ジョン・ウェスレー標準説教集

説教四 聖書的キリスト教

オクスフォード大学聖母マリア教会にて。1744年8月24日。

(編者注)この説教は、はじめ単独の小冊子として出版されました。そこには「読者へ」という次の言葉が、著者の署名と共に添えられていました。「私は、この説教を書いたとき、その後半を印刷するつもりはまったくありませんでした。けれども、この説教について、偽りの、口ぎたない話が、国のほとんど隅々にまで広められています。そのため、語ったそのままの形で、全体を出版せざるをえなくなりました。道理をわきまえた人々が、自分で判断できるようにするためです」。

「人がラッパの音を聞いても、みずから警戒せず、ついにつるぎが来て、その人を殺したなら、その血は彼のこうべに帰します」(エゼキエル三三・四)

「一同は聖霊に満たされました」(使徒四・三一)

(一) 同じ言い方が、第二章にも出てきます。そこには、こう書いてあります。「五旬節の日がきて、みんなの者が」(使徒たちが、女たちやイエスの母、イエスの兄弟たちと共に)「一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきました。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまりました。すると、一同は聖霊に満たされ」ました。そのすぐに現れた結果の一つは、彼らが「いろいろの他国の言葉で語り出した」ことでした。「この物音に」「集まってきた」のは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、そのほかの他国人でした。彼らは、使徒たちが「生れ故郷の国語で」、「神の大きな働きを述べるのを聞」いたのです(使徒二・一〜一一)。

(二) この第四章には、使徒たちと兄弟たちが祈り、神をほめたたえていたとき、「その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ」たとあります(使徒四・三一)。ただし、ここには、前の場合のような目に見える現れはありません。また、聖霊の特別な賜物が、そのとき一同に、あるいはそのうちのだれかに与えられたとも書かれていません。特別な賜物とは、「いやしの賜物」や、ほかの「力あるわざ」、「預言」、「霊を見わける力」、「種々の異言」、「異言を解く力」などです(第一コリント一二・九〜一〇)。

(三) 聖霊のこれらの賜物は、あらゆる時代を通じて教会にとどまるように定められていたのでしょうか。また、「万物更新の時」が近づくと(使徒三・二一)、回復されるのでしょうか。こうした問いに、決着をつける必要はありません。けれども、次のことには注意しておく必要があります。教会の初めのころでさえ、神はこれらの賜物を、控えめにしか分け与えられなかったのです。そのころでさえ、「みんなが預言者」だったでしょうか。「みんなが力あるわざを行う者」だったでしょうか。「みんながいやしの賜物を持って」いたでしょうか。「みんなが異言を語」ったでしょうか(第一コリント一二・二九〜三〇)。決してそうではありません。おそらく、千人にひとりもいなかったでしょう。たぶん、教会の教師たちのほかにはいませんでした。それも、その一部だけでした(第一コリント一二・二八)。ですから、「一同は聖霊に満たされ」たのは、これよりもさらにすぐれた目的のためでした。

(四) それは、キリストのうちにあった思いを、彼らに与えるためでした(ピリピ二・五)。御霊の聖なる実を与えるためでした。この思いと実とが、あらゆる時代のすべてのクリスチャンに欠かせないものであることは、だれも否定できません。これを持たない者は、だれであってもキリストのものではないからです(ローマ八・九)。彼らを「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意」で満たすためでした(ガラテヤ五・二二)。信仰(おそらく「忠実」と訳すこともできます)と、柔和と、自制とを授けるためでした(ガラテヤ五・二二〜二三)。肉を、その「情と欲と共に」、その激情や欲望と共に、「十字架につけ」ることができるようにするためでした(ガラテヤ五・二四)。そして、その内側の変化の結果として、外側のあらゆる義を全うさせるためでした。キリストが「歩かれたように」歩ませるためでした(第一ヨハネ二・六)。「信仰の働き」、「望みの忍耐」、「愛の労苦」のうちに歩ませるためです(第一テサロニケ一・三)。

(五) ですから、御霊の特別な賜物について、好奇心からの不要な詮索にかかずらうのはやめましょう。むしろ、御霊のふつうの実を、もっと近くから見てみましょう。この実が、あらゆる時代を通じてとどまることを、私たちは確信しています。それは、人の子らの間でなされる神の大いなるわざです。私たちはふつう、これを「キリスト教」という一語で言い表しています。ただし、ここで言うキリスト教は、一連の意見や教理の体系のことではありません。人の心と生活にかかわるものとしてのキリスト教です。このキリスト教を、三つの異なる面から考えてみるのが有益でしょう。

一、個人のうちに存在し始めるもの二、人から人へ広がっていくもの三、地をおおうもの

そして最後に、わかりやすい、実際的な適用をもって、これらの考察を締めくくるつもりです。

【一】 個人のうちに始まるキリスト教

(一) まず、キリスト教の起こりを考えてみましょう。個人のうちに存在し始めるものとしてのキリスト教です。では、使徒ペテロが悔い改めと罪の赦しを宣べ伝えるのを聞いた人々のひとりを、思い浮かべてください。その人は「強く心を刺され」(使徒二・三七)、罪を悟らされ、悔い改め、そしてイエスを信じました。この信仰は、神の働きによるものです。それは、望んでいる事がらの実体、あるいは実在そのものであり(ヘブル一一・一)、見えない事がらをはっきりと示す証拠です。この信仰によって、その人はただちに「子たる身分を授ける霊を受け」ました。そして、いまや「その霊によって」、「アバ、父よ」と呼ぶようになったのです(ローマ八・一五)。このとき初めて、その人は「聖霊によって」、イエスを主と呼ぶことができました(第一コリント一二・三)。「御霊みずから」、その人の「霊と共に」、その人が「神の子であることをあかしして」くださったのです(ローマ八・一六)。このときこそ、その人は本当にこう言うことができたのです。「生きているのは、もはや、私ではありません。キリストが、私のうちに生きておられるのです。私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのです」(ガラテヤ二・二〇)。

