ジョン・ウェスレー標準説教集

説教六 信仰による義

「モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いています。しかし、信仰による義は、こう言っています。『あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな』。それは、キリストを引き降ろすことです。また、『だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな』。それは、キリストを死人の中から引き上げることです。では、なんと言っているでしょうか。『言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある』。この言葉とは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉です」(ローマ一〇・五〜八)

(一) 使徒はここで、モーセによって与えられた契約を、キリストによって与えられた契約と対立させているのではありません。もし私たちがそう考えたことがあるなら、それは次のことに気づかなかったからです。この言葉は、前半だけでなく後半も、モーセ自身がイスラエルの民に語ったものです。しかも、当時の契約について語ったものです(申命記三〇・一一、一二、一四)。聖パウロがここで対立させているのは、恵みの契約と行いの契約です。恵みの契約は、神がキリストを通して、あらゆる時代の人々と結ばれたものです。ユダヤ人の時代より前にも、その時代にも、また神が肉において現れて以来も、そうです。行いの契約は、アダムが楽園にいたときに、アダムと結ばれたものです。ところが、一般には、これが、神が人と結ばれた唯一の契約だと考えられていました。使徒がここで書いているユダヤ人たちは、特にそう考えていました。

(二) 使徒がこの章の初めで、深い愛情をこめて語っているのは、この人々のことです。「私の心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることです。私は、彼らが神に対して熱心であることはあかししますが、その熱心は深い知識によるものではありません。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからです」(ローマ一〇・一〜三)。ここで「神の義」とは、ただ神の恵みとあわれみから流れ出る義認のことです。神は、愛する御子を通して、イエスにあるあがないによって、私たちの罪を価なしに赦してくださるのです。「自分の義」とは、「不信心な者を義とするかた」を信じる前の(ローマ四・五)、自分の聖性のことです。彼らは、それを赦しと受け入れの根拠にしようとしました。そのため彼らは、生き方を誤って、死を招いているのです。

(三) 彼らは、「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられた」ことを知りませんでした(ローマ一〇・四)。キリストは、ただ一度ささげられたご自身という供え物によって、最初の律法、すなわち最初の契約を終わらせられたのです。この契約は、実は神がモーセに与えられたものではなく、罪のない状態にあったアダムに与えられたものです。その厳格な趣旨は、少しも割り引かれることなく、「これを行え、そして生きよ」というものでした。そして同時に、キリストは、あのよりすぐれた契約を、私たちのために買い取ってくださいました。「信じよ、そして生きよ」という契約です。信じなさい、そうすれば、あなたは救われます。今、救われるのです。罪の罪責からも、罪の力からも救われ、したがって、罪の報酬からも救われるのです。

(四) そして今も、同じように知らない人が、なんと多いことでしょう。キリストの名で呼ばれている人々の中にさえ、多くいるのです。今も「神に対して熱心」でありながら、その熱心が「深い知識によるものではない」人が(ローマ一〇・二)、なんと多いことでしょう。彼らは今なお、赦しと受け入れの根拠として、「自分の義を立てようと努め」ています。そのため、「神の義に従」うことを、激しく拒んでいるのです(ローマ一〇・三)。兄弟たちよ、確かに、私の心の願い、あなたがたのために神にささげる祈は、あなたがたが救われることです(ローマ一〇・一)。そこで、この大きなつまずきの石を、あなたがたの道から取り除くために、次のことを示すよう努めます。第一に、律法による義とは何か、また「信仰による義」とは何か。第二に、律法の義に頼ることの愚かさと、信仰による義に従うことの知恵。

【一】 律法による義と信仰による義

(一) まず第一に、律法による義は、こう言っています。「もし人が、これを行うならば、これによって生きるでしょう」(レビ記一八・五)。これらのことをすべて、絶えず、完全に守り行いなさい。そうすれば、あなたは永遠に生きる、というのです。この律法、すなわちこの契約は(ふつう「行いの契約」と呼ばれます)、神が楽園で人に与えられたものです。人は、聖であり幸いである状態に造られました。この契約は、人がその状態に永遠にとどまる条件として、あらゆる部分で完全な従順を求めました。何一つ欠けたところのない、全き従順です。

