ジョン・ウェスレー標準説教集

説教七 神の国への道

「神の国は近づきました。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ一・一五)

この言葉は、おのずから私たちに、次のことを考えさせます。第一に、まことの宗教の性質。主はここで、それを「神の国」と呼び、それが「近づいた」と言われます。第二に、そこに至る道。主はそれを、「悔い改めて福音を信ぜよ」という言葉で示しておられます。

【一】 まことの宗教の性質

(一) まず第一に、まことの宗教の性質を考えましょう。主はここで、それを「神の国」と呼んでおられます。偉大な使徒も、ローマ人への手紙で同じ表現を使っています。そこで使徒は、主の言葉をこう説明してもいます。「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとです」(ローマ一四・一七)。

(二) 「神の国」、すなわちまことの宗教は、「飲食では」ありません。回心していないユダヤ人が律法に熱心だったことは、よく知られています。けれども、キリストの信仰を受け入れた人々の多くも、それにもかかわらず「律法に熱心な人たち」でした(使徒二一・二〇)。それも、モーセの儀式律法に熱心だったのです。ですから彼らは、素祭や灌祭について、また清い食物と汚れた食物の区別について、律法に書かれていることは何でも自分で守りました。それだけではありません。「異邦人」(すなわち異教徒)「の中から神に帰依している人たち」にも(使徒一五・一九)、同じことを激しく迫ったのです。そうです、ある人たちは、異邦人のところへ行く先々で、こう説くほどでした。「割礼を受け」、律法を守らなければ、「救われない」(使徒一五・一、二四)。ここで律法とは、儀式律法の全体のことです。

(三) これらの人々に反対して、使徒は、ここでも、ほかの多くの箇所でも、こう宣言しています。まことの宗教は、飲食にあるのではなく、どんな儀式を守ることにあるのでもありません。実に、どんな外面的なものにもありません。心の外にあるものには、何一つないのです。その本質のすべては、「義と、平和と、聖霊における喜び」にあるのです。

(四) まことの宗教は、どんな外面的なものにもありません。形式や儀式にもありません。それが最もすぐれた種類のものであってもです。形式や儀式が、どれほどふさわしく、意味深いものだとしましょう。内なるものを、どれほどよく表すものだとしましょう。どれほど役に立つものだとしましょう。目に見えるものの先にはほとんど思いの及ばない一般の人々だけでなく、分別のある人、すぐれた能力を持つ人にとってさえ、役に立つとしましょう。確かに、ときにはそうでありうるのです。そうです、ユダヤ人の場合のように、神ご自身が定められたものだとしましょう。それでも、その定めが効力を持っている期間でさえ、まことの宗教は、おもにそこにあるのではありません。いや、厳密に言えば、まったくそこにはないのです。まして、人が定めただけの儀式や形式については、なおさらそう言わなければなりません。キリストの宗教は、これらすべてよりも、はるかに高くそびえ、はるかに深いところにあります。これらは、それぞれの場所ではよいものです。ただし、実際にまことの宗教に役立っているかぎりにおいてです。人間の弱さを折々に助けるものとしてだけ用いられているなら、それに反対するのは迷信でしょう。けれども、だれも、それ以上のものにしてはなりません。それ自体に何かの価値があるとか、それがなければ宗教は成り立たないとか、だれも夢にも思ってはなりません。そう思うなら、それを主の憎まれるものにしてしまうでしょう。

