ジョン・ウェスレー標準説教集

説教十九 神から生れた者の大いなる特権

「すべて神から生れた者は、罪を犯しません」(第一ヨハネ三・九)

(一) 神から生れることは、義とされることとまったく同じだと、しばしば考えられてきました。新生と義認とは、同じ事柄を指す、違う言い方にすぎない、というのです。確かに、一方では、義とされた者はだれでも、神からも生れています。他方では、神から生れた者はだれでも、義ともされています。そうです、神のこの二つの賜物は、信じる者のだれにも、まったく同じ瞬間に与えられるのです。同じ一つの時点で、その人の罪は消し去られ、その人は神から新しく生れるのです。

(二) けれども、義認と新生とが、時の上では互いに切り離せないことを認めるとしても、両者はたやすく区別されます。同じものではなく、性質のまったく異なるものだからです。義認は、関係の変化だけを意味します。新生は、実質の変化を意味します。神は、私たちを義とされるとき、私たちのために何かをしてくださいます。私たちを新たに生れさせるとき、私たちのうちにみわざをなさいます。前者は、神に対する私たちの外的な関係を変え、私たちは敵から子となります。後者によって、私たちの魂の最も奥が変えられ、私たちは罪人から聖徒となります。一方は、私たちを神の恵みへと回復させ、他方は、神のかたちへと回復させます。一方は罪の罪責を取り去ることであり、他方は罪の力を取り去ることです。ですから、両者は、時の上ではひとつに結ばれていても、まったく別の性質のものなのです。

(三) このことを見分けないこと、すなわち、義とされることと新しく生れることとの大きな違いに気づかないことが、多くの人を混乱させてきました。この問題を論じてきた人々の考えに、ひどい混乱を引き起してきたのです。特に、神の子たちのこの大いなる特権を説明しようとしたときに、そうでした。どのようにして「すべて神から生れた者は、罪を犯さない」のかを示そうとしたときです(第一ヨハネ三・九)。

(四) このことをはっきりと理解するためには、次のことが必要でしょう。第一に、「すべて神から生れた者」という表現の本来の意味を考えること(第一ヨハネ三・九)。第二に、どういう意味で、その人が「罪を犯さない」のかを調べることです(第一ヨハネ三・九)。

【一】 「すべて神から生れた者」の意味

(一) 第一に、「すべて神から生れた者」という表現の本来の意味を考えなければなりません(第一ヨハネ三・九)。「神から生れる」という表現は、聖書のあちこちに出てきます。それらの箇所全体から、一般に、次のことを学ぶことができます。この表現が意味するのは、ただバプテスマを受けることでも、どんな外面の変化でもありません。それは、大きな内面の変化です。聖霊の働きによって魂のうちに起される変化であり、私たちの存在のあり方全体の変化です。私たちは、神から生れたその瞬間から、以前とはまったく違うあり方で生きるからです。いわば、別の世界にいるのです。

(二) この表現の根拠と理由は、たやすく理解できます。私たちがこの大きな変化を経るとき、新しく生れたと言うのは、まことにふさわしいことです。自然の出生と霊の出生とでは、その事情がとてもよく似ているからです。ですから、自然の出生の事情を考えることが、霊の出生を理解するいちばんたやすい道なのです。

(三) まだ生れていない子供も、いのちのあるすべてのものと同じように、確かに空気によって生きています。けれども、空気を感じてはいません。ほかの何も感じていません。感じるとしても、ごくぼんやりと、不完全に感じるだけです。耳はほとんど聞えません。まったく聞えないかもしれません。聞くための器官が、まだ閉ざされているからです。目は何も見えません。目はしっかりと閉じられ、まったくのやみに包まれているからです。生れるときが近づくと、いのちのかすかな始まりがあるかもしれません。それに伴って、いくらか動くこともあるでしょう。それによって、ただの物質のかたまりとは区別されます。けれども、感覚はありません。魂へ通じるこれらの道は、どれもまだすっかり閉ざされています。そのため、この見える世界とは、ほとんど何の交わりもありません。そこで起ることについて、知識も、概念も、観念も、ほとんど持っていません。