(二) この契約は、人が、すべての義を満たすことを求めました。内なる義も外なる義も、消極的な義も積極的な義もです。人は、あらゆる無益な言葉を慎み、あらゆる悪いわざを避けるだけでは足りませんでした。あらゆる情愛、あらゆる願い、あらゆる思いを、神のみこころに従わせなければなりませんでした。人を造られた方が聖であるように、人も、心においても、あらゆるふるまいにおいても、聖であり続けなければなりませんでした(第一ペテロ一・一五)。神がきよくあられるように、心のきよい者でなければなりませんでした(第一ヨハネ三・三)。天の父が完全であられるように、完全でなければなりませんでした(マタイ五・四八)。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なる自分の神を愛さなければなりませんでした(マルコ一二・三〇)。神が人を愛されたように、人も、神の造られたすべての魂を愛さなければなりませんでした。このすべてに及ぶ慈愛によって、人は神のうちに住み(神は愛です)、神も人のうちに住まれるはずでした(第一ヨハネ四・一六)。そして、力をつくして主なる自分の神に仕え、すべてのことにおいて、ひたすら神の栄光を目指すことが求められたのです。

(三) これらが、律法の義の求めたことでした。それを行う人が、それによって生きるためです。けれども、律法の義は、さらに求めました。神へのこの全き従順、この内と外との聖性、心も生活も神のみこころにかなうこと。これらが、程度においても完全であることです。外なる律法についても、内なる律法についても、その一点一画に少しでも足りないところがあれば、割り引きも容赦もまったくありえませんでした。外のことにかかわる戒めをすべて守ったとしても、それで十分ではありませんでした。どの戒めも、力をつくして、最高の度合いで、最も完全な仕方で守らなければならなかったのです。また、あらゆる力、あらゆる能力で神を愛しても、それだけでは、この契約の求めにこたえたことになりませんでした。その一つ一つの力を限りまで用い、魂にできるかぎりのすべてをもって、神を愛さなければならなかったのです。

(四) 律法の義は、もう一つのことを、欠くことのできないものとして求めました。このすべてにわたる従順、心と生活とのこの完全な聖性が、まったく途切れずに続くことです。それは、神が人を造り、その鼻にいのちの息を吹き入れられた瞬間から始まります(創世記二・七)。そして、試みの日々が終わり、人が永遠のいのちに堅く立てられるときまで、少しも休まず続かなければなりませんでした。

(五) ですから、律法による義は、こう言っています。「神の人よ、愛のうちに、あなたが造られた神のかたちのうちに、しっかりと立ちなさい。いのちにとどまりたいと思うなら、いましめを守りなさい。いましめは今、あなたの心に書き記されています。心をつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。神が造られたすべての魂を、自分のように愛しなさい。神のほかに、何も望んではなりません。あらゆる思い、あらゆる言葉とわざにおいて、神を目指しなさい。からだや魂のただ一つの動きにおいても、神からそれてはなりません。神こそ、あなたの目標であり、上への召しの賞与なのです。あなたのうちなるすべてのものに、その聖なるみ名をほめさせなさい(詩篇一〇三・一)。あなたの魂のあらゆる力、あらゆる能力に、あらゆる種類、あらゆる程度において、ほめさせなさい。あなたが存在するあらゆる瞬間に、ほめさせなさい。『そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られます』(ルカ一〇・二八)。あなたの光は輝き、あなたの愛はますます燃え上がります。そしてついに、あなたは天にある神の家に迎え入れられ、世々限りなく神と共に支配するのです」。

(六) 「しかし、信仰による義は、こう言っています。『あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな』。それは、キリストを引き降ろすことです」(ローマ一〇・六)。これは、天に上ることが、何か不可能な務めであるかのように考えるな、ということです。あなたが受け入れられるために、前もって果たすよう神から求められた務めであるかのようにです。「また、『だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな』。それは、キリストを死人の中から引き上げることです」(ローマ一〇・七)。これは、あなたが受け入れられるためには、それがまだなされずに残っているかのように考えるな、ということです。「では、なんと言っているでしょうか。『言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある』。この言葉とは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉です」(ローマ一〇・八)。この言葉の趣旨に従えば、あなたは今、永遠のいのちの相続人として受け入れられることができます。この言葉は、神が今、キリスト・イエスを通して、罪深い人と結ばれた新しい契約なのです。

