説教十六 恵みの手段
「あなたがたは、わが定めを離れて、これを守りませんでした」(マラキ三・七)
【一】 神の定めが退けられるようになったいきさつ
(一) けれども、キリストが福音によっていのちと不死とを明らかに示された今も(第二テモテ一・一〇)、神の定めというものはあるのでしょうか。キリスト教の時代にも、神の恵みが通る普通の水路として、神が定められた手段はあるのでしょうか。使徒時代の教会では、こんな問いは決して出されなかったでしょう。出すとすれば、自分は異教徒だと公然と言う人だけだったでしょう。クリスチャン全体が、一致して認めていたからです。キリストは、ご自分の恵みを人の魂に伝えるために、ある外的な手段を定められた、と。彼らが絶えず行っていたことが、このことを議論の余地のないものにしていました。「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有に」していた間(使徒二・四四)、「一同はひたすら、使徒たちの教を守り」、「共にパンをさき、祈をして」いたのです(使徒二・四二)。
(二) けれども、時がたち、「多くの人の愛が冷え」たとき(マタイ二四・一二)、手段を目的と取り違える人々が現れ始めました。彼らは、宗教を、神のかたちにかたどって新しくされた心よりも、むしろあの外のわざを行うことに置くようになったのです。彼らは、次のことを忘れていました。すべての戒めは、「清い心と」「偽りのない信仰とから出てくる愛を目標として」います(第一テモテ一・五)。すなわち、心をつくして主なる神を愛し、自分のように隣人を愛することです(マタイ二二・三七〜三九)。また、神の働きによる信仰によって、高ぶりと怒りと悪い欲から清められることです。また、ほかの人々は、こう考えたようです。宗教は、主としてこうした外的な手段にあるのではない。けれども、それらの中には、神が喜ばれる何かがある。律法の中には、もっと重要なことがあります。公平とあわれみと神に対する愛です(マタイ二三・二三、ルカ一一・四二)。それをきちんと守っていなくても、外的な手段の中には、自分を神の前に受けいれられる者にしてくれる何かがある、と考えたのです。
(三) 手段をこのように乱用した人々にとって、手段が、定められた目的に役立たなかったことは明らかです。むしろ、彼らの益となるはずのものが、彼らにとってつまずきのもととなりました。彼らは、そこで祝福を受けるどころか、自分の頭にのろいを招いただけでした。心と生活がもっと天的になるどころか、以前より倍もひどい地獄の子になったのです(マタイ二三・一五)。ほかの人々は、こうした手段が、あの悪魔の子たちに神の恵みを伝えなかったことを、はっきりと見て取りました。そして、この特別な例から、一般的な結論を引き出し始めました。こうした手段は、神の恵みを伝える手段ではない、という結論です。
(四) それでも、神の定めを乱用する人々は、それを軽んじる人々よりも、はるかに多かったのです。ある人々が現れるまでは、そうでした。その人々は、すぐれた悟りを持っていただけでなく(ときには、かなりの学識も伴っていました)、愛の人とも見えました。真の内なる宗教を、経験によって知っている人々です。その中のある人々は、燃えて輝くあかりでした(ヨハネ五・三五)。その時代に名高い人々であり、キリストの教会に大きな功績のあった人々です。あふれ出る不信心に立ち向かって、破れ口に立ったからです(エゼキエル二二・三〇)。
これらの聖なる、尊敬すべき人々は、初めは、次のことを示そうとしただけだったと考えるべきでしょう。心の宗教がなければ、外の宗教には何の価値もない、ということです。「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」ということです(ヨハネ四・二四)。ですから、神にささげられた心がなければ、外の礼拝はむだな骨折りだ、ということです。神の外的な定めは、内なる聖性を進めるときには大いに益になる。けれども、進めないときには、益もなくむなしく、むなしさよりも軽い、ということです。いや、それが、いわば内なる聖性の代わりに用いられるなら、主にとってまったく忌まわしいものだ、ということです。
(五) そのころ、神の定めは恐ろしく汚されていました。その汚れは教会全体に広がり、真の宗教を世からほとんど追い出していました。この人々のある者は、そのことを強く確信していました。彼らは、神の栄光を熱心に求め、魂をあの致命的な惑わしから取り戻そうと熱心に願いました。そのあまり、外の宗教はまったく無であるかのように語りました。キリストの宗教の中に何の場所もないかのように語ったのです。それも、不思議なことではありません。彼らがいつも十分に注意して語ったわけではなかったとしても、まったく驚くにはあたりません。そのため、不注意な聞き手は、彼らがすべての外的な手段を退けていると思ったかもしれません。外的な手段はまったく益がない。神が恵みを人の魂に伝える普通の水路として定められたものではない。彼らがそう考えている、と思ったのです。
いや、これらの聖なる人々のある者が、ついには自分自身この意見に陥ったことも、ありえないことではありません。とりわけ、自分で選んだのではなく、神の摂理によって、こうした定めのすべてから切り離された人々です。彼らは、おそらく、宿なしで(第一コリント四・一一)、あちらこちらとさまよっていたのでしょう。あるいは、岩の穴や土の穴に住んでいたのでしょう(ヘブル一一・三八)。この人々は、すべての外的な手段を奪われていながら、自分のうちに神の恵みを経験しました。そこから、わざと手段を断つ人々にも同じ恵みが与えられるだろう、と推論したのかもしれません。
(六) そして、経験が示すように、この考えはたやすく広がり、人々の心に忍び込みます。とりわけ、死の眠りからすっかり目覚めさせられ、自分の罪の重さを、負うことのできない重荷と感じ始めた人々の心に(詩篇三八・四)、忍び込むのです。こうした人々は、たいてい、今の状態に耐えられません。そこから逃れようとあらゆる道を試み、何か新しいもの、安らぎや幸いについての新しい提案があれば、いつでも飛びつこうとします。彼らは、おそらく、外的な手段のほとんどを試してみたのに、そこに安らぎを見いださなかったのでしょう。むしろ、後悔と恐れと悲しみと、罪に定められることとが、ますます増したのかもしれません。ですから、こうした人々に、そうした手段をすべて断つほうがよいと説き伏せるのは、たやすいことです。彼らは、(見たところ)むなしく努めることに、火のために労することに(ハバクク二・一三)、もう疲れています。ですから、何か口実があれば、喜んで、魂が楽しみを覚えないものを投げ捨てます。苦しい努力をやめ、怠惰な無為の中に沈み込んでしまうのです。
