(十一) へりくだりの谷とアポリュオン
それから、クリスチャンは先に進み始めた。〈分別〉、〈思慮〉、〈敬虔〉、〈慈愛〉の四人が丘のふもとまで同伴した。一行は丘を下りながら、前と同じように繰り返し話した。クリスチャンはこわごわと言った。「登るときも大変でしたが、こうして見ると、下りも危険ですね」。「そうです」と分別。「ふもとの〈へりくだりの谷〉に着くまではご覧のとおり大変です。すべらないようにお気をつけください。私たちはふもとまでご一緒しますから」。彼は用心しながら下ったが、それでも一度か二度はすべってころんだ。
私が夢の中で見てると、一行は丘にふもとに着いた。この良き同伴者たちは、パンとワインと干しぶどうをクリスチャンに手渡した。ここでクリスチャンとお別れした。
きよらかな友人たちといる間
その黄金の口により
クリスチャンは休みを得た。
あらゆる嘆き悲しみが
その交わりで癒やされた。
旅の続きに出るときに
鋼の武具をいただいた。
頭のてっぺんからつまさきまで。
だが、へりくだりの谷を歩いていると、あわれなクリスチャンは困難に出会った。少し進んだところで、道の向こうからひどい悪臭をはなつ悪魔が来たのだ。名前はアポリュオン(破壊者)といった。クリスチャンはおびえた。引き返そうかという考えが頭によぎった。その場で立ちすくんだ。だが、思い直した。彼の背面は武具を身につけていない。だから、背中を見せて引き返せば、奴の矢で打たれる隙を与えかねない。勇気をもって踏みとどまることに決め、足に力をこめた。このいのちを救うより他に大切なことはないのだから、踏みとどまるのが最善だと、クリスチャンは考えた。
それで、先に進み、アポリュオンと対面した。見るも恐ろしい怪物だった。彼は魚のような鱗に覆われていた。それが彼の自慢だった。竜のような翼と、熊のような足。腹からは火と煙か上っていた。口は獅子の口のようであった。彼がクリスチャンに近づくと、見下すような目つきで問いを発した。
アポリュオン「お前はどこから来たのか。どこに向かっているのか」
クリスチャン「滅びの町から参りました。そこはあらゆる悪の掃き溜めでした。そして、シオンの町に向かっています」
アポリュオン「なるほど。ではお前は私の臣民だ。その国は私のものだからだ。私はその国の王子であり、神でもある。だが、どういうわけでお前は王から逃げ出したのか。私への奉仕にもっと精を出すためか。もしそうでないなら、お前をいまここで地に打ち付けてやる」
クリスチャン「私は確かにあなたの支配する国に生まれましたが、あなたの与える仕事は労苦ばかりで、その賃金はそれによって人が生きられるようなものではありませんでした。罪の対価は死だからです(ローマ6:23)。ですから、私は大人になってから、思慮深い人がそうするように、善く生きるための道を探しました」
アポリュオン「臣民をこうも簡単に去らせる君主はおるまい。だから、お前を簡単に去らせるわけにはいかない。お前の仕事と賃金に不満があるのなら、安心して帰るがよい。わが国がお前にもっと豊かに与えることをここで約束しよう」
クリスチャン「ですが、もう私は別の方、王の王たる方にお仕えしています。それなのにあなたと一緒に帰るのは、はたして正しいことでしょうか」
アポリュオン「お前のしたことは、『悪いことを変えたらますます悪くなった』ということわざどおりになる。だが、主のしもべを名乗る者にはよくあることだが、しばらくのちにつまずいて、どうせ私のところに戻ってくるのだ。お前もそうするがよい。すべてが丸く収まる」
クリスチャン「私はその方に信仰をささげ、忠誠を誓いました。その誓いを捨てるなら、私は裏切り者として処刑されても仕方ありません」
アポリュオン「お前は私に対しても同じことをしているのだ。だが、もし思い直して帰って来るなら、すべてを水に流そう」
クリスチャン「私があなたに約束したのは、まだ物心もつかない時でした。それに、私が今お仕えしてきる主君は、私をゆるしてくださいます。私がかつてあなたに従って犯した過ちを放免してくださいます。それに、ああ、破滅をもたらすアポリュオンよ、真実を申しますが、私は主の仕事、報酬、しもべたち、ご支配、同志、御国を、あなたのそれよりも愛しています。ですから、もうこれ以上説き伏せようとするのはやめてください。私は主のしもべです。主に従います」
アポリュオン「考え直せ。冷静になれば、お前が行こうとしている道がお前にふさわしいかどうかわかるだろう。おまえは知っているはずだ。あの者のしもべたちの多くが無残な終わりを迎えていることを。彼らは私と私の道を裏切ったからそうなったのだ。どれほど多くの者たちが目も当てられない死に方をしたことか! それだけでない。お前はあの者の仕事を私の仕事よりも良いと考えているようだが、あの者はしもべたちを敵の手から救うために自分のいる場所から降りてきたためしがない。だが、私はどうだ。世界中がよく知っている。あの者によって連れ去られた私の忠実なしもべたちを、力や嘘によって何度救ってきたことか! だから、お前のことも救ってやろう」
