ジョン・ウェスレー標準説教集

説教八 御霊の最初の実

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者」、すなわち「肉によらず霊によって歩く」者は、「罪に定められることがありません」(ローマ八・一)

(一) 「キリスト・イエスにある者」と言うとき、パウロが明らかに意味しているのは、キリストを本当に信じている人々のことです。すなわち、「信仰によって義とされ」、「私たちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」人々です(ローマ五・一)。このように信じる人々は、もはや肉に従って歩きません。腐敗した性質の衝動に、もう従わないのです。彼らは「肉によらず霊によって歩く」のです。彼らの思いも、言葉も、行いも、すべて、ほむべき神の御霊の導きのもとにあります。

(二) 「こういうわけで、今や」このような人々は、「罪に定められることがない」のです。彼らは、神から罪に定められることがありません。神が彼らを、「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって」義としてくださったからです(ローマ三・二四)。神は彼らの「すべての不義をゆるし」(詩篇一〇三・三)、すべての罪をぬぐい去ってくださいました。また、彼らは、自分の内側からも罪に定められることがありません。彼らが受けたのは、「この世の霊ではなく、神からの霊」であり、それは「神から賜わった恵みを悟るため」だからです(第一コリント二・一二)。この御霊は、彼らの「霊と共に」、彼らが「神の子であることをあかしして」くださいます(ローマ八・一六)。これに、彼らの「良心のあかし」が加わります。自分たちは「この世で」、単純さと、神にかなう誠実さとをもってふるまってきた。「人間の知恵によってではなく神の恵みによって」ふるまってきた。良心は、そうあかしするのです(第二コリント一・一二)。

(三) けれども、この聖句は、たびたび誤解されてきました。それも、きわめて危険なしかたで誤解されてきたのです。実に多くの「無学で心の定まらない者たち」が、この聖句に「無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いて」きました(第二ペテロ三・一六)。ギリシャ語ではホイ・アマテイス・カイ・アステーリクトイ(οἱ ἀμαθεῖς καὶ ἀστήρικτοι)です。神に教えられておらず、そのため「信心にかなう真理」に堅く立っていない人々のことです(テトス一・一)。そこで私は、できるかぎりはっきりと、次のことを示したいと思います。第一に、「キリスト・イエスにある者」、「肉によらず霊によって歩く」者とはだれか。第二に、そのような人々が、どのように「罪に定められることがない」のか。最後に、いくつかの実践的な結論を引き出して終わります。

【一】 キリスト・イエスにある者とはだれか

(一) まず第一に、「キリスト・イエスにある者」とはだれかを示しましょう。それは、キリストの名を信じる人々ではないでしょうか。「自分の義ではなく」、「信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに」見いだされる人々ではないでしょうか(ピリピ三・九)。このように、「その血によるあがない」を受けている人々こそ(エペソ一・七)、まさに「キリストにある」と言われるのです。彼らはキリストのうちにおり、キリストも彼らのうちにおられるからです(ヨハネ六・五六)。彼らは「主につく者」として、「主と一つの霊になる」のです(第一コリント六・一七)。枝がぶどうの木に接がれるように、彼らはキリストに接がれています。彼らは、肢体がかしらに結ばれるように、キリストに結び合わされています。それは言葉では言い表せないしかたです。以前には、彼らの「心に思い浮びもしなかった」しかたです(第一コリント二・九)。

(二) さて、「すべて彼におる者は、罪を犯しません」(第一ヨハネ三・六)。その人は「肉によらず」歩むのです。パウロのいつもの言葉づかいでは、肉とは、腐敗した性質のことです。パウロはガラテヤ人に書き送るとき、この意味で肉という言葉を使っています。「肉の働きは明白です」(ガラテヤ五・一九)。また、その少し前では、こう言います。「御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはありません」(ガラテヤ五・一六)。「御霊によって歩」く者は「肉の欲を満たす」ことがない。このことを証明するために、パウロはすぐにこう付け加えます。「なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからです(この二つは互に相さからうのです)。それは、あなたがたが自分でしようと思うことを、しないためです」(ガラテヤ五・一七)。これが、言葉どおりの訳です。ギリシャ語ではヒナ・メー・ハ・アン・テレーテ・タウタ・ポイエーテ(ἵνα μὴ ἃ ἂν θέλητε, ταῦτα ποιῆτε)です。「その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる」ではありません。それでは、肉が御霊に打ち勝つかのようです。この訳は、使徒の原文と何の関係もないだけではありません。使徒の議論全体を無価値にしてしまいます。そうです、使徒が証明しようとしていることの、まさに正反対を主張しているのです。

