説教二十一 山上の説教(一)
「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきました。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われました。『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものです。悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるでしょう』」(マタイ五・一〜四)
(一) 私たちの主は、このころまでに「ガリラヤの全地を巡り歩いて」おられました(マタイ四・二三)。「ヨハネが捕えられた」ときから(マタイ四・一二)、そうしておられたのです。「諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」ただけではありません。「民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった」のです(マタイ四・二三)。その当然の結果として、「ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従」いました(マタイ四・二五)。「イエスはこの群衆を見て」、「山に登」られました(マタイ五・一)。この群衆は、たとえ近くに会堂があったとしても、どの会堂にも入りきらなかったでしょう。山には、四方から主のもとに来るすべての人が入れる場所があったのです。ユダヤ人のならわしのとおりに、イエスが「座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた」のです(マタイ五・一)。「そこで、イエスは口を開き」(これは、厳かな説教の始まりを表す言い方です)、「彼らに教えて言われ」ました(マタイ五・二)。
(二) ここで語っておられるのがだれなのかに、目を留めましょう。どう聞くかに注意するためです(ルカ八・一八)。それは、天地の主、万物の造り主です。造り主として、ご自分の造られたすべてのものを思いのままに扱う権利を持っておられます。それは、私たちを治める主です。その国はとこしえの国であり(詩篇一四五・一三)、そのまつりごとはすべての物を統べ治めます(詩篇一〇三・一九)。それは、偉大な立法者です。ご自分のすべての律法を守らせる力を持っておられます。「救うことも滅ぼすこともできる」方だからです(ヤコブ四・一二)。そうです、「主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰」を与えることもできるのです(第二テサロニケ一・九)。それは、御父の永遠の知恵です。この方は、私たちの造られたさまを知り(詩篇一〇三・一四)、私たちの最も奥のなりたちまで理解しておられます。私たちが、神と、互いと、神の造られたすべてのものと、どのような関係にあるかを知っておられます。ですから、ご自分の定めるすべての律法を、神が私たちを置かれたあらゆる境遇にどう合わせればよいかを、知っておられるのです。それは、「すべてのものに恵みがあり、そのあわれみはすべてのみわざの上にある」方です(詩篇一四五・九)。愛の神です。この方は、永遠の栄光を捨てておのれをむなしくし(ピリピ二・七)、人の子らに御父のみこころを告げるために、御父から出てこられました。そして、再び御父のみもとに行かれます(ヨハネ一六・二八)。この方は、「盲人の目を開き」(イザヤ四二・七)、「暗黒」に「住む者を照」すために(ルカ一・七九)、神からつかわされたのです。それは、主の偉大な預言者です。この方について、神ははるか昔に厳かに宣言されました。「彼がわたしの名によって、わたしの言葉を語るのに、もしこれに聞き従わない者があるならば、わたしはそれを罰します」(申命記一八・一九)。使徒の言い方では、こうです。「彼に聞きしたがわない者は、みな民の中から滅ぼし去られます」(使徒三・二三)。
(三) では、この方は何を教えておられるのでしょうか。天から来られた神の御子が、ここで、天への道を示しておられます。私たちのために用意してくださった場所への道です(ヨハネ一四・二)。世が造られる前に御子が持っておられた栄光への道です(ヨハネ一七・五)。御子は、永遠のいのちに至るまことの道を教えておられます。御国に通じる王の道です。そして、ただ一つのまことの道です。ほかに道はないからです。ほかの道はみな、滅びに至ります(マタイ七・一三)。語っておられる方がどういう方かを考えれば、私たちは確信できます。この方は、神の完全で欠けのないみこころを告げてくださったのです。多すぎることは一画も語っておられません。御父から受けたこと以上は、何も語っておられないのです。少なすぎることもありません。神のみ旨をあますところなく伝えることを、ためらわれなかったのです(使徒二〇・二七)。まして、何か誤ったこと、ご自分をつかわされた方のみこころに反することを、語られたはずがありません。この方の言葉はみな、すべてのことについて真実で正しく、世々かぎりなく堅く立ちます(詩篇一一一・八)。
また、たやすく気づくことがあります。主は、これらの信ずべき、まことの言葉を(黙示録二二・六)説き明かし、確かなものとされます。そのとき、注意深く誤りを退けておられるのです。律法学者やパリサイ人の誤りを退けられるだけではありません。それは当時の誤った注釈で、その時代のユダヤ人の教師たちは、それによって神の言葉をゆがめていました。主は、救いと相いれない、実際の生活にかかわる誤りも、すべて退けておられます。それがキリスト教会にいつ起るものであってもです。どの時代、どの国であれ、クリスチャンの教師たち(そう呼ばれている人々)が、さまざまな注釈によって神の言葉をゆがめることがあります。そして、不注意な魂に、迷いの生活をして死を求めるように教えることがあります。主は、そのような注釈もすべて退けておられるのです。
(四) ここから、私たちは自然に、主がここでだれを教えておられるのかに、目を向けることになります。使徒たちだけではありません。そうなら、山に登る必要はなかったでしょう。マタイの家でも、ほかのどの弟子の家でも、その一部屋に十二人は入れたはずです。また、主のもとに来た弟子たちが十二人だけだったということは、どこからも読み取れません。これは、原語ではホイ・マセータイ・アウトゥー(οἱ μαθηταὶ αὐτοῦ)、すなわち「彼の弟子たち」です。この言葉は、無理に解釈しなくても、主から学びたいと願ったすべての人を指すと理解できます。けれども、これを疑いの余地のないものにしましょう。「イエスは口を開き、彼らに教えて」とあります(マタイ五・二)。その「彼ら」という語には、主と共に山に登ったすべての群衆が含まれています。それを否定しようもなく明らかにするには、七章の結びの節を見るだけで十分です。「イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆は」(ホイ・オクロイ、οἱ ὄχλοι)「その教にひどく驚」きました(マタイ七・二八)。すなわち、主の教え方に驚いたのです。「それは」群衆に、「律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからです」(マタイ七・二九)。
