ジョン・ウェスレー標準説教集

説教一 信仰による救い

オクスフォード大学聖母マリア教会にて。1738年6月18日。

「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われています」(エペソ二・八)

(一) 神が人に与えてくださった祝福は、すべて神のまったくの恵み、賜物、好意によるものです。それは価なしの、受けるに値しない好意です。まったく受けるに値しない好意です。人には、神のあわれみのほんのわずかさえ求める権利がありません。「土のちりで人を造り、命の息を吹きいれ」て生きた者としたのは、価なしの恵みでした(創世二・七)。その魂に神のかたちを刻み、「よろずの物をその足の下におかれた」のも、価なしの恵みでした(詩篇八・六)。同じ価なしの恵みが、今日に至るまで私たちに、いのちと息と万物とを与え続けています。私たちのあり方も、持ち物も、行いも、神の御手からほんのわずかなものさえ受けるに値しないからです。「神よ、私たちのすべてのわざは、あなたが私たちのうちでなし遂げられたものです」(イザヤ二六・一二)。ですから、これらもまた価なしのあわれみのしるしです。人のうちにどんな義が見いだされても、それもまた神の賜物です。

(二) それでは、罪人は何によって自分の罪を、どんなに小さな一つでも償えるのでしょうか。自分の行いによってでしょうか。いいえ。たとえ行いがどれほど多く、どれほど聖くても、それは自分のものではなく、神のものです。けれども実際には、行いそのものがすべて汚れて罪深いものです。ですから、行いの一つひとつが新たな償いを必要とします。悪い木には悪い実しかなりません。人の心はまったく腐って、忌まわしいものになっています。「神の栄光を受けられなくなって」いるからです(ローマ三・二三)。神の栄光とは、偉大な造り主のかたちにかたどって、はじめに人の魂に刻まれた栄光の義のことです。ですから人には、申し立てられる義も行いも何一つありません。人の口は神の前でまったくふさがれています。

(三) ですから、罪人が神の好意を得るとすれば、それは「恵みに恵みを加えられた」ことです(ヨハネ一・一六)。神がなおも私たちに新しい祝福を注いでくださるとしましょう。いや、あらゆる祝福の中で最も大きな救いを注いでくださるとしましょう。そのとき私たちは、これらのことについて何と言えるでしょうか。こう言うほかありません。「言いつくせない賜物のゆえに、神に感謝します!」(第二コリント九・一五)。まさにそのとおりです。ここに、「まだ罪人であったとき、私たちのためにキリストが死んでくださったことによって、神は私たちに対する愛を示され」ました(ローマ五・八)。それは私たちを救うためでした。ですから、「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われています」(エペソ二・八)。恵みは救いの源であり、信仰は救いの条件です。

さて、神の恵みからもれることがないように(ヘブル一二・一五)、次のことを注意深く調べなければなりません。

【一】 私たちを救う信仰とは何か【二】 信仰による救いとは何か【三】 いくつかの反論への答え

【一】 私たちを救う信仰とは何か

(一) 第一に、それは単なる異教徒の信仰ではありません。神が異教徒に求めておられるのは、「神がおられることと、ご自身を求める者に報いてくださること」を信じることです(ヘブル一一・六)。そして、神を神としてあがめ、すべてのことに感謝して、神を求めるべきだと信じることです。また、同胞に対して正義とあわれみと真実という道徳的な徳を心して行い、神を求めるべきだと信じることです。ですから、ギリシア人やローマ人は、いやスキタイ人やインディアンでさえ、これだけのことを信じないなら弁解の余地がありませんでした。すなわち、神の存在と属性、来るべき世での報いと罰、道徳的な徳を行う義務です。これは単なる異教徒の信仰にすぎないからです。

(二) 第二に、それは悪魔の信仰でもありません。悪魔の信仰は異教徒の信仰よりはるかに先まで進んでいますが、それでも違います。悪魔は、賢く力ある神がおられること、その神が恵み深く報い、正しく罰することを信じています。それだけでなく、イエスが神の子キリストであり、世の救い主であることも信じています。ですから、悪魔ははっきりとこう言っています。「あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」(ルカ四・三四)。あの不幸な霊は、聖者の口から出た言葉をすべて信じています。それは疑いようがありません。昔の聖なる人々が書いたほかの言葉も、すべて信じています。そのうちの二人について、悪魔はやむをえず、こう輝かしい証言をしました。「この人たちは、いと高き神の僕たちで、あなたがたに救いの道を伝える方々です」(使徒一六・一七)。神と人との大敵は、これだけのことを信じ、信じておののいています(ヤコブ二・一九)。すなわち、神が肉において現れたこと(第一テモテ三・一六)、キリストが「あらゆる敵をその足もとに置く」こと(第一コリント一五・二五)、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたもの」であることです(第二テモテ三・一六)。悪魔の信仰はここまで及んでいます。

