説教九 奴隷の霊と子たる身分を授ける霊
「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのです。その霊によって、私たちは『アバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ八・一五)
(一) パウロはここで、信仰によって神の子となった人々に語っています。パウロは言います。まことに神の子であり、神の御霊を飲んだあなたがたは(第一コリント一二・一三)、「再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのでは」ありません。「あなたがたは子であるのだから、神は」あなたがたの「心の中に」、「御子の霊を送って」くださったのです(ガラテヤ四・六)。あなたがたは、「子たる身分を授ける霊を受けた」のです。「その霊によって、私たちは『アバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ八・一五)。
(二) 奴隷と恐れの霊は、この愛に満ちた、子たる身分を授ける霊から、遠くかけ離れています。奴隷的な恐れだけに動かされている人々は、「神の子」と呼ぶことはできません。けれども、そのうちのある人々は、神の僕と呼ばれてよいでしょう。その人々は、天国から「遠くない」のです(マルコ一二・三四)。
(三) けれども、残念ながら、人類の大部分は、ここにさえ達していないようです。いや、キリスト教世界と呼ばれているものの大部分でさえ、そうなのです。彼らは、まだ遠く離れています。その思いのどこにも、神がいないのです(詩篇一〇・四)。神を愛する人々は、わずかに見いだされるでしょう。神を恐れる人々は、それよりいくらか多くいます。けれども、大部分の人々は、「目の前には、神に対する恐れがな」く(ローマ三・一八)、心のうちに神への愛もありません。
(四) あなたがたの多くは、神のあわれみによって、今はもっと良い霊にあずかっています。そのあなたがたも、かつては彼らと同じであり、同じように罪に定められていました。そのときを、おそらく覚えているでしょう。けれども、初めはそれを知りませんでした。日ごとに罪の中に、「血の中にころがりまわって」いたのにです(エゼキエル一六・六)。やがて、ときが来て、あなたがたは恐れの霊を受けました。受けたと言うのは、これもまた神の賜物だからです。そののち、恐れは消えうせ、愛の霊があなたがたの心を満たしたのです。
(五) 第一の心の状態にある人、すなわち恐れも愛もない人は、聖書では「生れながらの人」と呼ばれています(第一コリント二・一四)。奴隷と恐れの霊の下にある人は、ときに「律法の下にある」と言われます(ローマ六・一四)。もっとも、この表現は、ユダヤ教の制度の下にある人を指すことのほうが多いのです。あるいは、ユダヤの律法のすべての儀式と祭儀を守る義務があると、自分で考えている人を指します。けれども、恐れの霊を愛の霊に取りかえた人は、まさに「恵みの下にある」と言われるのです。
さて、私たちがどのような霊に属しているかを知ることは、きわめて大切です。そこで私は、次のことをはっきりと示したいと思います。第一に、「生れながらの人」の状態。第二に、「律法の下にある」人の状態。第三に、「恵みの下にある」人の状態です。
【一】 生れながらの人の状態
(一) まず第一に、生れながらの人の状態です。聖書は、これを眠りの状態として描いています。そのような人に向かう神の声は、「眠っている者よ、起きなさい」です(エペソ五・一四)。その人の魂は、深い眠りの中にあるからです。霊の感覚は目覚めておらず、霊的な善も悪も見分けません。その「心の目」は閉じています(エペソ一・一八)。固く封じられて、見ることがありません。「雲と暗やみ」が、絶えずその目をおおっています(詩篇九七・二)。その人は、「死の陰の谷」に横たわっているからです(詩篇二三・四)。ですから、その人には、霊的なことを知るための入り口がありません。魂の通り道は、すべてふさがれています。そのため、自分にとって最も大切なことについて、ひどく愚かな無知の中にあるのです。その人は、神についてまったく無知です。神について、「知らなければならないほどの事」を何も知りません(第一コリント八・二)。神の律法にも、まったくうとい者です。律法の本当の、内的な、霊的な意味を知らないのです。あの福音的な聖性についても、思いも及びません。それなしには「だれも主を見ることはできない」聖性です(ヘブル一二・一四)。また、自分の「いのちは、キリストと共に神のうちに隠されている」人々だけが見いだす幸いについても(コロサイ三・三)、思いも及びません。
(二) まさにそのために、すなわち、ぐっすり眠っているために、その人は、ある意味で安らかです。目が見えないので、安心してもいます。その人は、「ふん、私はわざわいにあうことがない」と言います(詩篇一〇・六)。四方からその人をおおう闇が、その人を一種の平安のうちに保っているのです。もっとも、平安が「悪魔のわざ」と(第一ヨハネ三・八)、また「地につく」「悪魔的な」思いと(ヤコブ三・一五)、両立できるかぎりでの平安です。自分が穴のふちに立っていることが見えないので、それを恐れません。知らない危険におののくことはできません。恐れるだけの悟りがないのです。なぜ、その人は神を少しも恐れないのでしょうか。神をまったく知らないからです。その人は、心のうちで「神はない」と言わないかもしれません(詩篇一四・一)。あるいは、神は天の円の上に座していて、地で行われることを見おろそうとはしない、と言わないかもしれません。それでも、「神はあわれみ深い」と言って、同じように満足しています。実質においては、エピクロス派と何も変わらないのです。あわれみという、大ざっぱな考えの中に、すべてを一度にのみ込ませてしまうのです。神の聖さも、罪への本質的な憎しみも、神の正義も、知恵も、真実も、ごちゃまぜにのみ込ませてしまうのです。ほむべき神の律法に従わない者に宣告された報復も、少しも恐れません。