(四) まだ生れていない子供が、見える世界をまったく知らないのは、その世界が遠く離れているからではありません(それはすぐ近くにあり、四方からその子を包んでいます)。一つには、その子に感覚がないからです。物質の世界と交わることは、感覚によってしかできません。その感覚が、まだその子の魂のうちに開かれていないのです。もう一つには、その間に厚いおおいがかけられていて、それを通しては何も見分けられないからです。

(五) けれども、子供は、この世に生れるとすぐに、まったく違うあり方で存在するようになります。今や、その子は、自分を取り巻く空気を感じます。空気は四方からその子のうちに流れ込み、その子はそれを、入ってくるのと同じ速さで、かわるがわる吐き返します。こうして、いのちの炎が保たれるのです。そこから、力と動きと感覚とが、絶えず増していきます。からだの感覚がみな、今や目覚め、それぞれにふさわしい対象を与えられているからです。

その子の目は、今や開かれて、光をとらえます。光は静かに目に流れ込み、光そのものだけでなく、数限りない、さまざまなものを見せてくれます。それらは、以前にはまったく知らなかったものです。その子の耳は開かれ、限りなく多様な音がどっと流れ込みます。どの感覚も、それぞれに特にふさわしい対象に向けて働きます。そして、魂は、これらの入口を通して、見える世界と自由に交わります。こうして、感覚でとらえられるものについて、日の下にあるすべてのものについて、ますます多くの知識を得ていくのです。

(六) 神から生れる人も、同じです。あの大きな変化が起る前にも、その人は神によって生きています。いのちのあるものはみな、神のうちに「生き、動き、存在している」のです(使徒一七・二八)。それでも、その人は神を感じていません。神の臨在を感じず、内側で少しも意識していないのです。その人は、あの神のいのちの息に気づいていません。それがなければ、一瞬も生きていられないのにです。また、神のことを何一つ感じていません。神のことは、その人の魂に何の印象も残しません。神は、絶えず高い所からその人に呼びかけておられます。けれども、その人には聞えません。耳が閉ざされているので、まじない師がどんなに巧みにまじないをしても、その声はその人に届かないのです(詩篇五八・五)。その人には、神の御霊のことが見えません。その人の心の目は閉ざされ、まったくのやみがその魂全体をおおい、四方からその人を包んでいるからです。確かに、その人にも、いのちのかすかな夜明けがあるかもしれません。霊の動きの小さな始まりがあるかもしれません。けれども、まだ、霊のものを見分けることのできる霊の感覚がありません。そのため、その人は、神の御霊のことを見分けません。「御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」のです(第一コリント二・一四)。

(七) ですから、その人は、見えない世界とほとんど交わりがないので、その世界についてほとんど何も知りません。その世界が遠く離れているからではありません。そうではありません。その人は、その世界のただ中にいるのです。その世界は、その人を周りから取り囲んでいます。私たちが普通あの世と呼んでいる世界は、私たちひとりびとりから遠く離れてはいません(使徒一七・二七)。それは、上にも、下にも、四方にもあります。ただ、生れながらの人には、それが見分けられないのです。一つには、霊の感覚がないからです。私たちが神のことを見分けられるのは、霊の感覚によってだけです。もう一つには、間に厚いおおいがかけられていて、それを突き抜ける方法を知らないからです。

(八) けれども、その人が神から生れ、霊から生れるとき(ヨハネ三・八)、その存在のあり方は、なんと変ることでしょう! 今や、その人の魂全体が神を感じています。そして、確かな経験によって、こう言うことができます。あなたは私の床のまわりにも、私の道のまわりにもおられます(詩篇一三九・三)。私は、私のあらゆる道で、あなたを感じます。「あなたは後から、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます」(詩篇一三九・五)。神の霊、すなわち神の息が、新しく生れた魂に直接吹き込まれます。そして、神から来たその同じ息が、神へと帰っていきます。その息は、信仰によって絶えず受けられ、愛によって、祈りと賛美と感謝によって、絶えず返されます。愛と賛美と祈りとは、本当に神から生れたすべての魂の息なのです。この新しい種類の霊の呼吸によって、霊のいのちは保たれるだけでなく、日ごとに増していきます。霊の力と動きと感覚も、ともに増していきます。魂の感覚がみな、今や目覚めていて、霊の善と悪とを見分けることができるからです。

