説教五 信仰による義認
「働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められます」(ローマ四・五)
(一) 罪人は、すべての者の主であり審判者である神の前で、どのようにして義とされるのでしょうか。これは、すべての人の子にとって、並々ならず重要な問いです。この問いには、私たちのすべての希望の土台が含まれています。私たちが神と敵対しているかぎり、この世においても永遠においても、まことの平安も、確かな喜びもありえないからです。自分の心が自分を責めているのに、どんな平安がありうるでしょうか。まして、「私たちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じ」の神が責めておられるなら(第一ヨハネ三・二〇)、なおさらです。「神の怒りが」私たちの「上にとどまる」かぎり(ヨハネ三・三六)、この世でも来たるべき世でも、どんな確かな喜びがありうるでしょうか。
(二) それなのに、この重要な問いは、なんとわずかしか理解されてこなかったことでしょう! 多くの人が、これについて、なんと混乱した考えを抱いてきたことでしょう。実際、混乱しているだけではありません。しばしば、まったくの誤りです。光がやみに反するように、真理に反しています。神の託宣とも、信仰の類比の全体とも、まったく相いれない考えです。こうして彼らは、土台そのものについて誤っているので、その上に建てることなどできませんでした。少なくとも、「金、銀、宝石」で建てることはできませんでした。それらは、火で「ためす」ときにも耐えたはずです。彼らが建てたのは、「草」や「わら」だけでした(第一コリント三・一二〜一三)。それは神に喜ばれず、人の益にもなりません。
(三) この主題は、きわめて重要です。私は、自分にできるかぎり、その重要さにふさわしく語りたいと思います。また、真理を誠実に求める人々を、「空論」や「言葉の争い」から守りたいと思います(第一テモテ一・六、六・四)。すでに多くの人がそれによって陥った思いの混乱を、晴らしたいと思います。そして、この大いなる「信心の奥義」について(第一テモテ三・一六)、正しく的確な理解を与えたいと思います。そのために、次のことを示すよう努めます。
第一に、この義認の教理全体の、一般的な土台は何か。第二に、義認とは何か。第三に、義とされるのはだれか。第四に、どのような条件で義とされるのか。
【一】 義認の教理全体の土台
まず第一に、この義認の教理全体の、一般的な土台が何かを示します。
(一) 人は、神のかたちに造られました(創世記一・二七)。人を造られた方が聖であるように、人も聖でした(第一ペテロ一・一六)。万物の造り主が慈悲深いように、人も慈悲深い者でした(ルカ六・三六)。天の父が完全であられるように、人も完全でした(マタイ五・四八)。神が愛であるように、人も愛のうちに住み、そうして神のうちに住んでいました。神もまた、人のうちに住んでおられました(第一ヨハネ四・一六)。神は人を、「ご自身の永遠性のかたち」として造られました(知恵の書二・二三)。栄光の神を映す、朽ちることのない肖像として造られたのです。ですから人は、神がきよいように、罪のあらゆる汚れからきよい者でした。人は、どんな種類、どんな程度の悪も知りませんでした。内にも外にも罪がなく、汚れのない者でした。人は、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なる」自分の「神を愛し」ていました(マルコ一二・三〇)。
(二) このように正しく完全な人に、神は完全な律法を与えられました。そして、それに完全に、余すところなく従うことを求められました。神は、あらゆる点で完全に従うことを求められました。しかも、少しも途切れることなく従うことをです。人が「生きた者となった」瞬間から(創世記二・七)、その試みの期間が終わるときまでです。少しでも足りないことは、容赦されませんでした。実際、その必要もありませんでした。人は、課せられた務めを十分に果たすことができたからです。あらゆる良い言葉とわざのために、「完全にととのえられ」ていたからです(第二テモテ三・一七)。
(三) 人の心には、愛の律法が余すところなく書き記されていました(おそらく人は、この律法に直接背いて罪を犯すことはできなかったでしょう)。神は、その主権的な知恵によって、これに特別に命じられた掟を一つ加えるのがよいとされました。「園の中央にある木の実は、取って食べてはなりません」(創世記三・三)。そして、これに罰を添えられました。「それを取って食べるその日に、きっと死ぬでしょう」(創世記二・一七)。