このとき主が救いの道を教えておられたのは、山の上で主と共にいた群衆だけではありません。すべての人の子ら、全人類でした。まだ生れていない子供たち、世の終りに至るまでの来るべきすべての世代でした。いつかこのいのちの言葉を聞くことになる人々みなです(使徒五・二〇)。
(五) このあとに続く説教の一部については、だれもがこのことを認めています。たとえば、心の貧しさについて言われていることが、すべての人にかかわることを否定する人はいません。けれども、多くの人は、ほかの部分はそうではないと考えてきました。使徒たちだけに、あるいは最初のクリスチャンたちだけに、あるいはキリストの教役者たちだけにかかわる、と言うのです。一般の人々に向けたものでは決してなく、したがって一般の人々には何のかかわりもない、と考えるのです。
けれども、こう問うのは正当ではないでしょうか。この説教のある部分は、使徒たちや、使徒時代のクリスチャンたちや、キリストの教役者たちだけにかかわる。そのようなことを、だれが彼らに告げたのでしょうか。ただ言い張るだけでは、これほど重大な点を立証するのに十分ではありません。では、私たちの主ご自身が、ご自分の説教のある部分はすべての人にかかわるのではない、と教えておられるでしょうか。もしそうなら、疑いなく、主は私たちにそう告げられたでしょう。これほど必要な知らせを、言い落とされるはずがありません。では、主はそう告げておられるでしょうか。どこででしょうか。この説教そのものの中ででしょうか。いいえ。ここには、そのことをほのめかす言葉さえ少しもありません。ほかのどこかで、ほかの説教の中で、そう言っておられるでしょうか。主が群衆に、あるいは弟子たちに語られたどの言葉の中にも、そのことにかすかにでも触れる言葉は、一つも見つかりません。使徒たちのだれか、あるいは霊感を受けたほかの記者が、そのような教えを書き残しているでしょうか。そのようなことはありません。神の言葉のどこにも、この種の主張は見当たりません。それなら、神よりもはるかに賢いこの人々は、いったいだれなのでしょうか。書かれていることをはるかに越えて賢いとは、何者なのでしょうか。
(六) おそらく彼らは、事柄の道理からして、そのような制限を設けなければならないのだ、と言うでしょう。もしそうなら、その理由は次の二つのどちらかのはずです。そのような制限がなければ、この説教は明らかにばかげたものになるか、聖書のほかの箇所と矛盾するか、です。けれども、そうではありません。一つ一つの項目を調べていけば、はっきりします。私たちの主がここで語られたことをすべて、すべての人に当てはめても、少しもばかげたことにはなりません。また、主が語られたほかの何とも、聖書のほかのどの箇所とも、矛盾することにはなりません。それどころか、さらに明らかになるでしょう。この説教は、すべての部分を人々一般に当てはめるか、どの部分も当てはめないか、どちらかなのです。すべての部分は互いにつながっているからです。アーチの石のように組み合わされていて、一つを取り去れば、建物全体がこわれてしまうのです。
(七) 最後に、私たちの主がここでどのように教えておられるかに、目を留めましょう。確かに、主はいつもそうでしたが、このときは特に、こう言われたとおりに語っておられます。「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」(ヨハネ七・四六)。昔の聖なる人々のようにではありません。彼らもまた「聖霊に感じ」て語ったのですが(第二ペテロ一・二一)、そのようにではないのです。ペテロやヤコブ、ヨハネやパウロのようにでもありません。彼らは確かに、主の教会の熟練した建築師でした(第一コリント三・一〇)。それでも、この点では、すなわち天の知恵の度合いでは、僕は主人に及びません(マタイ一〇・二四)。いいえ、ほかのときや、ほかの機会の主ご自身のようにでさえありません。ほかのときや場所で、主がご自分の宗教の全体の計画を一度に示そうとされたことは、見当たりません。キリスト教の全体の見通しを与えようとされたことも、あの聖性の性質を詳しく述べようとされたこともありません。それなしにはだれも主を見ることができない、あの聖性です(ヘブル一二・一四)。主は確かに、数え切れない機会に、その個々の部分を述べておられます。けれども、全体をまとめて見せようと意図して語られたのは、ここのほかにはありません。それどころか、聖書全体を見ても、この種のものはほかにありません。例外があるとすれば、神がシナイ山でモーセに与えられた、あの十の言葉、すなわち十誡でしょう(申命記四・一三)。それは、聖性を短く描いたものです。けれども、ここでさえ、両者の違いはなんと大きいことでしょう! 「すでに栄光を受けたものも、この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を失ったのです」(第二コリント三・一〇)。
(八) 何よりも、神の御子は、ここでなんと驚くべき愛をもって、御父のみこころを人に示しておられることでしょう! 御子は、私たちを再び、「火が燃え、黒雲や暗やみやあらしにつつまれ」た山に連れて行かれるのではありません(ヘブル一二・一八)。主が「天に雷をとどろかせ」、「いと高き者がみ声を出されると、ひょうと燃える炭とが降ってき」たときがありました(詩篇一八・一三)。主は、そのときのように語られるのでもありません。今、主は、静かな細い声で(列王紀上一九・一二)、私たちに語りかけておられます。「こころの貧しい人たちは、さいわいです」(マタイ五・三)。すなわち、幸いなのです。幸いなのは、悲しんでいる人たち、柔和な人たち、義に飢えかわいている人たち、あわれみ深い人たち、心の清い人たちです(マタイ五・四〜八)。終りにおいても、その途中においても幸いです。この世のいのちにおいても、永遠のいのちにおいても幸いです! まるで、こう言われたかのようです。「さいわいを見ようとして、いのちを慕い、ながらえることを好む人はだれでしょうか(詩篇三四・一二)。見よ、わたしは、あなたがたの魂が慕い求めているものを示します! あなたがたが長い間むなしく探してきた道を見なさい。それは楽しい道です(箴言三・一七)。静かで喜びに満ちた平安に至る道、地上の天と天上の天とに至る道です!」
(九) 同時に、主はなんと権威をもって教えておられることでしょう! 「律法学者たちのようにではなく」と言われているのも(マタイ七・二九)、もっともです。主の語り方に、その語られる様子に目を留めなさい(とはいえ、それは言葉では言い表せません)! 神の僕モーセのようにではありません。神の友アブラハムのようにでもありません(ヤコブ二・二三)。どの預言者のようにでも、どの人の子のようにでもありません。それは、人間を超えたものです。どんな造られたものにもふさわしくないほどのものです。それは、万物の造り主であることを物語っています! 神が、神が現れておられます! そうです、ホ・オーン(ὁ ὤν)、存在の中の存在、エホバ、自ら存在する方、至高者、万物の上にいます、永遠にほむべき神です(ローマ九・五)!