【二】 恵みの手段とは何か
(一) この説教では、恵みの手段というものがあるかどうかを、詳しく調べてみようと思います。
私が恵みの手段と言うのは、神が定められた外的なしるし、言葉、行いのことです。それらは、神が人に恵みを伝えるための普通の水路となるように、という目的のために定められました。その恵みとは、先行する恵み、義とする恵み、聖とする恵みです。
私が、恵みの手段というこの言い方を使うのは、これよりよい言い方を知らないからです。また、この言い方が、何世紀もの間、キリスト教会で広く使われてきたからです。とりわけ、私たちの教会が使ってきました。私たちの教会は、恵みの手段と栄光の望みとのゆえに、神をほめたたえるように教えています(祈祷書「感謝の祈り」)。また、聖礼典とは、「内なる恵みの外なるしるしであり、私たちがその恵みを受ける手段」であると教えています(祈祷書「教理問答」)。
恵みの手段のおもなものは、祈りです。ひそかな祈りも、大いなる会衆と共にする祈りも含みます。また、聖書を調べることです(これは、聖書を読み、聞き、思いめぐらすことを含みます)。そして、主の晩餐にあずかること、すなわち主を記念してパンを食べ、ぶどう酒を飲むことです。私たちは、これらが、神の恵みを人の魂に伝える普通の水路として、神によって定められたと信じています。
(二) けれども、私たちは、次のことを認めます。手段の価値は、すべて、それが宗教の目的に実際に役立っているかどうかにかかっています。したがって、こうした手段はみな、目的から切り離されれば、無にも及ばない、むなしいものです。それが、実際に神を知ることと神を愛することに役立たないなら、神の前に受けいれられません。いや、むしろ、神の前に忌まわしいもの、神の鼻をつく悪臭です。神は、それを負うのに疲れておられます(イザヤ一・一四)。とりわけ、手段が、それが仕えるはずの宗教の、一種の代用品として用いられるとします。そうなれば、その途方もない愚かさと悪とを言い表す言葉は、なかなか見つかりません。それは、神の武器を神ご自身に向けることです。キリスト教を心に招き入れるために定められた、まさにその手段によって、キリスト教を心から締め出すことです。
(三) 私たちは、同じように、次のことも認めます。外的な手段は、どんなものであれ、神の御霊から切り離されれば、少しも益になりません。神を知ることにも神を愛することにも、いささかも役立ちません。疑いもなく、地上でなされる助けは、神ご自身がなさるのです。ご自分の全能の力によって、私たちのうちにみこころにかなうことを行われるのは、神だけです(ヘブル一三・二一)。外のものはみな、神がその中で、またそれによって働かれるのでなければ、無力で貧弱な諸要素にすぎません。ですから、どんな手段であれ、手段そのものに力があると思う人は、大いに思い違いをしています。「聖書も神の力も知らない」のです(マタイ二二・二九)。私たちは知っています。祈りの中で語られる言葉にも、読まれる聖書の文字にも、聞かれるその音にも、それ自体に宿る力はありません。主の晩餐で受けるパンとぶどう酒にも、ないのです。あらゆる良い贈り物の与え主(ヤコブ一・一七)、すべての恵みの源は、ただ神だけです。これらのどれかを通して、私たちの魂に何かの祝福が伝えられるなら、その力はすべて神から出ているのです。また、私たちは知っています。たとえ地の上に手段が一つもなくても、神は同じ恵みを与えることがおできになります。この意味では、神について言えば、手段などというものはない、と断言してよいでしょう。神は、どんな手段によっても、またまったく手段なしにでも、みこころにかなうことを何でも同じように行うことがおできになるからです。
(四) さらに、私たちは、次のことも認めます。どんな手段を用いても、それが一つの罪をつぐなうことさえ、決してありません。罪人が神と和解させられるのは、ただキリストの血によってです。私たちの罪のためのあがないの供え物は、ほかにはなく(第一ヨハネ二・二)、罪と汚れとを清める泉も、ほかにはないからです(ゼカリヤ一三・一)。キリストを信じる者はみな、キリストのほかには功績がないことを、深く確信しています。自分のわざのどれにも、功績はありません。祈りを口にすることにも、聖書を調べることにも、神の言葉を聞くことにも、あのパンを食べ、あの杯を飲むことにも、功績はないのです。ですから、ある人々は、「キリストこそ、ただ一つの恵みの手段だ」と言います。この言い方が意味しているのが、キリストこそ恵みのただ一つの功績的原因だということだけだとします。それなら、神の恵みを知る人はだれも、それに反対できません。
(五) もう一つあります。悲しい真実ですが、私たちは、次のことも認めます。クリスチャンと呼ばれる人々の大部分が、今日に至るまで、恵みの手段を乱用して、自分の魂を滅ぼしています。力のない敬虔の形に満足している人々は、疑いもなく、みなそうです。彼らは、自分はこれこれのことをしているから、もうクリスチャンだと、愚かにも思い上がっています。キリストが彼らの心にまだ一度も現されたことがなく、神の愛がそこに注がれたこともないのにです(ローマ五・五)。そうでなければ、ただこうした手段を用いているというだけで、必ずクリスチャンになれると思っています。彼らは、むなしい夢を見ているのです(おそらく、そのことにほとんど気づいていないでしょうが)。手段の中には何かの力があって、遅かれ早かれ(いつかはわからないが)、それによって必ず聖なる者にされる、という夢です。あるいは、手段を用いることには一種の功績があって、それが必ず神を動かす、という夢です。神は、自分に聖性を与えてくださるか、聖性がなくても自分を受けいれてくださるだろう、というのです。
(六) 彼らは、キリスト教の建物全体のあの大きな土台を、ほとんど理解していないのです。あなたがたは「恵みにより」救われている、という土台です(エペソ二・八)。あなたがたは、罪から、すなわち罪の罪責と力とから救われています。神の恵みのうちに、また神のかたちに、回復されています。それは、あなたがたのわざや功績や値打ちのためではありません。神の価なしの恵み、ただ神のあわれみにより、神の愛する御子の功績によるのです。あなたがたがこのように救われているのは、あなたがたのうちにある力や知恵や強さによるのではありません。ほかの被造物のうちにあるものによるのでもありません。ただ聖霊の恵み、すなわち聖霊の力によるのです。聖霊は、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさいます(第一コリント一二・六)。
