ジョン・バニヤン『天路歴程』

(十三) 忠実

クリスチャンが旅路を進むと、小高い丘を見つけた。巡礼者が先を見渡すための見晴らし台だった。クリスチャンは登って、行く先を見渡した。すると前方に〈忠実〉がいた。クリスチャンは大声で呼びかけた。「おーい、おーい。待ってください。一緒に行かせてください」。忠実の返事は、けれども、こうだった。「やめてください、私はまだ生きたいのです。血の復讐が後ろから来るとは」

クリスチャンはたまらなくなって、全力で駆け出した。あっという間に忠実に追いつき、それから追い越した。後の者が先になった。兄弟の先を行ったので、クリスチャンはにやりと笑った。けれども、足元をよく見ていなかったので、思いがけず転んで倒れてしまった。結局、忠実が助けに来るまで起き上がることができなかった。

私が夢の中で見ていると、二人は仲睦まじく一緒に歩き、これまで旅路で起こったことを親しく話した。

クリスチャン「敬愛する兄弟、忠実さん。あなたを一度追い越したのは正解でしたね。神が私たちの霊を和ませてくださったので、こうして楽しく一緒に歩くことができました」

忠実「親愛なる友、クリスチャンさん。本当に、故郷の町から来た追手かと思いましたが、あなたは私の前を通り過ぎて行きましたね。私はここまでほとんどひとりで進むしかなかったものですから」

クリスチャン「〈滅びの町〉にはどれくらいおられたのですか。私の後に旅に出るまでに」

忠実「まもなく出ざるをえなくなりました。あなたが出て行った後、天から火が降ってすぐにもこの町は焼け野原になる、という噂を随所で聞きましたから」

クリスチャン「そうなのですか。近所の方々がそう話したのですか」

忠実「はい。皆が口々に言っていました」

クリスチャン「驚きです。あなただけが危難から逃れて、他の人は何もしなかったのですか」

忠実「申し上げたとおり皆がその噂に夢中でしたが、誰も本当には信じていないようでした。その噂の熱にまぎれて、あなたのことやあなたの絶望的な旅のことを噂する者もいました。絶望的な旅、とそう言っていました。でも、私は信じていました。今も信じています。私たちの町が火と硫黄で滅ぼされる、と。だからこうして逃げてきました」

クリスチャン「隣人の〈軟弱〉の噂は聞きましたか」

忠実「聞きましたよ、クリスチャンさん。彼があなたについて行ったことを。〈失望の沼〉に来たとき、真偽の程はさだかではありませんが、そこに落ちてしまったとか。とにかく沼に落ちて溺れかけたと聞いています」

クリスチャン「それで、近所の人たちは軟弱のことをどう言いましたか」

忠実「戻ってから、すっかり町中の笑い者になりました。馬鹿にする人や見下す人もいました。軟弱に仕事をくれる人はほとんどありませんでした。彼の状態は、町を出て行かなかったより七倍も悪くなりました」

クリスチャン「でも、せっかく戻ってきたというのに、どうしてそんなに邪険に扱うのでしょうか。軟弱が見限った道は、町の人たちも軽蔑していましたが」

忠実「ああ、軟弱を絞首刑にしろと町の人は言います。裏切り者だから。自分の告白に忠実でなかったから! 神は軟弱を敵に引き渡して責めるままにしておかれると思います。道を捨てた彼をことわざにするために」(エレミヤ二九・一八〜一九)

クリスチャン「あなたは旅に出る前に軟弱と話しませんでしたか」

クリスチャン「通りで一度だけ出会いましたが、うしろめたそうに目をそらされました。自分でしてしまったことを恥じているようでした。だから、一言も話しませんでした」

クリスチャン「そうですか。旅に出た当初、私は軟弱に希望を感じていました。でもこうしてお話を聞くと、彼はあの町と一緒に滅ぼされるのではないかと恐れています。犬は自分の吐いたところに戻る、豚は洗っても泥をころげまわる、という真実のことわざのとおりになったからです」(第二ペテロ二・二二)

忠実「私も恐れています。といっても、誰が運命を変えられるでしょうか」

クリスチャン「ええ、隣人なる忠実さん。軟弱のことはなるにまかせておきましょう。私たち自身について話しましょう。あなたの旅路で出会ったものについて教えてくれませんか。きっといろいろなことがあったでしょう」

