ジョン・ウェスレー標準説教集

説教十 御霊のあかし(一)

「御霊みずから、私たちの霊と共に、私たちが神の子であることをあかししてくださいます」(ローマ八・一六)

(一) なんと多くのむなしい人々が、この聖句に無理な解釈をほどこしてきたことでしょう(第二ペテロ三・一六)。彼らは、自分の言っていることも主張していることも、わからないのです(第一テモテ一・七)。そうして、自分の魂に大きな損失を、いや、滅亡をさえ招いてきたのです。なんと多くの人々が、自分の想像の声を、神の御霊のこのあかしと取り違えてきたことでしょう。そこから、悪魔のわざを行いながら、自分は神の子だと、愚かにも思い上がってきたのです。このような人々こそ、本当の意味での熱狂者です。それも、この言葉の最も悪い意味においてです。けれども、彼らにそのことを悟らせるのは、なんと難しいことでしょう。とりわけ、あの「迷いの霊」を深く飲み込んでいる場合には、そうです(第一ヨハネ四・六)。そうなると、彼らは、自分の本当の姿を悟らせようとするどんな努力も、神に敵対することだと見なすでしょう。彼らは、自分たちの霊の激しさと性急さを、熱心に「信仰のために戦う」ことだと呼びます(ユダ三)。その激しさが、彼らを、誤りを悟らせる普通の方法のどれもが届かないところに置いてしまうのです。ですから、まさに「人にはそれはできません」と言ってよいでしょう(マタイ一九・二六)。

(二) 多くの分別のある人々は、この惑わしの恐ろしい結果を見て、それからできるだけ遠ざかろうと努めています。そういう人々が、ときにはもう一方の極端に傾いたとしても、だれが驚くでしょうか。このあかしについては、ほかの人々がひどく誤ってきました。ですから、彼らが、このあかしを持っていると言う人をすぐには信じなくても、驚くことはありません。ひどく乱用されてきた言い回しを使う人を、みな熱狂者と決めつけそうになっても、無理はありません。それどころか、ここで言われているあかし、すなわち証言を、普通のクリスチャンの特権ではないのではないかと疑っても、無理はないのです。むしろ、使徒の時代にだけ属していたと彼らが考える、あの特別な賜物の一つではないか、と疑うのです。

(三) けれども、私たちは、どちらかの極端に走らなければならないのでしょうか。中道を進むことはできないのでしょうか。あの迷いと熱狂の霊からは、十分に距離を保ちます。それでいて、神の賜物を否定せず、神の子たちの大きな特権も手放さない道です。確かに、できます。そのために、神の御前で、神を恐れつつ、次のことを考えましょう。第一に、私たちの霊のあかし、すなわち証言とは何か。神の御霊のあかしとは何か。そして、御霊はどのようにして「私たちの霊と共に、私たちが神の子であることをあかしして」くださるのか(ローマ八・一六)。第二に、神の御霊と私たち自身の霊との、この共同のあかしは、生れながらの心の思い上がりや悪魔の惑わしから、どのようにしてはっきりと確かに見分けられるのか。

【一】 私たちの霊のあかしと神の御霊のあかし

(一) まず、私たちの霊のあかしとは何かを考えましょう。けれども、ここで私は、ある人々にぜひ注意してほしいのです。神の御霊のあかしを、私たち自身の霊の理性的なあかしの中にのみ込ませてしまおうとする人々です。この聖句で、使徒は、私たち自身の霊のあかしだけを語っているどころではありません。そもそも、それを語っているのかどうかさえ疑わしいのです。使徒は、神の御霊のあかしだけを語っているのではないでしょうか。原文は、そのように理解して差し支えないと思われます。使徒は、直前の節で、こう言ったばかりです。あなたがたは、「子たる身分を授ける霊を受けたのです。その霊によって、私たちは『アバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ八・一五)。そして、すぐにこう続けています。アウト・ト・プネウマ・スュンマルテュレイ・トー・プネウマティ・ヘーモーン・ホティ・エスメン・テクナ・テウー(αὐτὸ τὸ πνεῦμα συμμαρτυρεῖ τῷ πνεύματι ἡμῶν, ὅτι ἐσμὲν τέκνα θεοῦ)。いくつかの写本では、初めの語句がト・アウト・プネウマ(τὸ αὐτὸ πνεῦμα)となっています。これは、こう訳すことができます。「同じ御霊が、私たちの霊に、私たちが神の子であることをあかしされる」(ローマ八・一六)。前置詞のスュン(σύν)が表しているのは、ただ次のことです。御霊は、私たちが「アバ、父よ」と呼べるようにしてくださるのと同時に、このことをあかしされるのです。けれども、私はこのことで争いません。ほかの多くの聖句と、すべての本当のクリスチャンの経験とが、十分に示しているからです。すべての信者のうちには、自分が神の子であるという、神の御霊のあかしと、自分自身の霊のあかしとの両方があるのです。