(一〇) この神の説教は、最もすぐれた順序で語られていて、後の部分がみな前の部分を明らかにしています。この説教は、普通、三つの主な部分に分けられます。それは適切な分け方です。第一の部分は五章に、第二は六章に、第三は七章にあります。第一の部分では、すべてのまことの宗教の要約が、八つの項目にまとめて示されます。それらの項目は、五章の続く部分で説き明かされ、人の誤った解釈から守られています。第二の部分には、正しい意図のための規則があります。私たちは、すべての外の行いにおいて、この意図を保たなければなりません。そこに、この世の欲も、生活に必要なものについての思いわずらいさえも、まじえてはならないのです。第三の部分には、宗教の主な妨げについての警告があり、最後に全体の適用で結ばれています。
【一】 こころの貧しい人たちの幸い
(一) 私たちの主は、第一に、すべてのまことの宗教の要約を、八つの項目にまとめて示されます。そして、五章の終りまで、それらを説き明かし、人々の誤った解釈から守っておられます。
ある人々は、主がこれらの項目で、クリスチャンの歩みのいくつかの段階を示そうとされたのだ、と考えてきました。クリスチャンが約束の地への旅で、順に踏んでいく段階です。ほかの人々は、ここに挙げられた項目はみな、どのクリスチャンにもいつでも当てはまる、と考えてきました。けれども、その両方を認めてはいけないのでしょうか。両者の間に、どんな矛盾があるでしょうか。心の貧しさも、ここに挙げられたほかのどの気質も、まことのクリスチャンのうちに、いつでも見られます。程度の差はあっても、だれのうちにも見られるのです。これは疑いなく真実です。また、次のことも同じように真実です。まことのキリスト教は、いつも心の貧しさから始まり、ここに挙げられた順に進んでいきます。そして、ついに「神の人が」「完全にととのえられた者にな」るのです(第二テモテ三・一七)。私たちは、神のこれらの賜物のいちばん低いものから始めます。けれども、神から、もっと上へ進むように召されるときにも、それを手放すのではありません。すでに「達し得たところ」を(ピリピ三・一六)堅く保ちながら、なお前にあるものへと進んでいくのです(ピリピ三・一三)。キリスト・イエスにある神の最も高い祝福へと進むのです。
(二) すべての土台は、心の貧しさです。ですから、私たちの主はここから始められます。主は言われます。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものです」(マタイ五・三)。
次のように考えても、無理はないでしょう。私たちの主は、周りにいた人々を見回されました。そして、そこには富んだ者は多くなく、むしろこの世の貧しい人たちがいるのに気づかれました(ヤコブ二・五)。そこで、それをきっかけに、この世のことから霊のことへと話を移されたのです。主は言われます。「こころの貧しい人たちは、さいわいです」(マタイ五・三)。「さいわい」とは、幸いということです。この節でも続く節でも、この語はそう訳すべきなのです。主は、外の境遇において貧しい人たちとは言っておられません。そのような人たちの中にも、王座の上の君主と同じほど、幸いから遠い人がいないとはかぎらないからです。主が言われるのは、「こころの貧しい人たち」です(マタイ五・三)。外の境遇がどうであれ、ある心の傾きを持っている人たちです。それは、この世でも来るべき世でも、本当の、実質のある幸いのすべてに至る第一歩となる心の傾きです。
(三) ある人々は、ここでこころの貧しい人たちと言われているのは、貧しさを愛する人たちのことだ、と判断してきました。むさぼりから、金銭を愛することから解放されている人たち、富を望むよりもむしろ恐れる人たちのことだ、と言うのです。彼らがそう判断するに至ったのは、おそらく、その言葉そのものだけに考えを限ってしまったからでしょう。あるいは、パウロのあの重い言葉を考えたからでしょう。「金銭を愛することは、すべての悪の根です」(第一テモテ六・一〇)。そのため、多くの人が、富だけでなく、この世の財産をすべて、すっかり手放しました。ローマ教会で自発的な清貧の誓願が生じたのも、そこからのようです。この根本的な徳をこれほど際立った程度に持つことは、「天国」へ向かう大きな一歩に違いない、と考えられたのです(マタイ五・三)。
けれども、この人々は、次のことに気づいていなかったようです。第一に、パウロの言葉は、ある制限をつけて理解しなければなりません。そうでなければ、真実ではありません。金銭を愛することは、すべての悪の根、ただ一つの根ではないからです。悲しい経験が日々示しているとおり、世には悪の根がほかに数え切れないほどあります。パウロの意味は、それが非常に多くの悪の根だ、ということでしかありえません。おそらく、ほかのどんな悪徳よりも多くの悪の根なのです。第二に、「こころの貧しい」という表現をこの意味に取ると(マタイ五・三)、私たちの主の今の意図に少しも合いません。主の意図は、キリスト教の建物全体をその上に建てることのできる、全体の土台をすえることです。ある一つの悪徳を防ぐだけでは、その意図にはまったくかないません。ですから、たとえこれが主の意味の一部だと考えるとしても、それが全部であるはずはありません。第三に、これを主の意味の一部だと考えることさえできません。そう考えるなら、主に明らかな同語反復の罪を着せることになります。仮に、心の貧しさが、むさぼりや、金銭を愛することや、富を望むことからの解放にすぎないとします。そうなら、主があとで挙げておられることと重なってしまうからです。それは、心の清さの一部分にすぎなくなってしまいます(マタイ五・八)。