(四) これが、楽園での人の状態でした。人は、神の価なしの、受けるに値しない愛によって、聖であり、幸いでした。神を知り、神を愛し、神を喜んでいました。これこそ、実質において、永遠のいのちです(ヨハネ一七・三)。人は、すべてのことで神に従い続けるなら、この愛のいのちに永遠にとどまるはずでした。けれども、どれか一つでも神に背くなら、すべてを失うはずでした。神は言われました。「その日に、きっと死ぬでしょう」(創世記二・一七)。
(五) 人は、実際に神に背きました。「食べるな」と神が「命じた木から取って食べ」たのです(創世記三・一七)。そしてその日に、人は神の正しいさばきによって、罪に定められました。またそのとき、前もって警告されていた宣告が、人の上に実行され始めました。その実を味わった瞬間に、人は死んだのです。人の魂は死にました。神から切り離されたのです。魂は、神から切り離されると、もはやいのちを持ちません。からだが魂から切り離されると、いのちを持たないのと同じです。人のからだもまた、朽ちるもの、死ぬものとなりました。そのため、死はそのとき、からだをも捕らえたのです。こうして人は、すでに霊において死に、神に対して死に、罪のうちに死んでいたので、永遠の死へと急いでいました。それは、「からだも魂も」「滅ぼ」されることです(マタイ一〇・二八)。「消えない火の中」で滅ぼされるのです(マルコ九・四三)。
(六) こうして、「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいって」きました。「こうして」、「死が全人類にはいり込んだ」のです(ローマ五・一二)。全人類は、私たちすべての共通の父であり代表者であったその人のうちに、含まれていたからです。このように、「ひとりの罪過のために」(ローマ五・一五)、すべての人が死んでいます。神に対して死に、罪のうちに死んでいます。やがて崩れ去る、朽ちるべき、死ぬべきからだに住み、永遠の死の宣告の下にあります。「ひとりの人の不従順によって」、すべての人が「罪人とされた」ように(ローマ五・一九)、そのひとりの罪過によって、「すべての人が罪に定められた」のです(ローマ五・一八)。
(七) 私たちは、そうです、全人類は、このような状態にありました。そのとき、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださいました」。それは、私たちが「滅びないで、永遠のいのちを得るため」でした(ヨハネ三・一六)。「時の満ちるに及んで」(ガラテヤ四・四)、御子は人となられました。人類のもう一人の共通のかしら、全人類の第二の共通の親、また代表者となられたのです。そのような方として、御子は「われわれの悲しみをにな」われました(イザヤ五三・四)。「主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれ」たのです(イザヤ五三・六)。そのとき御子は、「われわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれ」ました(イザヤ五三・五)。御子は「自分を、とがの供え物と」されました(イザヤ五三・一〇)。とがある者のために、その血を注ぎ出されました。「十字架にかかって、私たちの罪をご自分の身に負われ」ました。「その傷によって」、私たちが「いやされ」るためです(第一ペテロ二・二四)。そして、ただ一度ささげられた、ご自身という一つの供え物によって、御子は「私とすべての人とをあがなわれ」ました(祈祷書「教理問答」)。それによって、「全世界の罪のために、完全で、欠けるところのない、十分な犠牲と償いとをささげ」られたのです(祈祷書「聖餐式」)。
(八) 神の御子は、「すべての人のために死を味わわれ」ました(ヘブル二・九)。このことのゆえに、神はいま、「世をご自分に和解させ」、以前の「罪過の責任を」世に「負わせることを」されません(第二コリント五・一九)。こうして、「ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及」んだのです(ローマ五・一八)。ですから神はいま、その愛する御子のゆえに、ただ一つの条件で、次のことをしてくださいます。御子が私たちのためにしてくださったこと、苦しんでくださったことのゆえにです。その条件を果たす力も、神ご自身が与えてくださいます。神は、私たちの罪に当然下されるべき罰を免じてくださいます。私たちを、再びご自分の恵みのうちに置いてくださいます。そして、死んでいた私たちの魂を、霊のいのちに回復してくださいます。それは、永遠のいのちの保証です。