(二) 後者、すなわち自分自身の霊のあかしについて言えば、その土台は、神の子たちのしるしを描いている数多くの聖句に置かれています。それらの聖句は、走りながらも読みうるほど明らかです(ハバクク二・二)。また、古今の多くの著作家たちが、それらのしるしを集め、最も強い光のもとに示してきました。さらに光が必要な人も、それを受けることができます。神のみことばの奉仕に連なること、ひそかに神の前でみことばを思いめぐらすこと、神の道を知っている人々と語り合うことによってです。また、神がその人に与えた理性、すなわち悟りがあります。宗教は、これを消すためではなく、完成させるためのものです。使徒の次の言葉のとおりです。「兄弟たちよ。物の考えかたでは、子供となってはいけません。悪事については」、すなわち邪悪については、「幼な子となるのはよいが、考えかたでは、おとなとなりなさい」(第一コリント一四・二〇)。この理性によって、人はだれでも、聖書の示すしるしを自分に当てはめ、自分が神の子かどうかを知ることができるのです。たとえば、その人が、第一に、次のことを知っているとします。「すべて神の御霊に導かれている者は」、すなわち、あらゆる聖い気質と行いへと導かれている者は、「神の子」なのです(ローマ八・一四)。これについては、聖書という誤りのない保証があります。第二に、自分はそのように「神の御霊に導かれている」と知っているとします(ローマ八・一四)。そうすれば、たやすくこう結論するでしょう。「だから、私は神の子である」。

(三) ヨハネが第一の手紙で述べている、あの明らかな言葉のすべても、これと一致しています。「もし、私たちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのです」(第一ヨハネ二・三)。「彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのです。それによって、私たちが彼にあることを知るのです」(第一ヨハネ二・五)。すなわち、私たちがまことに神の子であることを知るのです。「彼の義なるかたであることがわかれば、義を行う者はみな彼から生れたものであることを、知るでしょう」(第一ヨハネ二・二九)。「私たちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知っています」(第一ヨハネ三・一四)。「それによって、私たちが真理から出たものであることがわかります」。そして、「神のみまえに心を安んじて」いられるのです(第一ヨハネ三・一九)。それは、私たちが「言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合」っているからです(第一ヨハネ三・一八)。「神が」愛の「御霊を私たちに賜わったことによって、私たちが神に」とどまっていることを「知る」のです(第一ヨハネ四・一三)。また、「神が私たちのうちにいますことは、神が私たちに賜わった」従順な「御霊によって知るのです」(第一ヨハネ三・二四)。

(四) これらの言葉を書いたときの使徒ヨハネと、彼が書き送ったキリストにある父たちを考えてみましょう。世の初めから今日まで、神の恵みと、私たちの主イエス・キリストを知る知識とにおいて、彼らより進んだ神の子は、おそらくいなかったでしょう。それにもかかわらず、使徒自身も、神の聖所のあの柱たちもみな(黙示録三・一二)、これらのしるしを決して軽んじませんでした。自分たちが神の子であることのしるしとして、信仰を確かにするために、自分の魂に当てはめたのです。それは明らかです。けれども、これはすべて理性的な証拠にすぎません。私たちの霊、すなわち私たちの理性や悟りのあかしにすぎないのです。すべては、次のことに帰着します。これらのしるしを持つ者は、神の子である。ところが、私たちはこれらのしるしを持っている。ゆえに、私たちは神の子である。

