アレクサンドリアのアタナシオス『神のことばの受肉』

第八章 異邦人の拒絶(後編)

第四十六節

人々が偶像礼拝を捨て始めたのは、神のことばなる方が人のあいだに来られた時でないとしたら、いったいいつからなのか。ギリシャをはじめ、いたるところで神託がやみ、無意味なものとなったのは、救い主がご自分を地上に現された時でないとしたら、いったいいつからなのか。詩で神々とか英雄とか称えられている者たちが死すべき者にすぎないと見なされ始めたのは、主が死を無力化し、主のまとった肉体が不死を保ち、死者の中から肉体をよみがえらせた時でないとしたら、いったいいつからなのか。あるいは、悪霊の詐欺や狂気が軽蔑にも値しないほど見下されたのは、みことばなる方、神の力、悪霊どもに対しても主人である方が、人類の弱さを思い遣ってへりくだり、地上に現れた時でないとしたら、いったいいつからなのか。魔術の理論と実践が足の下に踏みつけられ始めたのは、神のことばが人に顕現した時でないとしたら、いったいいつからなのか。一言で言えば、ギリシャ人の知恵が愚かになったのは、真実な神の知恵がご自分を地上に現された時でないとしたら、いったいいつからなのか。古い時代には、全世界いたるところで偶像崇拝がはびこり、偶像だけが実在する神々であると考えられていた。けれども今は、世界中の人々が偶像への畏敬を捨て、キリストに慰めを見出している。キリストを神と崇めることによって、キリストを通じて、以前知らなかった御父をも知るようになった。さらに驚くべきことがある。以前は礼拝対象は多種多様なものが無数にあった。場所ごとに異なる偶像があり、しかもひとつの地域の神と呼ばれるものは、他の地域の神を見過ごすことができず、他の地域の人々を信じさせようと説得するものの、成功することはほとんどないといったありさまだった。無理なことだった! 隣人の神を拝む者はいなかったし、おのおのが自分の偶像を、これこそが万物の主であると考えていた。しかし、今は、ただキリストおひとりが地域を超えてあらゆる民族にとって唯一の同じ方として崇められている。しかも貧弱な偶像にはできなかったこと、すなわち、付近の地域に住む人々をも信じさせるということが、この方の影響力では可能であった。この方が信じさせたのは付近の地域だけではない。文字通り全世界で、この方はひとりの同じ主として崇められ、またこの方を通じて御父が崇められている。

第四十七節

また、以前はどこに行っても偽りの神託がそこら中にあった。デルフォイやドードーナなどの神託所、ボイオーティア、リュキア、リビア、エジプトでの託宣、カビリの秘儀、ピューティアーの神託。そういうものが人の心をとらえ、驚嘆すべきものと考えられていた。しかし今は、あらゆるところにキリストが宣べ伝えられたので、神託への熱狂はすたれ、誰も神託に頼らなくなった。また以前は、悪霊どもが人の心を惑わそうと、泉や川や木々や石に住みつき、騙されやすい人々をもてあそんでいた。しかし今は、みことばなる方が神を現したので、そのような空想事はすっかりやんだ。十字架のしるしが現れたので、それさえ使えば悪霊どもの欺きを見破れるようになったからである。繰り返そう。以前は、数々の詩で称えられているゼウス、クロノス、アポロなどの英雄が神々と見なされていたし、人々は彼らを崇めて堕落していった。しかし今は、救い主が人のあいだに現れ、神々と見なされた者がじつは死すべき人間にすぎなかったという事実が明かされ、キリストおひとりが真の神、神のことば、神ご自身であると認められている。では、人々が驚嘆の念で見上げていた魔術については何が言えるだろうか。みことばなる方が来られる前は、エジプト人やカルデア人やインド人のあいだで魔術は盛んに行なわれ、強勢を誇っていた。それを見る者に非常な恐怖と畏敬を与えていた。けれども、真理なる方が来、みことばなる方が顕現すると、魔術もまた論駁され、完全に滅ぼされた。しかしながら、ギリシャ人の知恵や、哲学者のうるさいおしゃべりについてはどうだろうか。議論するまでもないと私は確信している。というのも、誰の目にも明白なとおり、ギリシャ人の哲学者が書き残したすべての本をもってしても、不死のいのちと徳ある生き方について、隣接する地域のほんの数人さえも説得できなかったからである。キリストおひとりが、雄弁とは言いがたい人々の口を通じて、しかも平易な言葉で、世界中の老若男女を説き伏せたのである。死を軽蔑すること、死のないものに注意を払うこと、一時的なものではなく永遠のものから目を離さないこと、地上の栄光を思わず不死なるものだけを待ち望むことを。

