ジョン・ウェスレー標準説教集

説教十七 心の割礼

オクスフォード大学聖母マリア教会にて。1733年1月1日。

「文字によらず霊による心の割礼こそ割礼です」(ローマ二・二九)

(一) ある優れた人が、悲しげにこう述べています。今、キリスト教の最も本質的な義務を説く人は、聞き手の大部分から、「新しい教」を伝える者と思われるおそれがある、と(使徒一七・一八〜一九)。たいていの人は、今もその宗教を信じると言い表していながら、生活の中でその実質をすっかり失ってしまいました。そのため、キリストの霊を世の霊から区別する真理が一つでも示されると、彼らはすぐにこう叫びます。「君がなんだか珍らしいことをわれわれに聞かせているので、それがなんの事なのか知りたいと思うのだ」(使徒一七・二〇)。説教者は、ただ「イエスと復活とを」宣べ伝えているだけなのにです(使徒一七・一八)。そして、そこから必然的に出てくる結論を述べているだけです。キリストがよみがえられたのなら、あなたがたは世に対して死に、ひたすら神に対して生きるべきだ、という結論です。

(二) これは、生れながらの人には「ひどい言葉」です(ヨハネ六・六〇)。生れながらの人は、世に対して生きていて、神に対しては死んでいるからです。彼は、これを神の真理として受けいれるようには、なかなか説き伏せられません。受けいれるとすれば、解釈で手加減を加えて、何の役にも立たず、何の意味も残らないようにしたときだけです。彼は、「神の御霊の」言葉を、そのわかりやすい、明白な意味のままでは「受けいれ」ません(第一コリント二・一四)。「それは彼には愚かなものだから」です。実際、「御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができ」ないのです(第一コリント二・一四)。それは、霊的な感覚によってしか知覚できません。ところが、彼のうちでは、その感覚がまだ一度も目覚めたことがありません。その感覚がないために、彼は、神の知恵であり神の力であるものを(第一コリント一・二四)、人間のむなしい空想として退けるほかないのです。

(三) 「文字によらず霊による心の割礼こそ割礼」です(ローマ二・二九)。キリストに本当に従う人、すなわち神に受けいれられた状態にある人には、見分けるしるしがあります。それは、外の割礼でも、バプテスマでも、ほかのどんな外の形でもありません。正しい魂の状態、すなわち、造り主のかたちに従って新しくされた心と霊です(コロサイ三・一〇)。これは、霊的にしか見分けられない大切な真理の一つです。使徒自身も、すぐあとの言葉で、このことをほのめかしています。「そのほまれは人からではなく、神から来る」のです(ローマ二・二九)。使徒は、こう言っているかのようです。「あなたがだれであっても、このように偉大な主人に従っているなら、期待してはいけません。主人に従わない世が、あなたに『良い忠実な僕よ、よくやった』と言うことはありません(マタイ二五・二一)。知っておきなさい。心の割礼は、あなたが召されたことの証印ですが、世にとっては愚かなものなのです。称賛は、あなたの主が現れる日まで、甘んじて待ちなさい。その日に、あなたは、人と御使いとの大いなる集まりの中で、神からほまれを受けるのです(第一コリント四・五)」。

私は、次のことをしようと思います。第一に、この心の割礼が何にあるかを、詳しく調べます。第二に、この探究から自然に生まれる反省を、いくつか述べます。

【一】 心の割礼とは何か

(一) 第一に、神からほまれを受ける心の割礼が、何にあるかを調べます。一般的に言えば、それは、聖書で聖性と呼ばれている、魂の習慣的な性向です。それは、直接には、罪から、すなわち「肉と霊とのいっさいの汚れから」清められることを含んでいます(第二コリント七・一)。そしてその結果として、キリスト・イエスのうちにもあった徳を身に着けることを含んでいます。また、「心の深みまで新たにされて」(エペソ四・二三)、「天の父が完全であられるように」「完全な者とな」ることを含んでいます(マタイ五・四八)。