(五) けれども、私たちがこれらのしるしを持っていることは、どのようにしてわかるのでしょうか。この問いが、まだ残っています。私たちが本当に神と隣り人とを愛し、神の戒めを守っていることは、どのようにしてわかるのでしょうか。注意してください。この問いの意味は、ほかの人々にではなく、私たち自身にどのようにしてわかるのか、ということです。それなら、この問いを出す人に、私は尋ねたいと思います。あなたは、自分が生きていること、今、痛みの中ではなく安らかな状態にあることが、どのようにしてわかるのですか。それを直接に自覚しているのではありませんか。同じ直接の自覚によって、あなたは、自分の魂が神に対して生きているかどうかを知るでしょう。高ぶった怒りの痛みから救われ、柔和で、しとやかな霊の安らぎを持っているかどうかを、知るでしょう(第一ペテロ三・四)。同じ手段によって、自分が神を愛し、神を喜び、神を楽しんでいるかどうかも、感じ取らずにはいられません。同じ手段によって、あなたは、自分を愛するように隣り人を愛しているかどうかを(マタイ二二・三九)、直接に確信するはずです。すべての人を心からいつくしみ、優しさと寛容に満ちているかどうかを、確信するはずです。また、神の子たちの外面のしるしは、ヨハネによれば、神の戒めを守ることです。神の恵みによって、このしるしが自分にあるかどうかも、あなたは自分の胸のうちで疑いなく知っています。あなたの良心は、日ごとにあなたに知らせます。神の名を口にするときは、いつも、まじめさと敬虔な思い、畏敬と神への恐れをもっているかどうかを、知らせるのです。「安息日を覚えて、これを聖と」しているかどうかも(出エジプト二〇・八)、「父と母を敬」っているかどうかも(出エジプト二〇・一二)、知らせます。人々からしてほしいと望むことを、すべての人にしているかどうかも(マタイ七・一二)、「自分のからだを清く尊く保」っているかどうかも(第一テサロニケ四・四)、知らせます。「飲むにも食べるにも」節度を守り、「すべて神の栄光のために」しているかどうかも(第一コリント一〇・三一)、知らせるのです。

(六) さて、これこそが、まさしく私たち自身の霊のあかしです。すなわち、私たちの「良心のあかし」です(第二コリント一・一二)。神が私たちに、心において聖く、外のふるまいにおいても聖くあるようにしてくださった、という良心のあかしです。それは、子たる身分を授ける霊のうちに、またその霊によって、ある気質を受けたという自覚です。神のみことばが、神の養子とされた子たちのものとして挙げている気質です。すなわち、神とすべての人とに向かう、愛に満ちた心です。その心は、子供らしい信頼をもって父なる神により頼み、神のほかには何も望まず、「思いわずらいを、いっさい神にゆだね」ます(第一ペテロ五・七)。そして、すべての人の子を、熱い、優しい情愛をもって抱くのです。それは、神の御霊によって、私たちが内側で「御子のかたちに似たもの」とされているという自覚です(ローマ八・二九)。また、私たちが神の前で、正義とあわれみと真実のうちに歩み、「みこころにかなうことを、行っている」という自覚です(第一ヨハネ三・二二)。

(七) けれども、これに加えられ、これと結び合わされている、神の御霊のあかしとは何でしょうか。御霊は、どのようにして「私たちの霊と共に、私たちが神の子であることをあかしして」くださるのでしょうか(ローマ八・一六)。「神の深み」を説明する言葉を(第一コリント二・一〇)、人間の言葉の中に見つけるのは困難です。実際、神の子たちが経験することを十分に言い表す言葉は、一つもありません。けれども、おそらく、こう言うことができるでしょう。神に教えられた人がいれば、この表現を正し、和らげ、あるいは強めてほしいと願いつつ、言うのです。御霊のあかしとは、魂の上に与えられる内的な印象です。それによって、神の御霊が私の霊に、直接にあかしされるのです。私が神の子であることを、あかしされるのです。イエス・キリストが「私を愛し、私のためにご自身をささげられた」ことを(ガラテヤ二・二〇)、あかしされるのです。また、私のすべての罪が「ぬぐい去」られ(使徒三・一九)、ほかならぬこの私が神と和解させられたことを、あかしされるのです。

(八) 神の御霊のこのあかしは、事柄の性質そのものからして、私たち自身の霊のあかしに先立つはずです。このことは、次の一つのことを考えるだけで明らかでしょう。私たちは、心において聖く、生活において聖くなければ、自分がそうであると自覚することはできません。内にも外にも聖いという、私たちの霊のあかしを持つことはできないのです。ところが、そもそも聖くなるためには、まず神を愛さなければなりません。それが、すべての聖性の根だからです。そして、神が私たちを愛しておられることを知るまでは、私たちは神を愛することができません。私たちが神を愛するのは、「神がまず私たちを愛してくださった」からです(第一ヨハネ四・一九)。また、神の御霊が私たちの霊にあかししてくださるまでは、私たちに対する神の赦しの愛を知ることはできません。ですから、神の御霊のこのあかしは、神への愛とすべての聖性とに先立たなければなりません。したがって、それらについての私たちの内的な自覚、すなわち、それらについての私たちの霊のあかしにも、先立たなければならないのです。

