説教三十六 信仰による律法の確立(二)
「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのでしょうか。断じてそうではない。かえって、律法を確立するのです」(ローマ三・三一)
(一) 前の説教では、信仰のゆえに律法を無効にする最もありふれたやり方は何か、を示しました。それは次のやり方です。第一に、律法をまったく説教しないことです。これは、律法を一挙に、事実上すべて無効にします。しかも、キリストを宣べ伝え、福音をあがめるという口実のもとにそうするのです。実際には、そのどちらをも滅ぼしているのですが。第二に、直接にであれ間接にであれ、信仰があれば聖性は必要なくなる、と教えることです。聖性は、キリストが来られる前ほどには、今は必要でない。あるいは、今はより低い程度の聖性で足りる。私たちは信じているのだから、そうでなかった場合ほどには、聖性は必要でない。あるいは、クリスチャンの自由とは、どんな種類、どんな程度の聖性からも自由になることだ。そう教えることです。これは、次の大切な真理をゆがめることです。私たちは今、行いの契約ではなく、恵みの契約のもとにある。人は律法の行いなしに、信仰によって義とされる。そして、「働きはなくても」、「信じる人は、その信仰が義と認められる」(ローマ四・五)。第三に、実際の生活でそうすることです。原則の上ではなくても、実際に律法を無効にすることです。信仰が私たちを聖性から免除するためのものであるかのように、生き、ふるまうことです。「律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって」(ローマ六・一五)、自分に罪を許すことです。残っているのは、どうすれば私たちがもっとよい模範に従えるかを調べることです。どうすれば、使徒とともに、こう言えるかです。「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのでしょうか。断じてそうではない。かえって、律法を確立するのです」(ローマ三・三一)。
(二) 確かに、私たちは古い儀式律法を確立するのではありません。それが永久に廃されたことを、私たちは知っています。モーセの制度全体を確立するのでは、なおさらありません。主がそれを十字架につけてしまわれた(コロサイ二・一四)ことを、私たちは知っています。また、私たちは道徳律法を確立します。けれども、それを果たすこと、すなわちすべての戒めを守ることが、義認の条件であるかのようにではありません。残念ながら、そのように確立する人があまりにも多いのですが。もしそうなら、確かに「生ける者はひとりもみ前に義とされない」でしょう(詩篇一四三・二)。けれども、これをすべて認めたうえで、私たちはなお、使徒の言う意味で「律法を確立する」(ローマ三・三一)のです。すなわち、道徳律法を確立するのです。
【一】 教えによって律法を確立する
(一) 私たちは、第一に、教えによって律法を確立します。律法をその全範囲にわたって説教し、そのすべての部分を説き明かし、強く勧めようと努めることによってです。私たちの偉大な教師が地上におられたときになさったのと、同じ仕方でです。私たちは、聖ペテロの勧めに従うことによって、律法を確立します。「語る者は、神の御言を語る者にふさわしく語り」なさい(第一ペテロ四・一一)、という勧めです。昔の聖なる人々は、聖霊に感じて(第二ペテロ一・二一)、私たちを教えるために語り、また書きました。ほむべき主の使徒たちも、同じ御霊の導きによって、そうしました。私たちも、そのように語るのです。主の名によって語るときはいつでも、私たちは律法を確立します。聞く人々に何一つ隠さず、何の制限も留保もなしに、神の御旨のすべてを告げる(使徒二〇・二七)ことによってです。そして、律法をさらに効果的に確立するために、私たちは、この点できわめて率直に語ります。私たちは、「多くの人のように神の言を売物に」しません(第二コリント二・一七)。この「売物にする」と訳されている語は、原語ではカペーレウオンテス(καπηλεύοντες)です。ずる賢い商人が、悪いぶどう酒をごまかして売るように、ということです。聞く人の好みに合わせるために、みことばをごまかして売ることはしません。混ぜものをしたり、質を落としたり、和らげたりもしません。かえって、「真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語る」のです(第二コリント二・一七)。「真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦する」(第二コリント四・二)ほかには、何の目的も持たないからです。