(七) 「信仰による義」とは、義認の条件のことです。神が、そのひとり子の功績ととりなしによって、堕落した人に与えられた条件です。そして、もし私たちが最後までそのうちに耐え忍ぶなら、それは結果として、今の救いと最終的な救いとの条件でもあります。これは、アダムが堕落してまもなく、アダムに部分的に啓示されました。アダムとその子孫に与えられた最初の約束に、含まれていたのです。それは、女のすえが、へびの「かしらを砕」く、という約束です(創世記三・一五)。アブラハムには、天からの神の使によって、もう少しはっきりと啓示されました。使はこう言いました。「主は言われました。『わたしは自分をさして誓います。地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るでしょう』」(創世記二二・一六、一八)。それは、モーセに、ダビデに、そしてその後の預言者たちに、さらに十分に知らされました。そして彼らを通して、それぞれの時代の神の民の多くに知らされました。それでも、この人々の大部分でさえ、それを知らずにいました。それをはっきり理解していた人は、ごくわずかでした。今、キリストは私たちに、「福音によっていのちと不死とを明らかに示され」ました(第二テモテ一・一〇)。けれども、昔のユダヤ人には、それほど明らかには示されていなかったのです。

(八) さて、この契約は、罪深い人に向かって、「罪のない従順を果たせ、そして生きよ」とは言いません。もしそれが条件であれば、キリストが人のためになさったこと、苦しまれたことのすべても、人には何の益にもなりません。いのちを得るために、「天に上」って「キリストを引き降ろす」よう求められるのと、変わらないでしょう。あるいは、目に見えない世界である「底知れぬ所に下」って、「キリストを死人の中から引き上げる」よう求められるのと、変わらないでしょう(ローマ一〇・六〜七)。この契約は、不可能なことを行うよう求めはしません。(もっとも、この契約の求めることも、ただの人には不可能でしょう。けれども、神の御霊に助けられた人には不可能ではありません。)不可能なことを求めるのは、人間の弱さをあざけることにほかならないでしょう。実際、厳密に言えば、恵みの契約は、私たちの義認のために絶対に欠かせないこととして、何かを行うよう求めることはまったくありません。ただ、信じることだけを求めます。神は、御子のゆえに、また御子のなさったあがないの供え物のゆえに、「働きはなくても」「不信心な者を義とする」かたです。そして、その人の信仰を義と認められます(ローマ四・五)。その神を信じることだけを求めるのです。そのように、アブラハムも「主を信じ」ました。「主はこれを彼の義と認められ」たのです(創世記一五・六)。「そして、アブラハムは割礼というしるしを受けましたが、それは」「信仰によって受けた義の証印」でした。それは、アブラハムが「信じて義とされるに至るすべての人の父とな」るためでした(ローマ四・一一)。「しかし『義と認められた』と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、私たちのためでもあって、私たちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じる私たちも、義と認められるのです。主は、私たちの罪過のために死に渡され、私たちが義とされるために、よみがえらされたのです」(ローマ四・二三〜二五)。「義と認められた」というのは、信仰が義と認められた、ということです。私たちにも、信仰が義と認められます。すなわち、私たちが神に受け入れられるために、信仰が完全な従順の代わりとなるのです。また、「私たちが義とされるために」とは、信じる者に、罪の赦しと、来たるべき第二のいのちとを、確信させるため、ということです。

(九) では、赦しの契約、受けるに値しない者への愛の契約、赦しのあわれみの契約は、何と言っているでしょうか。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなた」は「救われます」(使徒一六・三一)。あなたが信じるその日に、あなたはきっと生きるでしょう。あなたは、神の恵みのうちに回復されます。そして、神に喜ばれることのうちに、いのちがあるのです。あなたは、のろいからも、神の怒りからも救われます。あなたは生かされて、罪の死から義のいのちへと移されます。そして、イエスを信じ続けて最後まで耐え忍ぶなら、あなたは決して第二の死を味わいません。むしろ、あなたの主と共に苦しんだ者として、主と共に生き、世々限りなく主と共に支配するのです。