(九) 神の御霊が私たちの霊に、こうあかししてくださるときがきます。「神はあなたを愛し、あなたの罪のために、ご自分の御子をあがないの供え物として与えられました(第一ヨハネ四・一〇)。神の御子はあなたを愛し、その血によって、あなたを罪から洗い清められました」(黙示録一・五)。そのとき、そしてそのときに初めて、私たちは神を愛するのです。「神がまず私たちを愛してくださった」からです(第一ヨハネ四・一九)。そして、神のために、兄弟をも愛するのです。そして、私たちは、このことを自覚せずにはいられません。私たちは、「神から賜わった恵みを悟る」のです(第一コリント二・一二)。私たちは、自分が神を愛し、神の戒めを守っていることを知っています。そして、「それによって」また、私たちが「神から出たもの」であることを知るのです(第一ヨハネ三・一九、四・六)。これが、私たち自身の霊のあかしです。私たちが神を愛し、神の戒めを守り続けるかぎり、このあかしは、神の御霊のあかしと結び合わされ続けます。そして、「私たちが神の子であること」をあかしし続けるのです(ローマ八・一六)。

(一〇) 私は、私たち自身の霊のあかしからさえ、神の御霊の働きを締め出そうとしているのではありません。これについて述べてきたことを、そう受け取られては困ります。決してそうではありません。御霊は、私たちのうちに、あらゆる良いことを行われるだけではありません。ご自分のわざを照らし、ご自分が行われたことをはっきりと示してくださるのです。そのため、パウロは、私たちが御霊を受けた大きな目的の一つとして、このことを語っています。それは、「神から賜わった恵みを悟るため」なのです(第一コリント二・一二)。御霊は、私たちの単純さと神にかなう誠実さについて、私たちの「良心のあかし」を強めてくださいます(第二コリント一・一二)。そして、私たちが今、神に喜ばれることを行っていることを、もっと豊かな、もっと強い光のうちに見分けさせてくださるのです。

(一一) それでもなお、こう尋ねられるかもしれません。「神の御霊は、どのようにして、『私たちの霊と共に、私たちが神の子であることをあかし』されるのか(ローマ八・一六)。どのようにして、あらゆる疑いを締め出し、私たちが本当に神の子であることを示されるのか」。その答えは、これまでに述べてきたことから明らかです。まず第一に、私たちの霊のあかしについて考えましょう。魂は、自分が神を愛し、神を楽しみ、神を喜んでいるとき、それをじかに、はっきりと感じ取ります。地上の何かを愛し、楽しんでいるときと同じように感じ取るのです。魂は、自分が存在しているかどうかを疑えないのと同じように、自分が愛し、楽しみ、喜んでいるかどうかを疑うことはできません。ですから、次の推論が正しいとしましょう。

今、神を愛し、へりくだった喜びと、聖なる楽しみと、従順な愛とをもって、神を楽しみ、神を喜んでいる者は、神の子である。

ところが、私はこのように神を愛し、神を楽しみ、神を喜んでいる。

ゆえに、私は神の子である。それなら、クリスチャンは、自分が神の子であることを、決して疑うことはできません。前の命題については、聖書が神から出たものであることと同じほど、十分な確信を持っています。また、自分がこのように神を愛していることについては、内的な証拠を持っています。それは、自明と言うほかない証拠です。こうして、私たち自身の霊のあかしは、最も深い内なる確信をもって、私たちの心に示されます。それは、私たちが本当に神の子であることを、あらゆる理にかなった疑いを越えて示すほどなのです。

(一二) 神のあかしが、どのようにして心に示されるのか。そのしかたを、私はあえて説明しようとは思いません。このような知識はあまりに不思議で、私には思いも及びません。これは高くて達することはできません(詩篇一三九・六)。風が吹き、私はその音を聞きます。けれども、それがどのようにしてきて、どこへ行くかは知りません(ヨハネ三・八)。人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれも知りません。それと同じように、神の事柄のしかたも、神の御霊以外には、だれも知らないのです(第一コリント二・一一)。けれども、事実は知っています。神の御霊は、信者に、その人が子とされていることについて、確かにあかしを与えてくださいます。そのあかしが魂に臨んでいる間は、信者は、自分が本当に神の子であることを疑えません。日の光をいっぱいに浴びて立っている間、太陽が輝いていることを疑えないのと同じです。

