(二十四)小信の話
こうして二人は進んで行き、〈無知〉はそのあとからついて来た。さて、二人が無知を少し引き離したころ、とても暗い小道に入った。そこで二人は、一人の男に出会った。七人の悪鬼が七本の丈夫な縄でその男を縛り、二人が丘の中腹で見たあの戸のところへ連れ戻そうとしていた(マタイ一二・四五、箴言五・二二)。善良なクリスチャンは震えだした。連れの〈希望〉も同じだった。それでも、悪鬼たちがその男を引いて行くとき、クリスチャンは、知っている男かどうか見てみた。〈背教の町〉に住んでいた〈離反〉という者かもしれない、と彼は思った。けれども、顔ははっきり見えなかった。男は、捕まった盗人のようにうなだれていたからである。男が通り過ぎてから、希望がその後ろ姿を見送った。すると、背中に一枚の紙が貼ってあるのが見えた。そこには『放縦な信仰告白者、滅びに定められた背教者』と書いてあった。
するとクリスチャンは連れに言った。
「今、思い出しました。このあたりで、ある善良な人に起きたことを聞いたのです。その人の名は〈小信〉といいました。けれども善良な人で、〈真心の町〉に住んでいました。こういうことです。この通り道の入り口に、〈広い道の門〉から下ってくる小道があります。〈死人小路〉と呼ばれています。そこではよく人殺しがあるので、そう呼ばれているのです。この小信は、今の私たちと同じように巡礼の旅をしていて、たまたまそこに座って眠り込んでしまいました。ちょうどそのとき、広い道の門から、たくましい三人のならず者がその小道を下って来ました。名前は〈弱気〉、〈不信〉、〈罪責〉といい、三人兄弟でした。彼らは小信を見つけると、大急ぎで駆け寄って来ました。善良な小信は、ちょうど目を覚まして、旅を続けようと起き上がるところでした。三人はそろって彼のところへ来て、脅し文句を並べて、止まれと命じました。これを聞いて、小信の顔は紙のように真っ白になりました。戦う力も、逃げる力もありませんでした。すると弱気が言いました。『財布を出せ』。けれども、小信はすぐには出そうとしませんでした。お金を失いたくなかったからです。すると不信が駆け寄り、小信のポケットに手を突っ込んで、銀貨の入った袋を引っぱり出しました。小信は『泥棒だ、泥棒だ!』と叫びました。そのとたん、罪責が手に持っていた大きなこん棒で、小信の頭を殴りました。その一撃で、小信は地面にばったり倒れました。そして、そのまま血を流して倒れ、今にも出血で死にそうでした。そのあいだ、盗賊たちはそばに立っていました。けれども、とうとう、道を誰かがやって来る音を聞きつけました。それが〈確信の町〉に住む〈大恵み〉という者ではないかと恐れて、三人は一目散に逃げ出しました。そして、この善良な人を置き去りにしたのです。しばらくして、小信は正気づきました。そして起き上がり、どうにかこうにか道を進んで行きました。これがその話です」
希望「でも、盗賊たちは、彼の持ち物を一つ残らず奪ったのですか」
クリスチャン「いいえ。宝石をしまってある場所は、まったく探られませんでした。ですから、宝石はそのまま持っていました。けれども、聞いたところでは、善良な小信は、失ったもののことでひどく苦しみました。盗賊たちが、彼の路銀のほとんどを奪ってしまったからです。先ほど言ったように、奪われなかったのは宝石でした。ほかに小銭も少し残っていましたが、旅の終わりまで持ちそうにはありませんでした(第一ペテロ四・一八)。それどころか、私の聞いたことが間違っていなければ、彼は生きるために、物乞いをしながら進まなければなりませんでした。宝石は売ってはならないものだったからです。けれども、物乞いをし、できることは何でもしても、よく言うように、残りの道のりのほとんどを、すきっ腹を抱えて歩いたのです」
希望「でも、天の門で入れてもらうための証書を奪われなかったのは、不思議ではありませんか」
クリスチャン「不思議です。けれども、それを奪われなかったのは、彼がうまく立ち回ったからではありません。彼は襲われてうろたえ、何かを隠す力も知恵もありませんでした。ですから、盗賊たちがその尊いものを見逃したのは、彼の努力というより、神の恵み深い摂理によるものだったのです」
希望「でも、宝石を奪われなかったのは、彼にとって慰めだったに違いありません」