(五) 宗教の性質は、これら礼拝の形式や儀式にあるどころではありません。厳密に言えば、どんな種類の外面的な行いにもないのです。確かに、悪徳に満ちた不道徳な行いをする人は、宗教をまったく持つことができません。自分が同じ立場にあったら人にしてほしくないことを、人にする人もそうです。また、「なすべき善を知りながら行わな」い人も(ヤコブ四・一七)、本当の宗教を持つことはできません。これも確かです。けれども人は、外面的な悪を避け、善を行っていても、なお宗教を持っていないことがありえます。そうです、ふたりの人が同じ外面的なわざを行うことがあります。たとえば、飢えた人に食べさせることや、裸の人に着せることです。そのとき、一方は本当に宗教的で、もう一方はまったく宗教を持っていない、ということがありえます。一方は神への愛から行い、もう一方は称賛を愛する心から行うかもしれないからです。ですから、次のことは明らかです。まことの宗教は、おのずからあらゆる良い言葉と良いわざに導きます。けれども、その本当の性質は、さらに深いところに、すなわち「かくれた内なる人」にあるのです(第一ペテロ三・四)。

(六) 私が心と言うのは、こういうわけです。宗教は、正統信仰、すなわち正しい見解にあるのでもないからです。見解は、厳密には外面的なものではありません。けれども、心のうちにではなく、理解力のうちにあるのです。人は、あらゆる点で正統的でありうるでしょう。正しい見解を奉じるだけでなく、あらゆる反対者に対して、熱心にそれを守るかもしれません。主の受肉についても、永遠にほむべき三位一体についても、神の託宣に含まれるほかのあらゆる教理についても、正しく考えるかもしれません。三つの信条、すなわち使徒信条、ニカイア信条、アタナシオス信条のすべてに同意するかもしれません。それでも、その人がまったく宗教を持っていないことはありうるのです。ユダヤ人やトルコ人や異教徒と同じように、持っていないことがありうるのです。その人は、ほとんど悪魔と同じくらい正統的であるかもしれません。(もちろん、まったく同じではありません。人はみな何かで誤りますが、悪魔が誤った見解を持っているとは、とても考えられないからです。)それでいて、その間ずっと、悪魔と同じように、心の宗教とはまったく無縁であるかもしれないのです。

(七) これだけが、本当の意味での宗教です。これだけが、神のみまえに、きわめて尊いものです(第一ペテロ三・四)。使徒は、そのすべてを三つの項目にまとめています。「義と、平和と、聖霊における喜び」です。まず第一は、義です。義については、主の言葉を思い起こせば、迷うことはありません。主は、義の二つの大きな枝を述べておられます。この二つに、「律法全体と預言者とが、かかっている」のです(マタイ二二・四〇)。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第一のいましめです」(マルコ一二・三〇、マタイ二二・三八)。これが、クリスチャンの義の、第一の大きな枝です。あなたは、主なるあなたの神によって喜びをなすのです(詩篇三七・四)。あらゆる幸いを神のうちに求め、神のうちに見いだすのです。神は、この世でも永遠にも、あなたの「盾」となられます。あなたの受ける「報いは、はなはだ大きい」のです(創世記一五・一)。あなたの骨はことごとく、こう言うでしょう(詩篇三五・一〇)。「私はあなたのほかに、だれを天にもち得ましょう。地にはあなたのほかに慕うものはありません!」(詩篇七三・二五)「わが子よ、あなたの心をわたしに与え」よ、と言われる方がおられます(箴言二三・二六)。あなたは、その方の言葉を聞き、それを行うのです。そして、あなたは心を、魂の最も奥深いところを、神にささげます。神がそこを、競う者なく治められるためです。そうしたら、あなたは心に満ちあふれる思いで、こう叫んでよいのです。「わが力なる主よ、私はあなたを愛します。主はわが岩、わが城、私を救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです」(詩篇一八・一〜二)。