【二】 思い上がりや惑わしとの見分け方

(一) 神の御霊と私たちの霊とのこの共同のあかしは、生れながらの心の思い上がりや悪魔の惑わしから、どのようにしてはっきりと確かに見分けられるのか。これが、次に考えるべきことです。神の救いを願うすべての人にとって、このことを最も深い注意をもって考えることは、きわめて大切です。自分の魂を欺きたくないなら、そうしなければなりません。この点での誤りは、一般に、最も致命的な結果をもたらすことが知られています。誤る人は、取り返しがつかなくなるまで、自分の誤りにめったに気づかないので、なおさらそうなのです。

(二) まず第一に、このあかしは、生れながらの心の思い上がりから、どのようにして見分けられるのでしょうか。確かに、一度も罪を自覚させられたことのない人は、いつでも自分にへつらいがちです。とりわけ霊的なことにおいて、「思うべき限度を越えて思いあが」りがちです(ローマ一二・三)。ですから、肉の思いによっていたずらに誇る人が(コロサイ二・一八)、まことのクリスチャンのこの特権について聞いたとします。その人が、すぐに自分はもうそれを持っていると思い込むようになっても、少しも不思議ではありません。その人は、疑いもなく、自分をまことのクリスチャンの一人に数えているのです。そのような例は、今、世にあふれています。また、いつの時代にもあふれていました。それでは、私たちの霊と共にされる御霊の本当のあかしは、この滅びを招く思い上がりから、どのようにして見分けられるのでしょうか。

(三) 私は答えます。聖書には、両者を見分けるためのしるしが、たくさんあります。聖書は、信者の霊と共にされる神の御霊の、まことの、本物のあかしについて、最も明らかなしかたで描いています。そのあかしに先立つもの、伴うもの、続くものを描いているのです。これらを注意深く量り、心にとめる人は、暗きを光とする必要はありません(イザヤ五・二〇)。その人は、これらすべての点で、御霊の本当のあかしと見せかけのあかしとの間に、大きな違いがあることを見て取るでしょう。その違いはあまりに大きいので、両者を混同する危険はありません。混同する可能性もない、と言ってよいほどです。

(四) 神の賜物を持っているとむなしく思い上がっている人も、本当に望むなら、これらのしるしによって、確かに知ることができるでしょう。自分はこれまで、「迷わす力」に引き渡され、「偽りを信じる」ままにされてきたのだ、と(第二テサロニケ二・一一)。聖書は、その賜物に先立ち、伴い、続くものとして、明らかな、わかりやすいしるしを示しているからです。少し考えれば、そのしるしが自分の魂に一度も見られなかったことを、その人は疑いの余地なく確信するでしょう。たとえば、聖書は、悔い改め、すなわち罪の自覚が、この赦しのあかしに必ず先立つものとして描いています。こう言われています。「悔い改めなさい、天国は近づきました」(マタイ三・二)。「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ一・一五)。「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために」、「バプテスマを受けなさい」(使徒二・三八)。「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい」(使徒三・一九)。これに従って、私たちの教会も、悔い改めを、赦しの前に、すなわち赦しのあかしの前に、いつも置いています。「神は、まことに悔い改め、その聖なる福音を偽りなく信じるすべての者を、赦し、その罪を解かれます」(祈祷書「朝の祈り」)。「全能の神は、心からの悔い改めとまことの信仰をもってご自分に立ち帰るすべての者に、罪の赦しを約束されました」(祈祷書「聖餐式」)。けれども、その人は、この悔い改めさえ知りません。砕けた悔いた心を、一度も知ったことがないのです(詩篇五一・一七)。その人にとって、「罪を思い出すこと」が「つらい」ことは一度もなく、「罪の重荷」が「耐えがたい」ことも一度もありませんでした(祈祷書「聖餐式」)。その言葉を唱えるとき、その人は、自分の言うことを本気で言ったことがありません。神にお世辞を言っただけなのです。先立つべき神のこのわざが欠けていることだけからでも、その人には、十分すぎるほどの理由があります。自分はただの影をつかんだだけで、神の子たちの本当の特権を、まだ一度も知ったことがないのだ、と信じるべき理由です。

