ジョン・ウェスレー標準説教集

説教十二 私たちの霊のあかし

私たちの喜びは、私たちの「良心のあかし」です。良心は、私たちが「この世で」、単純さと神にかなう誠実さとをもってふるまってきたと、あかしします。「人間の知恵によってではなく神の恵みによって」ふるまってきたと、あかしするのです(第二コリント一・一二)

(一) これは、キリストを本当に信じるすべての信者の声です。信仰と愛のうちにとどまっているかぎり、そうなのです。主は、「わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがありません」と言われます(ヨハネ八・一二)。そして、信者は、光を持っている間は、その光を喜びます。信者は、「主キリスト・イエスを受けいれた」ように、キリストにあって歩みます(コロサイ二・六)。そして、キリストにあって歩んでいる間は、使徒の勧めが、日ごとにその魂のうちに実現します。「主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」(ピリピ四・四)。

(二) けれども、私たちは、砂の上に自分の家を建てないようにしなければなりません。そうでないと、雨が降り、風が吹き、洪水が押し寄せてその家に打ちつけるとき、倒れてしまいます。その倒れ方はひどいのです(マタイ七・二六〜二七)。そこで、この説教では、クリスチャンの喜びの本質と根拠とは何かを示そうと思います。大まかに言えば、それが、あの幸いな平安、霊の穏やかな満足であることは、わかっています。ここで使徒が述べているような、良心のあかしから生じる平安と満足です。けれども、これをもっと深く理解するには、使徒の言葉を一つ残らず量ってみる必要があるでしょう。そうすれば、良心とは何を指し、良心のあかしとは何を指すのかが、たやすく明らかになります。また、このあかしを持つ人が、どのようにしていつも喜んでいるのかも(第一テサロニケ五・一六)、明らかになるでしょう。

(三) まず第一に、良心とは何を指すのでしょうか。だれもが口にするこの言葉は、どういう意味なのでしょうか。この問題については、これまでに、大部の書物が数多く書かれてきました。それを説明するために、古今の学問の宝が残らずあさられてきました。それを考えると、この意味を見いだすのは、きわめて難しいことのように思われるでしょう。けれども、そうした手の込んだ研究のすべてによっても、この問題にはあまり光が当てられてこなかったように思われます。むしろ、そうした著作家の多くは、問題を混乱させてきたのではないでしょうか。「無知の言葉をもって」、「計りごとを暗く」してきたのではないでしょうか(ヨブ三八・二)。それ自体は明らかで、わかりやすい主題を、わかりにくくしてきたのではないでしょうか。難しい言葉を脇に置きさえすれば、正直な心の人はだれでも、すぐにこの事柄を理解するでしょう。

(四) 神は、私たちを考える存在として造られました。今あることを知覚し、過ぎたことを省みる、すなわち振り返ることのできる存在です。とりわけ、私たちは、自分の心や生活の中で起こることを、何でも知覚できます。自分が感じることや行うことを、何でも知ることができます。それも、それが起こっている間にも、起こったあとにも、知ることができるのです。人間は自覚をもつ存在だと言うとき、私たちが意味しているのは、このことです。人間は、自分にかかわる今のことと過ぎたことについて、自覚、すなわち内なる知覚を持っています。自分の気質と外の行いについても、それを持っているのです。けれども、私たちがふつう良心と呼んでいるものは、これ以上のものを含んでいます。良心とは、ただ今の生活を知ることや、これまでの生活を覚えていることではありません。過ぎたことや今のことを覚え、それをあかしすることは、良心の務めの一つ、それも最も小さな務めにすぎません。良心の主な仕事は、弁明したり訴えたり、よしとしたり退けたり、無罪としたり罪に定めたりすることです。

(五) 確かに、近ごろの著作家の中には、これに新しい名をつけ、道徳感覚と呼ぶことにした人々もいます。けれども、古い言葉のほうが、新しい言葉よりよいように思われます。古い言葉のほうが、人々の間でよく使われ、なじみがあり、そのためにわかりやすいからです。この理由だけでも、そう言えるのです。また、クリスチャンにとっては、もう一つの理由からも、古い言葉のほうがよいことは否定できません。それが聖書の言葉だからです。神の知恵が、霊感による書物の中で用いることにした言葉だからです。