(四) それでは、「こころの貧しい人たち」とは、だれのことでしょうか(マタイ五・三)。疑いもなく、へりくだった人たちです。自分自身を知っている人たち、罪を自覚している人たちです。神が、キリストを信じる信仰に先立つ、あの最初の悔い改めを与えてくださった人たちです。
このような人は、もはや、「自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もない」とは言えません(黙示録三・一七)。今は、自分が「みじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者」であることを知っているからです(黙示録三・一七)。その人は、自分が霊において本当に貧しいことを確信しています。霊の善いものが、何一つ自分のうちにとどまっていないのです。その人は言います。「わたしの内に」は、「善なるものが宿っていない」(ローマ七・一八)。宿っているのは、悪いもの、忌まわしいものばかりだ、と。その人は、罪という忌まわしいらい病を深く感じています。それは、母の胎から携えてきたもので、魂全体に広がり、魂のあらゆる力と機能をすっかり腐らせています。その人は、その悪い根から生じる悪い気質を、ますます多く見るようになります。霊の高ぶりと傲慢です。思うべき限度を越えて思いあがる方へと(ローマ一二・三)、いつも傾いていることです。虚栄心、人から来る評価や誉への渇き、憎しみやねたみ、嫉妬や復讐心、怒りや悪意や苦々しさです。神と人とに対する生れつきの敵意です。それは、数限りない形をとって現れます。世への愛、我意、愚かで有害な欲です。それらが、その人の魂の最も奥にこびりついているのです。その人は、自分が舌によってどれほど深く罪を犯してきたかを意識しています。汚れた言葉、慎みのない言葉、偽りの言葉、不親切な言葉によってではないとしても、話によって罪を犯してきました。「人の徳を高めるのに役立つ」のではない話(エペソ四・二九)、「聞いている者の益になる」のではない話によってです(エペソ四・二九)。ですから、そのような話は、神の目にはすべて悪い言葉であり(エペソ四・二九)、神の聖霊を悲しませるものでした(エペソ四・三〇)。その人の悪いわざも、今はいつも目の前にあります(詩篇五一・三)。数えようとしても、言い表せないほど多いのです。それは、雨のしずくや、海の砂や、永遠の日数を数えようとするようなものです。
(五) その人の罪責も、今は目の前にあります。自分が受けて当然の刑罰を知っています。肉の思い(ローマ八・七)、すなわち自分の性質の全面的な、すみずみまでの腐敗のためだけでも、刑罰に値するのです。まして、すべての悪い欲と思い、すべての罪深い言葉と行いのためには、なおさらです! その人は、それらのいちばん小さなものでさえ地獄の刑罰に値することを、一瞬も疑うことができません。地獄では、「うじがつきず、火も消えることがない」のです(マルコ九・四八)。何よりも、「神のひとり子の名を信じることをしない」罪責が(ヨハネ三・一八)、その人に重くのしかかっています。その人は言います。私は「こんなに尊い救をなおざりに」している(ヘブル二・三)。どうしてのがれられるだろうか! 「信じない者は、すでにさばかれています」(ヨハネ三・一八)。そして、「神の怒りがその上にとどまる」のです(ヨハネ三・三六)。
(六) けれども、その人の魂は、神の正しい報復に引き渡されています。その魂を買いもどすために、どんな代価を払えるでしょうか(マタイ一六・二六)。「何をもって主のみ前に行」けばよいのでしょうか(ミカ六・六)。負っているものを、どうやって神に返せるでしょうか。たとえ、今この瞬間から、神のすべての命令に最も完全に従ったとしても、それは、ただ一つの罪の償いにもなりません。過去の不従順の、どの一つの行いの償いにもならないのです。その人は、今この瞬間から永遠に至るまで、自分にできるすべての奉仕を、もともと神に負っているからです。たとえそれを払えたとしても、以前にすべきだったことの償いには、少しもなりません。ですから、その人は、自分の過去の罪をあがなうことについて、まったく無力であることを知ります。神に何の償いをすることも、自分の魂のために何の身代金を払うことも、まったくできないのです。
けれども、仮に神が、ただ一つの条件で過去のすべてを赦してくださるとします。もう罪を犯さないこと、これから先は神のすべての命令に完全に、絶えず従うこと、という条件です。それでも、その人はよく知っています。それは自分に何の益にもなりません。自分には決して果たせない条件だからです。その人は、神の外面的な命令にさえ従えないことを知り、また感じています。心が生れながらの罪深さと腐敗のうちにあるかぎり、それらには従えないからです。悪い木が良い実をならせることはできないからです(マタイ七・一八)。けれども、その人は罪深い心を清めることができません。それは人にはできないことです(マタイ一九・二六)。ですから、神の戒めの道を歩み始めることさえ、どうすればよいのか、まったく途方に暮れています。その道を一歩進むことさえ、どうすればよいか分かりません。罪と悲しみと恐れとに取り囲まれ、のがれる道も見つからないので、その人は、ただ叫ぶほかはありません。「主よ、お助けください」(マタイ八・二五)、さもないと私は滅びます、と。
(七) ですから、心の貧しさとは、私たちの前に置かれている競走を走りぬくときの(ヘブル一二・一)、第一歩です。そのかぎりでは、それは、内と外の罪、そして罪責と無力とを、正しく感じとることです。ある人々は、これを途方もなくも「謙遜の徳」と呼んできました。こうして、自分が滅びに値すると知っていることを誇るように、私たちに教えているのです! けれども、私たちの主の表現は、まったく別の種類のものです。聞く人に伝えるのは、ただ欠乏そのもの、むき出しの罪、どうしようもない罪責と悲惨という観念だけです。
