(十四)多弁
私が夢の中で見ていると、二人が進んでいくうちに、〈忠実〉がふと横に目をやった。すると、〈多弁〉という名の男が、少し離れて並んで歩いているのが見えた。このあたりは道幅が広く、皆で並んで歩けたのである。多弁は背の高い男で、近くで見るより遠くから見たほうがいくらか見栄えがした。忠実はこの男にこう話しかけた。
忠実「友よ、どちらへ行かれるのですか。天の国へ行かれるのですか」
多弁「私も同じところへ参ります」
忠実「それはよかった。では、ご一緒していただけるでしょうか」
多弁「喜んでお供しましょう」
忠実「では、一緒に行きましょう。そして、ためになることを語り合って時を過ごしましょう」
多弁「善いことを語り合うのは、あなたとでも、ほかの誰とでも大歓迎です。こんな善い務めに心を向ける方々に出会えて嬉しく思います。実を言うと、旅のあいだにこうして時を過ごそうとする人はほとんどいません。たいていは、何の益にもならない話をしたがるのです。これには私も心を痛めてきました」
忠実「それは本当に嘆かわしいことです。地上の人が舌と口を使うのに、天の神のことほどふさわしいものがあるでしょうか」
多弁「あなたのことがすっかり気に入りました。あなたの言葉には確信があふれています。私からも付け加えましょう。神のことを語り合うほど楽しく、ためになることがあるでしょうか。どれほど楽しいことか。つまり、驚くべきことを喜ぶ人にとっては、ということです。たとえば、物事の歴史や奥義を語るのが好きな人がいるとします。あるいは、奇跡や不思議やしるしについて語るのが好きな人がいるとします。そういう人にとって、聖書ほど楽しく、美しく書き記されたものがどこにあるでしょうか」
忠実「そのとおりです。けれども、こういうことを語り合うときは、それによって益を受けることを目的にするべきです」
多弁「それこそ私が言ったことです。こういうことを語り合うのは、何よりもためになります。そうすることで、さまざまなことを知ることができるからです。たとえば、地上のもののむなしさや、天上のものの恵みです。大まかに言えばそうなります。もっと詳しく言えば、新しく生まれることの必要、私たちの行いの不十分さ、キリストの義の必要などを学ぶことができます。そのうえ、語り合うことで、悔い改めること、信じること、祈ること、苦しみを受けることなどが何であるかも学べます。また、福音の大いなる約束と慰めが何であるかを学んで、自分の慰めとすることもできます。さらに、誤った意見に反駁し、真理を弁護し、無知な人を教えることも学べます」
忠実「みなおっしゃるとおりです。あなたからこういうことを伺えて嬉しいです」
多弁「ああ、これが欠けているせいで、信仰の必要を悟る人がほとんどいないのです。永遠のいのちのためには魂に恵みの働きが必要だということも悟りません。そういう人は、無知なまま律法の行いに頼って生きています。そんなことでは、決して天の御国を得られないのに」
忠実「けれども、失礼ながら、こうしたことについての天の知識は神の賜物です。人の努力で得られるものではありませんし、それについて語るだけで得られるものでもありません」
多弁「それはみなよく承知しています。人は天から与えられなければ、何も受けることができません。すべては恵みによるのであって、行いによるのではありません。これを裏づける聖句なら百でも挙げられますよ」
忠実「では、今ここで、何を話の土台にしましょうか」
多弁「何でもお好きなものを。天上のことでも地上のことでも、道徳のことでも福音のことでも、聖なることでも俗なることでも、過去のことでも未来のことでも、外国のことでも国内のことでも、本質的なことでも付随的なことでも、お話ししましょう。すべてが私たちのためになるのでしたら」
忠実はすっかり感心してしまった。クリスチャンはその間ずっとひとりで歩いていた。忠実はそちらへ歩み寄り、小声で話しかけた。
忠実「なんと頼もしい連れができたことでしょう。この人はきっと、すばらしい巡礼者になりますよ」
クリスチャンは控えめに微笑んで言った。
クリスチャン「あなたがそんなに気に入ったこの人は、その舌で、彼を知らない人を二十人でもだますでしょう」
忠実「では、あの人をご存じなのですか」
クリスチャン「知っているか、ですって。ええ、本人よりもよく知っていますよ」
忠実「いったい、どういう人なのですか」
クリスチャン「名前は多弁といって、私たちの町に住んでいます。あなたが彼を知らないとは意外ですが、私たちの町は大きいですからね」
忠実「誰の息子ですか。町のどのあたりに住んでいるのですか」