(二) 私たちが教えによって律法を確立するのは、このように律法をすべての人に公然と告げるときです。しかも、ほむべき主と使徒たちが伝えたとおりの豊かさで告げるときです。律法を、その高さ、深さ、長さ、広さ(エペソ三・一八)のすべてにわたって宣べ伝えるときです。また、私たちが律法を確立するのは、律法のすべての部分、そこに含まれるすべての戒めを告げるときです。文字どおりの十分な意味においてだけでなく、霊的な意味においても告げるときです。律法が禁じたり命じたりする外の行いについてだけでなく、内なる原理、すなわち心の思いと願いと志とについても告げるときです。
(三) 実際、私たちは、このことをなおさら熱心にします。それは、これがきわめて重要だからというだけではありません。すべての実、すべての言葉と行いは、いつも悪い事ばかり(創世記六・五)でしかありえないからです。木が悪ければ(マタイ一二・三三)、すなわち心の性向と気質とが神の前に正しくなければ、そうなるのです。そればかりでなく、これらのことは、これほど重要であるのに、ほとんど考えられも理解されもしていないからです。あまりにも理解されていないので、律法についても、その十分な霊的な意味でとらえるなら、本当にこう言えるほどです。律法は、世の初めから「代々にわたってこの世から隠されていた」(コロサイ一・二六)奥義である、と。律法は、異教の世界からはまったく隠されていました。異教徒は、誇る知恵をすべて持ちながら、神を見いださず、神の律法も見いだしませんでした。律法の文字さえ見いださず、その霊はなおさらです。「その無知な心は」ますます「暗くなった」のです(ローマ一・二一)。彼らは「自ら知者と称しながら、愚かになり」ました(ローマ一・二二)。また、律法は、その霊的な意味については、ユダヤ民族の大部分からも、ほとんど同じように隠されていました。ユダヤ人は、ほかの人々について、すぐに「律法をわきまえないこの群衆は、のろわれている」(ヨハネ七・四九)と言いました。けれども、そう言うことで、自分自身に宣告を下したのです。彼ら自身が、同じのろい、同じ恐ろしい無知のもとにあったからです。その証拠に、主は、彼らの中で最も賢い人々を、律法をひどく曲解していると、絶えず責められました。また、その証拠に、彼らのほとんどすべてが、杯の外側をきよめる(マタイ二三・二五)だけでよい、と思い込んでいました。はっか、いのんど、クミンの十分の一を納める(マタイ二三・二三)こと、すなわち外面のきちょうめんさが、内面の汚れを償うと思っていたのです。公平とあわれみとを、信仰と神への愛とをまったくなおざりにしても、それで償いになると思っていたのです。そうです、律法の霊的な意味は、彼らの中で最も賢い人々からさえ、まったく隠されていました。詩篇の作者は、「もしわたしが心に不義をいだいていたならば、主はお聞きにならないであろう」(詩篇六六・一八)と言います。彼らの最も高名なラビのひとりは、この言葉にこう注釈しているほどなのです。彼は言います。「すなわち、それが私の心の中だけにあり、外に現れる悪を行わないなら、主は心に留められない。私が外の行いにまで進まない限り、主は私を罰されない!」
(四) けれども、ああ、神の律法の内なる霊的な意味は、ユダヤ人や異教徒から隠されているだけではありません。キリスト教世界と呼ばれているものからさえ、少なくともその大多数からは、隠されているのです。神の戒めの霊的な意味は、この人々にとっても、いまなお奥義なのです。しかも、これは、ローマ・カトリックの暗やみと無知とにおおわれた国々にだけ見られることではありません。残念ながら、これは確かなことです。宗教改革を経たクリスチャンと呼ばれる人々でさえ、その大部分は、今日、キリストの律法の清さと霊性とをまったく知らないのです。
(五) そのため、今日に至るまで、「パリサイ人と律法学者たち」(マタイ一五・一)は、これを「聞いてつまず」きます(マタイ一五・一二)。彼らは、宗教の形はあってもその力のない人々です。たいてい、自分を見て賢いと思い(箴言三・七)、自分は正しいとうぬぼれている人々です。私たちが心の宗教について語るとき、彼らは深くつまずきます。とりわけ、心の宗教がなければ、たとい私たちが「自分の全財産を人に施しても」(第一コリント一三・三)、何の益にもならないと示すときです。けれども、彼らはつまずくほかありません。私たちは、イエスにある真理(エペソ四・二一)を、そのまま語らずにはいられないからです。彼らが聞いても、拒んでも(エゼキエル二・七)、自分の魂を救うことが、私たちの務めです。