです。神と隣り人とを愛し、そのために、機会のあるごとに、だれに対しても善を行う人たち(ガラテヤ六・一〇)、みなです。

(三) 第二に、なぜ彼らは迫害されるのか、と尋ねるなら、その答えも同じように明白です。それは、「義のため」です(マタイ五・一〇)。彼らが正しいからです。霊によって生れたからです(ガラテヤ四・二九)。「キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする」からです(第二テモテ三・一二)。「この世のものではない」からです(ヨハネ一五・一九)。どんな口実が持ち出されても、これが本当の理由です。彼らの弱さが多くても少なくても、もしこのことがなければ、彼らは大目に見てもらえるでしょう。世は、自分のものを愛するでしょう(ヨハネ一五・一九)。彼らが迫害されるのは、心が貧しいからです。世に言わせれば、こうです。「意気地のない、卑しい、臆病な連中だ。何の役にも立たず、世の中で生きていく資格もない」。彼らが悲しんでいるからです。「あいつらは、まったく陰気で、重苦しく、のろまな連中だ。見る者の気分を、だれでも沈ませてしまう! まるでどくろそのものだ。罪のない楽しみを台なしにし、どこへ行っても座をしらけさせる」。彼らが柔和だからです。「おとなしい、されるがままの愚か者だ。踏みつけられるのが、ちょうどお似合いだ」。彼らが義に飢えかわいているからです。「頭に血ののぼった熱狂者の一団だ。何だか分からないものを、口をあけて追い求めている。理にかなった宗教では満足せず、恍惚や内なる感情を求めて、狂ったように走り回っている」。彼らがあわれみ深く、すべての人を愛し、恩を知らない者や悪人をも(ルカ六・三五)愛するからです。「あらゆる悪事を助長している。いや、罰せずにおくことで、人々を悪事に誘っている。どうやら、自分自身はまだ宗教を持っていない連中らしい。主義のまったくいいかげんな連中だ」。彼らが心の清い人だからです。「自分たちの仲間のほかは、世の中の人をみな地獄に落とす、思いやりのない連中だ! 罪なしに生きると言い張って、神を偽り者にする(第一ヨハネ一・一〇)、神を汚すろくでなしどもだ!」何よりも、彼らが平和をつくり出す人だからです。あらゆる機会をとらえて、すべての人に善を行うからです。これこそ、彼らがどの時代にも迫害されてきた最大の理由です。万物更新の時まで(使徒三・二一)迫害される理由です。「あいつらが、自分の宗教を自分の中だけにしまっておくなら、まだ我慢もできる。だが、あの誤りを広め、あれほど多くの人にうつしているのは、我慢がならない。あいつらは世の中にさんざん害を与えているのだから、もうこれ以上大目に見るべきではない。なるほど、あの連中も、いくつかのことはそれなりにうまくやっている。貧しい者を何人か助けてもいる。だが、それも、仲間をもっと増やすため、つまり結局は、もっと害を与えるためにすぎないのだ!」世の人々は、本気でこう考え、こう語ります。そして、神の国が広まれば広まるほど、彼らの見方では、ますます害が大きくなります。平和をつくり出す人たちが、へりくだりや柔和やほかの神聖な気質を広めるようになればなるほど、そうなります。したがって、彼らは、その張本人たちにますます激しく怒り、ますます激しく迫害するのです。

(四) 第三に、彼らを迫害するのはだれか、を尋ねてみましょう。パウロは、「肉によって生れた者」と答えます(ガラテヤ四・二九)。すなわち、「霊から生れ」ていない人(ヨハネ三・六)、少なくともそうなりたいと願っていない人は、だれでもそうです。少なくとも、「キリスト・イエスにあって信心深く生きよう」と努めていない人は(第二テモテ三・一二)、みなそうです。「死からいのちへ移って」きておらず、そのために「兄弟を愛」することのできない人は(第一ヨハネ三・一四)、みなそうです。また、「この世」です(ヨハネ一五・一八)。私たちの救主の言われるところでは、「わたしをつかわされたかたを」「知らない」人々です(ヨハネ一五・二一)。神を、すなわち愛し、赦してくださる神を、神ご自身の御霊の教えによって知らない人々です。

