ジョン・バニヤン『天路歴程』

(十二) 死の陰の谷

さて、〈へりくだりの谷〉の終わりにさしかかると、また別の谷があった。そこは〈死の陰の谷〉と呼ばれていた。避けることはできなかった。天の都への道が通っていたからである。この谷は非常に孤独な場所だった。預言者エレミヤが言うように「荒れ果てた、穴だらけの砂漠の地、日照りの地、死の陰の地、人のいない地、誰も住まない地」(エレミヤ2:6)をクリスチャンは通った。これからの成り行きをご覧になればわかるように、この場所でクリスチャンはアポリュオンとの戦いよりも激しい悪戦苦闘を強いられたのだった。

私が夢の中で見ていると、クリスチャンが死の陰の谷の入り口にさしかかったとき、二人の男が急いで引き返してきた。二人は、約束の地で悪しき報告を持ち帰った者たちの子らであった(民数記13:32)。クリスチャンは親しく話しかけた。

クリスチャン「お二人はどこに行かれるのですか」

二人「引き返そう、引き返そう。あなたも戻ったほうがいい。いのちと平安が惜しければ」

クリスチャン「どうなさったのですか」

二人「どうもこうもありません! 我々はあなたが向かっている先に行ってきました。勇気の続く限り進みました。もう少しで通過できそうでしたが、引き返しました。もっと先に行っていたら、ここにあなたに知らせを持って帰れなかったでしょう」

クリスチャン「いったい何があったのですか」

二人「死の陰の谷に入りました。前方を見渡すと、目の前には恐ろしい危険がありました」(詩篇44:19、詩篇107:19)

クリスチャン「何を見たのですか」

二人「見ましたとも! 谷は下るにつれて暗くなりました。地獄の妖精やサテュラスや竜もいました。また、鉄かせをはめられて捕らえられている人々が、筆舌に尽くしがたい苦しみにあって、悲痛な叫び声をあげているのが聞こえました。谷の上には混沌の雲がかかっていて、勇気をくじきます。死もまた谷の上に常に翼を広げています。あらゆる点で最悪で、まったくの無秩序だということです」(ヨブ3:5、10:22)

クリスチャン「おっしゃることがまだ飲み込めません。ここは望みの天に至る道のはずですが」(詩篇44:18、19エレミヤ2:6)

二人「あなたはお行きになればよろしい。我々はここを通りません」

そこで別れ、クリスチャンは道を進んだ。手には剣をにぎりしめたままだった。攻撃を受けるのではないかと恐れていたのだ。

私が夢の中で見ていると、この谷のずっと先まで、道の右側に深い溝が続いていた。昔から盲人が盲人を導いてはその溝に落ち、双方とも無惨に滅ぼされるのだった。また、見よ、左側には危険なぬかるみがあり、善人でさえそこに落ちると、足場を失い、立っていられなくなるのだった。かつてはダビデ王がそのぬかるみに落ち、頭までつかって抜けられなくなった。そして、神だけが彼を引き抜くことがおできになったのだった。(詩篇69:14)

中央の道はあまりにも狭かったため、善良なクリスチャンはますます慎重に歩いた。暗闇の中、溝を避けようとするともう片側のぬかるみにはまりそうになるし、ぬかるみを避けようとするとよほど注意しなければ溝に落ちそうになるのだった。それでも進んだが、彼はやがて悲痛なため息をついた。というのも、先の危険に加えて、通り道は非常に暗く、自分がどこにいるかもわからず、彼が前に進もうと足を上げても、どこに下ろせばよいかわからない始末だったからである。

谷の中ごろで、私は地獄の口を見た。道のすぐそばに恐ろしい口を開けていた。クリスチャンはたじろいだ。ときどき、炎と煙がバチバチとおぞましい音を立てて吹き出していた。(アポリュオンがおじ恐れたクリスチャンの剣に対してさえ、まるで意に介さぬようだった。)やむをえずクリスチャンは剣をしまい、別の武器を取り出した。〈すべての祈り〉である(エペソ6:18)。私は彼が大声で祈るのを聞いた。「ああ、主よ、お願いです。私の魂を救ってください」(詩篇116:4)。それからクリスチャンは先に進んだ。炎が伸びてきて今にも届きそうだった。また、おぞましい声が聞こえた。クリスチャンの周りをぐるぐると回っていて、今にも襲いかかってこの身を引き裂くのではないか、あるいは道端の泥のように踏みつけられるのではないかと感じさせた。この身震いするような光景とおぞましい大合唱が何マイルも続いた。しばらくして、ある場所に着くと、後方から友人たちが近づいて来ているような音が聞こえた気がした。友人が会いに来てくれたのだろうかと思い、彼は立ち止まった。どうすべきかと思いあぐねた。引き返そうかと思わないでもなかった。けれども、谷の半分は越えたかもしれない。彼は思い直した。多くの危険をすでに乗り越えてきたじゃないか。引き返すのは前に進むよりもずっと危険かもしれない。先に進もうと決心した。だが、友人がだんだん近づいているようだ。友人たちが今にも追いつきそうになったとき、彼は毅然と大声で、「私は主なる神の御力の中に歩む」と言った。すると、友人たちは引き返していった。もう追って来ることはなかった。

