(二十七)魔法の地
私が夢の中で見ていると、二人はさらに進んで、ある土地にやって来た。その土地の空気は、よそから来た者を自然と眠くさせるのだった。ここで〈希望〉は、ひどく頭がぼんやりしてきて、眠くてたまらなくなった。そこで希望はクリスチャンに言った。
「もう眠くて、目を開けていられないほどです。ここで横になって、ひと眠りしましょう」
クリスチャン「とんでもない。眠ったら、もう二度と目が覚めないかもしれません」
希望「どうしてですか、兄弟よ。働く者の眠りは快いものです。ひと眠りすれば、元気になれるでしょう」
クリスチャン「羊飼いの一人が、〈魔法の地〉に気をつけるようにと言ったのを覚えていませんか。あれは、眠らないように気をつけなさいという意味だったのです。ですから、『ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう』(第一テサロニケ五・六)」
希望「私が間違っていました。もし一人でここに来ていたら、眠り込んで、死ぬ危険にさらされていたでしょう。『ふたりはひとりにまさる』と知者が言ったのは本当ですね。これまで、あなたと連れ立って来られたのは、私にとって神のあわれみでした。あなたはその労苦によって、良い報いを得られるでしょう(伝道の書四・九)」
クリスチャン「それでは、ここで眠くならないように、良い話をしましょう」
希望「ええ、喜んで」
クリスチャン「どこから始めましょうか」
希望「神が私たちに働きかけ始められたところから始めましょう。でも、よろしければ、あなたから始めてください」
クリスチャン「まず、この歌を歌ってお聞かせしましょう」
「聖徒らが眠気をもよおしたら、ここへ来てこの二人の巡礼者の語らいを聞くがよい。そうだ、なんとしても二人に学ぶがよい眠たげにまどろむ目を、こうして開いておくすべを。聖徒の交わりは、うまく保たれるならば地獄があらがおうとも、彼らを目覚めさせておく」
それからクリスチャンは話し始めた。
「ひとつ質問させてください。今しているようなことを、そもそもどうして始めようと思ったのですか」
希望「つまり、私がどうして初めに自分の魂の益を求めるようになったか、ということですか」
クリスチャン「ええ、そういう意味です」
希望「私は長いあいだ、私たちの町の市で見せられ、売られている物を楽しんでいました。今にして思えば、あのまま楽しみ続けていたら、私は滅びと破壊とに沈んでいたでしょう」
クリスチャン「それはどんな物でしたか」
希望「この世のあらゆる宝と富です。それに、放蕩、浮かれ騒ぎ、深酒、ののしり、うそ、みだらな行い、安息日を破ることなど、魂を滅ぼすようなことを何でも大いに楽しんでいました。けれども、神のことを聞いて思いめぐらすうちに、ついにわかったのです。こうしたものの終極は死であり(ローマ六・二一〜二三)、こうしたことのために、神の怒りは不従順の子らに下るのです(エペソ五・六)。神のことは、実はあなたから聞きました。それに、愛する〈忠実〉さんからも聞きました。忠実さんは、信仰と正しい生き方のゆえに、〈虚栄の市〉で殺された人です」
クリスチャン「それで、すぐにその罪の自覚に捕らえられたのですか」
希望「いいえ。罪の悪さも、罪を犯したあとに来る滅びも、すぐには知ろうとしませんでした。みことばによって初めて心が揺さぶられたとき、私はその光に目を閉じようとしたのです」
クリスチャン「でも、祝福に満ちた神の御霊が初めて働きかけてくださったのに、どうしてそんなふうに応じたのですか」
希望「わけはいくつかありました。第一に、それが私に対する神のみわざだと知らなかったのです。神が罪人を回心させるとき、まず罪に目覚めさせることから始められるとは、思ってもみませんでした。第二に、罪はまだ私の肉にとってとても甘く、手放したくなかったのです。第三に、昔の仲間とどう別れたらいいかわかりませんでした。仲間といることも、仲間のすることも、私にはたまらなく好ましかったのです。第四に、罪を自覚させられている時間は、とても苦しく、心が震えあがるような時間でした。私はそれに耐えられませんでした。心に思い出すことさえ、耐えられなかったのです」
クリスチャン「それでは、ときにはその苦しみから逃れられたということですか」
希望「ええ、確かに。けれども、また思い出してしまうのです。そうなると、前と同じくらい、いや、前よりもひどい状態になりました」