(七) けれども、肝心の問いが残っています。自分はまだ救いを持っていないと悟った人は、こう言うかもしれません。「この救いが神の賜物であり、神のわざであることは、わかっている。けれども、どうしたら私はそこに達することができるのか」。あなたが、「信じなさい。そうしたら」、あなたは「救われます」と言えば(使徒一六・三一)、その人は答えます。「そのとおりだ。けれども、どうしたら信じられるのか」。あなたは答えます。「神を待ち望みなさい」。「わかった。けれども、どのように待てばよいのか。恵みの手段の中でか、その外でか。救いをもたらす神の恵みを、こうした手段を用いて待つのか、それとも捨てて待つのか」。
(八) これほど大切な点について、神の言葉が何の指示も与えていないとは、とうてい考えられません。神の御子は、私たち人間のため、私たちの救いのために、天から下って来られました。その御子が、私たちの救いに深くかかわるこの問いについて、私たちを迷わせたままにしておかれたとも、とうてい考えられないのです。
実際、御子は私たちを迷わせたままにはしておかれませんでした。私たちの行くべき道を示してくださいました(詩篇三二・八)。私たちは、神の言葉に尋ね、そこに何が書かれているかを調べさえすればよいのです。そして、その判決にただ従うなら、疑いの余地はまったく残りません。
【三】 神の定めた手段の中で恵みを待つこと
(一) この判決によれば、すなわち聖書の判決によれば、神の恵みを願う人はみな、神が定められた手段の中で恵みを待つべきです。手段を捨ててではなく、用いて待つべきなのです。
まず第一に、神の恵みを願う人はみな、祈りの道で恵みを待つべきです。これは、私たちの主ご自身のはっきりとした指示です。主は、山上の説教で、宗教が何にあるかを詳しく説明し、そのおもな部分を述べたあとで、こう付け加えておられます。「求めよ、そうすれば、与えられるでしょう。捜せ、そうすれば、見いだすでしょう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるでしょう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからです」(マタイ七・七〜八)。ここで私たちは、このうえなくはっきりと指示されています。受けるために、すなわち受ける手段として、求めなさい。神の恵み、あの高価な真珠を(マタイ一三・四六)、見いだすために捜しなさい。神の国に入りたいなら、門をたたきなさい。すなわち、求め続け、捜し続けなさい、と。
(二) 疑いが残らないように、主はこの点を、とりわけ念入りに説いておられます。主は、一人一人の心に訴えておられます。「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があるでしょうか。魚を求めるのに、へびを与える者があるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父は」、すなわち御使いと人との父、すべての肉なる者の霊の父は、「なおさら、求めてくる者に良いものをくださらないことがあるでしょうか」(マタイ七・九〜一一)。あるいは、別の機会には、すべての良いものを一つにまとめて、こう言い表しておられます。「天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊をくださらないことがあるでしょうか」(ルカ一一・一三)。ここで特に注意すべきことがあります。求めるように指示された人々は、そのとき、まだ聖霊を受けていなかったのです。それでも主は、彼らにこの手段を用いるように指示し、それが効果のあるものになると約束しておられます。求めれば聖霊を受けることができる、と約束しておられるのです。そのあわれみがすべてのみわざの上にある方から(詩篇一四五・九)、受けることができるのです。
(三) 神から何かの賜物を受けたいなら、この手段を用いることが絶対に必要です。そのことは、この言葉の直前にある、あの注目すべき箇所から、さらに明らかになります。主は、祈り方を教えたばかりの「彼らに言われ」ました。「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください』と言った場合、彼は内から、『面倒をかけないでくれ。いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うでしょう。しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるでしょう。そこでわたしはあなたがたに言います。求めよ、そうすれば、与えられるでしょう」(ルカ一一・五、七〜九)。「友人だからというのでは」「与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるでしょう」(ルカ一一・八)。私たちの祝福された主は、これ以上はっきりと宣言することがおできになったでしょうか。この手段によって、すなわちしきりに願い求めることによって、ほかの方法ではまったく受けられないものを、神から受けることができるのです。
(四) 「また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられ」ました(ルカ一八・一)。この手段によって、願い求めることを何でも神から受けるまで、祈るべきなのです。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいました。ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、私を訴える者をさばいて、私を守ってください』と願いつづけました。彼はしばらくの間きき入れないでいましたが、そののち、心のうちで考えました、『私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめが私に面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そうしたら、絶えずやってきて私を悩ますことがなくなるだろう』」(ルカ一八・二〜五)。この譬を、主ご自身が当てはめておられます。「この不義な裁判官の言っていることを」聞きなさい(ルカ一八・六)。やもめが願い続けるから、断られても引き下がらないから、だから彼女のためになる裁判をしてやろう、と言うのです。「まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらないでしょうか。あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるでしょう」(ルカ一八・七〜八)。彼らが失望せずに祈るなら、そうしてくださるのです。