(九) 今や、その人の「心の目」は「明らかに」され(エペソ一・一八)、その人は「見えないかたを見て」います(ヘブル一一・二七)。その人は、神の「力」と愛とが、「信じる者にとっていかに絶大なものであるか」を見ています(エペソ一・一九)。神が罪人の自分をあわれんでくださること、神の愛する御子を通して神と和解していること(コロサイ一・一三)を、見ています。赦してくださる神の愛も、神の「尊く、大いなる約束」のすべても(第二ペテロ一・四)、はっきりと見てとっています。「『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は」、その人の「心を照してくださった」のであり、今も照しておられます。それは、その人を照して、「キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにする」ためです(第二コリント四・六)。やみはすべて、今や過ぎ去りました(第一ヨハネ二・八)。その人は、神の御顔の光のうちにとどまっています。

(一〇) 今や、その人の耳は開かれ、神の声は、もはやむなしく呼びかけることはありません。その人は、天の召しを聞いて(ヘブル三・一)、それに従います。自分の羊飼の声を知っているのです(ヨハネ一〇・四)。霊の感覚がみな今や目覚めているので、その人は、見えない世界とはっきりと交わっています。そのため、以前にはその人の「心に思い浮びもしなかった」ことを、ますます多く知るようになります(第一コリント二・九)。その人は今、神の平安とは何かを知っています(ピリピ四・七)。聖霊における喜びとは何かを知っています(ローマ一四・一七)。キリスト・イエスを通して神を信じる人々の心に注がれている、神の愛とは何かを知っています(ローマ五・五)。こうして、以前には神の光と声、神を知る知識と神の愛とをさえぎっていたおおいが、取り除かれます。霊から生れた人は、愛のうちにいて、「神におり、神も彼にいます」(第一ヨハネ四・一六)。

【二】 どういう意味で「罪を犯さない」のか

(一) これまで、「すべて神から生れた者」という表現の意味を考えてきました(第一ヨハネ三・九)。第二に残っているのは、どういう意味で、その人が「罪を犯さない」のかを調べることです(第一ヨハネ三・九)。

さて、ここに、前に述べたように神から生れた人がいるとします。その人は、神からのいのちの息、すなわち神の御霊の恵み深い働きを、絶えず魂に受け、それを絶えず返しています。その人は、このように信じ、愛しています。信仰によって、神が自分の霊に絶えず働きかけておられるのを感じとり、一種の霊の応答によって、受けた恵みを返しています。絶え間ない愛と賛美と祈りとによって返しているのです。このような人は、こうして自分を守っている間は(第一ヨハネ五・一八)、罪を犯さないだけではありません。この「種が、その人のうちにとどまっている」かぎり、その人は、「神から生れた者であるから、罪を犯すことができない」のです(第一ヨハネ三・九)。

(二) 私は、ここで、罪という言葉を、その平易で普通の受け取り方に従って、外の罪と解します。すなわち、律法を実際に、自分の意志で犯すことです。啓示された、書き記された神の律法を犯すことです。神のどんな戒めであれ、それを破るときに、神の戒めだと認めているものを破ることです。けれども、「すべて神から生れた者は」(第一ヨハネ三・九)、このように罪を犯しません。信仰と愛のうちに、また祈りと感謝の霊のうちにとどまっている間は、犯さないだけでなく、犯すことができないのです。その人は、このようにキリストを通して神を信じ、神を愛し、神のみ前に心を注ぎ出しています(詩篇六二・八)。そうしているかぎり、神のどんな命令も、自分の意志で破ることはできません。神が禁じておられると知っていることを、言うことも、行うこともできないのです。そのかぎり、その人のうちにとどまっているあの種が、その人を引きとめます。あの種とは、愛し、祈り、感謝する信仰です。この信仰によって、その人は、神のみまえで忌みきらわれる(ルカ一六・一五)と知っていることを、何であれ控えるのです。

(三) けれども、ここで、すぐに一つの難問が出てきます。多くの人には、乗り越えられないと思えた難問です。そのために、彼らは使徒の明白な主張を否定し、神の子たちの特権を手放してしまいました。