(三) キリストに属し、キリストのうちにとどまる人々は、「自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまった」のです(ガラテヤ五・二四)。彼らは、あの肉の働きをすべて避けます。すなわち、姦淫と「不品行」、「汚れ」と「好色」、「偶像礼拝、まじない、敵意、争い」、「そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ」、殺人、「泥酔、宴楽」を避けます(ガラテヤ五・一九〜二一)。性質の腐敗が導く、あらゆるたくらみ、言葉、行いを避けるのです。彼らは、自分のうちに苦い根があることを感じています。けれども、「上から力を授けられ」(ルカ二四・四九)、それをいつも足の下に踏みつけています。ですから、その「苦い根がはえ出て」、彼らを「悩ま」すことはできません(ヘブル一二・一五)。それどころか、新たな攻撃を受けるたびに、それはただ、新たに賛美する機会となります。こう叫ぶ機会となるのです。「感謝すべきことには、神は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を賜わったのです」(第一コリント一五・五七)。

(四) 彼らは今、心においても生活においても、「霊によって歩」いています。彼らは御霊に教えられて、神と隣り人とを愛します。その愛は、「永遠のいのちに至る水が、わきあがる」泉のようです(ヨハネ四・一四)。また、彼らは御霊に導かれて、あらゆる聖なる願いに、あらゆる神的な、天的な気質に入っていきます。そしてついには、心に起こる思いの一つ一つが、「主に聖なる」ものとなるのです(出エジプト二八・三六)。

(五) 「霊によって歩く」人々は、また御霊に導かれて、あらゆる聖なるふるまいに入ります。彼らの言葉は、「いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉」です(コロサイ四・六)。神への愛と神への恐れという塩で、味つけられているのです。彼らは、「悪い言葉をいっさい」「口から出」しません。良い言葉だけを語ります。「人の徳を高めるのに役立つような言葉」、「聞いている者の益になる」言葉を語るのです(エペソ四・二九)。また、彼らは、次のことにも昼も夜も励みます。ただ神に喜ばれることだけを行うことです。すなわち、外に現れるすべてのふるまいにおいて、キリストに従うことです。キリストは、私たちが「御足の跡を踏み従うようにと、模範を残され」た方です(第一ペテロ二・二一)。隣り人とのすべての交わりにおいて、公正とあわれみと真実のうちに歩むことです。そして、生活のどんな状況においても、「何事をするにも、すべて神の栄光のために」することです(第一コリント一〇・三一)。

(六) この人々こそ、まことに「霊によって歩く」人々です。彼らは「信仰と聖霊とに満ち」ています(使徒六・五)。そして、神の御霊の本物の実を、心のうちに持ち、生活のうちに、言葉と行いのすべてにおいて現しています。その実とは、「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」です(ガラテヤ五・二二〜二三)。また、そのほか「すべて愛すべきこと」、「称賛に値するもの」です(ピリピ四・八)。彼らは、「万事につけ、私たちの救主なる神の」福音を「飾る」のです(テトス二・一〇)。そして、すべての人に、十分な証拠を示します。自分たちが、まことに、「イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊」によって動かされているという証拠です(ローマ八・一一)。

【二】 どのように罪に定められることがないのか

(一) 私は第二に、このように「キリスト・イエスにある者」、このように「肉によらず霊によって歩く」者が、どのように「罪に定められることがない」のかを示すと述べました。

まず第一に、キリストを信じてこのように歩む人々は、過去の罪のために「罪に定められることがない」のです。神は、過去の罪のどれについても、彼らを罪に定められません。その罪は、まるでなかったかのようになっています。その罪は、石のように「海の深みに投げ入れ」られました(ミカ七・一九)。神は「もはや」その罪を「思い出すことは」なさいません(ヘブル八・一二)。神は御子を「立てて」、彼らのために「その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされ」ました。そうして、「今までに犯された罪」の赦しについて、彼らにご自分の「義を示」されたのです(ローマ三・二五)。ですから神は、そのどれ一つも、彼らの責めとはなさいません。その罪は、「その記憶さえ消えうせ」たのです(詩篇九・六)。