(八) そして、「第二もこれと同様」です(マタイ二二・三九)。クリスチャンの義の第二の大きな枝は、第一の枝と密接に、切り離せないほどに結びついています。それは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」という戒めです(マルコ一二・三一)。「愛せよ」とは、こういうことです。最もやさしい善意をもって、最も熱心で心からの情愛をもって、隣り人を抱きしめるのです。あらゆる悪を防ぎ、取り除き、できるかぎりの善をもたらそうとする、最も燃える願いをもって抱きしめるのです。「あなたの隣り人」とは、あなたの友、親族、知人だけではありません。徳のある人、親しみ深い人、あなたを愛してくれる人だけでもありません。あなたに先に親切にしてくれる人や、親切を返してくれる人だけでもありません。すべての人の子、すべての人間、神の造られたすべての魂です。一度も会ったことがなく、顔も名も知らない人も、例外ではありません。「恩を知らぬ者」や「悪人」だと知っている人も(ルカ六・三五)、今なおあなたを侮辱し迫害する人も、例外ではありません。その人を、あなたは自分のように愛さなければなりません。その人のあらゆる幸いを、自分の幸いと同じように、変わらず渇き求めるのです。その人の魂やからだを悲しませ傷つけるものから、自分を守るのと同じように、たゆまず心を配ってかばうのです。

(九) さて、この愛こそ「律法を完成するもの」であり(ローマ一三・一〇)、クリスチャンの義のすべてをまとめたものではないでしょうか。愛は、すべての内なる義をまとめたものです。愛には、必ず「あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容」が含まれるからです(コロサイ三・一二)。「愛は高ぶらない」ので、謙遜が含まれます。愛は「いらだたない」で、「すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」ので、慈愛と柔和と寛容が含まれます(第一コリント一三・四〜七)。また、愛は、すべての外なる義をまとめたものです。言葉によっても行いによっても、「愛は隣り人に害を加えることは」しないからです(ローマ一三・一〇)。愛は、だれをも、すすんで傷つけたり悲しませたりすることはできません。また、愛は良いわざに熱心です(テトス二・一四)。人を愛する者はみな、「機会のあるごとに、だれに対しても」「善を行」います(ガラテヤ六・一〇)。かたより見ず、偽りなく、「あわれみと良い実とに満ち」ているのです(ヤコブ三・一七)。

(一〇) けれども、まことの宗教、すなわち神と人とに対して正しい心には、聖性だけでなく幸いも含まれています。まことの宗教は、「義」であるだけでなく、「平和と、聖霊における喜び」でもあるからです。その平和とは何でしょうか。それは「神の平安」です。神だけが与えることができ、世が奪い去ることのできない平安です。「人知ではとうてい測り知ることのできない」平安(ピリピ四・七)、ただ理性で考えるだけではとらえきれない平安です。それは、「きたるべき世の力」を(ヘブル六・五)、超自然的に感じ取ること、神から与えられる味わいなのです。「生れながらの人」は、この世のことにどれほど賢くても、この平安を知りません。実に、今の状態のままでは、それを知ることもできません。それは「御霊によって判断されるべきであるから」です(第一コリント二・一四)。それは、あらゆる疑い、あらゆる苦しい不確かさを追い払う平安です。神の御霊が、クリスチャンの霊と共に、その人が「神の子」であることをあかししてくださるからです(ローマ八・一六)。また、この平安は恐れを、「懲らしめが伴」う恐れをすべて、追い払います(第一ヨハネ四・一八)。神の怒りへの恐れ、地獄への恐れ、悪魔への恐れ、そして特に、死への恐れです。神の平安を持つ人は、もしそれが神のみこころなら、「この世を去ってキリストと共にいること」を願うのです(ピリピ一・二三)。

(一一) この神の平安が魂のうちに据えられるところには、どこでも、「聖霊における喜び」もあります。聖霊によって、永遠にほむべき神の御霊によって、心のうちに造り出される喜びです。聖霊こそ、私たちのうちに、キリスト・イエスを通して神を喜ぶ、静かでへりくだった喜びを造り出してくださる方です。キリストは、私たちに「今や和解を得させて」くださった方です(ローマ五・一一)。この「和解」は、ギリシャ語でカタラゲーン(καταλλαγήν)、すなわち神との和解です。また聖霊は、王である詩人の宣言が真実であることを、大胆に確かめさせてくださいます。「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいです」(詩篇三二・一)。聖霊こそ、クリスチャンの魂に、むらのない、ゆるぎない喜びを吹き込んでくださる方です。それは、自分が神の子であるという御霊のあかしから生まれる喜びです。聖霊はまた、その人を「言葉につくせない」喜びにあふれさせ(第一ペテロ一・八)、「神の栄光にあずかる希望をもって喜」ばせてくださいます(ローマ五・二)。それは、神の栄光あるかたちへの希望です。そのかたちは、今は部分的に、やがては完全に、その人に「現される」のです(ローマ八・一八)。また、その人のために天にたくわえられている、「しぼむことのない栄光の冠」への希望です(第一ペテロ五・四、一・四)。