実際、本当に神から生れていたことを否定できない人々がいます(神の御霊が、みことばの中で、彼らについてこの誤りのないあかしを私たちに与えておられるのです)。それでも、その人々が罪を犯すことができたばかりか、実際に犯したことは明らかです。それも、ひどい外の罪をです。彼らは、明白な、よく知っている神の律法を犯しました。神が禁じておられると知っていることを、言い、また行ったのです。

(四) たとえば、ダビデは、イスラエルの王として油を注がれる前に(第二サムエル五・三)、疑いもなく神から生れていました。ダビデは、自分の信じてきたかたを知っていました(第二テモテ一・一二)。「信仰によって強められ、栄光を神に帰し」ていたのです(ローマ四・二〇)。ダビデは言います。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがありません。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」(詩篇二三・一〜二、四)。ダビデは、愛に満たされていました。その愛に迫られて、しばしばこう叫びました。「わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。主はわが岩、わが城」、「わが救の角、わが高きやぐらです」(詩篇一八・一〜二)。ダビデは、祈りの人でした。生活のあらゆる場面で、神のみ前に魂を注ぎ出しました。また、賛美と感謝にあふれていました。ダビデは言います。あなたへの「さんびはわたしの口に絶え」ません(詩篇三四・一)。「あなたはわが神、わたしはあなたに感謝します。あなたはわが神、わたしはあなたをあがめます」(詩篇一一八・二八)。それなのに、このような神の子が、罪を犯すことができ、また実際に犯したのです。そうです、姦淫と殺人という恐ろしい罪をです。

(五) 聖霊がもっと豊かに与えられたあとにも、同じような悲しい実例には事欠きません。キリストが「福音によっていのちと不死とを明らかに示された」あとにもです(第二テモテ一・一〇)。それらも、疑いなく、私たちの教えのために書かれたのです(ローマ一五・四)。たとえば、使徒たち自身から、バルナバ、すなわち慰めの子と呼ばれた人がいます(使徒四・三六〜三七)。そう呼ばれたのは、おそらく、持っていたものをすべて売り、その代金を持ってきて、貧しい兄弟たちを助けたからでしょう。彼は、アンテオケで重んじられ、すべての弟子の中からサウロと共に選ばれて、ユダヤの兄弟たちに援助を届けました(使徒一一・二九〜三〇)。ユダヤから帰ると、このバルナバは、聖霊の特別な指示によって、ほかの預言者や教師たちの中から、厳かに聖別されました(使徒一三・一〜四)。神が召された仕事に当らせるためです。その仕事とは、偉大な使徒に同行して異邦人の間に行き、どこででもその同労者となることでした。それなのに、そのバルナバが、のちにパウロと激しく言い争いました(使徒一五・三六〜三九)。パウロが、兄弟たちを二度目に訪ねるにあたって、ヨハネを「連れて行かないがよいと考えた」からです(使徒一五・三八)。ヨハネは、「前にパンフリヤで一行から離れて、働きを共にしなかった」のです(使徒一五・三八)。そのため、バルナバ自身も働きから離れてしまいました。ヨハネを「連れてクプロに渡って行」ったのです(使徒一五・三九)。聖霊によってあれほど直接に結び合わされた人を、見捨てたのです。

(六) この二つよりもさらに驚くべき実例を、パウロがガラテヤ人への手紙の中で挙げています。ペテロは、年長で熱心な、使徒たちの筆頭であり、主に最も目をかけられた三人のひとりでした。そのペテロが「アンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった」のです(ガラテヤ二・一一)。「ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていた」からです(ガラテヤ二・一二)。異邦人とは、キリスト教の信仰に改宗した異教徒たちです。ペテロは、「どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならない」と(使徒一〇・二八)、神から特別に教えられていたので、そうしていたのです。ところが、「彼らがきてからは」、ペテロは「割礼の者どもを恐れ」、「離れて行った」のです(ガラテヤ二・一二)。「そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれ」ました(ガラテヤ二・一三)。「彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前で」ペテロに「言った、『あなたは、ユダヤ人であるのに、異邦人のように生活していながら』」(すなわち、モーセの儀式律法を顧みないでいながら)、「『どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか』」(ガラテヤ二・一四)。ここにも、疑いもなく神から生れていた人が犯した、明白で否定しようのない罪があります。けれども、これを、ヨハネの主張と、どのように調和させることができるのでしょうか。「すべて神から生れた者は、罪を犯さない」という主張を(第一ヨハネ三・九)、明らかな文字どおりの意味に取るとすれば、です。