神の書にしるされていることは、すべて告げなければなりません。人に喜ばれるためではなく、主に喜ばれるように(第一テサロニケ二・四)です。そこに見いだされるすべての約束だけでなく、すべての警告をも告げなければなりません。神は、ご自分の子供たちのために、あらゆる祝福と特権とを備えられました。私たちは、それを宣べ伝えるとき、同時に、主が「命じておいたいっさいのこと」を「教え」なければなりません(マタイ二八・二〇)。そして、私たちは、これらがみな役に立つことを知っています。眠っている人々を目ざめさせ、無知な人々を教えるためです。小心な者を励まし(第一テサロニケ五・一四)、あるいは聖徒たちを建て上げて完全にするためです。私たちは知っています。「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって」(第二テモテ三・一六)、「人を教え」るにも、「戒め」るにも、また「正しくし、義に導くのに」も、「有益」です(第二テモテ三・一六)。また、「神の人が」(第二テモテ三・一七)、魂のうちで神のわざが進んでいく間、聖書のすべての部分を必要とすることも知っています。それは、ついに「あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になる」ためです(第二テモテ三・一七)。
(六) このように、キリストが啓示されたすべてのことを宣べ伝えることによって、キリストを宣べ伝えるのが、私たちの務めです。確かに、私たちが主イエス・キリストの愛を告げることは、とがめられません。そうです、それには神からの特別な祝福が伴います。また、「主はわれわれの正義」(エレミヤ二三・六)と呼ばれる方について、もっと特別な仕方で語ってもよいのです。神が「キリストにおいて世をご自分に和解させ」てくださった(第二コリント五・一九)恵みについて、詳しく語ってもよいのです。ふさわしい機会には、キリストをたたえることに心を注いでもよいのです。キリストは「われわれすべての者の不義を」負われました(イザヤ五三・六)。「われわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれた」のです(イザヤ五三・五)。それは、「その打たれた傷によって、われわれはいや」されるためでした(イザヤ五三・五)。けれども、もしまったくこれだけにとどまるなら、みことばに従ってキリストを宣べ伝えていることにはならないでしょう。キリストをそのすべての職務において宣べ伝えるのでなければ、私たち自身、神の前に責任を免れません。恥じるところのない働き人(第二テモテ二・一五)としてキリストを宣べ伝えるとは、キリストを次のような方として宣べ伝えることです。まず、私たちの偉大な大祭司としてです。この大祭司は、「人間の中から選ばれて」、「人々のために神に仕える役に任じられた」方です(ヘブル五・一)。そのような方として、ご自分の血によって私たちを神と和解させ、「いつも生きていて」私たちの「ためにとりなしておられる」(ヘブル七・二五)方です。それだけでなく、主の預言者としても宣べ伝えることです。この方は、「神に立てられて、わたしたちの知恵となり」ました(第一コリント一・三〇)。また、みことばと御霊とによって、いつも私たちとともにいて(マタイ二八・二〇)、私たちを「あらゆる真理に導いて」くださいます(ヨハネ一六・一三)。そうです、さらに、とこしえに王であり続ける方として宣べ伝えることです。キリストは、ご自分の血であがなわれたすべての人に、律法を与えられます。まずご自分の恵みのうちに立ち返らせた人々を、神のかたちに回復させられます。そして、信じるすべての心の中を治められます。「万物をご自身に従わせ」る(ピリピ三・二一)まで、すなわちすべての罪をすっかり追い出し、永遠の義をもたらす(ダニエル九・二四)まで、治められるのです。
【二】 聖性を生み出す信仰を説く
(一) 第二に、私たちが律法を確立するのは、キリストを信じる信仰を説教するときです。聖性を不要にするのではなく、生み出すものとして説教するときです。あらゆる種類の聖性を生み出すものとして説くときです。禁じられたことをしない聖性も、命じられたことを行う聖性も、心の聖性も生活の聖性もです。