(一二) この聖性と幸いは、一つに結び合わされて、聖書の中で、ときには「神の国」と呼ばれます(本文の主の言葉がそうです)。また、ときには「天国」と呼ばれています。それが「神の国」と呼ばれるのは、それが、神が魂のうちに支配されることの、じかの実だからです。神が大いなる御力をふるい(黙示録一一・一七)、私たちの心に王座を据えられるやいなや、心はたちまちこの「義と、平和と、聖霊における喜び」で満たされます。また、それが「天国」と呼ばれるのは、それが、ある程度まで、魂のうちに開かれた天だからです。これを経験する人はだれでも、御使たちと人々の前で、こう断言できるからです。

永遠のいのちは勝ち取られ、栄光は地上に始まった。

それは、聖書の一貫した趣旨のとおりです。聖書は、いたるところであかししています。「神が永遠のいのちを私たちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにある」のです。「御子を持つ者はいのちを持」っています(第一ヨハネ五・一一〜一二)。御子を持つとは、御子が心のうちで治めておられることです。その人は、いのちを、永遠のいのちを持っているのです。「永遠のいのちとは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」(ヨハネ一七・三)。これを与えられた人々は、たとえ燃える炉の中にいても(ダニエル三章)、確信をもって神にこう語りかけることができます。

主よ、あなたの力に守られて安らかに、神の子よ、エホバよ、私たちはあなたを拝します。人の姿をとって降り、現れてくださった方を。あなたに、絶えることのないハレルヤがささげられますように。天にあるあなたの王座にささげるように、私たちはここで賛美をささげます。あなたの臨在が現されるところ、そこが天なのですから。

(一三) そして、この「神の国」、すなわち天国は、「近づいた」のです。この言葉が最初に語られたとき、それは、そのとき「時は満ちた」ということを意味していました(マルコ一・一五)。神は「肉において現れ」(第一テモテ三・一六)、人々の間にご自分の国を打ち立て、ご自分の民の心のうちに支配しようとしておられたのです。では、今も時は満ちているのではないでしょうか。主はこう言われるからです。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのです」(マタイ二八・二〇)。「あなたがた」とは、主の名によって罪の赦しを宣べ伝える人々のことです。ですから、キリストの福音が宣べ伝えられるところでは、どこでも、キリストのこの国が近づいているのです。それは、あなたがたひとりびとりから遠く離れてはいません(使徒一七・二七)。もしあなたがたが、「悔い改めて福音を信ぜよ」という主の声に聞き従うなら、今この時に、その国に入ることができるのです。