(二) ですから、その人の信仰の本質は、こうでした。それは、神から与えられたエレンコス(証拠、確信)です。父なる神が、その愛する御子を通して、罪人である自分を愛してくださっているという確信です。その人はいまや、愛する御子にあって受け入れられているのです。そして、その人は「信仰によって義とされたので」、「神に対して平和を得て」いました(ローマ五・一)。そうです、神の「平和が」その人の「心を支配して」いたのです(コロサイ三・一五)。その平安は、「人知ではとうてい測り知ることのできない」ものでした。原語でパンタ・ヌーン、すなわち、ただ理性によるだけのあらゆる理解を越えるものです。この平安が、その人の「心と思いとを」、あらゆる疑いと恐れから「守」っていました(ピリピ四・七)。その人は、「自分の信じてきたかたを知って」いたからです(第二テモテ一・一二)。ですから、その人は「悪いおとずれを恐れ」ることがありませんでした。その「心は主に信頼してゆるが」なかったからです(詩篇一一二・七)。人が自分に何をなしうるかを、恐れませんでした(ヘブル一三・六)。自分の「頭の毛までも、みな数えられている」ことを知っていたからです(マタイ一〇・三〇)。やみのあらゆる力をも、恐れませんでした。神がそれを日ごとに、その人の「足の下に踏み砕いて」おられたからです(ローマ一六・二〇)。何よりも、死ぬことを恐れませんでした。いや、「この世を去ってキリストと共にいること」を願っていました(ピリピ一・二三)。キリストは、「死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし」ました。そして、「死の恐怖のために一生涯」、そのときまで「奴隷となっていた者たちを」、「解き放」ってくださったのです(ヘブル二・一四〜一五)。

(三) ですから、その人の「魂は主をあがめ」、その「霊は救主なる神をたたえ」ました(ルカ一・四六〜四七)。その人は、自分を父なる神と和解させてくださった方を、「言葉につくせない」「喜び」をもって喜びました(第一ペテロ一・八)。この方にあって、「その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けた」のです(エペソ一・七)。神の御霊が、その人の霊と共に、その人が神の子であることをあかししてくださいました。そのあかしを喜びました(ローマ八・一六)。そして、それにもまして、「神の栄光にあずかる希望をもって喜」びました(ローマ五・二)。神の栄光あるかたちを望み、自分の魂が「真の義と聖と」において(エペソ四・二四)、すっかり新しくされることを望んで喜びました。あの「栄光の冠」を(第一ペテロ五・四)、あの「朽ちず汚れず、しぼむことのない資産」を(第一ペテロ一・四)、望んで喜んだのです。

(四) また、「その人に賜わっている聖霊によって、神の愛がその人の心に注がれて」いました(ローマ五・五)。「その人は子であるので、神はその人の心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送ってくださった」のです(ガラテヤ四・六)。そして、子として神を愛するその愛は、絶えず増し加わっていきました。神が赦しの愛で自分を愛してくださっているというあかしを、「自分のうちに」持っていたからです(第一ヨハネ五・一〇)。また、自分が「神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えて」いたからです(第一ヨハネ三・一)。こうして、神はその人の目の慕うもの、心の喜びとなりました。この世においても永遠においても、その人の受ける分となったのです。

(五) このように神を愛する人は、兄弟をも愛さずにはいられませんでした。それも、「言葉や口先だけで」なく、「行いと真実とをもって」愛したのです(第一ヨハネ三・一八)。その人はこう言いました。「神がこのように私たちを愛してくださったのであるから、私たちも互に愛し合うべきです」(第一ヨハネ四・一一)。そうです、すべての人の魂を愛するべきです。神の「あわれみはすべてのみわざの上に」あるからです(詩篇一四五・九)。これにかなって、神を愛するこの人の思いは、神のゆえに、すべての人を包みました。一度も顔を合わせたことのない人も、例外ではありませんでした。「神の子孫」であり(使徒一七・二九)、御子がその魂のために死なれた、ということのほかには何も知らない人も、例外ではありませんでした。「悪人」も「恩を知らぬ者」も(ルカ六・三五)、例外ではありませんでした。敵は、なおさら例外ではありませんでした。主のゆえに自分を憎み、迫害し、はずかしめる人々です。こうした人々は、その人の心にも祈りにも、特別な場所を占めていました。その人は、「キリストも」私たちを「愛してくださった」ように、彼らを愛したのです(エペソ五・二)。

(六) そして、「愛は高ぶらない」のです(第一コリント一三・四)。愛は、それが宿るすべての魂を、ちりにまで低くします。ですから、その人は心がへりくだっていました。自分の目には、自分は小さく、卑しく、取るに足りない者でした。人からの誉を求めもせず、受けもしませんでした。「ただひとりの神からの誉」だけを求めたのです(ヨハネ五・四四)。柔和で寛容であり、すべての人に優しく、温順でした。忠実と真実とが、その人から離れることはありませんでした。それは、その人の「首に結」ばれ、「心の碑にしる」されていたのです(箴言三・三)。同じ御霊によって、その人は「何ごとにも節制」することができました(第一コリント九・二五)。「乳離れしたみどりごのように」、自分の魂を静めていました(詩篇一三一・二)。その人は世に対して十字架につけられ、世もその人に対して十字架につけられていました(ガラテヤ六・一四)。「肉の欲、目の欲、持ち物の誇」に(第一ヨハネ二・一六)、まさっていました。同じ全能の愛によって、その人は救われていました。怒りと高ぶりから、情欲と虚栄から、野心と貪欲から、そして、キリストのうちになかったあらゆる気質から救われていたのです。

(七) この愛を心に持つ人が、「隣り人に害を加えることはない」というのは(ローマ一三・一〇)、たやすく信じられるでしょう。その人が、知りながら、わざと、だれかに害を加えることはありえませんでした。残酷なことや悪いこと、不正な行いや不親切な行いからは、最も遠いところにいました。同じように気をつけて、その人は「口に門守を置いて、くちびるの戸を守」りました(詩篇一四一・三)。舌によって、正義やあわれみや真実に背くことのないためです。あらゆる偽りと虚言と欺きとを捨てました(エペソ四・二五)。その口には偽りがありませんでした(第一ペテロ二・二二)。だれをもそしらず(テトス三・二)、不親切な言葉がそのくちびるから出ることは、一度もありませんでした。