律法を理解していないからです。その人は、大切なのは、こうすること、すなわち外面で非の打ちどころがないことだと思い込んでいます。律法が、心のあらゆる気質、願い、思い、動きにまで及ぶことが見えないのです。あるいは、律法を守る義務はもうなくなったと思っています。キリストが「律法や預言者を廃するために」来たと思っています(マタイ五・一七)。「おのれの民を」罪「から」ではなく、罪の中にいるままで「救う」ために来た、と思っているのです(マタイ一・二一)。聖性なしに天国へ連れて行くために来た、と思っているのです。キリストご自身が、こう言われたにもかかわらずです。「律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのです」(マタイ五・一八)。また、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのです」(マタイ七・二一)。
(三) その人が安心しているのは、自分自身についてまったく無知だからです。そのため、「そのうち悔い改める」と言います。いつなのかは、はっきりわかりません。けれども、死ぬまでのいつかには、と言うのです。それがまったく自分の力の内にあると、決めてかかっているのです。「その気になれば、何がそれを妨げるだろうか。一度決心しさえすれば、必ずやり遂げられるのだ!」というわけです。
(四) けれども、この無知が最もはなはだしく目立つのは、学者と呼ばれる人々においてです。生れながらの人が学者であるなら、自分の理性の能力について、意志の自由について、長々と論じることができます。人を道徳的な主体とするには、そのような自由が絶対に必要だ、と論じることができるのです。その人は本を読み、議論し、論証してみせます。人はだれでも、自分の望むとおりにすることができる。自分の目に最も良いと思うとおりに、自分の心を悪にも善にも向けることができる、と。こうして、「この世の神」は、その人の心に、盲目のおおいを二重にかけます。「キリストの栄光の福音の輝き」が、決してその心を照らすことのないようにするためです(第二コリント四・四)。
(五) 自分と神とについての同じ無知から、生れながらの人のうちに、ときには一種の喜びが生じることもあります。自分の知恵と善良さを、自分で祝うという喜びです。また、世が喜びと呼ぶものを、その人はしばしば持っているかもしれません。さまざまな種類の快楽を持つこともあるでしょう。「肉の欲」、「目の欲」、「持ち物の誇」を満たす快楽です(第一ヨハネ二・一六)。とりわけ、多くの財産を持ち、豊かな富を楽しんでいるなら、「紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮」すこともできます(ルカ一六・一九)。そして、このように「みずから幸な時に」は、疑いもなく、人々はその人をほめるでしょう(詩篇四九・一八)。「あの人は幸いな人だ」と言うでしょう。実際、この世の幸いの中身は、これに尽きるからです。着飾り、訪ね合い、おしゃべりをし、食べ、飲み、「立って戯れ」ることです(出エジプト三二・六)。
(六) このような境遇にある人は、へつらいと罪という麻薬を飲まされています。その人が、ほかの白昼夢と並んで、自分は大きな自由のうちに歩んでいると思い込んだとしても、驚くにはあたりません。その人は、なんとたやすく思い込むことでしょう。自分は、あらゆる俗な誤りからも、教育による偏見からも自由だ。自分の判断はまったく正しく、あらゆる極端から離れている、と。その人はこう言うかもしれません。「私は、弱く狭い魂の持つあらゆる熱狂から自由だ。迷信からも自由だ。迷信は、いつも『義に過ぎ』る愚か者や臆病者の病だ(伝道七・一六)。偏狭からも自由だ。偏狭は、自由で寛大な考え方を持たない人々に、いつもつきまとうものだ」。そして、悲しいことに、その人がまったく自由であるのは確かなのです。「上からの知恵」からも(ヤコブ三・一七)、聖性からも、心の宗教からも自由です。キリストのうちにあった思いのすべてから、すっかり自由なのです。
(七) その間ずっと、その人は「罪の奴隷」だからです(ヨハネ八・三四)。日ごとに、多かれ少なかれ罪を犯しています。それでも、心を悩ませません。ある人々の言い方を借りれば、「奴隷になったことなどは、一度もない」のです(ヨハネ八・三三)。罪に定められているとも感じません。その人は、こう言って満足しています(キリスト教の啓示が神から出たものだと信じている、と公言していてもです)。「人間はもろいものだ。私たちはみな弱い。人にはだれでも弱さがある」。もしかすると、聖書を引用するかもしれません。「だって、ソロモンも言っているではないか。『正しい人は、日に七たび罪に倒れる』と(箴言二四・一六)。隣り人よりも良い者であるかのように装う人々は、疑いもなく、みな偽善者か熱狂者だ」。いつか、まじめな思いが心にとどまることがあっても、その人はそれをできるだけ早く押し殺します。「神はあわれみ深く、キリストは罪人のために死んでくださったのだから、なぜ恐れることがあるだろうか」と言うのです。こうして、その人は、自ら進んで罪の奴隷のままでいます。「滅びのなわめ」に甘んじ(ローマ八・二一)、内にも外にも汚れたまま、それで満足しているのです。罪に打ち勝たないだけでなく、打ち勝とうと努めもしません。とりわけ、自分に「からみつく罪」に打ち勝とうとしないのです(ヘブル一二・一)。
(八) これが、すべての生れながらの人の状態です。その人が、ひどい、恥ずべき違反者であっても、もっと評判の良い、品のある罪人であっても、同じです。後者は、敬虔の形は持っていても、その力は持っていません(第二テモテ三・五)。けれども、そのような人は、どのようにして罪を自覚させられるのでしょうか。どのようにして悔い改めに導かれるのでしょうか。どのようにして律法の下に置かれ、恐れをいだかせる奴隷の霊を受けるのでしょうか。これが、次に考えるべき点です。
【二】 律法の下にある人の状態