聖書の中で、とりわけパウロの手紙の中で、この言葉が一般に用いられている意味があります。その意味に従えば、良心とは、一つの能力、すなわち力だと理解してよいでしょう。神が、この世に生れてくるすべての魂に植えつけられた力です。それは、何が正しく何が誤っているかを知覚する力です。自分の心や生活において、自分の気質、思い、言葉、行いにおいて、それを知覚するのです。

(六) けれども、人が正しいことと誤ったことを判断する規準は何でしょうか。良心は何によって導かれるべきなのでしょうか。使徒がほかの箇所で教えているように、異邦人の規準は、神の指によって「その心にしるされている」律法です(ローマ二・一五)。彼らがこの規準によって歩んでいるかどうかを、「彼らの良心も共にあかしをして」います。そして、「その判断が」その間に「あるいは訴え、あるいは弁明し」ます。すなわち、彼らを無罪とし、弁護するのです。原文では、エー・カイ・アポログーメノーン(ἢ καὶ ἀπολογουμένων)です(ローマ二・一四〜一五)。けれども、クリスチャンにとって正しいことと誤ったことの規準は、神の言葉、すなわち旧約と新約の書物です。預言者たちと昔の聖なる人々が、「聖霊に感じ」て書いたもののすべてです(第二ペテロ一・二一)。神の霊感を受けて書かれた聖書のすべてです。聖書は確かに、教えるのに、すなわち神のみこころのすべてを教えるのに有益です。それに反することを戒めるのにも、誤りを正しくするのにも有益です。また、義に導くのに、すなわち義のうちに私たちを訓練するのに有益です(第二テモテ三・一六)。

これが、クリスチャンの足のともしび、そのすべての道の光です(詩篇一一九・一〇五)。クリスチャンは、これだけを、正しいことと誤ったこと、本当に善であることと悪であることの規準として受けいれます。聖書が、直接に、あるいは明らかな帰結として命じていることのほかは、何も善とは見なしません。聖書が、明文で、あるいは否定できない推論によって禁じていることのほかは、何も悪とは見なしません。聖書が、直接にも明らかな帰結としても、禁じも命じもしていないことがあります。クリスチャンは、それを、どうでもよい性質のもの、それ自体としては善でも悪でもないものだと信じます。聖書こそが、すべてのことにおいて良心を導くべき、外からの規準の全体であり、ただ一つの規準だからです。

(七) そして、良心が実際にこれによって導かれているなら、その人は、神に対する正しい良心の応答を持っているのです(第一ペテロ三・二一)。正しい良心とは、使徒がほかの箇所で、「良心に責められることのない」状態と呼んでいるものです(使徒二四・一六)。使徒は、あるときには、こう言い表しています。「私は今日まで、神の前に、ひたすら明らかな良心にしたがって行動してきました」(使徒二三・一)。同じことを、別のときには、こう言い表しています。「私はまた、神に対しまた人に対して、良心に責められることのないように、常に努めています」(使徒二四・一六)。さて、このためには、どうしても必要なことがあります。第一に、神の言葉を正しく理解することです。すなわち、そこに示されている、私たちについての神の聖なる、喜ばれる、完全な御旨を、正しく理解することです(ローマ一二・二)。規準の意味を知らなければ、その規準によって歩むことはできないからです。第二に、自分自身を本当に知ることが必要です(これに達している人は、なんと少ないことでしょう)。自分の心と生活、すなわち内の気質と外のふるまいとを知ることです。それらを知らなければ、それらを規準と照らし合わせることはできないからです。第三に、私たちの心と生活が、あの規準と一致していることが必要です。すなわち、私たちの気質とふるまい、あるいは思いと言葉と行いが、書かれた神の言葉と一致していることです。これがなければ、たとえ良心があっても、それは悪い良心でしかありえないからです。第四に、規準とのこの一致を、内側で知覚することが必要です。そして、この習慣となった知覚、この内なる自覚そのものが、まさしく正しい良心なのです。使徒の別の言い方で言えば、「神に対しまた人に対して、良心に責められることのない」状態です(使徒二四・一六)。