(二) また、彼らは、自分の胸のうちでも罪に定められることがありません。罪責の意識も、神の怒りへの恐れもありません。彼らは、「自分のうちにこのあかしを持って」います(第一ヨハネ五・一〇)。自分が「そそがれた血」にあずかっていることを(ヘブル一二・二四)、意識しているのです。彼らは、「再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのでは」ありません。疑いや、責めさいなむ不確かさをいだかせる霊を受けたのではありません。彼らは、「子たる身分を授ける霊を受けた」のです(ローマ八・一五)。その霊は、彼らの心の中で「アバ、父よ」と呼ぶのです(ガラテヤ四・六)。こうして、彼らは「信仰によって義とされ」(ローマ五・一)、神の平安が彼らの心を支配しています(コロサイ三・一五)。その平安は、赦してくださる神のあわれみを絶えず感じることから流れ出ます。また、神に対して正しい良心が応答することから流れ出ます(第一ペテロ三・二一)。

(三) ある人は、こう言うかもしれません。「けれども、キリストを信じる者も、ときには神のあわれみを見失うことがあるではないか。ときには、深い闇がその人に下って、もはや『見えないかた』を見ることができなくなる(ヘブル一一・二七)。あがないの血にあずかっているという、自分のうちのあかしを、もはや感じなくなる。そのとき、その人は内側で罪に定められる。再び、自分のうちに死の宣告を受けるのではないか(第二コリント一・九)」。私は答えます。仮にそうだとしましょう。その人が神のあわれみを見ていないとしましょう。それなら、その人は信じる者ではありません。信仰には光が、魂を照らす神の光が含まれているからです。ですから、だれでもこの光を失うかぎり、その間は信仰を失っているのです。確かに、キリストを本当に信じる人も、信仰の光を失うことがありえます。そして、それを失うかぎり、しばらくの間、再び罪に定められることがありえます。けれども、それは、今「キリスト・イエスにある」人々、今キリストの名を信じている人々のことではありません。彼らが信じ、霊によって歩んでいるかぎり、神も彼らを罪に定めず、彼ら自身の心も彼らを罪に定めないからです。

(四) 第二に、彼らは、現在の罪のために、すなわち、今神の戒めに背いていることのために、罪に定められることはありません。彼らは戒めに背かないからです。彼らは「肉によらず霊によって歩く」のです。これが、彼らが神を愛していることの、絶えることのない証拠です。ヨハネがあかししているとおり、「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ること」だからです(第一ヨハネ五・三)。「すべて神から生れた者は、罪を犯しません。神の種が、その人のうちにとどまっているからです。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができません」(第一ヨハネ三・九)。その神の種、すなわち、愛に満ちた聖なる信仰がその人のうちにとどまっているかぎり、その人は罪を犯すことができないのです。その人がこの信仰のうちに自分を守っているかぎり、「悪しき者が手を触れるようなことは」ありません(第一ヨハネ五・一八)。さて、まったく犯していない罪のために、その人が罪に定められないことは明らかです。ですから、このように「御霊に導かれる」人々は、「律法の下にはいない」のです(ガラテヤ五・一八)。すなわち、律法ののろいや、律法による罪の宣告の下にはいないのです。律法は、それを破る者のほかは、だれも罪に定めないからです。たとえば、「あなたは盗んではならない」という神の律法は(出エジプト二〇・一五)、盗む者のほかは、だれも罪に定めません。また、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」という律法は(出エジプト二〇・八)、それを聖としない者だけを罪に定めます。けれども、御霊の実を「否定する律法は」ありません(ガラテヤ五・二三)。使徒は、テモテへの第一の手紙の、あの忘れがたい言葉で、このことをさらにくわしく宣言しています。「私たちが知っているとおり、律法なるものは、法に従って用いるなら、良いもの」です。ただしそれは、神の律法を用いて人に罪を自覚させたり、人を導いたりするときに、次のことを知り、覚えている場合です。ホティ・ディカイオー・ノモス・ウー・ケイタイ(ὅτι δικαίῳ νόμος οὐ κεῖται)。これは、「律法は正しい人のために定められたのではな」い、という意味ではありません。「律法は正しい人に対して置かれていない」という意味です。律法は、正しい人に対して何の力もなく、その人を罪に定める力もないのです。律法が置かれているのは、「不法な者と法に服さない者、不信心な者と罪ある者、神聖を汚す者と俗悪な者」に対してです。「これは、祝福に満ちた神の栄光の福音が示すところ」です(第一テモテ一・八〜九、一一)。

