ジョン・ウェスレー標準説教集

説教三 眠っている者よ、起きなさい

オクスフォード大学にて。1742年4月4日(日曜日)。文学修士、クライスト・チャーチ学寮特別研究員チャールズ・ウェスレー師による。

「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照してくださいます」(エペソ五・一四)

この言葉について語るにあたり、私は神の助けによって、次のことをします。

第一に、この言葉が語りかけている、眠っている者たちのことを述べます。第二に、「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい」という勧めを、強く説きます。第三に、目を覚まして立ち上がる者に与えられた約束、「キリストがあなたを照してくださいます」を説き明かします。

【一】 眠っている者とは

(一) まず、ここで語りかけられている、眠っている者たちについてです。眠りとは、人の生まれながらの状態のことです。アダムの罪が、その子孫をすべて投げ込んだ、魂の深い眠りです。それは、無気力と怠惰と愚鈍です。自分の本当の状態に気づかない無感覚です。人はみな、この状態で世に生まれます。そして、神の声に目覚めさせられるまで、そのままでいるのです。

(二) さて、「眠る者は夜眠る」のです(第一テサロニケ五・七)。生まれながらの状態は、まったくの暗闇の状態です。「暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう」状態です(イザヤ六〇・二)。まだ目覚めていないあわれな罪人は、ほかのことをどれほど知っていても、自分自身のことを知りません。この点では、「知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない」のです(第一コリント八・二)。その人は、自分が堕落した霊であることを知りません。この世でのただ一つの務めは、堕落から立ち直ることです。自分が造られたときの神のかたちを取り戻すことです。そのことを知らないのです。「無くてならぬもの」は、ただ一つです(ルカ一〇・四二)。けれども、その人はその必要を認めません。それは、内側からの全面的な変化です。バプテスマが表している、「上から生まれる」ことです(ヨハネ三・三)。これが、あの全き一新の始まりです。霊と心とからだとがきよめられることの始まりです(第一テサロニケ五・二三)。「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」のです(ヘブル一二・一四)。

(三) その人は、あらゆる病に満ちているのに、自分はまったく健康だと思い込んでいます。「苦しみと、くろがねに」固く「縛られ」ているのに(詩篇一〇七・一〇)、自由の身だと夢見ています。悪魔が「十分に武装して」いる「強い人」のように(ルカ一一・二一)、その魂をすっかり支配しています。それなのに、その人は「平安、平安」と言っています(エレミヤ六・一四)。「下の陰府」が、その人を「迎え」ようと「動いて」います(イザヤ一四・九)。二度と帰れない穴が、その人をのみこもうと口を開けています。それでも、その人はなおも眠り続け、休んでいるのです。周りに火が燃えているのに、その人は悟りません。そうです、火がその人を焼いても、心にとめないのです(イザヤ四二・二五)。

(四) ですから、眠っている者とは、次のような人のことです。どうか、私たちがみな、このことを悟れますように! それは、自分の罪に満足している罪人です。堕落した状態にとどまることに満足し、神のかたちを持たずに生きて死ぬことに満足している人です。自分の病も、そのただ一つの治療法も知らない人です。「迫ってきている神の怒りから」のがれよと(マタイ三・七)、一度も警告されたことのない人です。あるいは、その神の警告の声を少しも顧みなかった人です。自分が地獄の火の危険にあることを、まだ一度も悟ったことのない人です。魂の底から、「私は救われるために、何をすべきでしょうか」と叫んだことのない人です(使徒一六・三〇)。

(五) この眠っている者が、外面的に不品行でなければ、その眠りはたいてい何よりも深いものです。その人は、ラオデキヤの霊を持っているかもしれません。「冷たくもなく、熱くもない」人です(黙示録三・一五)。先祖の宗教を奉じる、穏やかで、分別があり、人に害を与えない、気だてのよい信者です。あるいは、熱心で正統的な人かもしれません。「私たちの宗教の最も厳格な派にしたがって、パリサイ人としての生活をして」いる人です(使徒二六・五)。パリサイ人とは、聖書の記すところによれば、自分を義とする人です。神に受け入れられる根拠として、自分の義を立てようと努める人です。

(六) これは、「敬虔の形を持ちながら、その力を捨てる」人です(第二テモテ三・五)。いや、敬虔の力がどこに見られても、ただの行きすぎ、ただの思い違いだと、おそらくののしるでしょう。その一方で、自分を欺くこのみじめな人は、神に感謝します。自分は「ほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者では」ない、と(ルカ一八・一一)。そうです、だれにも悪いことはしていない、と。その人は「一週に二度断食して」います。恵みの手段をすべて用い、教会にも聖餐にも欠かさず通います。そうです、「全収入の十分の一をささげて」います(ルカ一八・一二)。できるかぎりの善を行い、「律法の義については落ち度のない者」です(ピリピ三・六)。その人の敬虔に欠けているのは、力だけです。その宗教に欠けているのは、霊だけです。そのキリスト教に欠けているのは、真理といのちだけです。