(八) けれども、このように責められることのない良心を持ちたいと願う人は、正しい土台をすえるように気をつけなさい。覚えておきなさい。良心のこの土台として、「すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもでき」ません。「この土台はイエス・キリスト」です(第一コリント三・一一)。また、心にとめておきなさい。生きた信仰によるのでなければ、だれもキリストの上に建てることはできません。次のようにはっきりあかしできるまでは、だれも「キリストにあずかる者」ではないのです(ヘブル三・一四)。「私がいま生きているのは、神の御子を信じる信仰によって、生きているのです」。今、私の心に現されている方、「私を愛し、私のためにご自身をささげられた」方を信じる信仰によってです(ガラテヤ二・二〇)。信仰だけが、見えない事柄の証拠であり、確信であり、論証です。信仰によって、私たちの悟りの目が開かれ、そこに神の光が注ぎ込まれます。そうして私たちは、神の「おきてのうちのくすしき事を見」るのです(詩篇一一九・一八)。そのすぐれていること、純粋であることを見ます。おきての高さ、深さ、長さ、広さを見ます(エペソ三・一八)。おきてに含まれるすべての戒めについても、それを見るのです。信仰によって、私たちは、「キリストの顔に輝く神の栄光の」光を見つめます(第二コリント四・六)。そして、鏡に映すように、自分のうちにあるすべてのものを、いや、魂の最も奥の動きをも見て取るのです。また、信仰によってだけ、神のあの祝福された愛が、「私たちの心に注がれ」ます(ローマ五・五)。この愛によって、私たちは、キリストが私たちを愛されたように、互いに愛し合うことができるのです(ヨハネ一三・三四)。信仰によって、神のイスラエル全体に(ガラテヤ六・一六)、あの恵み深い約束が成就します。「わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう」(ヘブル八・一〇)。書きつけるとは、刻みつけることです。こうして、彼らの魂のうちに、神の聖なる、完全な律法との全き一致が生み出されます。そして、「すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ」るのです(第二コリント一〇・五)。

悪い木が良い実をならせることができないように、良い木が悪い実をならせることもできません(マタイ七・一八)。ですから、信者の心は、そして同じように信者の生活も、神の戒めという規準に、すっかりかなっています。それを自覚して、信者は神に栄光を帰し、使徒と共にこう言うことができるのです。私たちの喜びは、私たちの「良心のあかし」です。良心は、私たちが「この世で」、単純さと神にかなう誠実さとをもってふるまってきたと、あかしします。「人間の知恵によってではなく神の恵みによって」ふるまってきたと、あかしするのです(第二コリント一・一二)。

(九) 私たちはふるまってきた、とあります。使徒は原文で、これをただ一語で言い表しています。アネストラフェーメン(ἀνεστράφημεν)です。けれども、その意味はきわめて広いのです。それは、私たちの物腰のすべてを含みます。いや、魂にかかわることも、からだにかかわることも、内外のあらゆる事柄を含むのです。それは、私たちの心、舌、手、からだの各部分のあらゆる動きを含みます。私たちのすべての行いと言葉に及び、私たちのすべての力と能力の用い方に及びます。神に対しても人に対しても、私たちが受けたあらゆる賜物を用いるしかたに及ぶのです。

(一〇) 私たちは「この世で」ふるまってきた、とあります(第二コリント一・一二)。それも、不信心な者たちの世においてです。神の子たちの間でだけではありません(それなら、比べれば小さなことでしょう)。悪魔の子たちの間で、悪のうちにある人々の間で、ふるまってきたのです。原文ではエン・トー・ポネーロー(ἐν τῷ πονηρῷ)、すなわち「悪しき者の」うちにある人々です(第一ヨハネ五・一九)。これは、なんという世でしょう! この世は、自分が絶えず吐き出している霊に、なんと深くしみとおっていることでしょう。私たちの神は、善にして善を行われます(詩篇一一九・六八)。それと同じように、この世の神とその子らはみな(第二コリント四・四)、悪であり、許されるかぎり、神のすべての子たちに悪を行います。彼らは、その父と同じように、いつも待ち伏せしています。「食いつくすべきものを求めて歩き回って」いるのです(第一ペテロ五・八)。欺きや力ずく、ひそかな策略やあからさまな暴力を用いて、世のものでない人々を滅ぼそうとします(ヨハネ一七・一六)。絶えず私たちの魂に戦いをいどみます(第一ペテロ二・一一)。古い武器や新しい武器、あらゆる種類のたくらみによって、魂を連れ戻そうと骨折ります。悪魔のわなへ(第二テモテ二・二六)、滅びにいたる広い道へ(マタイ七・一三)、連れ戻そうとするのです。

