ジョン・ウェスレー標準説教集

説教十八 新生のしるし

「霊から生れる者もみな、それと同じです」(ヨハネ三・八)

(一) 「霊から生れる者」(ヨハネ三・八)、すなわち新しく生れた者は、みな、どのようにして神から生れるのでしょうか。新しく生れる、神から生れる、霊から生れるとは、どういう意味でしょうか。神の子である、あるいは子たる身分を授ける霊を持っているということには(ローマ八・一五)、何が含まれているのでしょうか。これらの特権が、神の価なしのあわれみによって、通常はバプテスマに結びつけられていることを、私たちは知っています。だからこそ、私たちの主は、少し前の節で、バプテスマを「水と霊とから生れ」ることと呼ばれたのです(ヨハネ三・五)。けれども、私たちが知りたいのは、これらの特権が何であるかです。新生とは何でしょうか。

(二) これを定義する必要は、おそらくないでしょう。聖書が定義を与えていないからです。けれども、この問いは、人の子のだれにとっても、きわめて重大なことです。「だれでも新しく生れなければ」、すなわち霊から生れなければ、「神の国を見ることはできない」からです(ヨハネ三・三)。そこで、私は、新生のしるしを、聖書に示されているとおりに、できるだけわかりやすく示そうと思います。

【一】 信仰

(一) そのしるしの第一は、信仰です。信仰は、ほかのすべてのしるしの土台でもあります。パウロも、こう言います。「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのです」(ガラテヤ三・二六)。ヨハネも、こう言います。「その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えた」のです(ヨハネ一・一二)。この「力」はエクスーシアン(ἐξουσίαν)で、むしろ権利、あるいは特権と訳してよいでしょう。「それらの人は」、信じたときに、「血すじによらず、肉の欲によらず」生れました。自然の出生によったのではありません。「また、人の欲にもよらず」生れました。人に養子として迎えられた子供とは違うのです。そういう子供には、養子になっても、内側に何の変化も起りません。信じた人々は、「ただ神によって生れた」のです(ヨハネ一・一三)。また、ヨハネは手紙の中でも、こう言います。「すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者です」(第一ヨハネ五・一)。

(二) けれども、使徒たちがここで語っているのは、ただ観念的な、あるいは思弁的な信仰ではありません。イエスはキリストである、という命題に、ただ同意することではありません。私たちの信条や、旧約・新約聖書に含まれるすべての命題に同意することでもありません。こうした信ずべき事柄のどれか、あるいは全部に、信ずべきものとして同意するだけのことでもありません。もしそうだと言うなら、悪霊どもが神から生れたと言うことになります(そんなことを、だれが聞いていられるでしょうか)。悪霊どもも、この信仰を持っているからです。悪霊どもは、「信じておののいて」います(ヤコブ二・一九)。イエスがキリストであることを信じています。また、聖書はすべて神の霊感によって与えられたので(第二テモテ三・一六)、神が真実であるように真実であることも、信じているのです。また、それは、神のあかしや奇跡の証拠に基づいて、神の真理に同意することだけでもありません。悪霊どもも、キリストの口から出る言葉を聞き、キリストが忠実な、まことの証人であることを知っていたからです(黙示録三・一四)。キリストは、ご自身について、またご自分をつかわされた父について、あかしをされました。彼らは、そのあかしを受けいれないわけにはいきませんでした。また、キリストが行われた力あるわざを見て、そこから、キリストが「神からこられたかた」であると信じました(ヨハネ一六・三〇)。それでも、この信仰がありながら、彼らは今も鎖につながれています。そして、「大いなる日のさばきのために」、「暗やみの中に閉じ込めておかれ」ているのです(ユダ六)。