(八) その人は、「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない」というみことばが真実であることを(ヨハネ一五・五)、深く感じていました。ですから、自分が神から「常に水をそそ」がれる必要があることも(イザヤ二七・三)、深く感じていました。そこで、その人は日ごとに、神のすべての定めを守り続けました。それは、神が人に恵みを注ぐために定められた通り道です。「使徒たちの教」を守り、魂のその糧を、心から喜んで受けました。「パンをさ」くことを続け、それが「キリストのからだにあずかること」であると知りました(第一コリント一〇・一六)。そして、大いなる会衆がささげる「祈」と賛美とを続けました(使徒二・四二)。こうして、その人は日ごとに恵みにおいて成長し(第二ペテロ三・一八)、力を増し、神を知る知識と神への愛とにおいて増し加わっていきました。

(九) けれども、その人は、悪を行わないだけでは満足しませんでした。その魂は、善を行うことに渇いていたのです。その人の心は、いつもこう語っていました。「『わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのです』(ヨハネ五・一七)。私の主は、よい働きをしながら巡回されました(使徒一〇・三八)。私も、その御足の跡を踏み従わないでいられましょうか」(第一ペテロ二・二一)。ですから、その人は「機会のあるごとに」(ガラテヤ六・一〇)、善を行いました。もっと高い種類の善ができないときは、飢えている人に食べさせ、裸の人に着せました。みなしごや旅人を助け、病気の人や獄にいる人を見舞って助けました(マタイ二五・三五〜三六)。全財産を、貧しい人々に施しました(第一コリント一三・三)。その人は、彼らのために働くことも、苦しむことも喜びました。ほかの人の益になることなら、何においても、とりわけ「自分を捨て」ることを喜んだのです(マタイ一六・二四)。彼らのためなら、手放すのが惜しすぎるものは何一つないと考えました。主のみことばを、よく覚えていたからです。「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのです」(マタイ二五・四〇)。

(一〇) これが、起こったばかりのころのキリスト教でした。これが、昔のクリスチャンでした。祭司長たちや長老たちのおどしを聞いて、「口をそろえて、神にむかい声をあげ」(使徒四・二四)、「一同は聖霊に満たされ」た人々は(使徒四・三一)、ひとりひとりがこのような人でした。「信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして」いました(使徒四・三二)。それほどに、彼らが信じた方の愛が、互いに愛し合うよう彼らに「強く迫って」いたのです(第二コリント五・一四)。「だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていました」(使徒四・三二)。それほど完全に、彼らは世に対して十字架につけられ、世も彼らに対して十字架につけられていたのです。「そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、共にパンをさき、祈をしていました」(使徒二・四二)。「そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれました。彼らの中に乏しい者は、ひとりもいませんでした。地所や家屋を持っている人たちは、それを売り、売った物の代金をもってきて、使徒たちの足もとに置きました。そしてそれぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられました」(使徒四・三三〜三五)。

【二】 人から人へ広がるキリスト教

(一) 第二に、このキリスト教が人から人へと広がり、こうして少しずつ世に入っていく姿を見てみましょう。キリスト教についての神のみこころは、そのようなものだったからです。神は「あかりをつけて、それを枡の下におく」ために、ともされたのではありません。「家の中のすべてのものを照させる」ために、ともされたのです(マタイ五・一五)。このことを、私たちの主は、最初の弟子たちに告げておられました。「あなたがたは、地の塩です」、「世の光です」(マタイ五・一三〜一四)。そして同時に、すべての弟子に向けた、あの命令を与えられたのです。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ五・一六)。

(二) 実際、人を愛するこうした人々のうちの幾人かが、「全世界は悪しき者の配下にある」のを見たとしましょう(第一ヨハネ五・一九)。彼らが、その光景に、自分たちの主が死なれた人々の悲惨に、無関心でいられると思えるでしょうか。彼らの心は、その人々を思って痛まないでしょうか。悩みのあまり、溶け去らないでしょうか。たとえ自分たちの愛する方からの命令がなかったとしても、「何もしないで、一日中」立っていることができたでしょうか(マタイ二〇・六)。むしろ、あらゆる手段を尽くして、この燃えさしのいくらかでも、炎の中から取り出そうと努めないでしょうか(アモス四・一一)。きっとそうするはずです。「羊のようにさ迷っていた」あわれな人々を、ひとりでも多く連れ戻そうとするはずです。「たましいの」大いなる「牧者であり監督であるかた」のもとへです。そのためなら、どんな骨折りも惜しまないはずです(第一ペテロ二・二五)。

(三) 昔のクリスチャンたちは、そのとおりにしました。「機会のあるごとに、だれに対しても」、「善を行」おうと努めたのです(ガラテヤ六・一〇)。「迫ってきている神の怒りから」のがれるように(マタイ三・七)、いまこそ、いまこそ「地獄の刑罰をのがれる」ように(マタイ二三・三三)、人々に警告しました。彼らは告げました。「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていましたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられます」(使徒一七・三〇)。彼らは声高く叫びました。「心を翻しなさい、心を翻して、その悪しき道を離れなさい」(エゼキエル三三・一一)。「さもないと悪はあなたがたを滅ぼします」(エゼキエル一八・三〇)。彼らは、「節制」と「正義」について、人々と「論じ」ました。これは、人々を支配している罪とは反対の徳のことです。また、「未来の審判」について論じました。神が世をさばかれるその日に、悪を行う者の上に必ず下される、神の怒りのことです(使徒二四・二五)。

(四) そのさい、彼らはひとりひとりに、その必要に応じて語ろうと努めました。無頓着な人々、「暗黒と死の陰と」の中で(ルカ一・七九)平然と横たわっている人々には、雷のように叫びました。「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照してくださいます」(エペソ五・一四)。けれども、すでに眠りから覚まされ、神の怒りを感じてうめいている人々には、こう語りました。「父のみもとには、私たちのために助け主がおられます」。「彼は、私たちの罪のための、あがないの供え物です」(第一ヨハネ二・一〜二)。一方、すでに信じた人々には、「愛と善行とを励むように」と(ヘブル一〇・二四)、「耐え忍んで善を行」うようにと(ローマ二・七)勧めました。そして、聖性において、ますます豊かになるように勧めました。「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」からです(ヘブル一二・一四)。