【二】 神の国に至る道

(一) 「これは道だ、これに歩みなさい」(イザヤ三〇・二一)。まず第一に、「悔い改め」なさい。すなわち、自分自身を知りなさい。これが、信仰に先立つ最初の悔い改めです。すなわち、罪の自覚、自分を知ることです。ですから、「眠っている者よ、起きなさい」(エペソ五・一四)。自分が罪人であること、またどのような罪人であるかを知りなさい。あなたの最も奥深い性質の腐敗を知りなさい。その腐敗によって、あなたは原初の義から、はるかに遠く離れています(三十九箇条第九条)。その腐敗によって、「肉の欲するところ」はいつも「御霊に反」しています(ガラテヤ五・一七)。それは、「肉の思い」のためです。「肉の思いは神に敵する」ものであり、「神の律法に従わず、否、従い得ない」のです(ローマ八・七)。あなたは、魂のあらゆる力、あらゆる能力において腐敗していることを知りなさい。その一つ一つにおいて、すっかり腐敗しているのです。「もろもろの基はゆり動」いています(詩篇八二・五)。あなたの悟りの目は暗くなっていて、神をも、神のことをも見分けることができません。無知と誤りの雲があなたの上にとどまり、死の陰であなたをおおっています。あなたは、神のことも、世のことも、自分のことも、知らなければならないほどには、まだ何も知っていません(第一コリント八・二)。あなたの意志は、もはや神の意志ではありません。まったくひねくれ、ゆがんでいます。あらゆる善、神の愛されるすべてのものを嫌い、あらゆる悪、神の憎まれるあらゆる忌まわしいものに傾いています。あなたの情愛は神から離れ、地の全面に散らされています。あなたのあらゆる感情、すなわち願いと嫌悪、喜びと悲しみ、望みと恐れは、すべて調子が狂っています。程度がふさわしくないか、ふさわしくない対象に向けられているのです。そのため、あなたの魂には「完全なところがな」いのです。預言者の強い表現を借りれば、「足のうらから頭まで」、「傷と打ち傷と生傷ばかり」なのです(イザヤ一・六)。

(二) これが、あなたの心の、あなたの最も奥深い性質の、生まれながらの腐敗です。そのような悪い根から、どんな枝が育つと期待できるでしょうか。ここから不信仰が生じます。不信仰は、いつも「生ける神から離れ去」ります(ヘブル三・一二)。そして、こう言います。「主とはいったい何者か」(出エジプト五・二)。「これに仕えねばならないのか」(ヨブ二一・一五)。「ふん、神よ、あなたは気にもかけない」(詩篇一〇・一三)。ここから、神に頼らない自立心が生じます。「いと高き者のようになろう」とするのです(イザヤ一四・一四)。ここから、あらゆる形の高ぶりが生じます。高ぶりは、あなたにこう言わせます。「自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もない」(黙示録三・一七)。この悪い泉から、苦い流れが流れ出ます。虚栄、称賛への渇き、野心、貪欲、「肉の欲、目の欲、持ち物の誇」です(第一ヨハネ二・一六)。ここから、怒り、憎しみ、悪意、復讐、ねたみ、そねみ、邪推が起こります。ここから、あらゆる愚かで有害な欲が起こります。その欲は今、あなたを「多くの苦痛をもって」「刺しとお」しています。そして、早いうちに止めなければ、ついにはあなたの魂を永遠の滅びに沈めるでしょう(第一テモテ六・九〜一〇)。

(三) では、このような枝に、どんな実がなるでしょうか。苦く、いつも悪い実ばかりです(創世記六・五)。高ぶりからは、争いが生じます(箴言一三・一〇)。むなしい自慢が生じ、人からの誉れを求めて受けることが生じます。こうして、神がほかの者に与えることのできない栄光を(イザヤ四二・八)、神から奪うのです。肉の欲からは、大食や酒酔い、享楽や好色、不品行、汚れが生じます。こうして、聖霊の宮として造られたからだを(第一コリント六・一九)、さまざまに汚すのです。不信仰からは、あらゆる悪い言葉と悪いわざが生じます。けれども、そのすべてを数え上げようとすれば、時間が足りないでしょう(ヘブル一一・三二)。あなたが語った無益な言葉のすべてです。その言葉は、いと高き方を怒らせ、イスラエルの聖者を悲しませてきました。あなたが行った悪いわざのすべてです。それ自体がまったく悪いわざか、少なくとも神の栄光のために行われなかったわざです。あなたの自罪は、言い表せないほど多く、あなたの頭の毛よりも多いのです(詩篇四〇・一二)。だれが、海の砂や雨のしずくを、あるいはあなたの不義を、数えることができるでしょうか。