(九) ですから、これが、義認の教理全体の一般的な土台です。最初のアダムは、私たちすべての父であっただけでなく、代表者でもありました。その罪によって、私たちはみな、神の恵みを受けられなくなりました。みな「怒りの子」となりました(エペソ二・三)。使徒の言い方によれば、「すべての人が罪に定められた」のです(ローマ五・一八)。それと同じように、第二のアダムが、私たちすべての代表者として、罪のための犠牲をささげられました。そのため神は、全世界に新しい契約を与えるほどに、世と和解されたのです。その契約の明白な条件がひとたび果たされるなら、私たちは、もはや「罪に定められることがない」のです(ローマ八・一)。むしろ、私たちは「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされ」るのです(ローマ三・二四)。
【二】 義認とは何か
(一) けれども、「義とされる」とはどういうことでしょうか。「義認」とは何でしょうか。これが、私が示そうと予告した第二のことです。すでに述べたことから明らかなように、義認とは、実際に正しく義なる者とされることではありません。それは「聖化」です。聖化は、確かにある程度、義認の直接の実です。けれども、それでも神の別の賜物であり、まったく異なる性質のものです。一方は、神が御子を通して私たちのためにしてくださることです。他方は、神が御霊によって私たちのうちに働いてくださることです。ですから、「義とされる」や「義認」という語が、「聖化」をも含むほど広い意味で使われている例も、まれには見つかるかもしれません。けれども、ふつうの用法では、両者ははっきり区別されています。聖パウロも、霊感を受けたほかの記者たちも、そう区別しています。
(二) また、義認とは私たちを訴えから、特にサタンの訴えから解放することだ、という考えがあります。これは、こじつけの思いつきです。聖書のどんな明白な本文からも、たやすく証明できるものではありません。この事がらについての聖書の説明全体は、上に述べたとおりです。そこには、あの訴える者も、その訴えも、まったく入っていないように見えます。確かに、サタンが人を「訴える者」であり(黙示録一二・一〇)、とりわけそう呼ばれていることは、否定できません。けれども、あの大使徒は、義認についてローマ人にもガラテヤ人にも書き送りました。そのすべての中で、このことに多少なりとも触れているとは、決して見えません。
(三) また、義認とは、律法が私たちに対して起こす訴えから、私たちを解放することだ、という考えもあります。これも、聖書の明白なあかしから証明するよりは、当然のこととして決めてかかるほうが、はるかにたやすいものです。少なくとも、この無理で不自然な言い方が、次のことと少しでも違うことを意味するなら、の話です。すなわち、私たちは神の律法に背き、そのため地獄の刑罰に値する者となりました。けれども神は、義とされた者には、彼らが当然受けるべきであった罰を下されません。
(四) まして義認は、神がご自分の義とする人々について欺かれている、ということでは決してありません。神が、実際にはそうでない者を、そうであると考えておられる、ということではありません。人々を、実際とは違う者と見なしておられる、ということでもありません。義認は、神が物事の本当の性質に反して私たちを判断される、ということでは決してありません。私たちを実際よりもよい者と評価される、ということでもありません。私たちが不義であるのに、義であると信じておられる、ということでもありません。決してそうではありません。全知の神のさばきは、いつも真理に従っています。ほかの人が潔白であり、義であり聖であるからといって、私をそうだと考え、そうだと判断すること。そのようなことは、誤りのない神の知恵と決して両立しません。神が、このようにして私をキリストと混同されることは、ありえません。ダビデやアブラハムと混同されることがありえないのと、同じです。神から悟りを与えられた人は、だれでも、偏見なしにこのことを考えてみてください。そうすれば、このような義認の考えが、理性とも聖書とも両立しないことに、気づかずにはいられないでしょう。
(五) 義認についての、聖書のわかりやすい考えは、赦し、すなわち罪の赦しです。義認とは、父なる神のわざです。神は、御子の血によるあがないの供え物のゆえに、このわざをなさいます。過去に犯された罪を赦して、「神の義」(あるいは、あわれみ)を「示」されるのです(ローマ三・二五)。これが、聖パウロがこの手紙全体を通して示している、無理のない自然な説明です。パウロ自身、とりわけこの章と次の章で、このように説明しています。たとえば、本文から一節おいた次の節で、パウロはこう言います。「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいです。罪を主に認められない人は、さいわいです」(ローマ四・七〜八)。神は、義とされた人、すなわち赦された人の「罪を」、その人を罪に定めるために「認め」られることはありません。この世においても、来たるべき世においても、神はその罪のゆえにその人を罪に定められません。その人の罪、思いと言葉と行いにおける過去のすべての罪は、おおわれ、消し去られています。それらの罪は、まるでなかったかのように、思い出されることも、その人に不利に持ち出されることもありません。神は、その罪人が当然受けるべきであった苦しみを、その人に下されません。神の愛する御子が、その人のために苦しまれたからです。私たちは、「愛する御子によって」受け入れられ(エペソ一・六)、御子の「血によって」神と「和解させ」られます(コロサイ一・二〇)。そのときから、神は私たちを愛し、祝福し、私たちの益のために見守ってくださいます。まるで、私たちが一度も罪を犯したことがないかのようにです。