(五) そして、彼らの労苦は、主にあってむだになりませんでした(第一コリント一五・五八)。主の言葉は「早く広まり、また、あがめられ」ました(第二テサロニケ三・一)。「ますます盛んにひろまり、また力を増し加えていった」のです(使徒一九・二〇)。けれども、それだけいっそう、つまずきもまた広がっていきました。世は全体として、つまずきました。彼らが「世のおこないの悪いことを、あかししている」からです(ヨハネ七・七)。快楽を好む人々もつまずきました。一つには、この人たちが、いわば自分たちの思いをとがめるために造られたかのようだったからです。快楽を好む人々は言いました。「あの男は、神を知っていると公言し、自分を主の子と呼んでいる。その生活はほかの人々とは違い、その歩みは異様だ。われわれの道を、汚れたものであるかのように避けている。そして、神が自分の父だと誇っている」(知恵の書二・一三〜一六)。けれども、それ以上に、仲間の多くが連れ去られ、もはや自分たちと一緒に「度を過ごした乱行」に走らなくなったからです(第一ペテロ四・四)。名声のある人々もつまずきました。福音が広まるにつれて、民衆からの評価が下がったからです。また、多くの人が、もはや彼らにへつらいの称号を与えようとせず、神だけに帰すべき敬意を人に払おうとしなくなったからです。商売をする人々は、互いに呼び集めて言いました。「諸君、われわれがこの仕事で、金もうけをしていることは、ご承知のとおりだ。しかるに、諸君の見聞きしているように、あの者たちが、大ぜいの人々を説きつけて誤らせた。これでは、お互の仕事に悪評が立つおそれがある」(使徒一九・二五〜二七)。何よりも、宗教家と呼ばれる人々、外側だけの宗教の人々、「世の聖徒たち」がつまずきました。そして、機会があるたびに、こう叫ぼうと身構えていました。「イスラエルの人々よ、加勢にきてくれ」(使徒二一・二八)。「この者たちは、疫病のような人間で、世界中に騒ぎを起している」(使徒二四・五)。「この者たちは、いたるところで民とこの場所とにそむくことを、みんなに教えている」(使徒二一・二八)。

(六) こうして、空は雲で黒くなり、嵐が激しく集まってきました。キリスト教が広まれば広まるほど、それを受け入れない人々の目には、害が大きくなったからです。「天下をかき回してきたこの人たち」に(使徒一七・六)、ますます激しく怒る人々の数が増えていきました。そのため、ますます多くの人々が叫ぶようになりました。「こんな者どもは地上から取り除いてしまえ。生かしおくべきではない」(使徒二二・二二)。そうです、彼らを殺す者はだれでも、それによって神に仕えることになるのだと、本気で信じたのです(ヨハネ一六・二)。

(七) その一方で、人々は彼らに決まって「汚名を着せ」ました(ルカ六・二二)。そのため、「この宗派については、いたるところで反対」がありました(使徒二八・二二)。人々は彼らに対して、「様々の悪口を言」いました(マタイ五・一一)。彼らより前の「預言者たち」に対してしたのと、同じようにです(マタイ五・一二)。だれかが何かを言い立てれば、ほかの者たちはそれを信じました。こうして、つまずきは「天の星のように」おびただしく増えていきました(ヘブル一一・一二)。そしてここから、父があらかじめ定めておかれた時に、あらゆる形の迫害が起こりました。ある人々は、しばらくの間、恥とそしりを受けるだけで済みました。ある人々は、「自分の財産が奪われ」ました(ヘブル一〇・三四)。ある人々は「あざけられ、むち打たれ」、ある人々は「しばり上げられ、投獄される」目に会いました(ヘブル一一・三六)。またほかの人々は、「血を流すほどの抵抗」をしたのです(ヘブル一二・四)。

(八) このときこそ、地獄の柱が揺り動かされ、神の国がますます広がっていったのです。罪人たちはいたるところで、「やみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰」らされました(使徒二六・一八)。神はご自分の子らに、「反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを」授けられました(ルカ二一・一五)。そして、彼らの生活は、その言葉に劣らない力を持っていました。けれども何よりも、彼らの苦難が、全世界に語りかけました。彼らは、「神の僕として、自分を人々にあらわし」ました。「患難にも、危機にも、行き詰まりにも、むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも」そうしたのです(第二コリント六・四〜五)。「海上の難」や「荒野の難」に会ったときも、「労し苦しみ」、「飢えかわき」、「寒さに凍え、裸でいた」ときも、そうでした(第二コリント一一・二六〜二七)。彼らは「戦いをりっぱに戦いぬき」ました(第二テモテ四・七)。そのあと、「ほふられる羊のように」引かれて行き(ローマ八・三六)、自分たちの「信仰の供え物」の上に、ささげられました(ピリピ二・一七)。そのとき、ひとりひとりの血が声をあげました。異教徒たちも、「彼は死んだが、今もなお語っている」と認めたのです(ヘブル一一・四)。

(九) こうして、キリスト教は地に広がっていきました。けれども、なんと早く、麦と共に「毒麦もあらわれ」たことでしょう(マタイ一三・二六)。「信心の奥義」と並んで(第一テモテ三・一六)、なんと早く、「不法の秘密の力」が働いたことでしょう(第二テサロニケ二・七)。なんと早く、サタンが自分の座を(黙示録二・一三)、「神の宮」の中にさえ見いだしたことでしょう(第二テサロニケ二・四)。ついに、「女は荒野へ逃げて行」き(黙示録一二・六)、「忠信な者は人の子らのなかから」再び「消えうせ」たのです(詩篇一二・一)。ここで私たちは、踏みならされた道を歩くことになります。その後の世代の、いまもやむことのない腐敗については、神が立てられた証人たちが、折にふれて詳しく書き記してきました。神はこの証人たちを立てて、ご自分が「岩の上に」「教会を建て」られたこと、「黄泉の力も」それに完全には「打ち勝つことはない」ことを示されたのです(マタイ一六・一八)。