第四十八節

ここまでに述べたことは、言葉による証明のみならずじっさいの経験によっても証明できる。お望みならば、栄えある証明をご覧あれ。キリストの処女たち、宗教的動機で貞潔を守る若者、殉教者の偉大さと歓喜(文字通りには歌と踊りの「偉大な合唱 xopos」)に見られる不死の保証が、その証明である。また他にも、私たちの主張に対する経験的な証明がある。悪霊の欺きや神託の詐欺や魔術の惑わしが行なわれている現場のまさに目の前で、異邦人がみな嘲笑っている十字架のしるしを使ってみよ。キリストの御名を語ってみよ。そうすれば、キリストによって悪霊どもが逃げ出し、神託がやみ、魔術と魔法が右往左往するのを見るだろう。

では、このキリストというお方はいったいどなたなのか。その御名と臨在によって万物が狼狽し鳴りを潜めるほどのお方、ただひとり万物にまさって強く、全世界にその教えを広げたこのお方は、どれほど偉大なのか。恥も節操もなくキリストを笑うギリシャ人に答えさせてみよ。もしこの方がただの人間であるというなら、ギリシャ人が神々とみなす者たちよりもたったひとりの人間のほうが強いことをご自分で証明し、かの英雄たちが無に等しい者であることをご自分の力で示したことには、いったいどう説明がつくのか。もしこの方が魔術師であるというなら、ひとりの魔術師によってあらゆる魔術が盛んになるどころか滅ぼされることには、いったいどう説明がつくのか。この方が数人の魔術師を征服したり、魔術師の中のひとりよりもまさっていることを示しただけであれば、卓越した魔術をもって残りの者に勝ったと考えるのは合理的といえよう。だが、事実はこうである。この方の十字架が、すべての魔術を完全に打ち破り、その名前を征服したのだ。それゆえ、明らかに、救い主は魔術師ではない。魔術師たちが加護を求めている悪霊どもこそが、主人であるこの方から逃げ出しているからである。それなら、この方はどなたなのか。冷笑ばかりを熱心に追い求めているギリシャ人に答えさせてみよ! あるいはこう言うかもしれない。彼も悪霊であり、だからこそ悪霊どもに勝利したのだ、と。今度は私たちが笑う番だ。先ほどと同じ証明で彼らを反駁できるのだから。悪霊どもを追い出すこの方がどうして悪霊でありうるのか。この方が追い出したのが、ただ一部の悪霊だけであれば、悪霊のかしらの力によって悪霊どもに勝利したと考えるのも合理的といえよう。じっさいユダヤ人がこの方を侮辱してそう言ったように。だが、事実はまたしてもこうである。この方の御名によって、ただの名前によって、狂気の悪霊どもが根絶やしにされ、追い散らされている。この点でも明らかにギリシャ人は間違っている。私たちの主であり救い主であるキリストは、ギリシャ人が主張するような悪魔的な力ではない。

それでは、救い主がただの人間でもなく、魔術師でもなく、悪霊どものひとりでもなく、むしろその神性によって詩人の臆見も悪霊の欺きもギリシャ人の知恵も狼狽し鳴りを潜めたとしたら、この方こそが本当に神の御子であり、実在する御父のことば、知恵、力であるということが、もう明らかであると言わなければならないし、誰にでも理解できるだろう。このようなわけで、この方の働きはただの人間の働きではなく、むしろ、事の本質からしても、人間との比較によっても、人間を超えた存在であり、真に神の御業であると認められるのである。