(五) また、聖書は、神から生れることを、広大な、力強い変化として描いています。神から生れることは、私たちが神の子であるというあかしに先立たなければなりません。それは、「やみから光へ」の変化であり、サタンの支配から「神のみもとへ」の変化です(使徒二六・一八)。「死からいのちへ移」ることであり(第一ヨハネ三・一四)、死人からのよみがえりなのです。使徒は、エペソ人にこう書いています。神は、「自分の罪過と罪とによって死んでいた」あなたがたを、生かしてくださいました(エペソ二・一)。また、こうも書いています。神は、「罪過によって死んでいた私たちを、キリストと共に生かし」、「キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせてくださったのです」(エペソ二・五〜六)。けれども、今話している人は、このような変化について、何を知っているでしょうか。このことのすべてに、まったくうといのです。これは、その人にはわからない言葉です。その人は、自分はいつもクリスチャンだった、と言います。そのような変化が必要だったときを、一度も知らないのです。このことからも、その人は、少し考えてみさえすれば、知ることができるでしょう。自分は「霊から生れる者」ではない(ヨハネ三・六)。まだ一度も神を知ったことがない。生まれつきの声を、神の声と取り違えてきたのだ、と。

(六) けれども、その人が過去に何を経験し、何を経験しなかったかは、考えないでおきましょう。今あるしるしによって、私たちは、神の子と、思い上がった自己欺瞞者とを、たやすく見分けることができます。聖書は、主の御霊のあかしに伴う、主にある喜びを、へりくだった喜びとして描いています。それは、人をちりにまで低くする喜びです。赦された罪人に、こう叫ばせる喜びです。「私はまことに卑しい者です(ヨブ四〇・四)。私は何者なのでしょう。私の父の一族は何者なのでしょう(第一サムエル一八・一八)。今は私の目であなたを拝見いたします。それで私はみずから恨み、ちり灰の中で悔います」(ヨブ四二・五〜六)。そして、へりくだりのあるところには、どこにでも、柔和、忍耐、慈愛、寛容があります。そこには、柔らかな、従順な霊があります。言葉では言い表せない、穏やかさと優しさ、魂の柔らかさがあるのです。けれども、思い上がった人が持っていると思っている御霊のあかしに、これらの実が伴っているでしょうか。まったく逆です。その人は、神の恵みに確信を持てば持つほど、高ぶります。ますます自分を高くし、ふるまいのすべてが、ますます傲慢で、思い上がったものになります。自分が強いあかしを持っていると思えば思うほど、周りのすべての人に対して横柄になります。どんな忠告も、ますます受けいれられなくなり、反対されることに、ますます我慢できなくなるのです。もっと柔和で、優しく、教えを受けやすくなるのではありません。もっと「聞くに早く、語るにおそく」なるのでもありません(ヤコブ一・一九)。かえって、ますます聞くにおそく、語るに早くなります。だれからも、ますます学ぼうとしなくなります。気質はますます激しく荒々しくなり、ふるまいはますますせっかちになるのです。そうです、ときには、その人の様子にも、話し方にも、物腰のすべてにも、一種の荒々しさが現れるかもしれません。まるで、事を神の御手から取り上げて、自分で「逆らう者たちを焼きつくす」つもりであるかのようです(ヘブル一〇・二七)。

(七) もう一つあります。聖書は教えています。「神を愛するとは」、すなわち神を愛していることの確かなしるしとは、「その戒めを守ること」です(第一ヨハネ五・三)。また、主ご自身もこう言われます。「わたしのいましめを」、「守る者は、わたしを愛する者です」(ヨハネ一四・二一)。愛は、喜んで従います。愛する方に喜ばれることなら、どんな点でも、喜んで行います。神を本当に愛する人は、神のみこころを、「天に行われるとおり、地にも」行おうと急ぎます(マタイ六・一〇)。けれども、神を愛していると称する、思い上がった人の特徴は、これでしょうか。いいえ、その人の愛は、神の戒めに従わない自由を、守るのではなく破る自由を、その人に与えるのです。その人も、神の怒りを恐れていたころは、神のみこころを行おうと骨折ったかもしれません。けれども今は、自分は「律法の下にあるのではな」いと考えて(ローマ六・一四)、もう律法を守る義務はないと思っています。そのため、以前ほど「良いわざに熱心」ではありません(テトス二・一四)。悪を避けることにも、自分の心を見張ることにも、自分の舌に用心することにも、以前ほど気を配りません。「自分を捨て、日々自分の十字架を負」うことにも(ルカ九・二三)、以前ほど熱心ではありません。一言で言えば、自分は自由だと思い込んでから、その人の生活の形全体が変わってしまったのです。その人は、もはや「信心のために自分を訓練」することはありません(第一テモテ四・七)。「血肉」とだけでなく、「もろもろの支配と、権威と」格闘することもありません(エペソ六・一二)。苦難を耐え忍ぶことも、苦闘して「狭い戸口からはいるように努め」ることも(ルカ一三・二四)、もうしないのです。いいえ、その人は、天国へのもっと楽な道を見つけたのです。広い、平らな、花の咲く小道です。その道で、その人は自分の魂にこう言うことができます。「たましいよ」、「さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ」(ルカ一二・一九)。ここから、否定できない明らかさで、次のことが帰結します。その人は、自分自身の霊のまことのあかしを持っていないのです。自分の持っていないしるしを、持っていると自覚することはできません。あのへりくだり、柔和、従順を持っていないのです。また、真理の神の御霊が、偽りをあかしされることはありません。明らかに「悪魔の子」である者を、神の子だとあかしされることはないのです(第一ヨハネ三・一〇)。