(一一) 私たちは、このような世で、単純さと神にかなう誠実さとをもって、生活のすべてにおいてふるまってきた、とあります。第一に、単純さをもってです。これは、私たちの主が、目が「澄んで」いることとして勧めておられるものです(マタイ六・二二)。主はこう言われます。「目はからだのあかりです。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいでしょう」(マタイ六・二二)。その意味は、こうです。目がからだにとって果たす役割を、意図は、すべての言葉と行いにとって果たします。ですから、あなたの魂のこの目が澄んでいれば、あなたのすべての行いとふるまいは、光に満ちるでしょう。天の光、すなわち愛と平和と聖霊における喜びの光に満ちるのです(ローマ一四・一七)。

私たちの心が単純であるのは、心の目がひたすら神に注がれているときです。すべてのことにおいて、ただ神だけを目指しているときです。神を、私たちの神、私たちの受ける分、私たちの力、私たちの幸いとして目指すのです。また、私たちのはなはだ大きい報いとして(創世記一五・一)、時においても永遠においても、私たちのすべてとして目指すのです。これが単純さです。揺るがない目当て、ひたむきな意図があるときです。神の栄光をあらわし、神の祝福されたみこころを行い、またそれを忍ぼうとする意図です。その意図が、私たちの魂全体を貫き、心全体を満たし、すべての思いと願いと目的の、絶えない泉となっているときです。

(一二) 第二に、私たちは「この世で」、神にかなう誠実さをもってふるまってきた、とあります(第二コリント一・一二)。単純さと誠実さとの違いは、主に次の点にあるように思われます。単純さは意図そのものにかかわり、誠実さはその実行にかかわるのです。そして、この誠実さは、ただ言葉にだけでなく、先に述べたような、ふるまいの全体にかかわります。ここでは、パウロ自身がときに用いる、狭い意味で理解してはなりません。真実を語ること、偽りや悪巧みや見せかけを避けること、という意味ではないのです。もっと広い意味で、単純さによって目指す的に、実際に当たることとして理解すべきです。ですから、ここで誠実さが意味するのは、次のことです。私たちが、実際に、すべてを神の栄光のために語り、行うことです(第一コリント一〇・三一)。私たちのすべての言葉が、ただ神の栄光を目指すだけでなく、実際にそれに役立つことです。私たちのすべての行いが、一筋の流れとなって、この大きな目的に一貫して仕えることです。そして、生涯を通して、まっすぐ神に向かって、絶えず進んでいることです。聖なる道という大路を(イザヤ三五・八)、正義とあわれみと真実の小道を、着実に歩み続けることです。

(一三) 使徒は、この誠実さを、神にかなう誠実さ、すなわち神の誠実さと呼んでいます。エイリクリネイア・テウー(εἰλικρίνεια θεοῦ)です。それは、私たちがこれを、異邦人の誠実さと取り違えたり、混同したりしないためです。(異邦人の間にも一種の誠実さがあり、彼らはそれを少なからず尊んでいました。)また、すべてのクリスチャンの徳と同じく、この誠実さの対象と目的とを示すためでもあります。最終的に神に向かわないものは、何であれ、世の貧弱な諸要素の中に沈んでしまうからです。神の誠実さと呼ぶことで、使徒は、その与え主をも指し示しています。「光の父」です。「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物」は、この方から「下って来る」のです(ヤコブ一・一七)。このことは、続く言葉で、もっとはっきりと示されています。「人間の知恵によってではなく神の恵みによって」(第二コリント一・一二)。

(一四) 「人間の知恵によってではなく」とあります(第二コリント一・一二)。使徒は、こう言っているかのようです。「私たちは、生れながらの悟りの力によっては、この世でこのようにふるまうことはできません。生れながらに身につけた知識や知恵によっても、できません。良識の力によっても、善良な性質の力によっても、よいしつけの力によっても、できません。そうした力では、この単純さを得ることも、この誠実さを実践することもできないのです。それは、私たちの生れつきの勇気と決意のすべてを、また哲学の教えのすべてを、はるかに超えています。習慣の力も、人間の教育の最も精緻な規則も、私たちをここまで訓練することはできません。私パウロも、あらゆる利点に恵まれていましたが、ここに達することはできませんでした。肉にあったかぎり、すなわち生れながらの状態にあったかぎり、達することはできなかったのです。ただ人間の知恵、生れながらの知恵で追い求めていたからです」。