第四十九節

たとえば、処女から肉体を形成した人間がこれまでいただろうか。あるいは、全世界の主がなさったほどに大勢の病人を癒した者がこれまでいただろうか。人体の欠けた部分を直し、生まれつき目の見えない者を見えるようにした者がいただろうか。アスクラーピオスは医術に長け、病気に効く薬草を発見したために、ギリシャ人には神と崇められていた。が、当然ながら彼は薬草を自分で地から創造したのではなく、自然を研究することで見つけたのである。救い主がなさったことと比べると、それが何だというのか。主は傷を癒すにとどまらず、必要な器官を形作りもし、形作った器官を健康な状態に直しもしたではないか。ヘラクレスもまた、ギリシャ人のあいだで神と崇められている。他の人間と戦って勝ち、数々の獰猛な獣を素手で殺したからである。しかし、みことばなる方がなさったことと比べると、それが何だというのか。この方は人々から病気を、悪霊を、そればかりか死そのものを追い散らしたではないか。デュオニュソスは、人間に飲酒を教えた神として崇められている。それなのにギリシャ人は真の救い主、万物の主を笑っている。この方は人間に自制を教えたというのに。

だが、この点についてはもう十分だ。この方が神として現した驚くべき御業は他にもあるが、それについてギリシャ人は何と言うだろうか。人の中で、その死のときに太陽が暗くなり、地が震えるということが起きた者がいただろうか。もちろん、今日でも人は死ぬものであるし、この方の日の前にも人は死から逃れられなかった。ギリシャ人の場合、そのような驚異がいつ起きたというのか。この方が地上で肉体をもって行った御業についてはここまでにして、次に復活後のことを語ろうではないか。世界中のどこでもいつの時代でもよいが、いまだかつて人間の教えが、世界の果てから果てまで、一度に同時に全地域を征服したことがあったろうか。そうしてその方への礼拝が世界中に溢れかえったことがあったろうか。またもし、ギリシャ人の言うように、キリストがただの人であってみことばなる神ではないとすれば、どうしてギリシャの神々はこの方の領土侵犯に抵抗しないのか。あるいは他方で、みことばなる方ご自身が私たちのただ中に住まい、その教えによって神々への礼拝を終わらせ、神々の虚偽をさらし者としたのはどうしてなのか。

第五十節

歴史が教えるとおり、この方の前にも地上の王や僭主が大勢いたし、カルデヤ人やエジプト人やインド人のあいだにも賢人や魔術師が大勢いた。だが、そういう者の中で誰が、全世界にその教えを鳴り響かせ、偶像に恐れおびえる数限りない人々を取り戻すほどの、大きな勝利を収めることができたろうか。私はこの方の死のほかに知らないし、今まで出会ったことがない。私たちの救い主が大勢の人を偶像から勝ち取ったことに匹敵する勝利は、ほかにあったろうか。ギリシャの哲学者は言葉巧みで説得力のある著作を多く残した。しかし、彼らにはキリストの十字架に並ぶような栄えある実りがあるだろうか。哲学者の深遠な思想には説得力があったが、それも死ぬまでのことだった。とはいえ生きているうちでさえ、彼らの影響力と思しきものは派閥同士で拮抗していた。嫉妬深いため、互いに論戦していたからである。しかし、不思議な逆説と言うほかないが、神のことばなる方は哲学者よりも卑しい言葉で教えたが、どんなに弁の立つソフィストでも陰に隠れるほど強い説得力があった。哲学者たちの教えを反駁し、すべての人をご自分のもとに引き寄せることによって、この方はご自分の会衆を満たした。さらに、これこそ驚嘆すべきことだが、この方は人として死に下ったことによって、賢人が偶像についてもったいぶって話す言説すべてに反駁したのである。というのも、キリストの死のほかに、いったい誰の死が悪霊どもを追い出したのか。いったい誰の死を悪霊どもは恐れたか。救い主の御名が呼ばれるところでは、どんな悪霊でも追い出される。もう一度言おう。不貞を働く者が貞潔を守るようになり、人殺しが剣を持たぬようになり、臆病な者が勇敢になった。それほどに、生来の欲望を骨抜きにできた者がこれまで誰かいただろうか。一言で言えば、あらゆる地域の野蛮人や異教徒にその狂気を捨てさせ、平和を心に留めさせるほどの力あるものが、キリストへの信仰と十字架のしるし以外にあっただろうか。不死を信じる確固たる信仰を与えるものが、キリストの十字架とその肉体の復活以外にあるだろうか。ギリシャ人はありとあらゆる偽りの神話を話したが、それでも偶像が死から起き上がるなどと、うそぶいたことはなかった。じっさい、死んだあとの肉体が再び存在することがありえるとは考えつきもしなかったのである。ギリシャ人にはこの点をこそ問うのがよかろう。死からの復活などありえないという考えにおいて、彼らは自分の偶像礼拝の弱点をさらけ出していると同時に、肉体の復活の可能性をキリストに譲り渡しているのだから。こうして、この方が神の御子であるということがすべての人に認められるようになる。