そのために、私たちは絶えず告げます。信仰そのものは、やはり愛のはしためにすぎない、と。キリスト教の信仰、神に選ばれた者たちの信仰(テトス一・一)、神の働きによる信仰でさえ、そうなのです。このことは、「信仰のゆえに」「律法を無効にする」(ローマ三・三一)ことを望まないすべての人が、たびたび深く考えるべきことです。信仰は、どれほど栄光に満ち、尊いものであっても、戒めの目標ではありません。神は、この誉れを愛だけに与えられました。愛こそが、神のすべての戒めの目標なのです(第一テモテ一・五)。愛は、世の初めから万物の完成に至るまで、神のあらゆる制度の目標、ただ一つの目標です。そして、天と地が逃げ去る(黙示録二〇・一一)ときにも、愛は残ります。ただ「愛」だけが「いつまでも絶えることがない」からです(第一コリント一三・八)。信仰は、まったくすたれます。信仰は、見ることのうちに、すなわち神を永遠に見ることのうちに、のみ込まれてしまうのです。けれども、そのときにも、愛は、
その本性も務めも変わることなく、その灯は絶えず、その炎は尽きることなく、死ぬことのない勝利のうちに、とこしえに生き、尽きない善を注ぎ、尽きない賛美を受けるのです。
(二) 信仰については、非常にすぐれたことが語られています。信仰にあずかる人はだれでも、使徒とともに、こう言ってよいのです。「言いつくせない賜物のゆえに、神に感謝」します(第二コリント九・一五)。それでも、愛と比べられると、信仰はそのすぐれた点をすべて失います。聖パウロは、福音の栄光が律法の栄光にまさっていることについて述べています。それは、愛の栄光が信仰の栄光にまさっていることについても、まさにふさわしく言えることです。「すでに栄光を受けたものも、この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を失ったのです。もし消え去るべきものが栄光をもって現れたのなら、まして永存すべきものは、もっと栄光のあるべきものです」(第二コリント三・一〇〜一一)。そうです、信仰が消え去る前に持つ栄光は、すべて、信仰が愛に仕えることから生じるのです。信仰は、あの永遠の目標を推し進めるために神が定められた、一時的な大いなる手段なのです。
(三) 信仰を度を越してあがめ、ほかのすべてを信仰にのみ込ませてしまう人々がいます。信仰の性質をまったく取り違え、信仰が愛の代わりになると思い込む人々です。そういう人々は、さらに次のことを考えるべきです。愛は、信仰の後にも存在するのと同じように、信仰よりもはるか前にも存在していました。御使たちは、造られた瞬間から、天にいます父の御顔を仰いできました(マタイ一八・一〇)。ですから、一般的な意味での信仰、すなわち見ていない事実を確認すること(ヘブル一一・一)としての信仰を、必要としませんでした。また、もっと特別な意味での信仰、すなわちイエスの血を信じる信仰も、必要としませんでした。キリストは、御使の性質をとられたのではなく、ただアブラハムの子孫の性質をとられたからです。ですから、世界の基が据えられる前には、一般的な意味でも特別な意味でも、信仰の場所はありませんでした。けれども、愛の場所はありました。愛は永遠の昔から、愛の大海である神のうちに存在していました。神のすべての子らのうちにも、造られた瞬間から、愛の場所がありました。彼らは、恵み深い創造主から、存在することと愛することとを、同時に受けたのです。
(四) また、一般的な意味での信仰でさえ、楽園に場所があったかどうかは確かではありません。このことについて、多くの人が巧みに、もっともらしく論じてはきましたが。聖書にある記事は短く、詳しく述べていません。その記事から見て、アダムは神に背く前、信仰によらず、見ることによって神とともに歩んでいた可能性がきわめて高いのです。
そのとき、彼の理性の目は強く澄んでいて、(鷲が太陽を見つめることができるように)造り主の御顔を間近に見ることができたであろう、知性ある御使たちが見ることができたのと同じほどに。
そのときアダムは、神と顔を合わせて語る(出エジプト三三・一一)ことができました。今の私たちは、その御顔を見て、なお生きていることはできません(出エジプト三三・二〇)。ですから、アダムには、見えないことを補うのが務めである、あの信仰は必要なかったのです。
(五) 他方、特別な意味での信仰が、そのとき場所を持たなかったことは、まったく確かです。その意味での信仰は、罪と、罪人に対して示された神の怒りとを、必ず前提とするからです。それがなければ、罪人が神と和解するために、罪のあがないは必要ありません。したがって、堕落の前にはあがないの必要がなかったのと同じように、そのあがないを信じる信仰の場所もありませんでした。そのとき、人は罪のどんな汚れもなく清く、神が聖であるように聖だったからです。けれども、そのときでさえ、愛は人の心を満たしていました。愛は、競うものもなく人の内を治めていました。そして、罪によって愛が失われたときになって、はじめて信仰が加えられたのです。信仰は、それ自体のために加えられたのではありません。定められた目的を果たした後まで存在させるつもりで、加えられたのでもありません。その目的とは、堕落した人を、もとの愛に回復させることです。ですから、堕落のときに、見ていない事実を確認するこの信仰(ヘブル一一・一)が加えられました。それは、以前はまったく必要のないものでした。あがないの愛へのこの信頼が加えられたのです。この信頼は、「女のすえ」が蛇の「かしらを砕」く(創世記三・一五)という約束が与えられるまでは、場所を持つはずがありませんでした。