忠実「あなたが落ちたという沼は避けることができました。それで無事に門に着きました。ただ、〈浮気〉という名前の女にちょっかいを出されました」

クリスチャン「浮気のわなに捕らえられなくてよかったですね。ヨセフも彼女の手にかかりそうになりましたが、いのちからがら、あなたのように逃れることができました(創世記三九・一一・一三)。彼女に何をされたのですか」

忠実「浮気がどんなふうに媚を売ったか、想像もつかないでしょうが、何となくおわかりでしょう。私のすぐそばで横になって、私にあらゆる種類の悦楽を約束しました」

クリスチャン「といっても、約束したのは良心にかなった喜びではないのでしょうね」

忠実「そうです。肉的な、物質的な悦楽です」

クリスチャン「神に感謝します。あなたが彼女から逃れたことを。主の忌み嫌う者だけが彼女の深い穴に落ちる(箴言二二・一四)」

忠実「いえ、浮気のわなから完全に逃れられたのかどうか、自分でもわからないのです」

クリスチャン「どうしてでしょうか。彼女の魂胆には誘われなかったように思うのですが」

忠実「自分自身を汚すことはありませんでした。以前見た古い書物にこう書いてあったのを覚えています。『彼女の足取りは地獄につづく』(箴言五・五)。だから私は、その美貌に誘惑されないように目をつぶりました(ヨブ三一・一)。彼女は私をののしりましたが、私は先に進みました」

クリスチャン「他には旅路で大変な目にあいませんでしたか」

忠実「〈困難〉という名の丘のふもとに着いたとき、ひとりの老人に会いました。私が誰で、どこに向かっているのかと尋ねられました。私は巡礼者で、天の都を目指している、と答えました。老人は言いました。『あなたは正直な人のようだ。報酬を支払うから、一緒に暮らしてもらえないか』。私は、老人の名前と、住んでいる場所を尋ねました。名は第一の人アダムといい、〈偽りの町〉に住んでいるとのことでした。それから、どんな仕事をしているのか、また報酬は何かを老人に尋ねました。仕事はやりがいのあるもので、やり終えたら彼の財産の相続人になれるいうことでした。私はさらに尋ねました。どんな家に住んでいるのか、他に給仕人はいるのか、と。老人の邸宅は世界各地から集めた優美な調度品で飾られていて、給仕は自分の娘たちに任せているそうでした。それから私は、何人の子供がいるのか尋ねました。娘が三人だけいて、名前はそれぞれ〈肉の欲〉、〈目の欲〉、〈生活の見栄〉というのでした(第一ヨハネ二・一六)。もし望むなら結婚してもかまわない、と老人は言いました。私は仕事の期間はどれくらなのか尋ねました。老人が生きているあいだずっと、面倒を見てほしいとのことでした」

クリスチャン「それで結局、どうすることにしたのですか」

忠実「最初は老人と一緒に暮らしたいとも思いました。その話しぶりが誠実そうだったので。ですが、話している途中、老人の額にふと目をやると、こう書いてあったのです。『古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨てよ』」

クリスチャン「それからどうなりましたか」

忠実「そのことばが私の心の中に入って、熱く燃えました。それで気づいたのです。老人が何を言おうと、どんなおべっかを使おうと、ひとたび老人の家に行ったなら、私は奴隷として売り飛ばされるのだ、と。話は打ち切りにしました。あなたの家の門の前にも参りませんから、と言いました。すると老人は私をののしりました。お前の旅を邪魔する者を送って魂に苦い思いをさせてやる、と言われました。それで、私は向きを変えて老人から離れ去りました。ところが、歩き出そうとしたとたん、老人が私の肉を掴んでいるのを感じました。あまりに強く引っ張るので、私の体の一部を引きちぎろうとしているのかと思いました。それで私は大声で言いました。『ああ、汚れた者よ』(ローマ七:二四)。こうして丘を登り出しました。丘の半分ほど登ってから後ろを振り返りますと、誰かが後方から風のように駆け上がってくるのが見えました。ちょうど休憩所のあたりでその人は私を襲ってきました」

クリスチャン「そこは、私が座って休んだ場所です。けれど、つい眠りこけてしまって、この巻物を胸元から落としました」

忠実「さようですか。でも、良き兄弟よ、聞いてください。その人は私を追い抜くやいなや、何かひとこと言って私を殴りつけました。私は死んだように倒れました。少しすると意識が戻ったので、どうしてこんなことをするのかと抗議しました。お前の中に第一の人アダムの隠された性質があるからだ、と彼は言いました。それからまた胸に強烈な一撃をくらわされて、私は後ろに転びました。もう一度彼の足元に死んだように倒れました。また意識が戻ると、私は泣きついてあわれみを求めました。ところが、彼はあわれみなどというものは知らないと冷淡に言って、また私を殴りつけました。私を殺そうとしているのは疑いようもありませんでした。ところが、その時です。誰かが近くに来て、やめよ、と命じました」