確かに使徒は、ある箇所で、この語の意味をずっと広げているように見えます。そこで使徒はこう言っています。「律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるのです」(ローマ二・一三)。ここで使徒は、私たちの義認を、大いなる日の判決に結びつけているようです。私たちの主ご自身も、明らかにそうしておられます。主はこう言われます。「あなたは、自分の言葉によって義とされます」(マタイ一二・三七)。主はこれによって、「審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならない」ことを示しておられるのです(マタイ一二・三六)。けれども、聖パウロがこの語をそのような遠い意味で使っている例を、ほかに挙げることは、おそらくほとんどできないでしょう。パウロの書いたものの全体の趣旨を見れば、そう使っていないことは明らかです。いま私たちの前にある本文では、なおさらそうです。この本文は、すでに「走るべき行程を走りつく」した人々について語っているのではありません(第二テモテ四・七)。いままさに「出発」したばかりの人々、自分の「参加すべき競走を」走り始めたばかりの人々について語っているのです(ヘブル一二・一)。これは否定できません。
【三】 義とされるのはだれか
(一) さて、考えるべき第三のことは、こうです。義とされるのはだれでしょうか。使徒は、はっきりと答えています。不信心な者です。「彼」(すなわち神)は、「不信心な者を義とする」かたです(ローマ四・五)。あらゆる種類、あらゆる程度の不信心な者であり、しかも不信心な者だけです。「正しい人」が「悔改めを必要としない」ように(ルカ一五・七)、その人は赦しも必要としません。赦しを必要とするのは、罪人だけです。赦されうるのは、罪だけです。ですから、赦しは直接に罪にかかわります。この点では、ほかの何ものにもかかわりません。赦してくださる神が「あわれ」まれるのは、私たちの「不義」です。神が「もはや」「思い出すことはしない」と言われるのは、私たちの「罪」です(ヘブル八・一二)。
(二) ところが、このことをまったく考えていないように見える人々がいます。人は義とされる前に、聖化されていなければならない、すなわち聖でなければならない、と激しく主張する人々です。とりわけ、あらゆる点での聖性、あるいは従順が義認に先立たなければならない、と断言する人々がそうです。(ただし、終わりの日の義認のことを言っているのなら、話は別です。それは、いまの問題とはまったく関係がありません。)それどころか、この想定そのものが、まったく不可能です。神への愛のないところに、聖性はありません。そして、神が私たちを愛してくださっていると感じることからでなければ、神への愛は生まれないからです。それだけでなく、この想定は、ひどく、本質的に不合理で、自己矛盾しています。赦されるのは、聖徒ではなく罪人であり、しかも罪人として赦されるからです。神が義とされるのは、信心深い者ではなく、不信心な者です。すでに聖である者ではなく、聖でない者です。神がどんな条件でこれをなさるのかは、まもなく考えます。けれども、それが何であるにせよ、聖性ではありえません。それを聖性だと主張するなら、「神の小羊」はすでに取り除かれていた罪だけを「取り除く」、と言うことになります(ヨハネ一・二九)。
(三) では、よい羊飼は、すでに見つかっている者だけを、尋ね出して救われるのでしょうか。いいえ。主は「失われたものを尋ね出して救う」方です(ルカ一九・一〇)。主は、赦しのあわれみを必要とする者を赦されます。主は、あらゆる種類、あらゆる程度の罪人を、罪の罪責から(そして同時に、罪の力から)救われます。それまでまったく不信心であった人々です。そのうちに「父の愛」がなかった人々です(第一ヨハネ二・一五)。ですから、そのうちには「善なるものが宿っていない」人々です(ローマ七・一八)。よい気質、まことにクリスチャンらしい気質は何一つなく、あるのは悪い、忌まわしい気質ばかりでした。高ぶり、怒り、世への愛です。これらは、「神に敵する」「肉の思い」の、まぎれもない実です(ローマ八・七)。