(三) これらはみな、死んだ信仰にすぎないからです。まことの、生きた、クリスチャンの信仰は、それを持つ人がだれでも神から生れている信仰です。この信仰は、同意、すなわち理解力の働きであるだけではありません。神がその人の心のうちに造り出された性向です。すなわち、「神に対する確かな信頼と確信です。キリストの功績によって自分の罪が赦され、神と和解して恵みを受けている、という確信です」(説教集「人の救いについて」)。この信仰には、次のことが含まれています。まず、人が自分自身を捨てることです。次に、「肉を頼み」とすることを、すべて退けることです(ピリピ三・三)。それは、「キリストのうちに自分を見いだす」ようになり(ピリピ三・九)、キリストを通して受けいれられるためです。そして、「返すことができ」ず(ルカ七・四二)、自分のわざにも、どんな種類の自分の義にも頼まずに、神のもとに来ることです。失われた、みじめな、自分で自分を滅ぼし、自分で自分を罪に定めた、破滅した、無力な罪人として来るのです。口をすっかりふさがれ、神の前にまったく罪ある者として来るのです(ローマ三・一九)。このような罪の自覚は、自分が知りもしないことをそしる人々からは(ユダ一〇)、普通、絶望と呼ばれています。けれども、生きた信仰の前には、この自覚がなければなりません。また、救いはキリストからだけ来るという十分な確信がなければなりません。言葉では言い表せないほどの確信です。そして、その救いを切に願う心がなければなりません。生きた信仰とは、キリストに対する信頼です。キリストこそ、「私たちのために死によって身代金を払い、生涯によって律法を成就された」方です(説教集「人の救いについて」)。ですから、私たちを神から生れさせるこの信仰は、「私たちの信仰箇条をすべて信じることだけではありません。私たちの主イエス・キリストを通して、神のあわれみに寄せる、まことの確信でもあるのです」(説教集「人の救いについて」)。

(四) 私たちを神から生れさせるこの信仰には、直ちに、また絶えず結ばれる実があります。それは、信仰から決して切り離せない実です。一時間たりとも切り離せません。それは、罪に打ち勝つ力です。あらゆる種類の外の罪、あらゆる悪い言葉と行いに打ち勝つ力です。キリストの血がこのように当てはめられるところではどこでも、その血が「良心をきよめて死んだわざを取り除」くからです(ヘブル九・一四)。また、内の罪に打ち勝つ力でもあります。信仰が、あらゆる汚れた欲求と気質から、心をきよめるからです(使徒一五・九)。パウロは、ローマ人への手紙の第六章で、この信仰の実を詳しく述べています。パウロは言います。信仰によって「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれる」でしょうか(ローマ六・二)。「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられました。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためです」(ローマ六・六)。「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきです」(ローマ六・一一)。「だから、あなたがたの死ぬべきからだを」さえ、「罪の支配にゆだね」てはなりません(ローマ六・一二)。「むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ」なさい(ローマ六・一三)。あなたがたは、「罪に支配されることは」ないからです(ローマ六・一四)。パウロはまた、「神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であった」が、「解放され」て、と言います。その明らかな意味は、こうです。神に感謝すべきです。あなたがたは、以前は罪の僕でしたが、今は「罪から解放され、義の僕となった」のです(ローマ六・一七〜一八)。

(五) 神の子たちのこの計り知れない特権を、ヨハネも同じように力強く主張しています。特に、その前の部分、すなわち外の罪に打ち勝つ力について、そうです。ヨハネは、神の慈愛の富の深さに驚いた人のように、まずこう叫びました。「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい」。「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子です。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではありません。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っています。そのまことの御姿を見るからです」(第一ヨハネ三・一〜二)。そして、すぐに、こう付け加えています。「すべて神から生れた者は、罪を犯しません。神の種が、その人のうちにとどまっているからです。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができません」(第一ヨハネ三・九)。けれども、ある人々は言うでしょう。「そのとおりだ。神から生れた者は、習慣的には罪を犯さないのだ」。習慣的に、とは! それはどこから出てきたのでしょうか。私はそんな言葉を読んだことがありません。聖書には書かれていません。神ははっきりと、「罪を犯さない」と言われます。それなのに、あなたは「習慣的には」と付け加えるのです!神の言葉に手を加え、この書の言葉に「書き加える」あなたは、いったい何者なのですか(黙示録二二・一八)。お願いですから、気をつけなさい。神が、あなたに「この書に書かれている災害を加えられる」かもしれません(黙示録二二・一八)!とりわけ、あなたが付け加える注釈が、本文をすっかりのみ込んでしまうようなものであるときは、そうです。これは、メトデイア・プラネース(μεθοδεία πλάνης)です(エペソ四・一四)。人を欺く巧みなやり方です。これによって、尊い約束がすっかり失われてしまうのです。また、キュベイア・アントローポーン(κυβεία ἀνθρώπων)です(エペソ四・一四)。人間のごまかしと言い逃れです。これによって、神の言葉が無にされるのです(マルコ七・一三)。ああ、気をつけなさい。あなたは、このようにこの書の言葉を取り除いています。その言葉から意味と精神をすっかり取り去って、まさに死んだ文字と呼ぶべきものだけを残しています。そんなことをすれば、神があなたの受くべき分を、いのちの書から取り除かれるかもしれません(黙示録二二・一九)!