(一) 神は、「暗黒と死の陰と」の中に眠っていた人の心に触れられます(ルカ一・七九)。何か恐るべき摂理によって触れられることもあります。また、みことばによって触れられることもあります。そのみことばは、御霊の証明を伴って当てはめられるのです(第一コリント二・四)。その人は、恐ろしく揺り動かされて眠りから覚め、自分の危険に気づきます。一瞬のうちにかもしれませんし、少しずつかもしれませんが、その人の心の目が開かれます。そして今初めて、おおいが一部取り除かれて(第二コリント三・一六)、自分が置かれている本当の状態を見分けるのです。恐ろしい光が、その人の魂に差し込みます。それは、「底知れぬ所」から(黙示録二〇・一)、最も深い淵から、「硫黄の燃えている火の池」から(黙示録一九・二〇)、ほのかに照り出ると思えるような光です。その人はついに、愛に満ちた、あわれみ深い神が、「焼きつくす火」でもあることを見ます(ヘブル一二・二九)。神は正しい、恐るべき神であることを見ます。「おのおのに、そのわざにしたがって報いられる」神です(ローマ二・六)。不信心な者を、あらゆる「無益な言葉」について(マタイ一二・三六)、いや、「心に思いはかること」についてさえ(創世六・五)、さばかれる神です。その人は今、はっきりと悟ります。大いなる聖なる神は、「目が清く、悪を見られない」方です(ハバクク一・一三)。神は、ご自分に逆らうすべての者に報復する方であり、悪しき者に面と向かって報いる方です。そして、「生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいこと」なのです(ヘブル一〇・三一)。
(二) 今、神の律法の内的な、霊的な意味が、その人にぎらぎらと照りつけ始めます。その人は、「戒めは限りなく広い」ことを悟ります(詩篇一一九・九六)。その光から隠れるものは何もないことを悟るのです(詩篇一九・六)。その人は確信します。律法のどの部分も、ただ外面の罪や従順にかかわるだけではない。魂のひそかな奥底で起こることにもかかわる。その奥底は、神の目のほかにはだれの目も見通すことができない、と。今、その人が「あなたは殺してはならない」と聞けば(出エジプト二〇・一三)、神は雷のように語られます。「兄弟を憎む者は人殺しです」(第一ヨハネ三・一五)。兄弟にむかって「ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれる」のです(マタイ五・二二)。律法が「あなたは姦淫してはならない」と言えば(出エジプト二〇・一四)、主の声がその人の耳に響きます。「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのです」(マタイ五・二八)。こうして、その人は、あらゆる点で、「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭」いことを感じます。みことばは、その人の「精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとお」すのです(ヘブル四・一二)。自分が「こんなに尊い救をなおざりにして」きたことを(ヘブル二・三)、自覚しているので、なおさらそう感じます。また、自分が「神の子を踏みつけ」てきたことを、自覚しているからです。神の子は、その人を罪から救おうとしてくださったのにです。そして、「契約の血を汚れたもの」とし、ありふれた、きよめる力のないものと見なしてきたことを、自覚しているからです(ヘブル一〇・二九)。
(三) その人は、「すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされている」ことを知っています。「この神に対して、私たちは言い開きをしなくてはならない」のです(ヘブル四・一三)。そのように、自分自身も裸であることを見ます。自分が「つづり合わせ」た「いちじくの葉」を(創世三・七)、すべてはぎ取られています。宗教や徳を装うみすぼらしい見せかけも、神に罪を犯したことへのみじめな言い訳も、すべてはぎ取られているのです。今、その人は、自分を昔のいけにえのように見ます。いわば首から下まで切り裂かれ、内側のすべてがさらけ出されているのです。その人の心はむき出しになり、それがすべて罪であることを見ます。心は「よろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」のです(エレミヤ一七・九)。心は、舌では言い表せないほど、まったく腐敗し、忌まわしいものです。そこには「善なるものが宿っていない」こと(ローマ七・一八)、ただ不義と不信心だけがあることを見ます。心のあらゆる動き、あらゆる気質と思いが、「いつも悪い事ばかり」なのです(創世六・五)。
(四) その人は、ただ見るだけではありません。言い表せない魂の動きによって、自分のうちに感じるのです。自分は、心の罪のためだけでも、「消えない火」の中に投げ込まれて当然だ(マルコ九・四三)。たとえ生活に責められるところがなかったとしても、そうだ、と。もっとも、その生活に責められるところがないことはなく、ありえません。「悪い木が良い実をならせることはできない」からです(マタイ七・一八)。その人は感じます。「罪の支払う報酬は」、すなわち罪の正当な報いは、何よりも自分の罪の報いは、「死である」と(ローマ六・二三)。それは「第二の死」(黙示録二〇・一四)、死ぬことのない死、「からだも魂も地獄で滅ぼ」されることです(マタイ一〇・二八)。
(五) ここで、その人の心地よい夢は終わります。惑わしの安らぎも、偽りの平安も、むなしい安心も終わります。その喜びは今、「雲のように消えうせ」ます(ヨブ三〇・一五)。かつて愛した快楽も、もはや楽しませてはくれません。快楽は味がしなくなります。その人は、吐き気を催させる甘さを忌みきらいます。快楽を「負うのに疲れ」るのです(イザヤ一・一四)。幸いの影は逃げ去り、忘却の中に沈みます。こうして、その人はすべてをはぎ取られ、「休み場を求めて」あちこちとさまよいますが、「見つからない」のです(マタイ一二・四三)。