けれども、確かに、もしだれかにできたとすれば、パウロ自身こそ、その知恵によってそこに達しえたでしょう。生れつきの賜物にも教育の賜物にも、パウロ以上に恵まれた人は、ほとんど考えられないからです。パウロの生れつきの能力は、当時地上にいたどんな人にも、おそらく劣らなかったでしょう。そのうえ、学問のあらゆる恩恵を受けていました。タルソの大学で学び、のちにガマリエルのひざもとで育てられたのです(使徒二二・三)。ガマリエルは、知識においても高潔さにおいても、当時ユダヤ民族全体の中で最も重んじられていた人です。また、宗教教育のありとあらゆる利点も備えていました。パリサイ人であり、パリサイ人の子であって(使徒二三・六)、最も厳格な派で訓練されたのです(使徒二六・五)。その派は、際立った厳格さによって、ほかのすべての派と区別されていました。そしてこの点で、パウロは、「同年輩の多くの者にまさって」「精進し」ていました。神に喜ばれると思うことには何であれ、「だれよりもはるかに熱心であ」りました(ガラテヤ一・一四)。また、「律法の義については落ち度のない者」でした(ピリピ三・六)。けれども、それによって、この単純さと神にかなう誠実さに達することはできませんでした。それはすべて、むだな骨折りにすぎませんでした。パウロは、そのことを深く、身にしみて感じ、ついにこう叫ばずにはいられなかったのです。「私にとって益であったこれらのものを」、「私の主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに」、「損と思うようになりました」(ピリピ三・七〜八)。

(一五) パウロがここに達しえたのは、ただ私たちの主イエス・キリストを「知る知識の絶大な価値」によってでした(ピリピ三・八)。言いかえれば、「神の恵みによって」です(第二コリント一・一二)。これは、ほぼ同じ意味の、別の言い方です。「神の恵み」は、ときには、あの価なしの愛、受けるに値しないあわれみを指します。それによって、罪人である私が、キリストの功績のゆえに、今、神と和解させられているのです。けれども、この箇所では、むしろ聖霊なる神の力を意味しています。神のよしとされるところに従って、私たちの「うちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせる」力です(ピリピ二・一三)。前の意味での神の恵み、すなわち神の赦しの愛が、私たちの魂に示されるとします。するとすぐに、あとの意味での神の恵み、すなわち神の御霊の力が、魂のうちに働き始めます。そして今や、私たちは、人にはできなかったことを、神によって行うことができます(マタイ一九・二六)。今や、私たちは、ふるまいを正しく整えることができます。私たちを強くしてくださるキリストによって、あの愛の光と力のうちに、何事でもすることができます(ピリピ四・一三)。今や、私たちは、「良心のあかし」を持っています。人間の知恵によっては、決して持てなかったあかしです。私たちが「この世で」、単純さと神にかなう誠実さとをもってふるまっていると、良心があかしするのです(第二コリント一・一二)。