(七) けれども、あなたがたは知らないのですか。このようなクリスチャンは、「人々の間で」どれほど「尊ばれ」ていても、「神のみまえでは忌みきらわれ」ます(ルカ一六・一五)。神の御子は「きのうも、きょうも、いつまでも」(ヘブル一三・八)、「偽善な律法学者、パリサイ人たち」にわざわいを宣告しておられます(マタイ二三章)。その人は、そのわざわいをことごとく受け継ぐ者なのです。その人は、「杯と皿との外側はきよめる」のですが、内側はあらゆる汚れに満ちています(マタイ二三・二五)。「悪い病がなおもその人につきまとい、その内なるものは、まったくの悪です」(詩篇四一・八、五・九)。私たちの主は、その人を「白く塗った墓」にたとえておられます。まさにふさわしいたとえです。その墓は、「外側は美しく見えますが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱい」なのです(マタイ二三・二七)。なるほど、骨はもう枯れてはいません。その上に「筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおった」のです。けれども、「息はその中に」ありません(エゼキエル三七・八)。生ける神の御霊がないのです。そして、「もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのもの」ではありません。「神の御霊があなたがたの内に宿っているなら」、あなたがたはキリストのものです(ローマ八・九)。けれども、そうでなければ、あなたがたは今もなお死のうちにとどまっています。神はそれをご存じです。

(八) ここで語りかけられている眠っている者には、もう一つの特徴があります。自分では知らないのに、死のうちにとどまっていることです。その人は神に対して死んでおり、「自分の罪過と罪とによって死んで」います(エペソ二・一)。「肉の思いは死」だからです(ローマ八・六)。こう書いてあるとおりです。「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように」、「死が全人類にはいり込んだ」のです(ローマ五・一二)。それは、この世の死だけではありません。霊の死であり、永遠の死でもあります。神はアダムに、「それを取って食べると、きっと死にます」と言われました(創世二・一七)。からだが死ぬというのではありません。そのとき死ぬべき者となった、という意味でなら別ですが。霊において死ぬということです。つまり、あなたは魂のいのちを失う。神に対して死ぬ。あなたのいのちと幸いの本体である神から、切り離される、ということです。

(九) こうして初めて、私たちの魂と神との生きた結びつきが断たれました。そのため、私たちはいま、肉体の「生のさなかにあって」、霊の「死のうちにある」のです(祈祷書「埋葬式」)。そして、第二のアダムが私たちにとって「いのちを与える霊」となられるまで(第一コリント一五・四五)、私たちはこの状態にとどまります。キリストが死人をよみがえらせてくださるまでです。罪のうちに、快楽や富や名誉のうちに死んでいる者をです。けれども、死んだ魂が生きるには、その前に「神の子の声を聞く」(耳を傾ける)のです(ヨハネ五・二五)。自分が滅びた状態にあることに気づかされ、自分のうちに死の宣告を受けるのです(第二コリント一・九)。その人は、自分が「生けるしかばね」であることを知ります(第一テモテ五・六)。神に対しても、神のすべてのことに対しても死んでいるのです。死体には、生きた人の働きをする力がありません。それと同じように、その人には、生きたクリスチャンの行いをする力がありません。

(一〇) 罪のうちに死んでいる者には、霊の「善悪を見わける感覚」がありません(ヘブル五・一四)。これは、まったく確かなことです。「目があっても見え」ず、「耳があっても聞え」ません(マルコ八・一八)。「主の恵みふかきことを味わい知」ることもありません(詩篇三四・八)。その人は、まだ一度も「神を見た」ことがありません(ヨハネ一・一八)。神の「み声を聞いたこと」もありません(ヨハネ五・三七)。「いのちのことば」に「手でさわった」こともありません(第一ヨハネ一・一)。イエスの名は「注がれたにおい油のよう」です(雅歌一・三)。その「衣はみな没薬、芦薈、肉桂で、よいかおりを放って」います(詩篇四五・八)。けれども、それもその人にはむなしいのです。死のうちに眠る魂は、こうしたものを何一つ感じ取りません。その心は「無感覚」になっていて(エペソ四・一九)、こうしたことを少しも悟りません。