(六) 使徒自身に、その言葉を、話の全体の流れによって解き明かしてもらいましょう。使徒は、この章の第五節で、こう言っていました。「あなたがたが知っているとおり、彼は」、すなわちキリストは、「罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪が」ありません(第一ヨハネ三・五)。使徒は、ここからどんな結論を引き出しているでしょうか。「すべて彼におる者は、罪を犯しません。すべて罪を犯す者は彼を見たこともなく、知ったこともない者です」(第一ヨハネ三・六)。使徒は、この大切な教えを強く説く前に、ぜひとも必要な警告を述べています。「子たちよ。だれにも惑わされてはなりません」(第一ヨハネ三・七)。多くの人が、あなたがたを惑わそうとするからです。不義であってもよい、罪を犯してもよい、それでも神の子でいられる、と説き伏せようとするのです!「彼が義人であると同様に、義を行う者は義人です。罪を犯す者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです」(第一ヨハネ三・七〜八)。そして、こう続きます。「すべて神から生れた者は、罪を犯しません。神の種が、その人のうちにとどまっているからです。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができません」(第一ヨハネ三・九)。使徒は、さらに付け加えます。「神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかです」(第一ヨハネ三・一〇)。この明らかなしるし(罪を犯すか、犯さないか)によって、両者は互いに区別されるのです。第五章の次の言葉も、同じ趣旨です。「すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っています」。神から生れた者は自分を守り、「悪しき者が手を触れるようなことは」ありません(第一ヨハネ五・一八)。

(七) この生きた信仰のもう一つの実は、平安です。私たちは、「信仰によって義とされた」のです。すべての罪を消し去っていただいたのです。ですから、「わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得て」います(ローマ五・一)。実に、私たちの主ご自身が、死なれる前の夜、ご自分に従うすべての者に、この平安を厳かに遺してくださいました。主は言われます。「わたしは平安をあなたがたに残して行きます」(ヨハネ一四・二七)。あなたがたとは、「神を信じ、またわたしを信じ」る人々のことです(ヨハネ一四・一)。「わたしの平安をあなたがたに与えます。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なります。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけ」てはなりません(ヨハネ一四・二七)。また、こうも言われます。「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためです」(ヨハネ一六・三三)。これが、「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」です(ピリピ四・七)。それは、魂の静けさです。生れながらの人の心には、思い浮びもしなかったものです(第一コリント二・九)。霊の人でさえ、言い表すことのできないものです。そして、この平安は、地と地獄のすべての力をもってしても、その人から奪い去ることができません。波や嵐が打ちつけても、この平安は揺るぎません。岩を土台としているからです(マタイ七・二五)。この平安は、いつでも、どこでも、神の子たちの心と思いとを守ります(ピリピ四・七)。安楽なときも苦痛のときも、病気のときも健康なときも、豊かなときも乏しいときも、彼らは神にあって幸いなのです。彼らは、どんな境遇にあっても、足ることを学んでいます(ピリピ四・一一)。そうです、キリスト・イエスを通して神に感謝することを学んでいるのです。彼らは、「起ることはすべて最善である」と、よく確信しています。それが、彼らについての神のみこころだからです。こうして、人生のどんな移り変りの中でも、彼らの「心は主に信頼してゆるがない」のです(詩篇一一二・七)。

【二】 希望

(一) 神から生れた人々の、聖書による第二のしるしは、希望です。ペテロは、当時離散していた神の子たちすべてに向かって(第一ペテロ一・一)、こう言います。「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより」、「わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ」てくださいました(第一ペテロ一・三)。使徒は、エルピダ・ゾーサン(ἐλπίδα ζῶσαν)、すなわち生き生きとした、あるいは生きている望みと言います。死んだ信仰があるように、死んだ望みもあるからです。それは、神から出たのではなく、神と人との敵から出た望みです。そのことは、その実によって明らかです。その望みは、高ぶりから生れたものであり、またあらゆる悪い言葉と行いを生み出すものだからです。ところが、この生ける望みを自分のうちに持つ人はみな、「召してくださった聖なるかたにならって」、聖なる者となっています(第一ペテロ一・一五)。キリストにある兄弟たちに向かって、心からこう言える人がいます。「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子です」。わたしたちは彼の「まことの御姿を見る」のです(第一ヨハネ三・二)。そう言える人はみな、「彼がきよくあられるように、自らをきよく」します(第一ヨハネ三・三)。