(一六) これこそが、まさしくクリスチャンの喜びの根拠です。ですから、今や、このあかしを自分のうちに持つ人が、どのようにしていつも喜んでいるのかが、たやすくわかるでしょう。その人は、こう言うことができます。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救主なる神を」喜びます(ルカ一・四六〜四七)。私は神を喜びます。神は、受けるに値しないご自分の愛により、価なしの優しいあわれみにより、「この救いの状態に私を召してくださった」のです(祈祷書「教理問答」)。私は今、神の力によって、その状態に立っています。私は喜びます。神の御霊が、私の霊にあかししてくださるからです。私が小羊の血によって買い取られたことを、あかししてくださるのです。また、小羊を信じて、私が「キリストの肢体、神の子、天の御国を継ぐ者」とされていることを(祈祷書「教理問答」)、あかししてくださるのです。私は喜びます。私に対する神の愛を感じることが、同じ御霊によって、私のうちに、神を愛する心を生み出したからです。また、神のために、すべての人の子を、神が造られたすべての魂を愛する心を生み出したからです。私は喜びます。キリストのうちにあった思いを(ピリピ二・五)、神が私のうちに感じさせてくださるからです。それは、単純さです。心のあらゆる動きにおいて、ひたすら神に目を注ぐことです。「私を愛し、私のためにご自身をささげられた」方に(ガラテヤ二・二〇)、魂の愛の目をいつも注ぐ力です。考えること、語ること、行うことのすべてにおいて、ただ神だけを、神の栄光あるみこころだけを目指す力です。それは、純粋さです。神のほかには何も望まないことです。「肉を、その情と欲と共に十字架につけ」(ガラテヤ五・二四)、「上にあるものを思」い、「地上のものに心を引かれ」ないことです(コロサイ三・二)。それは、聖性です。神のかたちの回復であり、魂が神に「かたどって」新しくされることです(創世記一・二六)。そして、それは、神にかなう誠実さです。私のすべての言葉と行いを、神の栄光に役立つように導く誠実さです。このことでも、私は喜んでいますし、また喜ぶでしょう(ピリピ一・一八)。私の良心が、聖霊によって私にあかしをしているからです(ローマ九・一)。聖霊が絶えず良心に注ぎ込まれる光によって、私が「召されたその召しにふさわしく歩」んでいることを(エペソ四・一)、あかししているのです。私が「あらゆる種類の悪から遠ざか」り(第一テサロニケ五・二二)、蛇の前から逃げるように罪から逃げていることを、あかししているのです。私が、機会のあるごとに、だれに対しても、あらゆる種類の、できるかぎりの善を行っていることを(ガラテヤ六・一〇)、あかししているのです。私が、一歩一歩、主に従い、みこころにかなうことを行っていることを(第一ヨハネ三・二二)、あかししているのです。私は喜びます。神の聖霊の息吹によって、私のすべてのわざが神にあってなされていることを(ヨハネ三・二一)、見て、感じるからです。いや、私のすべてのわざを私のうちになし遂げてくださるのは神なのだと(イザヤ二六・一二)、見て、感じるからです。私は、心に輝く神の光によって、神の道を歩む力が自分にあることを見て、喜びます。神の恵みによって、その道から右にも左にもそれないことを見て(申命記五・三二)、喜ぶのです。

(一七) 成熟したクリスチャンがいつも喜んでいる、その喜びの根拠と本質は、このようなものです。そして、これらすべてのことから、たやすく次のことを推論できます。第一に、これは生れながらの喜びではありません。それは、どんな自然の原因から生じるものでもありません。急に気分が高まることから生じるのではないのです。そういうことは、つかの間の喜びを与えるかもしれません。けれども、クリスチャンはいつも喜んでいるのです。この喜びは、からだの健康や安楽、体質の強さや丈夫さによるものではありえません。病気や痛みの中でも、同じように強いからです。いや、おそらく、それまでよりもはるかに強いのです。多くのクリスチャンは、からだが痛みにすり減らされ、病気でやつれ果てたときに、魂を満たした喜びを知っています。それに比べられるほどの喜びを、ほかには一度も経験したことがないのです。ましてや、外の繁栄や、人々の好意や、この世の財産の豊かさに、この喜びを帰することはできません。神の子たちは、あらゆる外の苦しみによって、信仰が火で試されたときにこそ、主を喜んできたからです。見たことはないが愛している方を、「言葉につくせない」喜びをもって喜んできたのです(第一ペテロ一・七〜八)。そして確かに、「この世のちりのように、人間のくずのように」扱われた人々ほど喜んだ人々は(第一コリント四・一三)、ほかにいませんでした。彼らは、あらゆるものに欠けて、あちらこちらと歩きまわり(ヘブル一一・三七)、飢え、寒さに凍え、裸でいました(第二コリント一一・二七)。彼らは、「あざけられ」るだけでなく、「しばり上げられ、投獄されるほどのめに」も会いました(ヘブル一一・三六)。いや、ついには、喜びをもって「自分の行程を走り終え」さえすれば、「このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない」人々でした(使徒二〇・二四)。

(一八) これまでの考察から、第二に、次のことを推論できます。クリスチャンの喜びは、良心が盲目であることから、すなわち善悪を見分けられないことから生じるのではありません。それどころか、クリスチャンは、悟りの目が開かれるまでは、この喜びをまったく知りませんでした。霊的な善悪を見分けるのにふさわしい、霊の感覚を持つまでは(ヘブル五・一四)、この喜びを知らなかったのです。そして今、その魂の目はかすむことがありません。以前には、これほど鋭く見えたことはありませんでした。ごく小さなことも、すばやく感じ取ります。生れながらの人がすっかり驚くほどです。日の光の中では、ちりが見えます。それと同じように、光の中を(第一ヨハネ一・七)、造られたのではない太陽の光の中を歩む人には、罪のちりの一つ一つが見えるのです。その人は、もう良心の目を閉じることもありません。あの眠りは、その人から去ったのです。その魂は、いつもすっかり目覚めています。もうまどろむことも、手をこまぬいて休むこともありません(箴言六・一〇)! その人は、いつも物見やぐらに立ち、主が自分について何と語られるかに耳を傾けています(ハバクク二・一)。そして、いつもこのことを、「見えないかたを見ている」ことを喜んでいるのです(ヘブル一一・二七)。

