ジョン・ウェスレー標準説教集

説教二十二 山上の説教(二)

「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐでしょう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるでしょう。あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるでしょう」(マタイ五・五〜七)

【一】 柔和な人たちの幸い

(一) 「冬は過ぎ」(雅歌二・一一)、「鳥のさえずる時がき」て、「山ばとの声が」地に「聞える」ときがきます(雅歌二・一二)。悲しむ者を慰める方が今や帰ってこられ、「いつまでも」彼らと「共に」おられるときです(ヨハネ一四・一六)。その方の臨在の輝きによって、雲が散ります。疑いと不確かさの暗い雲が散り、恐れの嵐が去り、悲しみの波が静まります。そして、彼らの霊は、再び救主なる神を喜びます(ルカ一・四七)。まさにそのとき、このみことばが際立って成就します。そのとき、その方に慰められた人々は、こうあかしすることができます。「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐでしょう」(マタイ五・五)。この「さいわい」とは、幸いということです。

(二) では、「柔和な人たち」とは(マタイ五・五)、だれのことでしょうか。何も知らないために、何事も悲しまない人たちではありません。善と悪とを見分けないために、起る悪に心を乱されない人たちでもありません。愚かな無感覚によって、人生の打撃から守られている人たちでもありません。生れつきであれ、修練によってであれ、木や石の徳を身につけ、何も感じないために何にも憤らない人たちでもありません。獣のように感じない哲学者たちは、この事柄にまったくかかわりがありません。無感動は、人間らしさから遠いのと同じほど、柔和からも遠いのです。ですから、次のことは、なかなか理解できません。もっと純粋だった時代のクリスチャンが、とりわけ教父のだれかが、どうしてこの二つを混同したのでしょうか。どうして、異教の最も忌まわしい誤りの一つを、まことのキリスト教の一部分と取り違えたのでしょうか。

(三) また、クリスチャンの柔和は、無知や無感覚を意味しないのと同じように、神への熱心がないことも意味しません。いいえ、柔和は、行き過ぎであれ不足であれ、あらゆる極端から離れています。柔和は、情を滅ぼすのではなく、釣り合わせます。自然の神は、情が恵みによって根こそぎにされることを、決して意図されませんでした。ただ、正しい規律のもとに置かれ、保たれることを意図されたのです。柔和は、心を正しく釣り合わせます。怒りについても、悲しみについても、恐れについても、はかりを平らに保ちます。人生のどんな境遇でも中庸を守り、右にも左にもそれないのです。

(四) ですから、柔和は、本来は私たち自身にかかわるもののようです。けれども、神にも隣り人にも関係づけることができます。心のこの正しい落ち着きが神にかかわるとき、それは普通、神へのゆだねと呼ばれます。私たちについての神のみこころなら、たとえ生れながらの性質には快くなくても、何であれ静かに受けいれることです。そして、絶えずこう言うのです。「それは主です。どうぞ主が、良いと思うことを行われるように」(サムエル記上三・一八)。これをもっと厳密に、私たち自身とのかかわりで考えるとき、私たちはそれを忍耐、あるいは満足と呼びます。ほかの人々に向けて働くとき、それは、善い人に対しては温和となり、悪い人に対しては親切となります。

(五) 本当に柔和な人たちは、何が悪であるかを、はっきり見分けることができます。そして、それを忍ぶこともできます。この種のことはすべて感じとりますが、それでも柔和が手綱を握っています。彼らは、「万軍の神、主のために非常に熱心」です(列王紀上一九・一〇)。けれども、その熱心は、いつも知識に導かれています。そして、すべての思いと言葉と行いにおいて、神への愛と人への愛とによって和らげられています。神は、賢い目的のために、彼らの性質にさまざまな情念を植えつけられました。彼らは、そのどれをも消し去ろうとは願いません。けれども、そのすべてを治めています。すべてを従わせ、ただその目的に仕えるためにだけ用いるのです。こうして、もっと荒々しく不快な情念でさえ、最も気高い目的に役立ちます。憎しみや怒りや恐れでさえ、罪に向けられ、信仰と愛とによって整えられるなら、魂の城壁ととりでのようになります。そのため、悪い者は近づいて魂を害することができません。

(六) 明らかに、この神聖な気質は、私たちのうちにとどまるだけでなく、日ごとに増し加わるべきものです。この気質を働かせ、それによって増し加える機会は、私たちが地上にいるかぎり、決してなくなりません。私たちに「必要なのは、忍耐」です。「神の御旨を行」い、また忍んで、「約束のものを受けるため」です(ヘブル一〇・三六)。私たちには、神へのゆだねが必要です。どんな境遇でも、こう言えるためです。「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」(マタイ二六・三九)。また、私たちには、「だれに対しても親切」であることが必要です(第二テモテ二・二四)。特に、恩を知らない者や悪人に対してです(ルカ六・三五)。そうでなければ、善をもって悪に勝つどころか(ローマ一二・二一)、悪に負けてしまいます。

(七) また、柔和が抑えるのは、外の行いだけではありません。昔、律法学者やパリサイ人はそう教えました。神に教えられていない、みじめな教師たちも、どの時代にも必ずそう教えるでしょう。私たちの主は、次の言葉で、この誤りを防ぎ、柔和の本当の広がりを示しておられます。「昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところです」(マタイ五・二一)。「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して」理由もなく「怒る者は、だれでも裁判を受けねばなりません。兄弟にむかって」ラカ「と言う者は、議会に引きわたされるでしょう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるでしょう」(マタイ五・二二)。