(二) この希望は、第一に、私たち自身の霊、すなわち良心のあかしを含んでいます。私たちが、単純さと神にかなう誠実さとをもって歩んでいるというあかしです(第二コリント一・一二)。第二に、神の御霊のあかしを含んでいます。御霊が、「わたしたちの霊と共に」、あるいはわたしたちの霊に、「わたしたちが神の子であることをあかしして」くださるのです(ローマ八・一六)。「もし子であれば、相続人でもあります。神の相続人であって」、「キリストと共同の相続人なのです」(ローマ八・一七)。

(三) 神の子たちのこの栄光ある特権について、神ご自身がここで何を教えておられるかを、よく見ましょう。ここで、あかしをすると言われているのはだれでしょうか。私たちの霊だけではなく、もう一つの霊、すなわち神の御霊です。「わたしたちの霊と共に」「あかしして」くださるのは、この御霊です(ローマ八・一六)。御霊は、何をあかししてくださるのでしょうか。「わたしたちが神の子であること」です(ローマ八・一六)。また、「もし子であれば、相続人でもあ」ること、「神の相続人であって」、「キリストと共同の相続人」であることです(ローマ八・一七)。ただし、それは、私たちが「キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている」ならば、のことです(ローマ八・一七)。すなわち、自分を捨て、日々自分の十字架を負い(ルカ九・二三)、キリストのために迫害やそしりを喜んで耐え忍んでいるならば、です。では、神の御霊は、だれのうちでこのあかしをしてくださるのでしょうか。神の子であるすべての人のうちでです。使徒は、その前の節で、まさにこの論拠によって、彼らが神の子であることを証明しています。使徒は言います。「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子です」(ローマ八・一四)。「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのです。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ八・一五)。続いて、こうあります。「御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかししてくださいます」(ローマ八・一六)。

(四) 第十五節で言い方が変っていることは、注目に値します。「あなたがたは」「子たる身分を授ける霊を受けたのです。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ八・一五)。神の子であるあなたがたはみな、本当に神の子であることによって、あの同じ子たる身分を授ける霊を受けています。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのです。この「わたしたち」とは、使徒、預言者、教師たちのことです(この語は、そう解しても不適当ではありません)。あなたがたが、その人たちを通して信じるようになった、その「わたしたち」です。「キリストに仕える者、神の奥義を管理している者」である、「わたしたち」です(第一コリント四・一)。私たちとあなたがたとは、主が一つであるように、御霊も一つです。信仰が一つであるように、望みも一つです(エペソ四・四〜五)。私たちとあなたがたとは、一つの「約束された聖霊の証印をおされた」のです(エペソ一・一三)。この聖霊は、あなたがたと私たちとが神の国をつぐことの「保証」です(エペソ一・一四)。同じ御霊が、あなたがたの霊と共に、また私たちの霊と共に、「わたしたちが神の子であることをあかしして」くださるのです(ローマ八・一六)。