(二) もっと詳しく言えば、心の割礼は、謙遜、信仰、希望、愛を含んでいます。謙遜とは、自分自身についての正しい判断です。謙遜は、自分は完全だという高ぶったうぬぼれから、私たちの心を清めます。自分の能力や到達したものについての不当な思い込みからも、清めます。こうしたうぬぼれや思い込みは、腐敗した本性から生じる、まぎれもない実なのです。謙遜は、「自分は富んでいる」、賢い、「なんの不自由もない」というむなしい思いを(黙示録三・一七)、すっかり断ち切ります。そして、私たちが生れながら、みじめな者、貧しい者、あわれむべき者、目の見えない者、裸な者であることを悟らせます(黙示録三・一七)。謙遜は、次のことを悟らせます。私たちは、最もよい状態にあっても、自分自身としては、罪とむなしさばかりです。混乱と無知と誤りとが、私たちの悟りを支配しています。理に合わない、地につく、肉に属する、悪魔的な情念が(ヤコブ三・一五)、私たちの意志を支配する権威を奪っています。一言で言えば、私たちの魂には、健全なところが一つもありません。私たちの本性のもろもろの基は、ゆり動いているのです(詩篇八二・五)。

(三) 同時に、私たちは次のことを悟ります。私たちには、自分で自分を助ける力がありません。神の御霊がなければ、罪に罪を加えることしかできません(イザヤ三〇・一)。全能の力によって私たちのうちに働き、善を願わせ、また行わせてくださるのは、ただ神だけです。神の御霊の超自然的な助けがなければ、私たちは、良いことを一つ考えることさえできません。それは、自分で自分を造ることや、自分の魂全体を真の義と聖とにおいて新しくすることと同じほど(エペソ四・二四)、不可能なのです。

(四) 私たちの本性が罪深く無力であることについて、このように正しく判断するようになると、確かな結果が生じます。「人からの誉」を気にかけなくなるのです(ヨハネ五・四一)。その誉は、たいてい、私たちにあると思われている何かの長所に向けられるものです。自分を知っている人は、自分にふさわしくないと知っている称賛を、望みもせず、重んじもしません。ですから、彼は、「人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介し」ません(第一コリント四・三)。彼は、世が自分について言ってきたことを、有利なことも不利なことも、自分の胸のうちに感じていることと比べてみます。すると、彼には、こう考える十分な理由があります。この世の神と同じように(第二コリント四・四)、世もまた「初めから」「偽り者」だったのです(ヨハネ八・四四)。では、世のものでない人々に対しては、どうでしょうか(ヨハネ一七・一六)。神のみこころなら、彼は、その人々にこう思ってもらいたいと願うでしょう。この人は、主人の財産を任された忠実な管理人と認められたいと願っている、と。そう思ってもらえれば、仲間の僕たちに、もっと役に立てるようになるかもしれないからです。けれども、彼が彼らの賛同を願うのは、ただこの目的のためだけです。ですから、彼は、それにまったく頼ってはいません。神がお望みになることなら、神がそれを行う器に事欠くことは決してない、と確信しているからです。神は、これらの石ころからでも、みこころを行う僕を起すことがおできになるのです(マタイ三・九)。

(五) これが、あのへりくだった心です(ピリピ二・三)。キリストの模範に従い、その御足の跡を踏み従う人々は(第一ペテロ二・二一)、この心をキリストから学んだのです。彼らは、自分の病を知ることによって、その病の一部である高ぶりとむなしさから、ますます清められていきます。そして、この知識によって、心の割礼に含まれる第二のものを、進んで受けいれる心になります。それは信仰です。信仰だけが、彼らをいやすことができます。信仰こそ、彼らの病をいやすために天下に与えられた、ただ一つの薬なのです。