(一〇) さて、「言葉はあなたの近くにあ」ります(ローマ一〇・八)。このいのちの条件は、明白で、やさしく、いつも手の届くところにあります。神の御霊の働きによって、それは「あなたの口にあり、心にある」のです。あなたが「自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じ」、「自分の口で、イエスは主であると告白」する、その瞬間に、「あなたは救われ」ます(ローマ一〇・九)。イエスを、あなたの主、あなたの神と言い表すのです。そのとき、あなたは罪の宣告から救われ、以前の罪の罪責と罰から救われます。そして、生涯の残りのすべての日に、まことの聖性をもって神に仕える力を持つようになります。

(一一) では、「律法による義」と「信仰による義」との違いは何でしょうか。最初の契約、すなわち行いの契約と、第二の契約、すなわち恵みの契約との違いは何でしょうか。本質的で、変わることのない違いは、こうです。一方の契約は、それを与えられる人が、すでに聖であり幸いであることを前提としています。神のかたちに造られ、神の恵みを享受している人です。そして、その人がその状態に、愛と喜び、いのちと不死のうちに、とどまり続けるための条件を定めています。他方の契約は、それを与えられる人が、今は聖でなく不幸であることを前提としています。その人は、神の栄光あるかたちを失い、神の怒りがその上にとどまっています(ヨハネ三・三六)。その魂は、罪によってすでに死んでいます。そして、その罪によって、からだの死へ、さらに永遠の死へと急いでいます。そして、この状態にある人のために、条件を定めています。失った真珠を取り戻し、神の恵みと神のかたちを回復し、魂のうちに神のいのちを取り戻すための条件です。神を知り、神を愛する者に、再びされるための条件です。神を知り、神を愛することこそ、永遠のいのちの始まりなのです。

(一二) また、行いの契約は、完全な人に、神の律法のあらゆる点への、完全で途切れのない従順を求めました。それは、人が神の恵みのうちに、神を知り神を愛することのうちに、聖性と幸いのうちに、とどまり続けるためでした。これに対して、恵みの契約は、人が神の恵みと神のいのちを回復するために、ただ信仰だけを求めます。それは生きた信仰です。神によって、従わなかった者を義とされる方を信じる、生きた信仰です。

(一三) さらにまた、行いの契約は、アダムとそのすべての子らに、自分で代価を支払うことを求めました。その代価と引き換えに、神のこれからのすべての祝福を受けるはずだったのです。けれども、恵みの契約では、私たちには支払うものが何もないので、神は私たちをみな、価なしに「ゆるして」くださいます(ルカ七・四二)。ただ、私たちのために代価を支払ってくださった方を、信じさえすればよいのです。その方は、ご自身を「私たちの罪のための、あがないの供え物」としてくださいました。「全世界の罪のため」の供え物です(第一ヨハネ二・二)。

(一四) このように、最初の契約は、今はすべての人の子から遠く離れたものを求めました。すなわち、罪のない従順です。それは、「罪のうちにみごもられ、罪のうちに生まれた」者からは、遠く離れています(祈祷書「幼児洗礼式」)。これに対して、第二の契約は、すぐ近くにあるものを求めます。あたかも、こう言っているかのようです。「あなたは罪です! 神は愛です! あなたは罪によって、神の栄光を受けられなくなっています(ローマ三・二三)。けれども、神にはあわれみがあります。ですから、あなたのすべての罪を、赦してくださる神のもとに携えて来なさい。そうすれば、罪は雲のように消え去ります。もしあなたが不信心でなかったら、神があなたを不信心な者として義とされる余地はなかったでしょう。けれども今、『信仰の確信に満たされつつ』近づきなさい(ヘブル一〇・二二)。神が仰せられると、そのようになるのです(詩篇三三・九)。『恐れることはない。ただ信じなさい』(マルコ五・三六)。正しい神ご自身が、イエスを信じる者をすべて義とされるからです」。

【二】 律法による義に頼る愚かさと、信仰による義に従う知恵

(一) これらのことを考えれば、第二に示そうと予告したことを示すのは、たやすいでしょう。すなわち、「律法による義」に頼ることの愚かさと、「信仰による義」に従うことの知恵です。