クリスチャン「やめよと命じたのは、誰だったのですか」

忠実「最初は誰なのかわかりませんでした。ところがその方が近づくと、両手とわき腹に穴が空いているのが見えました。それで、私たちの主だとわかりました。こうして私は、丘をまた登ることができました」

クリスチャン「あなたを襲った人は、モーセです。モーセはどんな人にも容赦しません。律法にそむく者にあわれみを示すことを知りません」

忠実「よく存じております。モーセに会ったのは初めてではありません。私が家でくつろいでいる時に来たことがあります。その家に居続けるなら、頭の上から家を燃やしてしまうぞ、と脅されました」

クリスチャン「モーセの話はともかくとして、ところで、丘の頂上にあるお屋敷はご覧になりませんでしたか。」

忠実「見ました。お屋敷の手前にいた獅子も。昼になるというのに獅子は寝ているようでした。まだ日があったので、守衛の前を通り過ぎて丘を降りました」

クリスチャン「そういえば守衛があなたの通り過ぎるのを見たと教えてくれました。あなたもお屋敷に立ち寄ればよかったでしょうに。きっと一生忘れられない珍しいものをたくさん見せてもらえましたよ。ところで、どうか教えてください。〈へりくだりの谷〉では誰にも会いませんでしたか」

忠実「〈不平不満〉という人に会いました。私に一緒に引き返してくれまいかと熱心に誘ってきました。その理由というのが、この谷には栄誉が少しもないからでした。彼が言うには、この道を進むと友人をみな裏切ることになるということでした。〈誇り〉、〈傲慢〉、〈うぬぼれ〉、〈世の栄光〉など、彼の知っている人たちです。この谷を渡るなどという愚かなことをしたら、そういう人たちが激怒するに違いない、と」

クリスチャン「それで、不平不満には何と返事したのですか」

忠実「こう言いました。名前をあげた人たちは私の親戚だと言い張るかもしれませんし、それは正しいのですが(確かに肉によれば親戚なのですから)、だとしても、私が巡礼者になったときにあの人たちは私を勘当し、私も縁を切りました。ですから、あの人たちにしてみれば、今となっては、私は最初から血の繋がりがなかったも同然です、と。またこうも言いました。この谷についてあなたはまったく間違った説明をしました。謙遜は栄誉に先立ち、高慢な霊は滅びに先立つのです。だから、あなたの目にいちばん価値あると感じるものを選ぶよりもむしろ、知恵ある者が教えたように栄誉のためにこの谷を通るほうを私は選びます、と」

クリスチャン「その谷では他に何にも出会いませんでしたか」

忠実「〈恥〉に出会いました。旅の途中でこれまでいろいろな人に出会いましたが、この人ほど名前と中身がずれていると感じた人は初めてでした。これまで会った人たちは、しばらく会話すれば、たいていの人は負け惜しみとかそういうことを言って話が終わりましたが、この厚顔な恥はいっこうに話が終わりませんでした」

クリスチャン「恥はあなたに何と言ったのですか」

忠実「恥の話した内容ですか。そうですね、恥は宗教そのものに反対していました。宗教心を持つことはあわれで、低劣で、卑しい行為だと言っていました。親切な良心は非人間的なものだ、と。勇敢な霊たちが放縦を楽しんでいばりちらしている中で、その時流に逆らって、自分の言葉と行いを見張って放縦をしないように自己を縛り付けるのは、みずからを時世の笑い者とすることだ、と。また彼は、権力者、金持ち、賢い者はごく少数の例外をのぞいて私の意見に賛同するとも主張しました。そういう人は間違いなく、説き伏せられて愚か者になる前に、また誰も知らないもののためにすべてを投げ打つ危険を冒すことに憧れを持つ前に、私の意見に同調するようになる(第一コリント一・二六、三・一八、ピリピ三・七~九、ヨハネ七・四八)。それだけでなく、今の時代に巡礼者になるような者は身分が低く貧しい者がほとんどで、自然科学の知識と理解力にも欠けている。そんな調子で彼は、今話したこと以外にもさまざまな話をしました。教会の説教を聞いて泣いたり嘆いたりするのは恥だとか、家でため息をついたり呻いたりするのは恥だとか、取るに足りない失敗のために隣人に赦しを乞うのは恥だとか、誰かから取ったものを返すのは恥だとか、そういう話もありました。またこうも言いました。宗教は人を偉大なものから遠ざけてしまう。悪徳(彼はもっと高尚な名をつけていましたが)から身を避けるからだ。また身分の低い人も同じ宗教上の兄弟として認め、尊重する。これは恥ではないか、と」