(五) 第三に、彼らは、内なる罪のために罪に定められることはありません。その罪が今なお残っているとしてもです。性質の腐敗は、信仰によって神の子となった人々のうちにさえ、なお残っています。彼らのうちには、高ぶりと虚栄の種、怒りと情欲と悪い願いの種、そうです、あらゆる種類の罪の種があります。このことは、あまりにも明らかで、否定することはできません。毎日経験することだからです。そのためにパウロは、コリントの人々に語るとき、こうしています。パウロは、そのすぐ前に、彼らが「キリスト・イエスにあって」きよめられた人々だとあかししていました。また、「神によって召され、御子」「イエス・キリストとの交わり」に、すなわち御子にあずかることに、「はいらせていただいた」人々だとも、あかししていました(第一コリント一・二、九)。それなのに、こう宣言しているのです。「兄弟たちよ。私はあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話しました」(第一コリント三・一)。「キリストにある幼な子」とあります。ですから、彼らが「キリストにある」者だったことがわかります。彼らは、低い段階にある信者だったのです。それなのに、彼らのうちには、なんと多くの罪が残っていたことでしょう! 「神の律法に従わ」ない、あの「肉の思い」が(ローマ八・七)、なんと多く残っていたことでしょう!

(六) けれども、それにもかかわらず、彼らは罪に定められません。彼らは、自分のうちに肉を、悪い性質を感じています。自分の「心は」「偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」ことを(エレミヤ一七・九)、日ごとに強く感じています。けれども、彼らはそれに屈しません。「悪魔に機会を与え」ません(エペソ四・二七)。あらゆる罪と、すなわち高ぶりや怒りや欲望と、絶えず戦い続けています。そのため、肉に支配されず、なお「霊によって歩」んでいます。そうであるかぎり、「キリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」のです。神は、彼らの従順を、不完全ではあっても誠実なものとして、喜んでくださいます。そして彼らは、「神に対して確信を持」っています(第一ヨハネ三・二一)。自分が神のものであることを、「神が」彼らに「賜わった御霊によって知る」からです(第一ヨハネ三・二四)。

(七) いや、第四に、彼らは、自分のするすべてのことに罪がまといついていることを、絶えず自覚しています。思いにおいても、言葉においても、行いにおいても、完全な律法を全うしていないことを意識しています。自分が、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なる」自分の「神を愛」してはいないことを知っています(マルコ一二・三〇)。最善のつとめにさえ、高ぶりや我意が多かれ少なかれ忍び込み、混じり込むのを感じています。神とのもっと直接の交わりの中でさえ、そうです。「大いなる会衆」と共に集まるときも(詩篇二二・二五)、心の「思いと志とを見分ける」方に(ヘブル四・一二)、ひそかに魂を注ぎ出すときも、そうです。彼らは、さまよう思いや、情愛の死んだような鈍さを、絶えず恥じています。それでも、彼らは、神からも自分の心からも、罪に定められることがありません。このような多くの欠けを思うと、彼らはただ、いっそう深く感じるようになるだけです。自分にはいつも、あの「そそがれた血」が必要だと感じるのです(ヘブル一二・二四)。その血は、神の耳に、彼らのために語ってくれます。また、父のみもとにいる「助け主」が必要だと感じるのです(第一ヨハネ二・一)。この方は、「いつも生きていて彼らのためにとりなしておられる」のです(ヘブル七・二五)。このような欠けは、彼らを、「自分の信じてきたかた」から遠ざけるどころではありません(第二テモテ一・一二)。むしろ、いっそう近くへと彼らを押しやるのです。一瞬一瞬、なくてはならないと感じている方のもとへです。同時に、この必要を深く感じれば感じるほど、彼らはいっそう切に願い、いっそう励むようになります。主イエスを「受けいれたのだから、彼にあって歩」こうとするのです(コロサイ二・六)。