(一一) こうして、霊の感覚を持たず、霊の知識の入り口を持たない「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれ」ません。いや、受け入れるどころか、「御霊によって判断されるべき」ものは何であれ、その人には「愚かなもの」にすぎないのです(第一コリント二・一四)。その人は、霊のことにまったく無知であるだけでは満足しません。霊のことが存在すること自体を否定します。霊で感じ取るということ自体が、その人には愚かさの極みなのです。その人はこう言います。「どうして、そんなことがあり得るのか」(ヨハネ三・九)。「どうして人が、自分は神に対して生きていると知ることができるのか」。あなたがたが、自分のからだがいま生きていると知っているのと同じように、知ることができるのです。信仰は魂のいのちです。このいのちがあなたがたのうちにとどまっているなら、それを自分に確かめるしるしは、ほかに要りません。原語でエレンコス・プネウマトス(御霊の確証)と言うものがあれば足ります。それは神から与えられる自覚であり、神のあかしです。人間の証人が一万人いるよりも、まさって大きなものです。

(一二) まだ目覚めていない、あわれな罪人よ。いま御霊が、あなたの霊と共に、あなたが神の子であることをあかししておられないなら(ローマ八・一六)、どうか御霊が悟らせてくださいますように。あなたが悪魔の子であることを、その証明と力によって悟らせてくださいますように。どうか、私が預言しているいま、「声があり」、「動く音があり」、「骨と骨が集まって相つらな」りますように(エゼキエル三七・七)。そのとき、「息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かしてください」(エゼキエル三七・九)。あなたがたも、心をかたくなにしてはなりません(ヘブル三・八)。聖霊に逆らってはなりません(使徒七・五一)。聖霊はいま来て、罪について、あなたがたの目を開こうとしておられます(ヨハネ一六・八)。あなたがたが「神のひとり子の名を信じることをしない」からです(ヨハネ三・一八)。

【二】 「眠っている者よ、起きなさい」

(一) ですから、「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい」。神はいま、私の口を通してあなたを呼んでおられます。堕落した霊よ、神はあなたに、自分自身を知りなさいと命じておられます。あなたの本当の状態と、この世でのただ一つの務めを知りなさいと命じておられるのです。「眠っている者よ、あなたはどうして眠っているのですか。起きて、あなたの神に呼ばわりなさい。神があるいは、あなたを顧みて、助けてくださるでしょう」(ヨナ一・六)。あなたの周りには、「激しい暴風」が起こっています(ヨナ一・四)。あなたは、滅びの深みに、神のさばきの淵に沈みかけています。そのさばきをのがれたいなら、自分からその中に身を投げなさい。「自分をさばきなさい。そうすれば、主にさばかれることはありません」(第一コリント一一・三一)。

(二) 起きなさい、起きなさい! いま立ちなさい。「主の手から憤りの杯をうけて飲」むことのないためです(イザヤ五一・一七)。「みずから励んで」、主に「よりすが」りなさい(イザヤ六四・七)。主は「われわれの正義」であり(エレミヤ二三・六)、「救を施す力ある」方です(イザヤ六三・一)。「あなたの身からちりを振り落しなさい」(イザヤ五二・二)。せめて、神の警告という地震に、揺り動かされなさい。目を覚まして、「おののきながら」ひれ伏した獄吏と共に(使徒一六・二九)、叫びなさい。「私は救われるために、何をすべきでしょうか」(使徒一六・三〇)。そして、「主イエスを信じ」るまで(使徒一六・三一)、決して休んではなりません。その信仰は、御霊の働きによって与えられる、主の賜物です。

(三) 私があなたがたのうちのだれかに、ほかの人以上に語りかけているとすれば、それは、この勧めは自分には関係ないと思っているあなたにです。「私は神の命によってあなたに申しあげることがあります」(士師三・二〇)。神の名によって、あなたに警告します。「迫ってきている神の怒りから」のがれなさい(マタイ三・七)。きよくない魂よ、死刑を言い渡されたペテロの姿に、自分の姿を見なさい。ペテロは暗い牢の中で、「二重の鎖につながれ、ふたりの兵卒の間に置かれて」横たわっていました。「番兵たちは戸口で獄を見張って」いました(使徒一二・六)。「夜はふけ」(ローマ一三・一二)、朝が近づいています。あなたが処刑のために引き出される朝です。そのような恐ろしい中で、あなたはぐっすり眠っています。悪魔の腕に抱かれて、穴の縁で、永遠の滅びのあごの中で、ぐっすり眠っているのです!