クリスチャン「主が今すぐに彼らを救ってくださらないのは、彼らが終わりまで忠実であるかどうか、主への愛を試すためです。あなたが言う無残な死に方は、彼らにとって最高の栄誉です。というのも、今すぐに救われてしまったら、もうそれ以上何も望む必要がありません。栄光を待ち望むからこそ、御子が御使いたちの栄光の中で来られるときに栄誉を受けられます」
アポリュオン「お前はもうすでにあの者に不忠実にしてきたではないか。それでどうして自分が報酬を受け取れるなどと思うのか」
クリスチャン「アポリュオンよ、私のどこが不忠実だったというのですか」
アポリュオン「お前は〈失意の沼〉に沈みそうになったとき、もうさっそく望みを失いかけたではないか。お前は背中の重荷を取り去るために間違った道に行こうとした。お前の主君がそれを取り除くまで待っているべきだったのに。また、お前は罪深い惰眠をし、みずからの選択で損失を招いた。お前は獅子を前に引き返そうとさえした。お前が旅で見聞きしたことを話すとき、自分の話や行いの中にむなしく自分を誇ろうとする思いが内にあった」
クリスチャン「それはみな真実です。そればかりか他にもまだ言われていないこともあります。ですが、私が仕える、褒めたたえられるべき主君はあわれみ深い方ですから、いつでもゆるしてくださいます。それに、これらの咎は、あなたの国に私を引き留めようとする力です。あなたの国で私はその力に支配され、嘆き悲しみ、心から悔いました。そして、今は私の主君からの恩赦をいただきました」
するとアポリュオンはいまいましそうに唾棄した。
アポリュオン「私はこの君主の敵だ。彼の人格も法も民も憎んでいる。私が来たのはお前に敵対するためだ」
クリスチャン「アポリュオンよ、あなたが行なっていることに注意なさい。私は王の道、聖なる道を歩んでいるのです。ですから、気をつけなさい」
するとアポリュオンは道幅いっぱいに立ちはだかり、言った。
アポリュオン「私にはそんなものは怖くない。死ぬ用意をするがよい。地獄の穴に誓うが、お前はこの先に進むことはない。ここでお前の魂を殺すからだ」
そう言うやいなや、アポリュオンは燃える火の矢を胸から取り出して放った。しかし、クリスチャンは手に持っていた盾で矢を受けたので、害を受けなかった。
クリスチャンは反撃しようと剣を抜いた。アポリュオンは目にもとまらぬ速さであられのように大量の矢を放った。クリスチャンは懸命に避けようとしたが、頭と手足に矢を受けてしまった。ふらつき、数歩後ろにさがった。アポリュオンはそれで油断し、クリスチャンは力を取り戻して全力で抵抗した。この激しい攻防は半日以上に及んだ。クリスチャンは消耗していた。受けた傷のせいでますます弱ってきた。
そこでアポリュオンは隙を見てクリスチャンに詰め寄り、つかみかかってクリスチャンを投げ倒した。クリスチャンの握っていた剣は手から落ちてしまった。アポリュオンは勝ち誇った。「お前はもう負けだ」。そのままとどめを刺そうとした。クリスチャンはいのちが消えかけた。しかし、神の助けがあった。アポリュオンがこの善良な男のいのちを終わらせるために最後の一撃を喰らわせようとしたとき、クリスチャンはすばやく剣に手を伸ばし、つかんだ。「ああ、敵よ、私の仇となったことを喜ぶな。私は倒れてもまた起き上がる(ミカ7:8)」。アポリュオンに剣を突き刺した。アポリュオンはよろけた。致命傷を負ったのだ。クリスチャンはそうと知って再び立ち向かった。「いや、私たちは、これらすべてのことにあっても、圧倒的勝利者である(ローマ8:37)」。するとアポリュオンは竜の翼を広げて、飛び去った。クリスチャンはもう二度と彼を見なかった。(ヤコブ4:7)
この戦いで、恐ろしいうなり声と怒号を上げるアポリュオンがどんなふうに戦ったか、私のようにこの目で見た者でなければ誰も想像できまい。アポリュオンは竜のように話した。他方、クリスチャンの心からはどんなため息とうめきが出たことか。クリスチャンが両刃の剣でアポリュオンを切りつけたときほど彼の喜ばしい表情を私は見たことがない。彼は笑みを浮かべ、紅潮した。だが、その戦いは私が今まで見た最もおぞましい光景だった。戦いが終わると、クリスチャンは言った。
「私は、獅子の口から救い出してくださった主に、またアポリュオンとの戦いで助けてくださった主に感謝をささげよう」
また、こうも言った。
強大なるベルゼバブ
悪魔の王は画策し
彼を私に派遣した。
彼は地獄の憎しみで
激しく私と戦った。
だがさいわいなミカエルの
助けによって剣を得
彼はすぐさま敗退した。
私は神にいつまでも
賛美と感謝をささげます。
聖なる御名に栄光が
世々とこしえにあるように。
それから、彼のところに手がおりてきて、数枚のいのちの木の葉が差し出された。クリスチャンはそれを取って、先の戦いで受けた傷にあてた。するとすぐに、傷は癒やされた。また彼はその場に座って、少し前にいただいたパンを食べ、飲み物を飲んだ。それで力を得て、旅を続けることにした。剣を手にさげ、彼は言った。「まだ他にも敵が近くにいるかもしれない」。だが、この谷ではアポリュオンの他に敵は現れなかった。