(四) あなたは、「罪の支払う報酬は死である」ことを知らないのでしょうか(ローマ六・二三)。それは、この世の死だけでなく、永遠の死です。「罪を犯した魂は必ず死ぬ」のです(エゼキエル一八・四)。「主がその口で語られた」からです(イザヤ一・二〇)。その魂は、第二の死を死ぬのです(黙示録二〇・一四)。これが宣告です。終わりのない死によって罰せられること、「主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受ける」ことです(第二テサロニケ一・九)。あなたは知らないのでしょうか。すべての罪人は、ギリシャ語で言えば、エノコス・エスティ・テー・ゲエンネー・トゥー・ピュロス(ἔνοχός ἐστι τῇ γεέννῃ τοῦ πυρός)なのです(マタイ五・二二)。これを「地獄の火の危険がある」と訳すのは正確でなく、あまりにも弱すぎます。むしろ、「地獄の火の宣告を受けている」のです。すでに刑を言い渡され、今まさに処刑へと引かれて行くところなのです。あなたは、永遠の死に値する罪を負っています。それは、あなたの内と外との悪に対する、正当な報いです。その宣告が今、執行されても、それは正しいことです。あなたは、これがわかりますか。これを感じていますか。自分が神の怒りと永遠の刑罰に値することを、心の底から確信していますか。もし今、神が地に命じて口を開かせ、あなたをのみつくさせたとしても、神はあなたに少しも不当なことをなさらないのではありませんか。あなたが今、生きながら陰府に下り、消えない火の中に落ちたとしても、そうではありませんか(民数記一六・三〇、マルコ九・四三)。もし神があなたに本当に悔い改めさせてくださったなら、あなたは、そのとおりだと深く感じているはずです。そして、あなたが滅ぼし尽くされず、地の面から一掃されずにいるのは、ただ神のあわれみによるのだと感じているはずです。

(五) では、神の怒りをなだめ、あなたのすべての罪をつぐない、当然受けるべき罰を逃れるために、あなたは何をするのでしょうか。ああ、あなたは何もできません。ただ一つの悪いわざ、悪い言葉、悪い思いについてさえ、神につぐないをすることは、何一つできないのです。今、すべてのことをよく行えたとしましょう。今この時から、魂が神のもとに帰るときまで、完全で途切れのない従順を果たせたとしましょう。それでも、過去のことをつぐなうことはできません。負債を増やさないことは、負債を払うことにはなりません。負債は、今までと同じだけ大きく残るでしょう。そうです、地上のすべての人と天のすべての御使とが、今もこれからも従順を尽くすとしましょう。それでも、ただ一つの罪についてさえ、神の正義を満たすことは決してできないでしょう。それなら、自分にできる何かによって自分の罪をつぐなおうと考えたのは、なんとむなしいことだったでしょう。ひとりの魂をあがなうには、全人類が支払えるよりも、はるかに多くの代価がかかります。ですから、もし罪責を負った罪人にほかの助けがなかったなら、その人は疑いもなく、永遠に滅びるほかなかったでしょう。

(六) けれども、これからの完全な従順が、過去の罪をつぐなえると仮定してみましょう。それでも、あなたには何の益にもなりません。あなたは、それを果たすことができないからです。そうです、どれか一つの点でさえ、できないのです。今、始めてごらんなさい。試してごらんなさい。あなたにからみつく、あの外面的な罪を、かなぐり捨ててごらんなさい(ヘブル一二・一)。あなたにはできません。それなら、どうして、あなたの生活を、あらゆる悪からあらゆる善へと変えることができるでしょうか。実に、まずあなたの心が変えられなければ、それは不可能です。木が悪いままであるかぎり、良い実をならせることはできないからです(マタイ七・一八)。けれども、あなたは、自分の心を、あらゆる罪からあらゆる聖性へと変えることができるでしょうか。罪のうちに死んでいる魂、神に対して死に、世に対してだけ生きている魂を、生かすことができるでしょうか。それは、死んだからだを生かし、墓に横たわる人をよみがえらせることができないのと同じです。そうです、あなたは、自分の魂を少しも生かすことができません。死んだからだに少しもいのちを与えられないのと同じです。このことについて、あなたは大きなことも小さなことも、何一つできません。あなたはまったく無力なのです。自分がどれほど罪責を負い、どれほど罪深いかだけでなく、どれほど無力であるかを深く感じること。これこそ、「悔いのない」悔い改めであり(第二コリント七・一〇)、神の国の先触れなのです。