第五十一節

また、人間のうち誰が、その死後であれ生前であれ、貞潔の徳を説き、しかもそれを守ることが人類に不可能であると諦めなかったろうか。私たちの救い主であり万物の王であるキリストこそは、貞潔をまっすぐに説いた。それで、年端のいかない子供までも、法を超えて貞潔を誓うのである。また、人間のうち誰が、魔術に目を向ける人々、悪霊の恐れと野蛮な習慣の奴隷になっている人々に、教えを広め、徳と自制と、偶像礼拝の廃止を宣べ伝えただろうか。スキタイ人やエチオピア人、パルティア人やアルメニア人やヒュルカニア地方の向こうに住む人々、あるいはエジプト人やカルデア人にまでも宣べ伝えた者がいたろうか。万物の主であり、神の力であり、私たちの主であるイエス・キリストがなさったように。いや、この方はご自分の弟子たちを通じて宣べ伝えただけではない。人の知性に説得力をもって働きかけたのだ。人々は野蛮な習慣をやめ、先祖伝来の神々を礼拝する習わしも捨て、キリストを知ることと、キリストを通じて御父を礼拝することを学んだのである。偶像礼拝者であったころのギリシャ人とバルバロイはいつも戦争していたし、知己と親類にさえ冷酷だった。誰でも陸や海を旅行しようとすれば、剣で武装せずには不可能だった。民族同士が対立し、いがみ合っていたからである。じっさい、彼らの生活のどの場面でも武器は必須だった。剣が杖の代わりであり、頼みの綱だった。私が前に話したように、彼らはつねに偶像に仕え、悪霊に供え物を捧げていた。そして偶像礼拝にともなって迷信をひどく恐れていたので、何ものも彼らを好戦的な霊から引き離すことができなかった。しかし、奇妙な言い方をするが、彼らがキリストの学校に通うようになってからというもの、良心の呵責に動かされ、彼らは残虐な人殺しの性も戦争好きな性質も捨ててしまった。反対に、すべての人が彼らのあいだにいても平和であり、友好を望む願望以外には何も残らなかった。