(五) ひそかな祈りの中で神の祝福を待つように、という指示もあります。同じく十分で、はっきりとした指示です。主は、それを、あのよく知られた言葉で与えておられます。この手段によって、くちびるの求めがかなえられるという(詩篇二一・二)、確かな約束も一緒に与えておられます。「自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は」、公然と「報いてくださる」でしょう(マタイ六・六)。
(六) これ以上はっきりした指示がありうるとすれば、それは、神が使徒を通して与えておられる指示です。公の祈りも、ひそかな祈りも含めて、あらゆる種類の祈りと、それに伴う祝福とについての指示です。「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に」、「願い求めるがよい。そうすれば、与えられるでしょう」(ヤコブ一・五)。神が与えてくださるのは、求める人にです。求めなければ、「求めないから得られない」のです(ヤコブ四・二)。
もし、こう反論されるとします。「けれども、これは、信じていない人々、神の赦しの恵みを知らない人々への指示ではない。使徒は、『ただ、信仰をもって願い求めなさい』と付け加えているからだ(ヤコブ一・六)。そうでなければ、『主から何かをいただけるもののように思うべきではない』とも言っている(ヤコブ一・七)」。私は答えます。この箇所の信仰という言葉の意味は、使徒自身が、まるでこの反論を封じるためであるかのように、続く言葉で定めています。「疑わないで、信仰をもって願い求めなさい」(ヤコブ一・六)。少しも疑わないで、ということです。原文ではメーデン・ディアクリノメノス(μηδὲν διακρινόμενος)です。すなわち、神が自分の祈りを聞き、心の願いをかなえてくださることを、疑わないのです。
この箇所の信仰を、クリスチャンの十全な意味でとるなら、それは、ひどく冒涜的な、ばかげた考えになります。そのことは、次のことからわかります。そう考えるなら、聖霊は、ある人に、それを神に求めるように指示されたことになります。その人は、自分には信仰(ここでは知恵と呼ばれています)がないと知っているのです。しかも、「そうすれば、与えられる」と確かに約束されたことになります(ヤコブ一・五)。そしてすぐに、求める前にそれを持っていなければ与えられない、と付け加えられたことになるのです! けれども、だれがそんな考えに耐えられるでしょうか。ですから、先に引いた聖句からも、この聖句からも、次のように推論しなければなりません。神の恵みを願う人はみな、祈りの道で恵みを待つべきです。
(七) 第二に、神の恵みを願う人はみな、聖書を調べることの中で恵みを待つべきです。
この手段を用いることについての主の指示も、同じように明白です。主は、信じないユダヤ人たちに、聖書を調べなさい、と言われます。「この聖書は、わたしについてあかしをするもの」だからです(ヨハネ五・三九)。主が彼らに聖書を調べるように指示されたのは、まさに、彼らがご自分を信じるようになるためでした。
「これは命令ではない。彼らが聖書を調べていたと述べているだけだ」という反論は、恥知らずな偽りです。そう言い張る人々に、教えてもらいたいものです。エレウナテ・タス・グラファス(Ἐρευνᾶτε τὰς γραφάς)という言葉よりもはっきりと命令を言い表すことが、どうしてできるでしょうか。これは、これほどの語数で表せるかぎり、最も断固とした命令です。
また、この手段を用いることに、神からどれほどの祝福が伴うかは、ベレヤの人々について記されていることからわかります。彼らは、パウロの話を聞いたあと、「果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べて」いました。「そういうわけで、彼らのうちの多くの者が信者になった」のです(使徒一七・一一〜一二)。彼らは、神が定められた道で、神の恵みを見いだしたのです。
確かに、「心から教を受けいれ」た人々の中には(使徒一七・一一)、聞くことによって信仰が与えられた人もいたでしょう。同じ使徒が「信仰は聞くことによる」と言うとおりです(ローマ一〇・一七)。その人々にとって、聖書を読むことは、信仰を確かにしただけだったのでしょう。けれども、先に述べたように、聖書を調べるという一般的な言葉には、聞くことも、読むことも、思いめぐらすことも含まれているのです。
(八) また、テモテへのパウロの言葉から、私たちは次のことを学びます。これは、神がまことの知恵を与えるだけでなく、それを確かにし、増し加える手段でもあるのです。「幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知って」います(第二テモテ三・一五)。同じ真理が、すぐあとに続く言葉で、考えうるかぎり最も十分に述べられています。すなわち、これこそ、神が豊かな恵みを人に伝えるために定められた大きな手段だ、という真理です。「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたもの」です。したがって、聖書はすべて、誤りなく真実です。そして、聖書は、「人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益」です。それは、「神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になる」ためです(第二テモテ三・一六〜一七)。