(八) 私たちの主は、ここで、心の中にとどまる怒りさえ、殺人の項目に数えておられます。外に不親切な行いとなって現れず、激した言葉一つにさえならない怒りもです。

「兄弟に対して怒る者は」とあります(マタイ五・二二)。その兄弟とは、生きているどんな人のことでもあります。私たちはみな兄弟だからです。心に何かの不親切を、愛に反する何かの気質を感じる者もそうです。理由もなく、すなわち十分な理由もなく怒る者、あるいはその理由が求める以上に怒る者もそうです。そのような者は、「だれでも裁判を受けねばなりません」(マタイ五・二二)。原語では、エノコス・エスタイ(ἔνοχος ἔσται)です。その瞬間に、神の正しいさばきを受けるべき者となるのです。

けれども、エイケー(εἰκῆ)、すなわち「理由もなく」という語を省いている写本の読みのほうを、選びたくならないでしょうか。この語は、まったく余計ではないでしょうか。人に対する怒りが、愛に反する気質だとします。そうなら、どうしてそれに理由が、十分な理由がありうるでしょうか。神の目にその怒りを正しいとするような理由が、どうしてありうるでしょうか。

罪に対する怒りなら、私たちも認めます。この意味でなら、私たちは怒ることがあっても、罪を犯さずにいられます(エペソ四・二六)。この意味でなら、私たちの主ご自身も、一度怒られたことが記されています。「イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆」かれたのです(マルコ三・五)。主は、罪人のために嘆き、罪に対して怒られました。そして、これは疑いなく、神の前に正しいことです。

(九) 「兄弟にむかって」ラカ「と言う者は」とあります(マタイ五・二二)。怒りに身をまかせて、何かさげすみの言葉を口にする者のことです。注解者たちが指摘しているとおり、ラカはシリア語で、本来は、からっぽの、むなしい、愚かな、という意味です。ですから、気にくわない相手に対して使える言葉としては、これ以上ないほど穏やかな言い方です。それでも、私たちの主がはっきり言われるとおり、これを使う者は、「議会に引きわたされるでしょう」(マタイ五・二二)。むしろ、議会のさばきを受けるべき者となる、と言うべきです。その人は、全地をさばく方から(創世記一八・二五)、もっと重い刑を受けるべき者となるのです。

「また、ばか者と言う者は」とあります(マタイ五・二二)。悪魔に機会を与えて(エペソ四・二七)、ののしりの言葉を吐き出す者のことです。わざと人をはずかしめ、侮る言葉を口にする者です。そのような者は、「地獄の火の刑を受けるべき者となります」(マタイ五・二二)。その瞬間に、最も重く罪に定められるべき者となるのです。注意すべきことがあります。私たちの主は、これらの者をみな、死刑を受けるべき者として描いておられるのです。第一の者は、絞首刑です。これは普通、下級の法廷で罪に定められた者に科されました。第二の者は、石打ちの刑です。これはしばしば、エルサレムの大議会で罪に定められた者に科されました。第三の者は、火あぶりの刑です。これは、最も重い罪を犯した者だけに、「ベンヒンノムの谷」で科されました(エレミヤ七・三一)。ゲー・エンノーン(Γη Εννων)です。私たちが「地獄」と訳している語は(マタイ五・二二)、明らかにここから取られています。

(一〇) 人は生れつき、ある務めをきちんと果たせば、神はほかの務めの欠けを大目に見てくださるだろう、と思い込みます。そこで、私たちの主は次に、このむなしい、しかしよくある思い込みを断ち切るように、気を配られます。主は、どんな罪人も神と取り引きすることはできない、と示されます。神は、ある務めを別の務めの代りに受けいれることも、従順の一部を全体の代りに受け取ることもなさらないのです。主は、私たちに警告されます。神への務めを果たしても、それで隣り人への務めを免れることはできない、と言われるのです。また、こうも警告されます。私たちに愛が欠けていれば、いわゆる敬虔のわざも、私たちを神に推薦するどころではない。かえって、その愛の欠如が、それらのわざをみな主に忌みきらわれるものにしてしまう、と言われるのです。

「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら」(マタイ五・二三)。あなたが兄弟に不親切にし、ラカとか「ばか者」とか言ったために(マタイ五・二二)、兄弟がうらみをいだいているのです。そのとき、供え物があなたの怒りのあがないになると思ってはなりません。悔い改めていない罪の罪責で良心が汚れているかぎり、供え物が少しでも神に受けいれられると思ってはなりません。「その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し」なさい(少なくとも、和解に向けて、自分にできることをすべてしなさい)。「それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい」(マタイ五・二四)。

(一一) これほどあなたの魂に深くかかわることを、一刻も遅らせてはなりません。「あなたを訴える者と」、「早く仲直りをしなさい」(マタイ五・二五)。今、その場でです。「一緒に道を行く時には、その途中で」です(マタイ五・二五)。できるなら、相手が見えなくなる前にです。「そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわた」すでしょう(マタイ五・二五)。すなわち、その人は、万民の審判者なる神に(ヘブル一二・二三)、訴えるのです。「裁判官は下役にわた」すでしょう(マタイ五・二五)。すなわち、神の怒りを執行するサタンに、わたすのです。「そして、あなたは獄に入れられるでしょう」(マタイ五・二五)。すなわち、地獄に入れられ、大いなる日のさばきのために、そこに閉じ込めておかれるのです(ユダ六)。「よくあなたに言っておきます。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできません」(マタイ五・二六)。けれども、あなたには、それは決してできません。支払うものを何も持っていないからです。ですから、いったんその獄に入れられたなら、あなたの「苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼ」るほかありません(黙示録一四・一一)。