(四) 病人、すなわち罪の重荷に耐えられない人々こそ、医者を必要とします。罪責を負い、神の怒りの下でうめく人々こそ、赦しを必要とします。この人々は、思いと言葉と行いにおけるすべての不信心のゆえに、「すでにさばかれて」います(ヨハネ三・一八)。神によってだけでなく、千人の証人によるかのように、自分の良心によってもさばかれています。この人々は、「不信心な者を義とする」方を求めて、大声で叫びます。その方は、イエスによるあがないによって(ローマ三・二四)、不信心な者を、「働き」のない者を義とされるのです(ローマ四・五)。働きがないとは、義とされる前には、良いことを何一つ、本当に徳のあることも聖なることも行わない、ということです。行うのは、「いつも悪い事ばかり」です(創世記六・五)。神の愛がその心に「注がれる」までは(ローマ五・五)、その人の心は、必然的に、本質的に悪いからです。木が悪いうちは、実も悪いのです。「悪い木が良い実をならせることはできない」からです(マタイ七・一八)。
(五) こう反論されるかもしれません。「いや、人は義とされる前にも、飢えている人に食べさせたり、裸の人に着せたりできる。そして、これは良きわざではないか」。答えはたやすいことです。確かに人は、義とされる前でも、これらのことができます。そして、これらはある意味で「良きわざ」です。それは「良いことであって、人々の益とな」ります(テトス三・八)。けれども、だからといって、それが厳密な意味でそれ自体よいものであるとか、神の目によいものであるとかいうことにはなりません。まことの「良きわざ」はすべて(私たちの教会の言葉を借りれば)、「義認のあとに続く」ものです。それは「まことの生きた信仰から」「生じる」ものです。だからこそ、よいものであり、「キリストにあって神に受け入れられる」のです(三十九箇条第一二条)。同じ理由によって、「義認の前になされたわざ」は、クリスチャン的な意味では、どれも「よくありません」。「それはイエス・キリストを信じる信仰から生じるものではない」からです(もっとも、神についてのある種の信仰からは生じるかもしれません)。「いや、むしろ、それは神が望み、命じられたとおりに行われていません。ですから、罪の性質を持っていることを、私たちは疑いません」(三十九箇条第一三条)。ある人々には、どんなに奇妙に見えようともです。
(六) これを疑う人々は、ここに挙げられている重い理由を、よく考えていないのかもしれません。義認の前になされたわざは、なぜどれも、本当の意味で、正しい意味でよいものでありえないのか、という理由です。その論証は、明らかに次のとおりです。
神が望み、命じられたとおりに行われていないわざは、どれもよくありません。
ところが、義認の前になされたわざは、どれも、神が望み、命じられたとおりに行われていません。
ゆえに、義認の前になされたわざは、どれもよくありません。
第一の命題は、自明です。第二の命題は、義認の前になされたわざはどれも、神が望み、命じられたとおりに行われていない、ということです。これも同じように明白で、否定できないことがわかるでしょう。次のことを考えさえすればよいのです。神は、私たちの「いっさいのことを、愛をもって」(エン・アガペー)「行」うように望み、命じておられます(第一コリント一六・一四)。愛をもって、すなわち、すべての人への愛を生み出す、神への愛をもってです。けれども、「父の愛」(私たちの父としての神への愛)が私たちのうちにない間は(第一ヨハネ二・一五)、私たちのわざは、どれもこの愛をもって行うことができません。そして、この愛は、私たちが「子たる身分を授ける霊」を受けるまでは(ローマ八・一五)、私たちのうちにありえません。その霊は、私たちの「心の中に」、「『アバ、父よ』と呼ぶ」霊です(ガラテヤ四・六)。ですから、もし神が「不信心な者を義とする」ことをされず、(この意味で)「働き」のない者を義とされないとしましょう。そうであれば、「キリストの死はむだであった」ことになります(ガラテヤ二・二一)。そうなれば、キリストが死なれたにもかかわらず、「生ける者はひとりも」「義とされない」のです(詩篇一四三・二)。
【四】 どのような条件で義とされるのか