「律法による義」の条件は、「これを行え、そして生きよ」です。今なおこの義に頼る人々の愚かさは、次のことから十分に明らかになるでしょう。彼らは、出発から間違っています。その最初の一歩が、根本的な誤りです。なぜなら、この契約の条件によって何かの祝福を求めようと考えるには、その前に、自分がこの契約の相手と同じ状態にあると想定しなければならないからです。けれども、この契約は、罪のない状態にあったアダムと結ばれたものです。ですから、これはなんとむなしい想定でしょう。そのような土台の上に立つ建物は、全体がなんと弱いことでしょう。このように砂の上に建てる人々は、なんと愚かなことでしょう。彼らは、一度も考えたことがないように見えます。行いの契約が人に与えられたのは、人が「罪過と罪とによって死んでいた」ときではありません(エペソ二・一)。人が神に対して生きていたとき、罪を知らず、神が聖であるように聖であったときなのです。また、彼らは忘れています。この契約は、ひとたび失われた神の恵みと神のいのちを回復するために定められたものでは、決してありません。ただ、それを保ち、増し加えるためのものでした。それが永遠のいのちにおいて完成するときまでです。

(二) このように「律法による自分の義」を立てようとしている人々は(ピリピ三・九)、律法が欠くことのできないものとして求める従順、あるいは義が、どのようなものかを考えてもいません。それは、あらゆる点で完全で、欠けのないものでなければなりません。そうでなければ、律法の求めにこたえないのです。けれども、あなたがたのうちのだれが、そのような従順を果たすことができるでしょうか。したがって、それによって生きることができるでしょうか。あなたがたのうちのだれが、神の外なる戒めでさえ、その一点一画まで全うしているでしょうか。神の禁じておられることを、大小にかかわらず何一つ行わない人がいるでしょうか。神の命じておられることを、何一つ怠らない人がいるでしょうか。無益な言葉を一つも語らない人がいるでしょうか。その語ることがいつも「聞いている者の益になる」人がいるでしょうか(エペソ四・二九)。「飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のために」している人がいるでしょうか(第一コリント一〇・三一)。まして、神の内なる戒めのすべてを全うすることなど、なおさらできません。内なる戒めは、あなたがたの魂のあらゆる気質、あらゆる動きが、主に聖なるものであることを求めるのです。あなたがたは、「心をつくして」「神を愛」することができるでしょうか(マタイ二二・三七)。すべての人を自分の魂のように愛することができるでしょうか。「絶えず祈」り、「すべての事について、感謝」することができるでしょうか(第一テサロニケ五・一七〜一八)。いつも神を自分の前に置くことができるでしょうか。あらゆる情愛、願い、思いを、神の律法に従わせることができるでしょうか。

(三) さらに、考えてください。律法の義が求めるのは、神のあらゆる戒めに従うことだけではありません。消極的な戒めにも積極的な戒めにも、内なる戒めにも外なる戒めにも、完全な程度で従うことを求めるのです。どんな場合でも、律法の声はこうです。「あなたは、力をつくして、主なるあなたの神に仕えなければなりません」。律法は、どんな割り引きも許しません。どんな欠けも大目に見ません。従順の満ちた量に少しでも足りなければ、律法はそれをことごとく罪に定め、ただちに違反者にのろいを宣告します。律法は、変わることのない正義の規則だけを顧みて、「私はあわれみを示すことを知りません」と言うのです。

(四) それなら、だれが、このような審判者の前に出ることができるでしょうか。この審判者は、「誤ったことに厳しく目をとめる」方です(詩篇一三〇・三)。「生ける者はひとりも」「義とされない」法廷で(詩篇一四三・二)、さばかれたいと願う人々は、なんと浅はかなことでしょう。アダムの子孫は、ひとりも義とされないのです。たとえば、私たちが今、力をつくして、すべての戒めを守っているとしましょう。それでも、これまでのただ一度の違反が、いのちを求める私たちの権利を、すっかり打ち砕いてしまいます。もし私たちが、どれか一つの点でも、かつて罪を犯したことがあるなら、この義はもう終わりです。律法は、完全で、しかも途切れのない従順を果たさない者を、すべて罪に定めるからです。ですから、律法の宣告によれば、どんな程度であれ一度でも罪を犯した者には、神に「逆らう者たちを焼きつくす激しい火」を「恐れつつ待つことだけ」が残るのです(ヘブル一〇・二七)。