(七) あなたは今、自分の内と外との罪を、いきいきと自覚しているとしましょう。自分がまったく罪責を負い、まったく無力であることを自覚しているとしましょう。それに、ふさわしい情愛が加わるとしましょう。すなわち、自分の受けたあわれみを軽んじてきたことを、心から悲しむこと。自責の念と、自分を罪に定める思いとで、口をふさがれること(ローマ三・一九)。目を天に向けることさえ恥じること(ルカ一八・一三)。あなたの上にとどまる神の怒りを(ヨハネ三・三六)、あなたの頭上にかかる神ののろいを恐れること。神を忘れ、私たちの主イエス・キリストに聞き従わない者たちを焼きつくそうとしている、激しい火を恐れること(ヘブル一〇・二七、第二テサロニケ一・八)。その激しい火を逃れたいと、悪を行うことをやめ、善を行うことをならいたいと、切に願うこと(イザヤ一・一六〜一七)。そうであるなら、私は主の名によって、あなたに言います。「あなたは神の国から遠くありません」(マルコ一二・三四)。もう一歩で、あなたはそこに入るでしょう。あなたは「悔い改め」ています。今、「福音を信じ」なさい。

(八) 福音とは、良い知らせ、罪責を負った無力な罪人への良いおとずれのことです。その最も広い意味では、イエス・キリストによって人に与えられた啓示の全体を指します。また、ときには、主が人々のうちに宿っておられた間に(ヨハネ一・一四)、なさったこと、苦しまれたことの記録の全体を指します。そのすべての中心は、こうです。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきてくださいました」(第一テモテ一・一五)。あるいは、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださいました」。それは、私たちが「滅びないで、永遠のいのちを得るため」です(ヨハネ三・一六)。あるいは、「彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのです。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのです」(イザヤ五三・五)。

(九) これを信じなさい。そうすれば、神の国はあなたのものです。信仰によって、あなたは約束のものを得るのです。「神は、まことに悔い改め、その聖なる福音を偽りなく信じるすべての者を、赦し、罪から解き放たれます」(祈祷書「朝の祈り」)。神があなたの心に、「しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と語られるやいなや(マタイ九・二)、神の国が来ます。あなたは、「義と、平和と、聖霊における喜びと」を持つのです。

(一〇) ただ、この信仰の性質について、自分の魂を欺かないように気をつけなさい。ある人々は愚かにも、信仰とはただの同意だと考えてきました。聖書の真理や、信条の箇条や、旧約と新約に含まれるすべてのことに、ただ同意することだと言うのです。けれども、信仰はそのようなものではありません。悪霊どもでさえ、私やあなたと同じように、それを信じています! それでも、悪霊どもは今なお悪霊なのです(ヤコブ二・一九)。信仰とは、それに加えて、キリスト・イエスを通して神のあわれみに寄せる、確かな信頼です。赦してくださる神への信頼です。信仰とは、神から与えられる証拠、あるいは確信です。「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その」以前の「罪過の責任をこれに負わせることを」なさらなかった、という確信です(第二コリント五・一九)。特に、神の御子が私を愛し、私のためにご自身をささげられたという確信です(ガラテヤ二・二〇)。また、ほかならぬこの私が、今、十字架の血によって神と和解させられているという確信です(コロサイ一・二〇)。