(六) ですから、信仰は、もともと愛の律法を確立し直すために、神が計画されたものです。したがって、このように語るとき、私たちは信仰を軽んじているのでも、信仰が受けるべき称賛を奪っているのでもありません。かえって、信仰の本当の値打ちを示し、ふさわしい釣り合いで信仰をあがめているのです。神の知恵が初めから信仰に割り当てられた、まさにその場所を信仰に与えているのです。信仰は、人がもともとそのうちに造られた、あの聖い愛を回復させる大いなる手段です。ここから、次のことが導かれます。信仰は、それ自体では何の価値もありません。ほかのどんな手段もそうです。それでも、信仰はあの目的、すなわち私たちの心に愛の律法を新たに確立することへと導きます。また、今の状態では、それを成しとげる天下でただ一つの手段です。そのために、信仰は人にとって言いつくせない祝福であり、神の前に言いつくせない価値を持つのです。
【三】 自分の心と生活に律法を確立する
(一) このことから、私たちは自然に、第三の、律法を確立する最も重要なやり方に目を向けることになります。すなわち、自分自身の心と生活とに律法を確立することです。実際、これがなければ、ほかのすべては何の役に立つでしょうか。私たちは、教えによって律法を確立するかもしれません。律法をその全範囲にわたって説教し、そのすべての部分を説き明かし、強く勧めるかもしれません。律法をその最も霊的な意味において解き明かし、御国の奥義を告げるかもしれません。キリストをそのすべての職務において宣べ伝えるかもしれません。キリストを信じる信仰を、キリストの愛のすべての宝を開くものとして宣べ伝えるかもしれません。それでも、その間ずっと、説教している律法が自分の心に確立されていないとします。そのとき、私たちは、神の前に「やかましい鐘や騒がしい鐃鉢」(第一コリント一三・一)ほどの値打ちもないでしょう。私たちの説教はすべて、自分の益になるどころか、自分の受けるさばきを重くするだけでしょう。
(二) ですから、考えるべき要点はこれです。どうすれば、律法を自分の心に確立し、律法が私たちの生活に十分な影響を及ぼすようにできるでしょうか。そして、これは信仰によってだけできることです。
日々の経験から分かるとおり、この目的を効果的に果たすのは、ただ信仰だけです。私たちが、見えるものによらないで、信仰によって歩いている(第二コリント五・七)限り、聖性の道を速やかに進んでいくからです。見えるものにではなく、見えないものにしっかりと目を注いでいる(第二コリント四・一八)間、私たちはますます世に対して十字架につけられます。世も私たちに対して十字架につけられるのです。魂の目が、一時的なものにではなく、永遠のもの(第二コリント四・一八)に絶えず据えられてさえいるとします。そうすれば、私たちの思いは、ますます地上から解き放たれ、上にあるもの(コロサイ三・二)に据えられます。ですから、一般的な意味での信仰は、すべての義と真の聖性(エペソ四・二四)とを推し進める、最も直接で効果的な手段です。聖なる霊的な律法を、信じる者の心に確立する手段なのです。
(三) また、信仰を、もっと特別な意味で、赦してくださる神への信頼ととるとします。私たちは、その信仰によって、神の律法を自分の心にさらに効果的に確立します。キリストにおける神の愛を感じることほど、神を愛するように私たちを強く傾ける動機はないからです。この愛を、心を刺し通すほど深く確信することほど、私たちのために与えられた方に、自分の心をささげさせるものはありません。そして、神への感謝の愛というこの原理から、兄弟への愛も生じます。神が私たちを愛してくださった、その愛を本当に信じるなら、私たちは隣り人を愛さないではいられません。さて、信仰と神への愛とに基づくこの人への愛は、「隣り人に害を加えることはない」のです(ローマ一三・一〇)。したがって、使徒が言うとおり、それは禁止の「律法」全体を「完成するもの」です(ローマ一三・一〇)。なぜなら、「姦淫するな、殺すな、盗むな」、偽証するな、「むさぼるな」など、「そのほかに、どんな戒めがあっても、結局『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』というこの言葉に帰する」からです(ローマ一三・九)。また、愛は、隣り人に悪を行わないだけでは満足しません。愛は、時と機会のあるごとに(ガラテヤ六・一〇)、善を行うよう、絶えず私たちを促します。できる限りのあらゆる種類の善を、できる限りのあらゆる程度で、すべての人に行うよう促すのです。ですから、愛は、神の禁止の律法だけでなく、命令の律法をも完成するものなのです。