(一) では、まったく「不信心」で、そのときまで「働き」がない人は、どのような条件で義とされるのでしょうか。ただ一つの条件によってです。それは信仰です。その人は、「不信心な者を義とするかたを信じる」のです(ローマ四・五)。そして、「彼を信じる者は、さばかれません」(ヨハネ三・一八)。そうです、その人は「死からいのちに移っている」のです(ヨハネ五・二四)。「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義」(あるいは、あわれみ)「であって、すべて信じる人に与えられるものです」(ローマ三・二二)。「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受けるべきあがないの供え物とされました」(ローマ三・二五)。「こうして、神みずからが義となり」、(その義と矛盾することなく)「さらに、イエスを信じる者を義とされるのです」(ローマ三・二六)。「私たちは、こう思います。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのです」(ローマ三・二八)。律法の行いによるのではない、すなわち、それに先立って道徳律法に従うことによるのではありません。実際、人はそのときまで、道徳律法に従うことができなかったのです。ここで言われているのが道徳律法であり、道徳律法だけであることは、続く言葉から明らかです。「すると、信仰のゆえに、私たちは律法を無効にするのでしょうか。断じてそうではありません。かえって、それによって律法を確立するのです」(ローマ三・三一)。私たちは、信仰によってどんな律法を確立するのでしょうか。儀式の律法ではありません。モーセの祭儀の律法ではありません。決してそうではありません。愛の大いなる不変の律法、神と隣人とを愛する聖なる愛の律法です。
(二) 信仰とは、一般的に言えば、神から与えられた超自然的な「エレンコス」、すなわち「見えない事がら」についての「証拠」あるいは「確信」です(ヘブル一一・一)。見えない事がらとは、過去のもの、未来のもの、あるいは霊的なものであるため、からだの感覚では見いだせないもののことです。義とする信仰には、「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ」たという(第二コリント五・一九)、神から与えられた証拠、あるいは確信が含まれます。それだけではありません。キリストがほかならぬ私の罪のために死なれ、「私を愛し、私のためにご自身をささげられた」という(ガラテヤ二・二〇)、確かな信頼と確信も含まれるのです。罪人がこのように信じるなら、それがいつであっても、神はその不信心な者を義とされます。幼いころでも、働き盛りのときでも、年老いて白髪になったときでもです。神は、御子のゆえに、その人を赦し、罪から解き放ってくださいます。その人のうちには、それまで、よいものは何一つなかったのです。確かに神は、それより前に、その人に悔い改めを与えておられました。けれども、その悔い改めとは、あらゆる善が欠けていること、あらゆる悪が宿っていることを、深く感じることにほかなりませんでした。その人は、キリストを通して初めて神を信じたときから、善を持ち、善を行うようになります。その善は、どんなものであれ、信仰が「見いだす」のではありません。信仰が「もたらす」のです。これは、信仰の実です。まず木が良く、それから実も良くなるのです。
(三) この信仰の性質を、私たちの教会の言葉よりもうまく言い表すことは、私にはできません。「救いの唯一の手だては」(義認はその一部です)、「信仰です。それは、次のことを確かに信頼し、確信することです。神は、キリストの死と受難の功績のゆえに、私たちの罪を赦してくださったし、これからも赦してくださいます。私たちを再びご自分の恵みのうちに受け入れてくださいました。けれども、ここで私たちは、移ろいやすい、揺れ動く信仰によって、神の前でどっちつかずに迷うことのないよう、気をつけなければなりません。ペテロは、水の上を歩いてキリストのもとへ行こうとしたとき、信仰がくじけたので、おぼれかけました。それと同じように、私たちも、揺れ動いたり疑ったりし始めるなら、ペテロのように沈んでしまうおそれがあります。ただし、水の中にではなく、地獄の火の底知れぬ穴の中にです」(説教集「受難についての第二の説教」)。
「ですから、確かで揺るがない信仰を持ちなさい。キリストの死が全世界のために有効である、と信じるだけではありません。キリストがほかならぬあなたのために、完全で十分な犠牲をささげ、ほかならぬあなたの罪を完全にきよめてくださった、と信じるのです。そうすれば、あなたは使徒と共に、キリストは私を愛し、私のためにご自身をささげられた、と言うことができます。これこそ、キリストをあなた自身のものとし、その功績をあなた自身に当てはめることだからです」(説教集「聖餐についての説教」第一部)。