クリスチャン「〈口上手〉という人の息子で、〈おしゃべり横丁〉に住んでいました。知り合いの間では『おしゃべり横丁の多弁』で通っています。口はうまいのですが、実はつまらない男です」
忠実「でも、なかなか立派な人に見えますが」
クリスチャン「それは、彼をよく知らない人にとってのことです。彼は外ではいちばん見栄えがしますが、家の近くではずいぶん醜いのです。あなたが立派な人だとおっしゃるので、ある画家の作品で気づいたことを思い出しました。その画家の絵は、遠くから見るといちばん見栄えがしますが、すぐ近くで見ると、あまり感じがよくないのです」
忠実「でも、あなたが笑っておられたので、冗談をおっしゃっているだけかと思いました」
クリスチャン「とんでもない。笑いはしましたが、このことで冗談を言うつもりはありませんし、誰かを偽って訴えるつもりもありません。もう少し彼のことを明かしましょう。この男は、どんな相手とも、どんな話でもします。今あなたと話しているように、酒場の腰掛けでも同じように話すでしょう。酒が頭に回れば回るほど、こういう話が口から出てくるのです。彼の心にも、家にも、行いにも、宗教の居場所はありません。彼が持っているものはみな舌の上にあるだけです。彼の宗教は、舌で騒ぎ立てることなのです」
忠実「そうなのですか。それなら、私はあの人をすっかり見誤っていました」
クリスチャン「見誤っていましたとも。間違いありません。『彼らは言うだけで、実行しない』ということわざを思い出してください。『神の国は言葉ではなく、力である』のです(マタイ二三・三、第一コリント四・二〇)。彼は祈りのことも、悔い改めのことも、信仰のことも、新しく生まれることも話します。けれども、それについて話すことしか知らないのです。私は彼の家に行ったことがあり、家の中でも外でも彼の様子を見てきました。ですから、私の言うことが本当だとわかっています。彼の家には、卵の白身に味がないのと同じくらい、宗教がありません。祈りもなければ、罪を悔い改めるしるしもありません。いや、獣のほうが、獣なりに、彼よりずっとよく神に仕えています。彼を知るすべての人にとって、彼は宗教の汚点であり、恥辱であり、恥そのものです(ローマ二・二四〜二五)。彼のせいで、彼の住む界隈では、宗教はほとんどよく言われません。彼を知る世間の人はこう言います。『外では聖人、家では悪魔』。かわいそうに、彼の家族はそれを身にしみて知っています。彼は召使いたちにひどく意地が悪く、口汚くののしり、無茶を言います。それで召使いたちは、彼のために何をし、彼に何と言えばいいのかわからないのです。彼と取引をする人たちは、彼を相手にするよりトルコ人を相手にするほうがましだ、と言います。トルコ人のほうがよほど公正に取引してくれるからです。この多弁は、できることなら取引相手を出し抜き、だまし、欺き、食い物にするのです。そのうえ、息子たちにも自分と同じ道を歩ませようと育てています。息子の誰かに愚かな臆病さが見られると、その子をばか者、のろま呼ばわりするのです。彼の言う愚かな臆病さとは、繊細な良心が芽生えることです。そして、その子には大事な仕事を決して任せず、人前でほめることもしません。私の考えでは、彼はその邪悪な生き方によって、多くの人をつまずかせ、倒れさせてきました。神が止めてくださらなければ、これからもさらに多くの人を滅ぼすことになるでしょう」
忠実「兄弟よ、あなたの言うことを信じないわけにはいきません。あなたが彼を知っているとおっしゃるからだけではありません。あなたがクリスチャンらしく人について語られるからです。あなたが悪意からこんなことをおっしゃるとは思えません。本当におっしゃるとおりなのでしょう」
クリスチャン「もし私があなた以上に彼を知らなかったら、私もあなたと同じように、初めは彼を立派な人だと思ったかもしれません。また、彼のこうした評判が宗教の敵である人たちから出ているだけなら、中傷だと思ったでしょう。悪人の口からは、善人の名前や信仰告白について、よくそういう中傷が出てくるものですから。けれども、こうしたことはみな、私自身が見聞きしたことから証明できます。いや、同じくらい悪いことをほかにもたくさん証明できるのです。そのうえ、善良な人たちは彼のことを恥じています。彼を兄弟とも友とも呼べないのです。彼を知る善良な人たちの間では、その名前を口にしただけで顔が赤くなるほどです」
忠実「なるほど、言うことと行うことは別物なのですね。これからはこの違いをもっとよく見分けるようにします」