クリスチャン「それをしかるべく用いていれば、大きな慰めになったかもしれません。けれども、私にこの話をしてくれた人たちによれば、彼は残りの道のりのあいだ、それをほとんど用いなかったそうです。お金を奪われて、うろたえていたからです。実際、残りの旅の大部分は、それを忘れていました。そのうえ、それを思い出して慰められ始めると、いつも、失ったものについての新たな思いがまた押し寄せてきました。そして、その思いがすべてを飲み込んでしまったのです(第一ペテロ一・九)」
希望「ああ、かわいそうな人です。それは大きな悲しみだったに違いありません」
クリスチャン「悲しみですか。ええ、まさに悲しみです! 彼のような目にあったら、私たちの誰にとってもそうだったのではありませんか。見知らぬ土地で強盗にあい、そのうえ傷まで負わされたのですから。かわいそうに、悲しみのあまり死ななかったのが不思議なくらいです。聞いたところでは、彼は残りの道のりのほとんどを、悲しげで苦々しい嘆きばかりをまき散らしながら歩いたそうです。追いついてきた人にも、道で追いついた人にも、誰にでも話して聞かせました。どこで、どんなふうに強盗にあったのか。誰がやったのか。何を失ったのか。どんなふうに傷を負い、かろうじて死を免れたのか」
希望「でも、困り果てて、宝石のいくつかを売るか質に入れるかして、旅の助けにしようとしなかったのは不思議です」
クリスチャン「あなたは、今になってもまだ頭に卵の殻をつけている者のような話し方をしますね。何のために、それを質に入れなければならないのですか。また、誰に売れるというのですか。彼が強盗にあったあの地方一帯では、彼の宝石は何の値打ちもないとされていました。また、彼はその地方から与えられるような助けを求めてはいませんでした。それに、天の都の門で宝石がなくなっていたら、彼はそこで受け継ぐはずのものから締め出されていたでしょう。彼はそのことをよく知っていました。それは彼にとって、一万人の盗賊が現れて悪事を働くことよりも悪いことだったでしょう」
希望「兄弟よ、どうしてそんなに手きびしいのですか。エサウは長子の権利を売りました。それも一杯の食のためにです。その長子の権利は、エサウのいちばん大事な宝石でした。エサウがそうしたのなら、なぜ小信も同じようにしてはいけないのですか(ヘブル一二・一六)」
クリスチャン「たしかにエサウは長子の権利を売りました。ほかにも、そうする人は大勢います。そして、そうすることで、あの卑しい男と同じく、最大の祝福から自分を締め出してしまうのです。けれども、エサウと小信とは区別しなければなりません。二人の置かれた状態も区別しなければなりません。エサウの長子の権利は、型にすぎませんでした。けれども、小信の宝石はそうではありませんでした。エサウは自分の腹を神としていました。けれども、小信はそうではありませんでした。エサウの飢えは、肉の欲にありました。小信の飢えはそうではありませんでした。そのうえ、エサウには、自分の欲を満たすことより先は見えませんでした。『わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう』と彼は言ったのです(創世記二五・三二)。けれども小信は、わずかな信仰しか持たない定めではありましたが、そのわずかな信仰によって、そんな無茶なことをせずにすみました。そして、エサウが長子の権利を売ったように宝石を売るのではなく、宝石の値打ちを見て、大切にすることができたのです。エサウに信仰があったとは、どこにも書いてありません。わずかな信仰さえなかったのです。信仰がなくて肉に逆らうものがない人のうちでは、肉だけが支配します。そういうところでは、その人が長子の権利も、魂も、何もかも、それも地獄の悪魔に売り渡したとしても、不思議ではありません。そういう人は、雌ろばと同じです。その欲情を、だれもとどめることができません(エレミヤ二・二四)。彼らは欲に心を向けると、どれほど高くついても、それを手に入れずにはいません。けれども、小信は違う気質の人でした。彼の心は神のことに向いていました。彼の暮らしの糧は、霊的なもの、上から来るものでした。ですから、そういう気質の人が、むなしいもので心を満たすために、宝石を売るでしょうか。たとえ買う人がいたとしても、何のために売るのでしょうか。わらで腹を満たすために、一文でも払う人がいるでしょうか。山鳩を説き伏せて、からすのように死肉を食べて生きさせることができるでしょうか。信仰のない者は、肉の欲のために、持っているものを質に入れたり、抵当に入れたり、売ったりします。そのうえ、自分自身まで丸ごと売り渡してしまいます。けれども、信仰を、救いの信仰を持っている人は、たとえそれがわずかでも、そんなことはできません。ですから、兄弟よ、ここがあなたの思い違いなのです」