(五) それなら、堕落した人がこの義によっていのちを求めるのは、愚かさの極みではないでしょうか。人は、「不義のなかに生れ」、その「母は罪のうちに」その人を「みごも」ったのです(詩篇五一・五)。人は、生まれながら、すっかり「地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なもの」です(ヤコブ三・一五)。まったく腐敗し、忌まわしい者です。人のうちには、恵みを見いだすまで、「善なるものが宿っていない」のです(ローマ七・一八)。それどころか、人は自分の力では、よい思いを一つも思うことができません。実に、人はまったく罪そのものであり、不信心のかたまりにすぎません。息をするたびに罪を犯しています。言葉と行いにおける人の自罪は、その頭の毛よりも多いのです(詩篇四〇・一二)。このような者は、汚れた、罪ある、無力な虫けらです。その者が、自分の義によって受け入れられようとし、「律法による義」によって生きようと夢見るのです。なんと愚かな、なんと無分別なことでしょう!

(六) さて、「律法による義」に頼ることの愚かさを証明する考察は、どれも同じように、「信仰に基く神からの義」に従うことの知恵を証明します(ピリピ三・九)。これは、先に述べた考察の一つ一つについて、たやすく示すことができるでしょう。けれども、それはさておきます。信仰による義に従う第一歩は、自分の義を捨てることです。この一歩が知恵であることは、次のことから明らかです。それは、真理に従って、物事の本当の性質に従って、行動することなのです。自分の義を捨てるとは、私たちが実際にある本当の状態を、口でだけでなく心でも認めることにほかなりません。すなわち、次のことを認めることです。私たちは、腐敗した、罪深い性質を持って、この世に生まれてきます。その性質は実に、たやすく想像することも、言い表す言葉を見つけることもできないほど、腐敗しています。そのため私たちは、あらゆる悪に傾き、あらゆる善を嫌います。私たちは、高ぶり、我意、手に負えない激情、愚かな欲望、卑しく度を越した情愛に満ちています。世を愛する者であり、神よりも快楽を愛する者です(第二テモテ三・四)。私たちの生活は、心より少しもましではなく、多くの点で不信心で、聖でないものでした。そのため、言葉と行いにおける私たちの自罪は、天の星のように数多いのです。これらすべてのゆえに、私たちは、目が清く、悪を見られない方に(ハバクク一・一三)、喜ばれていません。その方から受けるに値するのは、憤りと怒りと死だけです。死は、罪の当然の報酬です(ローマ六・二三)。私たちは、自分のどんな義によっても(実際、義など何一つ持っていないのです)、自分のどんなわざによっても(わざは、それの実る木と同じです)、神の怒りをなだめることも、当然受けるべき罰をそらすこともできません。そうです、もし自分の思いのままに放っておかれるなら、私たちはただ悪から悪へと落ちていくだけです(第二テモテ三・一三)。ますます深く罪に沈み、悪いわざによっても、肉の思いの悪い気質によっても、ますます神を怒らせます。そしてついには、自分の不義の枡目を満たし、すみやかな滅亡を自分の身に招くのです(第二ペテロ二・一)。そして、これこそ、私たちが生まれながらにある状態そのものではないでしょうか。ですから、これを心でも口でも認めること、すなわち、自分の義、「律法による義」を捨てることは、物事の本当の性質に従って行動することです。したがって、それはまことの知恵の現れなのです。