クリスチャン「まさに別物です。魂と体ほども違います。魂のない体はただの死骸にすぎません。それと同じように、言うことも、それだけならただの死骸にすぎないのです。宗教の魂は、実践にあります。『父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない』(ヤコブ一・二二〜二七)。多弁はこのことに気づいていません。聞くことと言うことで、立派なクリスチャンになれると思っているのです。こうして彼は自分の魂を欺いています。聞くことは種をまくことにすぎません。話すだけでは、心と生活に本当に実が結んでいる証拠にはなりません。裁きの日には、人はその実によって裁かれるのだと肝に銘じましょう(マタイ一三章、二五章)。そのときには、『あなたは信じたか』とは問われません。『あなたは行う人だったか、それともただ話す人だったか』と問われ、それに応じて裁かれるのです。世の終わりは収穫にたとえられています。ご存じのとおり、収穫のときに人は実のほかには目もくれません。信仰によらないものが受け入れられる、と言っているのではありません。その日には多弁の信仰告白がどれほど無意味かをお伝えしたくて、こう言っているのです」
忠実「それで、モーセが清い獣について述べたところを思い出しました(レビ記一一・三〜七、申命記一四・六〜八)。清い獣とは、ひずめが分かれていて、しかも反芻するもののことです。ひずめが分かれているだけのものや、反芻するだけのものではありません。野うさぎは反芻しますが、ひずめが分かれていないので汚れています。これはまさに多弁にそっくりです。彼は反芻します。知識を求め、みことばを噛みしめます。けれども、ひずめが分かれていません。罪人の道と袂を分かたないのです。野うさぎのように、犬や熊の足をしたままなのです。だから汚れているのです」
クリスチャン「私の知るかぎり、あなたはこれらの聖句の、福音における本当の意味を語られました。もう一つ付け加えましょう。パウロはある人々を、しかも大変な話し手である人々を、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と呼んでいます(第一コリント一三・一〜三)。パウロが別の箇所で説明しているように、それはいのちのないものが音を出すようなものです(第一コリント一四・七)。いのちがないというのは、福音の真の信仰と恵みがないということです。ですから、たとえその話す声が御使いの舌や声のようであっても、天の御国でいのちの子らとともに置かれることは決してないのです」
忠実「初めはあれほど彼と一緒にいたいと思ったのに、今は同じくらいうんざりしています。どうすれば彼と別れられるでしょうか」
クリスチャン「私の助言どおりにしてごらんなさい。そうすれば、彼のほうもすぐにあなたにうんざりするでしょう。神が彼の心に触れて、向きを変えてくださらないかぎりは」
忠実「どうしろとおっしゃるのですか」
クリスチャン「彼のところへ行って、宗教の力について、何かまじめな話を始めるのです。彼はきっとそれに賛成するでしょう。賛成したら、その力が彼の心や家や行いに据えられているかどうか、はっきり尋ねてごらんなさい」
そこで忠実はまた前へ進み出て、多弁に言った。
忠実「さあ、ご機嫌いかがですか。調子はどうですか」
多弁「おかげさまで元気です。今ごろはもう、たくさん語り合っているはずだと思っていましたよ」
忠実「では、よろしければ今から始めましょう。問いを立てるのを私に任せてくださったのですから、こういう問いにしましょう。神の救いの恵みが人の心にあるとき、それはどのように現れるのでしょうか」
多弁「なるほど、私たちの話は物事の力についてのものになるわけですね。それはとても良い問いです。喜んでお答えしましょう。手短に答えると、こうです。第一に、神の恵みが心にあるとき、それは罪に対する大きな叫びを引き起こします。第二に」
忠実「いいえ、待ってください。一つずつ考えましょう。むしろ、恵みは魂に罪を忌みきらわせることで現れる、と言うべきだと思います」
多弁「おや、罪に対して叫ぶことと、罪を忌みきらうことに、どんな違いがあるのですか」
忠実「ああ、大違いです。人は計算ずくで罪に対して叫ぶこともできます。けれども、罪を忌みきらうことは、罪に対する敬虔な嫌悪の力によらなければできません。説教壇で罪に対して叫びながら、心や家や行いの中では罪を平気で許している人を、私は大勢見てきました。ヨセフの主人の妻は、まるでとても聖い女であるかのように大声で叫びました。けれども、それにもかかわらず、ヨセフと汚れたことをしようとしていたのです。罪に対して叫ぶといっても、母親がひざの上の子を叱るのと変わらない人もいます。だらしない子だの、悪い子だのと言っておきながら、すぐに抱きしめて口づけするのです」