(七) 私は答えます。昔から気づかれてきたのは、次のことです。神から生れた者は、神の恵みによって、自分を守ることができます。そのように自分を守っているかぎり(第一ヨハネ五・一八)、「悪しき者が手を触れるようなことは」ありません(第一ヨハネ五・一八)。けれども、自分を守らず、信仰にとどまらないなら、その人も、ほかの人と同じように罪を犯すことがありえます。

ですから、次の二つがどうして両立するのかは、たやすく理解できます。これらの神の子のだれであれ、自分の確信を失うことがありえます(第二ペテロ三・一七)。それでも、使徒が宣言した神の大いなる真理は、堅く立って揺るぎません。神の恵みは、その人に十分でした(第二コリント一二・九)。それなのに、その人は、その恵みによって自分を守らなかったのです(第一ヨハネ五・一八)。その人は、一歩一歩、落ちていきました。まず、消極的な内の罪に落ちました。自分のうちにある「神の賜物を、再び燃えたたせ」ず(第二テモテ一・六)、「努めて祈」りませんでした(第一ペテロ四・七)。「上に召してくださる神の賞与を得ようと」、「目標を目ざして」進むこともしませんでした(ピリピ三・一四)。次に、積極的な内の罪に落ちました。心を悪に傾け、何かの悪い欲求や気質に身をまかせたのです。その次に、信仰を失いました。赦してくださる神を見ることを失い、そのため、神への愛も失いました。そうして弱くなり、ほかの人と同じようになったので、外の罪さえ犯しうるようになったのです。

(八) これを一つの具体的な例で説明しましょう。ダビデは神から生れ、信仰によって神を見ていました。真実をもって神を愛していました。ダビデは、心からこう言うことができました。「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得」るでしょうか。「地には」、人であれ物であれ、あなたと比べて「慕うものは」ありません(詩篇七三・二五)。けれども、ダビデの心には、なおあの性質の腐敗が残っていました。それは、あらゆる悪の種です。

ダビデは、「王の家の屋上を歩いていた」とき(第二サムエル一一・二)、おそらく、自分の魂の愛する神をほめたたえていたのでしょう。そのとき、ふと見下ろして、バテシバを見たのです。ダビデは誘惑を感じました。悪へと傾く思いです。神の御霊は、そのことを確かに彼に悟らせてくださいました。ダビデは疑いもなく、その警告の声を聞き、それと知っていました。けれども、その思いにいくらか屈したので、誘惑が彼を支配し始めました。これによって、ダビデの霊は汚されました。彼は、なお神を見ていました。けれども、以前よりもぼんやりとでした。なお神を愛していました。けれども、以前と同じ程度にではありません。同じ強さ、同じ熱い思いをもってではありませんでした。それでも、神は再び彼を引きとめられました。神の御霊は悲しんでおられましたが(エペソ四・三〇)、そうされたのです。その声は、だんだんかすかになりながらも、なおささやきました。「罪が門口に待ち伏せています(創世記四・七)。わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われます(イザヤ四五・二二)」。けれども、ダビデは聞こうとしませんでした。もう一度見たのです。神をではなく、禁じられたものを見たのです。そして、ついに生れながらの性質が恵みにまさり、彼の魂に情欲を燃え上がらせました。

今や、ダビデの心の目は再び閉ざされ、神は彼の視界から消えうせました。信仰、すなわち神との神聖な、超自然の交わりも、神への愛も、ともにやみました。そのとき、ダビデは、戦場にはせ入る馬のように突き進み(エレミヤ八・六)、知りながら外の罪を犯したのです。