(六) あの麻薬の煙が今は消え去り、その人は、痛む心の苦しみを感じます。魂の上に解き放たれた罪は、完全な悲惨であることを知ります。それが高ぶりでも、怒りでも、悪い願いでも、我意でも、悪意でも、ねたみでも、復讐心でも、そのほかの何であってもです。その人は、失った祝福と、身に降りかかったのろいのために、心の悲しみを感じます。このように自分を滅ぼし、自分に与えられたあわれみを侮ったことへの、悔恨を感じます。恐れも感じます。神の怒りと、その怒りがもたらすものとを、生々しく感じるからです。自分が受けて当然の罰、頭上にかかっているのが見える罰を、生々しく感じるからです。死への恐れを感じます。死は、その人にとって地獄の門、永遠の死への入り口だからです。悪魔への恐れを感じます。悪魔は、神の怒りと正しい報復とを執行する者だからです。人への恐れを感じます。人々がその人のからだを殺すことができれば、それによって、からだも魂も地獄に突き落とすことになるからです。恐れは、ときにはきわめて高まります。そのため、あわれな、罪深い、罪責を負った魂は、何にでも、何でもないものにも、影にも、「木の葉の動く」のにも、おびえるのです(レビ二六・三六)。そうです、ときには狂気と紙一重にさえなるかもしれません。人を「酒にではなく酔っている」者にし(イザヤ五一・二一)、記憶や悟りや、あらゆる生まれつきの能力の働きを止めてしまうのです。ときには、絶望のまさに瀬戸際にまで近づくかもしれません。そのため、死という名前にさえおののく人が、それでも、いつでも死に飛び込もうとするかもしれません。いのちよりもむしろ「息の止まること」を選ぼうとするのです(ヨブ七・一五)。このような人が、昔のあの人のように、「心の激しい騒ぎによってうめき叫」ぶのも無理はありません(詩篇三八・八)。こう叫ぶのも無理はありません。「人の心は病苦をも忍ぶ、しかし心の痛むときは、だれがそれに耐えましょうか」(箴言一八・一四)。
(七) 今、その人は、本当に罪から抜け出したいと願い、罪と格闘し始めます。けれども、力のかぎり努めても、打ち勝つことができません。罪のほうが、その人よりも強いのです。その人は、なんとかして逃れたいと思います。けれども、固く「閉じこめられて、のがれることはできません」(詩篇八八・八)。罪を犯すまいと決心しても、なお罪を犯し続けます。わなを見て、それを忌みきらいながら、その中に駆け込むのです。その人の誇る理性は、この程度にしか役に立ちません。ただ罪責を重くし、悲惨を増すだけなのです。これが、その人の意志の自由です。悪に対してだけ自由なのです。「不義を水のように飲む」自由(ヨブ一五・一六)、生ける神からますます遠くさまよう自由、ますます「恵みの御霊を侮る」自由なのです(ヘブル一〇・二九)。
(八) 自由になろうと努め、願い、骨折れば骨折るほど、その人は自分の鎖を感じます。罪の重い鎖です。サタンはそれでその人を縛り、「その欲するままに」とりこにして引いて行くのです(第二テモテ二・二六)。どれほど不平を言っても、その人はサタンの僕です。逆らっても、勝つことはできません。その人は、罪のために、なお奴隷の状態と恐れの中にあります。たいていは、何か外面の罪のためです。生まれつきか、習慣か、外の事情によって、特に陥りやすい罪のためです。けれども、いつも必ず、何か内なる罪のためです。何か悪い気質や、汚れた情愛のためです。その罪にいらだてばいらだつほど、罪はますます勢いを増します。鎖にかみつくことはできても、断ち切ることはできません。こうして、その人は果てしなく苦闘します。悔い改めては罪を犯し、また悔い改めては罪を犯します。ついには、このあわれな、罪深い、無力な者は、「途方にくれ」(詩篇一〇七・二七)、ただうめくことしかできなくなります。「私は、なんというみじめな人間なのでしょう。だれが、この死のからだから、私を救ってくれるでしょうか」(ローマ七・二四)。
(九) 「律法の下にある」人、恐れと奴隷の霊の下にある人の、この格闘の全体を、使徒は前の章で見事に描いています。目覚めた人の身になって語っているのです。使徒は言います。「私はかつては、律法なしに生きていました」(ローマ七・九)。私には、多くのいのちと知恵と力と徳がありました。そう思っていたのです。「戒めが来るに及んで、罪は生き返り、私は死にました」(ローマ七・九〜一〇)。戒めが、その霊的な意味において、神の力をもって私の心に来ました。そのとき、私の生まれながらの罪はかき立てられ、いらだち、燃え上がりました。そして、私の徳はすべて死に絶えたのです。「そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえって私を死に導いて行くことがわかりました。なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、私を欺き、戒めによって私を殺したからです」(ローマ七・一〇〜一一)。戒めは、思いがけず私に臨み、私の望みをすべて殺しました。そして、生のさなかにあって私は死のうちにあったことを、はっきりと示したのです。「このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものです」(ローマ七・一二)。私はもはや、律法を責めません。自分自身の心の腐敗を責めるのです。私は、「律法は霊的なものである」と認めます。「しかし、私は肉につける者であって、罪の下に売られているのです」(ローマ七・一四)。私は今、律法の霊的な性質を見ます。そして、肉につける、悪魔的な自分の心が、「罪の下に売られ」、まったく奴隷にされているのを見ます。金で買われ、まったく主人の意のままにされた奴隷のようにです。「私は自分のしていることが、わかりません。なぜなら、私は自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからです」(ローマ七・一五)。これが、私のうめいている奴隷の状態です。これが、私の厳しい主人の暴虐です。