(七) 「信仰による義」に従うことの知恵は、さらに次のことを考えると明らかになります。それは、神の義だということです。ここで私が言うのは、それが、神ご自身の選び定められた、神との和解の方法だということです。神は、知恵の神としてそれを選ばれただけではありません。天と地と、ご自分の造られたすべての被造物との、主権ある主として選ばれたのです。さて、人が神に向かって「あなたは何をするのか」と言うのは、ふさわしくありません(ヨブ九・一二)。まったく分別のない者でなければ、だれも自分よりも力強い者と争うことはしません(伝道の書六・一〇)。そのまつりごとがすべての物を統べ治める方と、争うことはしません(詩篇一〇三・一九)。それと同じように、神の選ばれたことは何であれ、それに従うのが、まことの知恵であり、健全な分別のしるしです。すべてのことと同じく、このことでも、こう言うのです。「それは主です。どうぞ主が、良いと思うことを行われるように」(第一サムエル三・一八)。

(八) さらに、次のことも考えてみてください。神が罪深い人に、ご自分と和解する道を少しでも与えてくださったのは、ただ恵みにより、価なしの愛により、受けるに値しないあわれみによることでした。私たちが神の御手から断ち切られず、神の記憶からすっかり消し去られなかったのも、そうです。神の敵は、はなはだしく神にそむき、長い間かたくなに神に逆らってきました。それでも神は、そのやさしいあわれみにより、受けるに値しない者へのいつくしみにより、敵がなお神の前に恵みを得る方法を定めてくださいます。ですから、その方法がどんなものであれ、それをあらゆる感謝をもって受け入れるのが、疑いもなく私たちの知恵です。

(九) もう一つだけ、考えるべきことを挙げましょう。最善の手段によって最善の目的を目指すのが、知恵です。さて、どんな被造物にとっても、追い求めうる最善の目的は、神のうちにある幸いです。そして、堕落した被造物が追い求めうる最善の目的は、神の恵みと神のかたちを回復することです。天の下で人に与えられた、最善の、いや唯一の手段があります。神の恵みを取り戻すための、また神のかたちを取り戻すための手段です。神の恵みは、いのちそのものにもまさります。神のかたちは、魂のまことのいのちです。その手段とは、「信仰による義」に従うこと、神のひとり子を信じることです。

【三】 心のうちで言ってはならないこと

(一) ですから、赦されて、神の恵みのうちに和解させられたいと願うあなたは、だれであっても、心のうちでこう言ってはなりません。「私はまず、これをしなければならない。まず、あらゆる罪に打ち勝たなければならない。あらゆる悪い言葉とわざをやめ、すべての人にあらゆる善を行わなければならない」。あるいは、「私はまず教会に行き、主の晩餐にあずかり、もっと説教を聞き、もっと祈らなければならない」。ああ、兄弟よ! あなたはすっかり道を踏み外しています。あなたは今なお、「神の義を知らないで」います。そして、和解の根拠として、「自分の義を立てようと努め」ているのです(ローマ一〇・三)。あなたは、神と和解させられるまでは、罪を犯すほかに何もできないことを、知らないのでしょうか。それなのに、なぜ、「まずこれとこれをしなければならない。それから信じよう」と言うのでしょうか。いいえ、まず信じなさい! 主イエス・キリストを信じなさい。あなたの罪のための、あがないの供え物である方を信じなさい。まず、この良い土台を据えなさい。そうすれば、あなたはすべてのことをよく行えるようになります。

(二) また、心のうちで、こう言ってもなりません。「私はまだ受け入れられない。まだ十分に良い者ではないから」。だれが、神に受け入れられるに値するほど良い者でしょうか。これまでにだれか、そうであったでしょうか。そのために十分に良い者であったアダムの子が、かつてひとりでもいたでしょうか。万物の終わりに至るまで、ひとりでもいるでしょうか。そしてあなたについて言えば、あなたはまったく良い者ではありません。あなたのうちには、善なるものが宿っていません(ローマ七・一八)。そして、イエスを信じるまでは、決して良い者にはならないでしょう。むしろ、自分がますます悪くなっていくのに気づくでしょう。けれども、受け入れられるために、もっと悪くなる必要があるでしょうか。あなたは、もう十分に悪いのではありませんか。確かにそうです。神はそれをご存じです。あなた自身も、それを否定できません。それなら、ぐずぐずしてはなりません。今、すべての準備ができています。「すぐ立って」、「あなたの罪を洗い落しなさい」(使徒二二・一六)。泉は開かれています。今こそ、小羊の血で自分を洗って白くするときです。今、主は「ヒソプをもって」あなたを「清め」てくださいます。そして、あなたは「清くなる」でしょう。主はあなたを「洗って」くださいます。そして、あなたは「雪よりも白くなる」でしょう(詩篇五一・七)。