クリスチャン「では、何があなたの罪をまた思い出させたのですか」
希望「いろいろなことです。たとえば、
一、通りで善い人に出会ったとき二、誰かが聖書を読むのを聞いたとき三、頭が痛みだしたとき四、近所の人が病気だと聞いたとき五、誰かが死んで、弔いの鐘が鳴るのを聞いたとき六、自分が死ぬことを考えたとき七、ほかの人が急に死んだと聞いたとき八、けれども何よりも、自分がまもなくさばきを受けなければならないと考えたときです」
クリスチャン「そうしたことで罪の責めが襲ってきたとき、それをたやすく振り払えたことはありましたか」
希望「いいえ、とんでもない。そういうときには、罪の責めはいっそうしっかりと私の良心をつかんだのです。それに、心では罪を嫌っていたのに、罪に戻ろうと少しでも考えただけで、苦しみは二倍になりました」
クリスチャン「それで、どうしたのですか」
希望「生活を改めるように努めなければならないと思いました。そうしなければ、きっと滅びてしまうと思ったのです」
クリスチャン「それで、改めるように努めたのですか」
希望「はい。自分の罪から逃げただけでなく、罪深い仲間からも離れました。そして、宗教のつとめに励みました。祈ること、聖書を読むこと、罪のために泣くこと、隣人に真実を語ることなどです。ほかにもいろいろなことをしましたが、多すぎてここでは話しきれません」
クリスチャン「それで、もう大丈夫だと思ったのですか」
希望「ええ、しばらくのあいだは。けれども、しまいにはまた苦しみが押し寄せてきました。どれほど生活を改めても、おかまいなしにのしかかってきたのです」
クリスチャン「もう生活を改めていたのに、どうしてそんなことになったのですか」
希望「そうなったのには、いくつかのわけがありました。特に、次のようなみことばです。『われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである』(イザヤ六四・六)。『律法の行いによっては、だれひとり義とされることがない』(ガラテヤ二・一六)。『命じられたことを皆してしまったとき、自分たちはふつつかな僕だと言いなさい』(ルカ一七・一〇)。ほかにも、これに似たみことばがたくさんありました。そこから私は、こう考えるようになりました。私の正しい行いがみな汚れた衣のようで、律法の行いによってはだれも義とされないとしたら、どうでしょう。すべてをしてもなお、ふつつかな僕にすぎないとしたら、どうでしょう。律法によって天国に行こうと考えるのは、愚かなことでしかありません。さらに、こうも考えました。ある人が店で百ポンドの借金をしたとします。そのあとは、買う物の代金をすべて払うとしましょう。それでも、古い借金が帳簿から消されずに残っていれば、店の主人はそれを取り立てるために訴えることができます。借金を払うまで、その人を牢に入れることもできるのです」
クリスチャン「なるほど。それを、自分にどう当てはめたのですか」
希望「心の中で、こう考えたのです。『私は罪によって、神の帳簿に大きな借りを作ってしまった。今さら生活を改めても、その勘定を払いきれはしない』。ですから、今どれほど行いを改めていても、やはり考えずにはいられませんでした。『それでは、前に犯した罪のせいで招いてしまった滅びから、どうしたら解き放たれるのだろうか』と」
クリスチャン「とてもよい当てはめ方です。どうぞ続けてください」
希望「行いを改めてから、ずっと私を悩ませていることが、もうひとつあります。今私がしている最善のことをよく調べてみても、やはり罪が見えるのです。新しい罪が、私の最善の行いに混じり込んでいるのです。前は、自分のことも自分のつとめのことも、思い上がって考えていました。けれども今は、こう結論するほかありません。たとえ以前の生活に落ち度がなかったとしても、私はひとつのつとめのうちにも、地獄に送られるのに十分な罪を犯しているのです」
クリスチャン「それで、どうしたのですか」
希望「どうしたかですって! どうしたらいいかわかりませんでした。それで、忠実さんに胸の内を打ち明けたのです。忠実さんとは親しい間柄でしたから。すると忠実さんは、こう言いました。罪を一度も犯したことのない人の義を得ないかぎり、私自身の義も、世界中のすべての義も、私を救うことはできない、と」
クリスチャン「忠実さんの言うことは本当だと思いましたか」