その理由は明らかです。この世の霊は、神からの霊と(第一コリント二・一二)、まっこうから対立しているからです。ですから、この世に属する人々が、神に属する人々と対立するのは、避けられないことです。両者の間には、あらゆる意見においても、願いにも、もくろみにも、気質にも、この上ない対立があります。そして、今までのところ、ひょうと子やぎとは、仲よく共に伏すことができません(イザヤ一一・六)。高ぶる者は、高ぶっているために、へりくだった人を迫害せずにはいられません。軽薄で浮ついた者は、悲しんでいる人を迫害せずにはいられません。ほかのあらゆる種類でも同じです。ほかに理由がなくても、性質が似ていないことが、絶えず敵意の根になるのです。ですから、たとえこの理由だけでも、悪魔のしもべたちはみな、神の子たちを迫害するのです。

(五) 第四に、彼らはどのように迫害するのか、と尋ねるなら、大まかには、こう答えられます。彼らは、万物を賢く治める方が、ご自分の栄光に最もかなうと見られる、まさにその仕方と程度で迫害するのです。それは、神の子たちが恵みにおいて成長し、神ご自身の国が広がることに、最も役立つ仕方と程度です。神が世を治められるあらゆる面の中で、これほど驚嘆すべきものはありません。迫害する者の脅しにも、迫害される者の叫びにも、神の耳は決して鈍くありません(イザヤ五九・一)。神の目はいつも開いており、神の手は伸ばされていて、どんなに小さな事情をも導いておられます。嵐がいつ始まり、どれほど高まり、どちらに向かい、いつどのように終るか。それはすべて、神の誤ることのない知恵によって定められています。不信心な者は、神の剣にすぎません。神がみこころのままに用いられる道具です。そして、神の摂理の恵み深い目的が果たされると、その道具そのものは火に投げ込まれるのです。

まれな時代には、神は嵐が高まるのを許されました。キリスト教が初めて植えられ、地に根を下ろしつつあったときがそうです。また、キリストの純粋な教えが、私たちの国にもう一度植えられ始めたときもそうです。そのとき、神の子たちは、血を流すほどに抵抗することを求められました(ヘブル一二・四)。使徒たちについて神がこれを許されたのには、特別な理由がありました。彼らのあかしが、いっそう非の打ちどころのないものになるためです。けれども、二世紀と三世紀には激しい迫害が起りました。神がそれを許されたのには、別の、まったく異なる理由があったことを、教会の年代記から学びます。すなわち、「不法の秘密の力が」それほど強く「働いて」いたからです(第二テサロニケ二・七)。そのころすでに教会を支配していた、ひどい腐敗のためです。神は、あの厳しいけれども必要な刑罰によって、これらの腐敗を懲らしめ、同時にいやそうとされたのです。

私たちの国で起った大迫害についても、同じことが言えるかもしれません。神は、私たちの国を、とても恵み深く扱ってこられました。さまざまな祝福を、私たちの上に注いでこられました。国の外にも内にも平和を与え、年に似合わず賢く善い王を与えてくださいました。そして何よりも、福音の純粋な光を、私たちの間に昇らせ、輝かせてくださいました。けれども、神はどんな報いを受けられたでしょうか。「正義を望まれたのに、見よ、叫び」です(イザヤ五・七)。それは、しえたげと不正の叫び、野心と不義の叫び、悪意と詐欺と貪欲の叫びでした。そうです、そのころでさえ炎の中で息絶えた人々の叫びが、万軍の主の耳に達しました(ヤコブ五・四)。そのとき、神は立ち上がり、不義をもって真理をはばもうとする人々に対して(ローマ一・一八)、ご自分の訴えを守られたのです。そのとき神は、あわれみの混じったさばきによって、ご自分の民を迫害者の手に売りわたされました(士師記二・一四)。それは、ご自分の民のひどい背信を罰する苦しみであり、同時に、それをいやす薬でもありました。

(六) けれども、神が、拷問や死や鎖や投獄にまで至るほど嵐を高めることを許されるのは、まれです。それに対して、神の子たちは、もっと軽い種類の迫害には、しばしば耐えるよう求められます。親族に疎まれることも、しばしばあります。自分の魂のように愛していた友を失うことも、しばしばあります。彼らは、主の言葉が真実であることを知ります(主の来られた目的についてではなく、その結果についての言葉です)。「あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのですか。あなたがたに言っておきます。そうではありません。むしろ分裂です」(ルカ一二・五一)。そしてここから、当然、商売や仕事を失い、したがって財産を失うことにもなります。けれども、これらの事情もすべて、同じように、神の賢い導きのもとにあります。神は、一人一人に、その人に最も益となるものを割り当てられるのです。