「善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がありません。すなわち、私の欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っているのです」(ローマ七・一八〜一九)。私は、「善をしようと欲している私に、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見ます」。この法則とは、内側から強いる力のことです。「すなわち、私は、内なる人としては神の律法を喜んでいる」のです(ローマ七・二一〜二二)。喜んでいるとは、同意しているということです。内なる人とは、私の「心」のことです(ローマ七・二三)。使徒は、すぐあとに続く言葉で、自分でそう説明しています。また、ホ・エソー・アントローポス(ὁ ἔσω ἄνθρωπος)、すなわち内なる人という言葉は、ほかのギリシャ語の著作家たちもみな、そう理解しています。「私の肢体には別の律法があって」、すなわち別の強いる力があって、「私の心の法則に対して戦いをいどみ」ます。心とは、内なる人のことです。「そして、肢体に存在する罪の法則」、すなわち罪の力「の中に、私をとりこにしているのを見ます」(ローマ七・二三)。いわば、私を征服者の戦車の車輪につないで引きずり、私の魂が忌みきらうことそのものの中へ連れて行くのです。「私は、なんというみじめな人間なのでしょう。だれが、この死のからだから、私を救ってくれるでしょうか」(ローマ七・二四)。だれが、この無力な、死につつある生から、罪と悲惨の奴隷の状態から、私を救ってくれるでしょうか。このことがなされるまでは、「私自身は、心では神の律法に仕えている」のです。「私自身」とは、むしろ「あの私」、アウトス・エゴー(αὐτὸς ἐγώ)、すなわち、私が今その身になって語っているあの人のことです。「心」とは、内なる人のことです。私の心、私の良心は、神の側にあります。「肉では」、すなわちからだでは、「罪の律法に仕えている」のです(ローマ七・二五)。逆らうことのできない力に押し流されているのです。
(一〇) これは、「律法の下にある」人の、なんと生き生きとした肖像でしょうか。振り払うことのできない重荷を感じている人の肖像です。自由と力と愛とを慕いあえぎながら、なお恐れと奴隷の状態の中にいる人の肖像です! そのみじめな人は、「だれが」、この罪の奴隷の状態から、「この死のからだから、私を救ってくれるでしょうか」と叫びます(ローマ七・二四)。神がその人に、あなたの主イエス・キリストによる神の恵みが救う、と答えてくださるときまで、そうなのです。
【三】 恵みの下にある人の状態
(一) そのとき、このみじめな奴隷の状態は終わります。その人は、もはや「律法の下にあるのではなく、恵みの下にある」のです(ローマ六・一四)。第三に、この状態を考えなければなりません。それは、神の前に、すなわち父なる神の前に、「恵みを得た」人の状態です(創世六・八)。また、聖霊の恵み、すなわち聖霊の力が、心のうちに支配している人の状態です。使徒の言葉で言えば、「子たる身分を授ける霊を受け」、「その霊によって」今、「アバ、父よ」と呼ぶ人の状態です(ローマ八・一五)。
(二) その人は「その悩みのうちに主に呼ばわったので、主は」その人を「その悩みから助け出し」ます(詩篇一〇七・六)。その人の目は、以前とはまったく違うしかたで開かれます。愛に満ちた、恵み深い神を見るために開かれるのです。その人が、「どうぞ、あなたの栄光を私にお示しください」と呼び求めていると(出エジプト三三・一八)、魂の奥底で声を聞きます。「わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべましょう。わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれみます」(出エジプト三三・一九)。まもなく、「主は雲の中にあって下り」、「主の名を宣べられ」ます(出エジプト三四・五)。そのとき、その人は見ます。肉と血の目によってではありませんが、見るのです。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者」を見るのです(出エジプト三四・六〜七)。
(三) 今、天の、いやしの光が、その人の魂に差し込みます。その人は、「その刺した者を見」ます(ゼカリヤ一二・一〇)。そして、「『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神」が、その人の「心を照して」くださいます(第二コリント四・六)。その人は、イエス・キリストの御顔に輝く、神の栄光ある愛の光を見ます。その人は、感覚では「まだ見ていない事実」について(ヘブル一一・一)、神からの確証を持っています。「神の深み」についての確証です(第一コリント二・一〇)。とりわけ、神の愛についての確証です。イエスを信じる者を赦してくださる、神の愛についての確証です。その光景に圧倒されて、その人の魂全体が叫びます。「わが主よ、わが神よ」(ヨハネ二〇・二八)。その人は、自分のすべての不義が、あの方の上に「おかれた」のを見るからです(イザヤ五三・六)。あの方は、「十字架にかかって」、それを「ご自分の身に負われた」のです(第一ペテロ二・二四)。その人は、自分の罪を「取り除く神の小羊」を見つめます(ヨハネ一・二九)。今、その人は、なんとはっきりと見分けることでしょう。「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ」(第二コリント五・一九)、「私たちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、私たちが、彼にあって神の義となるため」だったことを(第二コリント五・二一)。また、自分自身も、あの「契約の血」によって(ヘブル一〇・二九)神と和解させられたことを、なんとはっきりと見分けることでしょう!
