ジョン・バニヤン『天路歴程』

(二十八)無知との再会

私が夢の中で見ていると、〈希望〉が後ろを振り返った。すると、二人が置いてきた〈無知〉が、あとからついて来るのが見えた。希望はクリスチャンに言った。

「ご覧なさい。あの若者は、あんなに後ろのほうをのろのろ歩いています」

クリスチャン「ええ、ええ、見えます。あの人は、私たちと一緒にいたくないのです」

希望「でも、ここまで私たちと足並みをそろえて来ても、あの人の損にはならなかったでしょうに」

クリスチャン「そのとおりです。でも、あの人はきっと、そうは思っていないのでしょう」

希望「私もそう思います。それでも、あの人を待ってあげましょう」

二人はそのとおりにした。

それからクリスチャンは無知に言った。

「さあ、おいでなさい。どうしてそんなに後ろにいるのですか」

無知「私は一人で歩くのが好きなんですよ。連れと歩くよりも、ずっとね。もっとも、その連れが気に入れば別ですが」

するとクリスチャンは、希望に小声で言った。

「あの人は私たちと一緒にいたくないのだと、言ったでしょう」

それでも、クリスチャンは続けて言った。

「とにかく、さあ、このさびしい所で、話をしながら時を過ごしましょう」

それから無知に向かって、こう言った。

「さあ、ご機嫌はいかがですか。あなたの魂と神との間は、今どうなっていますか」

無知「うまくいっていると思いますよ。私はいつも、良い思いでいっぱいなんです。歩いていると、そういう思いが心に浮かんで、私を慰めてくれるのですよ」

クリスチャン「どんな良い思いですか。どうか聞かせてください」

無知「何って、神と天国のことを思うのですよ」

クリスチャン「悪魔たちも、地獄に落ちた魂たちも、そうしていますよ」

無知「でも私は、神と天国のことを思って、それを慕い求めているのですよ」

クリスチャン「決してそこへ行けそうもない多くの人々も、そうしています。『なまけ者の心は、願い求めても、何も得ない』とあります(箴言一三・四)」

無知「でも私は、神と天国のことを思って、そのためにすべてを捨てているのですよ」

クリスチャン「それは疑わしいですね。すべてを捨てるのは、とても難しいことです。多くの人が思っているよりも、ずっと難しいのです。それにしても、あなたが神と天国のためにすべてを捨てたと、どうして、また何によって確信しているのですか」

無知「私の心がそう言うのです」

クリスチャン「知者は言っています。『自分の心を頼む者は愚かである』(箴言二八・二六)」

無知「それは悪い心のことでしょう。私の心は良い心ですよ」

クリスチャン「でも、それをどうやって証明するのですか」

無知「私の心は、天国の望みで私を慰めてくれるのです」

クリスチャン「それは、心が欺いているからかもしれません。人の心は、まだ望むだけの根拠のないものを望ませて、その人を慰めることがあるのです」

無知「でも、私の心と生活は一致しています。ですから、私の望みには十分な根拠があるのですよ」

クリスチャン「あなたの心と生活が一致していると、誰があなたに言ったのですか」

無知「私の心がそう言うのです」

クリスチャン「それは『私が盗人かどうか、相棒に聞いてくれ』と言うようなものです。あなたの心がそう言う、ですって! このことについて神のみことばが証言しないかぎり、ほかの証言には何の値打ちもありません」

無知「でも、良い思いを持つ心は、良い心ではありませんか。神の戒めにかなった生活は、良い生活ではありませんか」

クリスチャン「そうです。良い思いを持つ心は良い心ですし、神の戒めにかなった生活は良い生活です。けれども、本当にそれを持っていることと、ただ持っていると思っていることとは、まったく別なのです」