(三) 第三に、私たちを救う信仰は、のちに説明する意味での信仰ですが、キリストがまだ地上におられたときに使徒たち自身が持っていた信仰にとどまるものでもありません。使徒たちは、「いっさいを捨ててイエスに従った」ほどにキリストを信じていました(ルカ五・一一)。そのころには奇跡を行う力があり、「あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす」こともできました(マタイ一〇・一)。そうです、「すべての悪霊を制する力と権威」も持っていました(ルカ九・一)。何よりも、主から遣わされて「神の国を宣べ伝え」ました(ルカ九・二)。

(四) では、私たちを救う信仰とは何でしょうか。まず一般的に答えると、それはキリストを信じる信仰です。キリストと、キリストを通して神とが、この信仰の本来の対象です。この点で、昔と今の異教徒の信仰とは十分に、まったく異なります。また、悪魔の信仰とは次の点で完全に異なります。それは単なる思弁や理屈、冷たくいのちのない同意、頭の中の観念の連なりではありません。心のありようでもあります。と申しますのも、聖書がこう言っているからです。「人は心に信じて義とされます」(ローマ一〇・一〇)。「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われます」(ローマ一〇・九)。

(五) この点で、この信仰は、主が地上におられたときに使徒たち自身が持っていた信仰とも異なります。この信仰は、キリストの死が必要であり功績があること、またキリストの復活に力があることを認めます。キリストの死を、人を永遠の死から贖う唯一の十分な手段として認めます。キリストの復活を、私たちみなをいのちと不死に回復させるものとして認めます。キリストは「私たちの罪過のために死に渡され、私たちが義とされるために、よみがえらされた」からです(ローマ四・二五)。ですから、クリスチャンの信仰とは、キリストの福音全体に同意するだけではありません。キリストの血に全き信頼を置くことでもあります。キリストの生涯と死と復活の功績に信頼することです。私たちのために与えられ、私たちのうちに生きておられるキリストに、私たちの償い、私たちのいのちとして寄りかかることです。そしてその結果として、キリストと固く結び合い、キリストにすがりつくことです。キリストを私たちの「知恵、義、聖、あがない」として、ひと言で言えば私たちの救いとして、結び合うことです(第一コリント一・三〇)。

【二】 信仰による救いとは何か

第二に考えるのは、この信仰による救いとは何かということです。

(一) 第一に、ほかに何を含むにせよ、それは現在の救いです。この信仰にあずかる人々が地上で得られるもの、いや実際に得ているものです。使徒は、エペソの信徒たちに、そして彼らを通してあらゆる時代の信徒たちに、こう語っています。「あなたがたは救われるだろう」ではなく(それもまた真実ですが)、「あなたがたは信仰によって救われています」と(エペソ二・八)。

(二) あなたがたは(ひと言でまとめれば)罪から救われています。これが信仰による救いです。これこそ、神が長子を世に送られる前に、御使いが予告した偉大な救いです。「その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからです」(マタイ一・二一)。ここにも聖書のほかの箇所にも、この救いを限る言葉や条件はありません。キリストはご自分のすべての民を、別の箇所の表現では「すべて彼を信じる者」を(ローマ一〇・一一)、すべての罪から救われます。原罪からも自罪からも、過去の罪からも現在の罪からも、「肉と霊との」罪からも救われます(第二コリント七・一)。キリストにある信仰によって、彼らは罪の罪責からも罪の力からも救われます。