(四) ここで、罪の罪責も力も終わります。その人は今、こう言うことができます。「私はキリストと共に十字架につけられました」(ガラテヤ二・一九)。それでも、私は生きています。「生きているのは、もはや、私ではありません。キリストが、私のうちに生きておられるのです」。「私がいま肉にあって」、すなわちこの死ぬべきからだにあって、「生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのです」(ガラテヤ二・二〇)。ここで、悔恨も、心の悲しみも、痛む心の苦しみも終わります。神は、その人の嘆きを喜びに変えてくださいます(詩篇三〇・一一)。神は「傷つけ」ましたが、今はその御手が「包み」ます(ヨブ五・一八)。ここで、あの恐れをいだかせる奴隷の状態も終わります。「その心は主に信頼してゆるがない」からです(詩篇一一二・七)。その人は、もはや神の怒りを恐れることはありません。その怒りが今は自分から離れ去ったことを、知っているからです。神を、もはや怒れる審判者としてではなく、愛に満ちた父として仰ぐからです。悪魔を恐れることもありません。悪魔は、「上から賜わるのでなければ」、「なんの権威もない」と知っているからです(ヨハネ一九・一一)。地獄も恐れません。天の御国の世継ぎだからです。したがって、死を恐れることもありません。その人はかつて、「死の恐怖のために」長年のあいだ「奴隷となっていた」のです(ヘブル二・一五)。むしろ、その人は知っています。「地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてある」ことを(第二コリント五・一)。そして、「天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら」、「苦しみもだえて」いるのです(第二コリント五・二)。この地上の家を脱ぎ捨てたいと、うめいています。「死ぬべきものがいのちにのまれてしまう」ためです(第二コリント五・四)。その人は知っているからです。その人を「この事にかなう者にしてくださったのは、神」です。「神はその保証として御霊を」その人に「賜わった」のです(第二コリント五・五)。
(五) そして、「主の霊のあるところには、自由があります」(第二コリント三・一七)。罪責と恐れからの自由だけではありません。罪からの自由です。あらゆるくびきの中で最も重いくびき、あらゆる奴隷の状態の中で最も卑しい奴隷の状態からの自由です。その人の労苦は、今は「むだになることはない」のです(第一コリント一五・五八)。「わなは破れて」、その人は「のがれ」ました(詩篇一二四・七)。その人は、努めるだけでなく、勝ちを得ます。戦うだけでなく、打ち勝ちもするのです。その人は、「もはや、罪の奴隷となることがない」のです(ローマ六・六)。その人は、「罪に対して死んだ者であり」、「神に生きている者」です(ローマ六・一一)。罪は今、その人の「死ぬべきからだ」においてさえ支配せず、その人は「その情欲に従」いません(ローマ六・一二)。その人は、自分の「肢体を不義の武器として罪にささげ」ず、「義の武器として神にささげ」ます(ローマ六・一三)。今、「罪から解放され、義の僕となった」からです(ローマ六・一八)。
(六) こうして、その人は、「私たちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得て」おり(ローマ五・一)、「神の栄光にあずかる希望をもって喜んで」います(ローマ五・二)。そして、あらゆる罪に、すなわちあらゆる悪い願い、気質、言葉、行いに打ち勝つ力を持っています。その人は、「神の子たちの栄光の自由」の生きた証人です(ローマ八・二一)。神の子たちはみな、「同じ尊い信仰」にあずかっており(第二ペテロ一・一)、自分たちは「子たる身分を授ける霊を受けた」と、声を合わせてあかしします。「その霊によって、私たちは『アバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ八・一五)。
(七) 彼らのうちに絶えず「働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせる」のは、この御霊です。御霊は、ご自分のよしとされるところに従って、そうしてくださるのです(ピリピ二・一三)。彼らの心に「神の愛」と、すべての人への愛とを「注」いでくださるのも、この御霊です(ローマ五・五)。こうして御霊は、彼らの心をきよめて、世への愛から、「肉の欲、目の欲、持ち物の誇」から解き放ってくださいます(第一ヨハネ二・一六)。彼らが怒りと高ぶりから、あらゆる卑しい、度を越した情愛から救い出されるのも、この御霊によります。その結果、彼らは悪い言葉と行いから、あらゆる汚れたふるまいから救い出されます。だれに対しても悪を行わず、あらゆる「良いわざに熱心」になるのです(テトス二・一四)。