(五) こうして、聖書の言葉が成就します。「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるでしょう」(マタイ五・四)。次のことは、たやすく信じられるからです。神の御霊が私たちの霊と共にするこのあかしに、悲しみが先立つことはありえます。実際、ある程度は先立たなければなりません。私たちが恐れの下で、また神の怒りが自分の上にとどまっているという意識の下でうめいている間は、そうです(ヨハネ三・三六)。けれども、だれでも、このあかしを自分のうちに感じるとすぐに、その人の「憂いは喜びに変る」のです(ヨハネ一六・二〇)。それまでの苦痛がどれほどであっても、その「時がきた」とたんに、「もはやその苦しみをおぼえてはいない」のです(ヨハネ一六・二一)。神から生れた「喜びがあるため」です(ヨハネ一六・二一)。あなたがたの多くは、今、悲しんでいるかもしれません。自分が「イスラエルの国籍がな」い者だからです(エペソ二・一二)。自分にはこの御霊がないこと、自分が「この世の中で希望もなく神もない者」であることを、自分で知っているからです(エペソ二・一二)。けれども、助け主がくると(ヨハネ一六・七)、「あなたがたの心は喜びに満たされるでしょう」(ヨハネ一六・二二)。そうです、「あなたがたの喜びが満ちあふれるでしょう」(ヨハネ一六・二四)。そして、「その喜びをあなたがたから取り去る者はいません」(ヨハネ一六・二二)。あなたがたは、こう言うでしょう。「わたしたちは、今や和解を得させてくださったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのです」(ローマ五・一一)。「わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに」「導き入れられ」ました(ローマ五・二)。この恵みとは、恵みの状態、すなわち神の恵みを受け、神と和解した状態のことです。そして、「神の栄光にあずかる希望をもって喜んで」いるのです(ローマ五・二)。ペテロは言います。神は、あなたがたを「新たに生れさせて生ける望みをいだかせ」てくださいました(第一ペテロ一・三)。その「あなたがたは」、「救にあずかるために、信仰により神の御力に守られている」のです(第一ペテロ一・五)。「そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れませんが、あなたがたは大いに喜んでいます」(第一ペテロ一・六)。「こうして、あなたがたの信仰はためされて」、「イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るでしょう」(第一ペテロ一・七)。「現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれています」(第一ペテロ一・八)。まことに、言葉につくせない喜びです! 聖霊によるこの喜びは、人の舌で言い表せるものではありません。それは「隠されているマナ」です。「これを受ける者のほかだれも知らない」のです(黙示録二・一七)。けれども、私たちは知っています。この喜びは、深い苦難の中でもなくならないばかりか、かえってあふれ出るのです。地上の慰めがみな尽きるとき、神の子たちにとって、「神の慰め」は「あまりに小さい」でしょうか(ヨブ一五・一一)。そうではありません。苦難がいちばん満ちあふれるとき、御霊の慰めは、いっそう満ちあふれます(第二コリント一・五)。そのため、神の子たちは、「滅び」が来るときも、それを「笑い」ます(ヨブ五・二二)。乏しさも、苦痛も、地獄も、墓も笑うのです。彼らは、「死と黄泉とのかぎを持って」おられる方を知っているからです(黙示録一・一八)。その方は、まもなくそれらを「底知れぬ所に投げ込」まれるのです(黙示録二〇・三)。また、彼らは、天からの大きな声を、今すでに聞いているからです。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして」、彼らの神となられます(黙示録二一・三)。「人の目から涙を全くぬぐいとってくださいます。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもありません。先のものが、すでに過ぎ去ったからです」(黙示録二一・四)。

【三】 愛

(一) 神から生れた人々の、聖書による第三のしるしは、愛です。これは、すべてのしるしの中で最も大いなるものです(第一コリント一三・一三)。すなわち、彼らに「賜わっている聖霊によって」、彼らの「心に注がれている」「神の愛」です(ローマ五・五)。彼らは「子であるのだから、神は」彼らの「心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送ってくださった」のです(ガラテヤ四・六)。彼らは、この御霊によって、神を、和解してくださった愛に満ちた父として、絶えず仰ぎ見ています。そして、日ごとの食物を(マタイ六・一一)、また魂のためであれからだのためであれ、必要なものをすべて、神に呼び求めます。彼らは、絶えず、神のみ前に心を注ぎ出します(詩篇六二・八)。「神に願い求めたことはすでにかなえられた」ことを、知っているからです(第一ヨハネ五・一五)。彼らの喜びは、神にあります。神は、彼らの心の喜びであり、彼らの「盾」であり、彼らの受ける「はなはだ大きい」「報い」です(創世記一五・一)。彼らの魂が慕うのは神です(イザヤ二六・八)。神の「みこころを行う」ことが、彼らの「食物」であり、飲み物です(ヨハネ四・三四)。そして、彼らは、髄とあぶらとで満たされるように満ち足り、その口は喜びのくちびるをもって神をほめたたえるのです(詩篇六三・五)。

(二) また、この意味でも、「すべて生んでくださったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのです」(第一ヨハネ五・一)。その人の霊は、「救主なる神を」喜びます(ルカ一・四七)。その人は、「変らない真実をもって」、「主イエス・キリストを愛」します(エペソ六・二四)。その人は、「主につく者」として、主と一つの霊になっています(第一コリント六・一七)。その人の魂は主にすがり、主をことごとく麗しい方として選びます(雅歌五・一六)。主は、「万人にぬきんで」た方なのです(雅歌五・一〇)。その人は、次の言葉の意味を知り、また感じています。「わが愛する者はわたしのもの、わたしは彼のものです」(雅歌二・一六)。「あなたは人の子らにまさって麗し」い方です。あなたのくちびるは恵みに満ちています。神が、とこしえにあなたに油を注がれたからです(詩篇四五・二)!