(三) 第一に、過去のすべての罪の罪責からの救いです。全世界は神の前に罪ある者です。主が「もろもろの不義に目をとめられるならば、だれも立つことができ」ないほどです(詩篇一三〇・三)。また、「律法によっては、罪の自覚が生じるのみ」で、罪から解放されることはありません。ですから、「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とされ」ません(ローマ三・二〇)。しかし今や、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」が、「すべて信じる人に」現されました(ローマ三・二二)。今や、「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされ」ます(ローマ三・二四)。「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受けるべきあがないの供え物とされました。それは、過去に犯された罪の赦しのために(あるいは、赦しによって)、神の義を示すためでした」(ローマ三・二五)。今や、キリストは「私たちのためにのろいとなって」、私たちを「律法ののろい」から解き放ってくださいました(ガラテヤ三・一三)。キリストは「私たちを責める証書をぬり消し、これを取り除いて、十字架につけて」しまわれました(コロサイ二・一四)。「こういうわけで、今やキリスト・イエスを信じる者は罪に定められることがありません」(ローマ八・一)。

(四) 罪責から救われたので、彼らは恐れからも救われます。もちろん、父の心を損なうまいとする子としての恐れからではありません。あらゆる奴隷的な恐れからです。苦しみを伴う恐れ、罰への恐れ、神の怒りへの恐れからです。彼らはもはや神を厳しい主人とは見なさず、寛大な父として仰ぎます。「彼らは再び奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのです。その霊によって、彼らは『アバ、父よ』と呼びます。御霊みずから、彼らの霊と共に、彼らが神の子であることをあかししてくださいます」(ローマ八・一五〜一六)。また、神の恵みから落ちてしまうことへの恐れからも、偉大で尊い約束からもれてしまうことへの恐れからも、救われています。落ちる可能性がなくなったわけではありません。こうして彼らは、「私たちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得て」います。「神の栄光にあずかる希望をもって喜んで」います。「彼らに賜わっている聖霊によって、神の愛が彼らの心に注がれて」います(ローマ五・一〜二、五)。これによって彼らは確信します(いつもではないかもしれず、いつも同じほど強く確信するのでもありませんが)。「死も生も、現在のものも将来のものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、彼らを引き離すことはできません」(ローマ八・三八〜三九)。

(五) また、この信仰によって、彼らは罪の罪責からだけでなく、罪の力からも救われます。使徒はこう明言しています。「あなたがたが知っているとおり、彼は私たちの罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪もありません。すべて彼のうちにとどまる者は、罪を犯しません」(第一ヨハネ三・五〜六)。また、「子たちよ。だれにも惑わされてはなりません。罪を犯す者は、悪魔から出た者です。信じる者はみな神から生まれたのです。すべて神から生まれた者は、罪を犯しません。神の種が、その人のうちにとどまっているからです。また、その人は、神から生まれた者ですから、罪を犯すことができません」(第一ヨハネ三・七〜九、五・一)。もう一つ挙げます。「すべて神から生まれた者は罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた者は自分を守り、悪しき者はその人に触れません」(第一ヨハネ五・一八)。

(六) 信仰によって神から生まれた者は、次のような罪を犯しません。一、習慣的な罪を犯しません。習慣的な罪とは、罪が支配していることにほかなりません。けれども、信じる者のうちでは、罪は支配できません。二、故意の罪を犯しません。信仰にとどまっているかぎり、その人の意志はあらゆる罪にまったく逆らっています。罪を死の毒として忌み嫌っています。三、罪深い欲望をいだきません。その人は神の聖く完全なみこころを絶えず願っているからです。汚れた欲望に傾くことがあっても、神の恵みによって芽のうちに摘み取ります。四、弱さによって罪を犯すこともありません。行いでも、言葉でも、思いでもそうです。その弱さには本人の意志が伴っていないからです。意志が伴わなければ、厳密には罪ではありません。こうして、「神から生まれた者は罪を犯しません」(第一ヨハネ三・九)。罪を犯したことがないとは言えません。けれども今は、「罪を犯さない」のです(第一ヨハネ五・一八)。

(七) これが、信仰による救いです。この世においてさえ受けられる救いです。それは罪からの救い、また罪の結果からの救いです。この二つは、しばしば「義認」という言葉で言い表されます。義認という言葉は、最も広い意味では二つのことを含みます。一つは、キリストの償いが、いまキリストを信じる罪人の魂に実際に当てはめられ、罪責と罰から解放されることです。もう一つは、キリストが心のうちに形造られ、罪の力から解放されることです。ですから、このように義とされた者、すなわち信仰によって救われた者は、まことに新しく生まれたのです。御霊によって新しいいのちに生まれたのです。そのいのちは「キリストと共に神のうちに隠されて」います(コロサイ三・三)。その人は、生まれたばかりの乳飲み子のように、「混じりけのない」みことばの「乳」を喜んで受け、「それによっておい育ち」ます(第一ペテロ二・二)。自分の神である主の力によって、信仰から信仰へ、恵みから恵みへと進みます。そしてついに、「全き人となり、キリストの満ちみちた徳の高さにまで」至るのです(エペソ四・一三)。