クリスチャン「ではあなたは何か言ったのですか」

忠実「それがですね、初めは何も言えませんでした。恥が何も言わせてくれなかったのです。だんだん血が頭にのぼってきました。恥というこの男が次々に議論をふっかけて、私はすっかり根負けしそうになりました。けれども、やっとのことで私はこう考え始めました。人には評判の高いことでも神は忌み嫌われるのではないか(ルカ一六・一五)。また、この恥は人間とはいかなるものかを滔々と語ったが、神と神のことばについてはいっさい話しませんでした。それにこう思いました。終わりの裁きの日に私たちが死かいのちかに振り分けられるのは、世のいばりちらす霊によるのではなく、いと高き方の知恵と法による。だから、世のすべての人が反対したとしても、神の仰せになることが最善に違いない。神がご自分の宗教を愛しておられることを知れ。神が親切な良心を愛しておられることを知れ。天の御国のために愚か者となる者が最も賢く、キリストを愛する貧者が、貧者を憎むこの世の最も偉大な者よりも豊かであることを知れ。恥よ、離れよ。お前は私の救いの敵だ。私の君主である主に反抗してまでお前をもてなすべきだろうか。そんなことをしたら主の来られる日に御顔を仰げるだろうか(マルコ八・三八)。そう思いました。でもじっさい、この恥は大胆な悪党でした。いっこうに彼を振り切ることができませんでした。私にまとわりついて、宗教を信じると貧弱になるんだとあれやこれや耳元でささやき続けました。けれども、ようやく私は、これ以上そんなことをしても無駄だときっぱり言いました。お前が軽蔑している事柄にこそ、私は最高の栄光を見ているのだから。こうしてやっとこのしつこい男をやり過ごすことができました。彼を振り払ったとき、私は歌い出しました。

天の召しに従う人々が
何度も出会う試みは
数は多く、肉に親しむ。
何度も、何度も、何度も
新しくまたやって来る。
今も、今後も試みに
からめとられ、支配され
打ちのめされるかもしれない。
おお、巡礼者よ。
だから巡礼者よ。
用心深く、雄々しくあれ」

クリスチャン「兄弟よ、私は嬉しいです。この悪党にそんなにも勇敢に立ち向かってくださって。なかでも、おっしゃるとおり彼の名前は間違っているように思います。恥という名前のわりには、私たちの後をついてくるほど大胆です。むしろ私たちにすべての人の前で恥をかかせようとしています。善いものについて私たちが恥じ入るようにしむけました。彼自身が大胆でなければ、そういうことは試そうともしないに違いありません。何せよ、今も恥に抵抗しようではありませんか。どんなに恥の行為が勇敢でも、その目的は愚か者にすることであって、ほかではありません。ソロモンの言うとおりです。『知恵ある者は、誉を得る、しかし、愚かな者ははずかしめを得る』(箴言三・三五)」

忠実「恥に抵抗するために、神の助けを叫び求めるべきだと思います。地上にいる私たちが真理のためにこそ勇敢になれるように」

クリスチャン「まさにそうです。ところで、その谷では他に誰にも出会いませんでしたか」

忠実「会いませんでした。というのも、それから先は通り抜けるまでずっと太陽が照っていたからです。死の陰の谷も太陽の光のもとで通り抜けました」

クリスチャン「それは結構なことです。私と一緒だったら大変だったに違いありません。私の場合、死の陰の谷に入るとすぐに、あの悪友アポリュオンとの苦闘に長い時間を取られました。まったく、本当に殺されるかと思いました。アポリュオンに倒され、踏みつけられて、体が引きちぎられそうになりました。アポリュオンが私を投げ飛ばしたとき、剣が手からすり抜けてしまいました。アポリュオンは私にこれでおしまいだと言いました。私は神に叫び求め、神は聞いてくださいました。私をすべての困難から救い出してくださむたのです。それから、死の陰の谷に入りました。谷のなかばまで暗闇の中を歩きました。何度ももう死んでしまうと思いましたが、最後には朝になり、日が昇りました。それまでとは様子がうってかわって、落ち着いて静かに渡りきることができました」