(四) どうか、「主の使」があなたに臨み、「光」があなたの「獄内を照」しますように(使徒一二・七)。どうか、全能の御手に打たれて、起こされるのを感じますように。その御手は、こう言ってあなたを起こします。「早く起きあがりなさい。帯をしめ、くつをはきなさい。上着を着て、ついてきなさい」(使徒一二・七〜八)。

(五) 永遠の霊よ、この世の幸福の夢から覚めなさい! 神はあなたを、ご自分のために造られたのではありませんか。それなら、あなたは神のうちに憩うまで、憩うことができません。さまよう者よ、帰りなさい! あなたの箱舟へ飛んで帰りなさい。ここはあなたの家ではありません。ここに小屋を建てようと考えてはなりません(マタイ一七・四)。あなたは地上では、「旅びと」、「寄留者」にすぎません(詩篇三九・一二)。一日かぎりの被造物で、変わることのない状態へ、いま漕ぎ出そうとしているのです。急ぎなさい。永遠は目の前です。永遠は、この一瞬にかかっています。永遠の幸いか、永遠の悲惨かです!

(六) あなたの魂は、どんな状態にありますか。私がまだ語っているうちに、神があなたの魂を取り去られるとしたら(ルカ一二・二〇)、あなたは死とさばきを迎える用意ができていますか。「目が清く、悪を見られない」方の前に(ハバクク一・一三)、立つことができますか。あなたは、「光のうちにある聖徒たちの特権にあずかるに足る者」となっていますか(コロサイ一・一二)。「戦いをりっぱに戦いぬき」、「信仰を守りとお」しましたか(第二テモテ四・七)。「無くてならぬもの」を、確かに手にしましたか(ルカ一〇・四二)。神のかたち、すなわち「真の義と聖と」を取り戻しましたか(エペソ四・二四)。「古き人を脱ぎ捨て」、「新しき人を着」ましたか(エペソ四・二二〜二四)。キリストを着ていますか(ガラテヤ三・二七)。

(七) あなたのあかりに油がありますか(マタイ二五・四)。あなたの心に恵みがありますか。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛し」ていますか(マルコ一二・三〇)。キリスト・イエスのうちにあったのと同じ思いが、あなたのうちにありますか(ピリピ二・五)。あなたは本当にクリスチャンですか。すなわち、「新しく造られた者」ですか。「古いものは過ぎ去」り、「すべてが新しくなった」のですか(第二コリント五・一七)。

(八) あなたは、「神の性質にあずかる者」ですか(第二ペテロ一・四)。あなたが「にせもの」でないかぎり、「キリストがあなたのうちにおられる」ことを、知らないのですか(第二コリント一三・五)。神が「御霊をあなたに賜わったことによって」、あなたが「神におり、神が」あなたに「いますこと」を(第一ヨハネ四・一三)、知っていますか。「自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮」であることを、知らないのですか(第一コリント六・一九)。「自分のうちにこのあかしを持って」いますか(第一ヨハネ五・一〇)。神の国をつぐことの「保証」を持っていますか(エペソ一・一四)。あなたは「聖霊を受けた」のですか。それとも、「聖霊なるものがあること」さえ知らずに、この問いにぎょっとするのですか(使徒一九・二)。

(九) この問いがあなたの気にさわるなら、はっきり知っておきなさい。あなたはクリスチャンではなく、クリスチャンになりたいとも思っていないのです。いや、あなたの祈りそのものが、罪に変わっています。あなたは今日、神の聖霊の感動を求めて祈りました。けれども、そのようなものが受けられるとは、信じていなかったのです。そうして、あなたはおごそかに神をあざけったのです。

(一〇) それでも、私は神のことばと私たちの教会の権威によって、この問いを繰り返さなければなりません。「あなたは聖霊を受けたのですか」。受けていないなら、あなたはまだクリスチャンではありません。クリスチャンとは、「聖霊と力とを注がれ」た人のことだからです(使徒一〇・三八)。あなたはまだ、「清く汚れのない信心」にあずかっていません(ヤコブ一・二七)。宗教とは、神の性質にあずかることです。人の魂のうちにある神のいのちです。心のうちに形づくられたキリストです(ガラテヤ四・一九)。「あなたのうちにいますキリストであり、栄光の望み」です(コロサイ一・二七)。幸いであり、聖性です。地上で始まった天国です。あなたのうちにある神の国です(ルカ一七・二一)。それは「飲食ではなく」、外側のものでもなく、「義と、平和と、聖霊における喜びと」です(ローマ一四・一七)。あなたの魂にもたらされた、永遠の国です。「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」です(ピリピ四・七)。「言葉につくせない、輝きにみちた喜び」です(第一ペテロ一・八)。あなたは、宗教がこのようなものだと知っていますか。