【三】 いくつかの反論への答え

(一) これに対してよく出される第一の反論はこうです。「信仰のみによる救い、すなわち義認を宣べ伝えるのは、聖性と良きわざに反することを宣べ伝えることではないか」。これには短くこう答えられます。「ある人々のように、聖性や良きわざと切り離された信仰を語るなら、そのとおりでしょう。けれども私たちが語っているのは、そういう信仰ではありません。あらゆる良きわざと、あらゆる聖性を生み出す信仰です」。

(二) けれども、もう少し詳しく考えるのも有益でしょう。これは新しい反論ではなく、聖パウロの時代からある古いものだからです。当時すでにこう問われていました。「信仰のゆえに、私たちは律法を無効にするのか」(ローマ三・三一)。私たちはこう答えます。第一に、信仰を宣べ伝えない者こそ、明らかに律法を無効にしています。直接にあからさまに無効にする人は、本文の精神をすっかり食いつぶす限定や注釈を加えます。間接に無効にする人は、律法を守ることのできる唯一の手段を示しません。第二に、私たちは「律法を確立する」のです(ローマ三・三一)。律法の全き広がりと霊的な意味を示すことによって確立します。また、すべての人をあの生ける道へと招き、「律法の要求が」彼らのうちに「満たされる」ようにすることによって確立します(ローマ八・四)。こうした人々は、キリストの血だけに信頼しながら、キリストが定められたすべての定めを用います。「神が、彼らが良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて」くださった良い行いを、すべて行います(エペソ二・一〇)。そして、あらゆる聖く天的な心のありようを、すなわちキリスト・イエスにあったのと同じ思いを、喜び、また現します。

(三) 「しかし、この信仰を宣べ伝えると、人は高ぶりに陥るのではないか」。私たちはこう答えます。教えそのものの性質からではありませんが、そうなることはありえます。ですから、信じる者はみな、偉大な使徒の言葉によって真剣に戒められるべきです。最初の枝は「不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのです。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなこともないでしょう。神の慈愛と峻厳とを見なさい。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられます。そうでないと、あなたも切り取られるでしょう」(ローマ一一・二〇〜二二)。そこにとどまっているかぎり、その人は聖パウロの言葉を覚えているでしょう。パウロはまさにこの反論を予見して、こう答えています。「すると、どこに誇りがあるのでしょうか。まったくありません。なんの法則によってでしょうか。行いの法則によってでしょうか。そうではなく、信仰の法則によってです」(ローマ三・二七)。人が行いによって義とされるなら、その人には誇るものがあるでしょう。けれども、「働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人」には、誇るものがありません(ローマ四・五)。主題の聖句の前後の言葉も、同じ趣旨です。「あわれみに富む神は、罪過によって死んでいた私たちを、キリストと共に生かしてくださいました(あなたがたの救われたのは、恵みによるのです)。それは、キリスト・イエスにあって私たちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を示すためでした。あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのです。それは、あなたがた自身から出たものではありません」(エペソ二・四〜八)。あなたがたの信仰も救いも、あなたがた自身から出たものではありません。「神の賜物です」。価なしの、受けるに値しない賜物です。あなたがたを救う信仰も、神がご自分の善意と純粋な好意によってそれに結びつけてくださる救いも、賜物です。あなたがたが信じることが、神の恵みの一つの表れです。信じることによって救われていることが、もう一つの表れです。「決して行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エペソ二・九)。信じる前の私たちのわざや義は、すべて、神から罪の宣告しか受けるに値しないものでした。信仰を受けるに値するどころではなかったのです。ですから信仰は、いつ与えられても、行いによるのではありません。信じてから行うわざによる救いでもありません。そのときには、神が私たちのうちで働いておられるからです。ですから、神がご自分の働きに報いを与えてくださっても、それは神のあわれみの豊かさを表すだけです。私たちには誇るものを何も残しません。