(七) けれども、神のすべての子たちにつきまとう迫害は、私たちの主が次の言葉で描いておられるものです。「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいです」(マタイ五・一一)。「ののしり、また迫害し」とは、ののしることによって迫害する、ということです。この迫害は、必ず来ます。それは、私たちが弟子であることのしるしそのものです。私たちが召されたことの証印の一つです。神のすべての子たちに確かに受け継がれる分け前です。もしそれがないなら、私たちは私生子であって、ほんとうの子ではありません(ヘブル一二・八)。御国に至るただ一つの道は、好評の中だけでなく、悪評の中をもまっすぐに通っています(第二コリント六・八)。柔和で、まじめで、へりくだり、熱心に神と人とを愛する人たちは、兄弟たちの間では好評を受けます。けれども、世では悪評を受けます。世は、彼らを「この世のちりのように、人間のくずのように」見なし、扱うのです(第一コリント四・一三)。

(八) 確かに、ある人々は、異邦人が全部救われるに至る前に(ローマ一一・二五)、十字架のつまずきがなくなるだろう(ガラテヤ五・一一)、と考えてきました。神は、まだ罪の中にいる人々にさえ、クリスチャンを尊敬させ、愛させるようになるだろう、と考えたのです。そうです、今でさえ、神がときに、人の激しい怒りだけでなく、侮りをも止められることは確かです。神は、しばらくの間、「その人の敵をもその人と和らがせ」(箴言一六・七)、最も激しい迫害者たちからも好意を受けさせてくださいます。けれども、この例外を別にすれば、十字架のつまずきは、まだなくなっていません。今でも、こう言うことができます。「もし」、「人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕では」ありません(ガラテヤ一・一〇)。ですから、あの快い考えに耳を貸してはなりません(それが血肉に快いことは疑いありません)。悪い人々は、善い人を憎み、さげすむふりをしているだけで、実は心の中では愛し、尊敬している、という考えです。そうではありません。悪い人々が、ときに善い人を雇うことはあるかもしれません。けれども、それは自分の利益のためです。善い人を信用することもあるかもしれません。その歩みがほかの人々とは違うことを知っているからです。けれども、それでも善い人を愛してはいません。神の御霊が悪い人々に働きかけておられるなら、その分だけは別です。私たちの救主の言葉は、はっきりしています。「もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したでしょう。しかし、あなたがたはこの世のものではありません。だから、この世はあなたがたを憎むのです」(ヨハネ一五・一九)。そうです(神の先行の恵みや特別な摂理によって生じる例外は別として)、世は、かつて彼らの主人を憎んだのと同じほど心から、本気で彼らを憎むのです。

(九) 残るのは、迫害に対して神の子たちはどうふるまうべきか、を尋ねることだけです。まず第一に、知りながら、あるいはわざと、迫害を自分に招いてはなりません。それは、私たちの主とすべての使徒たちの模範にも勧めにも反します。彼らは、迫害を求めないだけでなく、できるかぎり避けるように教えています。ただし、良心を損なわないかぎりです。いのちそのものよりも重んじるべき義を、少しも手放さないかぎりです。ですから、私たちの主は、はっきりこう言われます。「一つの町で迫害されたなら、他の町へ逃げなさい」(マタイ一〇・二三)。これは、実際、それができる場合には、迫害を避けるための、最も非の打ちどころのない方法です。

(一〇) けれども、この方法でも、ほかのどんな方法でも、いつも迫害を避けられると思ってはなりません。もし、そのむなしい思いが心に忍び込んできたら、あの切実な警告によって、それを追い払いなさい。「わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するでしょう」(ヨハネ一五・二〇)。「へびのように賢く、はとのように素直で」ありなさい(マタイ一〇・一六)。けれども、それで迫害から守られるでしょうか。あなたが、自分の主人よりも知恵があり、神の小羊よりも罪がないのでなければ(ヨハネ一・二九)、守られません。

また、迫害を避けよう、すっかり逃れようと願ってもなりません。そう願うなら、あなたは主のものではないからです。迫害を逃れるなら、祝福をも逃すことになります。義のために迫害される人たちの祝福です。義のために迫害されないなら、天国に入ることはできません。「もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるでしょう。もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むでしょう」(第二テモテ二・一二)。