(四) また、信仰は、禁止の律法も命令の律法も、外面の部分についてだけ果たすのではありません。信仰は、愛によって(ガラテヤ五・六)内側で働き、心をきよめ(使徒一五・九)、あらゆる卑しい情欲を心から取り除きます。この信仰を自分のうちに持つ人はみな、「彼がきよくあられるように、自らをきよく」します(第一ヨハネ三・三)。すなわち、地上のあらゆる肉的な欲望から、あらゆる卑しく度を越した情欲から、自らをきよくするのです。そうです、神に敵する肉の思い(ローマ八・七)全体から、きよくするのです。同時に、信仰が完全に働くなら、それはその人をあらゆる善意と正義と真実(エペソ五・九)とで満たします。信仰は、天のすべてをその人の魂にもたらします。そして、神が光の中にいますように、光の中を歩ませる(第一ヨハネ一・七)のです。
(五) このように、自分自身のうちに律法を確立するよう努めましょう。「恵みの下にある」(ローマ六・一五)からといって罪を犯すのではありません。むしろ、恵みによって受けるすべての力を、「すべての正しいことを成就する」(マタイ三・一五)ために用いるのです。神の御霊が私たちに罪を悟らせていた間、神からどんな光を受けたかを思い起こしましょう。そして、その光を消さないよう気をつけましょう。そのとき達し得たところ(ピリピ三・一六)を、しっかり保ちましょう。何ものにも動かされて、いったん打ちこわしたものを、再び建てる(ガラテヤ二・一八)ことのないようにしましょう。そのとき、神の栄光のためにも自分の魂の益のためにもならないと、はっきり分かったものがあります。大きなものでも小さなものでも、それを再び取り上げないようにしましょう。大小を問わず、そのとき良心に責められずには怠ることのできなかったことを、怠ることのないようにしましょう。以前に持っていた光を増し加え、完全にするために、今、信仰の光を加えましょう。神が以前に与えてくださった賜物を、確かなものにしましょう。神がそのとき示してくださったことを、さらに深く感じることによってです。良心をさらに敏感にし、罪をいっそう鋭く感じ取ることによってです。今、恐れではなく喜びをもって、永遠のものをはっきりと揺るがずに見つめて歩むとします。そのとき、私たちは、快楽も富も称賛も、地上のすべてのものを、水の上の泡のように見るでしょう。何も重要だとは思わず、何も望ましいとは思わず、何もよく考えるに値するとは思わないでしょう。ただ「幕の内」(ヘブル六・一九)、すなわちイエスが「神の右に座しておられる」(コロサイ三・一)ところにあるものだけは別です。
(六) あなたは神に向かって、「あなたは私の不義をあわれみ、もはや私の罪を思い出されません」(ヘブル八・一二)と言えるでしょうか。それなら、これからは、蛇の前から逃げるように、罪から逃げなさい! 今のあなたには、罪が何とはなはだしく悪性なもの(ローマ七・一三)に見えることでしょう。どんな言葉でも言い表せないほど、何と憎むべきものに見えることでしょう。他方、あなたは今、神の聖く完全な御旨を、何と好ましい光のうちに見ていることでしょう! ですから今、その御旨が、あなたのうちに、あなたによって、あなたの上に成就するよう励みなさい! 今、目をさまして祈っていなさい(マタイ二六・四一)。もう罪を犯さないように、神の律法へのどんな小さな違反をも見分けて避けるように、祈っていなさい。暗い所に日が差し込むと、以前は見えなかったちりが見えます。同じように、義の太陽(マラキ四・二)があなたの心に輝く今、以前は見えなかった罪が見えるのです。ですから今、受けた光に従って、あらゆる点で歩むよう、力の限りを尽くしなさい! 今、日ごとにさらに多くの光を受けるよう熱心になりなさい。神を知る知識と神への愛とを、キリストの御霊を、キリストのいのちとその復活の力(ピリピ三・一〇)とを、さらに多く受けるよう熱心になりなさい。今、すでに得た知識も愛もいのちも力も、すべて用いなさい。そうすれば、あなたは絶えず信仰から信仰へと進んでいきます。日ごとに聖い愛のうちに成長していきます。そしてついには、信仰は見ることのうちにのみ込まれ、愛の律法がとこしえに確立されるのです!