第五十二節

では、それらのことを行った方、憎み合っていた者たちを平和のうちに結びつけた方は、いったい誰なのか。御父の愛する御子、全世界の救い主、イエス・キリスト、その愛ゆえに私たちの救いのためにすべてを耐え忍んだ方のほかに、誰かいるのか。それだけではない。まさに始めから、この方の与える平和は予言されていた。聖書に書いてある。「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを学ばない」(イザヤ二・四)。このことばも信じがたいものではない。今日の野蛮人が残忍な習慣を持っているのは、当然のことである。偶像に供え物を捧げているかぎり、互いに激しく憎み合い、ひとときでさえ武器を手放すことに耐えられない。しかし、キリストの教えを聞くとき、彼らはすぐさま戦いから農耕に向きを変え、剣で武装するのをやめて祈りでその手を広げるようになる。つまり、争い合うかわりに、悪魔と悪霊どもに向かって武器をとって挑み、自制と魂の高潔さによって悪霊どもを征服するようになるのだ。これらの事実が、救い主が神であることの証明である。なぜなら、この方は偶像が教えてくれないことを人に教えたからである。そのことは、悪霊どもや偶像が弱く無力であるという事実をも暴いている。これは些細な事実ではない。というのも、悪霊どもは自分が弱いことを知っているゆえにこそ、いつも人々をけしかけて互いに争わせているからである。人々が争い合うのをやめれば、今度は悪霊どもを攻めてくるので、悪霊どもはそれを恐れているのである。事実、キリストの弟子たちは、互いに争わず、むしろ力を合わせて悪霊どもに立ち向かった。その善良な習慣と徳ある行動によって。そうして悪霊どもを追い払い、悪霊どものかしらである悪魔をあざ笑った。若者でも貞潔を守り、試みのときに耐え、苦労を忍んだ。侮辱されても忍耐し、奪われてもそれを軽視し、また驚くべきことに、死そのものさえも軽蔑して、キリストの殉教者となるのだ。

第五十三節

ここにもうひとつの証明がある。救い主が神であることの、真に驚くべき証明が。ただの人間や魔術師や僭主や王がこれまでに、ひとりで今述べたようなことができたろうか。偶像礼拝の制度全体に、悪霊の軍勢に、あらゆる魔術に、ギリシャ人の知恵に、ひとりで立ち向かう者がいただろうか。しかも、それらが興隆し、皆がそこになだれ込んでいくさなかに。私たちの主、神のことばなる方がなさったように立ち向かった者がいただろうか。いや、この方は今でもなお、姿は見えなくとも、あらゆる人の過ちをあらわにし、おひとりであの者たちから人々を取り戻している。こうして、以前は偶像礼拝していた者が今は偶像を足の下に踏みつけ、魔術師として知られていた者が魔術の本を焼き、知恵のある者が福音の解き明かしを研究するようになる。彼らは人や物を崇めていたが、そこから去り、以前は十字架につけられた罪人と馬鹿にしていた者を今はキリストまた神として崇め、告白している。神々と呼ばれていた者は十字架のしるしによって根絶やしにされ、十字架につけられた救い主が神としてまた神の御子として世界中に宣べ伝えられている。さらに、ギリシャ人のあいだで崇められていた神々は、今や、恥ずべき行いのゆえに評判が地に落ちた。キリストの教えを受けた人のほうが、神々を崇める人よりも貞潔な生活をしているからである。こういう出来事が人間のわざであるというなら、同等のことを行う人を連れて来て、私たちに確信させてみよ。だがもし、これが人のわざではなく神の御業であり、またそうであることが示されているとすれば、これをなさった方が主人であると認められないほど不信者が不敬でいられるのはいったいどうしてなのか。彼らの悩みは、被造物を通じて造物主なる神を認められない者の悩みに似ている。確かに言えることだが、宇宙にあまねく存在する神の力を通じて神の神性を認められなかった者は、肉体をもったキリストの働きが人間のものではないことも、人類の救い主、神のことばなる方の働きであることも認められない。彼らがそれを認めていたなら、パウロが言うとおり、「栄光の主を十字架につけはしなかった」(第一コリント二・八)。