希望「行いを改めたことに満足して得意になっていたころに、そう言われていたら、せっかく言ってくれた忠実さんを、愚か者呼ばわりしていたでしょう。けれども今は、自分の弱さがわかります。最善の行いにも罪がまとわりついているのが見えます。ですから、忠実さんと同じ考えにならざるをえなかったのです」
クリスチャン「でも、忠実さんが初めてそう言ったとき、罪を一度も犯したことがないと言えるような人が、本当に見つかると思いましたか」
希望「正直に言うと、初めはその言葉が奇妙に聞こえました。けれども、もう少し話をし、忠実さんと一緒に過ごすうちに、すっかり確信したのです」
クリスチャン「それで、その人が誰なのか、どうしたらその人によって義とされるのかを、忠実さんに尋ねたのですか」
希望「はい。それは、いと高き方の右に座しておられる主イエスだ、と忠実さんは言いました。そして、こう言いました。『あなたはこの方によって義とされなければなりません。この方が肉体をとって生きておられた日々に、ご自分でなさったこと、また木にかけられて苦しまれたことに、より頼むのです』。私はさらに、その方の義が、どうしてほかの者を神の前で義とするほどの力を持つのかと尋ねました。すると忠実さんは答えました。その方は力ある神であって、そのなさったことも、その死も、ご自分のためではなく、私のためだったのです。私がその方を信じるなら、その方のなさったことと、その値打ちとが、私のものとみなされるのです、と(ヘブル一〇章、ローマ六章、コロサイ一章、第一ペテロ一章)」
クリスチャン「それで、どうしたのですか」
希望「私は、信じることに異を唱えました。その方は私を救おうとは思っておられないだろう、と思ったのです」
クリスチャン「すると、忠実さんは何と言いましたか」
希望「その方のところへ行って、確かめてみなさい、と忠実さんは言いました。私は、それは思い上がりです、と言いました。すると忠実さんは、そうではない、あなたは来るように招かれているのだから、と言いました(マタイ一一・二八)。それから、私がためらわずに行けるように励まそうと、イエスが書き記された書物を一冊くれました。そして、その書物は一点一画まで、天地よりも堅く立っているのだと言いました(マタイ二四・三五)。そこで私は、その方のところへ行ったら何をすればよいのかと尋ねました。すると忠実さんは、ひざまずいて、心を尽くし、魂を尽くして、御子を示してくださるよう父に願い求めなさい、と言いました(詩篇九五・六、ダニエル六・一〇、エレミヤ二九・一二〜一三)。私はさらに、どのようにその方に願いをささげればよいのかと尋ねました。すると忠実さんは言いました。『行きなさい。そうすれば、その方があわれみの座に着いておられるのがわかるでしょう。その方は、来る者に罪のゆるしを与えるために、一年中そこに座っておられるのです』。私は、行っても何と言えばよいのかわかりません、と言いました。すると忠実さんは、次のような意味のことを言いなさいと教えてくれました。『神様、罪人の私をあわれんでください。私にイエス・キリストを知らせ、信じさせてください。その方の義がなかったなら、また私がその義を信じていないなら、私はまったく捨てられてしまうのだとわかります。主よ、あなたはあわれみ深い神であり、御子イエス・キリストを世の救い主と定められたと聞きました。そのうえ、私のような哀れな罪人にも、喜んで御子を与えてくださると聞きました。私はまことに罪人です。主よ、ですから、この機会をとらえて、御子イエス・キリストによって私の魂を救い、あなたの恵みを大いにあらわしてください。アーメン』(出エジプト二五・二二、レビ記一六・二、民数記七・八九、ヘブル四・一六)」
クリスチャン「それで、言われたとおりにしたのですか」
希望「はい。何度も、何度も、何度も」
クリスチャン「それで、父は御子をあなたに示してくださいましたか」
希望「一度目には示してくださいませんでした。二度目も、三度目も、四度目も、五度目も。いいえ、六度目にもです」
クリスチャン「それで、どうしたのですか」
希望「どうしたか、ですか。どうしたらいいか、わからなかったのです」
クリスチャン「祈るのをやめようとは思わなかったのですか」
希望「思いました。百回どころか、その倍も思いました」
クリスチャン「では、どうしてやめなかったのですか」