ひとつ、書き忘れてはならないことがある。このあわれなクリスチャンは狼狽しきっていたため、自分の声さえもわからない様子だった。燃えさかる穴の口のそばを通り過ぎようとしているまさにその時、汚れた霊がクリスチャンの後ろに忍び寄ってきた。それが、神を冒涜する汚らわしい言葉をクリスチャンの耳元でささやいた。クリスチャンは自分の思考の声だと思った。この誘惑は、クリスチャンがこれまで出会った他に何にもまして強力だった。そうこうするうちに、ついに自分は神を冒涜するべきだと考え出した。今まで深く愛していたお方を。自制する力があればそんなことは決してしなかったであろうが、今や彼は自分の耳を塞ぐとか、この冒瀆の言葉がどこから来ているのか聞き分けるとか、そういう分別も失っていた。

かなりの時間をクリスチャンはこの不本意な状態で過ごした。やがて前方でひとりの男の声を聞いた気がした。「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。」(詩篇23:4)クリスチャンは喜んだ。その理由は次のとおりである。

第一に、その声を聞いて、自分と同じように神を恐れる者がこの谷にいると知ったからである。

第二に、陰鬱な暗闇の中にあっても、神が彼らと共にいてくださると知ったからである。それなら、神は私とも共にいてくださるに違いない、とクリスチャンは思った。この場所の見通しが悪いせいで、私にはそれが見えないだけで。(ヨブ9:11)

第三に、(彼らに追いつけるなら)一緒に旅路を行けるという希望を得たからである。

こういうわけで、クリスチャンは先を急ぎ、前方にいる人に呼びかけた。だが、その人もどう答えたものかわからなかった。その人自身も孤立無援の旅をしていると思っていたからである。だんだんと日が沈んできた。クリスチャンはこう言った。「主が『暗黒を朝に変じ』てくださった(アモス5:8)」

朝になった。クリスチャンはなんとはなしに後ろを振り返った。引き返したいと思ったわけではない。だが見ると、太陽の光に照らされて、暗闇の中でわからなかったが、来た道がいかに危険だったかを思い知った。片側にある深い溝、その反対側のぬかるみ、それらにはさまれた狭い道がはっきり見えた。地獄の妖精、サテュラス、竜もはるか遠くに見えた。「(主が)暗やみの中から隠れた事どもをあらわし、暗やみを光に引き出し」(ヨブ12:22)たと書いてあるとおり、それらの光景ははっきり見えるところとなった。

クリスチャンはこの孤独で危険な道を歩みぬいた解放感で胸をなでおろした。道中では非常に恐ろしかった数々の危険が、太陽の光にさらされてはっきりと見えるようになっていた。しかも、太陽が照っていることはまた別の意味でも恵みであった。クリスチャンが今立っている場所から谷の終端まで道沿いに、落とし穴や罠や捕獲網がそこら中にあり、溝やくぼみや深い穴や落ち込む段差がそこかしこにあった。もしも来た道のように暗闇の中を歩かなければならないとしたら、命がいくつあっても足りなかったにちがいない。だが、今は太陽が出ているのだ。クリスチャンはこう口にした。「彼のともしびがわたしの頭の上に輝き、彼の光によってわたしは暗やみを歩んだ。」(ヨブ29:3)

この光の中でクリスチャンはついに谷の終端に着いた。私が夢の中で見ていると、そこには血だまり、骨、灰、死体が散見された。以前にここを通った巡礼者たちのものだった。私はどうしてなのかとしばらく考えたが、すぐ近くに洞窟があるのを見つけた。そこに二人の巨人〈教皇〉と〈多神教徒〉がいにしえから住んでいたのだった。谷に散らばっている骨、血、灰などは、巨人たちの圧倒的な力によって無惨に殺された人々のものだった。けれども、その場所もクリスチャンは難なく通過した。私はいぶかしく思ったが、しかし後になってわかった。〈多神教徒〉はもうずいぶん前に死んでいた。〈教皇〉はかろうじて生きていたが、年老いているため、また若い頃に鋭い筆で何度も攻撃されたため、頭はもうろうとし関節は硬直して、洞窟の入り口で座っているのがやっとであった。巡礼者たちが通りかかるのを眺めては、もう襲撃する力がないため、悔しそうに爪を噛んでいるだけだった。私は、クリスチャンが先に進むのを見ていた。洞窟の入り口に座っている老人は、何を考えているのかわからなかったが、クリスチャンを追うでもなくただ話しかけてきた。「お前は、自分の体が焼きつくされるまでは、救われることはない」。しかし、クリスチャンは自分の平和を保ち、毅然とした表情でいた。すぐ近くを通り過ぎたが、何も害を受けなかった。それから、クリスチャンは歌った。

世にもふしぎなことよ、と
言うより他にありません
ここで降りかかった苦しみと
悩みの中で生かしてくださり
私を救ってくださった
御手の大いなる祝福よ
闇と悪魔と地獄と罪
危険のおしよせる谷を歩み
穴と溝と罠と網
道行く私はひとりでは
罠にはまり、足がもつれ、倒れても
おかしくないほど愚かだった
だが、私は生きている
イエスに栄光の王冠あれ