(八) あわれな自己欺瞞者よ、自分の正体を見なさい! 自分は神の子だと確信しているあなたよ。「自分のうちにこのあかしを持っている」と言い(第一ヨハネ五・一〇)、そのためにすべての敵をあなどっているあなたよ。あなたは、「はかりで量られて、その量の足りないことがあらわれ」ました(ダニエル五・二七)。それも、聖所のはかりで量られたのです。主の言葉があなたの魂を試し、あなたが「捨てられた銀」であることを明らかにしました(エレミヤ六・三〇)。あなたは、心がへりくだっていません。ですから、今日に至るまで、イエスの御霊を受けていないのです。あなたは、優しくも柔和でもありません。ですから、あなたの喜びには何の価値もありません。それは、主にある喜びではないのです。あなたは、主の戒めを守っていません。ですから、主を愛していないのです。また、「聖霊にあずかる者」でもありません(ヘブル六・四)。したがって、神の言葉が示しうるかぎり確かに、明らかに、次のことが言えます。神の御霊は、あなたの霊と共に、あなたが神の子であることをあかししてはおられません。ああ、神に叫び求めなさい。あなたの目から「うろこのようなものが落ち」るように(使徒九・一八)。あなたが知られているとおりに、あなた自身を知るように(第一コリント一三・一二)。自分のうちに死の宣告を受けるように。そして、死人を生かす声を聞くまで、叫び求めなさい。その声は、こう言うのです。「しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのです(マタイ九・二)。あなたの信仰があなたを救ったのです」(マタイ九・二二)。

(九) 「けれども、本当のあかしを自分のうちに持っている人は、どのようにして、それを思い上がりと見分けることができるのか」。では、お尋ねしますが、あなたは、昼と夜とをどのようにして見分けるのですか。光と闇とを、また、星の光やちらちらするろうそくの光と、真昼の太陽の光とを、どのようにして見分けるのですか。両者の間には、それ自体に備わった、明らかな、本質的な違いがあるのではありませんか。そして、あなたの感覚が正しく整っていれば、その違いを、すぐに直接感じ取るのではありませんか。同じように、霊的な光と霊的な闇との間には、それ自体に備わった、本質的な違いがあります。義の太陽が私たちの心を照らす光と(マラキ四・二)、自分でおこした火花から生じるだけの、あのちらちらする光との間にも(イザヤ五〇・一一)、本質的な違いがあるのです。そして、この違いもまた、私たちの霊の感覚が正しく整っていれば、すぐに直接感じ取られるのです。

(一〇) 私たちがこれらを見分けるしかたについて、もっと細かな、哲学的な説明を求める人がいます。神の声を知る基準、すなわち内在的なしるしについて、説明を求めるのです。けれども、それは決して答えられることのない要求です。神を最も深く知っている人でさえ、答えられないのです。パウロがアグリッパの前で弁明したとき(使徒二六章)、あの賢いローマ人が、こう言ったとしましょう。「あなたは、神の御子の声を聞いたと言う。どうして、それが御子の声だとわかるのか。どんな基準、どんな内在的なしるしによって、神の声を知るのか。この声を、人の声や御使の声と見分けるしかたを、説明してみよ」。使徒自身が、そのようなくだらない要求に、一度でも答えようとしたと思えるでしょうか。それでも、疑いもなく、使徒はその声を聞いた瞬間に、それが神の声であることを知ったのです。けれども、どのようにしてそれを知ったのかを、だれが説明できるでしょうか。おそらく、人にも御使にもできないでしょう。