無知「では、どういうものを良い思いと言い、神の戒めにかなった生活と言うのですか」

クリスチャン「良い思いには、いろいろな種類があります。私たち自身についての思い、神についての思い、キリストについての思い、そのほかのことについての思いです」

無知「私たち自身についての良い思いとは、どういうものですか」

クリスチャン「神のみことばと一致する思いです」

無知「私たち自身についての思いは、どういうときに神のみことばと一致するのですか」

クリスチャン「みことばが私たちに下すのと同じさばきを、私たちが自分自身に下すときです。説明しましょう。神のみことばは、生まれながらの状態にある人々について、『義人はいない。善を行う者はいない』と言っています(ローマ三章)。また、『人が心に思いはかることは、すべていつも悪い事ばかりである』とも言っています(創世記六・五)。さらに、『人が心に思い図ることは、幼い時から悪い』とも言っています(創世記八・二一)。そこで、私たちがそのことを身にしみて感じ、自分自身をこのように考えるとき、私たちの思いは良い思いなのです。神のみことばにかなっているからです」

無知「私の心がそんなに悪いなんて、決して信じませんよ」

クリスチャン「それなら、あなたは生涯に一度も、自分自身について良い思いを持ったことがないのです。でも、続けさせてください。みことばは、私たちの心にさばきを下すように、私たちの道にもさばきを下します。心と道についての私たちの思いが、その両方についてみことばが下すさばきと一致するとき、その思いはどちらも良い思いなのです。みことばと一致しているからです」

無知「どういう意味か、はっきり言ってください」

クリスチャン「つまり、こういうことです。神のみことばは、人の道は曲がった道で、良い道ではなく、よこしまな道だと言っています(詩篇一二五・五、箴言二・一五)。人は生まれながら良い道からそれていて、その道を知らないとも言っています(ローマ三章)。そこで、人が自分の道についてこのように考えるとき、つまり、身にしみて感じ、心からへりくだってこのように考えるとき、その人は自分の道について良い思いを持っているのです。その人の思いが、今や神のみことばのさばきと一致しているからです」

無知「神についての良い思いとは、どういうものですか」

クリスチャン「私たち自身について言ったのと同じです。神についての私たちの思いが、みことばが神について言っていることと一致するときです。つまり、神のご存在とご性質について、みことばが教えているとおりに考えるときです。そのことについては、今は詳しく話せません。けれども、私たちとの関わりで神について言えば、こうです。神は、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちを知っておられる、と考えるとき、私たちは神について正しい思いを持っています。私たちが自分のうちに少しも罪を見いだせないときにも、またそのような所でも、神は私たちのうちに罪を見ることがおできになる、と考えるときもそうです。神は私たちの心の奥底の思いを知っておられ、私たちの心は、その深みに至るまで、いつも神の目の前に開かれている、と考えるときもそうです。また、私たちの義はみな、神の御前で悪臭を放っている、と考えるときもそうです。ですから神は、私たちが何かを頼みにして御前に立つことを、決してお許しになりません。たとえそれが、私たちの最善の行いであってもです」

無知「私が、神には私が見る以上のものは見えないと思うほどの愚か者だとでも思うのですか。自分の最善の行いを頼みにして、神に近づくような者だとでも思うのですか」

クリスチャン「では、このことについて、あなたはどう考えているのですか」

無知「手短に言えば、義とされるためには、キリストを信じなければならないと考えていますよ」

クリスチャン「なんですって! 自分にキリストが必要だとわかってもいないのに、キリストを信じなければならないと考えるのですか。生まれつきの罪も、実際に犯す罪も、あなたには見えていません。それどころか、自分自身と自分のしていることについて、そんな考えを持っています。その考えがはっきり示しています。あなたは、神の前で義とされるのにキリストご自身の義が必要だと、一度もわかったことのない人なのです。それなのに、どうして『私はキリストを信じている』と言えるのですか」

無知「それでも、私はちゃんと信じていますよ」

クリスチャン「どのように信じているのですか」

無知「キリストは罪人のために死なれた、と信じています。そして、神がご自分の律法に私が従うのを恵みによって受け入れてくださるので、私はのろいから解かれ、神の前で義とされる、と信じているのですよ。言いかえれば、こうです。キリストはご自分の功績によって、私の宗教上のつとめを父に受け入れられるものにしてくださる。そうして私は義とされるのです」