(九) あなたがたは、恵みから罪へと進む、疑いようのない道すじを見ています。それは、このように一歩一歩進んでいきます。一、愛し、勝利する信仰という神の種が、神から生れた人のうちにとどまっています(第一ヨハネ三・九)。その人は、神の恵みによって自分を守り(第一ヨハネ五・一八)、「罪を犯すことができ」ません(第一ヨハネ三・九)。二、誘惑が起ります。世からであれ、肉からであれ、悪魔からであれ、かまいません。三、神の御霊が、罪が近づいていると警告し、いっそう努めて祈るように命じられます(第一ペテロ四・七)。四、その人は、誘惑にいくらか屈します。すると、誘惑が快く思えてきます。五、聖霊は悲しまれ(エペソ四・三〇)、その人の信仰は弱まり、神への愛は冷えていきます(マタイ二四・一二)。六、御霊は、もっと厳しくその人に忠告し、言われます。「これは道だ、これに歩みなさい」(イザヤ三〇・二一)。七、その人は、耳に痛い神の声から顔をそむけ、耳に快い誘惑者の声に聞き従います。八、悪い欲がその人の魂に生じて広がり、ついに信仰も愛も消えうせます。そのとき、その人は外の罪を犯しうるようになります。主の力がその人から去ってしまったからです。

(一〇) これを別の例で説明しましょう。使徒ペテロは、信仰と聖霊とに満ちていました(使徒六・五)。こうして自分を守り(第一ヨハネ五・一八)、神に対しまた人に対して、良心に責められることのない状態を保っていました(使徒二四・一六)。

ペテロは、このように単純さと神にかなう誠実さとをもって歩んでいました(第二コリント一・一二)。それで、「ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていた」のです(ガラテヤ二・一二)。神がきよめたものは、清くないものでも汚れたものでもないと、知っていたからです(使徒一〇・一五)。

けれども、「彼らがきてからは」(ガラテヤ二・一二)、ペテロの心に誘惑が起りました。「割礼の者どもを恐れ」(ガラテヤ二・一二)、神のほまれよりも、この人たちの好意とほまれを重んじようとする誘惑です(ヨハネ一二・四三)。割礼の者どもとは、割礼やモーセの律法のほかの儀式に熱心な、ユダヤ人の改宗者たちのことです。

ペテロは、罪が近づいていると御霊から警告を受けました。それにもかかわらず、いくらかそれに屈しました。人を恐れるという罪深い恐れに屈したのです。そして、それに応じて、信仰と愛とが弱まりました。

神は、悪魔に機会を与えたことについて(エペソ四・二七)、再びペテロに忠告されました。それでも、ペテロは自分の羊飼の声に聞き従おうとせず、あの奴隷のような恐れに身をゆだね、そのため御霊を消してしまいました(第一テサロニケ五・一九)。

すると、神は見えなくなり、信仰と愛とが消えて、ペテロは外の罪を犯しました。ペテロは、まっすぐに歩かず、「福音の真理に従って」歩かず(ガラテヤ二・一四)、クリスチャンの兄弟たちから「離れて行った」のです(ガラテヤ二・一二)。そして、その悪い手本によって、あるいは勧めによってさえ、異邦人にまで「ユダヤ人のようになることをしい」たのです(ガラテヤ二・一四)。異邦人が、再び「奴隷のくびきにつながれ」るようにしたのです(ガラテヤ五・一)。「キリストは」彼らを「解放してくださった」のにです(ガラテヤ五・一)。

こうして、次のことは疑いもなく真実です。神から生れた人は、自分を守っているなら、罪を犯さず、また犯すことができません。それでも、自分を守らないなら、あらゆる罪を、むさぼるように犯すことがありうるのです。

【三】 ここから学ぶこと

(一) これまで考えてきたことから、第一に、ある問いにはっきりと答えることを学べます。反論の余地のない答えです。その問いは、心の誠実な多くの人を、しばしば悩ませてきました。「罪は、信仰を失うことに先立つのか、それとも、あとに続くのか。神の子は、まず罪を犯し、それによって信仰を失うのか。それとも、まず信仰を失い、それから罪を犯しうるようになるのか」。

私は答えます。信仰を失う前には、少なくとも何かの怠りの罪、何かの内の罪が、必ず先立ちます。けれども、外の罪を犯す前には、信仰を失うことが先立たなければなりません。