(三) 神へのこの愛から必ず結ばれる実は、隣り人への愛です。神が造られたすべての魂への愛です。敵も除外しません。今、私たちを侮辱し、「迫害する者」も除外しません(マタイ五・四四)。それは、すべての人を自分自身のように、自分の魂を愛するように愛する愛です(マタイ二二・三九)。いや、私たちの主は、それをさらに強く言い表されました。主が私たちを愛されたように、私たちも「互に愛し合いなさい」と教えられたのです(ヨハネ一三・三四)。ですから、神を愛するすべての人の心に記されている戒めは、ほかでもなく、これです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(ヨハネ一五・一二)。「主は、わたしたちのためにいのちを捨ててくださいました。それによって、わたしたちは愛ということを知った」のです(第一ヨハネ三・一六)。ですから、使徒が正しく推論しているとおり、「わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきです」(第一ヨハネ三・一六)。私たちが、自分にはそうする用意があると感じるなら、そのとき、私たちは本当に隣り人を愛しているのです。そのとき、「わたしたちは」このように「兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知って」います(第一ヨハネ三・一四)。「神が」愛の「御霊をわたしたちに賜わったことによって」、私たちは、自分が神から生れたことを知ります。「わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを」「知る」のです(第一ヨハネ四・一三)。「愛は、神から出たものなのです。すべて」このように「愛する者は、神から生れた者であって、神を知っています」(第一ヨハネ四・七)。

(四) けれども、ある人は、こう尋ねるかもしれません。「使徒は、『神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである』と言っているではないか(第一ヨハネ五・三)」。そうです。そして、これは、神への愛であるのと同じ意味で、隣り人への愛でもあります。けれども、あなたは、ここから何を推論しようというのでしょうか。外面の戒めを守ることが、神を愛することのすべてだというのでしょうか。心をつくし、思いをつくし、精神をつくし、力をつくして神を愛することのすべてだと(マルコ一二・三〇)。また、自分のように隣り人を愛することのすべてだと(マタイ二二・三九)。神への愛は、魂の情愛ではなく、ただ外面の奉仕にすぎないというのでしょうか。隣り人への愛は、心の性向ではなく、ただ外面のわざを重ねることにすぎないというのでしょうか。使徒の言葉についてのこれほど途方もない解釈は、口にするだけで、十分に反駁されます。あの聖句の、明白で疑いようのない意味は、こうです。神のほかの戒めを守ることが、神への愛のしるし、すなわち証拠です。私たちが、いちばん大切な第一の戒めを守っていることの証拠なのです(マタイ二二・三八)。まことの愛が、ひとたび私たちの心に注がれるなら(ローマ五・五)、その愛は、私たちにそうするように強く迫るからです(第二コリント五・一四)。心をつくして神を愛する人はだれでも、力をつくして神に仕えずにはいられないのです。

(五) ですから、神への愛の第二の実は、愛する方へのあらゆる点での服従と、そのみこころに従うことです。もっとも、これは愛から区別できるかぎりで言えることです。それは、内面の、また外面の、神のすべての命令への服従です。心の服従であり、生活の服従です。あらゆる気質において、またあらゆるふるまいにおいて服従することです。そして、ここに最も明らかに含まれている気質の一つは、「良いわざに熱心な」ことです(テトス二・一四)。あらゆる仕方で、すべての人に善を行うことに、飢えかわくことです(ガラテヤ六・一〇)。彼らのために、人の子のだれのためにも、喜んで「費用を使い」、自分自身「をも使いつく」すことです(第二コリント一二・一五)。この世ではどんな報いも期待せず、ただ正しい人々の復活の際の報いだけを待ち望むのです(ルカ一四・一四)。