(一二) その間にも、「柔和な人たちは」「地を受けつぐ」のです(マタイ五・五)。この世の知恵は、なんと愚かなのでしょう! この世の賢い人たちは、柔和な人たちに何度も警告していました。こういう扱いに憤らないなら、こんなふうにおとなしく虐げられるままにしているなら、地上で生きてはいけない、と言うのです。生活に普通に必要なものも手に入れられず、持っているものさえ守れないだろう。平和も、安らかに持ち続けることも、何かを楽しむことも、望めないだろう、と言うのです。まったくそのとおりでしょう。もし世に神がおられないなら、あるいは、神が人の子らを気にかけておられないなら、です。けれども、神は、さばきのために、また地上のすべての柔和な人を助けるために、立ち上がられます(詩篇七六・九)。そのとき、神は、この異教の知恵をすべて、なんとあざ笑われることでしょう。そして、「人の怒り」を変えて、ご自分を「ほめたたえる」ものとされるのです(詩篇七六・一〇)。神は、いのちと信心とにかかわるすべてのものを(第二ペテロ一・三)彼らに備えるように、特別に心を配られます。人の暴力や詐欺や悪意にもかかわらず、ご自分の備えたものを彼らのために確保されます。そして、確保したものを、豊かに楽しませてくださいます(第一テモテ六・一七)。それが少なくても多くても、彼らには甘いのです。彼らは、耐え忍ぶことによって、自分の魂を自分のものとしています(ルカ二一・一九)。それと同じように、神が与えてくださったものを、何でも本当に自分のものとしているのです。彼らはいつも、自分の持っているもので満足し(ヘブル一三・五)、いつも喜んでいます。それが神のみこころにかなうので、彼らも喜ぶのです。ですから、彼らの心も願いも喜びも天にありながら、本当に「地を受けつぐ」と言うことができるのです(マタイ五・五)。

(一三) けれども、この言葉には、さらに深い意味もあるようです。柔和な人たちは、「義の住む新しい」「地」で(第二ペテロ三・一三)、もっと際立った分け前にあずかる、ということです。その嗣業の大まかな描写を、ヨハネが黙示録の二十章で与えています(詳しいことは、のちに知ることになるでしょう)。「またわたしが見ていると、ひとりの御使が、天から降りてきました。彼は、龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおきました。また見ていると、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいました。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配しました」(黙示録二〇・一〜四)。「それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえりませんでした。これが第一の復活です。この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者です。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もありません。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配します」(黙示録二〇・五〜六)。

【二】 義に飢えかわいている人たちの幸い

(一) 私たちの主は、ここまで、主としてまことの宗教の妨げを取り除くことに、力を注いでこられました。そのような妨げとは、まず高ぶりです。これは、すべての宗教の第一の大きな妨げで、心の貧しさによって取り去られます。また、軽薄と無思慮です。これらは、聖なる悲しみによって取り除かれるまで、どんな宗教も魂に根づかせません。また、怒りや短気や不満です。これらはみな、クリスチャンの柔和によっていやされます。これらの妨げは、魂の悪い病です。それは、魂のうちに絶えず偽りの渇望を起し、魂を病んだ食欲で満たしていました。いったんこれらの妨げが取り除かれると、天から生れた霊に本来そなわっている食欲が戻ってきます。その霊は、義に飢えかわきます。そして、「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるでしょう」(マタイ五・六)。

(二) 前に述べたように、義とは神のかたちであり、キリスト・イエスのうちにあった思いです(ピリピ二・五)。それは、聖なる天的な気質をすべて一つにしたものです。それは、私たちの父であり、あがない主である神への愛と、神のゆえにすべての人を愛する愛とから生れ、またそこに行き着きます。

(三) この義「に飢えかわいている人たちは、さいわいです」(マタイ五・六)。この表現を十分に理解するために、次のことに目を留めなければなりません。第一に、飢えと渇きは、からだのあらゆる欲求の中で、最も強いものです。同じように、魂のこの飢え、すなわち神のかたちを求めるこの渇きも、いったん心に目ざめると、最も強いものになります。霊のあらゆる欲求の中で、最も強いのです。そうです、それは、ほかのすべての欲求を、ただ一つの大きな願いの中にのみ込んでしまいます。私たちを造られた方のかたちに従って新しくされたい、という願いです(コロサイ三・一〇)。第二に、次のことに目を留めなければなりません。私たちが飢えかわき始めると、そのときから、その欲求はやみません。食べて飲むか、死ぬかするまで、ますます激しく、しつこく求め続けます。それと同じように、キリストのうちにあった思いのすべてに(ピリピ二・五)飢えかわき始めると、そのときから、この霊の欲求はやみません。ますますしつこく、その食物を求めて叫びます。霊のいのちが少しでも残っているかぎり、満たされる前にやむことは、決してありえません。第三に、飢えと渇きは、食べ物と飲み物のほかの何によっても満たされないことに、目を留めることができます。飢えている人に、ほかの全世界を与えたとしましょう。あらゆる優雅な衣服、あらゆる豪華な飾り、地上のあらゆる宝、そうです、幾千の金銀を(詩篇一一九・七二)与えたとします。どれほど栄誉を与えてもかまいません。それでも、その人は見向きもしません。そのとき、そうしたものはみな、その人には何の値打ちもないのです。その人は、やはりこう言うでしょう。「私が欲しいのは、こういうものではない。食べ物をください。さもないと死んでしまう」。本当に義に飢えかわいている魂は、どれもまったく同じです。その人は、義のほかの何にも慰めを見いだせません。ほかの何によっても満たされないのです。ほかに何を差し出しても、軽んじられます。富であれ、栄誉であれ、快楽であれ、その人はやはりこう言います。「私が欲しいのは、こういうものではない! 愛をください。さもないと死んでしまう!」