【三】 地をおおうキリスト教

(一) けれども、私たちは、「これよりも、もっと大きなこと」を見るのではないでしょうか(ヨハネ一・五〇)。そうです、世の初めからこれまでにあったどんなことよりも、大きなことを見るのです。サタンが、神の真実を損ない、その約束を無にすることができるでしょうか。できないなら、キリスト教がすべてに打ち勝ち、地をおおう時が来るはずです。しばらく立ち止まって、この不思議な光景を見渡してみましょう(これが、初めに予告した第三のことです)。キリスト教の世界という光景です。このことについて、昔の預言者たちは「たずね求め、かつ、つぶさに調べ」ました。このことを、「彼らのうちにいます」御霊が「あかし」したのです(第一ペテロ一・一〇〜一一)。「終りの日に次のことが起ります。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてきます。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとします。国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学びません」(イザヤ二・二、四)。「その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光があります。その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者をあがなわれます。主は国々のために旗をあげて、イスラエルの追いやられた者を集め、ユダの散らされた者を地の四方から集められます」(イザヤ一一・一〇〜一二)。「そのとき、おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれます。彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがないと、主は言われます。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからです」(イザヤ一一・六、九)。

(二) 大使徒の言葉も、同じ趣旨です。それがまだ一度も成就していないことは、明らかです。「神はその民を捨てたのでしょうか。断じてそうではありません」(ローマ一一・一)。「かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及」んだのです(ローマ一一・一一)。「彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことでしょう」(ローマ一一・一二)。「兄弟たちよ。あなたがたに、この奥義を知らないでいてもらいたくありません。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、こうして、イスラエル人は、すべて救われるでしょう」(ローマ一一・二五〜二六)。

(三) さて、「時の満ちる」ときが来て(ガラテヤ四・四)、預言が成就したとしましょう。なんという眺めでしょう! すべてが平和で、「とこしえの平安と信頼」があります(イザヤ三二・一七)。ここには、武器のとどろきも、騒がしい物音も、「血にまみれた衣」もありません(イザヤ九・五)。「破壊はとこしえに終わり」ました(詩篇九・六)。戦いは地から絶えました(詩篇四六・九)。内輪の争いも、もう残っていません。兄弟が兄弟に逆らって立つこともありません。「内部で分れ争う」国や町が(マタイ一二・二五)、自らのはらわたを引き裂くこともありません。国内の不和は永久に終わり、隣人を「そこな」い、「やぶる」者は、ひとりも残っていません(イザヤ一一・九)。ここには、「賢い人」をさえ「愚かに」する「しえたげ」はありません(伝道七・七)。「貧しい者の顔をすり砕く」ゆすりもありません(イザヤ三・一五)。強盗も悪事も、略奪も不正もありません。すべての人が、「自分の持っているもので満足し」ているからです(ヘブル一三・五)。こうして、「義と平和とは互に口づけし」ました(詩篇八五・一〇)。義と平和とは「深く根ざして、国にはびこ」りました(詩篇八〇・九)。「義は地からはえ」、「平和は天から見おろして」います(詩篇八五・一一)。

(四) そして、義、すなわち正義と共に、あわれみもあります。地はもはや、「暴力のすまいで満ちて」いません(詩篇七四・二〇)。主は、血に飢えた者も悪意ある者も、ねたむ者も復讐する者も、滅ぼしてしまわれました。たとえ挑発されることがあっても、いまは「悪をもって悪に報い」ることを知る者は、だれもいません(ローマ一二・一七)。いや、実のところ、悪を行う者はいません、ひとりもいません。すべての人が「はとのように素直」だからです(マタイ一〇・一六)。彼らは信仰から来る「喜びと平安と」に満たされ(ローマ一五・一三)、一つの御霊によって、一つのからだに結び合わされています(エペソ四・四)。みなが兄弟として愛し合い(第一ペテロ三・八)、みなが「心を一つにし思いを一つにして」います(使徒四・三二)。「だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者が」ありません(使徒四・三二)。「彼らの中に乏しい者は、ひとりも」いません(使徒四・三四)。すべての人が、「自分を愛するように」「隣り人を愛」しているからです(マタイ二二・三九)。そして、みなが一つの規準によって歩んでいます。「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにしなさい」(マタイ七・一二)。

(五) ですから、彼らの間では、不親切な言葉が聞かれることは決してありません。「舌の争い」も(詩篇三一・二〇)、どんな種類の争いもありません。ののしりも悪口もありません。だれもが「口を開いて知恵を語」り、「その舌にはいつくしみの教」があります(箴言三一・二六)。同じように、彼らは詐欺も偽りもできません。その愛には偽りがありません(ローマ一二・九)。彼らの言葉は、いつもその思いをそのまま言い表しています。それは、胸の内に開かれた窓のようです。だれでも望む人は、その窓から彼らの心をのぞき込み、そこに愛と神とだけがあるのを見ることができるのです。

(六) こうして、全能者にして主なる神が、「大いなる御力をふるって支配」なさるところでは(黙示録一一・一七、一九・六)、神は「万物をご自身に従わせ」られます(ピリピ三・二一)。すべての心を愛であふれさせ、すべての口を賛美で満たされるのです。「このような祝福をもつ民はさいわいです。主をおのが神とする民はさいわいです」(詩篇一四四・一五)。主は言われます。「起きなさい、光を放ちなさい。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったからです」(イザヤ六〇・一)。「あなたは、主なるわたしが、あなたの救主、また、あなたのあがない主、ヤコブの全能者であることを知るにいたります。わたしは、あなたのまつりごとを平和にし、あなたのつかさびとを正しくします。暴虐は、もはやあなたの地に聞かれず、荒廃と滅亡は、もはやあなたの境のうちに聞かれません。あなたはその城壁を『救』ととなえ、その門を『誉』ととなえます」(イザヤ六〇・一六〜一八)。「あなたの民はことごとく正しい者となって、とこしえに地を所有します。彼らはわたしの植えた若枝、わが手のわざ、わが栄光をあらわすものとなります」(イザヤ六〇・二一)。「昼は、もはや太陽があなたの光とならず、夜も月が輝いてあなたを照しません。主はとこしえにあなたの光となり、あなたの神はあなたの栄えとなられます」(イザヤ六〇・一九)。

【四】 実際的な適用

こうして、始まるものとして、広がっていくものとして、地をおおうものとして、キリスト教を手短に考えてきました。残っているのは、わかりやすい、実際的な適用をもって、全体を締めくくることだけです。