希望「認めます。けれども、あなたのきついお言葉には、もう少しで腹を立てるところでした」
クリスチャン「いや、私はただ、あなたを元気のいい種類の鳥のひなにたとえただけです。頭に殻をつけたまま、人の通らない道をあちこち走り回るひなです。けれども、そのことはおいて、いま論じている事柄をよく考えましょう。そうすれば、あなたと私のあいだは万事うまくいきます」
希望「でも、クリスチャンさん、その三人の男は、ただの臆病者の集まりにすぎないと私は心から思います。そうでなければ、道をやって来る人の物音を聞いただけで、あんなふうに逃げ出したでしょうか。どうして小信は、もっと大きな勇気を奮い起こさなかったのでしょうか。せめて一度はやり合ってみて、どうにもならなくなってから降参してもよかったと思うのです」
クリスチャン「彼らが臆病者だと言った人は大勢います。けれども、試練のときに本当にそうだとわかった人はわずかです。大きな勇気など、小信にはまったくありませんでした。兄弟よ、あなたの話からすると、もしあなたがその当人だったら、一度やり合って、それから降参するだけのことでしょう。実際、彼らが遠く離れている今でさえ、あなたの意気込みはその程度なのです。もし彼らが小信の前に現れたように、あなたの前に現れたら、あなたも考え直すことになるかもしれません」
「それから、もう一度考えてください。彼らは雇われの盗賊にすぎません。彼らは底知れぬ所の王に仕えています。その王は、必要とあれば自ら助けに来ます。その声は、ほえたける獅子のようです(第一ペテロ五・八)。私自身も、この小信と同じように襲われたことがあります。それは恐ろしいことでした。この三人の悪党が私に襲いかかってきました。私がクリスチャンらしく抵抗し始めると、彼らがひと声呼んだだけで、彼らの主人が乗り込んできたのです。ことわざにあるように、私のいのちは一文の値打ちもないところでした。けれども、神のおぼしめしで、私は確かな鎧を身に着けていました。そうです。それでも、そんなに身を固めていても、男らしくふるまうのはつらい仕事でした。その戦いで何が私たちを待ち受けているかは、自分で戦場に出たことのある人にしかわかりません」
希望「なるほど。でも彼らは、大恵みが道にいると思っただけで逃げ出したではありませんか」
クリスチャン「そのとおりです。彼らも彼らの主人も、大恵みが姿を見せただけで、たびたび逃げ出しました。それも不思議ではありません。大恵みは王の勇士なのですから。けれども、小信と王の勇士とは別だと、あなたも認めるでしょう。王の民がみな王の勇士だというわけではありません。また、試されたときに、勇士のような武勇を示せるわけでもありません。小さな子供が、ダビデのようにゴリアテを扱えると考えるのは正しいでしょうか。みそさざいに牛の力があると考えるのはどうでしょうか。強い人もいれば、弱い人もいます。大きな信仰を持つ人もいれば、小さな信仰しか持たない人もいます。この人は弱い人の一人でした。それで、追い詰められて負けたのです」
希望「来たのが本当に大恵みだったら、あの連中も思い知ったでしょうに」
クリスチャン「もし大恵みだったとしても、手を焼いたかもしれません。言っておかなければなりませんが、大恵みは武器を扱うのがすばらしく上手です。相手を剣の切っ先より内に寄せつけずにいるかぎり、彼らを相手に十分うまく戦えますし、これまでもそうしてきました。けれども、もし懐に入り込まれたら、相手が弱気や不信や、もう一人の者であっても、まず間違いなく足をすくわれて倒されてしまいます。そして、ご存じのとおり、人は倒されてしまったら何ができるでしょうか」
「大恵みの顔をよく見る人は、そこに傷あとや切り傷があるのに気づくでしょう。それを見れば、私の言うことがすぐにわかります。そればかりか、大恵みが戦いのさなかに『わたしたちは生きる望みをさえ失ってしまった』と言ったと聞いたこともあります。このたくましいならず者どもとその仲間は、ダビデをどれほどうめかせ、嘆かせ、叫ばせたことでしょう! ヘマンもヒゼキヤも、その時代には勇士でしたが、彼らに襲われると、懸命に奮い立たなければなりませんでした。それでも、彼らにさんざんに打ちのめされたのです。ペテロも、あるとき、自分に何ができるか試してみようとしました。彼を使徒の長と言う人もいます。けれども、ならず者どもは彼を手玉に取り、とうとう、つまらない女中を恐れるようにさせてしまったのです」