(四) このような魂、すなわち神を慕い、いける神を慕う魂を(詩篇四二・二)、世が宗教と見なすもので満足させることはできません。世が幸いと見なすもので満足させられないのと同じです。世の宗教には、三つのことが含まれます。一、害を加えないこと、外の罪を避けることです。少なくとも、強盗、盗み、口ぎたない誓い言葉、泥酔のような、人目に立つ罪を避けることです。二、善を行うこと、貧しい人を助けること、いわゆる慈善を行うことです。三、恵みの手段を用いることです。少なくとも、教会に行き、主の晩餐にあずかることです。この三つのしるしの見られる人を、世は信心深い人と呼びます。けれども、これで、神に飢えている人が満足するでしょうか。いいえ。それは、その人の魂の食物ではありません。その人が求めているのは、もっと気高い種類の宗教、これよりも高く深い宗教です。このような貧しく浅い、形だけのものを、糧にすることはできません。「東風をもってその腹を満たす」ことができないのと同じです(ヨブ一五・二)。確かに、その人は、あらゆる種類の悪から遠ざかるように気をつけています(第一テサロニケ五・二二)。良きわざに熱心です(テトス二・一四)。神の定めをすべて守っています。けれども、そのすべてが、その人の慕い求めているものではありません。これは、その人が飽くことなく飢え求めている宗教の、外側にすぎないのです。キリスト・イエスにおいて神を知ることです。「キリストと共に神のうちに隠されている」いのちです(コロサイ三・三)。「主につ」き、「主と一つの霊にな」ることです(第一コリント六・一七)。「父ならびに御子」との「交わり」を持つことです(第一ヨハネ一・三)。「神が光の中にいますように」、「光の中を歩く」ことです(第一ヨハネ一・七)。「彼がきよくあられるように」きよくされることです(第一ヨハネ三・三)。これこそ、その人が渇き求めている宗教、渇き求めている義です。そして、このように神のうちに憩うまでは、憩うことができません。

(五) このように「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるでしょう」(マタイ五・六)。彼らは、慕い求めているもので満たされます。真の義と聖とで満たされるのです(エペソ四・二四)。神は、ご自分のいつくしみの祝福で、ご自分の選ばれた者の繁栄で(詩篇一〇六・五)、彼らを満ち足らせてくださいます。天のパンで、ご自分の愛のマナで、彼らを養ってくださいます。ご自分の楽しみの川の水を、彼らに飲ませてくださいます(詩篇三六・八)。その水を飲む者は、いつまでも、かわくことがありません(ヨハネ四・一四)。ただ、いのちの水をますます多く求めて、かわくだけです。この渇きは、永遠に続きます。

苦しい渇きも、切ない願いも、喜びに満ちたあなたの臨在が、取り去ります。けれども、満たされた私の魂は、なおも求めます。永遠のすべてにわたる愛を。

(六) ですから、あなたがだれであれ、神があなたに、「義に飢えかわ」くことを与えてくださったなら(マタイ五・六)、神に叫び求めなさい。あの計り知れない賜物を決して失わないように、この神聖な食欲が決してやまないように、叫び求めなさい。多くの人があなたをしかって黙らせようとしても(マルコ一〇・四八)、気にかけてはなりません。そうです、ますます激しく叫びなさい。「イエスさま」、私を「あわれんでください」(ルカ一七・一三)。「あなたが聖なる方であるように聖なる者となるためでなければ(第一ペテロ一・一六)、私を生かしておかないでください」。もう、「かてにもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労」してはなりません(イザヤ五五・二)。幸いを地から掘り出せると、世のものの中に見つけられると、望めるでしょうか。ああ、世のあらゆる快楽を、足で踏みにじりなさい。世の栄誉をさげすみなさい。世の富を、ふん土やかすのように思いなさい(ピリピ三・八)。そうです、日の下にあるすべてのものを、そう思いなさい。「キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに」です(ピリピ三・八)。あなたの魂が、初めにかたどって造られた神のかたちに(創世記一・二七)、すっかり新しくされるためです。世が宗教と呼ぶものによって、あのさいわいな飢え渇きを消してしまわないように、気をつけなさい。それは形式の、うわべの宗教です。心を以前のままに、地上的で肉的なままにしておく宗教です。敬虔の力のほかには、何によっても満足してはなりません。霊であり、またいのちである宗教(ヨハネ六・六三)のほかには、満足してはなりません。それは、あなたが神におり、神もあなたにいますことです(第一ヨハネ四・一六)。永遠に住む者となることです。そそがれた血によって(ヘブル一二・二四)、「幕の内」に入ることです(ヘブル六・一九)。「キリスト・イエスにあって」、「天上で座につ」くことです(エペソ二・六)。

【三】 あわれみ深い人たちの幸い

(一) 彼らは、神のいのちに満たされれば満たされるほど、ますます心優しく、ほかの人々を気づかうようになります。なおこの世の中で神もなく(エペソ二・一二)、なお罪過と罪とによって死んでいる人々を(エペソ二・一)、気づかうのです。このように人を気づかうことは、その報いを失いません。「あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるでしょう」(マタイ五・七)。

私たちの主がここで使われた語は、もっと直接には、思いやりのある人たち、心の優しい人たちを意味します。神に飢えていない人々をさげすむどころか、その人々のために心から悲しむ人たちです。

兄弟愛のこの際立った部分が、ここでは、よくある言葉のあやによって、全体を表しています。ですから、この語の十分な意味での「あわれみ深い人たち」とは(マタイ五・七)、隣り人を「自分を愛するように」愛する人たちのことです(マタイ二二・三九)。

(二) この愛は、きわめて重要です。愛がなければ、「たとい」私たちが「人々の言葉や御使たちの言葉を語っても」、「預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても」、そうです、「自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても」、「いっさいは無益」なのです(第一コリント一三・一〜三)。そのため、神の知恵は、使徒パウロを通して、この愛について十分で詳しい説明を与えてくださいました。それをよく考えれば、あわれみを受けるあわれみ深い人たちとはだれなのかが、最もはっきり分かるでしょう。