(八) 偉大な使徒は、罪人を神に導こうと努めるところで、これにちょうど合う語り方をしています。使徒は言います。「神の怒りは」、「人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示され」ます(ローマ一・一八)。使徒は、この告発をすぐに異邦人の世界に当てはめ、それによって、彼らが神の怒りの下にあることを証明します。次に、ユダヤ人も彼らにまさるところはなく(ローマ三・九)、したがって同じように罪に定められていることを示します。そして、これはすべて、彼らが「謙遜という気高い徳」を身につけるためではありません。「すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するため」なのです(ローマ三・一九)。
使徒はさらに、彼らが罪責を負っているだけでなく、無力でもあることを示します。次の言葉は、どれもはっきりとその趣旨を語っています。「律法を行うことによっては、すべての人間は」「義とせられません」(ローマ三・二〇)。「しかし今や」、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」が、「律法とは別に」「現されました」(ローマ三・二一〜二二)。「わたしたちは、こう思います。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのです」(ローマ三・二八)。これらの言葉は、どれも同じ一点を目ざしています。「高ぶりを人から除き」(ヨブ三三・一七)、人をちりにまで低くすることです。しかも、自分の謙遜を徳として省みるようには教えません。人に、自分のまったくの罪深さと罪責と無力とについて、余すところのない、刺し通すような確信を起させるのです。この確信が、罪人を、すべてをはがされ、失われ、滅びかけた罪人を、その力強い助け手のもとに投げ出させます。義なるイエス・キリストのもとにです(第一ヨハネ二・一)。
(九) ここで気づかずにはいられません。キリスト教は、異教の道徳が終るちょうどそのところから始まるのです。心の貧しさ、罪の自覚、自分を捨てること、自分の義を持たないこと(これがイエス・キリストの宗教の第一の点です)は、異教の宗教をすべて置き去りにします。このことは、この世の知者たちには、いつも隠されていました(マタイ一一・二五)。そのため、ローマの言葉全体にも、謙遜を表す名前さえありません。アウグストゥスの時代に、あれほど磨かれたにもかかわらずです(よく知られているように、私たちがこの語を借りてきたもとの語は、ラテン語ではまったく別の意味を持っています)。いいえ、豊かなギリシャ語全体にも、偉大な使徒が作るまでは、そのような語は見当たりませんでした。
(一〇) ああ、彼らが言い表すことのできなかったものを、私たちが感じとることができますように! 罪人よ、目をさましなさい! 自分自身を知りなさい! 知り、また感じなさい。あなたは「不義のなかに生れ」、「母は罪のうちに」あなたを「みごもりました」(詩篇五一・五)。そして、あなた自身も、善悪をわきまえられるようになってからずっと、罪に罪を積み重ねてきたのです! 永遠の死に値する者として、神の力強い御手の下に沈みなさい(第一ペテロ五・六)。自分で自分を助けられるという思いを、すべて捨て、退け、忌みきらいなさい! 主の血で洗われ、主の全能の御霊によって新たにされること(テトス三・五)を、あなたの望みのすべてとしなさい。主ご自身が、「十字架にかかって、わたしたちの罪を」すべて「ご自分の身に負われた」のです(第一ペテロ二・二四)! そうすれば、あなたはあかしするようになります。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものです」(マタイ五・三)。
(一一) これが、あの天国、すなわち神の国です。それは、私たちのうちにあります(ルカ一七・二一)。それは、「義と、平和と、聖霊における喜びと」です(ローマ一四・一七)。では、「義」とは何でしょうか(ローマ一四・一七)。魂のうちにある神のいのちではないでしょうか。キリスト・イエスのうちにあった思い(ピリピ二・五)、心に刻まれた神のかたちではないでしょうか。そのかたちは、今や、造り主のかたちに従って新しくされているのです(コロサイ三・一〇)。それは、神がまず私たちを愛してくださったので(第一ヨハネ四・一九)神を愛し、神のゆえにすべての人を愛することではないでしょうか。
また、この「平和」(ローマ一四・一七)、すなわち神の平安とは(ピリピ四・七)、何でしょうか。それは、魂の静かな落ち着きではないでしょうか。イエスの血のうちにある、甘い安らぎではないでしょうか。それは、私たちが主にあって受けいれられていることに、何の疑いも残しません。天にいます私たちの父の(マタイ六・九)みこころにそむくことを恐れる、愛に満ちた子としての恐れのほかは、すべての恐れを締め出すのです。
この内なる御国には、「聖霊における喜び」も含まれています(ローマ一四・一七)。聖霊は、イエスによる「あがない」を(ローマ三・二四)、私たちの心に証印してくださいます。過去の罪の赦しのために私たちのものとされた、キリストの義を証印してくださるのです(ローマ三・二五)。聖霊は今、私たちに「神の国をつぐことの保証」を与えてくださいます(エペソ一・一四)。それは、かの日に、公平な審判者である主が授けてくださる冠を(第二テモテ四・八)、受けつぐことの保証です。これが「天国」と呼ばれるのも(マタイ五・三)、もっともです。それは、魂のうちにすでに開かれた天だからです。神の右にとこしえに流れる、あの楽しみの川が(詩篇一六・一一、三六・八)、初めてわき出たものだからです。