(八) 第五に、彼らは、ふつう弱さの罪と呼ばれるもののために、罪に定められることはありません。むしろ、それをただ弱さと呼ぶほうがよいかもしれません。このように罪を弱さと結びつけると、罪を少しでも認めたり、軽く見たりしているように思われかねないからです。けれども、このようにあいまいで危険な表現を、どうしても残さなければならないとしましょう。それなら私は、弱さの罪とは、意図しない過ちのことだと言いたいと思います。たとえば、本当だと信じていることを言ったのに、実際には偽りだとわかるような場合です。あるいは、知らずに、そのつもりもなく、隣り人を傷つけてしまう場合です。もしかすると、その人に善を行おうとしたときに、そうなるかもしれません。これらは、聖なる、「神に喜ばれ、かつ全き」神の御旨からそれたものです(ローマ一二・二)。けれども、厳密には罪ではありません。「キリスト・イエスにある者」の良心に、何の罪責ももたらしません。それは、神と彼らとの「間を隔て」ることがなく(イザヤ五九・二)、神の御顔の光をさえぎることもありません。それは、「肉によらず霊によって歩く」という彼らの全体の性格と、少しも矛盾しないからです。

(九) 最後に、彼らは、自分の力ではどうしようもないことについては、何であれ、「罪に定められることがない」のです。それが内的なことでも外的なことでも、何かをすることでも、何かをしないでおくことでも、そうです。たとえば、聖餐式が行われるのに、あなたがそれにあずからないとします。なぜあずからないのでしょうか。病気で床についているからです。ですから、あずからずにいるほかはありません。そして同じ理由で、あなたは罪に定められないのです。選ぶ余地がないので、罪責もないのです。「心から願って」いるなら、「持たないところによらず、持っているところによって、神に受けいれられる」のです(第二コリント八・一二)。

(一〇) 確かに、信じる者も、ときには悲しむことがあるでしょう。魂が切に願うことを、行えないからです。大いなる会衆と共に神を礼拝することを妨げられるとき、その人はこう叫ぶかもしれません。「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぎます。わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕います。いつ、私は行って神のみ顔を見ることができるでしょうか」(詩篇四二・一〜二)。その人は、再び「多くの人と共に群れをなして行き」、「彼らを神の家に導」きたいと、切に願うかもしれません(詩篇四二・四)。ただ、心の中では、なお「私の思いのままにではなく、みこころのままに」と言っているのです(マタイ二六・三九)。けれども、それでも行けないなら、その人は、罪に定められていると感じることはありません。罪責も、神のご不興も感じません。むしろ、その願いを喜んで手放し、こう言うことができます。「わが魂よ、神を待ち望め。私はなお、わが助け、わが神なる主をほめたたえます」(詩篇四二・一一)。

(一一) ふつう不意打ちの罪と呼ばれるものについて判断するのは、もっと難しいことです。たとえば、いつもは忍耐をもって自分の魂を保っている人が、突然の激しい誘惑にあって、あの「きわめて尊い律法」にそぐわない言い方や行いをしてしまう場合です。「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という律法です(ヤコブ二・八)。このような性質の違反について、一般的な規則を定めるのは、たぶん容易ではないでしょう。一般に、人が不意打ちの罪のために罪に定められるとも、定められないとも、言うことはできません。けれども、信じる者が不意打ちによって過ちに陥るときは、いつでも、多かれ少なかれ罪に定められるようです。その度合いは、その人の意志がどれほど同意していたかによります。罪深い願いや言葉や行いは、自発的である度合いがそれぞれ違います。その度合いに応じて、神のご不興も、魂の負う罪責も、大きくも小さくもなると考えてよいでしょう。

(一二) けれども、もしそうなら、大きな罪責をもたらし、重く罪に定められる不意打ちの罪もあるかもしれません。ある場合には、私たちが不意打ちを受けるのは、故意の、とがめられるべき怠慢のせいだからです。あるいは、魂の眠気のせいだからです。その眠気は、誘惑が来る前に防ぐことも、振り払うこともできたはずなのです。人は、試練と危険が迫っていることを、神から、あるいは人から、前もって警告されているかもしれません。それなのに、心の中で、「しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む」と言うかもしれません(箴言六・一〇)。さて、そのような人が、避けることのできたわなに、あとで気づかずに陥ったとしましょう。気づかずに陥ったということは、言い訳になりません。その人は、危険を予見し、避けることができたはずだからです。このような場合には、たとえ不意打ちであっても、陥ることは、実際には故意の罪です。そして、故意の罪である以上、その罪人は、神からも自分の良心からも、罪に定められずにはすみません。