(三) 「愛は寛容であり」ます(第一コリント一三・四)。英語の聖書はこの語を「チャリティ」と訳していますが、それは愛のことです(全体を通して「愛」と訳してほしかったものです。そのほうがはるかに平明で、あいまいさの少ない語だからです)。キリストが私たちを愛してくださったように(ヨハネ一三・三四)隣り人を愛する愛は、寛容であり、すべての人に対して忍耐強いのです。愛は、神の子たちのあらゆるもろさ、無知、誤り、弱さを忍びます。そのあらゆるかたくなさと、信仰の小ささを忍びます。世の子らのあらゆる悪意と邪悪も忍びます。しかも、それをすべて、しばらくの間、短い期間だけでなく、最後まで忍ぶのです。敵が飢えるなら、なお食わせ、かわくなら、なお飲ませます(ローマ一二・二〇)。こうして、絶えず敵の「頭に燃えさかる炭火を積む」のです(ローマ一二・二〇)。それは、とかす愛の炭火です。

(四) 「善をもって悪に勝」つという(ローマ一二・二一)この望ましい目的に向かう一歩一歩において、「愛は情深い」のです(第一コリント一三・四)。原語はクレーステウエタイ(χρηστεύεται)で、たやすくは訳せない語です。愛は、柔らかく、穏やかで、慈しみ深いのです。陰気さからも、霊のあらゆるとげとげしさや、ひねくれた心からも、最も遠く離れています。そして、忍ぶ人に、最も好ましい優しさと、最も熱く細やかな情愛とを、同時に吹き込みます。

(五) したがって、愛は「ねたむことをしません」(第一コリント一三・四)。ねたむことはありえません。愛は、その有害な気質の正反対だからです。この人は、すべての人に細やかな情愛をいだいています。神の造られたすべての魂に、この世の祝福と霊の祝福のすべてを、この世と来るべき世のあらゆる良いものを、心から願っています。そのような人が、神がどの人の子に良い賜物を与えられても、それに心を痛めるはずはありません。自分も同じものを受けているなら、ほかの人がその共通の恵みにあずかるのを、悲しまずに喜びます。受けていないなら、少なくとも兄弟は受けていて、その点で自分よりも幸いであることを、神に感謝します。そして、愛が大きければ大きいほど、すべての人の受ける祝福を、ますます喜びます。どんな被造物に対しても、どんな種類、どんな程度のねたみからも、ますます遠く離れるのです。

(六) 愛はウー・ペルペレウエタイ(οὐ περπερεύεται)です。これは、「高ぶらない」という意味ではありません(第一コリント一三・四)。それでは、すぐ次の言葉と同じになってしまいます。むしろ、この語の本来の意味でもあるとおり、さばくことに無謀でなく、性急でない、という意味です。愛は、だれをも性急に罪に定めません。ちょっと見ただけで、あるいは急いで見ただけで、厳しい判決を下すことはしません。まず、すべての証拠を量ります。特に、訴えられている人に有利な証拠を量るのです。本当に隣り人を愛する人は、世の大多数の人のようではありません。大多数の人は、きわめて微妙な事柄においてさえ、「少し見て、大いに推測し、そうして結論に飛びつく」のです。いいえ、その人は、用心深く、慎重に進みます。一歩一歩に気をつけます。そして、古代の異教徒のあの規則に、喜んで従います(ああ、それに比べて、今のクリスチャンはどう見えることでしょう!)。「私は、ある人がほかの人について言う悪口を、軽々しく信じない。それどころか、人が自分自身について言う悪いことさえ、たやすくは信じない。いつもその人に考え直す機会を与え、多くの場合は、人に相談する機会も与えよう」。

(七) 続いて、愛は「誇らない」とあります(第一コリント一三・四)。愛は、だれをも、「思うべき限度を越えて思いあが」るように傾けず(ローマ一二・三)、そうすることを許しません。むしろ、慎み深く思うようにさせます(ローマ一二・三)。そうです、愛は、魂をちりにまで低くします。高ぶりを生む、思いあがった考えを、すべて滅ぼします。そして、私たちに、無に等しい者であることを喜ばせます。小さく卑しい者、すべての人の中で最も低い者、すべての人に仕える者であることを、喜ばせるのです。「兄弟の愛をもって互にいつくしみ」合う人たちは(ローマ一二・一〇)、「進んで互に尊敬し合」わずにはいられません(ローマ一二・一〇)。同じ愛の心を持ち、心を合わせている人たちは(ピリピ二・二)、へりくだった心をもって「互に人を自分よりすぐれた者と」します(ピリピ二・三)。

(八) 愛は「不作法をしません」(第一コリント一三・五)。粗野ではなく、だれに対しても、わざと気を悪くさせることはしません。愛は、「すべてに対して、義務を果し」、「恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬」います(ローマ一三・七)。全世界に、礼儀と丁重さと人情とを尽くします。それぞれの身分に応じて、「すべての人をうやま」うのです(第一ペテロ二・一七)。近ごろのある著述家は、良いしつけを、いや、その最高の段階である礼節を、こう定義しています。「人を喜ばせたいという絶えざる願いが、すべてのふるまいに現れること」。もしそうなら、クリスチャンほど、すなわちすべての人を愛する人ほど、しつけの良い人はいません。その人は、「徳を高めるために、その益を図って」すべての人を「喜ばす」ことを(ローマ一五・二)、願わずにはいられないからです。そして、この願いは隠すことができません。人とのあらゆる交わりに、必ず現れます。その人の「愛には偽りが」ないからです(ローマ一二・九)。その愛は、その人のすべての行いとふるまいに現れます。そうです、偽りなしに、その人を「すべての人に対しては、すべての人のように」ならせずにはおきません。「なんとかして幾人かを救うため」です(第一コリント九・二二)。

(九) そして、すべての人のようになるとき、愛は「自分の利益を求めません」(第一コリント一三・五)。すべての人を喜ばせようと努めるとき、人を愛する人は、この世での自分の利益に、まったく目を向けません。人の金や銀や衣服をほしがりません(使徒二〇・三三)。人々の魂の救いのほかは、何も望みません。そうです、ある意味では、この世の利益だけでなく、自分の霊の利益も求めない、と言うことができます。人々の魂を死から救い出そうと(ヤコブ五・二〇)全力を尽くしている間、その人は、いわば自分を忘れているからです。神の栄光を求めるあの熱心にのみ込まれているかぎり、自分のことは考えません。いや、ときには、愛があふれるあまり、自分自身を、魂もからだも、ほとんど捨ててしまうように見えることさえあります。モーセと共に、こう叫ぶのです。「ああ、この民は大いなる罪を犯し」ました。「今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば」と言いかけます。そして、「しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」と叫ぶのです(出エジプト三二・三一〜三二)。あるいは、パウロと共に、こう叫ぶのです。「わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいといません」(ローマ九・三)。