(一二) 「天国は彼らのものです」(マタイ五・三)。あなたがだれであれ、神があなたを「こころの貧しい」者とならせ(マタイ五・三)、自分が失われた者だと感じさせてくださったとします。それなら、あなたにはそれを受ける権利があります。偽りのない神の(テトス一・二)、恵み深い約束によるのです。それは、小羊の血によって、あなたのために買い取られています。それは、すぐ近くにあります。あなたは天の入口に立っているのです! もう一歩で、あなたは義と平和と喜びの御国に入ります! あなたは罪ばかりの者でしょうか。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ一・二九)。まったく聖くない者でしょうか。「父のみもと」にいるあなたの「助け主、すなわち、義なるイエス・キリスト」を見なさい(第一ヨハネ二・一)。自分のいちばん小さな罪さえ、あがなうことができないのでしょうか。「彼は」あなたのすべての「罪のための、あがないの供え物です」(第一ヨハネ二・二)。今、主イエス・キリストを信じなさい(使徒一六・三一)。そうすれば、あなたの罪はすべてぬぐい去られます(使徒三・一九)! あなたは、魂もからだもまったく汚れているのでしょうか。ここに、「罪と汚れとを清める一つの泉」があります(ゼカリヤ一三・一)! 「すぐ立って」、「あなたの罪を洗い落しなさい」(使徒二二・一六)! もう、不信仰のゆえに神の約束を疑ってはなりません(ローマ四・二〇)! 栄光を神に帰しなさい(ローマ四・二〇)! 思い切って信じなさい! 今、心の底から叫びなさい。
そうです、私は降参します、ついに降参します。語りかけるあなたの血に、耳を傾けます。私のすべての罪とともに、私自身をあがなってくださる私の神に、ゆだねます。
(一三) そのとき、あなたは主に学んで、「心のへりくだった者」となります(マタイ一一・二九)。これこそ、まことの、本物の、クリスチャンの謙遜です。それは、キリスト・イエスにあって私たちと和解してくださった神の愛を、感じとることから流れ出ます。この意味での心の貧しさは、罪責と神の怒りとを感じることが終るところから始まります。それは、すべての善い思いや言葉や行いについて、私たちがまったく神に頼っていることを、絶えず感じることです。神が「常に水をそそ」いでくださらなければ(イザヤ二七・三)、私たちはどんな善もまったく行えないことを、絶えず感じることです。また、人からほめられることを忌みきらうことです。すべての賛美は、ただ神にだけささげられるべきだと知っているからです。これには、愛に満ちた恥じらいと、神のみ前での優しいへりくだりとが伴います。神が赦してくださったと知っている罪についてさえ、そうなのです。また、まだ私たちの心に残っている罪についてもそうです。その罪のために私たちが罪に定められることはないと知っていても、そうなのです。それでも、生れつきの罪についての自覚は、日ごとにますます深くなります。私たちは、恵みにおいて成長すればするほど(第二ペテロ三・一八)、自分の心がはなはだしく悪に染まっていることを(エレミヤ一七・九)、ますます見るようになります。私たちは、主イエス・キリストを通して、神を知る知識と神への愛とにおいて進みます。進めば進むほど、ますます多くを見分けるようになります。神から遠く離れていること(エペソ四・一八)、肉の思いにある敵意(ローマ八・七)を見分けるのです。そして、真の義と聖とにおいて(エペソ四・二四)、まったく新しくされる必要があることを見分けるのです。救を得させる神の力を知らない人々には(ローマ一・一六)、これは大きな奥義に見えるかもしれません。
【二】 悲しんでいる人たちの幸い
(一) 確かに、内なる天国を知り始めたばかりの人には、このことはほとんど思いも及びません。その人は、「安らかな時に」こう言います。「わたしは決して動かされることはありません。主よ、あなたは」、「わたしをゆるがない山のように堅くされました」(詩篇三〇・六〜七)。罪は、その人の足の下で完全に踏み砕かれているので、まだ自分のうちに罪が残っているとは、ほとんど信じられません。誘惑でさえ黙らされ、もう語りかけてきません。近づくこともできず、遠く離れて立っています。その人は、喜びと愛との戦車に乗って、高く運ばれています。「わしのように翼をはって」、舞い上がるのです(イザヤ四〇・三一)。けれども、私たちの主は、この勝ち誇った状態が長くは続かないことが多いのを、よくご存じでした。そこで、すぐに言い添えられます。「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるでしょう」(マタイ五・四)。
(二) この約束が、何かこの世のことのためにだけ悲しんでいる人たちのものだ、と考えることはできません。この世の何かの苦難や失望のためだけに、悲しみや憂いのうちにいる人たちのものではないのです。たとえば、評判や友人を失ったり、財産が減ったりしたためにです。何かこの世のわざわいを恐れて、自分を苦しめている人たちにも、この約束を受ける資格はありません。思いわずらいのためにやつれていく人たちも同じです。地上のものへの欲、すなわち「心を悩ます」欲のためにやつれていく人たちも同じです(箴言一三・一二)。このような人たちが、「主から何かをいただける」と考えてはなりません(ヤコブ一・七)。主は、彼らの思いのうちにまったくおられないのです。だからこそ、彼らは、このように「影のように、さまよ」い、「むなしい事のために騒ぎまわる」のです(詩篇三九・六)。主は言われます。「あなたがたは、これをわたしの手から受けて、苦しみのうちに伏し倒れます」(イザヤ五〇・一一)。