(一) まず、お尋ねしたいのです。このキリスト教は、いまどこにあるのでしょうか。どうか教えてください。クリスチャンは、どこに住んでいるのでしょうか。住民がみな、このように聖霊に満たされている国は、どこにあるのでしょうか。その国では、みなが心を一つにし思いを一つにしています。自分たちのうちのひとりでも乏しくなるのを忍びず、いつも「それぞれの必要に応じて、だれにでも分け与え」ています(使徒四・三五)。住民はひとり残らず、神の愛に心を満たされ、自分を愛するように隣り人を愛するよう、その愛に強く迫られています。みなが「あわれみの心、謙そん、柔和、寛容を身に着け」ています(コロサイ三・一二)。言葉においても行いにおいても、正義やあわれみや真実に、少しも背くことがありません。あらゆる点で、人々からしてほしいと望むことを、すべての人にしています(マタイ七・一二)。そんな国が、どこにあるのでしょうか。この描写に当てはまらない国を、どうしてキリスト教国と呼ぶことができるでしょうか。それなら、私たちは地上でキリスト教国をまだ一度も見たことがないと、認めようではありませんか。

(二) 兄弟たちよ、「神のあわれみによってあなたがたに勧め」ます(ローマ一二・一)。あなたがたが私を狂人とか愚か者とか思うとしても、愚か者として、私を忍んでください(第二コリント一一・一、一六)。だれかが、あなたがたに向かって、「思いきって大胆に語る」ことが、どうしても必要なのです(第二コリント三・一二)。とりわけ、いまそれが必要です。これが最後の時でないと、だれにわかるでしょうか。正しい審判者が、いつ「わたしはもはや、この民のためのとりなしを聞かない」と言われるか、だれにわかるでしょうか。「たといこの地にノア、ダニエル、ヨブがいても、彼らはただ自分の命を救いうるのみです」(エゼキエル一四・一四)。私が語らないなら、だれがこのように大胆に語るでしょうか。ですから、私が、この私が語ります。生ける神にかけて、あなたがたにお願いします。私の手から祝福を受けることに対して、胸を固く閉ざさないでください。心の中で、こう言ってはなりません。Non persuadebis, etiamsi persuaseris. (たとえ本当に納得させられても、あなたの説得には従わない)言いかえれば、「主よ、あなたが選んでつかわす者を、つかわしてはならない。この男に救われるくらいなら、自分の血の中で滅びるほうがましだ!」と言わないでください。

(三) 兄弟たちよ、「こうは言うものの」、私は「更に良いことがあるのを、あなたがたについて確信して」います(ヘブル六・九)。では、優しい愛をもって、「柔和な心をもって」(ガラテヤ六・一)、お尋ねします。この町は、キリスト教の町でしょうか。キリスト教が、聖書的キリスト教が、ここに見られるでしょうか。私たちは、一つの共同体として見たとき、「聖霊に満たされ」ているでしょうか。その御霊の本物の実を、心に味わい、生活に現すほどに満たされているでしょうか。町の住民のことは言わないでおきます。すべての為政者、学寮と学館のすべての長や監督者、またそれぞれの団体の人々は、「心を一つにし思いを一つにして」いるでしょうか(使徒四・三二)。「神の愛が私たちの心に注がれて」いるでしょうか(ローマ五・五)。私たちの気質は、キリストのうちにあったものと同じでしょうか(ピリピ二・五)。そして、私たちの生活はそれにかなっているでしょうか。私たちは、「私たちを召してくださった聖なるかたにならって」、「あらゆる行いにおいて聖なる者」となっているでしょうか(第一ペテロ一・一五)。

(四) どうか、心にとめてください。いまここで考えているのは、特異な考えではありません。私が問うているのは、あれこれの疑わしい意見についてではありません。私たちに共通のキリスト教の、疑う余地のない根本の部分についてです(もし、そのようなものがあるならば)。そして、その判定は、神のことばに導かれたあなたがた自身の良心に、ゆだねます。ですから、自分の心に責められない人は、責めを負わずに去ってください。

(五) では、大いなる神を恐れつつ、その御前でお願いします。あなたがたも私も、まもなくこの神の前に出るのです。私たちの上に権威を持っておられる方々よ。私はその職のゆえに、あなたがたを敬っています。どうか、よく考えてください。神の前で偽る者のようにではなく、考えてください。あなたがたは、「聖霊に満たされ」ているでしょうか。あなたがたは、人々の間で神を代表するように任じられています。その神の生きた肖像となっているでしょうか。為政者たち、治める人たちよ、「わたしは言う、『あなたがたは神だ』」(詩篇八二・六)。あなたがたは、その職によって、それほど天の神に近く結ばれているのです! それぞれの地位と身分において、あなたがたは私たちに、「われらの統治者なる主」を示さなければなりません(詩篇八・一)。あなたがたの心の思いのすべて、気質と願いのすべては、その高い召しにふさわしいでしょうか。あなたがたの言葉はみな、神の口から出る言葉のようでしょうか。あなたがたのすべての行いに、威厳と愛があるでしょうか。それは、言葉では言い表せない偉大さです。「神に満ちた」心からしか流れ出ない偉大さです。それでいて、「うじのような人、虫のような人の子」という性質とも矛盾しない偉大さです(ヨブ二五・六)。