クリスチャン「あなたのその信仰の告白に、答えさせてください。

一、あなたが信じているのは、空想の信仰です。このような信仰は、みことばのどこにも書かれていないからです。二、あなたが信じているのは、偽りの信仰です。義とされることを、キリストご自身の義から取り去って、あなた自身の義に当てはめているからです。三、この信仰は、キリストを、あなたという人を義とする方ではなく、あなたの行いを義とする方にしています。そして、あなたの行いのゆえに、あなたという人を義とする方にしています。これは偽りです。四、ですから、この信仰は人を欺くものです。全能の神の日に、あなたを御怒りの下に置き去りにするような信仰です。本当に人を義とする信仰は、律法によって自分の状態を感じ取っている魂を、キリストの義へと逃れさせ、そこに避け所を求めさせます。このキリストの義は、あなたが義とされるように、あなたの従順を神に受け入れさせる恵みの行為ではありません。それは、律法が私たちに求めていることを、私たちのために行い、また苦しみを受けてくださった、キリストご自身の律法への従順なのです。本当の信仰が受け入れるのは、この義です。魂はこの義の衣のすそに包まれ、この義によって、神の前に汚れのない者として差し出されます。こうして魂は受け入れられ、罪に定められることから解き放たれるのです」

無知「なんですって! キリストが私たち抜きで、ご自身でなさったことに頼れと言うのですか。そんな考えでは、私たちの欲望の手綱がゆるんでしまいます。好き勝手に生きてもかまわないことになりますよ。信じさえすれば、キリストご自身の義によってすべてから義とされるのなら、どう生きようとかまわないではありませんか」

クリスチャン「無知、それがあなたの名前です。そして、名前のとおりの人です。今のあなたの答えが、まさに私の言うことを証明しています。あなたは、人を義とする義が何であるかを知りません。その義を信じることによって、神の重い御怒りから自分の魂を守るにはどうすればよいかも、同じように知りません。それに、キリストのこの義を信じる救いの信仰が、本当はどんな実を結ぶのかも知らないのです。その信仰は、心をへりくだらせて、キリストにある神のほうへ引き寄せます。そして、神の御名と、みことばと、道と、神の民とを愛させるのです。あなたが知りもしないで思い描いているようなものではありません」

希望「天からキリストを示していただいたことがあるかどうか、あの人に聞いてみてください」

無知「なんですって! あなたは啓示とやらをありがたがる人なんですね。あなたも、ほかのみなさんも、そのことについて言っていることは、混乱した頭から出てきたものにすぎませんよ。私は本気でそう思っています」

希望「いいですか、あなた。キリストは神のうちに隠されていて、肉の生まれながらの理解では、とらえることができません。ですから、父なる神がキリストを示してくださらないかぎり、誰も救いに至るようにキリストを知ることはできないのです」

無知「それはあなたの信仰で、私の信仰ではありません。でも私の信仰も、あなたの信仰に劣らず良いものだと思っていますよ。あなたほど、頭の中に妙な考えをたくさん持ってはいませんけれどね」

クリスチャン「ひと言言わせてください。このことを、そんなに軽々しく話すべきではありません。私の良い連れが言ったのと同じように、私もはっきり言います。父が示してくださらなければ、誰もイエス・キリストを知ることはできません(マタイ一一・二七)。それだけではありません。魂がキリストをつかむ信仰も、それが正しい信仰であるなら、神の力強い活動によって働く絶大な力で、生み出されなければならないのです。哀れな無知さん、あなたは、その信仰の働きを知らないのですね(第一コリント一二・三、エペソ一・一八〜一九)。ですから、目を覚ましなさい。自分のみじめさを見て、主イエスのもとへ逃れなさい。そうすれば、主の義によって、あなたは罪に定められることから救い出されます。その義は神の義です。主ご自身が神だからです」

無知「あなたがたは歩くのが速すぎて、私はついていけません。どうぞ先に行ってください。私はしばらく後ろから行きますよ」

すると二人は言った。

「さて無知よ、まだ愚かなままでいるのか十たびも与えられた良い勧めを軽んじて。なおもそれを拒むなら、やがてそうしたことの災いを思い知るだろう。人よ、間に合ううちに思い出せ。へりくだれ、恐れるな。良い勧めは、よく受け入れれば救う。だから聞け。だが、なおもそれを軽んじるなら損をするのは自分自身だ、無知よ、請け合おう」