(六) 盲人の最良の手引き、やみにおる者の最も確かな光、愚かな者の最も完全な導き手は、信仰です(ローマ二・一九〜二〇)。けれども、それは、神によって「要塞をも破壊するほどの力ある」信仰でなければなりません(第二コリント一〇・四)。すなわち、腐敗した理性のあらゆる偏見を打ち倒す信仰です。人々の間で敬われているあらゆる偽りの格言、あらゆる悪い慣習と習慣を打ち倒す信仰です。「神の前では愚かな」「この世の知恵」を、すべて打ち倒す信仰です(第一コリント三・一九)。また、「さまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ」る信仰でなければなりません(第二コリント一〇・四〜五)。

(七) このように「信ずる者には、どんな事でもできる」のです(マルコ九・二三)。彼は、「心の目を明らかに」されて(エペソ一・一八)、自分の召しが何であるかを見ます。それは、これほど高い代価を払って彼を買いとられた神の栄光を、自分のからだと霊とによってあらわすことです(第一コリント六・二〇)。そのからだと霊は、創造によってだけでなく、あがないによっても、今は神のものなのです。彼は、この「力」が「いかに絶大なものであるか」を感じます(エペソ一・一九)。神は、キリストを死人の中からよみがえらせました。同じように、罪によって死んでいた私たちをも(エペソ二・一)、「内に宿っている御霊によって」生かすことがおできになるのです(ローマ八・一一)。「わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力」です(第一ヨハネ五・四)。その信仰は、神が聖書の中で啓示されたことすべてに対する、揺るがない同意です。とりわけ、次の大切な真理に対する同意です。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきてくださいました」(第一テモテ一・一五)。「十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われました」(第一ペテロ二・二四)。「彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物です。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためです」(第一ヨハネ二・二)。〔この段落の以下の部分は、以前に語った説教に、今回加えたものです。〕けれども、その信仰は、それだけではありません。私たちの心にキリストが啓示されることでもあります(ガラテヤ一・一六)。それは、キリストの愛についての、神からの証拠、すなわち確信です。罪人である私に対する、価なしの、受けるに値しない愛についての確信です。また、キリストの赦しのあわれみに対する確かな信頼です。この信頼は、聖霊が私たちのうちに造り出してくださるものです。この信頼によって、まことの信者はみな、こうあかしすることができます。「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられます」(ヨブ一九・二五)。私には、「父のみもとには」「助け主」がおられます。「義なるイエス・キリスト」が私の主であり、私の罪のための「あがないの供え物」です(第一ヨハネ二・一〜二)。私は知っています。キリストは「わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられ」ました(ガラテヤ二・二〇)。キリストは私を、この私をさえ、神と和解させてくださいました(第二コリント五・一八)。私は、「その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受け」ているのです(エペソ一・七)。

(八) このような信仰は、それを吹き込まれる方の力を、必ずはっきりと示します。その方は、ご自分の子供たちを罪のくびきから解き放ち、彼らの「良心をきよめて死んだわざを取り除」いてくださるのです(ヘブル九・一四)。また、彼らを強めて、もはや罪に強いられて「その情欲に従」うことのないようにしてくださいます(ローマ六・一二)。彼らは、「肢体を不義の武器として罪にささげ」るのではありません(ローマ六・一三)。今は、「死人の中から生かされた者として、自分自身を」すっかり「神にささげ」るのです(ローマ六・一三)。