(四) 「しかし、信仰のみによって価なしに救う、あるいは義とする神のあわれみをこのように語ると、人を罪にとどまらせることにならないか」。確かに、そうなりえますし、実際にそうなるでしょう。多くの人が「恵みが増し加わるために、罪にとどまる」でしょう(ローマ六・一)。けれども、その人たちの血は自分の頭に降りかかります。神の慈愛は人を悔い改めに導くはずのものです。心の誠実な人は、実際にそう導かれます。神のもとにまだ赦しがあると知れば、イエスにある信仰によって自分の罪もぬぐい去ってくださいと、大声で叫び求めます。人々がたゆまず熱心に叫び求め、神が定められたあらゆる手段で神を求め、神が来てくださるまで慰めを拒むとします。そのとき、「きたるべきかたがお見えになります。遅くなることはありません」(ヘブル一〇・三七)。また、神は短い時間に多くの働きをなさいます。使徒行伝には、神が人々の心にこの信仰を、天から落ちる稲妻のように起こされた例がたくさんあります。パウロとシラスが語り始めたその時刻のうちに、看守は悔い改め、信じ、バプテスマを受けました。ペンテコステの日には、聖ペテロの最初の説教で三千人が悔い改めて信じ、バプテスマを受けました。神はほむべきかな。神がいまも「救いを施す力ある」方であることの生きた証人が、今日も大勢います(イザヤ六三・一)。

(五) ところが、同じ真理を別の面から見て、正反対の反論が出されます。「人が自分にできるすべてのことをしても救われないなら、人は絶望に追いやられるではないか」。そのとおりです。自分のわざや功徳や義によって救われることに絶望させます。そして、そうあるべきなのです。自分の功徳をすっかり捨てるまで、だれもキリストの功徳に信頼できないからです。「自分の義を立てようと努め」る者は、神の義を受けられません(ローマ一〇・三)。律法による義に頼っているかぎり、信仰による義は与えられません。

(六) 「けれども、これは慰めのない教えだ」と言われます。悪魔がそんなことを人に吹き込んだのは、いかにも悪魔らしいことです。真実もなく、恥も知らないのです。これこそ唯一の慰めとなる教えです。自らを滅ぼし、自らを罪に定めたすべての罪人にとって、「慰めに満ちて」います。「すべて彼を信じる者は、失望に終わることがありません。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んでくださる」のです(ローマ一〇・一一〜一二)。ここに、天ほど高く、死よりも強い慰めがあります! なんということでしょう! すべての人にあわれみがあるのでしょうか。人のものを公然と奪っていたザアカイにもでしょうか。娼婦だったマグダラのマリヤにもでしょうか。だれかがこう言うのが聞こえるようです。「では私も、こんな私でも、あわれみを望んでよいのですね!」 そうです、望んでよいのです。だれにも慰められたことのない、悩める人よ! 神はあなたの祈りを退けられません。それどころか、もしかすると一時間もしないうちに、神はこう言われるかもしれません。「しっかりしなさい。あなたの罪は赦されました」(マタイ九・二)。罪はもう二度とあなたを支配しないほどに、赦されるのです。そうです、「聖霊があなたの霊と共に、あなたが神の子であることをあかしして」くださいます(ローマ八・一六)。ああ、喜ばしい知らせです! 「すべての民に与えられる大きな喜び」の知らせです(ルカ二・一〇)。「さあ、かわいている者はみな水に来なさい。来て、金を出さずに、ただで買い求めなさい」(イザヤ五五・一)。あなたの罪が何であっても、「紅のように赤くても」(イザヤ一・一八)、髪の毛より多くても、「主に帰りなさい。そうすれば、主はあなたにあわれみを施されます。私たちの神に帰りなさい。主は豊かに赦しを与えられます」(イザヤ五五・七)。

(七) 反論が出尽くすと、今度はただこう言われます。「信仰のみによる救いを、最初の教えとして宣べ伝えてはならない。少なくとも、すべての人に宣べ伝えるべきではない」。けれども、聖霊は何と言われるでしょうか。「すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできません。この土台はイエス・キリストです」(第一コリント三・一一)。ですから、「彼を信じる者はみな救われる」ということが、私たちのすべての説教の土台です。そうでなければなりません。つまり、最初に宣べ伝えなければなりません。「それはそうだが、すべての人にではない」。では、だれには宣べ伝えてはならないのでしょうか。だれを除外すべきでしょうか。貧しい人でしょうか。いいえ。貧しい人こそ、福音を宣べ伝えられる特別な権利を持っています。学問のない人でしょうか。いいえ。神ははじめから、これらのことを学問のない、無学な人々に現してこられました。若い人でしょうか。決してそうではありません。何としても、「彼らがキリストのもとに来るままにしておきなさい。止めてはなりません」(マルコ一〇・一四)。罪人でしょうか。とんでもありません。「キリストが来られたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです」(ルカ五・三二)。除外するなら、むしろ金持ち、学のある人、評判のよい人、品行方正な人でしょう。確かに、そういう人たちは自分から聞くのを避けることがあまりにも多いのです。それでも私たちは、主の言葉を語らなければなりません。私たちが受けた命令の趣旨は、こうだからです。「出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ一六・一五)。だれかがその全部または一部をねじ曲げて自らの滅びを招くなら、その人は自分の重荷を負わなければなりません。それでもなお、「主は生きておられます。主が私たちに言われることを、私たちは語ります」(第一列王二二・一四)。