(八) 全体をまとめましょう。生れながらの人は、神を恐れも愛しもしません。律法の下にある人は、神を恐れます。恵みの下にある人は、神を愛します。第一の人は、神のことについて光を持たず、まったくの闇の中を歩みます。第二の人は、地獄の苦しい光を見ます。第三の人は、天の喜ばしい光を見ます。死の中に眠っている人は、偽りの平安を持っています。目覚めた人には、平安がまったくありません。信じる人は、まことの平安を持っています。神の平安が、その心を満たし、支配しているのです。異邦人は、洗礼を受けていてもいなくても、思い込みの自由を持っています。それは実は放縦です。ユダヤ人、すなわちユダヤ教の制度の下にある人は、重い、つらい奴隷の状態にあります。クリスチャンは、「神の子たちの」まことの「栄光の自由」を楽しんでいます(ローマ八・二一)。目覚めていない悪魔の子は、自ら進んで罪を犯します。目覚めた人は、心ならずも罪を犯します。神の子は「罪を犯さない」のです。自分を守っており、「悪しき者が手を触れるようなことはない」のです(第一ヨハネ五・一八)。結論として言えば、生れながらの人は、打ち勝ちもせず、戦いもしません。律法の下にある人は、罪と戦いますが、打ち勝つことができません。恵みの下にある人は、戦って打ち勝ちます。そうです、「愛してくださったかたによって」、「勝ち得て余りがある」のです(ローマ八・三七)。
【四】 実際的な適用
(一) 人の三つの状態、すなわち生れながらの状態、律法の状態、福音の状態について、ありのままに述べてきました。ここから明らかなように、人類を誠実な者と不誠実な者とに分けるだけでは十分ではありません。人は、これらのどの状態においても誠実でありえます。「子たる身分を授ける霊」を持っているときだけでなく、「恐れをいだかせる奴隷の霊」を持っている間も、そうです(ローマ八・一五)。いや、この恐れも愛も持っていない間でさえ、誠実でありうるのです。疑いもなく、誠実なユダヤ人や誠実なクリスチャンがいるのと同じように、誠実な異邦人もいるからです。ですから、誠実であるということは、その人が神に受けいれられた状態にあることを、決して証明しません。
ですから、ただ自分が誠実であるかどうかだけでなく、「はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味」しなさい(第二コリント一三・五)。あなたがたの魂を支配している原理は何か、念入りに吟味しなさい。それは、あなたがたにとってきわめて大切なことだからです。それは神への愛でしょうか。神への恐れでしょうか。それとも、そのどちらでもないのでしょうか。むしろ、世への愛ではないでしょうか。快楽への愛、あるいは利得や安楽や評判への愛ではないでしょうか。もしそうなら、あなたがたは、ユダヤ人のところまでも来ていません。まだ、ただの異邦人なのです。あなたがたの心のうちに、天があるでしょうか。いつも「アバ、父よ」と呼ぶ、子たる身分を授ける霊を持っているでしょうか。それとも、悲しみと恐れに打ちのめされて、「陰府の腹の中から叫ぶ」ように、神に叫んでいるでしょうか(ヨナ二・二)。それとも、このことのすべてにうとく、私の言っていることが思いも寄らないのでしょうか。異邦人よ、仮面を脱ぎなさい! あなたは一度も「キリストを着た」(ガラテヤ三・二七)ことがないのです! 素顔で立ちなさい! 天を仰ぎなさい。そして、「世々限りなく生きておられるかた」の前で(黙示録四・九)、認めなさい。あなたは、神の子たちの中にも、神の僕たちの中にも、何の分も持っていないのです!
あなたがだれであっても、問います。あなたは罪を犯していますか、いませんか。犯しているなら、それは自ら進んでですか、心ならずもですか。どちらの場合でも、あなたがだれのものであるかを、神はあなたに告げておられます。「罪を犯す者は、悪魔から出た者です」(第一ヨハネ三・八)。自ら進んで罪を犯しているなら、あなたは悪魔の忠実な僕です。悪魔は、必ずあなたの働きに報いるでしょう。心ならずも犯しているなら、それでもあなたは悪魔の僕です。神があなたを、悪魔の手から救い出してくださいますように!