(一一) 「キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題では」ありません。尊いのは、「愛によって働く信仰だけ」であり(ガラテヤ五・六)、「新しく造られること」です(ガラテヤ六・一五)。あなたは、このことを知っていますか。あの内側の変化、霊による誕生、死からのいのち、聖性が必要だと、わかっていますか。そして、それがなければ「だれも主を見ることはできない」と(ヘブル一二・一四)、心底から納得していますか。あなたはそれを求めて、骨を折っていますか。「ますます励んで」、自分の「受けた召しと選びとを、確かなものに」しようとしていますか(第二ペテロ一・一〇)。「恐れおののいて自分の救の達成に努め」ていますか(ピリピ二・一二)。「狭い戸口からはいるように」、もだえるほど「努め」ていますか(ルカ一三・二四)。あなたは、自分の魂のことに真剣ですか。そして、「人の心を探り知るかた」に(ローマ八・二七)、こう申し上げることができますか。「神よ、あなたこそ、私の慕い求めるものです(詩篇七一・五)。主よ、あなたはすべてをご存じです。私があなたを愛したいと願っていることは、おわかりになっています」(ヨハネ二一・一七)。

(一二) あなたは救われることを望んでいます。けれども、「あなたのうちにある望みについて」、どんな説明ができますか(第一ペテロ三・一五)。何も害を加えなかったからですか。多くの善を行ったからですか。それとも、ほかの人たちとは違うからですか。賢く、学があり、正直で、道徳的に善い人で、人々に重んじられ、評判がよいからですか。ああ、こうしたものはみな、あなたを決して神のもとへ連れて行きません。神の目から見れば、それは「息よりも軽い」のです(詩篇六二・九)。あなたは、神が「つかわされたイエス・キリスト」を知っていますか(ヨハネ一七・三)。キリストはあなたに、こう教えてくださいましたか。「私たちの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのです。それは、私たち自身から出たものではなく、神の賜物です。決して行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エペソ二・八〜九)。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきてくださった」という確実な言葉を(第一テモテ一・一五)、あなたは自分の望みの土台のすべてとして受け入れましたか。次の言葉がどういう意味か、学びましたか。「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです」(マタイ九・一三)。「わたしは、失われた羊以外の者には、つかわされていません」(マタイ一五・二四)。あなたは、失われた者、死んだ者、すでに罪に定められた者ですか。聞く者は悟りなさい。自分が何に値する者か、知っていますか。自分に何が欠けているか、感じていますか。あなたは「こころの貧しい人」ですか(マタイ五・三)。神を求めて嘆き、「慰められるのを拒」んでいますか(詩篇七七・二)。放蕩息子は「本心に立ちかえ」りましたか(ルカ一五・一七)。そのために「気が狂った」と思われても(マルコ三・二一)、喜んで受け入れていますか。そう思うのは、彼が捨てた「いなご豆」を(ルカ一五・一六)、いまも食べている人々です。あなたは「キリスト・イエスにあって信心深く生きよう」としていますか。そのために、「迫害を受け」ていますか(第二テモテ三・一二)。人々は、人の子のために、あなたに対して「偽って様々の悪口を言」っていますか(マタイ五・一一)。

(一三) どうか、あなたがたがこれらすべての問いのうちに、死人を目覚めさせる声を聞きますように。「岩を打ち砕く鎚のよう」なみことばを、身に感じますように(エレミヤ二三・二九)。「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら」、「『きょう』といううちに」、「あなたがたの心を、かたくなにしてはいけません」(ヘブル三・七〜八、一三)。いま、霊の死のうちに「眠っている者よ、起きなさい」。永遠の死のうちに眠ることのないためです。自分の滅びた状態を感じ取り、「死人のなかから、立ち上がりなさい」。罪と死のうちにいる昔の仲間から離れなさい。イエスに従いなさい。そして、「その死人を葬ることは、死人に任せておき」なさい(マタイ八・二二)。「この曲った時代から救われ」なさい(使徒二・四〇)。「彼らの間から出て行き、彼らと分離しなさい」。「汚れたものに触てはならない。触なければ」、主はあなたを「受けいれ」てくださいます(第二コリント六・一七)。「キリストがあなたを照してくださいます」。

【三】 「キリストがあなたを照してくださる」という約束

(一) 最後に、この約束を説き明かします。これは、なんと心強いことでしょう。あなたがだれであっても、主の呼びかけに従うなら、主の御顔をむなしく求めることは決してないのです! あなたがいま「起き」て、「死人のなかから、立ち上が」るなら、主は「あなたを照す」と、固く約束しておられます。「主は恵みと誉とを与え」てくださいます(詩篇八四・一一)。この世では恵みの光を与え、「しぼむことのない栄光の冠」を受けるときには(第一ペテロ五・四)、栄光の光を与えてくださるのです。「あなたの光が暁のようにあらわれ出て」(イザヤ五八・八)、「あなたのやみは真昼のようにな」ります(イザヤ五八・一〇)。「『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために」、あなたの心を照してくださいます(第二コリント四・六)。主を恐れる者には、「義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えて」います(マラキ四・二)。その日、あなたにこう言われます。「起きなさい、光を放ちなさい。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったからです」(イザヤ六〇・一)。キリストが、あなたのうちにご自分を現してくださるからです。キリストこそ、「まことの光」です(ヨハネ一・九)。