(六) 尊敬すべき方々よ。あなたがたは特に、若者の柔らかい心を形づくるように召されています。そこから無知と誤りの影を追い払い、「救に至る知恵」を持つように(第二テモテ三・一五)、彼らを育てるように召されているのです。そのあなたがたは、「聖霊に満たされ」ているでしょうか。その重要な職がどうしても必要とする、あの「御霊の実」のすべてに満たされているでしょうか(ガラテヤ五・二二)。あなたがたの心は、神に対して全きものでしょうか。神の国を地上に打ち立てようとする愛と熱心に満ちているでしょうか。あなたがたは、自分にゆだねられた人々に、いつも思い起こさせているでしょうか。私たちのすべての学問の、ただ一つの理にかなった目的は、「唯一の、まことの神」と、神が「つかわされたイエス・キリストとを」知り、愛し、仕えることだと(ヨハネ一七・三)。日ごとに、彼らに説いて聞かせているでしょうか。ただ「愛はいつまでも絶えることがない」のだと(第一コリント一三・八)。一方、「異言はやみ」、哲学の「知識はすたれる」のだと。そして、愛がなければ、あらゆる学問は、きらびやかな無知、もったいぶった愚かさ、心の悩みにすぎないのだと。あなたがたの教えることはすべて、実際に、神への愛と、神のゆえのすべての人への愛とに向かっているでしょうか。彼らの学問の種類、方法、分量について何を定めるときも、この目的に目を注いでいるでしょうか。キリストのこの若い兵士たちは、どこにつかわされることになるでしょうか。どこであっても、ひとりひとりが「燃えて輝くあかり」となるように(ヨハネ五・三五)、「万事につけ」キリストの福音を「飾る」ように(テトス二・一〇)、願い、努めているでしょうか。そして、お尋ねすることを許してください。あなたがたは、自分が引き受けたこの大きな仕事に、全力を注いでいるでしょうか。これに「力をつくして」励んでいるでしょうか(伝道九・一〇)。魂のあらゆる能力を働かせ、神が貸し与えてくださったあらゆるタラントを、力の限り用いているでしょうか。

(七) 私がここで、あなたがたにゆだねられた人々がみな聖職者になるかのように語っている、と言わないでください。そうではありません。私はただ、彼らがみなクリスチャンになるはずの者として語っているのです。けれども、先人たちの恩恵にあずかっている私たちは、彼らにどんな模範を示しているでしょうか。特別研究員や給費生は、とりわけ、いくらかの地位と名声のある人々は、どんな模範を示しているでしょうか。兄弟たちよ、あなたがたは御霊の実に満ちあふれているでしょうか。へりくだった心、自己否定と克己、まじめさと落ち着いた精神、忍耐、柔和、慎み、自制に満ちあふれているでしょうか。すべての人にあらゆる善を行おうとして、疲れを知らず、休むことなく努めているでしょうか。人々の外側の必要を満たし、その魂を、神を知るまことの知識と神への愛へと導こうと努めているでしょうか。これが、学寮の特別研究員のおおよその姿でしょうか。そうではないのではないかと、私は恐れます。むしろ、高ぶりと傲慢、短気と気むずかしさ、怠惰と無為、大食と好色、さらには、ことわざになるほどの役立たずぶりさえ、私たちは非難されてきたのではないでしょうか。それも、いつも敵からというわけではなく、まったく根拠がないわけでもないのではないでしょうか。どうか、神がこのはずかしめを私たちから「ころがし去」ってくださいますように(ヨシュア五・九)。その記憶さえ、永久に消えうせますように!

(八) 私たちの多くは、もっと直接に神にささげられた者であり、聖なる務めに仕えるように召された者です。では、私たちは「言葉にも、行状にも、愛にも」、霊にも、「信仰にも、純潔にも」、ほかの人々の「模範」となっているでしょうか(第一テモテ四・一二)。私たちの額に、そして心に、「主に聖なる者」と刻まれているでしょうか(出エジプト二八・三六)。私たちは、どんな動機からこの職に就いたのでしょうか。本当に澄んだ目で(マタイ六・二二)、この職に就いたのでしょうか。「神の栄光を広め、神の民の徳を高めるために、この務めを引き受けるよう、聖霊によって内から動かされたと信じて、神に仕えるため」だったでしょうか(祈祷書「執事按手式」)。そして、「神の恵みによって、この職に自分をまったくささげると、はっきり決心し」たでしょうか(祈祷書「司祭按手式」)。私たちは、できるかぎり、この世のあらゆる心づかいと学びとを捨て、わきに置いているでしょうか。この一つのことに自分をまったくささげ、あらゆる心づかいと学びとを、こちらへ向けているでしょうか。私たちは「よく教えることができ」るでしょうか(第一テモテ三・二)。「ほかの者たちにも教えることのできる」ように(第二テモテ二・二)、「神に教えられ」ているでしょうか(ヨハネ六・四五)。私たちは神を知っているでしょうか。イエス・キリストを知っているでしょうか。神は「御子を私たちの内に啓示して」くださったでしょうか(ガラテヤ一・一六)。神は私たちに「力を与えて、新しい契約に仕える者と」してくださったでしょうか(第二コリント三・六)。それなら、私たちの「使徒職の印」は、どこにあるのでしょうか(第一コリント九・二)。「罪過と罪とによって死んでいた」人のうち(エペソ二・一)、だれが私たちの言葉によって生かされたでしょうか。私たちは、魂を死から救おうとする燃える熱心を持っているでしょうか。その人々のために、しばしば「パンを食べることを忘れ」るほどの熱心を持っているでしょうか(詩篇一〇二・四)。私たちは率直に語り、「真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦」しているでしょうか(第二コリント四・二)。私たちは、世と世のものとに対して死に、すべての「宝を」「天に、たくわえ」ているでしょうか(マタイ六・二〇)。私たちは、神からゆだねられた者たちの「上に権力をふるって」いるでしょうか(第一ペテロ五・三)。それとも、いちばん小さい者となり、「みんなに仕える者」となっているでしょうか(マルコ九・三五)。「キリストのゆえに受けるそしり」を負うとき(ヘブル一一・二六)、それを重荷に感じるでしょうか。それとも、それを喜ぶでしょうか。一方の頬を打たれるとき、腹を立てるでしょうか。侮辱を忍べないでしょうか。それとも、「悪人に手向か」わずに、「ほかの頬をも向け」るでしょうか(マタイ五・三九)。「善をもって悪に勝」つでしょうか(ローマ一二・二一)。私たちは、苦々しい熱心を持っていて、そのために「迷っている人々」と(ヘブル五・二)、激しく、感情的に争ってしまうでしょうか。それとも、私たちの熱心は愛の炎であって、そのために、私たちのすべての言葉が、優しさとへりくだりと「知恵にかなう柔和」とに導かれているでしょうか(ヤコブ三・一三)。