(九) このように信仰によって神から生れた人々は、希望によって、力強い励ましも受けています(ヘブル六・一八)。これが、心の割礼に含まれる次のものです。すなわち、彼ら自身の霊のあかしです。彼らの霊は、彼らの心の中であかしをされる御霊と共に、彼らが神の子であることをあかしするのです(ローマ八・一六)。実に、同じ御霊が、彼らのうちに、明るく晴れやかな確信を生み出してくださいます。自分の心は神に向かってまっすぐだ、という確信です。また、確かな保証を生み出してくださいます。自分は今、神の恵みによって、みこころにかなうことを行っている、という保証です(第一ヨハネ三・二二)。自分は今、いのちに至る道にいる。そして、神のあわれみによって、その道に最後まで耐え忍ぶ、という保証です(マタイ二四・一三)。神の御手からあらゆる良いものを受けるという、生き生きとした期待を彼らに与えてくださるのも、御霊です。天に彼らのためにたくわえてある、あの栄光の冠を(第一ペテロ一・四、五・四)、喜んで待ち望ませてくださるのも、御霊です。クリスチャンは、この錨によって(ヘブル六・一九)、悩み多いこの世の波の中でも、揺るがずに保たれます(祈祷書「幼児洗礼式」)。そして、思い上がりと絶望という、あの二つの致命的な岩のどちらにも、乗り上げずにすむのです。彼は、主がきびしい方だと思い違いをして落胆することもなく、主の慈愛の富を軽んじることもありません(ローマ二・四)。彼は、自分の前に置かれた競走の困難を、自分の力で打ち勝てないほど大きいとは考えません。また、自分が力を出しきらないうちに崩れてしまうほど、その困難が小さいとも思いません。彼がクリスチャンの戦いの中ですでに得た経験は、彼に確信させます。自分の「手のなしうる事」を「力をつくして」行うなら(伝道九・一〇)、自分の「労苦がむだになることはない」と(第一コリント一五・五八)。同時に、その経験は、彼がむなしい考えをいだくことを許しません。ほかのやり方で何かを得られるとか、弱い心と萎えた手で、何かの徳を示し、何かの称賛を得られるとかいう考えです。実に、異邦人の偉大な使徒と同じ道を進む人でなければ(ローマ一一・一三)、それはできません。使徒は、こう言います。「わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしません。すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのです。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れません」(第一コリント九・二六〜二七)。

(一〇) キリストの良い兵卒はみな、同じ訓練によって、苦しみに耐えることに自分を慣らさなければなりません(第二テモテ二・三)。この訓練によって確かにされ、強められるなら、彼は、やみのわざを捨てることができます(ローマ一三・一二)。それだけでなく、神の律法に従わないあらゆる欲求と情愛をも、捨てることができるのです(ローマ八・七)。ヨハネが言うとおりです。「この望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよく」します(第一ヨハネ三・三)。彼が日ごとに心を配るのは、キリストにある神の恵みにより、また契約の血によって(ヘブル一〇・二九)、自分の魂の奥底を清めることです。かつて魂を支配し、汚していた欲から清めるのです。すなわち、汚れ、ねたみ、悪意、怒りから清めます。肉に従うあらゆる情念と気質、すなわち、生れながらの腐敗から生じたり、それを育てたりするものから、清めるのです。彼はよく知っているからです。からだそのものが神の宮である人は(第一コリント六・一九)、清くないもの、汚れたものを、何一つその中に入れてはなりません(使徒一〇・一四)。聖なる霊が宿ってくださる家には、聖なることがとこしえまでもふさわしいのです(詩篇九三・五)。

(一一) あなたがだれであっても、深い謙遜と揺るがない信仰とに、生き生きとした希望を加えたとします。そして、それによって、生れつきの汚れから心をかなり清めたとします。けれども、あなたのすることが、まだ一つ残っています(ルカ一八・二二)。もしあなたが完全になりたいと思うなら(マタイ一九・二一)、これらすべてに愛を加えなさい。そうです、愛を加えなさい。そうすれば、心の割礼を受けたことになります。「愛は律法を完成するもの」です(ローマ一三・一〇)。愛は、戒めが「目標としている」ものです(第一テモテ一・五)。愛については、まことにすばらしいことが語られています。愛は、あらゆる徳の本質であり、精神であり、いのちです。愛は、いちばん大切な第一の戒めであるだけではありません(マタイ二二・三八)。すべての戒めを一つにしたものなのです。「すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと」、また尊ぶべきこと、「徳といわれるもの、称賛に値するもの」(ピリピ四・八)。それらはみな、愛という一つの言葉に含まれています。ここに完全があり、栄光があり、幸いがあります。天と地のきわめて尊い律法は(ヤコブ二・八)、これです。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛」しなさい(マルコ一二・三〇)。