信じる者は、自分の心を調べれば調べるほど、次のことを確信するでしょう。愛によって働く信仰は(ガラテヤ五・六)、努めて祈っている魂から(第一ペテロ四・七)、内の罪も外の罪も締め出す、ということです。それでも、私たちは、そのときにも誘惑を受けることがある、ということです。特に、私たちにからみつく罪の誘惑を受けます(ヘブル一二・一)。魂の愛のまなざしが、ゆるぎなく神に注がれているなら、誘惑はすぐに消え去る、ということです。けれども、そうでないなら、どうでしょうか。使徒ヤコブの言葉で言えば(ヤコブ一・一四)、私たちがエクセルコメノイ(ἐξελκόμενοι)となるとします。自分の欲によって神から引き離されるのです。また、デレアゾメノイ(δελεαζόμενοι)となるとします。目の前の快楽や約束された快楽のえさにかかるのです。すると、その欲が私たちのうちにはらんで、罪を生みます(ヤコブ一・一五)。そして、その内の罪によって私たちの信仰を滅ぼし、私たちを悪魔のわなに真っ逆さまに投げ込みます(第二テモテ二・二六)。そのため、私たちは、どんな外の罪でも犯しうるようになるのです。

(二) これまで述べてきたことから、第二に、信じる者の魂のうちにある神のいのちとは何かを、学ぶことができます。それが本来何から成っているか、そこに直接に、また必然的に何が含まれているかを、学べるのです。そこに直接に、また必然的に含まれているのは、神の聖霊が絶えず吹き込まれることです。神が魂に息を吹き込み、魂が神から最初に受けたものを吐き返すことです。神が魂に絶えず働きかけ、魂が神に応答することです。神が、愛し赦してくださる神が、絶えずそこにいて、心に現され、信仰によって感じとられることです。そして、愛と賛美と祈りとが、絶えず神に返されることです。私たちは、心のすべての思い、舌のすべての言葉、手のすべてのわざ、からだと魂と霊のすべてをささげます。それらを、キリスト・イエスにあって神に喜ばれる、聖なる供え物とするのです(ローマ一二・一)。

(三) そこから、第三に、魂のこの応答(それを何と呼ぶにせよ)が、どうしても必要であることを推論できます。魂のうちの神のいのちが続くためです。魂が神に応答しなければ、神は魂に働きかけ続けてはくださらないことは、明らかだからです。確かに、神は、慈しみの祝福をもって、私たちに先立ってくださいます。神がまず私たちを愛し(第一ヨハネ四・一九)、ご自身を私たちに現してくださいます。私たちがまだ遠く離れているうちに(ルカ一五・二〇)、神は私たちをご自分のもとへ呼び、私たちの心を照してくださいます(第二コリント四・六)。けれども、そのとき、私たちが、まず愛してくださった方を愛さないとします。その声に聞き従おうとせず、その方から目をそむけ、その方が注いでくださる光に心を向けようとしないとします。そうなれば、神の御霊は、いつまでも私たちと争ってはくださいません。御霊は、しだいに退き、私たちを自分の心のやみにまかせてしまわれます。私たちの魂が神に向かって息を返さないかぎり、神は私たちの魂に息を吹き込み続けてはくださいません。私たちの愛と祈りと感謝とが、神の喜ばれるいけにえとして(ヘブル一三・一六)、神に返らないかぎり、そうなのです。

(四) 最後に、偉大な使徒のあの勧めに従うことを学びましょう。「高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい」(ローマ一一・二〇)。死や地獄よりも、罪を恐れましょう。自分の偽る心に頼ることのないように、注意深い恐れを持ちましょう(苦しめるような恐れではありません)。立っている「者は、倒れないように気をつけ」なさい(第一コリント一〇・一二)。今、神の恵みのうちに、世に勝つ信仰のうちに(第一ヨハネ五・四)、堅く立っている人でさえ、内の罪に陥ることがありえます。そして、それによって、「信仰の破船に会」うことがありうるのです(第一テモテ一・一九)。そうなれば、外の罪が、なんとたやすく再びその人を支配することでしょう! ですから、神の人よ(第一テモテ六・一一)、あなたはいつも目をさましていなさい。いつも神の声を聞くためです! 目をさましていなさい。いつでも、どこでも、神のみ前に心を注ぎ出して(詩篇六二・八)、絶えず祈るためです(第一テサロニケ五・一七)! そうすれば、あなたはいつも信じ、いつも愛し、決して罪を犯すことはありません。