(一一) あなたは、このように信じていますか。それなら、神の平安があなたの心にあり、「悲しみと嘆きとは逃げ去」ります(イザヤ三五・一〇)。あなたは、もはや神の愛を疑いません。それは真昼の太陽のように明らかです。あなたは叫びます。「主よ、私はとこしえにあなたのいつくしみを歌い、私の口をもってあなたのまことをよろずよに告げ知らせます」(詩篇八九・一)。あなたは、もはや地獄も死も恐れません。かつて「死の力を持つ者」であった「悪魔」も恐れません(ヘブル二・一四)。そうです、神ご自身をさえ、苦しみをもって恐れることはありません。ただ、神のみこころをそこなうことを恐れる、子としてのやさしい恐れを持つだけです。あなたは信じていますか。それなら、あなたの「魂は主をあがめ」、あなたの「霊は救主なる神をたたえ」ます(ルカ一・四六〜四七)。あなたは、「その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるし」を受けたことを喜びます(エペソ一・七)。あなたは、「子たる身分を授ける霊」を喜びます(ローマ八・一五)。その霊は、あなたの心の中で「アバ、父よ」と呼ぶのです(ガラテヤ四・六)。あなたは、「不死に満ちた希望」を喜びます(知恵の書三・四)。前のものに向かってからだを伸ばし、「目標を目ざして」、上に召してくださる神の「賞与」を得ようとすることを喜びます(ピリピ三・一三〜一四)。神がご自分を愛する者たちのために備えられた、あらゆる良いものを、切に待ち望むことを喜びます(第一コリント二・九)。

(一二) あなたは今、信じていますか。それなら今、「神の愛が」あなたの「心に注がれている」のです(ローマ五・五)。あなたは神を愛します。神がまず私たちを愛してくださったからです(第一ヨハネ四・一九)。そして、神を愛するので、兄弟をも愛します(第一ヨハネ四・二一)。「愛、喜び、平和」に満たされて、あなたは「寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」にも満たされます。また、同じ御霊のほかのすべての実にも満たされます(ガラテヤ五・二二〜二三)。一言で言えば、聖なる、天的な、神的な、あらゆる心の状態に満たされるのです。あなたは今や覆いを取り除かれ、「顔おおいなしに、主の栄光を」見つめています。主の栄光ある愛を、あなたがそれに似せて造られた栄光あるかたちを見つめています。そのとき、あなたは「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」のです。「これは霊なる主の働きによる」のです(第二コリント三・一八)。

(一三) この悔い改め、この信仰、この平安、喜び、愛、栄光から栄光へのこの変化。世の知恵は、これを狂気、ただの熱狂、まったくの乱心だと決めつけてきました。けれども、神の人よ(第一テモテ六・一一)、あなたはそれを気にかけてはなりません。それらのどれにも、心を動かされてはなりません。あなたは、自分の信じてきたかたを知っています(第二テモテ一・一二)。あなたの冠がだれにも奪われないようにしなさい(黙示録三・一一)。すでに達し得たところを堅く守り、それに従って進みなさい(ピリピ三・一六)。尊く、大いなる約束のすべてを得るまで、追い求めなさい(第二ペテロ一・四)。また、まだ神を知らないあなたも、むなしい人々のために、キリストの福音を恥じるようになってはなりません(ローマ一・一六)。自分が知りもしないことをそしる人々に(ユダ一〇)、何事についても、うろたえさせられてはなりません(ピリピ一・二八)。神はまもなく、あなたの憂いを喜びに変えてくださいます(ヨハネ一六・二〇)。ああ、あなたの手をなえさせてはなりません! もうしばらくすれば、神はあなたの恐れを取り去り、慎みの霊を与えてくださいます(第二テモテ一・七)。あなたを「義とする者が近くおられ」ます(イザヤ五〇・八)。「だれが」「罪に定めるのでしょうか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し」、今も、あなたの「ためにとりなして」くださるのです(ローマ八・三四)。

今、あなたのすべての罪を、それがどれほど多くても、携えたまま、神の小羊に身を投げかけなさい。そうすれば今、「私たちの主また救主イエス・キリストの」国に「入る恵みが」、あなたに「豊かに与えられる」のです(第二ペテロ一・一一)。