(一三) 一方、突然の攻撃もありえます。世から、あるいは「この世の神」から(第二コリント四・四)、そして、しばしば私たち自身の悪い心から来る攻撃です。私たちが予見しなかった、また、ほとんど予見できなかった攻撃です。信じる者でさえ、信仰が弱いうちは、こうした攻撃に押し倒されることがあるかもしれません。たとえば、意志がほとんど同意していないのに、ある程度の怒りに、あるいは人を悪く思うことに、押し流されるかもしれません。さて、このような場合、ねたむ神は(出エジプト二〇・五)、疑いもなく、その人に、愚かなことをしたと示されるでしょう。その人は、完全な律法から、キリストのうちにあった思いから、それてしまったことを自覚するでしょう。そして、「神のみこころに添うた悲しみ」をもって悲しみ(第二コリント七・一〇)、愛のうちに神の前で恥じ入るでしょう。けれども、その人が罪に定められる必要はありません。神は、その人の愚かさを責めず、むしろあわれんでくださいます。「父がその子供をあわれむように」です(詩篇一〇三・一三)。また、その人の心も、その人を罪に定めません。その悲しみと恥のただ中でも、なおこう言うことができます。「私は信頼して恐れることはありません。主なる神はわが力、わが歌であり、わが救となられたからです」(イザヤ一二・二)。

【三】 実践的な結論

(一) 残っているのは、これまで考えてきたことから、いくつかの実践的な結論を引き出すことだけです。まず第一に、「キリスト・イエスにある」者、「肉によらず霊によって歩く」者が、過去の罪のために「罪に定められることがない」としましょう。それなら、「なぜこわがるのですか」、「信仰の薄い者」よ(マタイ八・二六)。あなたの罪が、かつては浜べの砂よりも多かったとしても、今キリスト・イエスにあるあなたに、それが何の関係があるでしょうか。「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのでしょうか。神は彼らを義とされるのです。だれが」「罪に定めるのでしょうか」(ローマ八・三三〜三四)。あなたが若い時から、「愛する御子」によって受けいれられたその時までに犯したすべての罪は(エペソ一・六)、もみがらのように吹き去られました。過ぎ去り、失われ、のみ込まれ、もう思い出されることはありません。あなたは今、「霊から生れ」ています(ヨハネ三・六)。それなのに、生まれる前に行ったことで、心を乱したり恐れたりするのでしょうか。恐れを捨て去りなさい! あなたは、恐れるためにではなく、「愛と慎みとの霊」にあずかるために召されたのです(第二テモテ一・七)。自分の召しを知りなさい! 「救主なる神をたたえ」(ルカ一・四七)、キリストを通して父なる神に感謝しなさい!

(二) あなたは、こう言うでしょうか。「けれども私は、キリストの『血によるあがない』を受けてから(エペソ一・七)、また罪を犯してしまった。だからこそ、私は『みずから恨み、ちり灰の中で悔い』ているのだ(ヨブ四二・六)」。あなたがみずから恨むのは、ふさわしいことです。そして、あなたを「この事にかなう者にして」くださったのは、神なのです(第二コリント五・五)。けれども、あなたは今、信じていますか。神は再び、あなたにこう言わせてくださったでしょうか。「私は知る、私をあがなう者は生きておられます」(ヨブ一九・二五)。「私がいま」生きているのは、「神の御子を信じる信仰によって」です(ガラテヤ二・二〇)。それなら、その信仰が再び、過去のすべてを帳消しにします。あなたは罪に定められることがありません。あなたが神の御子の名を本当に信じるときにはいつでも、そのときより前のあなたの罪はすべて、朝の露のように消えうせます。それなら今、キリストが与えてくださった自由のうちに、「堅く立って」いなさい(ガラテヤ五・一)。キリストは、もう一度、あなたを罪責と罰から解放してくださいました。それだけでなく、罪の力からも解放してくださったのです。ああ、「二度と奴隷のくびきにつながれてはなりません!」(ガラテヤ五・一)。罪の奴隷となる、卑しい、悪魔的なくびきにつながれてはなりません。悪い願い、悪い気質、悪い言葉、悪い行いの奴隷となるくびきにも、つながれてはなりません。それは、地獄のこちら側で最もつらいくびきです。奴隷のように人を苦しめる恐れや、罪責や、自分を罪に定める思いのくびきにも、つながれてはなりません。