(九) 注意すべきことがあります。これは、第一に、また直接には、テモテが幼いときから知っていた聖書について言われているのです。それは旧約聖書だったはずです。新約聖書は、そのころまだ書かれていなかったからです。パウロは、「あの大使徒たちにいささかも劣ってはいない」人でした(第二コリント一一・五)。ですから、今の地上のどんな人にも劣らなかったと思います。そのパウロが、旧約聖書を軽んじることから、なんと遠く離れていたことでしょう! 神の言葉の半分をそれほど軽く見ているあなたがた、これを見なさい。いつの日か、「驚け、そして滅び去れ」と言われることのないためです(使徒一三・四一)。いや、その半分について、聖霊ははっきりと宣言しておられるのです。それは、神が定められた手段として、まさにこのことに「有益」です。すなわち、「人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益」です。それは、「神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になる」ためです(第二テモテ三・一六〜一七)。
(一〇) これは、神の人々、すなわち、すでに神のみ顔の光のなかを歩んでいる人々にとってだけ(詩篇八九・一五)、有益なのではありません。まだやみの中にいて、知らない方を捜し求めている人々にとっても、有益なのです。ペテロも、こう言います。私たちには、もっと確かな預言の言葉もある、と。文字どおりに訳せば、「こうして、預言の言葉は、私たちにいっそう確実なものになりました」です。原文ではカイ・エコメン・ベバイオテロン・トン・プロフェーティコン・ロゴン(καὶ ἔχομεν βεβαιότερον τὸν προφητικὸν λόγον)です。私たちが「そのご威光の目撃者」となり(第二ペテロ一・一六)、「おごそかな栄光の中から」の「み声」を聞いたことによって(第二ペテロ一・一七〜一八)、確実なものになったのです。この預言の言葉に(ペテロは聖書をこう呼んでいます)、「あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで」、「暗やみに輝くともしびとして」、「目をとめているがよい」のです(第二ペテロ一・一九)。ですから、その日が自分の心に明けることを願う人はみな、聖書を調べることの中で、その日を待ちなさい。
(一一) 第三に、神の恵みが増し加えられることを願う人はみな、主の晩餐にあずかることの中で、それを待つべきです。これも、主ご自身が与えられた指示だからです。「主イエスは、渡される夜、パンをとり」、それを「さき、そして言われ」ました。取って食べなさい、「これは」「わたしのからだ」です。すなわち、わたしのからだの聖なるしるしです。「わたしを記念するため、このように行いなさい」。同じように、「杯をも」取って「言われ」ました。「この杯は、わたしの血による新しい契約」です。すなわち、その契約の聖なるしるしです。「わたしの記念として、このように行いなさい」。「あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに」、「主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせる」のです(第一コリント一一・二三〜二六)。あなたがたは、この目に見えるしるしによって、神と御使いと人との前で、主の死を公に示すのです。主が天の雲に乗って来られるまで(マタイ二四・三〇)、主の死をおごそかに記念していることを、明らかにするのです。
ただ、「だれでもまず自分を吟味し」なさい(第一コリント一一・二八)。この聖なる制度の本質と目的とを理解しているかどうかを、吟味しなさい。キリストの死のさまとひとしくなることを(ピリピ三・一〇)、本当に願っているかどうかを、吟味しなさい。そして、少しも疑わずに、「それからパンを食べ杯を飲むべき」です(第一コリント一一・二八)。
ですから、ここでは、主が初めに与えられた指示を、使徒がはっきりと繰り返しています。「食べなさい。飲みなさい」(第一コリント一一・二八)。原文ではエスティエトー、ピネトー(ἐσθιέτω, πινέτω)で、どちらも命令法です。これらの言葉は、ただの許可を意味するのではなく、明白な、はっきりとした命令を意味しています。それは、信仰から来る喜びと平安とにすでに満たされている人々への(ローマ一五・一三)、あるいは、本心からこう言える人々すべてへの命令です。「罪を思い出すことは私たちにとってつらく、その重荷は耐えがたいのです」(祈祷書「聖餐式」)。
(一二) また、これが、神の恵みを受ける普通の、定められた手段でもあることは、その前の章にある使徒の言葉から明らかです。「私たちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかること」、すなわちキリストの血が分け与えられること「ではないでしょうか。私たちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないでしょうか」(第一コリント一〇・一六)。あのパンを食べ、あの杯を飲むことは、外の、目に見える手段ではないでしょうか。神はそれによって、あの霊的な恵みのすべてを、すなわち義と平和と聖霊における喜びとを(ローマ一四・一七)、私たちの魂に伝えてくださるのです。それは、私たちのためにただ一度裂かれたキリストのからだと、ただ一度流されたキリストの血とによって、買い取られたものです。ですから、神の恵みを本当に願う人はみな、あのパンを食べ、あの杯を飲みなさい。
【四】 いくつかの反論への答え
(一) けれども、神は、ご自分が尋ね求められる道を、このようにはっきりと示しておられます。それなのに、自分を見て賢いと思う人々は(箴言三・七)、これまで折にふれて、この道に対して数えきれないほどの反論を唱えてきました。そのいくつかを考えておく必要があるでしょう。それ自体に重みがあるからではありません。とりわけ近年、足のなえている者に道を踏みはずさせるために(ヘブル一二・一三)、たびたび使われてきたからです。いや、よく走り続けてきた人々を(ガラテヤ五・七)、悩ませ、くつがえすために使われてきたからです。彼らは、サタンが光の天使となって現れるまでは(第二コリント一一・一四)、よく走っていたのです。