(一一) いや、むしろ、人々が主のためにあなたがたを迫害するときには、「喜び、よろこ」びなさい(マタイ五・一二)。ののしることによって、また「あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う」ことによって(マタイ五・一一)、迫害するときにもそうです。人々は、あらゆる種類の迫害に、必ずこの悪口を混ぜるでしょう。自分を弁解するために、あなたがたを中傷せずにはいられないのです。「あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのです」(マタイ五・一二)。預言者たちは、心においても生活においても、際立って聖い人たちでした。そうです、世の初めからいたすべての正しい人たちも、同じように迫害されたのです。喜びなさい。この印によっても、あなたがたは、自分がだれに属しているかが分かるからです。また、「天においてあなたがたの受ける報いは大きい」からです(マタイ五・一二)。それは、契約の血によって(ヘブル一〇・二九)買い取られた報いです。あなたがたの心と生活の聖性に応じて、また苦しみに応じて、価なしに与えられる報いです。「よろこ」びなさい(マタイ五・一二)。「このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりに」あなたがたに「得させる」ことを知っているからです(第二コリント四・一七)。

(一二) その間にも、どんな迫害によっても、へりくだりと柔和の道から、愛と善行の道から、それてはなりません。確かに、「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところです」(マタイ五・三八)。そして、あなたがたのみじめな教師たちは、ここから、自分で復讐することを(ローマ一二・一九)あなたがたに許してきました。悪をもって悪に報いることを(ローマ一二・一七)、許してきたのです。「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪人に手向か」ってはなりません(マタイ五・三九)。このように、同じ仕方で仕返しをして、手向かってはならないのです。むしろ、そうするよりは、「もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい」(マタイ五・三九〜四一)。

あなたの柔和を、それほど打ち勝ちがたいものにしなさい。そして、あなたの愛も、それにふさわしいものにしなさい。「求める者には与え、借りようとする者を断」ってはなりません(マタイ五・四二)。ただし、ほかの人のもの、自分のものでないものを、与えてはなりません。ですから、次のようにしなさい。一、だれにも借りがないように気をつけなさい(ローマ一三・八)。あなたが借りているものは、自分のものではなく、ほかの人のものだからです。二、自分の家族をかえりみなさい(第一テモテ五・八)。これも、神があなたに求めておられることです。家族のいのちと信心とを支えるのに必要なものも(第二ペテロ一・三)、あなたのものではありません。三、そのうえで、残ったものはすべて、日ごとに、あるいは年ごとに、与えるか、貸すかしなさい。ただし、すべての人に与えたり貸したりすることはできないので、まず信仰の仲間のことを覚えなさい(ガラテヤ六・一〇)。