(二) 「神は光」です(第一ヨハネ一・五)。神は、目覚めて神を待ち望む罪人のひとりひとりに、ご自身を与えてくださいます。そのとき、あなたは「生ける神の宮」となります(第二コリント六・一六)。「信仰によって、キリストがあなたの心のうちに住」んでくださいます。そして、あなたは「愛に根ざし愛を基として」、「すべての聖徒と共に」理解することができるようになります。「人知をはるかに越えたキリストの愛」の「広さ、長さ、高さ、深さ」をです(エペソ三・一七〜一九)。

(三) 兄弟たちよ、あなたがたは自分の受けた召しがわかるでしょう(第一コリント一・二六)。私たちは、「霊なる神のすまい」となるように召されています(エペソ二・二二)。私たちのうちに住まわれる御霊によって、この世で聖徒となり、「光のうちにある聖徒たちの特権にあずかる」ように召されているのです(コロサイ一・一二)。私たちに与えられている約束は、なんと「尊く、大いなる」ものでしょう(第二ペテロ一・四)。信じる私たちに、現に与えられているのです! 信仰によって、「私たちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊」だからです。この御霊こそ、すべての約束をまとめたものです。それは、「神から賜わった恵みを悟るため」です(第一コリント二・一二)。

(四) キリストの御霊は、神の大いなる賜物です。神は「いろいろな時に、いろいろな方法で」(ヘブル一・一)、この賜物を人に約束してこられました。そして、キリストが「栄光を受け」られてからは(ヨハネ七・三九)、余すところなく与えてくださいました。先祖たちに前もって与えておられた約束を、神はこうして成就されたのです。「わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませます」(エゼキエル三六・二七)。「わたしは、かわいた地に水を注ぎ、干からびた地に流れをそそぎ、わが霊をあなたの子らにそそぎ、わが恵みをあなたの子孫に与えます」(イザヤ四四・三)。

(五) あなたがたはみな、これらのことの生きた証人となることができます。罪の赦しと、聖霊の賜物の証人です。あなたが信じることができるなら、「信ずる者には、どんな事でもできます」(マルコ九・二三)。「あなたがたのうち主を恐れ」ながら、なお「暗い中を歩いて光を得」ない者は、だれですか(イザヤ五〇・一〇)。イエスの名によって、あなたに尋ねます。主の手は少しも「短くて、救い得ないのではない」と(イザヤ五九・一)、信じますか。主はいまも「救を施す力ある」方だと(イザヤ六三・一)、信じますか。主は「きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」と(ヘブル一三・八)、信じますか。主はいまも「地上で罪をゆるす権威をもって」おられると(マタイ九・六)、信じますか。「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのです」(マタイ九・二)。神は、キリストにあって、あなたをゆるしてくださいました(エペソ四・三二)。これを「人間の言葉としてではなく」、事実そのとおり、神のことばとして受け入れなさい(第一テサロニケ二・一三)。そうすれば、あなたは信仰によって、価なしに義とされます(ローマ三・二四)。また、イエスを信じる信仰によって、きよめられます(使徒二六・一八)。そして、あなたも、ほかならぬあなたも、確かに認めるようになります(ヨハネ三・三三)。「神が永遠のいのちを私たちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにある」ということをです(第一ヨハネ五・一一)。

(六) 兄弟たちよ、あなたがたに率直に語らせてください(使徒二・二九)。教会でいちばん軽んじられている者からであっても、この「勧めの言葉を受けいれて」ください(ヘブル一三・二二)。あなたがたが、「主が恵み深いかたであることを」「味わい知った」のなら(第一ペテロ二・三)、これらのことはそのとおりです。あなたがたの「良心も聖霊によって」、そう「あかし」しています(ローマ九・一)。「永遠のいのちとは、唯一の、まことの神」と、神が「つかわされたイエス・キリストとを知ること」です(ヨハネ一七・三)。このように体験によって知ること、ただこれだけが、まことのキリスト教です。キリストの御霊を受けた人が、クリスチャンです。御霊を受けていない人は、クリスチャンではありません。また、御霊を受けていながら、それを知らないということはありえません。私たちの主は、こう言われます。「その日には」(つまり、御霊が来られるときには)、「わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるでしょう」(ヨハネ一四・二〇)。これは、あの「真理の御霊」です。「この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができません。あなたがたはそれを知っています。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからです」(ヨハネ一四・一七)。