その第一の、おもな反論は、これです。「あなたは、こうした手段を(あなたがそう呼ぶものを)、それに頼らずに用いることはできない」。お尋ねしますが、それはどこに書いてあるのですか。その主張について、はっきりした聖書の言葉を示していただきたいのです。そうでなければ、私はそれを受けいれる気にはなれません。あなたが神より賢いとは、確信できないからです。
もし本当にあなたの言うとおりなら、キリストがそれを知っておられたはずなのは確かです。そして、知っておられたなら、きっと私たちに警告されたはずです。ずっと前に、それを明らかにされたはずです。ところが、キリストはそうされませんでした。イエス・キリストの啓示全体の中に、そんなことは一点一画もありません。ですから、私は、この啓示が神から出ていることを確信しているのと同じほど、あなたの主張が偽りであることを確信しています。
「それにしても、しばらく手段をやめてみるがよい。それに頼っていたかどうかがわかるだろう」。それでは、神に従うことに頼っているかどうかを知るために、神に背けというのですか! あなたは、この勧めを公言するのですか。「善をきたらせるために」「悪をし」なさいと(ローマ三・八)、わざと教えるのですか。ああ、そのような教師たちに対する神の宣告に、おののきなさい! 「彼らが罰せられるのは当然」なのです(ローマ三・八)。
「いや、手段をやめたときに心が乱れるなら、それに頼っていたことは明らかだ」。決してそうではありません。わざと神に背いたときに私の心が乱れるなら、それは、神の御霊がまだ私と争っておられることを明らかに示しています。けれども、わざと犯した罪に心が乱れないなら、私が正しからぬ思いにわたされていることは明らかです(ローマ一・二八)。
けれども、「それに頼る」とは、どういう意味ですか。その中に神の祝福を期待することですか。この道で待つなら、ほかの方法では得られないものを得ることができると信じることですか。それなら、私はそうしています。そして、神に助けられて、生涯の終りまでそうします。神の恵みによって、私は死ぬ日まで、このように手段に頼り続けます。すなわち、神は約束されたことを何でも、真実に成就してくださると信じるのです。そして、神はこの道で私を祝福すると約束しておられるのですから、そのお言葉どおりになると信頼しています。
(二) 第二に、こう反論されてきました。「それは、行いによって救いを求めることだ」。あなたは、自分の使っているその言い方の意味がわかっているのですか。行いによって救いを求めるとは、何のことでしょうか。パウロの書いたものでは、それは次のどちらかを意味しています。一つは、モーセの律法の儀式のわざを守ることで、救われようとすることです。もう一つは、自分のわざのゆえに、自分の義の功績によって、救いを期待することです。けれども、私は、神の定められた道で待ち、神がそこで私に会ってくださると期待しているだけです。神がそうすると約束しておられるから、期待するのです。その中に、そのどちらが含まれているでしょうか。
私は確かに、神がそのお言葉を成就し、この道で私に会って祝福してくださることを期待しています。けれども、それは、私がしたわざのためでも、私の義の功績のためでもありません。ただ、神の御子の功績と苦しみと愛によるのです。この御子は、いつも神の心にかなう方です(マタイ三・一七)。
(三) 第三に、「キリストこそ、ただ一つの恵みの手段だ」と、激しく反論されてきました。私は答えます。これは、ただの言葉遊びです。言葉の意味を説明してみなさい。そうすれば、この反論は消えてしまいます。私たちが「祈りは恵みの手段だ」と言うとき、それは、神の恵みが伝えられる水路という意味です。あなたが「キリストこそ恵みの手段だ」と言うとき、それは、恵みのただ一つの代価であり、恵みを買い取られたただ一人の方、という意味です。あるいは、「だれでも」キリスト「によらないでは、父のみもとに行くことはできない」という意味です(ヨハネ一四・六)。それを、だれが否定するでしょうか。けれども、これはまったく問題から外れています。
(四) 第四に、こう反論されてきました。「けれども、聖書は、救いを待つようにと指示しているではないか。ダビデは、『わが魂は神をまつ。わが救は神から来る』と言っているではないか(詩篇六二・一)。イザヤも、『主よ、われわれはあなたを待ち望む』と言って、同じことを教えているではないか(イザヤ二六・八)」。これはみな、否定できません。救いは神の賜物なのですから、私たちは疑いもなく、救いを求めて神を待つべきです。けれども、どのように待てばよいのでしょうか。神ご自身が道を定めておられるなら、あなたは、神を待つのに、それよりよい道を見つけられるでしょうか。そして、神が道を定めておられることも、その道が何であるかも、すでに詳しく示しました。あなたが引く預言者の言葉そのものが、このことに疑いの余地をなくしています。その文全体は、こうなっているからです。「主よ、あなたがさばきをなさる道で、われわれはあなたを待ち望みます」(イザヤ二六・八)。ここで言う「さばき」とは、神の定めのことです。ダビデも、まさに同じ道で待ちました。彼自身の言葉が、それを十分にあかししています。「主よ、私はあなたの救を望み、あなたの戒めをおこないます」(詩篇一一九・一六六)。「主よ、あなたの定めの道を私に教えてください。私は終りまでこれを守ります」(詩篇一一九・三三)。
(五) ある人々は言います。「そのとおりだ。けれども、神は別の道を定めておられる。じっと立って神の救いを見よ、という道だ」。
あなたが指している聖句を調べてみましょう。その第一のものは、前後の文脈と共に、こうなっています。
「パロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げて、非常に恐れました。かつモーセに言いました、『エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、私たちを携え出したのですか』。モーセは民に言いました、『あなたがたは恐れてはならない』」。そして、じっと立って、主の救いを見なさい、と言いました。「主はモーセに言われました、『イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい。あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい』」(出エジプト一四・一〇〜一六)。
これが、彼らがじっと立って見た神の救いでした。全力で前へ進むことによって、見たのです!