(一〇) このような愛が「いらだたない」のも(第一コリント一三・五)、不思議ではありません。原語はウー・パロクシュネタイ(οὐ παροξύνεται)です。注意してほしいことがあります。英語の聖書は、ここを「たやすくいらだたない」と訳しています。けれども、この「たやすく」という語は、奇妙にも訳に差し込まれたもので、原文にはありません。パウロの言葉は無条件なのです。愛は「いらだたない」のです(第一コリント一三・五)。だれに対しても、いらだって不親切になることはありません。確かに、いらだたせるきっかけは、しばしば起ります。さまざまな種類の、外からの挑発です。けれども、愛は挑発に屈しません。すべてに打ち勝ちます。あらゆる試練の中で、愛はイエスを仰ぎ見て(ヘブル一二・二)、主の愛によって勝ち得て余りがあります(ローマ八・三七)。

英語の聖書の訳者たちがこの語を差し込んだのは、いわば使徒を弁護するためだったのかもしれません。そうしなければ、使徒は、自分がこれほど美しく描いている当の愛に欠けているように見えかねない、と彼らは考えたのでしょう。彼らがそう考えたのは、使徒行伝のある言い回しのためのようです。その言い回しも、同じように、きわめて不正確に訳されています。パウロとバルナバが、マルコというヨハネのことで(使徒一五・三七)意見が分かれたとき、訳はこうなっています。「そして、ふたりの間の争いがあまりに激しかったので、ふたりは別れ別れになりました」(使徒一五・三九)。これを読むと、読者は自然に、二人とも同じように激しかったのだと考えてしまいます。パウロも、バルナバと同じほどいらだったのだと考えてしまうのです。けれども、問題の点については、疑いなくパウロが正しかったのです。以前に一行から離れたヨハネを(使徒一五・三八)、再び連れて行くのは、まったくふさわしくなかったからです。バルナバは、聖霊によって聖別されて当てられた仕事を(使徒一三・二)、捨ててしまうほどの怒りを示しました。けれども、原文は、そのような意味を少しも含んでいません。パウロがいらだったとは、まったく言っていないのです。原文は、ただ、カイ・エゲネト・パロクシュスモス(καὶ ἐγένετο παροξυσμός)、すなわち「そして、激しいいらだちが起りました」と言っているだけです(使徒一五・三九)。それは、怒りの発作です。その結果、バルナバはパウロを離れ、ヨハネを連れて、自分の道を行きました。それから、「パウロはシラスを選び、兄弟たちから」神の「恵みにゆだねられて、出発し」ました(使徒一五・四〇)。バルナバについては、そうは言われていません。「そしてパウロは」、予定していたとおり、「シリヤ、キリキヤの地方をとおって、諸教会を力づけ」ました(使徒一五・四一)。話をもとに戻しましょう。

(一一) 愛は、そうでなければ起るはずの無数のいらだちを、未然に防ぎます。愛は、悪を思わないからです(第一コリント一三・五)。確かに、あわれみ深い人も、悪い事柄を数多く知らずにはいられません。それを自分の目で見、自分の耳で聞かずにはいられません。愛は、その人の目をつぶすわけではないからです。ですから、そのようなことが行われているのを、見ないわけにはいきません。また、愛は、感覚を取り去らないのと同じように、理解力も取り去りません。ですから、それが悪いことだと、知らないわけにはいきません。たとえば、人が隣り人をなぐるのを見たり、神を汚す言葉を聞いたりするとします。そのとき、その人は、行われたことや語られた言葉を、疑うことはできません。それが悪であることも、疑えません。それでも、ウー・ロギゼタイ・ト・カコン(οὐ λογίζεται τὸ κακόν)、すなわち、愛は悪を思わないのです。ロギゼタイ、すなわち「思う」という語は、見ることや聞くことを指すのではありません。理解力の最初の、思わず起る働きを指すのでもありません。考えなくてもよいことを、わざわざ考えることを指すのです。悪が現れていないところに、悪を推し量ることです。見ていない事柄について、あれこれ推論することです。見も聞きもしなかったことを、想像することです。まことの愛は、これを跡形もなく滅ぼします。知りもしないことを想像するのを、すべて根こそぎにします。あらゆる邪推、あらゆる悪い疑い、悪をすぐに信じようとする心を、すべて締め出します。愛は、率直で、開けっぴろげで、人を疑いません。悪をたくらむことができないように、悪を恐れることもありません。

(一二) 愛は「不義を喜ば」ないのです(第一コリント一三・六)。不義を喜ぶことは、キリストの名を負う人々の間でさえ、よくあることです。彼らは、敵が倒れるとき(箴言二四・一七)、苦しみに陥っても、誤りに陥っても、罪に陥っても、平気でそれを喜ぶのです。実際、何かの党派に熱心に肩入れしている人々が、これを避けるのは、なんと難しいことでしょう! 反対の党派の人々に何かの欠点を見つけたとき、それを喜ばずにいるのは、なんと難しいことでしょう! 本当の欠点であれ、思い込みの欠点であれ、主義の欠点であれ、実践の欠点であれ、そうなのです。どんな主張であれ、それを熱心に擁護する人で、これを免れている人がいるでしょうか。そうです、まったく免れているほど冷静な人がいるでしょうか。敵が足を踏みはずし、それが自分の主張に有利になると思うとき、喜ばない人がいるでしょうか。愛の人だけです。愛の人だけが、敵の罪や愚かさのために泣きます。それを聞くことにも、言いふらすことにも、喜びを感じません。むしろ、それがいつまでも忘れられることを願うのです。