【四】 あなたがたは今、神の子か

(一) 以上のように、私は、聖書に示されている新生のしるしを、わかりやすく示してきました。こうして、神ご自身が、神から生れるとはどういうことかという、あの重大な問いに答えておられます。神の言葉に訴えるなら、「霊から生れる者もみな」、このような者です(ヨハネ三・八)。神の御霊の判断によれば、神の子であるとは、このことです。それは、キリストを通して神を信じ、「罪を犯さない」ほどになることです(第一ヨハネ三・九)。そして、いつでも、どこでも、「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」を味わうことです(ピリピ四・七)。それは、神の愛する御子を通して(コロサイ一・一三)神に望みを置き、正しい「良心のあかし」を持つほどになることです(第二コリント一・一二)。それだけでなく、神の御霊のあかしも持つことです。御霊が、あなたがたの「霊と共に」、あなたがたが「神の子であることをあかしして」くださるのです(ローマ八・一六)。そこから、必ず喜びがわき出ます。あなたがたに「和解を得させて」くださった方にある喜びです(ローマ五・一一)。それは、このようにあなたがたを愛してくださった神を、あなたがたがこれまでどんな被造物をも愛したことのないほどに愛することです。そのため、あなたがたは、すべての人を自分自身のように愛さずにはいられなくなります。その愛は、あなたがたの心の中で絶えず燃えているだけではありません。あなたがたのすべての行いとふるまいに燃え上がり、あなたがたの全生涯を一つの「愛の労苦」とします(第一テサロニケ一・三)。次の命令への、一つの絶え間ない服従とするのです。「あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者と」なりなさい(ルカ六・三六)。「主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければ」なりません(レビ記一九・二)。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ五・四八)。

(二) では、このように神から生れているあなたがたとは、どんな人々でしょうか。あなたがたは、「神から賜わった恵みを悟」っています(第一コリント二・一二)。あなたがたは、自分が神の子であることをよく知っており、「神のみまえに心を安んじて」いることができます(第一ヨハネ三・一九)。そして、これらの言葉に注意を払ってきたあなたがたはみな、感じずにはいられません。また、確かに知らずにはいられません。今この時、自分がこのような神の子であるか、そうでないかを、です。人にではなく、神に答えなさい!問題は、あなたがバプテスマでどんな者にされたかではありません(言い逃れをしてはいけません)。今、あなたがどんな者であるかです。子たる身分を授ける霊は(ローマ八・一五)、今、あなたの心のうちにおられるでしょうか。あなた自身の心に問うてみなさい。私は、あなたが水と霊とから生れたかどうかを尋ねているのではありません(ヨハネ三・五)。あなたが今、自分の内に宿っている聖霊の宮であるかどうかを尋ねているのです(第一コリント六・一九)。あなたが「キリストの割礼」を受けたことは認めましょう(コロサイ二・一一)。パウロは、バプテスマを力強くこう呼んでいます。けれども、キリストの霊、栄光の霊は、今、あなたに宿っておられるでしょうか(第一ペテロ四・一四)。そうでなければ、「あなたの割礼は無割礼となってしま」っているのです(ローマ二・二五)。

(三) ですから、心の中で、「私はかつてバプテスマを受けた。だから、私は今、神の子だ」と言ってはいけません。ああ、その推論は決して成り立ちません。バプテスマを受けた大食する者や酒に酔う者が、なんと多いことでしょう。バプテスマを受けたうそつきや、いつも誓いの言葉を口にする者も、なんと多いことでしょう。バプテスマを受けたののしる者や悪口を言う者も、バプテスマを受けた不品行な者、盗む者、略奪する者も、なんと多いことでしょう(第一コリント六・九〜一〇)。あなたがたは、どう思いますか。この人たちが、今、神の子なのでしょうか。まことに、あなたがたに言います。今挙げたどれか一つでも当てはまる人は、だれであっても、「自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者」です(ヨハネ八・四四)。「あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っている」のです(ヨハネ八・四一)。私は、あなたがたが自ら再び十字架につけている方の名によって(ヘブル六・六)、あなたがたに呼びかけます。また、その方が、割礼を受けたあなたがたの先人たちに語られた言葉によって、呼びかけます。「へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることが」できるでしょうか(マタイ二三・三三)。