(七) 世は御霊を受けることができません。かえって、「父の約束」をまったく退け(使徒一・四)、反対し、冒涜します。けれども、これを「告白しない霊は、すべて神から出ているものでは」ありません。そうです、「これは、反キリストの霊です。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていましたが、今やすでに世にきています」(第一ヨハネ四・三)。聖霊の感動を否定する者は、だれであっても反キリストです。内に住まわれる神の御霊が、すべての信じる者に共通の特権であることを否定する者も、反キリストです。御霊は福音の祝福であり、「言いつくせない賜物」です(第二コリント九・一五)。すべての人への約束であり、本物のクリスチャンを見分ける基準です。

(八) 彼らがこう言っても、何の助けにもなりません。「私たちは、神の御霊の助けを否定しているのではない。否定しているのは、この感動だけだ。聖霊を受けて、それを感じるということだけだ。健全な宗教には居場所がないと私たちが言うのは、ただ、御霊を感じること、御霊に動かされること、御霊に満たされることだけだ」。けれども、これだけを否定することで、あなたがたは聖書全体を否定しているのです。神の真理と約束とあかしのすべてを否定しているのです。

(九) 私たちのすぐれた教会は、このような悪魔的な区別を少しも知りません。かえって、はっきりと語っています。「キリストの御霊を感じる」こと(三十九箇条第一七条)。「聖霊に動かされる」こと(祈祷書「司祭按手式」)。いのちと救いを受けられる名は、イエスの名のほかにないと知り、それを「感じる」こと(祈祷書「病者訪問」)。私たちの教会は、私たちみなに、「聖霊の感動」を求めて祈るように教えています(祈祷書「聖餐式」の特祷)。そうです、「聖霊に満たされ」るように祈ることを教えています(祈祷書「堅信式」)。いや、私たちの教会の司祭はみな、按手によって聖霊を受けると、公に言い表しています。ですから、これらのどれかを否定することは、事実上、キリスト教の啓示全体を捨てることです。そして、英国国教会を捨てることでもあるのです。

(一〇) けれども、「神の知恵」は、いつも人には「愚かなもの」でした(第一コリント一・二一〜二三)。ですから、福音の大いなる奥義が、昔と同じように今も、「知恵のある者や賢い者に隠され」ているのは(マタイ一一・二五)、不思議ではありません。この奥義が、ほとんどどこでも否定され、あざけられ、ただの狂気として退けられているのも、不思議ではありません。あえてそれを公言する人がみな、いまも狂人とか熱狂者とかの烙印を押されているのも、不思議ではないのです。これが、来るはずであった「背教」です(第二テサロニケ二・三)。あらゆる階層、あらゆる身分の人々の、全面的な背教です。私たちはいまでさえ、それが地をおおっているのを見ています。「エルサレムのちまたを行きめぐり」、「ひとりでもあるか捜してみなさい」(エレミヤ五・一)。心をつくして主なる神を愛し、力をつくして神に仕える人が、ひとりでもいるでしょうか。ほかの国は見ないとしても、私たちの国は、あふれる不敬虔の下で、なんと嘆いていることでしょう! あらゆる種類の悪事が、日ごとに行われています。それも多くの場合、とがめられずに行われています。行っているのは、「故意に罪を犯す者」(民数一五・三〇)、「その恥」を「栄光」とする者たちです(ピリピ三・一九)。みだりな誓い、のろい、不敬、冒涜。偽り、中傷、悪口。安息日を破ること、大食、泥酔、復讐。淫行、姦淫、さまざまな汚れ。詐欺、不正、しいたげ、ゆすり。これらが洪水のように、私たちの国をおおっています。だれがそれを数え上げることができるでしょうか。

(一一) そのようなひどい忌まわしい行いから、身を清く保ってきた人々の間でさえ、どうでしょうか。怒りと高ぶり、怠惰と無為、柔弱と軟弱、ぜいたくと放縦、貪欲と野心が、どれほど多く見られることでしょう。称賛への渇き、世への愛、人への恐れが、どれほど多く見られることでしょう。その一方で、まことの宗教は、なんと少ないことでしょう。神が私たちに命じられたとおりに、神を愛し、隣人を愛している人が、どこにいるでしょうか。一方には、敬虔の形さえ持たない人々がいます。もう一方には、形だけを持つ人々がいます。こちらには口を開けた墓があり、あちらには白く塗った墓があるのです。ですから、人々が公に集まるところを、だれかが注意深く見るなら、まさにこう気づくでしょう。「一部はサドカイ人であり、一部はパリサイ人である」と(使徒二三・六)。残念ながら、私たちの教会での集まりも例外ではないと思います。一方の人々は、「復活とか天使とか霊とかは、いっさい存在しない」かのように(使徒二三・八)、宗教にほとんど関心を持ちません。もう一方の人々は、宗教をただの生気のない形にしています。まことの信仰も、神の愛も、聖霊における喜びもない、外面的な務めの退屈な繰り返しにしているのです!