(三) 私たちの主がここで語っておられる悲しむ人たちは、まったく別の理由で悲しんでいる人たちです。神を慕って悲しんでいる人たちです。彼らは、かつて神にあって、「言葉につくせない」「喜びにあふれて」いました(第一ペテロ一・八)。神が、「良きみ言葉」、すなわち赦しのみ言葉と、「きたるべき世の力とを味わ」わせてくださったときです(ヘブル六・五)。けれども、今、神は「み顔を隠され」、彼らは「あわてふため」いています(詩篇一〇四・二九)。暗い雲にさえぎられて、神を見ることができないのです。見えるのは、誘惑と罪です。それらは、去ってしまって二度と戻らないと、彼らが甘く思い込んでいたものです。それらが再び起き上がり、激しく追ってきて、四方から彼らを取り囲んでいるのです。今、彼らの魂が彼らのうちに思いみだれ(詩篇四二・五)、悩みと苦しみが彼らに臨んでも(詩篇一一九・一四三)、不思議ではありません。彼らの大敵も、この機会を逃さずに利用します。そして、こう問いかけます。「おまえの神は、今どこにいるのか(詩篇四二・三)。おまえが口にしていたあの幸い、天国の始まりは、今どこにあるのか(ガラテヤ四・一五)。ほんとうに神が(創世記三・一)、『あなたの罪はゆるされた』と言われたのか(マタイ九・二)。神がそう言われたはずはない。それはただの夢、ただの惑わし、おまえ自身の想像の産物にすぎなかったのだ。罪がゆるされているなら、なぜおまえはこんなありさまなのか。ゆるされた罪人が、こんなに聖くないことがありうるのか」。そのとき、すぐに神に叫び求めないで、自分たちより賢い者と議論するとします。そうすれば、彼らは本当に憂いに沈み、心に悲しみを抱き、言い表せない苦しみのうちに置かれるでしょう。いや、神が再び魂を照し、過去のあわれみについての疑いをすべて取り去ってくださるときでさえ、そうなることがあります。信仰の弱い者は(ローマ一四・一)、これから先のことのために誘惑され、悩まされることがあるのです。特に、内の罪が再び生き返り、その人を倒そうとしてひどく押すときです(詩篇一一八・一三)。そのとき、その人は再びこう叫ぶかもしれません。
私には恐れという罪があります。私が最後の糸をつむぎ終えるとき、岸辺で滅びるのではないかと!信仰の破船に会い(第一テモテ一・一九)、のちの状態が初めよりももっと悪くなるのではないかと(マタイ一二・四五)。私のいのちのパンが、すべて尽きてしまい、変えられないまま、地獄に沈むのではないかと!
(四) 確かに、この苦しみは、「当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われ」ます。「しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な」実を「結ばせる」のです(ヘブル一二・一一)。ですから、このように悲しむ人たちは、さいわいです。ただし、彼らが「主を待ち望」み(詩篇二七・一四)、世のみじめな慰め手たちによって、道からそらされないならです。罪と愚かさとむなしさの慰めを、すべて断固として退けるならです。世のくだらない気晴らしや娯楽を、すべて退けるならです。「使えば尽きてしまう」楽しみ(コロサイ二・二二)、魂を麻痺させ、鈍らせるだけの楽しみを、すべて退けるならです。そのような楽しみは、魂が自分をも神をも感じないようにさせるのです。「せつに主を知ることを求め」(ホセア六・三)、ほかのすべての慰めをゆるぎなく拒む人たちは、さいわいです。彼らは、神の御霊の慰めによって慰められます。神の愛が新たに現されることによって慰められます。神が愛する御子にあって彼らを受けいれてくださったというあかしによって、慰められるのです。そのあかしは、もう二度と彼らから取り去られることはありません。この「信仰の確信」は(ヘブル一〇・二二)、すべての疑いも、苦しめるすべての恐れも、のみ尽くします。神が今、彼らに、永遠の宝の(ヘブル一〇・三四)確かな望みと、恵みによる「力強い励まし」とを(ヘブル六・一八)、与えてくださるからです。「いったん、光を受けて」、「聖霊にあずかる者とな」った人が(ヘブル六・四)、「そののち堕落」することがありうるかどうかを(ヘブル六・六)、彼らは論じません。今自分たちの上にとどまっている力によって、こう言えば十分なのです。「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのでしょうか。わたしは確信します。死も生も、現在のものも将来のものも、高いものも深いものも、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできません」(ローマ八・三五〜三九)。