(一九) 第三に、クリスチャンの喜びは、良心が鈍いこと、まひしていることから生じるのでもありません。確かに、そこから一種の喜びが生じることもあるでしょう。その「無知な心は暗くな」っている人々のうちにです(ローマ一・二一)。その心はまひし、何も感じず、感覚が鈍く、そのために霊的な悟りを欠いています。彼らは、心が無感覚で、何も感じないために、罪を犯すことさえ喜ぶかもしれません。そして、おそらく、それを自由と呼ぶでしょう! けれども、それは実際には、魂の酔いにすぎません。霊の致命的なしびれ、焼き印をおされた良心の(第一テモテ四・二)、愚かな無感覚にすぎないのです。それとは反対に、クリスチャンは、最も鋭い感受性を持っています。以前には思いもよらなかったほどの感受性です。神の愛が心を支配するようになってから、クリスチャンは、かつてないほど柔らかな良心を持つようになりました。そして、神が日ごとの祈りを聞いてくださったことも、クリスチャンの誇りであり、喜びです。その祈りとは、こうです。

ああ、私の柔らかな魂が、逃れ去ることができますように。忌まわしい悪が、初めて近づいてくるときに。目のひとみのように敏く、罪がかすかに触れても、気づくことができますように。

(二〇) 結論を述べます。クリスチャンの喜びは、従順の喜びです。神を愛し、神の戒めを守ることの喜びです。けれども、戒めを守ることによって、行いの契約の条件を果たそうとするかのように、守るのではありません。自分のどんな行いや義によって、神の赦しと受けいれを得ようとするかのように、守るのではないのです。そうではありません。私たちは、キリスト・イエスにある神のあわれみによって、すでに赦され、受けいれられています。また、自分の従順によっていのちを、罪の死からのいのちを得ようとするかのように、守るのでもありません。このいのちも、私たちは神の恵みによって、すでに持っているのです。神は、「罪過によって死んでいた私たちを」「生かし」てくださいました(エペソ二・五)。そして今、私たちは、私たちの主「キリスト・イエスにあって神に生きている」のです(ローマ六・一一)。けれども、私たちは、恵みの契約にしたがって、聖なる愛と幸いな従順のうちに歩むことを喜びます。私たちは、「恵みによって義とされ」て(テトス三・七)、「神の恵みをいたずらに受け」なかったことを知って喜びます(第二コリント六・一)。神は、価なしに私たちをご自分と和解させてくださいました。私たちが望んだり走ったりしたからではなく、小羊の血によってです。そして、私たちが、神が与えてくださった力によって、神の戒めの道を走っていることを(詩篇一一九・三二)、知って喜ぶのです。神は、「戦いのために」私たちに「力を帯びさせ」てくださいました(詩篇一八・三九)。そして私たちは、喜んで「信仰の戦いをりっぱに戦いぬ」くのです(第一テモテ六・一二)。私たちは、信仰によって私たちの心のうちに住んでおられる方によって(エペソ三・一七)、「永遠のいのちを獲得」することを喜びます(第一テモテ六・一二)。私たちの喜びは、これです。私たちの「父は今に至るまで働いておられ」ます(ヨハネ五・一七)。それと同じように、私たちも「神のわざを行う」のです(ヨハネ六・二八)。自分の力や知恵によってではなく、キリスト・イエスにあって価なしに与えられた、神の御霊の力によってです。どうか、神が、「みこころにかなうことを」何でも私たちのうちに行ってくださいますように(ヘブル一三・二一)! 神に、誉れが世々限りなくありますように!

〔この説教が、信仰の強い人々の経験を述べていることは、たやすく見て取れるでしょう。けれども、そのために、信仰の弱い人々が落胆するかもしれません。それを防ぐために、次の説教が役立つでしょう。〕