(一二) この場にいる私たちを、例外とすることができればよいのですが! 「兄弟たちよ。私の心の願い、あなたがたのために神にささげる祈は、あなたがたが救われること」です(ローマ一〇・一)。このあふれる不敬虔から救われることです。そして、その「高波」が、ここで「とどまる」ことです(ヨブ三八・一一)。けれども、本当にそうでしょうか。そうでないことは、神がご存じです。そうです、私たち自身の良心も知っています。あなたがたは、身を清く保ってはいません。私たちもまた「腐れはて」、憎むべき者となっています(詩篇一四・一)。もはや悟る者はほとんどいません。「霊とまこととをもって」神を「礼拝」する者も(ヨハネ四・二四)、ほとんどいないのです。私たちもまた、「その心が定まりなく、その魂が神に忠実でないやから」です(詩篇七八・八)。神は確かに、私たちを「地の塩」と定められました。けれども、「もし塩のききめがなくなったら」、「もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけ」です(マタイ五・一三)。

(一三) そして、主はこう言われます。「わたしはこれらの事のために彼らを罰しないでいられましょうか。このような国民にあだを返さないでしょうか」(エレミヤ五・九)。そうです、主がいつつるぎに向かって、「つるぎよ、この地を行きめぐれ」と言われるか(エゼキエル一四・一七)、私たちにはわかりません。主は私たちに、悔い改めるための長い時を与えてこられました。「ことしも、そのままにして」くださっています(ルカ一三・八)。けれども、雷によって私たちに警告し、私たちを目覚めさせておられます。主の「さばきが地に行われ」ています(イザヤ二六・九)。私たちには、何よりも重いさばきを予期する理由が十分にあります。私たちが「悔い改めて初めのわざを行」わないなら、主はすぐに来て、私たちの「燭台をその場所から取りのけ」られるでしょう(黙示録二・五)。宗教改革の原理に、福音の真理と単純さに立ち帰らないなら、そうなるのです。もしかすると、私たちはいま、私たちを救おうとする神の恵みの最後の働きかけに、逆らっているのかもしれません。もしかすると、私たちは「自分たちに対する神のみこころを無にし」(ルカ七・三〇)、神の使者たちを追い出してきたのかもしれません。そうして、もう少しで「悪の枡目を満たす」ところまで来ているのかもしれません(マタイ二三・三二)。

(一四) 神よ、「怒る時にもあわれみを思いおこしてください」(ハバクク三・二)。私たちを滅ぼすことによってではなく、改めさせることによって、栄光をお受けください! 私たちが「むちと、それを定めた方とに聞き従う」ようにしてください(ミカ六・九)。あなたの「さばきが地に行われる」いま、「世に住む者」に「正義を学」ばせてください(イザヤ二六・九)。

(一五) 兄弟たちよ、私たちが「眠りからさめるべき時が、すでにきて」います(ローマ一三・一一)。「大いなるラッパが鳴りひび」く前に(イザヤ二七・一三)、私たちの国が血に染まった野となる前に、目を覚まさなければなりません。どうか、「平和をもたらす道」が私たちの「目に隠され」る前に(ルカ一九・四二)、すぐにそれを悟ることができますように! 「恵み深い主よ、私たちを回復し、私たちに対するあなたの憤りをおやめください」(詩篇八五・四)。「主よ、再び天から見おろして、このぶどうの木をかえりみてください」(詩篇八〇・一四)。私たちに、「神のおとずれの時」を知らせてください(ルカ一九・四四)。「私たちの救の神よ、み名の栄光のために私たちを助け、み名のために私たちを救い、私たちの罪をおゆるしください」(詩篇七九・九)。「そうすれば、私たちはあなたを離れ退くことはありません。私たちを生かしてください。私たちはあなたのみ名を呼びます。万軍の神、主よ、私たちをもとに返し、み顔の光を照してください。そうすれば私たちは救をえるでしょう」(詩篇八〇・一八〜一九)。

「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえてくださることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。アーメン」(エペソ三・二〇〜二一)。