この言い回しが出てくるもう一つの箇所は、こうなっています。「ある人がきて、ヨシャパテに告げて言いました、『海のかなたから大軍があなたに攻めて来ます』。そこでヨシャパテは恐れ、主に顔を向けて助けを求め、ユダ全国に断食をふれさせました。それでユダはこぞって集まり、主の助けを求めました。すなわちユダのすべての町から人々が来て主を求めました。そこでヨシャパテは主の宮で、会衆の中に立ちました。その時主の霊がヤハジエルに臨みました。ヤハジエルは言いました、『この大軍のために、おののいてはならない。あす、彼らの所へ攻め下りなさい。この戦いには、あなたがたは戦うに及ばない』」。進み出て、じっと立ち、主の救いを見なさい、とも言いました。「彼らは朝早く起きて出て行きました。そして彼らが歌をうたい、さんびし始めた時、主は伏兵を設け、アンモン、モアブ、セイル山の人々に向かわせられました。おのおの互に助けて滅ぼしあいました」(第二歴代二〇・二〜二三)。
ユダの人々が見た救いは、このようなものでした。けれども、これがみな、どうして、神が定められた手段の中で神の恵みを待つべきではないことの証明になるでしょうか。
(六) もう一つだけ、反論を挙げておきます。実のところ、これは、正しくはこの項目に属しません。けれども、あまりにもたびたび言い立てられてきたので、まったく素通りするわけにはいきません。
「パウロは、『もしあなたがたが、キリストと共に死んで』いるなら、なぜ『規定に縛られているのか』と言っているではないか(コロサイ二・二〇)。だから、クリスチャン、すなわちキリストと共に死んだ者は、もう定めを用いる必要はない」。
それでは、あなたは、「私がクリスチャンなら、キリストの定めに縛られない」と言うのですね! 確かに、これがばかげていることから、あなたはひと目でわかるはずです。ここで言われている規定は、キリストの定めではありえません。ユダヤ人の規定でなければならないのです。クリスチャンがもはやそれに縛られないことは、確かです。
そして、同じことが、すぐあとに続く言葉からも、否定しようもなく明らかです。「さわるな、味わうな、触れるな」(コロサイ二・二一)。これはみな、明らかに、ユダヤの律法の古い規定を指しています。
ですから、この反論は、すべての中で最も弱いものです。そして、何があろうと、あの大きな真理は揺るがずに立ち続けるはずです。神の恵みを願う人はみな、神が定められた手段の中で恵みを待つべきだ、という真理です。
【五】 手段を用いる順序と方法
(一) けれども、神の恵みを願う人はみな、神が定められた手段の中で恵みを待つべきです。これを認めたとしても、なお、こう問われるかもしれません。それらの手段は、用いる順序についても方法についても、どのように用いるべきなのか、と。
前者について言えば、ある種の順序があることがわかります。神ご自身が、罪人を救いに導くときに、たいていこの順序でこうした手段を用いることをよしとされるのです。愚かで無感覚な哀れな人が、神のことなど少しも考えずに、自分の道を進んでいます。そこへ、神が思いがけず臨まれます。目を覚まさせる説教や会話によってかもしれません。何か恐ろしい摂理によってかもしれません。あるいは、外的な手段をまったく用いず、罪を悟らせる御霊が直接に打たれることによってかもしれません。今や、彼は、迫ってきている神の怒りからのがれたいと願うようになります(マタイ三・七)。そこで、どうすればそうできるかを聞くために、わざわざ出かけて行きます。心に語りかける説教者に出会うと、彼は驚き、果してそのとおりかどうかを知ろうとして(使徒一七・一一)、聖書を調べ始めます。聞けば聞くほど、読めば読むほど、彼は罪を深く悟り、昼も夜もそれを思うようになります(詩篇一・二)。おそらく、聖書で聞いたこと、読んだことを説明し、強く迫るような、ほかの本を見つけるでしょう。そして、こうしたすべての手段によって、罪を悟らせる矢が、彼の魂にいっそう深く突き刺さります。また、彼は、いつも心の一番上にある神の事柄について、話し始めます。いや、神と話し始めます。神に祈り始めるのです。もっとも、恐れと恥ずかしさのために、何と言えばよいのか、ほとんどわかりません。けれども、語れても語れなくても、祈らずにはいられません。たとえ「言葉にあらわせない切なるうめき」によってだけであっても、祈るのです(ローマ八・二六)。けれども、「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者」が(イザヤ五七・一五)、自分のような罪人を顧みてくださるかどうか、疑っています。そこで、神を知る人々と、信仰のある人々と共に、大いなる会衆の中で祈りたいと願うようになります。ところが、そこで、ほかの人々が主の食卓に進み出るのを目にします。彼は考えます。「キリストは、『このように行いなさい』と言われた(ルカ二二・一九)。それなのに、どうして私はしないのか。私はあまりにも大きな罪人だ。ふさわしくない。値しない」。しばらくの間、こうしたためらいと戦ったあとで、彼はそれを突き破ります。こうして彼は、神の道を歩み続けます。聞き、読み、思いめぐらし、祈り、主の晩餐にあずかり続けるのです。やがて神は、みこころにかなうしかたで、彼の心に語りかけてくださいます。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」(ルカ七・五〇)。
(二) 神のこの順序に注意すれば、ある特定の魂にどの手段を勧めればよいかがわかります。愚かで無頓着な罪人に何かの手段が届くとすれば、それはおそらく、聞くことか会話でしょう。ですから、そのような人には、もし救いについて少しでも考えることがあるなら、これらを勧めるとよいでしょう。自分の罪の重さを感じ始めた人には、神の言葉を聞くことだけでなく、それを読むことも、もっと深く罪を悟る手段となるでしょう。おそらく、ほかのまじめな本を読むことも、そうなるでしょう。また、読んだことを思いめぐらし、それが心に十分な力を及ぼすように、勧めてもよいのではないでしょうか。そうです。そして、それについて恥じずに語るように、とりわけ同じ道を歩む人々の間で語るように、勧めてもよいでしょう。悩みと悲しみが彼を捕えるときには、神の前に魂を注ぎ出すように、「失望せずに常に祈る」ように(ルカ一八・一)、熱心に勧めるべきではないでしょうか。そして、彼が自分の祈りのむなしさを感じるときには、あなたは神と共に働く者となるべきではないでしょうか(第二コリント六・一)。主の家に上って、主を恐れるすべての人々と共に祈ることを、彼に思い起させるべきではないでしょうか。けれども、彼がそうするなら、主が死を前にして語られた言葉が、やがて思い起されるでしょう。それは、今こそ私たちが祝福された御霊の促しを後押しすべきときだという、はっきりとしたしるしです。こうして私たちは、神が定められたすべての手段を通して、一歩一歩、彼を導くことができます。自分の思いのままにではなく、ただ神の摂理と御霊が先立って道を開かれるままに導くのです。