(一二) これは、神のほかに何かを愛することを禁じているのではありません。兄弟をも愛すべきことを含んでいるのです(第一ヨハネ四・二一)。また、神のほかのものに喜びを見いだすことを禁じているのでもありません(ある人々は、奇妙にもそう考えてきましたが)。そう考えるのは、聖性の泉である方を、直接に罪の張本人とすることです。神は、ご自分が与えてくださったいのちを保つには、被造物を用いる必要があるようにされました。そして、それを用いることに、喜びを切り離せないものとして結びつけておられるからです。ですから、それが神の戒めの意味であるはずは、決してありません。その本当の意味は、私たちの祝福された主も、その使徒たちも、たびたび、はっきりと語っておられます。誤解しようがないほどです。主も使徒たちもみな、口をそろえてあかししています。次のいくつかの宣言があります。あなたの神、「主は唯一の主です」(申命記六・四)。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはなりません」(出エジプト二〇・三)。「力をつくして、主なるあなたの神を愛」しなさい(マルコ一二・三〇)。「彼につき従わなければなりません」(申命記一三・四)。あなたの「魂の慕うもの」は、主の「名」です(イザヤ二六・八)。これらの宣言の本当の意味は、ほかでもなく、こうだというのです。ただ一つの完全な善を、あなたがたのただ一つの究極の目的としなさい。ただ一つのものを、それ自体のために願い求めなさい。すなわち、すべてにあってすべてである方を(第一コリント一五・二八)、享受することです。ただ一つの幸いを、自分の魂の前に置きなさい。すなわち、魂を造られた方と一つになることです。「父ならびに御子」との「交わり」を持つことであり(第一ヨハネ一・三)、主につく者として、主と一つの霊になることです(第一コリント六・一七)。ただ一つの目標を、時の終りまで追い求めなさい。すなわち、この世においても永遠においても、神を楽しむことです。ほかのものは、それがこの目標に役立つかぎりで願い求めなさい。被造物は、それが造り主へ導くものとして愛しなさい。けれども、一歩一歩進むたびに、これを、あなたがたが目を注ぐ、最後の栄光ある一点としなさい。すべての情愛、思い、言葉、行いを、これに従わせなさい。何を願い、何を恐れ、何を求め、何を避けるにしても、神のうちにある幸いのためにしなさい。何を思い、語り、行うにしても、そうしなさい。神こそ、あなたがたの存在の源であり、またただ一つの目的なのです。

(一三) 神のほかに、どんな目的も、どんな究極の目的も持ってはなりません。私たちの主も、こう言われます。「無くてならぬものは」「一つだけ」です(ルカ一〇・四二)。そして、あなたの目がひたすらこの一つのものに注がれているなら、「全身も明るい」でしょう(マタイ六・二二)。パウロも、こう言います。「ただこの一事を努めて」います(ピリピ三・一三)。「目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる」、その「賞与を得ようと努めて」いるのです(ピリピ三・一四)。ヤコブも、こう言います。「罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清く」しなさい(ヤコブ四・八)。ヨハネも、こう言います。「世と世にあるものとを、愛してはいけません」(第一ヨハネ二・一五)。「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たもの」だからです(第一ヨハネ二・一六)。外の感覚に心地よく触れて、肉の欲を満たすものに、幸いを求めることがあります。目新しさや壮大さや美しさによって、目の欲、すなわち想像の欲を満たすものに、幸いを求めることもあります。華やかさ、威厳、権力、またそれらに普通伴う称賛と賛嘆によって、持ち物の誇を満たすものに、幸いを求めることもあります。こうして幸いを求めることは、「父から出たものではな」いのです。たましいの父から来たのでもなく(ヘブル一二・九)、その父に認められているのでもありません。それは、「世から出たもの」です(第一ヨハネ二・一六)。それは、神が自分たちの王になるのを望まない人々の、目じるしなのです(ルカ一九・一四)。