(四) 私は、この信仰が義認の要件、すなわち「義認の条件」であると断言します。それによって私が言いたいのは、第一に、信仰なしには義認はない、ということです。「信じない者は、すでにさばかれています」(ヨハネ三・一八)。そして、信じないでいるかぎり、そのさばきは取り除かれません。むしろ、「神の怒りがその上にとどまる」のです(ヨハネ三・三六)。「救いうる名は」、ナザレのイエスの名を「別にしては、天下のだれにも与えられていない」のです(使徒四・一二)。罪に定められた罪人を罪の罪責から救うことのできる功績も、このイエスの功績のほかにありません。それと同じように、イエスの功績にあずかる道も、「イエスの名」を「信じる信仰」によるほかにありません(使徒三・一六)。ですから、この信仰がないかぎり、私たちは「約束されたいろいろの契約に縁が」ありません。「イスラエルの国籍がなく」、「この世の中で」「神もない者」なのです(エペソ二・一二)。人が(いわゆる)徳をどれほど持っていても、(そう見なされている)良きわざをどれほど行っても、それは何の益にもなりません。ここで私が言うのは、福音が宣べ伝えられている人々のことです。「外の人たちをさばくのは、私のすることでしょうか」(第一コリント五・一二)。その人は、イエスを信じるまでは、依然として「怒りの子」であり(エペソ二・三)、依然として「のろいの下に」あります(ガラテヤ三・一〇)。
(五) ですから、信仰は義認の「必要な」条件です。そうです、義認の「唯一必要な」条件です。これが、注意深く心にとめるべき第二の点です。信仰は「神の賜物」です(エペソ二・八)。神が、「働き」のない「不信心な者」に信仰を与えられる、まさにその瞬間に、その人の「信仰が義と認められる」のです(ローマ四・五)。その人には、それより前には、義がまったくありません。消極的な義、すなわち罪のなさすらありません。けれども、その人が信じる、まさにその瞬間に、「その信仰が義と認められる」のです(ローマ四・五)。といっても(前に述べたように)、神が、その人を実際とは違う者だと考えておられるのではありません。そうではなく、神は「私たちの罪のために」キリストを「罪とされ」ました(第二コリント五・二一)。すなわち、キリストを罪人として扱い、私たちの罪のゆえにキリストを罰されました。それと同じように、私たちがキリストを信じたときから、神は私たちを義と見なしてくださるのです。すなわち、神は私たちの罪のゆえに私たちを罰されません。そうです、私たちを、罪責のない者、義なる者であるかのように扱ってくださるのです。
(六) 「信仰は義認の『唯一の条件』である」という命題に、同意しにくいと感じる人がいるなら、それはきっと、この命題を理解していないからです。私たちがこれによって言いたいのは、次のことです。信仰は、それなしにはだれも義とされない、ただ一つのものです。赦しのために、直接に、欠くことができず、絶対に必要な、ただ一つのものです。一方で、人がたとえ信仰のほかのすべてを持っていても、信仰がなければ、義とされることはできません。他方で、たとえほかのすべてを欠いていても、信仰があれば、義とされないことはありえません。たとえば、どんな種類、どんな程度でもよいので、ひとりの罪人を思い浮かべてください。その人は、自分がまったく不信心であることを、心の底から感じています。善を思うことも、語ることも、行うこともまったくできないこと、地獄の火にまったくふさわしい者であることを感じています。さて、この罪人が、助けもなく望みもないまま、キリストにある神のあわれみに、自分をまったくゆだねるとしましょう。実際、神の恵みによらなければ、そうすることはできません。その人がその瞬間に赦されることを、だれが疑えるでしょうか。その罪人が義とされる前に、何かそれ以上のものが「欠くことができず必要」だと、だれが断言するでしょうか。
さて、世の初めから、このような例が一つでもあったとしましょう(実際、そういう例は、幾千万とあったのではないでしょうか。いまもあるのではないでしょうか)。そうであれば、信仰が、上に述べた意味で、義認の唯一の条件であることは、明らかです。
(七) 私たちは、あわれな、罪ある、罪深い虫けらです。私たちが受けている祝福は、どんなものであれ、恵みによって、ただ好意によって受けているのです。当然の支払いとして受けているのではありません(ローマ四・四)。舌を冷やす一滴の水から、永遠における計り知れない栄光の富に至るまで、そうです。このような者が、神に向かって、神のなさることの理由を問うのは、ふさわしくありません。「ご自分のなさることについて、だれにも説明をされない」方を(ヨブ三三・一三)問いただし、神にこう詰め寄るのは、ふさわしくありません。「なぜ、あなたは信仰を、義認の条件、唯一の条件とされたのか。なぜ、『信じる者は』、そしてその者だけが、『救われる』と定められたのか(マルコ一六・一六)」。これこそ、聖パウロがこの手紙の第九章で強く主張している点です。すなわち、赦しと受け入れの条件は、私たちによるのではなく、「召したかたによって」決まるのでなければならない、ということです(ローマ九・一二)。神が、私たちの思いによらず、ご自分のみこころのままに、ご自分の条件を定められても、「神の側に不正がある」のではありません(ローマ九・一四)。神は正当にこう言うことがおできになります。