(五) 神がおられないことを悲しみ、御顔の喜びを取り戻す。この過程の全体は、私たちの主が受難の前夜に使徒たちに語られた言葉に、あらかじめ描かれているようです。「しばらくすればわたしを見なくなる、またしばらくすればわたしに会えるであろうと、わたしが言ったことで、互に論じ合っているのですか。よくよくあなたがたに言っておきます。あなたがたは泣き悲しみます」(ヨハネ一六・一九〜二〇)。すなわち、わたしを見ないときにです。しかし、「この世は喜ぶでしょう」(ヨハネ一六・二〇)。あなたがたの望みが今や尽きたかのように、あなたがたに勝ち誇るのです。「あなたがたは憂えている」のです(ヨハネ一六・二〇)。疑いのために、恐れのために、誘惑のために、激しい慕わしさのためにです。しかし、「その憂いは喜びに変るでしょう」(ヨハネ一六・二〇)。あなたがたの魂の愛する方が(雅歌三・一)、帰ってこられることによってです。「女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じます。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいません。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためです」(ヨハネ一六・二一)。「このように、あなたがたにも今は不安があります」(ヨハネ一六・二二)。悲しんで、慰められることもできません。「しかし、わたしは再びあなたがたと会うでしょう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるでしょう」(ヨハネ一六・二二)。静かな、内なる喜びに満たされるのです。「その喜びをあなたがたから取り去る者はいません」(ヨハネ一六・二二)。
(六) けれども、この悲しみは、助け主が帰ってこられることによって終ります。聖なる喜びにのみこまれるのです。それでも、神の子たちのうちには、別の悲しみがとどまっています。それは、さいわいな悲しみです。彼らは、なお人類の罪と悲惨とを悲しみます。「泣く者と共に泣」くのです(ローマ一二・一五)。自分のために泣かない人々のために、自分の魂に対して罪を犯している人々のために泣きます。ある程度まで罪から救われている人々の、弱さと不忠実とを悲しみます。「だれかが弱っているのに」、彼らも「弱らないでおれ」るでしょうか。「だれかが罪を犯しているのに」、彼らの「心が燃えないでおれ」るでしょうか(第二コリント一一・二九)。天と地の主の威光が絶えず汚されていることを、彼らは嘆いています。彼らは、いつもこのことを畏れをもって感じています。それが、彼らの霊に深い真剣さをもたらします。心の目が開かれてから(エペソ一・一八)、この真剣さは少なからず増しました。永遠という広大な大洋を、絶えず見るようになったからです。その大洋には、底も岸もありません。それは、すでに幾百万の幾百万倍もの人々をのみ込み、残っている人々をのみ込もうと、口を開けて待っています。彼らは、こちらに、天にある神の永遠の家を見ます(第二コリント五・一)。あちらに、おおい隠すもののない陰府と滅びの穴を見ます(ヨブ二六・六)。そこから、一瞬一瞬の重さを感じるのです。一瞬は、現れたかと思うと、永遠に去ってしまうのです!
(七) けれども、神のこの知恵はみな、世には愚かなものです。悲しみや心の貧しさのことはすべて、世の人々には、愚かで退屈なことでしかありません。いや、それほど好意的な判断を下すなら、まだよいほうです。ただのふさぎ込みや憂鬱だと決めつけないなら、まだよいのです。まったくの狂気、錯乱だとさえ決めつけかねないのですから。神を知らない人々がこのような判断を下すのは、少しも不思議ではありません。二人の人が一緒に歩いていて、一方が突然立ち止まったとします。そして、ひどく恐れ驚いた様子で、こう叫んだとします。「なんという断崖の上に、私たちは立っているのだ! 見ろ、もう少しで粉々に砕けるところだ! もう一歩で、あの巨大な淵に落ちてしまう! 止まれ! 世界をもらっても、私はこれ以上進まない!」ところが、もう一方の人は、少なくとも自分では同じように目が利くつもりでした。それなのに、前を見ても、そんなものは何も見えなかったとします。その人は、連れのことを何と思うでしょうか。気が狂った、頭がおかしくなった、と思うだけでしょう。「博学」の罪は犯していないとしても(使徒二六・二四)、宗教に凝りすぎて、きっと気が狂ったのだ、と思うだけでしょう!
(八) けれども、神の子たち、すなわち「シオンの中の悲しむ者」たちは(イザヤ六一・三)、こうしたことのどれにも動かされてはなりません。目を開かれたあなたがたは、なお暗い中をさまよっている人々に(詩篇八二・五)、心を騒がせてはなりません。あなたがたは、影のようにさまよっているのではありません(詩篇三九・六)。神と永遠とは、実在するものです。天と地獄とは、まさに、あなたがたの前に開かれています。そして、あなたがたは大きな淵の縁に立っているのです(ルカ一六・二六)。その淵は、すでに言葉で言い表せないほど多くのものをのみ込んできました。あらゆる国民、部族、民族、国語の人々です(黙示録七・九)。そして、うわついた、みじめな人の子らを、彼らが見ていようといまいと、なおのみ込もうと口を開けています。ああ、大いに呼ばわりなさい。声を惜しんではなりません(イザヤ五八・一)! 時と永遠とを両方とも手に握っておられる方に向かって、声をあげなさい。自分のためにも、兄弟たちのためにも、声をあげなさい。つむじ風のように臨む滅びから(箴言一・二七)、のがれるにふさわしい者とされるためです(ルカ二一・三六)! あらゆる波と嵐を通り抜けて、望む港へと無事に導かれるためです(詩篇一〇七・三〇)! 自分のために泣きなさい。神があなたがたの目から涙をぬぐいとってくださるまで、泣きなさい(黙示録七・一七)。そして、そのときでさえ、地に臨む悲惨のために泣きなさい。万物の主が悲惨と罪とに終りを告げ、すべての顔から涙をぬぐい(イザヤ二五・八)、「水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちる」(イザヤ一一・九)ときまで、泣きなさい。