多弁「どうやら、あなたは揚げ足を取ろうと待ちかまえているようですね」
忠実「いいえ、とんでもない。私はただ物事を正しくしたいだけです。ところで、心に恵みの働きがあることを示すと、あなたが考える二つめのしるしは何ですか」
多弁「福音の奥義についての深い知識です」
忠実「そのしるしは最初に挙げるべきでした。けれども、最初であれ最後であれ、これも間違っています。福音の奥義についての知識、それも深い知識を得ていても、魂に恵みの働きがないことはあるからです。そうです、人はたとえあらゆる知識に通じていても、無に等しいことがあります。したがって、神の子ではないこともあるのです(第一コリント一三章)。キリストが『あなたがたは、これらのことが皆わかったか』と言われ、弟子たちが『わかりました』と答えたとき、キリストはこう付け加えられました。『もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである』。キリストは祝福を、知ることにではなく、行うことに置いておられます。行いを伴わない知識もあるのです。『主人のこころを知っていながら、それに従わない』者がそうです。人は御使いのように知っていても、クリスチャンでないことがあります。ですから、あなたのしるしは正しくありません。確かに、知ることは話し手や自慢屋を喜ばせます。けれども、行うことこそ神を喜ばせるのです。知識がなくても心が善くなりうる、と言うのではありません。知識がなければ、心はむなしいものです。ですから、知識には二種類あります。物事をただ思いめぐらすだけで終わる知識と、信仰と愛の恵みを伴う知識です。後者は人を動かし、心から神のみこころを行わせます。前者は話し手には十分でしょう。けれども、後者がなければ、真のクリスチャンは満足しません。『わたしに知恵を与えてください。わたしはあなたのおきてを守り、心をつくしてこれに従います』(詩篇一一九・三四)」
多弁「また揚げ足取りですね。これでは徳を高めることになりません」
忠実「では、よろしければ、恵みの働きがあるところでそれがどう現れるのか、別のしるしを挙げてください」
多弁「いや、やめておきます。どうやら意見が合いそうにありませんから」
忠実「では、あなたが挙げないのでしたら、私が挙げてもよろしいですか」
多弁「ご自由にどうぞ」
忠実「魂のうちにある恵みの働きは、それを持っている本人か、あるいはそばで見ている人に現れます」
「本人には、こう現れます。恵みの働きは、その人に罪を悟らせます。とくに、自分の本性の汚れと、不信仰の罪を悟らせます。イエス・キリストを信じて神のあわれみを受けなければ、その罪のために必ず滅びることも悟らせます(ヨハネ一六・八、ローマ七・二四、ヨハネ一六・九、マルコ一六・一六)。こうしたことを見て感じると、その人は罪を悲しみ、恥じるようになります。さらにその人は、世の救い主が自分のうちに示されたことを知ります。いのちを得るためには、どうしても救い主に結びつかなければならないことも知ります。そして、救い主に飢えかわくようになります。その飢えかわきに対して、約束が与えられているのです(詩篇三八・一八、エレミヤ三一・一九、ガラテヤ二・一六、使徒四・一二、マタイ五・六、黙示録二一・六)。その人の喜びと平安、聖さへの愛は、救い主への信仰の強さに応じて強くも弱くもなります。救い主をもっと知り、この世でもっと仕えたいという願いも同じです。けれども、恵みの働きはこのように本人に現れるといっても、本人がこれは恵みの働きだと結論できることはめったにありません。今なお残る自分の腐敗と、ゆがめられた理性のために、このことについて心が判断を誤ってしまうからです。ですから、この働きを持つ人が、これは恵みの働きだとしっかり結論するには、とても健全な判断力が必要です」
「ほかの人には、こう現れます」
「第一に、キリストへの信仰を経験に基づいて告白することによって現れます(ローマ一〇・一〇、ピリピ一・二七、マタイ五・一九)。第二に、その告白にふさわしい生活によって現れます。つまり、聖い生活です。心の聖さ、家庭の聖さ(家庭があればですが)、そして世の中での行いの聖さです。そういう生活は全体として、その人に、ひそかに内側で自分の罪を忌みきらい、罪のゆえに自分自身を忌みきらうことを教えます。また、家庭では罪を抑え、世の中では聖さを広めることを教えます。それも、偽善者やおしゃべりな人のように口先だけでするのではありません。信仰と愛のうちに、みことばの力に実際に従うことによってするのです(ヨハネ一四・一五、詩篇五〇・二三、ヨブ四二・五〜六、エゼキエル二〇・四三)。さて、恵みの働きとその現れについての、この手短な説明に何か異論がおありなら、どうぞおっしゃってください。もしなければ、二つめの問いをさせていただきたいのです」