(九) もう一つ。この地の若者たちについては、何と言えばよいでしょうか。あなたがたは、クリスチャンの敬虔の形か力か、どちらかを持っているでしょうか。あなたがたは、謙遜で、素直に教えを受け、忠告を聞き入れるでしょうか。それとも、頑固で、わがままで、向こう見ずで、高ぶっているでしょうか。目上の人々に、親に対するように従っているでしょうか。それとも、心からの敬意を払うべき人々を、軽んじているでしょうか。あなたがたの楽な務めに、勤勉に励んでいるでしょうか。力をつくして学問に打ち込んでいるでしょうか。「今の時を生かして用い」(エペソ五・一六)、毎日に詰め込めるだけの仕事を詰め込んでいるでしょうか。むしろ、あなたがたは自分でもわかっているのではありませんか。来る日も来る日も、むだに過ごしていることを。キリスト教に何の役にも立たない書物を読んだり、賭け事をしたり、あるいは、自分でも何をしているのかわからないことをしたりしているのです。あなたがたは、時間よりも財産のほうを上手に管理しているでしょうか。主義として、「何人にも借りがあってはならない」と心がけているでしょうか(ローマ一三・八)。「安息日を覚えて、これを聖とし」ているでしょうか(出エジプト二〇・八)。その日を、もっと直接に神を礼拝することに費やしているでしょうか。神の家にいるとき、神がそこにおられることを思っているでしょうか。「見えないかたを見ているようにして」ふるまっているでしょうか(ヘブル一一・二七)。「自分のからだを清く尊く保つ」すべを知っているでしょうか(第一テサロニケ四・四)。あなたがたの間に、泥酔や汚れがあるのではありませんか。そうです、あなたがたのうちには、「その恥」を「栄光」とする者がいるのではありませんか(ピリピ三・一九)。あなたがたの多くは、「神の名を、みだりに唱え」ているのではありませんか(出エジプト二〇・七)。それも、おそらく習慣のように、悔いも恐れもなく唱えているのではありませんか。そうです、あなたがたのうちには、誓いを破った者が大勢いるのではありませんか。しかも、その数はどんどん増えているのではないかと、私は恐れます。兄弟たちよ、驚かないでください。神とこの会衆の前で告白します。私自身も、その中のひとりでした。私は、あのすべての慣例を守ると、おごそかに誓いました。そのころの私は、その慣例について何も知りませんでした。あの規則を守るとも誓いました。けれども、私はその規則を、そのときも、それから何年もの間も、読み通すことさえしなかったのです。これが偽誓でないなら、何が偽誓でしょうか。そして、もしこれが偽誓なら、なんと重い罪が、そうです、並々ならぬ深い色に染まった罪が、私たちの上にのしかかっていることでしょう! いと高き方は、それに目をとめておられないでしょうか。

(一〇) あなたがたの多くが軽薄な世代になっているのは、その結果の一つではないでしょうか。神に対しても、互いに対しても、自分の魂に対しても軽薄な世代です。実際、あなたがたのうちで、一週間のうちにただ一時間でも、ひとりで祈って過ごす人が、なんと少ないことでしょう! ふだんのふるまいの中で、少しでも神のことを考える人が、なんと少ないことでしょう! あなたがたのうちのだれが、御霊の働き、人の魂のうちになされる御霊の超自然的な働きを、少しでも知っているでしょうか。ときおり教会で聞くのを別にすれば、聖霊についての話に、あなたがたは耐えられるでしょうか。だれかがそういう話を始めたら、それは偽善か熱狂かのどちらかだと、決めてかかるのではありませんか。全能の主なる神の名によって、お尋ねします。あなたがたは、何の宗教を信じているのですか。あなたがたは、キリスト教の話にさえ耐えられず、耐えようともしません。ああ、兄弟たちよ、これがなんというキリスト教の町でしょうか! 「主よ、今はあなたが御手を下される時です」(詩篇一一九・一二六)。

(一一) 実際、キリスト教が、聖書的キリスト教が、再びこの地の宗教となる見込みは、どれほどあるでしょうか。いや、人間的な言い方をすれば、その可能性は、どれほどあるでしょうか。私たちのうちのあらゆる身分の人々が、「聖霊に満たされ」た者として語り、生きるようになる可能性が、どれほどあるでしょうか。このキリスト教は、だれによって回復されるのでしょうか。あなたがたのうちの、権威ある方々によってでしょうか。では、あなたがたは、これが聖書的キリスト教だと確信しているでしょうか。それが回復されることを願っているでしょうか。それを回復する器となれるなら、財産も自由もいのちも、「少しも惜しいとは思わない」でしょうか(使徒二〇・二四)。けれども、あなたがたにこの願いがあるとしても、その結果を生むのにふさわしい力を、だれが持っているでしょうか。あなたがたのうちのある人々は、何度か弱々しい試みをしたかもしれません。けれども、その成果はなんと小さかったことでしょう! それでは、キリスト教は、若く、無名で、取るに足りない者たちによって回復されるのでしょうか。あなたがた自身がそれを忍べるかどうか、私にはわかりません。あなたがたのうちのある人々は、こう叫ぶのではないでしょうか。「若者よ、そんなことをするのは、私たちを侮辱することだ」(ルカ一一・四五)。けれども、あなたがたがそのように試される心配はありません。それほどまでに、不義が洪水のように私たちをおおっているのです。それでは、私たちを改めて、「初めの愛」に立ち帰らせるために(黙示録二・四)、神は何をつかわされるのでしょうか。ききんでしょうか。疫病でしょうか(これらは、罪ある国に神がつかわされる最後の使者です)。それとも、つるぎ、すなわちローマ教の「他国の軍」でしょうか(ヘブル一一・三四)。いいえ、「主よ、むしろ、私たちをあなたの手に陥らせてください。私たちを人の手には陥らせないでください」(第二サムエル二四・一四)。「主よ、お助けください、私たちは死にそうです」(マタイ八・二五)。「私たちを泥の中に沈まぬよう助け出してください」(詩篇六九・一四)。ああ、「私たちに助けを与えて、あだにむかわせてください。人の助けはむなしいのです」(詩篇六〇・一一)。「あなたには、できないことはありません」(マルコ一四・三六)。「あなたの大いなる力により、死に定められた者を守りながらえさせてください」(詩篇七九・一一)。あなたがよいと思われる方法で、私たちを守ってください。「私たちの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」(マタイ二六・三九)。