【二】 この探究から生まれる反省

(一) 以上のように、私は、神からほまれを受ける心の割礼が何であるかを、詳しく調べてきました。第二に、この探究から自然に生まれる反省を、いくつか述べます。それは、だれもが、自分が世から出た者か、神から出た者かを、自分で判断するための、わかりやすい基準になるでしょう。まず第一に、これまで述べたことから明らかなことがあります。謙遜によって心に割礼を受けていなければ、だれも、神からほまれを受ける資格はありません。自分の目に、小さく、卑しく、つまらない者と見えていなければ、その資格はありません。また、生れつきの「本性の腐敗」を、深く悟っていなければなりません。人は、この腐敗によって、「本来の義から非常に遠く離れて」います(三十九箇条第九条)。そして、あらゆる悪に傾き、あらゆる善を嫌い、腐り果てた忌まわしい者になっています。人は、「神に敵する」「肉の思い」を持っています。それは、「神の律法に従わず、否、従い得ない」のです(ローマ八・七)。また、魂の奥底で、絶えずこう感じていなければなりません。神の御霊が自分の上にとどまっていなければ、良いことも、神に喜ばれることも、何一つ思えず、願えず、語れず、行えない、と。あえて言いますが、自分には神が必要だと感じるまでは、だれも、神からほまれを受ける資格はありません。実に、「ただひとりの神からの誉」を求めるまでは(ヨハネ五・四四)、その資格はないのです。また、人からの誉を、神からの誉に役立つかぎりでしか願わず、追い求めないようになるまでは、その資格はありません。

(二) これまで述べたことから自然に出てくる、もう一つの真理があります。信仰によって心に割礼を受けていなければ、だれも、神からの誉を得ることはできません。その信仰とは、神の働きによる信仰です。彼は、もはや感覚や欲求や情念に導かれることを拒まなければなりません。世がひどく偶像視している、あの盲人を手引きする盲人(マタイ一五・一四)、すなわち生れながらの理性に導かれることも、拒まなければなりません。そして、信仰によって生き、信仰によって歩まなければなりません(第二コリント五・七)。「見えないかたを見ているようにして」、一歩一歩を進めなければなりません(ヘブル一一・二七)。「見えるものにではなく、見えないものに目を注」がなければなりません。「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづく」のです(第二コリント四・一八)。そして、自分のすべての願いと計画と思い、すべての行いとふるまいとを、幕の内にはいった者として治めなければなりません(ヘブル六・一九〜二〇)。その幕の内では、イエスが神の右に座しておられます(ヘブル一〇・一二)。

(三) 別の土台をすえることに、多くの時間と労力を費やしている人々がいます。その人々が、この信仰をもっとよく知ってくれればよいのですが。彼らは、宗教を、事物の永遠の適合性の上にすえます。徳そのものの優秀さと、徳から流れ出る行いの美しさの上にすえます。彼らの言う善悪の根拠や、存在するものどうしの関係の上にすえるのです。クリスチャンの義務の根拠についてのこうした説明は、聖書の説明と一致するか、しないか、どちらかです。一致するなら、なぜ、雲のような用語で善意の人々を混乱させ、律法の中でもっと重要なことから(マタイ二三・二三)引き離すのでしょうか。その用語のために、最もやさしい真理が、説明されてかえってわかりにくくなっているのです。一致しないなら、彼らは、この新しい教えの作者がだれであるかを考えるべきです。キリスト・イエスの福音とは違う福音を宣べ伝える者が、天からの御使でありうるかどうかを、考えるべきです(ガラテヤ一・八)。もっとも、たとえ天からの御使であったとしても、私たちではなく神が、その者に宣告を下しておられます。「その人はのろわるべきです」(ガラテヤ一・八)。