(三) けれども第二に、「キリスト・イエス」のうちにとどまる者はみな、「肉によらず霊によって歩く」のでしょうか。それなら、こう結論せざるをえません。今、罪を犯している者はだれでも、「この事にあずかることができない」のです(使徒八・二一)。その人は、今すでに、自分の心によって罪に定められています。けれども、もし私たちが「心に責められる」なら、すなわち、自分の良心が、私たちに罪責があるとあかしするなら、疑いもなく、神も私たちを罪に定められます。「神は私たちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだから」です(第一ヨハネ三・二〇)。ですから、たとえ自分自身を欺くことができても、神を欺くことはできません。また、「私はかつて義とされた。私の罪はかつて赦されたのだ」と言おうとしてはなりません。私はそれを知りません。罪が赦されたのか、そうでないのか、議論するつもりもありません。これほど時がたった今では、いくらかでも確かに知ることは、ほとんど不可能かもしれません。それが本当の、まことの神のみわざだったのか。それとも、あなたが自分の魂を欺いていただけなのか。けれども、このことを、私はこの上なく確かに知っています。「罪を犯す者は、悪魔から出た者です」(第一ヨハネ三・八)。ですから、あなたは「自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者」です(ヨハネ八・四四)。それは否定できません。あなたは、あなたの「父のわざを行っている」からです(ヨハネ八・四一)。ああ、むなしい望みで自分を欺いてはなりません! 自分の魂に、「平安、平安」と言ってはなりません。「平安がない」のですから(エレミヤ六・一四)。大声で叫びなさい! 「深い淵から」神に「呼ばわ」りなさい(詩篇一三〇・一)。もしかしたら、神があなたの声を聞いてくださるかもしれません。初めのときのように、神のもとに来なさい。みじめな者、貧しい者、罪深い者、あわれむべき者、目の見えない者、裸な者として来なさい(黙示録三・一七)。そして、気をつけて、魂を休ませないようにしなさい。赦してくださる神の愛が、再び現されるまでです。神があなたの「背信をいや」し(エレミヤ三・二二)、「愛によって働く信仰」で、再びあなたを満たしてくださるまでです(ガラテヤ五・六)。

(四) 第三に、「霊によって歩く」人々は、内なる罪がなお残っていても、それに屈しないかぎり、そのために罪に定められることがないのでしょうか。自分のするすべてのことに罪がまといついていても、そのために罪に定められることがないのでしょうか。それなら、不信心のために「心を悩ま」してはなりません(詩篇三七・一)。たとえそれが、まだあなたの心に残っていてもです。あなたがまだ、神の栄光あるかたちに達していないからといって、嘆いてはなりません。高ぶりや我意や不信仰が、あなたのすべての言葉と行いにまといついているからといっても、嘆いてはなりません。また、自分の心のこのすべての悪を知ることを、恐れてはなりません。「知られているように」、自分を知ることを恐れてはなりません(第一コリント一三・一二)。そうです、「思うべき限度を越えて思いあがることなく」いられるように(ローマ一二・三)、神に願いなさい。あなたの絶えざる祈りを、こうしなさい。