「そのうえ、彼らの王は、口笛ひとつで駆けつけます。呼べば聞こえるところに必ずいます。そして、彼らが劣勢になると、できることなら王自ら助けに来ます。この王について、こう言われています。『つるぎがこれを撃っても、きかない、やりも、矢も、もりも用をなさない。これは鉄を見ること、わらのように、青銅を見ること朽ち木のようである。弓矢もこれを逃がすことができない。石投げの石もこれには、わらくずとなる。こん棒もわらくずのようにみなされ、投げやりの響きを、これはあざ笑う』(ヨブ四一・二六〜二九)。こういうとき、人に何ができるでしょうか。たしかに、いつでもヨブの馬を手に入れることができ、それを乗りこなす腕と勇気があれば、目ざましいことができるかもしれません。『その首は力で装われている。これはいなごのようにおびえて跳ねることがない。その鼻あらしの威力は恐ろしい。これは谷であがき、その力に誇り、みずから出ていって武器に向かう。これは恐れをあざ笑って、驚くことなく、つるぎをさけて退くことがない。矢筒はその上に鳴り、やりと投げやりと、あいきらめく。これはたけりつ、狂いつ、地をひとのみにし、ラッパの音が鳴り渡っても、立ちどまることがない。これはラッパの鳴るごとにハアハアと言い、遠くから戦いをかぎつけ、隊長の大声およびときの声を聞き知る』(ヨブ三九・一九〜二五)」
「けれども、あなたや私のような歩兵は、決して敵に出会いたいなどと願わないようにしましょう。ほかの人が打ち負かされたと聞いても、自分ならもっとうまくやれるかのように誇らないようにしましょう。自分の男らしさを思って、いい気になるのもやめましょう。そういう者は、試されると、たいてい最悪の目にあうからです。先ほど話したペテロがその証人です。彼は大口をたたきました。そうです、たたいたのです。むなしい心にそそのかされるまま、ほかの誰よりもうまくやり、主のためにしっかり立つと言いました。けれども、あの悪党どもにあれほど打ち負かされ、追い詰められた者がほかにいたでしょうか」
「ですから、王の大路でこのような強盗があったと聞いたら、私たちのするべきことが二つあります」
「第一に、武具を身に着けて出かけ、必ず盾を持って行くことです。レビヤタンにあれほど激しく打ちかかった者がレビヤタンを屈服させられなかったのは、盾がなかったからです。実際、盾がなければ、あの者は私たちを少しも恐れません。ですから、心得のある人がこう言っています。『その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう』(エペソ六・一六)」
「第二に、王に護衛を願い求めるのもよいことです。いや、王ご自身がいっしょに行ってくださるように願うのです。王がともにいてくださったので、ダビデは死の陰の谷にいたときも喜ぶことができました。モーセは、神なしに一歩でも進むより、その場で死ぬほうを選ぼうとしました(出エジプト三三・一五)」
「ああ、兄弟よ、王がいっしょに行ってくださりさえすれば、私たちを囲んで立ち構えるちよろずの民を、どうして恐れる必要があるでしょうか(詩篇三・五〜八、二七・一〜三)。けれども、王がいなければ、高ぶる助け手たちも、殺された者の中に伏し倒れるのです(イザヤ一〇・四)」
「私はと言えば、これまでにも戦いを経験してきました。それでも、最も善いお方のいつくしみによって、ご覧のとおり生きています。けれども、自分の男らしさを誇ることなど何もできません。もうこんな攻撃に出会わずにすめば、うれしいのですが。とはいえ、私たちはまだすべての危険を越えたわけではないと思います。それでも、獅子も熊もまだ私を食い尽くしてはいません。ですから、次の割礼なきペリシテびとからも、神は私たちを救い出してくださると望んでいます」
それからクリスチャンは歌った。
「かわいそうな小信よ! 盗賊どもの手にかかったのか奪われたのか。これを覚えよ。信じてさらに信仰を得る者は、そのとき勝利する一万人を相手にしても。さもなくば三人にも勝てまい」