(四) 私たちの福音は、信仰のほかに良きわざの土台を知らず、キリストのほかに信仰の土台を知りません。同じように、私たちの福音は、はっきりと教えています。キリストが私たちの信仰とわざとの創始者であることを否定するなら、私たちはキリストの弟子ではありません。キリストの御霊が、それを吹き込み、完成される方であることを否定しても、そうです。「もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではありません」(ローマ八・九)。神に対して死んでいる者を生かすことができるのは、キリストの御霊だけです。彼らに、クリスチャンのいのちの息を吹きいれることができるのも、御霊だけです(創世記二・七)。そして、御霊だけが、恵みによって彼らに先立ち、彼らに伴い、彼らのあとに続くことがおできになります。そうして、彼らの良い願いを良い結果に至らせてくださるのです。このように「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子」なのです(ローマ八・一四)。これが、まことの宗教と徳とについての、神の短く、わかりやすい説明です。そして、「すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもでき」ません(第一コリント三・一一)。

(五) 第三に、これまで述べたことから、次のことを学ぶことができます。本当に「御霊に導かれている」人には(ローマ八・一四)、「御霊」が、その人の「霊と共に」、その人が「神の子であることをあかしして」くださいます(ローマ八・一六)。また、その人は、賞与と冠とを前に見て、「神の栄光にあずかる希望をもって喜んで」います(ローマ五・二)。ですから、神に仕えるときに自分の幸いを目当てにしてはならない、と教えてきた人々は、なんと大きく誤っていたことでしょう!いや、むしろ私たちは、神から、たびたびはっきりと、「報いを望み見」るように教えられています(ヘブル一一・二六)。労苦を、「前におかれている喜び」と比べてみるように教えられています(ヘブル一二・二)。この「軽い患難」を、あの「重い栄光」と比べてみるように、教えられているのです(第二コリント四・一七)。実に、私たちは、「約束されたいろいろの契約に縁がなく」、「この世の中で」「神もない者」です(エペソ二・一二)。神が、「その豊かなあわれみにより」、私たちを「新たに生れさせて生ける望みをいだかせ」てくださるまでは、そうなのです(第一ペテロ一・三)。その望みとは、「朽ちず汚れず、しぼむことのない資産」を受け継ぐ望みです(第一ペテロ一・四)。

(六) けれども、もしこれらのことがそのとおりなら、ある人々は、今こそ、自分の魂に誠実に向き合うべきです。その人々は、喜ばしい確信を、自分のうちに見いだすどころではありません。自分がその契約の条件を満たし、その約束を受けるという確信です。むしろ、契約そのものに文句をつけ、その条件を冒涜しています。条件がきびしすぎる、それに従って生きた人は今までだれもいないし、これからもいない、と不平を言うのです。これは、神をそしること以外の何でしょうか。神を、きびしい主人であるかのように言うのです。僕たちに、できるようにしてくださる以上のことを求める主人であるかのように、です。また、神が、ご自分の手で造られた無力なものをあざけって、不可能なことに縛りつけられたかのように言うのです。自分の力でも恵みによっても打ち勝てないところで、打ち勝てと命じられたかのように言うのです。

(七) この冒涜者たちを見ていると、反対の極端にいる人々が、自分には罪がないと思い込みかねません。その人々は、少しも骨を折らずに、神の戒めを果たそうと望んでいるのです。なんとむなしい望みでしょう! アダムの子が、キリストと神との国を見ることを、いつか期待するとは。まず「狭い戸口からはいるように努め」ることも(ルカ一三・二四)、もだえ苦しむこともしないで、です。「罪のうちに」みごもられて生れ(詩篇五一・五)、心の奥底がまったく邪悪な者がいます。その者が、自分の主が「きよくあられるように」きよくされることを、一度でも考えるとは(第一ヨハネ三・三)。主の足跡を踏み従い、「日々自分の十字架を負う」のでなければ(ルカ九・二三)、そんなことはありえません。「右の手」を「切って捨て」、「右の目」を「抜き出して捨て」るのでなければ(マタイ五・二九〜三〇)、ありえないのです。全般にわたる自己否定を、絶えず休みなく続けることもしないで、古い意見と情念と気質を振り払うことを夢見るとは! 「霊と心とからだとを」「全くきよめ」られることを夢見るとは(第一テサロニケ五・二三)!