(一三) けれども、その人は「真理を喜」びます(第一コリント一三・六)。それがどこに見いだされても、喜ぶのです。「信心にかなう真理」を喜びます(テトス一・一)。その真理は、ふさわしい実を結びます。心の聖さと、ふるまいの聖さです。意見について、あるいは実践のいくつかの点について、自分に反対する人々がいます。その人々も、それでもなお神を愛する人であり、ほかの点では責められるところのない人だと分かると(コロサイ一・二二)、その人は喜びます。その人々の良いうわさを聞くのを喜び、真実と正義にかなうかぎり、その人々の良いことを語るのを喜びます。実際、人類のどこに広がっていようと、善そのものが、その人の誇りであり喜びなのです。世界の市民として、世界のすべての住民の幸いに、自分もあずかろうとします。自分も人間なので、どんな人の幸福にも無関心ではいられません。神に栄光を帰し、人々の間に平和と善意とを広めるものなら、何でも喜びます。

(一四) この愛は「すべてをおおいます」(第一コリント一三・七)。疑いもなく、パンタ・ステゲイ(πάντα στέγει)は、こう訳すべきです。そうでなければ、パンタ・ヒュポメネイ(πάντα ὑπομένει)、すなわち「すべてを耐える」と(第一コリント一三・七)、まったく同じになってしまうからです。あわれみ深い人は、不義を喜ばないので、不義を進んで口にすることもしません。どんな悪を見ても、聞いても、知っても、それを隠します。「ほかの人の罪に加わ」ることにならないかぎり(第一テモテ五・二二)、隠すのです。どこにいても、だれと一緒にいても、良くないと思うことを見たなら、それを口外しません。当の本人にだけは言います。そうすれば、兄弟を得ることができるかもしれないからです(マタイ一八・一五)。ほかの人の欠点や失敗を、話の種にするどころではありません。その場にいない人については、良いことを言えないかぎり、まったく話さないのです。告げ口をする者、陰口をたたく者、ひそひそと中傷する者、悪口を言う者は、その人にとっては、人殺しとまったく同じです。その人にとって、このように隣り人の評判を殺すことは、隣り人ののどをかき切るのと同じほど、ありえないことです。このように矢や燃え木や死をまき散らしておいて、「私はただ戯れただけではないか」と言う人がいます(箴言二六・一八〜一九)。そうすることは、その人には、隣り人の家に火をつけて楽しむのと同じほど、思いもよらないことです。

その人には、ただ一つだけ例外があります。ときには、ある悪をおおわないことが、神の栄光のため、あるいは(同じことですが)隣り人の益のためだ、と確信することがあります。その場合には、罪のない人の益のために、やむをえず罪のある人を明らかにします。けれども、その場合でさえ、次のようにします。一、愛が、まさる愛が迫るまでは、まったく語りません。二、善を行うとか、神の栄光を広めるとかいう、ばくぜんとした混乱した考えから語ることはできません。自分の追い求める何か特定の目的、何かはっきりした善を、明確に見ていなければなりません。三、それでも、この手段こそがその目的に必要だと十分に確信しないかぎり、語ることはできません。ほかのどんな方法によっても、その目的はかなえられない。少なくとも、それほど効果的にはかなえられない。そう確信しなければならないのです。四、そのうえで、この上ない悲しみと気の進まなさとをもって語ります。それを、最後の、最悪の薬として用いるのです。それは、絶望的な場合の、捨て身の治療法です。毒を追い出すためにしか決して用いてはならない、一種の毒です。五、したがって、できるかぎり控えめに用います。しかも、恐れおののきながら、そうするのです(ピリピ二・一二)。語りすぎることによって、まったく語らない場合よりも、愛のおきてを破ってしまわないかと恐れるのです。

(一五) 愛は「すべてを信じ」ます(第一コリント一三・七)。いつでも、最も良いほうに考えようとします。どんなことでも、最も好意的に解釈しようとします。だれの人柄にであれ、有利になりそうなことなら、いつでも信じようとします。どんな人についても、その人に罪がないこと、その人が誠実であることを、たやすく確信します(愛は、それを心から願っているのです)。少なくとも、その人がかつて道を踏み外したことがあるなら、その悔い改めが真実であることを、たやすく確信します。間違っていることは、何でも喜んで大目に見ます。罪を犯した人を、できるかぎり罪に定めないようにします。神の真理を裏切らずにできるかぎり、人間の弱さを酌量します。

(一六) そして、もう信じることができないときには、愛は「すべてを望み」ます(第一コリント一三・七)。だれかについて、何か悪いことが伝えられているでしょうか。愛は、その話が本当ではないこと、伝えられたことは実際には行われなかったことを望みます。それが行われたことは確かでしょうか。「けれども、伝えられているような事情のもとで行われたのではないかもしれない。だから、その事実を認めるとしても、言われているほど悪くはなかったと望む余地がある」。その行いが、見たところ否定しようもなく悪いものだったでしょうか。愛は、その意図はそうではなかったことを望みます。意図も悪かったことが明らかでしょうか。「それでも、それは、心に根づいた気質から出たのではないかもしれない。一時の激情から、あるいは何かの激しい誘惑から出たのではないだろうか。その誘惑が、その人にわれを忘れさせたのではないだろうか」。そして、行いも意図も気質も、どれも同じように悪いことが疑えないときでさえ、愛はなお望みます。神がついにその御腕をあらわし(イザヤ五二・一〇)、ご自分のために勝利を得られることを望みます(詩篇九八・一)。そして、この「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にある」ようになることを望むのです(ルカ一五・七)。