(一三) 義のために私たちを迫害する人々に対して、私たちは柔和と愛をいだき、親切を示さなければなりません。ほむべき私たちの主は、それを続く節でさらに描いておられます。ああ、その言葉が私たちの心に刻まれますように! 「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところです」(マタイ五・四三)。確かに、神が言われたのは、前半の「隣り人を愛し」だけでした(マタイ五・四三)。悪魔の子らが、後半の「敵を憎め」を付け加えたのです(マタイ五・四三)。「しかし、わたしはあなたがたに言います」(マタイ五・四四)。一、「敵を愛し」なさい(マタイ五・四四)。あなたに対して最も激しい敵意をいだき、あなたにあらゆる悪が起るように願う人々にも、細やかな善意をいだくようにしなさい。二、「のろう者を祝福し」なさい(ルカ六・二八)。心の苦々しさが、苦々しい言葉となってほとばしる人がいるでしょうか。あなたがいるときには絶えずあなたをのろい、ののしり、いないときには「様々の悪口を言う」人がいるでしょうか(マタイ五・一一)。それなら、なおさら祝福しなさい。その人々と話すときには、できるかぎり温和で柔らかな言葉を使いなさい。もっと良い手本を、その人々の前で繰り返し示すことによって、忠告しなさい。どう話すべきだったかを、示してあげることによってです。また、その人々について話すときには、真実と正義の規則を破らないかぎり、言えるだけの良いことを言いなさい。三、「憎む者に親切に」しなさい(ルカ六・二七)。その人々の憎しみが本物であるのと同じほど、あなたの愛も本物であることを、行いで示しなさい。悪に善をもって報いなさい。「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ一二・二一)。四、ほかに何もできないとしても、少なくとも、「はずかしめる者」や「迫害する者のために祈」りなさい(ルカ六・二八、マタイ五・四四)。これができなくなることは、決してありません。その人々のどんな悪意も暴力も、あなたを妨げることはできません。神の前に魂を注ぎ出して、祈りなさい。かつてこのようなことをしたけれども、今は悔い改めている人々のためだけではありません。それは小さなことです。もし兄弟が「一日に七度」、「『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば」とします(ルカ一七・四)。すなわち、何度もあと戻りしたあとでも、本当にすっかり変わったと信じる理由をあなたに与えるとします。そうなら、あなたはその人を赦さなければなりません。その人を信頼し、ふところに迎え入れるほどに、赦さなければなりません。まるで、その人があなたに対して一度も罪を犯したことがなかったかのようにです。けれども、悔い改めずに、今もあなたをはずかしめ、迫害している人々のためにも祈りなさい。その人々のために、神と格闘しなさい。その人々を、ここまで赦しなさい。「七たび」までだけではなく、「七たびを七十倍するまで」赦しなさい(マタイ一八・二二)。彼らが悔い改めても、悔い改めなくても、そうです、悔い改めからますます遠ざかっていくように見えても、この親切を示しなさい。「天にいますあなたがたの父の子となるため」です(マタイ五・四五)。すなわち、その父の本当の子であることを示すためです。父は、ご自分の最もかたくなな敵にさえ、彼らの受けられるかぎりの祝福を与えて、ご自分のいつくしみを示されます。父は、「悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして」くださるのです(マタイ五・四五)。「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあるでしょうか。そのようなことは取税人でもするではありませんか」(マタイ五・四六)。取税人は、宗教を持っているふりさえしない人々です。この世の中で神もない者だと(エペソ二・一二)、あなたがた自身が認めている人々です。「兄弟だけにあいさつをしたからとて」、「なんのすぐれた事をしているでしょうか」(マタイ五・四七)。ここで「あいさつ」とは、言葉や行いで親切を示すことです。「兄弟」とは、友人や親族のことです。宗教をまったく持たない人々よりも、何がすぐれているのでしょうか。「そのようなことは」取税人「でもしているではありませんか」(マタイ五・四七)。いや、彼らよりも良い模範に従いなさい。忍耐においても、寛容においても、あわれみにおいても、あらゆる種類の善行においても、そうしなさい。すべての人に対して、最も激しい迫害者に対してさえ、そうしなさい。クリスチャンであるあなたがたは、「あなたがたの天の父が完全であられるように」、程度においてではなくても、種類において、「完全な者となりなさい」(マタイ五・四八)。

【四】 キリスト教の本来の姿

見なさい、これが、偉大な創始者によって伝えられた、本来の姿のキリスト教です! これこそ、イエス・キリストのまことの宗教です! 目の開かれた人に、主はこのような姿でそれを示されます。人がまねできるかぎりでの、神の肖像を見なさい! 神ご自身の御手によって描かれた肖像です。「見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ」(使徒一三・四一)。いや、むしろ、驚いて礼拝しなさい。むしろ、こう叫びなさい。「これが、ナザレのイエスの宗教なのか。わたしが迫害していた宗教なのか! もう二度と、神を敵にまわす者とならないように(使徒五・三九)。主よ、わたしは何をしたらよいでしょうか」(使徒二二・一〇)。全体に、なんという美しさが現れていることでしょう! なんという正しい釣り合いでしょう! どの部分も、なんと正確に均整がとれていることでしょう! ここに描かれた幸いは、なんと望ましいことでしょう! その聖性は、なんと尊く、なんと麗しいことでしょう。これが宗教の精神、宗教の精髄です。これらこそ、まことにキリスト教の根本です。ああ、私たちが、これを聞くだけの者になりませんように。「自分の」「顔を鏡に映して見る人のよう」に、「そこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしま」う者になりませんように(ヤコブ一・二三〜二四)。いや、むしろ、この「完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない」者となりましょう(ヤコブ一・二五)。その一行一行が私たち自身の心に書き写されるまで、休まずにいましょう。目をさまして祈り、信じ、愛し、勝利を目ざして励みましょう。そのすべての部分が、神の指によって刻まれて(出エジプト三一・一八)、私たちの魂に現れるようになるまで、そうしましょう。私たちが、「召してくださった聖なるかたにならって」、「聖なる者と」なり(第一ペテロ一・一五)、「天の父が完全であられるように」、「完全な者と」なるまで、そうしましょう(マタイ五・四八)!