(四) まことに、新しく生れなければ、どうしてのがれることができるでしょう!あなたがたは、今、罪過と罪とによって死んでいるからです(エペソ二・一)。ですから、あなたがたは新しく生れることができない、バプテスマのほかに新生はない、と言うとします。それは、あなたがたをみな、滅びの下に封じ込めることです。助けもなく、望みもないまま、地獄に引き渡すことです。そして、それが正しく、当然だと思う人もいるかもしれません。彼らは、万軍の主への熱心のあまり、こう言うかもしれません。「そうだ、罪びとなるアマレクびとを断ち滅ぼせ(第一サムエル一五・一八)! このギベオンびとを滅ぼし尽せ! 彼らはそれに値するのだ」。確かに、彼らはそれより軽いものには値しません。けれども、私も、あなたがたも同じです。彼らと同じように、私が受けるべきものも、あなたがたが受けるべきものも、地獄です。私たちが今、消えない火の中にいないのは(マルコ九・四三)、ただあわれみによるのです。価なしの、受けるに値しないあわれみによるのです。あなたがたは言うでしょう。「けれども、私たちは洗われたのだ(第一コリント六・一一)。私たちは『水と霊とから』新しく生れたのだ(ヨハネ三・五)」。彼らもそうでした。ですから、それは、あなたがたが今、彼らとまったく同じであるかもしれないことを、少しも妨げません。「人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる」ことを、知らないのですか(ルカ一六・一五)。世の聖徒たちよ、人々から尊ばれているあなたがたよ、出てきなさい。そして、あの人々に、だれが最初に石を投げつけるか、見てみなさい(ヨハネ八・七)。地上に生かしておく値打ちもない(使徒二二・二二)、あの哀れな者たちに、あの遊女、姦淫する者、人殺しに、です。ただ、まず、次の言葉が何を意味するかを学びなさい。「すべて兄弟を憎む者は人殺しです」(第一ヨハネ三・一五)。「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのです」(マタイ五・二八)。「不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないのですか」(ヤコブ四・四)。

(五) 「よくよく」あなたがたに「言っておきます」(ヨハネ三・三)。あなたがたも、「新しく生れなければならない」のです(ヨハネ三・七)。あなたがたも、「新しく生れなければ、神の国を見ることはでき」ません(ヨハネ三・三)。バプテスマで新しく生れた、という折れかけている葦のつえに、もう寄りかかってはいけません(イザヤ三六・六)。あなたがたがそのとき神の子とされ、天の御国の相続人とされたことを、だれが否定するでしょうか。けれども、それにもかかわらず、あなたがたは今、悪魔の子なのです。ですから、あなたがたは新しく生れなければなりません。事柄がはっきりしているのに、言葉の上であげつらう思いを、サタンにあなたがたの心に入れさせてはなりません。あなたがたは、神の子のしるしが何であるかを聞きました。自分の魂にそのしるしを持っていない人はみな、バプテスマを受けていても受けていなくても、そのしるしを受けなければなりません。そうでなければ、疑いもなく、永遠に滅びるのです。もしバプテスマを受けているなら、あなたがたのただ一つの望みは、これです。バプテスマによって神の子とされながら、今は悪魔の子となっている人々がいます。その人々も、もう一度、「神の子となる力」を受けることができるのです(ヨハネ一・一二)。失ったものを、もう一度受けることができるのです。すなわち、「子たる身分を授ける霊」(ローマ八・一五)、彼らの「心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ」霊を(ガラテヤ四・六)、受けることができるのです。

「アァメン、主イエスよ」(黙示録二二・二〇)! もう一度あなたの御顔をたずね求めようと、心を備える人々がいます。そのすべての人が、あの子たる身分を授ける霊をもう一度受けて、「アバ、父よ」と叫ぶことができますように。その人が今もう一度、あなたの名を信じて神の子となる力を与えられますように(ヨハネ一・一二)。そして、自分が、あなたの「血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受け」ていることを(エペソ一・七)、知り、また感じることができますように。自分が「神から生れた者であるから、罪を犯すことができない」ことを(第一ヨハネ三・九)、知り、また感じることができますように。その人が今、「新たに生れさせ」られて、「生ける望みをいだ」くことができますように(第一ペテロ一・三)。そして、あなたが「きよくあられるように、自らをきよく」することができますように(第一ヨハネ三・三)。そして、その人が「子であるのだから」(ガラテヤ四・六)、愛の霊、栄光の霊がその人に宿りますように(第一ペテロ四・一四)。その霊が、その人を「肉と霊とのいっさいの汚れから」きよめ、「神をおそれて全く清く」なることを教えてくださいますように(第二コリント七・一)!