あなたは日ごとに、あらゆる罪と戦っていますか。そして日ごとに、「勝ち得て余りがある」でしょうか(ローマ八・三七)。それなら、私はあなたを神の子と認めます。ああ、あなたの栄光ある自由のうちに堅く立ちなさい! あなたは戦っているけれども、打ち勝っていないのですか。勝利を得ようと努めているけれども、得ることができないのですか。それなら、あなたはまだキリストを信じる者ではありません。けれども、追い求めて行きなさい。そうすれば、主を知るようになるでしょう。それとも、あなたはまったく戦わず、気楽な、怠惰な、流行に従う生活を送っているのですか。ああ、あなたはよくも、キリストの名を名のってきたものです。ただ、その名を異邦人の間で辱めるためにです。眠っている者よ、「起きて」、「淵が」あなたを「のむ」前に(詩篇六九・一五)、「あなたの神に呼ばわりなさい」(ヨナ一・六)。
(二) 多くの人が、「思うべき限度を越えて思いあが」り(ローマ一二・三)、自分がどんな状態にあるかを見分けないのは、なぜでしょうか。その理由の一つは、おそらく、魂のこれらの状態が、しばしば混じり合っていることでしょう。ある程度まで、一人の同じ人のうちに同時にあるのです。たとえば、経験の示すところでは、律法の状態、すなわち恐れの状態は、しばしば生れながらの状態と混じり合っています。罪の中でどれほどぐっすり眠っている人でも、ときには多かれ少なかれ目を覚ますものだからです。神の御霊は、人に呼ばれるのを待たれません。そのように、ときには、御霊はご自分の声を聞かせられます。御霊は彼らに「恐れを起させ」ます。そのため、少なくともしばらくの間は、異邦人も「自分がただ、人であることを」知るのです(詩篇九・二〇)。彼らは罪の重荷を感じ、「迫ってきている神の怒りから」のがれたいと切に願います(マタイ三・七)。けれども、それは長続きしません。彼らは、罪の自覚の矢が魂の奥深くまで刺さるのを、めったに許しません。すぐに神の恵みを押し殺し、また「どろの中にころがって」行くのです(第二ペテロ二・二二)。
同じように、福音の状態、すなわち愛の状態は、しばしば律法の状態と混じり合っています。奴隷と恐れの霊を持つ人々のうちで、いつまでも望みのないままでいる人は、ほとんどいないからです。知恵ある、恵み深い神は、そうなることをめったに許されません。「主は」「われらのちりであることを覚えていられる」からです(詩篇一〇三・一四)。また、神は、肉も、ご自分の造られた霊も、ご自分の前で衰え果てることを望まれません(イザヤ五七・一六)。ですから、神は、良いと思われるときに、暗黒に住む者に夜明けの光を与えられます(ルカ一・七九)。神は、ご自分の「もろもろの善」の一部を彼らの「前に通らせ」(出エジプト三三・一九)、ご自分が「祈を聞かれる方」であることを示されます(詩篇六五・二)。彼らは、「イエス・キリストに対する信仰によって与えられる」約束を(ガラテヤ三・二二)、まだはるか遠くにではあっても、見るのです。そして、これによって励まされ、「参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬ」こうとするのです(ヘブル一二・一)。
(三) 多くの人が自分を欺くもう一つの理由は、こういうことです。人はかなり先まで進んでいながら、なお生れながらの状態に、よくても律法の状態にとどまっていることがありえます。そのことを考えないのです。人は、あわれみ深い、慈悲深い気質を持っているかもしれません。人当たりがよく、礼儀正しく、気前がよく、友好的であるかもしれません。ある程度の柔和、忍耐、節制や、そのほか多くの道徳的な徳を持っているかもしれません。あらゆる悪徳を振り払い、もっと高い徳に達したいという多くの願いを、感じるかもしれません。多くの悪を避けるかもしれません。正義やあわれみや真実にはなはだしく反することは、すべて避けるかもしれません。多くの善を行い、飢えた者に食べさせ、裸の者に着せ(マタイ二五・三五〜三六)、やもめや孤児を見舞うかもしれません(ヤコブ一・二七)。公の礼拝に出席し、ひそかに祈り、多くの信仰書を読むかもしれません。それでも、これらすべてにもかかわらず、ただの生れながらの人であるかもしれません。自分自身も神も知らないかもしれません。恐れの霊にも愛の霊にも、同じようにうといかもしれません。「悔い改めて福音を信」じたことがないかもしれないのです(マルコ一・一五)。
けれども、これらすべてに、深い罪の自覚と、神の怒りへの大きな恐れとが加わったとしましょう。あらゆる罪を捨て去り、「すべての正しいことを成就する」ことへの激しい願いが加わったとしましょう(マタイ三・一五)。たびたび「望みをいだいて喜び」(ローマ一二・一二)、愛のひらめきがしばしば魂に触れたとしましょう。それでも、これらは、その人が恵みの下にあること、まことの、生きた、クリスチャンの信仰を持っていることを、証明しません。子たる身分を授ける霊がその人の心にとどまり、絶えず「アバ、父よ」と呼ぶことができるのでなければ、証明しないのです。
(四) ですから、キリストの名で呼ばれているあなたよ、気をつけなさい。「上に召してくださる」その召しの目標に(ピリピ三・一四)、達しそこなうことのないようにしなさい。生れながらの状態にとどまって安んじることのないように、気をつけなさい。良いクリスチャンと見なされている非常に多くの人々が、その状態にとどまっています。また、律法の状態にとどまって安んじることのないように、気をつけなさい。人々に高く評価されている人々は、たいてい、その状態で生き、死ぬことに満足しています。いや、あなたが達するまで追い求めて行くなら、神はあなたのために、もっと良いものを備えておられます。あなたが召されたのは、「悪霊ども」のように「おののく」ためではありません(ヤコブ二・一九)。神の御使たちのように、喜び、愛するためです。あなたは、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛」するのです(マルコ一二・三〇)。あなたは「いつも喜んで」いるのです。「絶えず祈」るのです。「すべての事について、感謝」するのです(第一テサロニケ五・一六〜一八)。あなたは、神のみこころを、「天に行われるとおり、地にも」行うのです(マタイ六・一〇)。ああ、「何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知」りなさい(ローマ一二・二)。今、自分自身を、「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげ」なさい(ローマ一二・一)。あなたが「達し得たところ」を、しっかりと保ちなさい(ピリピ三・一六)。「前のものに向かってからだを伸ばしつつ」、保ちなさい(ピリピ三・一三)。そして、そのときまで保ちなさい。「平和の神が」、あらゆる良いわざにおいてあなたを全うしてくださるときまでです。「イエス・キリストによって、みこころにかなうことを」、あなたのうちに行ってくださるときまでです。「栄光が、世々限りなく神にあるように、アァメン」(ヘブル一三・二〇〜二一)。