(一一) もっと身近な話をしましょう。いま神が、ある魂に、「あなたの罪はゆるされたのです」と語られるとしましょう(ルカ七・四八)。神は、その魂がご自分の声を知ることを望んでおられるはずです。そうでなければ、むだに語られることになります。そして、神は、これを成し遂げることがおできになります。神が望まれるときには、いつでも、それを行う力が神にあるからです。そして、実際に成し遂げられます。その魂は、「この声は神の声だ」と、まったく確信するのです。けれども、自分のうちにそのあかしを持っている人も、それを持っていない人に説明することはできません。また、説明できると期待すべきでもありません。経験のない人々に神の事柄を証明する自然の手段や、説明する自然の方法があるとしましょう。それなら、生れながらの人も、神の御霊の事柄を見分け、知ることができるでしょう。けれども、それは使徒の主張にまったく反します。使徒は、「御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」と言っているのです(第一コリント二・一四)。御霊によって、すなわち霊の感覚によって判断されるべきなのですが、生れながらの人は、その感覚を持っていません。

(一二) 「けれども、自分の霊の感覚が正しく整っていることを、私はどのようにして知るのか」。これもまた、きわめて大切な問いです。人がこの点で誤るなら、果てしない誤りと惑わしの中を走り続けることになりかねないからです。「では、私がそうなっていないこと、御霊の声を取り違えていないことを、どのようにして確信できるのか」。それは、あなた自身の霊のあかしによってです。神に対する正しい良心の応答によってです(第一ペテロ三・二一)。御霊があなたの霊のうちに結ばせた実によって、あなたは神の御霊のあかしを知るでしょう。それによって、あなたは、自分が惑わされていないこと、自分の魂を欺いていないことを知るでしょう。心を支配する御霊の直接の実は、愛、喜び、平和、あわれみの心、謙そん、柔和、慈愛、寛容です(ガラテヤ五・二二〜二三、コロサイ三・一二)。そして、外に現れる実は、だれに対しても善を行うこと(ガラテヤ六・一〇)、だれにも悪を行わないこと、光の中を歩くことです(第一ヨハネ一・七)。すなわち、神のすべての戒めに、熱心に、一貫して従うことです。

(一三) 同じ実によって、あなたは、神のこの声を、悪魔のどんな惑わしからも見分けるでしょう。あの高ぶった霊は、あなたを神の前にへりくだらせることはできません。悪魔は、あなたの心を柔らかくすることはできませんし、しようともしません。あなたの心を溶かして、まず神を慕う切なる嘆きに、次に子としての愛に変えることも、できませんし、しようともしません。あなたが隣り人を愛せるようにするのは、神と人との敵ではありません。あなたが柔和、慈愛、忍耐、節制を身に着け(コロサイ三・一二)、神の武具で身を固められるようにするのも(エペソ六・一一)、神と人との敵ではないのです。悪魔は、内部で対立し分争することはありません(マルコ三・二六)。自分のわざである罪を滅ぼす者でもありません。いいえ、「悪魔のわざを滅ぼ」すために来られるのは、神の御子だけです(第一ヨハネ三・八)。ですから、聖性は神から出たものであり、罪は悪魔のわざです。それと同じほど確かに、あなたのうちにあるあかしは、サタンからではなく、神から出たものです。

(一四) ですから、あなたはこう言ってよいのです。「言いつくせない賜物のゆえに、神に感謝します(第二コリント九・一五)。私に、自分の信じてきたかたを知らせてくださる神に、感謝します(第二テモテ一・一二)。神は、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を、私の心の中に送ってくださいました(ガラテヤ四・六)。その御霊は今も、私の霊と共に、私が神の子であることをあかししてくださるのです!」(ローマ八・一六)。そして、あなたの口だけでなく、あなたの生活も、神の誉をあらわすようにしなさい。神は、あなたに証印をおし(第二コリント一・二二)、ご自分のものとされました。ですから、神のものであるあなたのからだと霊とをもって、「神の栄光をあらわしなさい」(第一コリント六・二〇)。愛する者よ、あなたが「この望みをいだいている」なら、「彼がきよくあられるように、自らをきよく」しなさい(第一ヨハネ三・三)。あなたが「神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか」を見つめなさい(第一ヨハネ三・一)。そうしつつ、「肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清く」なりなさい(第二コリント七・一)。そして、あなたの思いも言葉も行いも、すべてを、聖なる、霊のいけにえとしなさい。「イエス・キリストにより、神によろこばれる」いけにえとしなさい(第一ペテロ二・五、ローマ一二・一)。