多弁「いいえ、今の私の役目は異論を述べることではなく、聞くことです。ですから、二つめの問いをどうぞ」
忠実「それはこうです。あなたは、この説明の前半を経験していますか。また、あなたの生活と行いは、それを証ししていますか。それとも、あなたの宗教は言葉や口先だけのもので、行いと真実にはないのでしょうか。これに答えてくださるなら、どうか、天におられる神がアーメンと言ってくださると知っていること以上は言わないでください。また、あなたの良心が正しいと認めることのほかは言わないでください。『自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人』だからです。そのうえ、自分の行いも近所の人たちもみな嘘だと言っているのに、自分はこうだ、ああだと言うのは、大きな悪です」
すると、多弁は初め顔を赤らめた。けれども、気を取り直して、こう答えた。
多弁「今度は経験だの、良心だの、神だのを持ち出して、話したことが正しいかどうか神に訴えるのですね。こういう話になるとは思っていませんでした。こんな問いに答える気もありません。答える義務などないと思いますから。あなたが教理問答の先生になるというなら別ですが。たとえそうなっても、あなたを私の裁き手と認めるのは、お断りしてもかまわないはずです。それにしても、どうしてこんなことを尋ねるのか、教えていただけますか」
忠実「あなたが熱心に話したがるのを見たからです。それに、あなたには頭の中の考えのほかに何かがあるとは思えなかったからです。そのうえ、本当のことをすっかり申し上げますと、あなたについてこう聞いているのです。あなたの宗教は話の中にあるだけで、あなたの行いは、その口先だけの信仰告白が偽りであることを示している、と。あなたはクリスチャンの間の汚点で、あなたの不敬虔な行いのせいで宗教がますます悪く言われている、と人々は言っています。すでにあなたの邪悪な生き方につまずいた人もいて、これからさらに多くの人がそのために滅びる危険がある、と。あなたの宗教は、酒場とも、貪欲とも、不品行とも、悪態とも、嘘とも、くだらない仲間づきあいとも両立するのです。遊女について言われる『あの女はすべての女の恥だ』ということわざは、あなたにも当てはまります。あなたは信仰を告白するすべての者の恥なのです」
多弁「そんなにたやすく噂をうのみにして、そんなに軽々しく人を裁くのですから、あなたは気難しい人か、ふさぎこんだ人に違いありません。話し相手にふさわしくない人です。では、さようなら」
すると、クリスチャンがやって来て、兄弟に言った。
クリスチャン「こうなると言ったでしょう。あなたの言葉と彼の欲とは、相容れなかったのです。彼は生活を改めるよりも、あなたと別れるほうを選びました。でも、私が言ったとおり、彼は行ってしまいました。行かせておきましょう。損をするのは彼自身で、ほかの誰でもありません。彼のほうから去ってくれたので、私たちが彼から離れる手間が省けました。彼がこのままでいるなら(きっとそうでしょうが)、私たちの仲間にとって汚点にしかならなかったでしょう。そのうえ、使徒も『このような人々から離れなさい』と言っています」
忠実「でも、彼とこうして少し話せてよかったと思います。もしかすると、彼はまたこのことを考えるかもしれません。いずれにせよ、私は彼に率直に話しました。ですから、彼が滅びても、私はその血について責任がありません」
クリスチャン「あれほど率直に話されたのは、よいことでした。このごろは、こういう忠実な接し方を人にする者がほとんどいません。そのために、宗教が多くの人に鼻もちならないものになっているのです。言葉だけの宗教を持ち、行いは放埒でむなしい、あのおしゃべりな愚か者たちのせいです。彼らが敬虔な人々の交わりにたびたび加えられるので、世の人は戸惑い、キリスト教に傷がつき、誠実な人が悲しむのです。すべての人がこういう者たちに、あなたがしたように接してくれればいいのですが。そうすれば、彼らは宗教にもっとかなう者になるでしょう。さもなければ、聖徒の交わりに居たたまれなくなるでしょう」
それから忠実はこう歌った。
「多弁は初め、なんと羽を広げることか。なんと勇ましく語ることか。なんと思い上がってすべてを打ち負かそうとすることか。だが忠実が心のうちのわざを語るやいなや満月を過ぎた月のように、彼は欠けてゆく。心のうちのわざを知る者のほかは、みなそうなるのだ」