(八) とりわけ今この時に、私たちは「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われています」と語ります(エペソ二・八)。今日ほど、この教えを守ることが時宜にかなっているときはないからです。私たちの間でローマ・カトリックの惑わしが広がるのを効果的に防げるのは、この教えだけです。あの教会の誤りを一つずつ攻撃していては、きりがありません。けれども、信仰による救いは根元を打ちます。この教えが確立されるところでは、すべての誤りが一度に倒れます。私たちの教会が正しくも「キリスト教の堅固な岩であり土台」と呼ぶこの教えこそ、最初に教皇主義をこの国々から追い出しました。締め出しておけるのも、この教えだけです。この教えだけが、「洪水のように国中にあふれた」不道徳をせき止められます。大海を一滴ずつ汲み干せるでしょうか。それができるなら、悪徳を一つずつ戒めて、私たちを改めることもできるでしょう。しかし、「信仰に基づく神からの義」がもたらされるなら(ピリピ三・九)、その高ぶる波はとどめられます。「その恥を栄光とし」(ピリピ三・一九)、「自分たちをあがなってくださった主を」公然と「否定する」者たち(第二ペテロ二・一)の口をふさげるのは、この教えだけです。彼らは、神によって心に律法を書き記された人のように、律法について崇高に語ることができます。この点について彼らが話すのを聞くと、彼らは神の国から遠くないと思えるほどです。けれども、彼らを律法から福音へと連れ出してごらんなさい。信仰による義から始めてごらんなさい。キリストは「すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられた」方です(ローマ一〇・四)。そう語り始めると、ついさっきまで、あと一歩のクリスチャン、いや、まったくのクリスチャンにさえ見えた人々が、滅びの子であることを露呈します。彼らは、地獄の深みが天の高みから遠いのと同じほど、いのちと救いから遠いのです。神が彼らをあわれんでくださいますように!

(九) ですから、「信仰による救い」が世に宣べ伝えられるたびに、敵はあれほど荒れ狂うのです。だからこそ敵は地と地獄を揺り動かし、最初にそれを宣べ伝えた人々を滅ぼそうとしたのです。同じ理由で、敵は勢力を総動員しました。信仰だけが自分の王国の土台を覆すと知っていたからです。そして嘘と中傷のかぎりを尽くし、マルティン・ルターを脅して、この教えの復興を妨げようとしました。それも不思議ではありません。あの神の人がこう言っているとおりです。「強さを誇る武装した男が、一本の葦を手にして向かってくる小さな子供に行く手を阻まれ、ものともされなかったとしたら、どれほど怒り狂うことでしょう!」 その子供が必ず自分を倒して足の下に踏みつけると知っていたなら、なおさらです。まことに、主イエスよ! あなたの力は、いつもこのように「弱いところに完全にあらわれ」てきました(第二コリント一二・九)。ですから、キリストを信じる小さな子供よ、進み出なさい。キリストの「右の手は、あなたに恐るべきわざを教える」でしょう(詩篇四五・四)。あなたが生まれて間もない幼子のように無力で弱くても、あの強い男はあなたの前に立つことができません。あなたは彼に打ち勝ち、彼を従わせ、打ち倒し、足の下に踏みつけます。あなたは「救いの君」である偉大な方のもとで進みます(ヘブル二・一〇)。「勝利の上にもなお勝利を得ようとして」(黙示録六・二)、すべての敵が滅ぼされ、「死は勝利にのまれ」るまで進み続けます(第一コリント一五・五四)。

私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を賜わる神に、感謝します(第一コリント一五・五七)。父と聖霊と共にこのキリストに、賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いとが、世々限りなくありますように。アーメン。