それからクリスチャンは、連れにこう語りかけた。

クリスチャン「さあ、兄弟よ、あなたと私とは、また二人だけで歩かなければならないようです」

こうして私が夢の中で見ていると、二人は足早に先へ進み、無知はそのあとから足を引きずってついて来た。そのときクリスチャンは連れに言った。

「私はこの哀れな人が、とても気の毒です。最後にはきっと、ひどいことになるでしょう」

希望「ああ、私たちの町には、あの人と同じような状態の人がたくさんいます。家族ぐるみで、いや、通りぐるみでいるのです。しかも、巡礼者の中にもいるのです。私たちのところにさえ、そんなに大勢いるのですから、あの人が生まれた所には、いったいどれほどいることでしょうか」

クリスチャン「本当に、みことばには『神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった』などとあります。それはそうと、今は二人だけですから聞きますが、ああいう人たちのことを、どう思いますか。あの人たちは、罪を自覚することが一度もないのでしょうか。そして、そのために、自分の状態が危ないと恐れることもないのでしょうか」

希望「いいえ、その質問には、あなたご自身が答えてください。あなたのほうが年上なのですから」

クリスチャン「では言いましょう。私の考えでは、ときには罪を自覚することもあるでしょう。けれども、あの人たちは生まれつきものを知らないので、そうした自覚が自分のためになるのだとわかりません。ですから、必死になってその自覚を押し殺そうとします。そして思い上がって、自分の心の道を行きながら、自分にへつらい続けるのです」

希望「あなたの言うとおりだと、私も信じます。恐れは人のためになることが多いのです。巡礼を始めるときに、人を正しく歩ませるものでもあります」

クリスチャン「それが正しい恐れであるなら、疑いなくそうです。みことばも『主を恐れることは知恵のはじめである』と言っているのですから(箴言一・七、九・一〇、ヨブ二八・二八、詩篇一一一・一〇)」

希望「正しい恐れを、あなたならどのように説明しますか」

クリスチャン「本当の恐れ、正しい恐れは、三つのことによって見分けられます。

一、その起こりによってです。正しい恐れは、救いに至る罪の自覚から生まれます。二、それは魂を駆り立て、救いを求めてキリストにしっかりとすがらせます。三、それは魂のうちに、神と、みことばと、神の道とを深く敬う心を生み、保ち続けます。そして魂をやわらかに保ち、右にも左にもそこからそれるのを恐れさせます。神をはずかしめ、魂の平安をこわし、御霊を悲しませ、敵にそしらせるようなことに向かうのを、恐れさせるのです」

希望「よく言ってくださいました。本当にそのとおりだと思います。ところで、私たちはもう〈魔法の地〉をほとんど通り過ぎたのでしょうか」

クリスチャン「どうしてですか。この話に飽きたのですか」

希望「いいえ、決してそうではありません。ただ、自分たちがどこにいるのか知りたいのです」

クリスチャン「この地を行くのは、あと二マイルもありません。でも、話を元に戻しましょう。ものを知らない人たちは、自分を恐れさせるような罪の自覚が、自分のためになるのだとわかりません。ですから、それを押し殺そうとするのです」

希望「どのようにして押し殺そうとするのですか」

クリスチャン「第一に、彼らはそうした恐れが悪魔によって生み出されたものだと思います。本当は神によって生み出されたものなのにです。そう思うので、自分を打ち倒そうとするものとして、恐れに逆らいます。第二に、彼らはまた、そうした恐れが自分の信仰をだめにすると思います。ところが哀れなことに、彼らには信仰などまったくないのです。ですから、恐れに対して心をかたくなにします。第三に、彼らは、自分は恐れるべきではないと思い込みます。ですから、恐れをものともせずに、思い上がって自信を強めていきます。第四に、彼らは、そうした恐れが、自分たちの哀れな古い自己流の聖さを取り去ろうとするのを見ます。ですから、全力で恐れに逆らうのです」

希望「私にも、そういうことに少し覚えがあります。自分のことがわかるまでは、私もそうでしたから」