私の魂が耐えられるだけ、示してください、生まれながらの罪の深さを。すべての不信仰を明らかにしてください、うちにひそむ高ぶりを。

けれども、神があなたの祈りを聞き、あなたの心の覆いを取り除かれるときが来ます。あなたがどんな霊に属しているかを、あますところなく示されるときが来ます。そのときは、あなたの「信仰がなくならないように」気をつけなさい(ルカ二二・三二)。信仰の盾が、もぎ取られることのないようにしなさい(エペソ六・一六)。へりくだりなさい。ちりの中に身を低くしなさい。自分を無と見なしなさい。「無きもの」以下の、「むなしいもの」と見なしなさい(イザヤ四〇・一七)。けれども、それでも、「心を騒がせるな、またおじけ」てはなりません(ヨハネ一四・二七)。「ほかならぬこの私にも、父のみもとには助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」(第一ヨハネ二・一)。この確信を、なおしっかりと保ちなさい。「天が地よりも高いように、主の愛は、私の罪よりもなお高い」。ですから、神は罪人のあなたを、あわれんでくださいます! まさにあなたのような罪人を、あわれんでくださるのです! 「神は愛です」(第一ヨハネ四・八)。そして、キリストは死んでくださったのです! ですから、「父ご自身が」あなたを「愛しておいでになる」のです(ヨハネ一六・二七)。あなたは神の子です! ですから、神はあなたに、「良い物を拒まれることは」決してありません(詩篇八四・一一)。今あなたのうちで十字架につけられている「罪のからだ」全体が、「滅び」ることは良いことでしょうか(ローマ六・六)。それは成し遂げられます! あなたは、「肉と霊とのいっさいの汚れから」きよめられるのです(第二コリント七・一)。あなたの心に、ただ神への純粋な愛のほかは何も残らないことは、良いことでしょうか。元気を出しなさい! あなたは、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛」するようになるのです(マルコ一二・三〇)。「約束をしてくださったのは忠実なかた」であり(ヘブル一〇・二三)、「このことをしてくださる」のです(第一テサロニケ五・二四)。あなたのなすべきことは、忍耐して、「信仰の働きと、愛の労苦と」を続けることです(第一テサロニケ一・三)。そして、晴れやかな平安のうちに、へりくだった確信のうちに、待つことです。静かに身をゆだね、しかも切に期待しながら、「万軍の主の熱心がこれをなされる」まで待つことです(イザヤ九・七)。

(五) 第四に、「キリストにある」人々、「霊によって歩く」人々が、弱さの罪のために罪に定められないとしましょう。意図しない過ちのためにも、自分ではどうしようもない何事のためにも、罪に定められないとしましょう。それなら、キリストの血を信じるあなたよ、このことでサタンにつけ込まれないように気をつけなさい。あなたは今なお、愚かで弱く、目が見えず、無知です。どんな言葉でも言い表せないほど弱いのです。あなたの心にまだ思い浮かびもしないほど愚かです。「知らなければならないほどの事すら、まだ知って」いません(第一コリント八・二)。あなたには、まだ弱さと愚かさがあります。まだ避けることのできない、その実もあります。けれども、そのどれにも、あなたの信仰を、神への子としての信頼を、揺るがさせてはなりません。主にある平安や喜びを、かき乱させてはなりません。ある人々は、故意の罪について、ある規則を与えています。その規則は、故意の罪の場合には危険かもしれません。けれども、弱さともろさの場合にだけ当てはめるなら、疑いもなく賢明で安全です。「神の人よ」(第一テモテ六・一一)、あなたは倒れたのですか。それでも、そこに倒れたまま、思い悩み、自分の弱さを嘆いていてはなりません。むしろ、柔和にこう言いなさい。「主よ、あなたが御手で私をささえてくださらなければ、私は一瞬ごとに倒れます」。そして、起き上がりなさい! 踊りあがって、歩きなさい! 自分の道を進みなさい! あなたの「参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬ」きなさい(ヘブル一二・一)。

(六) 最後に、信じる者は、不意打ちを受けて、魂が忌みきらうことに陥ったとしても、罪に定められる必要はありません(ただし、不意打ちを受けたのが、自分の不注意や故意の怠慢のせいではない場合です)。ですから、信じるあなたが、このように過ちに陥ったなら、主に向かって悲しみなさい。それは尊い香油となるでしょう。主の「み前に」「心を注ぎ出」しなさい(詩篇六二・八)。あなたの悩みを、主に打ち明けなさい。そして、力のかぎり主に祈りなさい。主は、あなたの「弱さを思いやることのできないようなかたではない」のです(ヘブル四・一五)。あなたの魂を「強め、力づけ、不動のものとして」くださるように(第一ペテロ五・一〇)、もう二度と倒れないようにしてくださるように、祈りなさい。けれども、それでも主は、あなたを罪に定められません。なぜ、あなたは恐れなければならないのでしょうか。あなたには、「懲らしめが伴」う恐れなど(第一ヨハネ四・一八)、まったく必要ありません。あなたは、あなたを愛してくださる方を愛するのです。それで十分です。愛が増せば、力も増すでしょう。そして、心をつくして主を愛するやいなや、あなたは「なんら欠点のない、完全な、でき上がった」者となるのです(ヤコブ一・四)。平安のうちに、その時を待ちなさい。「平和の神」が、あなたを「全くきよめて」くださる時です。そして、あなたの「霊と心とからだとを完全に守って、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして」くださる時です(第一テサロニケ五・二三)。