希望「前に言われたことは本当だと信じていたからです。つまり、このキリストの義がなければ、全世界も私を救うことはできない、ということです。ですから、私は心の中で考えました。『やめてしまえば、私は死ぬ。どうせ死ぬのなら、恵みの御座の前で死ぬほうがいい』。それと同時に、このみことばが心に浮かびました。『もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない』(ハバクク二・三)。それで私は、父が御子を示してくださるまで、祈り続けたのです」
クリスチャン「それで、御子はどのようにあなたに示されたのですか」
希望「この肉の目で見たのではありません。心の目で見たのです(エペソ一・一八〜一九)。それはこういうことでした。ある日、私はとても悲しんでいました。生涯でいちばん悲しかったと思います。その悲しみは、自分の罪がどれほど大きく、どれほど卑しいかを、新たに思い知らされたためでした。私はもう、地獄と、自分の魂の永遠の滅びのほかには、何も待ち受けていないと思っていました。そのとき突然、主イエス・キリストが天から私を見下ろして、こう言われるのが見えたように思いました。『主イエス・キリストを信じなさい。そうしたら、あなたは救われます』(使徒一六・三〇〜三一)。
私は『主よ、私は大きな、本当に大きな罪人です』と申し上げました。すると主は『わたしの恵みはあなたに対して十分である』と答えられました(第二コリント一二・九)。私は『でも主よ、信じるとはどういうことですか』と尋ねました。すると、『わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない』というみことばから、わかったのです。信じることと来ることとは、同じなのです。来る者、つまり、心と思いを尽くしてキリストによる救いを追い求める者こそ、本当にキリストを信じているのです(ヨハネ六・三五)。私は目に涙を浮かべて、さらに尋ねました。『でも主よ、私のような大きな罪人が、本当にあなたに受け入れられ、あなたに救っていただけるのでしょうか』。すると主がこう言われるのが聞こえました。『わたしに来る者を決して拒みはしない』(ヨハネ六・三七)。私は言いました。『でも主よ、私の信仰を正しくあなたに置くには、あなたのもとに行くとき、あなたのことをどのように考えればよいのでしょうか』。すると主は言われました。『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』(第一テモテ一・一五)。この方は、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられました(ローマ一〇・四)。この方は私たちの罪のために死に、私たちが義とされるためによみがえられました(ローマ四・二五)。この方は私たちを愛し、ご自分の血によって私たちを罪から洗いきよめてくださいました(黙示録一・五)。この方は、神と私たちとの間の仲保者です(第一テモテ二・五)。この方は、いつも生きていて、私たちのためにとりなしておられます(ヘブル七・二四〜二五)。これらすべてから、私は悟りました。義はこの方ご自身のうちに求めなければなりません。罪のつぐないは、この方の血によって求めなければなりません。この方が父の律法に従ってなさったことも、律法の刑罰に身をゆだねられたことも、ご自分のためではありませんでした。それを自分の救いとして受け入れ、感謝する者のためだったのです。そのとき、私の心は喜びに満ち、目は涙でいっぱいになりました。そして、イエス・キリストの御名と、その民と、その道への愛が、心からあふれ出したのです」
クリスチャン「それはまさに、キリストがあなたの魂に示されたのですね。でも、それがあなたの心にどんな影響を与えたのか、詳しく聞かせてください」
希望「それによって、全世界はどれほど義を積んでいても、罪に定められた状態にあるのだとわかりました。また、父なる神は正しい方でありながら、来る罪人を正しく義とすることがおできになるのだとわかりました。私は、以前の生活の卑しさをひどく恥じました。そして、自分がいかに何も知らなかったかを思い知らされて、うろたえました。それまで、イエス・キリストの美しさをこれほどまでに示してくれる思いが、心に浮かんだことは一度もなかったからです。私は聖なる生活を愛するようになりました。そして、主イエスの御名の誉れと栄光のために、何かをしたいと切に願うようになりました。そうです、たとえこの体に何千リットルもの血があったとしても、主イエスのために、それをすべて流すことができると思いました」