(三) 「でも、私はまだ十分に悔いていない。自分の罪を十分に感じていない」と言ってはなりません。それは、私も知っています。あなたが自分の罪を今よりも千倍も感じ、千倍も悔いてくれたらと、神に願います。けれども、それを待っていてはなりません。神は、あなたが信じる前にではなく、信じることによって、あなたをそのようにしてくださるかもしれません。あなたは、多くを赦されたので多く愛するようになるまでは、多くは泣かないかもしれません。それまでの間、イエスを仰ぎ見なさい。ごらんなさい、イエスはなんとあなたを愛しておられることでしょう。イエスがあなたのために、まだなさっていないことで、ほかに何がおできになったでしょうか。

ああ、神の小羊よ、あなたのような痛みが、あなたのような愛が、かつてあったでしょうか。

イエスをじっと見つめなさい。イエスがあなたを見つめ、あなたのかたくなな心を砕いてくださるまでです。そのとき、あなたの「頭が水となり」、あなたの「目が涙の泉とな」るでしょう(エレミヤ九・一)。

(四) また、「キリストのもとに行く前に、私はもっと何かしなければならない」とも言ってはなりません。確かに、もしあなたの主が来られるのを遅らせられるなら、主の現れを待つのがふさわしく、正しいことでしょう。主の命じられたことを何であれ、力の及ぶかぎり行いながら待つのです。けれども、そのように想定する必要はありません。主が遅れて来られると、どうしてわかるのでしょうか。主は、上からの日の光のように、朝の光より先に現れてくださるかもしれません。ああ、主に時を指定してはなりません! いつでも主を待ち望みなさい。今、主は近くにおられます! 戸口まで来ておられます!

(五) また、罪が消し去られる前に、もっと誠実になるのを待とうとするのは、何のためでしょうか。神の恵みに、もっとふさわしい者になるためでしょうか。ああ、あなたは今なお、「自分の義を立てようと」しているのです(ローマ一〇・三)。神があわれんでくださるのは、あなたがそれにふさわしいからではありません。神のあわれみは尽きることがないからです(哀歌三・二二)。あなたが正しいからではありません。イエス・キリストが、あなたの罪をあがなってくださったからです。

また、誠実さに何かよいものがあるとしても、なぜ、信仰を持つ前にそれを期待するのでしょうか。信仰こそ、本当によいもの、聖なるものすべての、唯一の根なのです。

何よりも、あなたはいつまで忘れているのでしょうか。罪が赦される前に、あなたが何を行い、何を持っていても、それは、赦しを得るために、神の前で何の役にも立たないのです。そうです、それはみな、うしろに投げ捨て、足で踏みつけ、ないものと見なさなければなりません。そうでなければ、あなたは決して神の前に恵みを得られないでしょう。そうするまでは、あなたは、ただの罪人として恵みを求めることができないからです。罪ある、失われた、破滅した罪人として、神に申し立てるものも、ささげるものも何一つ持たずに、求めることができないからです。申し立てるのは、ただ神の愛する御子の功績だけです。御子は、あなたを「愛し」、あなたの「ためにご自身をささげられた」のです(ガラテヤ二・二〇)。

(六) 結びに言います。人よ、あなたはだれであってもかまいません。自分のうちに死の宣告を受け、自分が罪に定められた罪人であると感じ、神の怒りが自分の上にとどまっているあなたに(ヨハネ三・三六)、主はこう言われます。「これを行え」(わたしのすべての戒めに完全に従え)、「そして生きよ」ではありません。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなた」は「救われます」と言われるのです(使徒一六・三一)。「信仰の言葉」は、「あなたの近くにあ」ります(ローマ一〇・八)。今、この瞬間に、この時に、今のあなたの状態のままで、罪人であるそのままで、ありのままのあなたで、福音を信じなさい。そうすれば、「わたしは」あなたの「不義をあわれみ、もはや」あなたの「罪を思い出すことはしません」(ヘブル八・一二)。