(八) 先に引いたパウロの言葉から、これ以外の何を推論できるでしょうか。パウロは、キリストのために、「弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりと」の中に生きていました(第二コリント一二・一〇)。「しるしと奇跡と力あるわざ」に満ちていました(第二コリント一二・一二)。「第三の天にまで引き上げられ」たこともありました(第二コリント一二・二)。それでも、パウロは、この絶え間ない自己否定がなければ、自分のあらゆる徳は不確かになり、救いさえ危うくなると考えていました。最近のある著者が、力強く言い表しているとおりです。パウロは言います。「わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘は」しません(第一コリント九・二六)。この言葉によって、パウロは、はっきりと教えています。このように走らない人、このように日々自分を捨てない人は、目標のはっきりしない走り方をしているのです。「空を打つ」人と同じように、むだな戦いをしているのです(第一コリント九・二六)。

(九) 最後に、これまで見てきたことから、次のことを推論できます。愛によって心に割礼を受けていない人は、「信仰の戦い」を戦うと言っても(第一テモテ六・一二)、むだなことです。朽ちない冠を得ようと望んでも(第一コリント九・二五)、むなしいのです。愛は、肉の欲も、目の欲も、持ち物の誇も断ち切ります(第一ヨハネ二・一六)。そして、からだも魂も霊も、人のすべてを、あのただ一つの目的を熱心に追い求めることに向けさせます。愛は、神の子にとって、それほど欠かせないものです。愛がなければ、だれでも、生きていても、神の前では死んだ者とみなされるのです。「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じです。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しいのです」(第一コリント一三・一〜二)。いや、「たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益」です(第一コリント一三・三)。

(一〇) ですから、ここに、完全な律法の要約があります。これこそ、まことの心の割礼です。霊を、それを授けた神に帰らせなさい(伝道一二・七)。霊のすべての情愛も、共に帰らせなさい。すべての川を、「その出てきた所に」また流れ帰らせなさい(伝道一・七)。神は、ほかのいけにえを私たちから求めようとはされません。心という、生きた供え物を選ばれたのです(ローマ一二・一)。それを、聖なる愛の炎の中で、キリストを通して、絶えず神にささげなさい。どんな被造物にも、心を神と分け合うことを許してはなりません。神は、ねたむ神だからです(出エジプト二〇・五)。神は、ご自分の王座をほかのものと分け合うことはなさいません。競う者なしに治められるのです。神を究極の目当てとしない計画や願いは、一つもそこに入れてはなりません。これは、かつてあの神の子たちが歩んだ道です。彼らは、死んでも、今もなお私たちに語っています(ヘブル一一・四)。「神の御名をほめたたえるためでなければ、生きることを願ってはなりません。思いも言葉もわざも、すべて神の栄光に向けなさい。心をしっかりと神にすえなさい。ほかのものには、それが神のうちにあり、神から出ているかぎりで、心を向けなさい。魂を、神へのまったき愛で満たしなさい。神のためでなければ、何ものも愛さないほどにです」。「心の純粋な意図を持ちなさい。すべての行いにおいて、神の栄光を揺るがずに心にかけなさい」。「召しの祝福に満ちた望みに、目を注ぎなさい。世のすべてのものを、その望みに仕えさせなさい」。そのときこそ、そしてそのときになって初めて、キリスト・イエスのうちにもあった思いが、私たちのうちにもあることになります。それは、心のあらゆる動き、舌のあらゆる言葉、手のあらゆるわざにおいて、私たちが「神にかかわることのほかは何も追い求め」ないときです。「神のみこころに従うことしか」追い求めないときです。また、私たちも、自分の思いと言葉と行いを、「自分のこころのままを行うため」に向けないときです。私たちを「つかわされたかたのみこころを行うため」に向けるときです(ヨハネ六・三八)。そして、「飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のために」するときなのです(第一コリント一〇・三一)。