「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみます」(ローマ九・一五)。すなわち、イエスを信じる者をあわれむ、ということです。受け入れられるための条件を選ぶことは、「人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによる」のです(ローマ九・一六)。その神は、ご自分の価なしの愛、受けるに値しない者へのいつくしみによるのでなければ、だれをも受け入れられません。「だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ」ます。すなわち、ご自分の愛する御子を信じる者をあわれまれます。そして、「かたくなにしようと思う者を」、すなわち信じない者を、「かたくなになさる」のです(ローマ九・一八)。つまり、ついには、その心のかたくなさのままに放っておかれるのです。
(八) けれども、神が義認の条件を「主イエス・キリストを信じるなら、あなたは救われます」と定められた理由の一つは(使徒一六・三一)、「高ぶりを人から除」くためだったと(ヨブ三三・一七)、へりくだって考えてよいでしょう。高ぶりは、すでに神の御使たちさえも滅ぼし、「天の星の三分の一」を投げ落としていました(黙示録一二・四)。また、誘惑する者は、あなたがたは「神のように」なると言いました(創世記三・五)。そのとき、アダムが自分の堅固さを失い、罪と死とを世にもたらしたのも、大部分は高ぶりのためでした。ですから神は、アダムとそのすべての子孫のために、彼らを本当にへりくだらせ、ちりにまで低くするような和解の条件を定められました。それは、神にふさわしい知恵の現れでした。そして、信仰こそ、そのような条件です。信仰は、とりわけこの目的にかなっています。この信仰によって神に近づく者は、ただ自分の悪だけに、自分の罪責と無力さだけに、目を注がなければならないからです。自分のうちにあると思われる善にも、どんな徳や義にも、少しも目を向けてはなりません。その人は、内側も外側も「ただの罪人」として来なければなりません。自分で自分を滅ぼし、自分で自分を罪に定めた者として来るのです。神のもとに携えて行くのは、不信心だけです。自分のものとして申し立てるのは、罪と悲惨だけです。その人の「口がふさがれ」、神の「前に」まったく「罪ある者」として立つとき(ローマ三・一九)、そのようにして初めて、そのようにしてだけ、その人は「イエスを仰ぎ見」ることができます(ヘブル一二・二)。自分の「罪のための」、完全で唯一の「あがないの供え物」として仰ぐのです(第一ヨハネ二・二)。このようにしてだけ、その人は「キリストのうちに自分を見いだす」ようになり、「信仰に基く神からの義を受け」ることができるのです(ピリピ三・九)。
(九) この言葉を聞き、あるいは読んでいる、不信心なあなたよ! 卑しく、無力で、みじめな罪人よ! 私は、「万民の審判者なる神」の前で(ヘブル一二・二三)、あなたに命じます。あなたのすべての不信心を携えたまま、まっすぐに神のもとへ行きなさい。多かれ少なかれ自分の義を申し立てて、自分の魂を滅ぼすことのないよう、気をつけなさい。まったく不信心な者として、罪ある者、失われた者、滅びた者として、地獄に値し、地獄に落ちかけている者として行きなさい。そうすれば、あなたは神の前に恵みを得、神が不信心な者を義とされることを知るでしょう。そのような者として、すなわち破滅した、無力な、罪に定められた罪人として、あなたは「そそがれた血」のもとへ導かれます(ヘブル一二・二四)。こうして、「イエスを仰ぎ見」なさい(ヘブル一二・二)。そこに、あなたの「罪を取り除く神の小羊」がおられます(ヨハネ一・二九)。わざを申し立ててはなりません。自分の義を申し立ててはなりません! 謙遜も、悔恨も、誠実も申し立ててはなりません! 決していけません。それこそ、まさに、あなたを「あがなってくださった主を否定」することです(第二ペテロ二・一)。そうではありません。ただ「契約の血」だけを申し立てなさい(ヘブル一〇・二九)。あなたの高慢な、かたくなな、罪深い魂のために支払われた、あがないの代価だけを申し立てなさい。いま、自分の内側と外側の不信心を見て、感じているあなたは、だれでしょうか。「あなたがその人です」(第二サムエル一二・七)。私は、私の主のために、あなたが欲しいのです! 信仰による神の子として、ほかならぬあなたを、主のものとして求めます! 「主がお入り用なのです」(マタイ二一・三)。自分は地獄にこそふさわしいと感じているあなたこそ、神の栄光を現すのにふさわしいのです。それは、神の価なしの恵みの栄光です。不信心な者を、働きのない者を義とする恵みの栄光です。ああ、早く来なさい! 「主イエスを信じなさい」(使徒一六・三一)。そうすれば、あなたも、ほかならぬあなたも、神と和解させられるのです。