第五十四節

それゆえ、目に見えない神を見たいと願う者が、その御業を通じて神を知ることができるのと同じように、キリストを見られない者は、キリストの肉体の働きによってこの方がどなたなのかを、少なくとも知性で考えることができ、その働きが人からのものか神からのものかを確かめることができる。もし人からのものであるなら、笑うがよい。しかし、神からのものであるなら、笑うに相応しくない方を笑ってはならない。むしろ、事実を正しく知り、神がへりくだって私たちに明かした事柄に驚嘆すべきである。神のへりくだりゆえに、死を通じて不死が私たちに知らされ、みことばの受肉を通じて万物の根源である方のみこころが宣言された。みことばの執行者であり、制定者であり、神のことばご自身である方のみこころが明かされたのである。じっさい、キリストが人間となったのは、私たちが神となるためである。この方が肉体をもってご自分を現したのは、目に見えない御父のみこころを私たちが知るためである。この方が人からの恥を忍んだのは、私たちが不死を受け継ぐためである。キリストご自身は不苦また不朽の方であるので、これによって傷つくことはなかったが、ご自分の不苦性によって、苦しむ人間を生かし癒したのである。この方が苦しみを耐え忍んだのは、苦しむ者を癒やすためである。要するに、救い主の受肉のゆえに成し遂げられた御業はあまりにも膨大であるため、それを数えようとするのは、広大な海を見つめながら波を数えようとするようなものである。すべての波を見届けられる者はいない。次々に押し寄せる波を見届けようとしても、あまりにも多いので断念せざるをえまい。同じようなことだ。肉体をもったキリストの御業をすべて知りたいと願っても、不可能である。数え上げることもできない。人間の考えを超えた事柄は、人間が自分で理解できると思っている事柄よりもつねに多いからである。

私たちはキリストの御業の一部でさえ語り尽くすことができないのだから、全体を語ろうとしないのがより賢明であろう。だから、ひとつを付け足して語るにとどめておき、驚くべき全体についてはあなたのためにそのままにしておこう。じっさい、キリストの御業に関することはどこを取っても驚嘆するほかない。どこに目を向けても、みことばなる方の神性を見て畏敬の念に満たされるだろう。

第五十五節

以上の議論の本質は、次のように要約できる。救い主が来て私たちのあいだに住まわれてから、偶像礼拝の習慣はもう増えなくなったが、それだけでなく勢いが小さくなり、徐々にすたれている。ギリシャ人の知恵はもう進歩しなくなったが、それだけでなくかつて存在していたものが消えつつある。悪霊どもはもう欺きと神託と魔術で人々を騙し続けることができなくなったが、それだけでなく十字架のしるしを使うところではどこでも根絶やしにされている。偶像礼拝など、キリストの信仰に反抗するあらゆるものが、日に日に衰え、弱まり、落ちぶれているが、そ一方で、救い主の教えはいたるところで勢いが増しているのである! だから、「万物の上におられる」力強い救い主を、みことばなる神を崇めなさい。そして、この方に打ち負かされ滅ぼされた者を罪に定めなさい。太陽が昇ると、闇が勝つことはもうない。闇がどこに残ろうとしても、追い出されてしまう。同じように、今や神のことばの顕現が起こったのだから、偶像の闇が勝つことはもうない。世界中のあらゆる場所に、あらゆる方角に、この方の教えが光となって差し込んでいる。似たようなたとえだが、ある国を支配する王が、城の中にとどまって公に姿を現さなければ、不従順な輩が王の不在をいいことに、王の代わりに支配しようと企てることがしばしば起ころう。そういう輩が王のようにふるまって、愚かな人々を堕落に誘導するのである。民衆は城に入ることができず、本物の王を見たことがないために、王の名前を聞くだけで簡単に騙されていまうからである。ところが、本物の王が現れて、その姿が見えるようになると事態は変わる。王の姿によって不従順な詐欺師どもの正体は暴かれる。本物の王を見た人々は、それまで自分たちを誤りに導いていた者を捨てるようになる。同じように、悪霊どもはこれまで神から栄誉を受けた者のようにふるまって、人間を欺いていた。だが、神のことばが肉体をもって現れ、ご自分の御父を私たちに知らせたので、悪霊どもの欺きはやみ、滅ぼされた。そして人々は、真の神、御父のことばに目を向け、偶像を捨て、真の神を知るようになるのである。

さて、以上が、キリストが神であり、神のことばであり、神の力であることの証明である。人間的な事柄はやんだが、キリストの事実は残る。一時的なものはやんだが、神である方、神の御子である方、ひとり生まれた方、みことばなる方が残ったことは、誰に目にも明白である。