(一七) 最後に、愛は「すべてを耐え」ます(第一コリント一三・七)。これで、本当にあわれみ深い人の姿が完成します。その人は、いくつかのこと、多くのことだけを耐えるのではありません。大部分のことでもなく、まったくすべてのことを耐えるのです。人の不正や悪意や残酷さが加えうるものなら、何でも忍ぶことができます。何ものも、耐えられないとは言いません。どんなことについても、「これは我慢できない」とは決して言いません。いいえ、その人は、自分を強くしてくださるキリストによって、何事でもすることができます(ピリピ四・一三)。それだけでなく、何事でも忍ぶことができるのです。そして、忍ぶどんなことも、その人の愛を滅ぼさず、少しも損ないません。その愛は、何ものにも屈しません。それは、大いなる淵のただ中でさえ燃える炎です。その人の「愛は大水も消すことができない、洪水もおぼれさせることができません」(雅歌八・七)。その愛は、すべてに打ち勝ちます。時においても、永遠においても、「いつまでも絶えることがありません」(第一コリント一三・八)。

天の定めに従って、知識はすたれ、預言はやみます。けれども、いつまでも続く愛は、さらに広く治め、時に縛られず、朽ちることもなく、幸いな勝利のうちに、とこしえに生きて、限りない善を広め、限りない賛美を受けます。

こうして、「あわれみ深い人たちは」「あわれみを受ける」のです(マタイ五・七)。彼らのすべての道に神の祝福があることによって、あわれみを受けます。彼らが兄弟たちにいだく愛を、神が今、千倍にして彼ら自身のふところに報い返してくださることによって、あわれみを受けます。それだけではありません。「世の初めから」彼らの「ために用意されている御国」があります(マタイ二五・三四)。そこで、「永遠の重い栄光を、あふれるばかりに」受けることによっても、あわれみを受けるのです(第二コリント四・一七)。

(一八) しばらくの間、あなたがたはこう言うかもしれません。「わざわいなるかな、わたしは」やむをえず「メセクにやどり、ケダルの天幕のなかに住んでいます」(詩篇一二〇・五)。あなたがたは心を注ぎ出して、地上から本当の、まことの愛が失われたことを嘆くかもしれません。まことに、愛は失われてしまったのです。あなたがたは、こう言っても当然でしょう(ただし、昔の意味においてではありません)。「見よ、このクリスチャンたちは、なんと互に愛し合っていることか」。このクリスチャンの王国を見なさい。互にはらわたを引き裂き、火と剣とで互に荒らし合っています! このクリスチャンの軍隊を見なさい。互に幾千、幾万もの人々を、生きたまま地獄に送り込んでいます。このクリスチャンの国民を見なさい。内輪の争いで燃え上がり、党派は党派と、派閥は派閥と争っています! このクリスチャンの町々を見なさい。欺きと詐欺、しえたげと不正、そうです、強盗と殺人が、その通りを離れることがありません(詩篇五五・一一)。このクリスチャンの家庭を見なさい。ねたみ、嫉妬、怒り、家庭内のいさかいによって、数限りなく、果てしなく引き裂かれています。そうです、何よりも恐ろしく、何よりも嘆かわしいのは、このクリスチャンの教会です! これらの教会は、平和の君(イザヤ九・六)であるキリストの名を負いながら、互に絶え間なく戦っています! 「ガテにこの事を告げてはいけない」(サムエル記下一・二〇)。けれども、ああ、ユダヤ人からも、トルコ人からも、異教徒からも、どうしてこれを隠せるでしょうか。罪人を生きたまま焼いて改宗させています! 「聖徒の血」に「酔いしれて」います(黙示録一七・六)。このほまれは、「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」(黙示録一七・五)だけのものでしょうか。いいえ、決してそうではありません。宗教改革を経た教会(そう呼ばれている教会)も、すっかりその足跡を踏むことを覚えてしまいました。プロテスタントの教会も、権力を手にすると、血を流すまで迫害することを知っています。そのうえ、彼らもまた、なんと互をのろい合っていることでしょう! 互を最も深い地獄に落とそうとしています! 彼らの間には、どこにでも、なんという憤り、なんという争い、なんという悪意、なんという苦々しさがあることでしょう! 宗教の本質では一致していて、ただ意見や宗教の付随的なことで違っているだけのところでさえ、そうなのです。ただ「平和に役立つことや、互の徳を高めること」だけを(ローマ一四・一九)、追い求める人がいるでしょうか。ああ、神よ! いつまでですか。あなたの約束はすたれるのでしょうか(詩篇七七・八)。小さい群れよ、それを恐れてはなりません(ルカ一二・三二)! 望み得ないのに、なおも望みつつ信じなさい(ローマ四・一八)! 地のおもてを再び新たにすることは(詩篇一〇四・三〇)、あなたがたの父のみこころなのです(ルカ一二・三二)。確かに、これらのことはみな終りを告げ、世に住む者は正義を学びます(イザヤ二六・九)。「国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学びません」(イザヤ二・四)。「主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち」ます(イザヤ二・二)。そして、「この世の国は」、私たちの神の「国とな」ります(黙示録一一・一五)。そのとき、「彼らは」主の「聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることが」ありません(イザヤ一一・九)。かえって、彼らは自分たちの「城壁を『救』ととなえ、その門を『誉』ととなえ」ます(イザヤ六〇・一八)。彼らはみな、しみも傷もなく(エペソ五・二七)、キリストが私たちを愛してくださったように、互に愛し合います(ヨハネ一三・三四)。刈り入れがまだであるなら、あなたはその初穂の一部となりなさい。自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい(マタイ二二・三九)。神である主が、すべての魂に対するそのような愛で、あなたの心を満たしてくださいますように。その魂のためになら、自分のいのちを捨てる覚悟ができるほどの愛です! あなたの魂が、絶えず愛にあふれますように。不親切で聖くない気質をすべてのみ込み、主があなたを愛の国に召し上げてくださるまで、あふれますように。そこで、主と共に世々かぎりなく支配するためです!