(三) けれども、聖書には、この点で特定の順序を守れという命令は見当たりません。それと同じように、神の摂理と御霊も、どれか一つの順序を、変わることなく守られるわけではありません。人によって導かれる手段も、その中で神の祝福を見いだす手段も、さまざまに変えられ、入れ替えられ、組み合わされます。そのしかたは千差万別です。それでもやはり、私たちの知恵は、神の摂理と御霊の導きに従うことです。この点で(とりわけ、私たち自身が神の恵みを求める手段については)、一つには、神の外的な摂理に導かれることです。摂理は、あるときはこの手段を、あるときはあの手段を用いる機会を与えてくれます。もう一つには、経験に導かれることです。神の自由な御霊が、どの手段によって私たちの心に最も働くことをよしとされるかを、経験が教えてくれるのです。その間、神の救いを求めてうめいているすべての人にとって、確かで一般的な規則は、これです。機会があるときにはいつでも、神が定められたすべての手段を用いなさい。神が、どの手段の中で、救いをもたらす恵みを携えてあなたに会ってくださるか、だれにわかるでしょうか。
(四) 手段を用いる方法について言えば、実際、手段が用いる人に何かの恵みを伝えるかどうかは、すべてその方法にかかっています。第一に、神はすべての手段にまさる方だということを、いつも生き生きと感じていなければなりません。ですから、全能の神に限界を設けないように気をつけなさい。神は、みこころにかなうことを何でも、みこころにかなうときにいつでも行われます。神は、ご自分が定められたどの手段の中ででも、その外ででも、恵みを伝えることがおできになります。おそらく、そうされるでしょう。「だれが、主の心を知っていたでしょうか。だれが、主の計画にあずかったでしょうか」(ローマ一一・三四)。ですから、一瞬一瞬、神が現れてくださるのを待ち望みなさい! それは、あなたが神の定めを行っているときかもしれません。その前か、あとかもしれません。あるいは、あなたが妨げられて定めを行えないときかもしれません。あなたは妨げられても、神は妨げられません。神は、いつでも救う用意があり、いつでも救うことができ、いつでも救おうと願っておられます。「それは主です。どうぞ主が、良いと思うことを行われるように」(第一サムエル三・一八)。
第二に、どの手段を用いる前にも、このことを魂に深く刻みつけなさい。これには何の力もありません。それ自体は、みすぼらしい、死んだ、むなしいものです。神から切り離されれば、枯れ葉であり、影にすぎません。私がこれを用いることにも、何の功績もありません。それ自体として神に喜ばれるものは、何もありません。それによって神から何かの恵みを受けるに値するものも、何もありません。いや、舌を冷やす一滴の水にさえ値しないのです(ルカ一六・二四)。けれども、神が命じられるから、私はするのです。神がこの道で待つように指示されるから、私はここで、神の価なしのあわれみを待つのです。私の救いは、そのあわれみから来るのです。
心にしっかりと定めなさい。オプス・オペラトゥム(opus operatum)、すなわち、ただなされたわざそのものは、何の益にもなりません。救う力は、神の御霊のほかにはなく、功績は、キリストの血のほかにはありません。したがって、神が定められたものでさえ、あなたが神だけに頼るのでなければ、魂に何の恵みも伝えません。その一方で、本当に神に頼る人は、神の恵みを受けそこなうことはありえません。たとえすべての外的な定めから切り離されても、たとえ地の中心に閉じ込められても、そうなのです。
第三に、すべての手段を用いるとき、ただ神だけを求めなさい。あらゆる外のものの中で、またそれを通して、ひたすら神の御霊の力と、神の御子の功績とに目を注ぎなさい。わざそのものにとどまってしまわないように気をつけなさい。そうなれば、すべてはむだな骨折りです。神に及ばないものは、何一つ、あなたの魂を満たすことはできません。ですから、すべての中に、すべてを通して、すべてにまさって、神に目を注ぎなさい。
また、すべての手段を、手段として用いることを忘れないでください。手段は、それ自体のためではなく、あなたの魂を真の義と聖とにおいて新しくするために定められたのです(エペソ四・二四)。ですから、手段が実際にそこに向かっているなら、それでよいのです。けれども、そうでないなら、それはふん土であり、かすです(ピリピ三・八)。
最後に、これらのどれかを用いたあとで、それを自分の手柄にしないように気をつけなさい。何か大きなことをしたかのように、自分を祝うことのないように気をつけなさい。それは、すべてを毒に変えることです。こう考えなさい。「もし神がそこにおられなかったなら、これが何の役に立つのか。私は罪に罪を加えてきたのではないか(イザヤ三〇・一)。主よ、いつまでなのですか(詩篇一三・一)。お救いください。でなければ、私は滅びます! ああ、この罪を私に負わせないでください!」(使徒七・六〇)。もし神がそこにおられたなら、もし神の愛があなたの心に流れ込んだなら、あなたは、いわば外のわざを忘れてしまっているでしょう。神がすべてにあってすべてであることを(第一コリント一五・二八)、あなたは見、知り、感じているのです。へりくだりなさい。神の前にひれ伏しなさい。すべての誉れを神に帰しなさい。「すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられる」ようにしなさい(第一ペテロ四・一一)。あなたの骨に、ことごとく言わせなさい(詩篇三五・一〇)。「私はとこしえに」主の「いつくしみを歌い、私の口をもってあなたのまことをよろずよに告げ知らせます」(詩篇八九・一)。